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哲学堂を見学したあと妙正寺川で遊泳。 [気になるエトセトラ]

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 聖路加国際病院Click!のある明石町から、1919年(大正8)の小学2年生のときに百人町へと引っ越してきた前田志津子という方は、地元の戸山尋常小学校へと転入している。転居先の住所は、のちにロッテの工場ができる区画の向かいとなっているので、大久保町(大字)百人町(字)北裏263番地界隈ではないかと思われる。
 関東大震災Click!のときは余震が心配なため、近くに広い庭と大きな屋敷をかまえて住んでいた、衆議院議員の国沢新兵衛邸の敷地に避難している。証言では「貴族院議員の国沢新平」となっているが、貴族院議員の後藤新平と衆議院議員の国沢新兵衛を混同しているとみられ、大震災時は国沢邸の庭にテントを張ってすごした。ちなみに、国沢新兵衛は平河町に画塾『彰技堂』を開いた洋画家・国沢新九郎の弟にあたる。
 彼女が通っていた戸山尋常小学校は、東京市では音楽教育に熱心な小学校として特に知られており、「赤い鳥」Click!の葛原しげるや弘田龍太郎らとの関係も深く、同小学校の校歌は葛原が作詞し弘田が作曲をしている。生徒たちは、東京各地の小学校へ呼ばれて合唱を披露していたらしい。ちょうど、戦後にアニメソングなども幅広く手がけた、1960~70年代における上高田小学校Click!のような存在だったようだ。
 当時の戸山尋常小学校における生徒たちの様子を、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された『新宿に生きた女性たちⅣ』収録の、前田志津子『音楽教育が盛んだった戸山小学校』から少し引用してみよう。
  
 小学校には最初は着物を着て行きました。モスリンとか銘仙の着物で、えんじ色の袴をはいて行きましたの。あとは、紡績といって、木綿のざらっとした紬ふうの節のあるような布地の着物でした。二年生のころから洋服を着て行きました。/私も妹も戸山小学校から選ばれて、ほうぼうの学校へ行って、歌をうたいました。妹の同級に童謡の葛原しげる先生のお嬢さまがいらっしゃって、いっしょに歌いました。(中略) 戸山は音楽教育の盛んな学校でした。そのころは童謡の始まりでしたの。上野の野外音楽堂や、大塚の高等師範学校の講堂でも歌いましたよ。(中略) 平和博覧会にも遊戯で出場することになり、余丁町小学校の先生が戸山にいらして、遊戯の指導をしてくださいました。私と妹はどこにでも、いつもいっしょに行きました。
  
 彼女の学年は、全部で3クラスだった。男子×2クラスで女子×1クラスだったが、男女を共学にせず女子を1クラスでまとめてしまったため、女子組は70人以上の大人数になってしまった。このあたり、男子組・男女(共学)組・女子組と分けていた、昭和初期にみられる落合地域の小学校とは少し方針が異なっていたようだ。
 学校の運動会は校庭で実施され、豊多摩郡の運動会は陸軍の代々木練兵場で行われていた。郡の運動会には、豊多摩郡に属する内藤新宿や淀橋、落合、戸塚、大久保、渋谷、千駄ヶ谷、代々幡、中野、野方、杉並など、各町村の小学校が集まって行われたものだろう。戸山尋常小学校の運動会では、昼食(弁当)は家族といっしょに教室で食べたようで、現在のように運動場では食べなかった。運動会の出しものも、なにやら激しい競技はなくゲーム性の強いものだったらしく、運動量が少なくてかなり静かなイベントだったようだ。
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 ひょっとすると、戸山尋常小学校では音楽教育に注力していたため、現在の芸術系の学校がおしなべてそうであるように、生徒たちがケガをしないよう激しい運動は意識的に避けていたのかもしれない。絵画・彫刻や音楽を問わず、手足(特に指先)をケガしてしまったら、その時点で即座にアウトだ。(これは繊細な職人の世界でもまったく同様だ)
 先年、芸術系大学の器楽科(弦楽器)に通っていた知人の女子が、カフェでアルバイトをしていて指に火傷をしたところ、担当教授から「なんのために音楽をやってるのか、自覚が足りない!」とこっぴどく叱られたそうで、すぐにバイトを辞めさせられている。歌唱も同じく、身体のどこかにケガを負ったりしたら張りのある声は出せなくなるので、いくら運動会でも負傷の可能性のある競技は演目から外していたのだろうか。
 代々木の練兵場も遠足も、当時はすべて徒歩で出かけており、乗り物を使うことはなかった。落合地域の先まできている林間学校の様子を、同資料より引用してみよう。
  
