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大泉黒石もはまった神奈川の化石採集。 [気になる下落合]

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 わたしは子どものころ、よく化石採集Click!に出かけた。小学生の高学年になると、自転車で近場にある更新世(昔は洪積世と呼ばれた)の地層が露出しているところへ、クラスの友だちと出かけたりした。それ以前は、親に連れられ神奈川や東京の化石を産出する地点をめぐり、夏休みの自由研究にして学校へ提出したりしていた。
 神奈川県では、すぐ近くの大磯や二宮に露出していた二宮層群Click!(魚貝類やサメの歯などの化石)であり、足柄地域の足柄層群(貝類やサンゴなどの化石)、三浦半島の横須賀から観音崎あたりの宮田層群(ナウマンゾウや魚貝類、鳥類足跡などの化石)をよく訪れていた。東京では、武蔵野Click!を歩きがてら、五日市Click!盆地(現・あきるの市)の五日市町層群(古生代~新生代の多種多様な化石)にも出かけている。
 これらの化石は、わたしの部屋でたいせつに保存したかったのだが、夏休みの自由研究で宿題として学校へ提出したりすると、教師から学校へ寄贈してくれといわれて二度ともどってはこなかった。おそらく、学校側から両親へ先に話をつけていたものだろう、自由研究が学校からもどらなくても親たちはなにもいわなかった。箱根の温泉からの帰り道、足柄山地へ立ちより山道を10km以上歩きながら苦労して採集した、20個以上の貝化石がもどってこなくなってから、わたしは二度と採集した化石を学校へ自由研究として提出することはなかった。人がせっかく苦労して集めた化石を、学校にタダ盗りされて怒りが湧かないほどガキではなくなっていたからだ。いまでも、当時の化石採集用の大小タガネ類やハンマーは、棄てずにそのまま家に残している。
 神奈川県の化石産地を、大泉黒石Click!も子どもたちを連れながらゾロゾロ歩いている。彼は大岡昇平Click!のように地質学にも詳しかったらしく、更新世(黒石の時代は洪積世)中期~後期の質のいい化石は、神奈川県の地層から産出するのを知っていたのだろう。ちなみに、黒石が住んでいたここ下落合でも貝化石は産出するが、関東ロームを5m前後も掘り下げないと砂質性のシルト層にはぶつからない。目白崖線のバッケ(崖地)Click!に、うまくシルト層が露出している箇所(その多くが湧水の出口になっている)では採集できるが、たいがい濃い樹林と下草におおわれて容易に掘ることができないか、すでに住宅が建ち並んでいて探すのがたいへんだし、うっかり掘ったりすると「あ~た、宅の土地でいったい何してるんですの?」と、地主のヲバサンに怒られたりするから厄介だ。
 大泉黒石は、子どもたちには常に丁寧語の「ですます」調で接し、親と子ではなく対等の人間同士のように応対していたらしい。父親のどこかよそよそしい態度には、子どもでさえ人格を尊重するやさしい愛情を感じた子もいれば、苦手で逃げ出したいと感じた子もいたようだ。また、黒石は子どもたちの教育には熱心で、化石採集も子どもたちに地球の歴史について興味をもたせるため、教育の一環として出かけたのかもしれない。
 神奈川県の化石採集について、1988年(昭和63)出版の『大泉黒石全集』(緑書房)の付録「黒石廻廊/書報No.1」より、二女・大泉淵『幼き日の思い出』から引用してみよう。
  
 化石を採りに行った時のことです。電車で行ったか歩いたかは忘れましたが、場所は横須賀でした。もう私も小学生です。単衣を尻はしょりしてカナヅチを手に持ち、ハンカチを腰にはさんだ父の後ろからついて行くと、小高い丘を上り切った所に白い崖があって、さまざまな貝の化石が沢山ありました。丹念に採集した化石を、大事そうにハンカチに包んでいる父を見ている内に、私はなぜだかもの悲しくなりました。/家庭のことをかえりみない父ではありましたが、こと教育に関しては全く熱心でありました。
  
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 黒石は、娘の大泉淵がまだ年端もいかない小学生だったにもかかわらず、当時としてはありえない「英語」を教えはじめている。毎日、新しい単語カードを作っては娘にわたしていた。その日の単語カードを父親の部屋へもらいにいくと、「昨日のは覚えましたか?」といわれて必ずテストをされた。父親が仕事で不在のときも、欠かさずに単語カードは事前に用意されていて、彼女は情けない思いをしたようだ。大泉淵は「英語」がイヤでイヤでしかたがなかったようなのだが、のちに女学校へ通うようになってから、このときの単語カードがずいぶん役に立ったと書いている。
 また、小学生のクラスメイトが遊びにくると、大泉黒石は紅茶をいれて大人の来客に接するようにご馳走したり、まるで年ごろの娘が遊びにきたかのようにていねいに接待し、息子のポー(大泉滉)の「嫁さんになってもらえませんか?」などと頼んだりしている。黒石は、「小学生の女の子にそのようなことを礼儀正しく真面目に話す」ことができる、子どもたちにしてみれば常識はずれで面食らうようなオトナ(父親)だったようだ。
 大泉淵は、子どものころからいっぷう変わったそんな父親が苦手で、彼女はいつも父親から逃げまわっていたらしい。大泉黒石としては、かわいい娘たちを連れて歩くのが楽しくてしかたがなかったのかもしれないが、小学生の娘にしてみれば迷惑以外のなにものでもなかった。「黒石廻廊/書報No.1」から、つづけて彼女の証言を聞いてみよう。
  
 私達はいつも父親から逃げたいという態勢でした。父は背が高いうえ脇も見ずに真直ぐ大またで歩くので、向うから父が来たと分ると、なるべく背を低くしてすりぬけるようにします。ひとたびつかまって、「一緒に来ませんか」といわれたが最後、私達の習慣としてイヤということは出来なかったものですから、何処へ連れて行かれるか分ったものではなかったのです。彫刻家、画家、映画の監督さんの家、など。つかまるのは外とは限らず、家にいても「一緒に来なさい」といわれたら運が悪いとあきらめるわけです。その日はどっちでつかまったか分りませんが、私は銀座の南蛮というバーに連れていかれ、その揚句おきざりにされて、母をひどく心配させたこともありました。とにかく父と歩くと実にお腹が空くので困るのです。
  
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大磯化石2.JPG
 上記の彫刻家や画家の中には、同じ下落合のアビラ村(芸術村)Click!ないしは落合地域に住んでいた人物が含まれていたのかもしれない。また、「映画の監督さん」は日活向島撮影所の脚本部にいたとき以来の友人たちだと思われ、中には『血と霊』の溝口健二Click!も含まれていたのだろう。銀座のバー「南蛮」は、その店名から同郷の長崎出身のママが切り盛りする、昔から馴染みの店だったのだろうか。
 大泉黒石の子煩悩は、東京帝大近くの本郷に住んでいたころからのようで、やはり長男の大泉淳を連れては散歩や見物に出かけていたようだ。大泉黒石の本郷時代というと関東大震災Click!の前、1920年(大正9)ごろのことだ。やはり、小学校に通いはじめた大泉淳を散歩に誘っては、当時はめずらしかった飛行機を見に出かけたりしている。
 1988年(昭和63)出版の『大泉黒石全集』(緑書房)の付録「黒石廻廊/書報No.2」より、今度は長男・大泉淳『黒石の思い出』から、その父親黒石像を引用してみよう。
  
