「公楽キネマ」に出稿する上落合の商店。(下) [気になる下落合]
公楽キネマClick!で映画を観たあと、「ちょっと、そこらで一杯いこうや」という帰りがけの客層をねらう、上落合とその周辺の飲み屋が出稿した広告も多い。広告の掲載媒体(映画館)を考慮し、ターゲットを絞りこんでいる点では、マーケティングが練れた広告づくりといえるだろう。しかも、なぜか沖縄の泡盛を宣伝する広告の目立つのが特徴だ。
たとえば、1933年(昭和8)8月31日のパンフレット「公楽キネマ」に掲載された飲み屋のうち、2軒までが泡盛お奨めの店になっている。まず、上落合1丁目231番地に開店していた「豊後屋 泡盛食堂」は、八幡通りに面している。
「泡盛を呑めば 暑さも何処へやら」と誘うキャッチコピーは、「公楽キネマ」を観たあと下落合駅方面へ向かう帰りがけの観客や、上落合東部の住民たちの来店を意識しているのだろう。「肴はお好み是非召しませ泡盛を」と、呑兵衛にはたまらないコピーだが、この広告に誘われて仲嶺保輝Click!や南風原朝光Click!など沖縄出身の画家たちClick!は、せっせと通っていたのかもしれない。
同じ泡盛を常備している飲み屋には、戸塚町4丁目617番地に開店していた「薩摩屋」がある。この所在地は、小滝橋Click!を東へわたった交差点の真正面あたりで、明らかに映画館から山手線・高田馬場駅方面へ帰る観客、すなわち戸塚町の西部住民をターゲットにしているとみられる。「沖縄純粋泡盛 のんで味あふ真の味」というキャッチだが、当時は泡盛のブームが起きて、ニセモノの泡盛モドキも多く出まわっていたのだろうか。
「朝のめば晩も召さずに居られない」は、朝っぱらから泡盛かよ……という気がするが、当時は朝から開店している郊外の飲み屋も少なくなかった。耕地整理で住宅地が造成されると、その土地に貸家を建てて家賃をとり、あっという間に高額所得者の大地主Click!になった元農民の例は枚挙にいとまがない。礒萍水Click!が紹介している、同じ郊外地域だった目黒の「鍬を担いで咥え煙管の爺さん」は、決して特殊な例Click!ではなかった。田畑の仕事がなくなったのですることがなく、朝から泡盛を飲んでは紅い顔をして街をフラフラ出歩く大地主が、落合地域にもいたのかもしれない。
次は、少々色っぽい気になるキャッチフレーズだ。上落合1丁目170番地の小料理屋の「壽々木家」で、八幡通りから南の早稲田通りへと出る直前の西側で営業していた飲み屋だ。公楽キネマからも近く、東へ直線距離で240mほどのところだ。「美味和洋小料理」はふつうだが、「料理揃へてかん付けてぬしの おいでを待つばかり」と、まるでお座敷で芸者がささやきかけるようなコピーになっている。これを読んで、「ほいほい、いまいくよ」と出かけたお父さんも多いのではないだろうか。
「壽々木家」は、特に泡盛をアピールしていないので、ちょっと色っぽい(かもしれない)女将(おかみ)のいる、ふつうの日本酒と小料理を提供する店だったのだろう。和食の小料理ばかりでなく、洋食の小料理もできるところが、他店との差別化を意識している点だろうか。なんとなく、周辺住民の常連客が多そうな雰囲気の店だ。
さて、1933年(昭和8)9月7日のパンフレット「公楽キネマ」には、6軒の商店が広告を出稿している。まず、現在のエステサロンに相当する「美容百萬弗(美容百万ドル)」から見てみよう。所在地が小滝通りと書いてあるので、小滝橋交差点を右折して豊多摩病院Click!のほうへと向かう途中に開店していた店だろう。
