SSブログ

目白中学校の「目白社」と「赤い鳥」。 [気になる下落合]

目白中学校跡.JPG
 下落合437番地の目白中学校Click!には、生徒と教師、そして同校を卒業したOBとで結成された、「目白社」という美術クラブが存在していた。1921年(大正10)6月で丸1周年と書かれているので、創立は前年の1920年(大正9)6月ごろだとみられる。目白社の顧問には、同校の美術教師・清水七太郎Click!が就任している。「目白社」展覧会は毎年、春と秋の2回ほど開催され、目白中学の図画教室や化学実験室、ときに中国Click!ベトナムClick!などアジアからの留学生が学んでいた、東京同文書院Click!の教室などを使って作品が展示されていた。
 たとえば、1921年(大正10)秋に開催された目白社第4回絵画展の様子を、1922年(大正11)3月に発行された同校の校友誌「桂蔭」Click!第8号から引用してみよう。
  
 筑波の峰より吹き下す寒い風が樹々の梢を掠めて凄い音を立て、広い校庭は一面に真白な霜で被はれた。其の霜月の(十月)二十九日より我が目白社は第四回目の展覧会を催した。会場は階段教室の隣の臨時図画教室である。今度は出品の数も増加し、加ふるに新に写真を募集した為、陳列するに非常に時間を費したので、月曜日に開場する予定であつたが、其の間に間に合はず、一日延期して火曜日の昼休みの時間に開場した。いつもの如く大勢一度に雪崩れ込んで、あまり広くない会場は非常に雑踏を来した。放課後も再び賑つたが四時半に閉場する迄には、一般観覧者も少くなかつた。/三十日にも相当に多くの観覧者があり早中美育部の委員諸君も来観して内容の充実せると生徒の熱心さに歓声を洩らして行かれた。一日には生徒平常成績品全部を掲げ変へたので、再び賑ひ殊にシリトリが人気を呼んだ。土曜日の午後全部取片つけて後、会場に於て委員一同に清水先生瀧浪先輩を加へて十余人茶話会を催し、目白社の万歳を三唱して解散した。(カッコ内引用者註)
  
 文中の「早中美育部」とは、早稲田中学校の美育クラブ部員たちの一行が来場した様子で、「清水先生」はもちろん顧問の洋画家・清水七太郎のことだ。第4回展では、絵画作品が63点、写真作品が23点も展示される盛況だった。同年春の第3回展では、絵画作品48点が展示されているが、写真作品の募集はいまだ行われていない。
 ちなみに、第4回展に出品した清水七太郎の作品は、『風景』、『風景』(同一タイトル)、『郊外の冬』、『千九百十五年の自画像』、『静物(鉄瓶)』、『山間の渓流』、『真昼の光』、『校内の風景(庭球コート)』、『市川風景』の9点にもおよび、風景作品では下落合とその周辺域を描いたとみられるタイトルが散見できる。
 また、写真作品の中にも『水車のある風景』、『夏の川辺』、『晩秋の神田川』、『雪の戸山ヶ原』、『戸山ヶ原』、『秋の戸山ヶ原』、『雪の十二社』と、下落合とその周辺を撮影したらしい作品がズラリと並んでいる。これらの作品画像はその後、出品者に返却されて散逸してしまったのだろうが、画像入りの図録でも作成してくれていれば、落合地域におけるきわめて貴重な1級資料となっていたにちがいない。
教員名簿192203.jpg
目白社第3回展目録1921.jpg
教職員1922.jpg
 さて、目白中学校で目白社を率いていた清水七太郎は、目白通りをはさんだ「赤い鳥」社とも連携した仕事を残している。1919年(大正8)10月から刊行がスタートする、赤い鳥社の『「赤い鳥」童謡』第1集から、1923年(大正12)4月発行の第7集までの挿画を、清水七太郎が目白中学校の1年生と2年生の全生徒を対象に描かせ、その中から童謡に添える作品をチョイスするという、いわば絵画コンテストのような催しを実施していた。
 たとえば、『「赤い鳥」童謡』第6集と第7集には、鈴木三重吉Click!の「序」として目白中学校と清水七太郎のことが、次のように書かれている。両集から引用してみよう。
  