 その後本郷の、帝大から程遠からぬ所に引越した。父は赤門通りの、いちょう並木の落葉が散り敷く坂道をよく散歩していた。郷里長崎の石畳の坂道の面影を求めていたのかも知れない。或は散歩の間に小説の構想を練っていたのであろう。坂の途中に屋台店があって油で揚げて砂糖をまぶした薩摩芋を売っていた。父は時々そこに立ち寄って土産にそれを買って帰り、油に滲んだ新聞紙の包を開けて親子でそれをつまんだものである。後年、大学芋と呼ばれる同種の芋を見る度に帝大の近くにあった、あの屋台店のことを思い出す。
  
 帝政ロシアの官僚だった父親の遺産がつきてカネがなくなり、一高を中退せざるをえなかった大泉黒石は、どこかに東京帝大への未練があったものだろうか、本郷では帝大周辺をよく散歩している。家族がいた当時、創作の合い間にも子どもたちのことを気にかける子煩悩でやさしい父親だったようだが、娘たちにとっては「逃げたい」存在だった。もっとも、父親が煙たいのは、別に大泉黒石の娘たちに限らないのだろうが……。
 大泉黒石は毎年、夏休みになると故郷の長崎へ家族旅行に出かけている。すでに長崎には、黒石の身寄りや姻戚はひとりもいなかったが、やはり生まれ育ったところなので彼を生涯惹きつけてやまない街だったのだろう。長崎では仕事をせず、1ヶ月間をただなにもせずに遊んで暮らしていたらしい。子どもたちを連れていたので、もちろん名所史跡めぐりはしただろうし、散歩や食べ歩き、海水浴などにも連れていっただろう。ときに、子どもたちの夏休みの宿題をみてやるなど、ひと月を作家ではなく父親としてすごしている。
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 大泉淵の姉の家には、大泉黒石が海岸でひろい集めた美しい貝殻の入った箱があった。彼女の姉の娘、黒石にとっては孫娘のために集めた貝殻だった。横須賀の化石採集へ娘たちを連れだしても、まったく喜ばなかったのを憶えていたものか、更新世の貝化石ではなく現代のきれいな貝殻ばかりを集めたらしい。大泉淵は、孫娘のために砂浜でしゃがみながらひとつひとつ、きれいな貝殻を選んでひろっている父親の姿が浮かび、「胸を熱くして一粒の貝を手のひらにのせると私はながいこと見つめておりました」と、エッセイを結んでいる。

◆写真上:関東大震災のときに地中から浮上した、貝化石を数多く含む二宮層。
◆写真中上は、横須賀市の観音崎に露出する地層と磯。は、麻布か本郷時代に撮影された大泉一家だが子どもはまだふたりしかいない。
◆写真中下は、下落合の砂質シルト層から見つかる貝類化石(「新宿区立図書館紀要Ⅰ」/1967年)。左上から右下へ順にカガミガイ(他)、ナミガイ、ヤツシロガイ、オオノガイ、ミルクイの化石。は、同じく同紀要より左上から右下へ順にブラウンイシカゲガイ、ホソスジカガミガイ、トリガイ、イタヤガイ、ウチムラサキ(?)、アサリの化石。は、大磯海岸のこゆるぎの浜に関東大震災の直後から露出した二宮層。
◆写真下は、1923年(大正12)秋の関東大震災直後に上映された大泉黒石×溝口健二監督『血と霊』(日活)のポスター。大震災後の騒然とした中での上映で、観客の入りがかなり悪かった。は、1923年(大正12)2月に故郷の長崎を訪れた大泉黒石(前列中央)。
おまけ
 神奈川の代表的な化石産出地層で、上が二宮町に露出する二宮層と、下が足柄上郡山北町に露出する足柄層群。足柄層群からは貝のほか、サンゴの化石も多数発見されている。
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「老子!」と黒石少年にトルストイはいった。 [気になる下落合]

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 下落合2130番地に住んだとみられる大泉黒石Click!は、1924年(大正13)に文学講演旅行へ出かけている。黒石は1922年(大正11)に、ロシア文学が成立する“前史”ともいえる『露西亜文学史』(大鎧閣)を出版しており、明治末から大正期に起きた空前のロシア文学ブームの中で“本史”の続編出版が待望されているような状況だった。
 だが、日本文壇から排斥され出版機会を奪われたせいもあるのだろう、ついに『露西亜文学史』の“本史”を執筆できなかった。もし、大泉黒石Click!がつづけて『続・露西亜文学史』を書いていたら、19世紀から20世紀にかけての世界文学における一大山脈(父親と同郷で近所にいたトルストイClick!とはかろうじて同時代で、ヤースナヤ・ポリャーナとモスクワで都合三度も会っている)を、同時代のフランスやイギリスなどの文学界と重ねて、グローバルなマクロ的視界でどのように認識していたかが描かれ、非常に貴重な文学史料になったと思うと残念でならない。
 1924年(大正14)の春、福岡高等学校の学生たちを中心に開催された文芸講演会には、大泉黒石のほか辻潤Click!高橋新吉Click!が出席する予定だった。もう、アナキズムとダダClick!の匂いしかしないメンバーだが、実際に講演したのは辻潤Click!ひとりだった。高橋新吉は、故郷である愛媛県の伊方町に寄りたくなったのか四国へわたってしまい、大泉黒石はやはり故郷の長崎県八幡町(現・長崎市)に足を延ばしたままもどらなかった。したがって、文芸講演会で登壇したのは辻潤ひとりだった。
 当時は福岡高等学校の学生で、のちに作家で文芸評論家になる福田清人がその様子を記憶している。1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)付録の、「黒石廻廊/書報No.6」(1988年7月29日)より福田清人『大泉黒石のスナップ』から引用してみよう。
  
 「買って下さった券には、私の他に詩人の高橋新吉と作家の大泉黒石の名が印刷されている。福岡で会ってしゃべる約束だったが、高橋は四国へ消え、大泉も郷里長崎へ行くと言って現れない。僕が三人ぶん話すから我慢してくれ給え」/前日、三、四人の青年を連れて高校の門前に五十銭の入場券を売りに来た辻潤は、黒のソフトに黒マントそのままの格好で壇上に立ち、前の卓上にビール瓶があり、時々コップに注いで飲んでは語りつづけた。
  