「美顔術 ¥.50以上」(爆!)は、とんでもない価格だ。当時の1円を約2,500円前後(物価指数換算)とすると、この美顔術はつごう約12万5,000円以上はかかりますわよ……ということになる。昭和初期の美顔術は、どのような技術を顔面に施していたのだろうか。白髪染めのほうは、「殿方」が50銭なのに対し「御婦人方」は松・竹・梅と分かれており、いちばんいい染めを選ぶと髪が長いのを前提にしてか梅染5円(約12,500円)もかかった。それでもニーズがあって営業ができていたのは、この店の西側の丘上にある大屋敷街・小滝台住宅地Click!(旧・華洲園Click!)から、常連客が通ってきていたのだろうか。
次は、前回ご紹介した魚屋「魚福」や「ときわ湯」のごく近くで開店していた、小滝町46番地のクリーニング店「昭和ドライクリーニング商会」だ。この業種も競合店が多かったらしく、「他店よりもヅント勉強致します」をキャッチフレーズにしている。クリーニング店も当時は御用聞きがふつうで、各家庭を訪問しては洗濯物を集めてまわり、わざわざ顧客が店に出かけて洗濯物を依頼するほうが少なかったかもしれない。わたしが子どものころまで、自転車の荷台に丈夫な布製の大きな“箱”をくくりつけたクリーニング店員が、各家庭をまわってはクリーニング済みの衣服を配達していた記憶がある。
つづいて、どこの街にもあった写真館「技術本位の店 御園スタヂオ」だ。「写真・丁寧・迅速・優美」をモットーに、上落合1丁目120番地で八幡通りの中ほど東側、昭和電機工場のすぐ南側で営業していた。ボディコピーが、まるで漢文のようで読みにくく、「出張写真遠近昼夜出張費不要 写真写物昼夜の別なく迅速優美 現像焼付特に安く優美に仕上ます」と、アピールしたいことをすべて詰めこんだ欲ばりコピーだ。
次に、所在地が不明な「ちばや料理店」だが、明らかに前回ご紹介した「美人のサービスはありませんが親爺の熱心な板前振りを味つて下さい」の「岐阜屋食堂」を強く意識しているコピーなので、同じ八幡通り沿いで近接しながら営業していた競合店だろうか。いわく、「美人のサービスあり 料理は自慢一度お試食を願ひます」とあり、「江戸前料理をお味ひ下さい」がキャッチフレーズだった。
わたしなら、ついフラフラと「ちばや料理店」に出かけてしまいそうだが、店名も岐阜と千葉とで県名(おそらく店主の出身地だろう)を掲げた同士となり、八幡通りではお互いの店を意識してライバル視していたのかもしれない。もうひとつ、料理の文化や趣味・風味という点でも、同じ関東で東京湾や太平洋に面した千葉のほうが、親しみを感じまた味も信用できそうなので、わたしなら決して「美人のサービス」に惹かれるだけでなく(ほんとうかな?)、「ちばや料理店」のほうへと出かけそうだ。
つづいて、ようやく出ました喫茶店の広告で、中野住吉通りに開店していた「グロリー喫茶店」だ。中野住吉通りとは、中央線・東中野駅へ向かう旧・住吉町と旧・小瀧町(現・東中野4~5丁目)を縦断する道路のことで、公楽キネマから南西へ斜めに入っていく通りのことだ。大正期から昭和初期にかけ、上落合に住むプロレタリア作家たちが「プロレタリア通り」と呼んでいた道路で、現在では区検通りと名づけられている。
キャッチが「毎度有難う御座います」なので、けっこう流行っていた喫茶店なのだろう。明らかに、東中野駅方面へと向かう客層を意識しており、「キネマのお帰りにお立寄り下さいませ お待ち申して居ります」と女性言葉のコピーなので、店主はママだったにちがいない。住吉通りは、東中野駅前へ近づくほどにぎやかな商店街となるのは当時もいまも変わらず、数多くの喫茶店や飲み屋が通り沿いに出店していた。
最後は、やや地味な広告で「足袋各種 壽屋足袋店」だ。上落合1丁目189番地といえば、以前にご紹介した宇田川利子Click!が嫁いで苦労を重ねた宇田川邸の広い敷地内で、八幡通り沿いに宇田川家が建てた貸店舗を借りて、壽屋足袋店は営業していたのだろう。「皆様のタビ店 御誂物御用は是非当店へ」と、これまた地味なコピーで宣伝している。