 何年生のときか忘れましたが、豊多摩郡の運動会があり、代々木の原まで太鼓を叩いて歩いて行きました。遠足も杉並の堀ノ内の蚕糸会館まで歩いて行きましたの。その頃はどこにでも、歩いて行きました。/夏休みには、先生がたに哲学堂に連れていっていただいて、途中で妙正寺川で泳ぎました。一本橋がかかっていて、渡るのがこわかったですね。まわりは大根畑で、淋しいところでした。/クラスで女学校に進学したのは、四分の三ぐらいで、残りの四分の一は大久保の高等小学校に行きました。教科書は二学期で全部終わってしまい、そのあとは問題集で放課後まで、勉強しました。そのころ教室に電灯がなかったので、暗くなるまで勉強しました。
  
 戸山尋常小学校の生徒たちは、井上哲学堂Click!(哲理門の幽霊姉さんClick!に、生徒たちは震えあがったにちがいないw)を見学したあと、バッケ(崖地)Click!下を流れる妙正寺川で泳いでいる。1923年(大正12)ごろに開園した、ちょうど哲学堂の真下にあった郊外遊園地Click!野方遊楽園プールClick!ではなく、ほんとうに川中で泳いだようだ。
 妙正寺川に架かる「一本橋」とは、稲葉の水車Click!の上流に築かれた第2のバッケ堰Click!の横(北側)にわたされていた、細い板状の木材1枚による“材木橋”のことだろうか。このバッケ堰のすぐ下流は、プールのように流れがよどみ、上高田の子どもたちには格好の遊泳プールとなっていた。まわりの「大根畑」は、そろそろ夏の収穫も近い春まきした落合ダイコンClick!の畝だったろう。関東大震災前後の大正後期、生活必需品の物価を抑えるため、東京各地に設置された公設市場Click!への出荷を待つダイコン畑だったのかもしれない、
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神田川親水テラス.jpg
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 前田志津子という方は、小学校では女学校への進学組に属していた。彼女の母親は、女学生が電車に乗って学校へ通うのを嫌がったため、なんとか徒歩で登校できる九段の精華高等女学校へ入学している。幕臣で彰義隊Click!にも参加した、寺田勇吉が1911年(明治44年)に創立した高等女学校だ。関東大震災とその延焼により、東京市内にあったおもな高等女学校の校舎はほとんどが壊滅していたが、地盤が強い九段にあり堅牢な石造りの精華高等女学校は、被害軽微で倒壊も延焼もせずに建っていた。
 大震災をまぬがれた市内の女学校は少なく、大きめな精華女子高等女学校の受験は東京じゅうから入学希望者が殺到して、かなりの競争倍率だったようだ。また、山手線も中央線も、路面を走る東京市電もダメだということで、彼女は百人町から九段の軍人会館Click!(のち九段会館Click!)の南隣りにあった精華高等女学校まで歩いて通っている。片道5kmほどだが、自宅を出てから女性の脚でたっぷり1時間はかかっただろう。
 入学試験のときは、戸山尋常小学校の音楽教育が大きく役立つことになった。入試の口頭試問(面接)のとき、彼女の顔を憶えていた試験官がいたのだ。
  
 入学試験の口頭試問のとき、試験官の先生に「あなたこの前、郡の音楽会に出てたでしょう」と言われました。先生が覚えていらっしゃったんです。その頃、毎年豊多摩郡の小学校の音楽会があって、その年は精華高等女学校を借りて行なったんです。その前は、府立第五高等女学校が会場だったの。/実践高等女学校の一次試験に合格していたんですが、精華高等女学校に決めてしまいました。妹も私の教科書のお下がりを使えるので、精華高等女学校に入学しました。
  