 福田清人は長崎の同郷であり、日本文学ではなく世界文学の視野だった大泉黒石の話を聞けなかったのによほど失望したのか、講演の様子を鮮明に憶えている。
 大泉黒石は、実際に生活した日本やロシアはもちろん、同時代のフランス(居住)やドイツ、イギリス(居住)などの文学に精通し、中国(居住)は特に古典文学に詳しかった。このような作家は、大正期から昭和初期にかけて日本にはほかにおらず、多くの私小説家は知識や視野、体験レベルからして大泉黒石にはまったく刃が立たなかったろう。文壇からの激しい嫉妬や、意図的・計画的な疎外(“あいの子”差別を含む嫌がらせ)を受けるのは、当時の日本では必然だったとみられる。
 特に国家を否定し、キリスト者的で謙虚な姿勢を貫きながら生活するトルストイとの邂逅は、大泉黒石の創作や生活におけるどのような政治的権力も認めないトルストイズム的アナキズムとして、人生における経糸的な思想にまで昇華していたのではないだろうか。彼の愛読書の1冊だった老子『道徳経』は、少年時代に出会ったトルストイからの強い教示を受けたものだっだ。トルストイもまた、老子の著作からは強い影響を受けている。
 また、自身の極貧生活を題材にした作品は、明らかにゴーリキーを意識したものだと思われ、黒石の怪奇趣味はゴーゴリやチェーホフのような味わいがあり、登場人物たちの内面告白的なモノローグやセリフは、ドストエフスキーの作品を直接的に連想させる。このような創作の流れに、フランスやドイツ、イギリス、中国、日本などの古典・現代文学から吸収したさまざまな思想や表現が加味されているのが、日本語で書かれているものの「日本文学」には到底収まりそうにない、大泉黒石の広大な文学ワールド(表現世界)を形成している。
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 日記にでもつけておけばいいような「私小説」(「純文学」??)で、ごくごく小さくこじんまりとまとまっていた当時の文壇にしてみれば、この広大な視界をもつ作家が自分たちの貧相な世界を映す鏡のようにも見えて脅威となり、極力いなくなってほしい人物のひとりになっていったのは想像に難くない。今年(2023年)に岩波書店から出版された四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』では、彼の文学的素養について次のように書いている。
  
 こうしたことのすべては、二〇世紀前半を生きた日本の文学者、知識人として稀有なことである。幼くしてモスクワとパリに学んだことが決定的であった。単一の、絶対の母国語をもたないこと。言語とはつねに複数の言語であり、大切なのはいつでもその場にあって、身近に語られている言語を用いて書くことだ。驚くべきことであるが、黒石にとってエクリチュールの始まりとは、パリのリセ時代になされたフランス語のヴィクトル・ユゴー博物館訪問記である。やがてそれは日本語に取って替わられるのであるが、ロシア語はもとより、ドイツ語、英語、フランス語に通じているという語学的才能と経験は、彼の文学に独自の言語的混淆をもたらすことになった。(中略) 黒石に漢文的教養がなかったかというと、実はその逆である。中国の艶笑小説に蘊蓄を傾けたり、漢籍でもかなり専門的なところまで踏み込んで論じている。
  
 これらのことは、同書にも「久米正雄ら既存の文壇作家たちが危機感を感じる。黒石への違和感を口にし、彼を警戒する」と書かれているとおり、日本文壇から「虚言癖」として排斥される理由にもなった事蹟だが、すべて事実だったことが指摘されている。ちまちました私小説家があふれ、ゾロゾロ群れたがる当時の文壇にとって、彼のような作家はスケールが大きすぎて理解不能で意味不明だったのだろう。日本文学は、「自然主義」文学以来の誤解と履きちがえによる「純文学」的な「私小説」の流れから、ようやく脱却できるかもしれない大きなチャンスを、自らの悪意と揶揄と冷笑で意図的につぶしている。大泉黒石の排斥は、日本文学史における最大レベルの損失のひとつだろう。
 それでも書きつづけるところに、大泉黒石のすごさ……というか図太い神経があるのかもしれない。『預言』の自序では、日本の文壇にはなにも期待していない旨を表明し、高田町から目白台を舞台にしたドストエフスキーばりの物語を紡ぎ、『老子』では自身なりに消化したアナキズム思想をトルストイの思想と重ねあわせて追究し、江戸期の長崎を舞台にした最後の長編小説『おらんださん』では、日本語の独特な表記法(ルビ)に着目・応用しながら、それまで誰も見たことのない多国籍的かつ実験的な小説を創造してみせた。
黒石怪奇物語集1925新作社.jpg 大石黒石「おらんださん」1941大新社.jpg
大泉黒石「山と渓谷」1931二松堂書店.jpg 大泉黒石「渓谷行脚」1933興文書院.jpg
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 恥ずかしながら、わたしも最近まで彼の作品を読むことはなかった。大泉黒石が下落合に住んでいたことは、林芙美子の著作でずいぶん以前から知っていたが、読まなかった理由のひとつには戦前の本以外、戦後は出版物そのものがほとんど存在しなかったこともあるだろう。緑書房による『大泉黒石全集』(1988年)は出版されていたが、部数が少ないせいかかなり高価で手が出ず、なかなか「読めなかった」ともいえるだろうか。
 『大泉黒石全集』の「黒石廻廊/書報No.6」(1988年7月29日)には、英文学者で東京大学教授だった由良君美が『反戦文学と黒石』と題して、次のように書いている。
  
 分からず屋の言い分など、どうでもよい。<一流の>・<二流の>、<主流の>・<傍流の>、<純文学の>・<大衆文学の>とやくたいもないゴタクをならべている暇に、偏見を括弧にいれ、虚心にテクストに対面し、その内在的評価を試みたらよかろう。そのとき、右(=上)にのべた三者は互いに雁行する価値を現わすことであろうし、黒石の『ほろ馬車巡礼』と『人生見物』の位置付けもおのずから定まってくるであろう。(カッコ内引用者註)
  
 大正期から昭和初期(ひょっとすると「戦後」もしばらくだが)にかけての、狭隘な「私小説」で「純文学」のつまらない文壇のゴタクなどどこかへうっちゃっておき、素直に黒石作品に対して接すれば、いかに当時の「純文学」とは比較にならないほどの広大な、そして巨大な創造(想像)力にあふれているかがわかるだろう。
 しかも、大泉黒石の作品群は想像世界を空まわりする、地に足の着かない荒唐無稽で浮薄な表現ではなく、実地の経験や物語の現場を実際に見て聞いて歩いて踏まえたうえでの、非常にリアルかつシリアスな記述に驚かされるにちがいない。それが、底の知れない視野狭窄症で「井里的青蛙」(黒石の漢文風にw)に陥っていた、当時の日本文壇にはまったく理解できなかったとしても、むしろ当然の帰結というべきだろうか。
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 大泉黒石は『俺の自叙伝』(1919年)で、「露西亜に来ると日本へ帰りたくなるし、日本に一年もいるとたまらないほど露西亜が恋しくなる。俺は二つの血に死ぬまで引き回されるんだろう。そして最後に引っ張った土が俺の骨を埋めるに決まっている」と書いている。最後に黒石が引っ張られたのは、ロシアではなく日本だった。それは、彼の作品がほとんど日本語で書かれていることも含め、日本文学史にとってはかけがえのない幸甚なことだろう。