 『「赤い鳥」童謡』第6集 1922年(大正11)6月
 (前略) 本集の四色版の挿画は、赤い鳥の洋画家清水七太郎氏が、府下、目白中学校一二年級の全生徒に、原謡を課して画かされた、数百枚の自由画から選抜された傑作である。「こんこん小山」の画は一年級中野三郎君、「ちんころ兵隊」の画は同年級松原恒君の製作である。
 『「赤い鳥」童謡』第7集 1923年(大正12)4月
 (前略) 本集の作曲の内「涼風小風」は「赤い鳥」で推奨になつた傑作である。三色版の挿画は、清水七太郎氏が、府下、目白中学校一二年級の全生徒に原謡を課して画かされた数百枚の自由画から選抜された傑作である。「涼風小風」の画は二年級中島四郎君、「かちかち山の春」の画は同年級廣島正君の製作である。
  
 目白中学校の生徒作品が採用されているのは、あらかじめ西條八十Click!北原白秋Click!、鈴木三重吉などが発案し、目白中学の清水七太郎へ打診してはじまったものかもしれない。作品コンテストも、鈴木三重吉あたりが思いつきそうなアイデアだ。
「赤い鳥」童謡第二集192003.jpg 西條八十「風」挿画.jpg
鈴木三重吉序.jpg
「赤い鳥」童謡目次.jpg
 『「赤い鳥」童謡』シリーズは、1923年(大正12)4月に第7集が出たあと、同年9月1日に起きた関東大震災Click!で中断し、1925年(大正14)6月にようやく第8集を出版しているが、そのときはすでに清水七太郎の名前が、目白中学校の生徒挿画とともに目次から消えている。ちょうどこの時期、目白中学校は練馬への移転Click!計画で学内があわただしく、「赤い鳥」の童謡挿画コンテストどころではなかったのだろう。
 なお、手もとにある目白中学校の校友誌「桂蔭」(1922年/1924年)には、『「赤い鳥」童謡』の挿画に入選した中野三郎、松原恒、中島四郎、廣島正の四君の名前は登場していない。入選をきっかけに、同校の美術部である目白社へ入部したかどうかも確認したけれど、残念ながら名前が見あたらなかった。
 関東大震災の直後、あまり被害を受けなかった目白中学校では、1923年(大正12)10月5日~8日、15日~20日のスケジュールで目白社第8回展が開催されている。その様子を、1924年(大正13)3月4日に発行された「桂蔭」第10号から引用してみよう。
  
 目白の芸術益々花をかざして今は第八回になつた。九月一日未曽有の天災に先ず十月五日より八日迄同文書院の一教室を得て行はれた。中にも一二三年級の出品にして非常に当時の模様が何れも明白に表はれ目白健児以外に先輩諸君及び外客数十名あつた。/次に十月十五日より五日間震災を兼ねて第八回の展覧会を開催した。先生を初め在校生の出品勿論又校友先輩諸兄の出品多数にて諸先生及び外校生の多く入覧があつた。吾々末日に目白社一同の写真をとつて其の愉快さを語つた。
  
廣島正「かちかち山の春」1923.jpg
鈴木三重吉.jpg 鈴木三重吉乗馬.jpg
 目白社第8回展覧会で、清水七太郎は本所の被服廠跡Click!で制作したのか、『九月十五日頃被服廠』と題する油絵を出品している。また、震災を記録した絵画や写真も数多く展示された。特に写真の部では、馬入川Click!(相模川)に架かる東海道線の鉄橋崩落Click!や、大磯における列車転覆Click!、両国橋や錦糸町における東京市電の軌道破壊など、現存していればかけがえのない震災資料になりそうなタイトルが並んでいる。

◆写真上:下落合437番地の目白中学校跡で、目白通りの向こうにあるのは目白聖公会。
◆写真中上は、1922年(大正11)3月発行の「桂蔭」に掲載された教職員名簿の一部。は、1921年(大正10)6月に開催された目白社第3回展の様子と出展作品の一部。は、1922年(大正11)現在の目白中学校教職員。印が清水七太郎ではないかと思われるが、その左下には帽子をかぶった金田一京助Click!の顔が見える。
◆写真中下上左は、1920年(大正9)3月出版の『「赤い鳥」童謡』第2集。上右は、第5集・西條八十「風」の目白中学生の挿画。は、『「赤い鳥」童謡』第6集()と第7集()の鈴木三重吉「序」。は、同集の目次で印は目白中学生による挿画。
◆写真下は、1923年(大正12)4月出版の『「赤い鳥」童謡』第7集に掲載された、北原白秋「かちかち山の春」の挿画(廣島正)。は、鈴木三重吉のプロフィール()と乗馬練習中のスナップ()。当時は目白通り沿いにあった学習院馬場Click!で、鈴木三重吉は乗馬の練習をしており、近衛秀麿Click!とも馬で遠出をしている。