当時は、洋装よりもまだまだ和装のほうが優勢だったので、足袋の需要はそれなりに多かったのだろう。女性の日本髪はすたれ、髪をゆわえる元結Click!の需要は大幅に下がっていったが、髪型は洋風でも衣裳は着物という生活が定着し、日常生活において足袋は男女ともに必需品だった。店の位置が「八幡神社際」とあるので、壽屋足袋店は月見岡八幡社境内にも面し、宇田川邸敷地の北側角地にあったと思われる。
さて、パンフレット「公楽キネマ」に掲載された広告を見てくると、やはり飲食店の広告が目立っている。他の業種のように、御用聞きがまわる決まったテリトリーあるいは営業エリアがあるわけでなく、とにかくひとりでも多くの顧客が店に足を運んでくれなければ商売にならない業種が、積極的に広告を出稿している。
1933年(昭和8)の当時、それまでは付近の飲み屋や喫茶店に足しげく通い、情報交換や議論を闘わせていた上落合のプロレタリア作家や美術家、アナキスト、タダイストたちは、あらかた特高Click!に検挙されるか地下に潜行して表面上は鳴りをひそめていた。
飲み屋や喫茶店での議論や、仲間同士の喧嘩も少なくなっていただろう。一般の庶民にとっても、息苦しい時代がすぐそこまで迫っていた。当時、公楽キネマの上映作品は無声映画だったが、どのようなタイトルが上映されていたのか、それはまた、別の物語……。
<了>
◆写真上:旧・八幡通りが通っていたあたりで、現在は落合水再生センターの敷地内だ。同施設は神田川のほか、現在では渋谷川や古川、目黒川の“源流”となっている。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真でひときわ白く輝く公楽キネマ。下は、1933年(昭和8)の「公楽キネマ」8月31日号に掲載の広告。
◆写真中下:上は、現在の八幡通り。中は、小滝橋交差点の左から早稲田通り・諏訪通り・小滝橋通りで、「薩摩屋」は諏訪通りあたり(当時は未設)に、「美容百萬弗」は右折した小滝橋通り沿いに開店していた。下は、上落合を流れるサクラ並木の神田川。
◆写真下:上は、1933年(昭和8)の「公楽キネマ」9月7日号に掲載された広告。下は、1936年(昭和11)の空中写真に前記事も含めた各店舗の所在地を記載したもの。
広告のキャッチフレーズが五七調だっりして、心地よいですね。
「召しませ泡盛を」、「東京の花売り娘」の「召しませ花を」のようで、ちょいといい気分になってしまいますね^^
美顔術の価格ですが、¥.50と点が付いていますから、ひょっとして50銭以上ということではないでしょうか?
足袋は、あつらえることがあったことを初めて知りました。
by アヨアン・イゴカー (2022-02-11 01:10)
アヨアン・イゴカーさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
当時のキャッチコピーが、なんとなく芝居がかっているのは、それだけ人々が世話物の芝居や講談を観にいっていたからでしょうか。あるいは映画館の活動弁士が、調子のいい七五調の語り口で講釈をしていたからでしょうか。
>¥.50と点が付いていますから、ひょっとして50銭
あ、ひょっとするとそうなのかもしれませんね。そうなると、いまの感覚では1,200円~となり、リーズナブルに美顔術を受けることができそうです。でも人を呼ぶ広告なのに、なぜ「¥0.50円~」ないしは「50銭~」としなかったのかが気になりますね。
by ChinchikoPapa (2022-02-11 09:34)