◆写真上:大泉黒石が少年時代に、実家の近くで邂逅した晩年のレフ・トルストイ。
◆写真中上は、トルストイにも奨められた老子の思想を主題にすえる大泉黒石『老子』(新光社/1922年)。は、少年時代に長崎の写真館で撮影された大泉黒石。は、大泉黒石がよく散歩したとみられる下落合4丁目(現・中井2丁目)の五ノ坂。
◆写真中下上左は、1925年(大正14)出版の『黒石怪奇物語集』(新作社)。上右は、1941年(昭和16)出版の黒石最後の長編『おらんださん』(大新社)。中左は、1931年(昭和6)出版の大泉黒石『山と渓谷』(二松堂書店)。中右は、1933年(昭和8)出版の同『渓谷行脚』(興文書院)。黒石は山歩きが大好きだったが、出版社から小説の注文が絶えたため、やむなく日本の山々や温泉などの紀行文を書くようになった。筆に脂の乗りきった時期だっただけに、日本文学にとってはまさに“宝のもち腐れ”状態だった。は、1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)だが未収録の作品がかなり多い。
◆写真下は、大泉黒石の長編『預言』の舞台となった目白台近くの江戸川Click!(現・神田川)。は、『預言』にも登場する1935年(昭和10)撮影の旧・神田上水Click!と江戸川との分岐点だった大洗堰Click!は、1924年(大正13)ごろ『預言』を執筆中の大泉黒石。
お知らせ
 拙サイトでも繰り返し登場している画家・八島太郎(岩松惇)Click!だが、山田美穂子様Click!より明日のNHK-Eテレで日曜美術館『故郷は遠きにありて~絵本画家 八島太郎~』(望郷の絵本画家)が放映されるとのことです。スケジュールは以下のとおりです。
■『故郷は遠きにありて~絵本画家 八島太郎~』(日曜美術館)
 ・放送日:8月27日(日) AM9:00~9:45
 ・再放送:9月3日(日) PM8:00~8:45
 わざわざお知らせくださり、ありがとうございました。>山田様
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あちこち居場所を変える近衛文麿。 [気になる下落合]

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 近衛文麿Click!関連の本を読んでいると、下落合の近衛篤麿Click!が建てた下落合の邸から永田町の私邸、そして杉並区西田町の「荻外荘」Click!と、3ヶ所の家を移り住んでいると書かれているものが非常に多いことに気づく。
 落合地域にお住まいの方なら、すぐにも下落合の2邸が忘れられ抜けているのに気づくだろう。近衛文麿は、もともと飽きっぽい性格だったのか、1ヶ所に腰をすえることが苦手な人物だったのか、あるいは落ち着いて住むのではなく家を変えること自体が趣味でもあるかのように、次々と転居しては新たな自邸に移り住んでいる。
 1891年(明治24)に、近衛文麿は麹町区麹町7丁目20番地のいわゆる「桜木邸」で生まれている。一時は、父・篤麿の都合で同じ麹町区飯田町へ転居したこともあったようだが、再び麹町の桜木邸へともどっている。学習院の移転を計画する父・篤麿は、候補地だった山手線・目白駅Click!の東側(高田村金久保沢Click!稲荷原Click!一帯)の近く、山手線の西側にあたる下落合417番地に邸を建設して転居してくる。だが、その2年後の1904年(明治37)に篤麿が40歳で急死すると、近衛文麿は12歳で公爵家の家督を継ぐことになった。
 ここからが、下落合における文麿を当主とする近衛家がスタートするのだが、四谷区尾張町から近くの高田村(現・目白)へ移転してきた学習院中等科を卒業すると、彼は一高Click!へと進学している。そして、校長の新渡戸稲造Click!に惹かれたという一高を卒業すると、21歳になった文麿は1912年(明治45)に東京帝大哲学科へと進んだ。だが、東京帝大の講義が気に入らず、同年に京都帝大法科大学へと転学している。マルクス経済学者の河上肇や、哲学者の西田幾多郎などに惹かれたからだといわれている。
 文麿は、京都での学生時代には借家住まいをしていたが、結婚をすると商家の別荘を借りうけて新婚生活をはじめている。学生時代の1914年(大正3)には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳して雑誌「新思潮」に発表。1916年(大正5)には、25歳になったので貴族院議員に選出されている。1917年(大正6)に京都帝大を卒業すると、近衛文麿は下落合の故・篤麿が建てた邸(旧邸)にもどっている。
 さて、ここからが頻繁な転居の繰り返しになるのだが、近衛邸の推移を1995年(平成7)に朝日ソノラマから出版された大須賀瑞夫『首相官邸・今昔物語』より引用してみよう。
  
 (愛人の証言から)「殿さまは家捜しがお好きなようで、目白には先代からのお邸があり、永田町にもあり、後には荻窪の『荻外荘』に移られました」/と書いている。目白といっても、当時はたんぼの中に農家が数軒散らばってあるような感じのところで、東京市外落合町下落合四三七番地という番地が残っている。/最初に首相となったころに住んでいた麹町区永田町二丁目二五番地というのは、まさに首相官邸と同じ町内であり、当時は二百九十戸の二丁目町内には首相、蔵相、農相の官邸があって、いわば日本政治の中枢の場所であった。/首相になった年の暮れ、つまり三七年十二月、近衛は永田町から荻窪に転居した。(カッコ内引用者註)
  