 彼女が女学校2年生のとき、わずか2ヶ月の間に母親と父親を相次いで亡くしている。両親とも病死だったようだが、残された7人の子どもたちは途方に暮れた。下の幼い弟や妹たちは、やむをえず育ての親を見つけて養子養女に出され、彼女とすぐ下の妹は近くの大久保に住んでいた叔母が引きとり、面倒をみてくれることになった。
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 生活環境は激変したが、百人町の家を処分したおカネと、父親が経営していた会社からの送金とで、なんとか女学校へ通学しつづけることができたらしい。このインタビュー取材には、励ましあいながらずっといっしょだった、妹の前田百合子という方も同席している。

◆写真上:左手が戸山小学校の現状で、奥に見える高層ビル群は戸山ヶ原跡。
◆写真中上は、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図にみる戸山尋常小学校とその周辺。は、1924年(大正13)に戸山ヶ原(北側)から撮影された同小学校。は、1925年(大正14)作成の「大久保町市街図」にみる同小学校と周辺。
◆写真中下は、妙正寺川に築かれた第2のバッケ堰の横に渡された細い板の材木橋。1982年(昭和57)出版の『ふる里 上高田の昔語り』Click!から、細井稔の記憶画「新堰の当時の風景」より。中上中下は、いまだ妙正寺川では泳げないが神田川でできる水遊びや遊泳。いまでは、20種類を超える棲息が確認されている神田川Click!の魚。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚小学校とその周辺。は、九段精華高等女学校の絵はがき。は、修学旅行先らしい精華高等女学校の女生徒たち。

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サンフランシスコ人

「東京じゅうから入学希望者が殺到して、かなりの競争倍率....」

知りませんでした....
 
「代々木の練兵場も遠足も、当時はすべて徒歩で出かけており、乗り物を使うことはなかった。」

訪日外国人の観光スポットも、徒歩で行ける地図を作製して乗り物の大混雑を解消可能???


by サンフランシスコ人 (2023-11-02 04:34) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
いまの東京で同じ徒歩移動したら、かなり疲労して長い休憩が必要になるでしょうね。昔の人は、ほんとに健脚だったと思います。たとえば、外国人観光客に超人気のネコで有名な世田谷区の豪徳寺や、同じく人気の大田区に散在する銭湯群などを徒歩でめぐるとしたら、アルピニスト並みの健脚が求められます。この2つの区だけで、サンフランシスコ人さんがお住まいのサンフランシスコ市の全面積と、ほぼ同じ広さになります。
by ChinchikoPapa (2023-11-02 10:23) 

サンフランシスコ人

サンフランシスコの観光客には、健脚が大勢いますよ....東京の23区に皆無な、急な坂道があります....
by サンフランシスコ人 (2023-11-04 07:48) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
東京23区の西部には、標高40~60mほどの丘陵が連なりますが(その多くは崖線=河川でできた河岸段丘ですが)、300m近い山のあるサンフランシスコ市には負けますね。w
by ChinchikoPapa (2023-11-04 12:02) 

サンフランシスコ人

「アルピニスト並みの健脚が求められます....」

岸田総理がサンフランシスコの街を徒歩移動して、三分の一の年齢の外国人観光客が東京を歩けない?
by サンフランシスコ人 (2023-11-28 03:19) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
上記の、サンフランシスコ市とほぼ同じ面積の世田谷区+大田区ですが、もちろん直線の道路などなく江戸期の道筋が多くを占めています。しかも、この一帯は50m前後の丘陵地帯が連続しますから、丘と谷間のアップダウンの連続ですね。世田谷区のたとえば北烏山7丁目あたりから田園調布を経由して大田区の扇島公園まで、地図上の直線距離では約26km強ですが、道路を歩けば1.5~2倍の距離になるでしょう。今度来日されたら、ぜひ挑戦してみてください。
by ChinchikoPapa (2023-11-28 10:06) 

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