読んだ!(15)  コメント(18) 
共通テーマ:地域

読んだ! 15

コメント 18

ChinchikoPapa

うちでは昔から「鬼は外福は内」を、なんの疑問も抱かずに繰り返してきました。「鬼(大荷)は内」という商家の慣習は、初めて聞きました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2019-02-06 18:13) 

ChinchikoPapa

わたしは最近、鼻の下にヒゲをはやしているのですが、けっこう手入れに手間がかかります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2019-02-07 09:57) 

ChinchikoPapa

毎年、家では梅酒を造っていたのですが、だんだん飽きて飲まなくなり、ここ数年は造っていないです。まだ、数壜が丸ごと残っていますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2019-02-07 10:00) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>hirometaiさん
by ChinchikoPapa (2019-02-07 10:02) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2019-02-07 10:02) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2019-02-07 10:03) 

ChinchikoPapa

ベランダや雨どいの落ち葉掃きに、手持ちの竹ぼうきが欲しいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2019-02-07 10:04) 

ChinchikoPapa

手水の下に、水琴窟でも隠れていそうなお庭ですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2019-02-07 10:06) 

ChinchikoPapa

シロクマの「山おやじ」は、わたしも初めて見ました。八雲町で造っているのでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2019-02-07 10:10) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>ありささん
by ChinchikoPapa (2019-02-07 10:11) 

ChinchikoPapa

三都半島の付け根には、オリーブ園があるので立ち寄ったと思うのですが、半島へは入りこまなかったように思います。島の規模にしては、かなり長い半島ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2019-02-08 09:40) 

ChinchikoPapa

わたしも今朝は、ネコの声で目がさめました。これから、花粉症の本番がはじまりますので憂鬱ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okina-01さん
by ChinchikoPapa (2019-02-08 13:08) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2019-02-10 10:38) 

アヨアン・イゴカー

中学生達の挿絵、独特の味わいがあって好いですね。
「赤い鳥」は、小峰書店発行のものがあり、子供の頃読みました。書かれた時代も古かったので、楽しいというよりは、少し陰鬱な気分になるものが多かったような気がします。
by アヨアン・イゴカー (2019-02-12 11:40) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
『赤い鳥』の童謡は、一部しか読んだことがありませんが、大正時代の独特な世相の「陰影」というのか、子どもたちの「残酷さ」が感じられる作品も少なくないですね。もっとも、その「陰影」や「残酷さ」を歌にしているのは大人たちなのですが……。
by ChinchikoPapa (2019-02-12 13:16) 

ChinchikoPapa

こちらもカンザクラの蕾が大きく膨らんでいて、あと1週間ほどで開花しそうです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>soramoyouさん
by ChinchikoPapa (2019-02-15 23:53) 

Marigreen

鈴木三重吉の序が読みたかったのですが、字が小さくて読めなかった。老眼のせいか?確実に年老いている。
このごろもう新しい知識を学ばず、昔読んだものを読んでいる。もう新しいものを追いかける年ではないと思うので。今まで学んだことを熟成させる年齢だ。
と言っても、パソコンの前に座っている生活が殆どなので、体によくないなあと不安を覚えてしまう。
小川未明も「赤い鳥」に書いていたのでしょうか?
by Marigreen (2019-02-19 10:53) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
わたしは、なんとか画面で読むことができますが、どうしても読めないようでしたら地元の図書館にも置いてあると思いますので、「序」も含め中身もお読みください。
仕事の関係もあり、わたしは新しいテクノロジーの資料や本を読まないとお話にならないので、このブログの調べもの以外は新しいものを読む機会のほうが多いでしょうか。もっとも、いつまでつづけられるのか?……という課題はありますが、端末の前に座らないとはじまらないので、確かに身体にはよくないと感じます。
「赤い鳥」を発行していた赤い鳥社は、転々と引っ越しを繰り返しますが、その多くは高田(現・目白)の3ヶ所に社屋があり、小川未明は近くの雑司ヶ谷に住んでいた関係から、作品を同社に寄稿していますね。

by ChinchikoPapa (2019-02-19 12:21) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。