 この記述には、すでに時系列や事実の混乱が多々見られる。まず、「先代からのお邸」=篤麿が建てた近衛旧邸は下落合417番地であり、「下落合四三七番地」ではない。下落合437番地は、1929年(昭和4)に永田町から転居(避難)してきた、下落合436~437番地の近衛新邸のことだろう。また、下落合417番地の近衛旧邸は目白崖線の丘上にあり、灌漑に不便な地勢なので畑はあっても「たんぼ」はない。1880年(明治13)のフランス式1/20,000地形図Click!を参照すると、明治期には野菜畑と茶畑、それに竹林が散在するような風情だった。しかも、江戸期から将軍の鷹狩場Click!である御留山Click!つづきなので森林が多く、農家もあまり建ってはいない。
 また、永田町の邸からすぐに荻窪の「荻外荘」へと転居したように書かれているが、これも事実ではない。その間には、先述のように下落合436~437番地の近衛新邸が竣工して、新たな下落合時代がはさまっている。また、それ以前の転居先として、永田町2丁目の近衛邸が竣工するまでの間、目白中学校(東京同文書院)Click!の跡地南にあたる、下落合432~456番地に新邸を建てて、篤麿の旧邸にいた家族や家令たちとともに移り住んでいる。
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 あまりにも転居が多くて非常にややこしいので、もう一度、時系列に沿って整理してみよう。まず、1917年(大正6)に京都帝大を卒業した近衛文麿は、下落合417番地の自邸(篤麿の旧邸)へと帰る。そして、篤麿が残した膨大な借財を整理するため、学習院の同窓である東京土地住宅Click!の常務取締役だった三宅勘一Click!に相談し、箱根土地Click!による目白文化村Click!の開発を横目で見つつ、近衛邸敷地を新たな郊外住宅地として再開発する計画を進めている。借財の返済にあてるため、明治末にはすでに広大な敷地西側の御留山エリアClick!を、相馬孟胤Click!に売却していたが、それにつづき篤麿の旧邸が建っていた南側のエリアを、「近衛町」Click!として再開発することに決定した。また、翌年には相馬邸北側の落合遊園地Click!(のち林泉園Click!)エリアを、「近衛新町」として開発し分譲したが、東邦電力Click!松永安左衛門Click!へほぼ全区画を販売している。
 当然、「近衛町」のエリアにあった篤麿の旧邸が解体されるため、文麿は練馬へ移転した目白中学校(東京同文書院)Click!のグラウンド跡の南側へ、一族が住めるように新たな邸Click!を建設している。それが下落合432~456番地にあった近衛邸で、わずか7年間しか存在しない暫定的な(といっても1/3,000地形図で見るかぎり、大きくて豪華な)邸がそれだ。同時に、文麿は麹町区永田町2丁目25番地の敷地へ、自身と妻子たちが住むメインとなる邸を建設しているが、竣工予定が1924年(大正13)だったため、永田町へ移り住むまでの2年間余は、上記の下落合432~456番地の近衛邸に住んでいただろう。
 ところが、永田町の私邸が竣工し住みはじめてから数年もたたないうちに、すぐにそこがイヤになって下落合に新しい邸を建てる計画をスタートしている。それが「近衛町」の北側、目白中学校跡の東側に位置する、下落合436~437番地(のち下落合1丁目436~437番地)の近衛新邸Click!だ。近衛新邸は1929年(昭和4)に完成し、永田町から家族ともども下落合にもどってくる。また、下落合432~456番地の暫定的な邸にいた親族たちも、新邸に合流して別棟に住むようになった。
 永田町の邸を離れるきっかけになったのは、藤田孝様Click!が故・近衛通隆様Click!へ取材したところによれば、永田町は交通が至便で訪問客があとを絶たず、1日じゅう接待に追われて家族も家令もくたびれはて、ウンザリしてしまったからとのことだ。だが、下落合も山手線の目白駅が近いため訪問客はあまり減らず、1937年(昭和12)の首相就任を契機に、杉並区西田町1丁目42番地に入江達吉が建てた「楓荻(ふうてき)荘」(設計・伊藤忠太)を買収して住むことが多くなった。名称も「荻外荘」Click!と改め、執務も首相官邸ではなく「荻外荘」で行うことが増えていく。永田町の邸が放棄され、「荻外荘」が“本邸”となるころには、下落合の近衛新邸は新聞紙上などで“別邸”Click!と表現されることが多くなった。
大須賀瑞夫「首相官邸・今昔物語」1995.jpg 岡義武「近衛文麿-「運命」の政治家-」1972.jpg
近衛文麿記者会見193706.jpg
荻外荘サクラ.JPG
 戦争末期になると、陸軍の監視Click!を避けるため軽井沢の近衛別荘Click!や、箱根にあった桜井兵五郎の別荘「缶南荘」Click!など各地を転々としていたが、敗戦と同時に「荻外荘」にもどっている。こうして、戦後の1945年(昭和20)12月6日、GHQによる巣鴨プリズンへの出頭期限の日に「荻外荘」の寝室で自裁しているのだが、上記に書いた邸のほかにも、まだいくつかの“住まい”が各地にあった。中でも有名なのが、上野池之端にあった元・新橋芸者で愛人だった山本ヌイ邸(別宅)と、京都の元・祇園芸妓だった海老名菊邸(別宅)だろうか。これら別宅でも、近衛文麿は少なからぬ時間をすごしている。
 当時、東京帝大の教授で近衛内閣のブレーンだった矢部貞治は、1941年(昭和16)3月27日の日記に次のように書き記している。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 「翼賛会は職員全部辞表を出すらしい。それぞれの職場を捨ててこれに飛び込んだ連中が可哀そうだ。有馬伯も『この棄て子』と言っている。狼に出会うごとに一匹ずつ馬を殺して与えていくという近衛の性格が最もよく現れている。こんなやり方だから、近衛のために死のうという人間がいないのだ」/「兎死して走狗烹らるか!」と書き、「狼に出会うごとに一匹ずつ馬を殺し与えていくという近衛の性格」と記された矢部の日記の行間からは、深い絶望感とともに、怒りが蒼白い炎をあげて立ちのぼっているようだ。
  
 自身の都合が悪くなると、あるいは自身の立ち場が悪くなると、周囲のせいにして切り捨てることをはばからないと、矢部貞治は近衛文麿の性格に怒りをこめて書いている。これは周囲の“人間”に限らず、生活する住空間や暮らし自体についても、どこか当てはまるのではなかろうか。少しでも住みにくい、あるいは面倒で居心地が悪いことがもちあがると、そこに踏みとどまって問題を解決するのではなく、サッサと新しい邸宅を建てて、あるいは探して逃避してしまうという性格の反映ではないだろうか。
 当時の新聞記者たちが、「土壇場になると、お公家さんは逃げ足が速いねえ」などとウワサしたり、あるいは岩波茂雄Click!の「近衛は弱くて駄目だねえ」という嘆息と、どこか通底するようなエピソードのように感じる。歴史に「もし」は禁物だが、もし近衛文麿が平和な時代に生きていたら、コトを荒立てずに穏やかで柔軟な考え方のできる、新しもの好きの知的な人物として語られていたのかもしれない。だが戦争の時代に生きていた彼は、その性格のすべてがあらゆる面で“裏目裏目”に出てしまったような印象を強く感じる。
荻外荘近衛文麿寝室.JPG
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 政治ではリーダーシップを発揮できず、軍部(特に陸軍)という「狼に出会うごとに一匹ずつ馬を殺して与えてい」きながら、戦争への道筋へと引きずりまわされた弱い性格が、あちこち転居を繰り返す生活スタイルにも、どこか表れているような気がしてならない。

◆写真上:1929年(昭和4)に竣工した、下落合436~437番地の近衛新邸応接間。
◆写真中上は、1924年(大正13)に竣工した永田町2丁目25番地の近衛邸。は、永田町の邸にはわずか5年足らずしか住まず再び下落合436~437番地に新築した近衛新邸。は、下落合にある近衛新邸の正門跡。
◆写真中下上左は、1995年(平成7)出版の大須賀瑞夫『首相官邸・今昔物語』(朝日ソノラマ)。上右は、1972年(昭和47)出版の岡義武『近衛文麿-「運命」の政治家-』(岩波書店)。は、1937年(昭和12)6月に第1次近衛内閣の記者会見にのぞむ近衛文麿。は、杉並区西田町1丁目42番地にある「荻外荘」のベランダから眺めたシダレザクラ。
◆写真下は、近衛文麿が自裁した「荻外荘」の寝室で、のちには仏間として使われていた。仏壇には、下落合ともつながりが深い近衛篤麿の写真が置かれていた。は、故・近衛通隆様とともにかつて「荻外荘」でお話を聞かせていただいた夫人の近衛節子様。
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大泉黒石が下落合にやってくるまで。 [気になる下落合]

溝口健二×大泉黒石「血と霊」1923.jpg
 大泉黒石Click!がぶっ飛んでいて面白いのは、ベストセラー作家になり原稿依頼が次々と舞いこみ多忙だったにもかかわらず、息子のひとり(大泉滉)と同様に俳優をめざしたことだ。今日ではめずらしくない“二刀流”だが、ベストセラー作家が活動(映画)俳優をめざすなど当時としてはありえないことで、彼が混血のハーフだったことによる“あいの子”差別ともあいまって、同業者(文壇)から反感をかったのではないか。彼が映画界に手をだしたことも、文壇から排斥されるきっかけになったのかもしれない。
 大泉黒石は1923年(大正12)5月、日本活動写真(のち日活)の俳優部を志望して、同社の向島撮影所へ入所している。もちろん、彼は世間に名の知られた作家であり、職業をふたつ持つことなど考えられない時代だったので、希望する俳優部ではなくシナリオライティングが専門の脚本部所属の顧問というポストへまわされている。人気の流行作家が映画会社に就職したということで、さっそく東京の新聞ダネにもなっている。
 当時の映画界は時代劇Click!が主流で、同時代の新派Click!と同様に女役も男の役者が演じるような環境だったが、大正中期の日活は松竹蒲田撮影所Click!から新進女優を引き抜いたり、『カリガリ博士』(R.ヴィーネ監督/1920年)などヨーロッパ前衛映画の影響を受けた作品の制作を試みたりと、時代の最先端をいく映画表現に挑戦する姿勢を見せていた。
 大泉黒石は、脚本部で『血と霊』という120枚ほどの短編を仕上げると、前年にデビューしたての新人監督だった溝口健二Click!と組むことになった。ちょうど、村山知義Click!がヨーロッパからドイツ表現主義を持ち帰り、月見岡八幡社Click!の南側にあたる上落合186番地の敷地へ「三角アトリエ」Click!を建設しているころだ。未来派美術協会Click!の解散から「マヴォ」Click!グループ結成と、大泉黒石のシナリオによる溝口健二『血と霊』の制作過程は、時期的にもみごとにシンクロしている。
 少し余談だが、大泉黒石によって築地小劇場へよくいっしょに連れていかれた息子の大泉滉は、1940年(昭和15)に制作された『風の又三郎』(島耕二監督/日活)の子役でデビューしている。戦後は杉村春子Click!のいる文学座Click!に所属して舞台や映画・ドラマで活躍することになるが、1952年(昭和27)に制作された溝口健二『西鶴一代女』(東宝)に出演し、田中絹代Click!と共演している。このとき、溝口健二が大泉滉へ父親と制作した映画『血と霊』について話題にしていたかどうかは不明だ。
 映画『血と霊』を溝口健二と制作しているのと同じ時期、大泉黒石は並行して『預言』を執筆している。だが、ちょうど関東大震災と重なってしまい、震災後に新光社から出版された同書(出版社が勝手に『大宇宙の黙示』とタイトルを変更してしまった)は、大震災の混乱の中で埋もれてしまいほとんど評判にならなかった。これは映画『血と霊』もまったく同様で、大震災直後の秋に公開されたため観客の入りがきわめて悪く、日活は以降、前衛映画の制作に二の足を踏むようになる。大泉黒石にとっては、重ねがさね不運な時代だった。
 このころの様子を、岩波書店から今年(2023年)に出版された四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』から、少し長いが引用してみよう。
  
 黒石が『預言』を世に問うにあたっては、いくぶん込み入った事情があった。関東大震災の直後、彼は瓦礫と化した雑司ヶ谷(ママ)に疲れ、郊外の下長崎(ママ)に転居。気分を一新して執筆を開始したまではよかったが、刊行にあたっては大震災の出版業界の混乱が災いした。/一九二四年四月、以前に『老子』で大評判を得た新光社がこれに飛びつき、大急ぎでそれを出版した。ところが困ったことに、出版社は作者の主張する『預言』という題名を無断で『大宇宙の黙示』という表題に変更して刊行したのだった。この鬼面人を驚かす題名は、あわよくば『老子』の二番煎じを狙ってのことである。杜撰なのは題名だけではなかった。書物には目次も章立てもなく、校正が不充分であったのか恐ろしく誤植が目立った。黒石は「自序」のなかで「文壇に対する私の心には、今や、軽蔑と冷笑のほかには何もない」と大見得を切ったものの、文壇からの反響はなく、大震災後の騒然とした雰囲気のなかで、『大宇宙の黙示』は何の話題にもならず埋没してしまった。
  
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 まず、「下長崎」は「南長崎」(当時は長崎村字椎名町)、あるいは「下落合」のどちらかだと思われる。文中では、「瓦礫と化した雑司ヶ谷」と書かれているが、東京郊外の高田町雑司ヶ谷は関東大震災による被害は軽微だった。
 もっとも大きな被害は、薬品棚が倒れ学習院の特別教室が全焼したもので、あとはレンガ造りの建物や脆弱な住宅などの外壁が崩れたか、場所によって住宅の屋根瓦が落ちた程度だった。建物の倒壊も見られず、したがって雑司ヶ谷地域では死者が出ていない。ちなみに、落合地域の被害は農家の古い納屋が2軒倒壊しただけで、死者は高田町(雑司ヶ谷)と同じく記録されていない。東日本大震災のときにも感じたことだが、東京市街地と丘陵地とではそもそも震動の規模が異なっていたとみられる。
 1923年(大正12)現在、雑司ヶ谷にあった当初の大泉邸の住所番地は不明だが、雑司ヶ谷鬼子母神Click!秋田雨雀邸Click!からほど遠からぬ位置にあったことはまちがいない。ちなみに、『俺の自叙伝』(岩波書店版/2023年)には華族の三条邸裏(北側)と書いてあるので、高田町(大字)雑司ヶ谷(字)美名實あるいは高田町(字)若葉(高田若葉町)のいずれかだと思われる。大泉黒石は、同業の文学者や、「鬼子母神森の会」Click!のサークルのように地元に住んでいた作家や画家たちと交流することはほとんどなかったが、秋田雨雀Click!の家にはちょくちょく遊びに寄ったようだ。そのためか、彼のトルストイ主義的アナキズム思想とも相まって、黒石はこの時期から警察にマークされるようになる。
 大泉黒石は、同じ雑司ヶ谷町内で一度転居している。そのころの生活の様子を、1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』第3巻の付録、「黒石廻廊/書報No.3」に収録された黒石の長男・大泉淳「父、黒石の思い出」から少し長いが引用してみよう。
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 家の屋根に登れば鬼子母神の森が望めた程の距離であったから、父はよくそこに出かけた。父は子供達への愛情は大変強かったので、鬼子母神には自ずから足が向いたのであろう。その参道の欅並木に挟まって雀焼きの店があって、父は雀焼きをよく買って帰って酒の肴にしていた。/その後、私共は鬼子母神と池袋の中間辺りに引越した。(中略) ここでは、父は好んで和服を着ていた。背恰好、風貌は全く日本人離れしていたから、和服を着て外を歩く父を人々は振り返って見ていた。(中略) 家の後ろの程遠からぬ所を武蔵野鉄道が走っていて、時々、私は弟の灝を連れて電車を見に行った。(中略) その後、私共は東長崎(ママ)の茶畑にぽつんとある西洋館に引越した。この頃父の名も売れて、仕事が本調子になって来ていたのであろう。と言うのは、家の構えはその頃には珍しくハイカラな洋館で、ピアノを始め家具調度も然るべく整っていて、離れた所にある何軒かの人たちから、私共は坊っちゃん、坊っちゃんと呼ばれるようになっていた。私は武蔵野鉄道に乗って雑司ヶ谷の小学校に通っていたが、朝、父が駅まで見送りに来てくれることが屡々だった。
  
 高田町雑司ヶ谷の中で転居した先は、武蔵野鉄道の線路内に子どもたちが侵入できる地域(大泉淳は一度汽車に轢かれそうになっている)だから、おそらく池袋駅も近い(大字)雑司ヶ谷(字)御堂杉か(字)西原のどちらかだろう。
 この文章では、新たに「東長崎」という名称が登場している。もちろん、大正期の長崎村にこのような地名も字名も存在していないので、武蔵野鉄道の駅名だとすると、同駅から近い長崎村(字)五郎窪あるいは(字)大和田ということになる。だが、長崎村の転居先については「椎名町」、あるいは「南長崎」とする大泉淳の証言もあるようなのだ。息子が武蔵野鉄道で雑司ヶ谷の高田第一小学校へ通うために、大泉黒石がしばしば見送った駅は東長崎駅か、または椎名町駅のどちらだったのだろう?
 また、当時の長崎村は清戸道Click!(現・目白通り)沿いの(字)椎名町を除いては、一面の田畑が広がる農村地帯だった。したがって、文中に書かれているようなハイカラな西洋館が建っていたとすれば、そして同邸の主人が「全く日本人離れ」した風貌をしていれば、雑司ヶ谷のリヒャルト・ハイゼClick!が住んでいた「異人館」Click!と同様に、地元の人たちに強烈な印象を残しているはずだが、わたしは長崎地域でそのようなエピソードを一度も聞いたことがないし、資料類でも目にした憶えがない。おそらく、大泉一家の長崎村ですごした時期が短かったため、語り継がれるほどの印象を地元に残さなかったのだろう。関東大震災からほどなく、一家は下落合(現・中落合/中井含む)へと転居してくることになる。
大泉黒石とその子どもたちばかりでなく、黒石の研究者も彼の転居先やそこでのエピソードについて混乱していることが判明した、詳細はこちらの記事Click!へ。
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 大泉淳は、林芙美子の『柿の実』(1934年)を意識したのか、「父が酒に溺れていたことはない」とわざわざ書いている。むしろ、健康には留意して生活し執筆をしていたと、林芙美子へ間接的に“反論”しているようだ。また、大泉黒石はよく即興で自己流のピアノを弾いていたらしい。今日的な表現をすれば、黒石はJazzyな演奏をしていたのだろう。下落合2130番地でも、大泉邸からは黒石のJAZZが流れて五ノ坂あたりまで聴こえていただろうか。

◆写真上:1923年(大正12)秋に上映された大泉黒石×溝口健二監督によるドイツ表現主義的映画『血と霊』(日活)だが、大震災の混乱で興行は失敗だった。
◆写真中上上左は、1923年(大正12)に新光社から出版された大泉黒石『大宇宙の黙示』(出版社がタイトル『預言』を勝手に改変)。上右は、1926年(大正15)に雄文堂出版から改めて刊行された大泉黒石『預言』中扉。は、1919年(大正8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の表参道。は、同年撮影の雑司ヶ谷鬼子母神境内。
◆写真中下上左は、雑司ヶ谷時代とみられる大泉黒石。上右は、1929年(昭和4)出版の大泉黒石『当世浮世大学』(現代ユウモア全集刊行会)。は、『当世浮世大学』の前川千帆Click!による挿画。は、1935年(昭和10)ごろ撮影の東長崎駅。
◆写真下は、1919年(大正8)に撮影された椎名町駅の近辺。当時はほとんどが田畑で、東京郊外の田園地帯だった。は、1935年(昭和10)ごろ撮影された椎名町駅。

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大鍛冶(タタラ)集団による操業は千人規模? [気になる下落合]

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 目白崖線に残る、古代か中世かは不明だがタタラ遺跡Click!とみられる金糞=鐵液Click!が出土した3地域について、少し前の記事に書いた。また、神奈(鉄穴)流しを必要とせず、あらかじめ良質の砂鉄が堆積している天然の神奈(鉄穴)流し場について、香取神宮の金久保谷と目白駅Click!のある金久保沢Click!についてもつづけて記事にしている。
 その際、各地を移動して目白(鋼)Click!を製錬した古代の大鍛冶(タタラ)集団は、100人単位の大所帯だったのではないかと書いた。そのヒントとなるような数字が、1885年(明治18)の出雲地方で記録されている。まず、大鍛冶(タタラ)を専業としていた小村の記録から見てみよう。島根県飯石郡吉田村吉田菅谷の菅谷タタラ集落では、戸数が34戸で158人の村人が生活していた。そのうち、労働人口は52人で、大鍛冶(タタラ)を専業とする職に携わっていた人は32名となっている。残り労働人口20名は山仕事や農作業などで、他の106人はその扶養家族あるいは仕事をもたず地域で扶養していた人々だ。
 大鍛冶(タタラ)にかかわる32名(32戸)の内わけは、次の表のとおりだ。
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 この32名が、大鍛冶(タタラ)作業をするすべてではない。彼らは、その多くの役職が部門長格であり、その下に派遣職工(アルバイト職人)として村外から参加する、一時雇いのスタッフたちが周辺地域に数多く存在している。たとえば、足踏み鞴(ふいご)を24時間(×3日間)にわたって約2時間(1刻)交代で踏みつづけ、大鍛冶(タタラ)作業ではもっともきつい力仕事のひとつである、代番子(かわりばんこ)が含まれていない。彼らは、周辺の地域から集められた健脚自慢の人たちだったろう。
 読者のみなさんはすでにお気づきかと思うが、なにかの行為を交代で担当することは「かわりばんこ」であり、「たたらを踏む」「ひょっとこ(火男)」Click!などと同様に現代に伝わるタタラ用語のひとつだ。また、菅谷タタラ場の山子は、単に山の樹林を伐採して炭焚(炭焼き)に引きわたすだけでなく、菅谷地域に定住している彼らは、伐採した跡地には数十年後に再び樹木を調達できるよう、積極的に植林作業も行っていたと思われる。
 1885年(明治18)ごろ行われていた、政府から支給される大鍛冶(タタラ)の特別手当ては、村下の最高責任者が米9合/日、炭坂(副村下)の初心者が2合/日で、ベテランになればなるほど炭坂は米1合/日単位で増え、村下に近い特別な扶持米が与えられていた。これらは上席の特別な賞与だが、各職工の通常の日当(通常の生活費)は、村下・炭坂・炭焚・番子が1升2合/日、鋼造・内洗が1升/日などと決められていた。もちろん、これだけでは食べていくのがきついので、家族たちは神奈(鉄穴)流しが行われなくなった跡地などを利用して耕し、田畑で米や野菜などを栽培していたのだろう。鉄の需要が急増し、もっとも景気がよかった日露戦争(1904~1905年)のころは、扶持米に代わり賃金が支払われたようで、村下が10銭/日、炭坂が8銭/日という記録が残っている。
 近世に入ると、わざわざ砂鉄を採集する神奈(鉄穴)流しでは、短期間で十分な砂鉄量が集まらないため、各地で営業する砂鉄採集の専門業者から大量に購入したり、周辺の山々の樹木を伐採して木炭を焼けば、すぐに森林が丸裸になってしまうので、製錬に必要な不足分の莫大な木炭を炭業者へ注文したり、タタラ炉を築造する鑪土(粘土)を集めるのは非常に手間と労力がかかるので、粘土の専門業者へ発注したり、山火事や火災などで燃えた焼木(やけぎ)を、生木よりも短時間で木炭化が可能なためどこからか調達したりと、大鍛冶(タタラ)集団自体の作業も非常に効率化・省力化され、大幅に分業化が進捗していたのがわかる。
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 これらをひとつの大鍛冶(タタラ)集団のみでまかなうとすれば、すぐにも100人単位の人数が必要なことは自明だろう。明治期には、ここまで生産性の向上による作業の省力化・分業化が進んでいたが、古代の大鍛冶(タタラ)が製錬事業を行うためには、厖大な職人や労働力が必要であり、その移動はちょっとした“民族の大移動”だったろう。
 明治期の出雲に残った菅谷タタラ場では、不足する資材を専門業者から大量に仕入れ、それでも足りない人材を数多く臨時雇用していたが、その人数は各職で123人にもおよんだ。これに、菅谷タタラの専門職の責任者たち32人を加えると、近現代でさえ大鍛冶(タタラ)を行うのに合計155人のスタッフが必要だったことになる。明治期の、かなり効率化され省力化された大鍛冶(タタラ)作業でさえ、150人以上の人員が必要なことを考えると、古代の作業ではどれほど多くの人員を必要としたのかがおおよそ見えてくる。
 彼ら大鍛冶(タタラ)の作業には、少なくとも200人を下ることはなかっただろう。この200人という数字は、あくまでも大鍛冶(タタラ)の仕事を直接手がける職人数であり、その家族たちを含めれば大規模な集団を想定することができる。上記の菅谷タタラ場をモデルとすれば、集落の人口158名のうち52名が労働人口であり、大鍛冶(タタラ)仕事を専業としているのが32名で他の職(林業など)が20名と記録されているから、単純な比率計算をすると大鍛冶の家族は97名、その他の家族は34名(=計158名)という見当になる。つまり、大鍛冶(タタラ)1人あたりの家族構成は、平均3.031名ということになる。
 これを、古代の大鍛冶(タタラ)集団に当てはめるのはかなり乱暴な気もするが、父母に子どもひとりの3人家族としても、200人の大鍛冶(タタラ)職人の集団には400人以上の家族、つまり最低でも計600人余の集団の形成を想定することができる。複数の子どもや老人たちを想定すれば、各地を移動する集団はさらに大規模なものになっただろう。もちろん、当時の乳幼児死亡率は現代と比べものにならないし、老人の平均寿命も短かったにちがいないので、単純に5~6人家族を想定するわけにはいかないが。
 さて、菅谷タタラ場にある村下家系の堀江家には1883年(明治16)に記録された、一度の大鍛冶(タタラ)作業で購入した資材などの物品(分業化が進み専門業者から購入)、およびその際に雇用した職人や人夫へ賃金を支払った支払台帳(「製鋼所壱代ニ付入用物件及代価」/雲南市教育委員会所蔵か?)が残っている。以下、その項目を一覧表化してみよう。
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 ここに記録されている砂鉄や木炭、鑪土(粘土)などの資材数値は、これがすべてではなく菅谷タタラ場周辺で採れたそれら地元の資材や人材に加え、これらの資材と人材を他所から調達している数値(入用物件及代価)だとみられる。
 この中で、「村下」と書かれているのは、タタラの製錬炉を監督する他の地域から招いた村下、あるいはベテランの炭坂(村下助手)が含まれているとみられる。それだけ、作業規模が大きめな大鍛冶(タタラ)作業だったのではないだろうか。また、番子が18人ということは、1つの炉に3人ひと組で2時間おきの「代番子(かわりばんこ)」が通常だから、5~6つのタタラ炉を構築して同時にパラレルで操業した可能性が考えられる。
 また、堀江家には大鍛冶(タタラ)事業における、年間の支出と収入を記録した収支決算書(1883年度)が伝わっている。以下、明治期の大鍛冶(タタラ)の営業成績を見てみよう。
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 これでは43.7%もの大赤字となり、まったく事業の採算がとれていなかったことがわかる。それでも、菅谷タタラ場がつぶれなかったのは、良質な銑鉄や鉧(けら)、目白(鋼)に対する兵器生産の需要が、当時は国家事業として重要視されていたからだ。菅谷タタラ場の大鍛冶(タタラ)操業は、1921年(大正10)までつづけられている。
 明治期には、おもに海軍を中心に貫通力の高い徹甲弾の開発が進んでおり、鋼を弾頭に装着することで、敵艦の頑丈な装甲を貫通する砲弾の研究が行われていた。その徹甲弾に用いられる良質な鋼は「玉(弾)鋼」と呼ばれ、刀剣に使用する目白(鋼)とほぼ同質のものが使われていたという。明治以降、現代にいたるまで刀剣に用いられる良質な目白(鋼)のことを「玉鋼」と表現するのは、当時の呼称が慣例化したものだ。
 良質な銑鉄や鉧、そして目白(鋼)を製錬する大鍛冶(タタラ)集団が、地域の有力者や政治勢力、各時代の武家幕府、あるいは近代国家などの政治権力に優遇されたのは、いつの時代でも変わらず同様だったろう。ちょうど、徳川幕府の庇護を受けた佃島Click!の漁民たちが、室町期の江戸城下(太田道灌)Click!のころから操業をつづける地元の漁民たちとの間で、少なからず対立Click!を生じたのと同様に、もともとその地域に住んでいた農耕民や林業民と大鍛冶(タタラ)集団との間には、数多くの深刻な軋轢や訴訟沙汰を生んでいたにちがいない。
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 目白崖線に沿った河川を遡上していく大鍛冶(タタラ)集団が600人以上、ときには1,000人規模の集団であったとすれば、地域で生活する村単位の農民たちだけでは、とても彼らに対抗できなかったにちがいない。ましてや、彼らが権力者から庇護される職能集団であれば、農民たちはどうすることもできず、彼らのすることを黙認せざるをえなかったのではないだろうか。また、タタラ集団が大規模であった場合、構成メンバーの全員が一度期に移動するのではなく、次のタタラ操業地に適した場所を捜索する探鉱グループ(山師)Click!や、樹木を伐採して炭を焼く山子・炭焚集団が“本隊”に先行するケースもあったかもしれない。

◆写真上:島根県飯石郡吉田村菅谷地域(現・雲南市吉田町)に残る菅谷タタラ場の集落。現在は「鉄の歴史博物館」Click!が開館し、往年の面影を伝えている。
◆写真下:『もののけ姫』(宮崎駿監督/1997年)に描かれた、室町期とみられる大鍛冶(タタラ)の移動集団。同作でも、明らかに出雲と思われるタタラ場が舞台として登場している。上から下へ、崖地での神奈(鉄穴)流し、炭焚(炭焼き)、そして丸型製錬炉によるタタラ操業。現代のタタラでは、丸型の炉ではなく角型の炉で砂鉄を製錬するのが一般的だ。

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