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二二六事件の関連将校が下落合にもうひとり。 [気になる下落合]

田中邸跡.jpg
 二二六事件Click!を調べていて、もうひとり皇道派Click!ではないがその思想に共鳴する、下落合で生まれ育った将校がいたことに気づいた。事件当時は、陸軍参謀本部付きで陸軍大学校の教官だった、歩兵大尉の田中彌(わたる)だ。
 二二六事件については、これまで岡田啓介首相Click!が官邸を脱出し、下落合1丁目1146番地の佐々木久二邸Click!に潜伏していた様子や、蹶起した将校のひとりで陸軍豊橋教導学校歩兵学生隊付きの竹嶌継夫中尉Click!の実家が、上落合1丁目512番地にあった関係からときどき記事にしていた。だが、田中彌は生まれも育ちも下落合であり、この東京の慣例的な表現Click!でいえば“落合っ子”ということになる。
 田中彌は、1900年(明治33)に落合村下落合299番地で生まれている。当時の地勢にあてはめていえば、いまだ相馬孟胤邸Click!が存在していない御留山Click!の東側斜面に建っている、藤稲荷社Click!(東山稲荷)の南西山麓に位置する番地で、鎌倉街道の支道・雑司ヶ谷道Click!に面した家屋だ。ただし、父親の田中小三郎も陸軍軍人だったため、転勤によるものか一時的に長野へ赴任していたようで、田中彌は旧制上田中学校(現・上田高等学校)へ通っているが、その後ほどなく東京へともどり陸軍幼年学校へ入学している。
 1936年(昭和11)2月に起きた二二六事件の当時は、生家だった下落合299番地の住居表示は淀橋区下落合1丁目299番地となり、裁判記録(起訴状や判決文など)に記載された本籍地も同表記になるが、田中一家はすでに下落合から他所へ転居したあとで、田中彌は1936年(昭和11)現在、一家をかまえ陸軍大学校(北青山)への通勤の便を考えたものか、渋谷区代々木初台町540番地に自宅があった。
 生家は明治期の下落合なので、おそらく就学年齢になった田中彌は落合尋常高等小学校Click!へと通っているのだろう。1907年(明治40)で就学しているとすれば、『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)のグラビアに掲載されている、明治期の古い校舎に通っていたはずだ。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を参照すると、すでに田中邸は見あたらず、下落合299番地には「殿井」「河西」「古川」の3つの名前が採取されているので、田中家はそれ以前の明治末か大正期に入って転居しているのだろう。1936年(昭和11)の二二六事件当時は、陸軍大学の教官を勤めており36歳の若さだった。
 1931年(昭和6)の三月事件と十月事件、1932年(昭和7)の五一五事件、1934年(昭和9)の陸軍士官学校事件、1935年(昭和10)の相沢事件、そして1936年(昭和11)の二二六事件Click!と、陸海軍の青年将校たちによるテロルやクーデター計画が立てつづけに起きる中で、田中彌は参謀本部を中心とした「桜会」のメンバーとして三月事件にも関係しているが、その姿がハッキリと事件の中心人物として表面に現われるのは、1931年(昭和6)の十月事件だ。田中彌は、同事件で具体的な行動計画案を立案している。その様子を、1964年(昭和39)に日本週報社から出版された前田治美『昭和叛乱史』から引用してみよう。
  
 行動計画案は、田中弥大尉が作成に当ったといわれる。/十月十二日の夜、行動計画案をねるために大森の料亭『松浅』に、橋本<欣五郎>中佐を中心に、長勇少佐、馬奈木敬信大尉、田中弥大尉、田中清大尉らが出席し、田中弥大尉の作成した行動計画案を中心に共同謀議が行なわれた。/その夜決定した行動計画は次のようなものであった。/一、決行の時期……十月二十一日(ただし、日中に決行するや払暁とい可きやは一に情況による)/二、参加兵力……将校百二十名、歩兵十個中隊、機関銃二個中隊(参加兵力中大川<周明>に私淑せる中隊長は一中隊全部を以て、また西田税に血盟せる将校は殆んど所属中隊全員を以てす)/三、外部よりの参加者……大川一派、西田および北<一輝>の一派、海軍将校の抜刀隊約十名、海軍爆撃機十三機、陸軍機三~四機。/四、襲撃目標/(1)首相官邸……閣議の席を急襲し首相以下を斬殺――長少佐を指揮官とす。/(2)警視庁の占領……小原大尉指揮。/(3)陸軍省、参謀本部の占拠包囲……外部との連絡を遮断。/(4)報道、通信機関の占拠。/五、軍政権樹立行動<以下略>(< >内引用者註)
  
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昭和初期陸軍系譜1975「昭和陸軍派閥抗争史」.jpg
 ところが、決行日が近づくにつれ計画のずさんさが目立ちはじめ、実行部隊からの脱落者が続出することになった。『松浅』での会合は、参謀本部側の主導者と在京の近衛師団Click!第一師団Click!、憲兵隊(憲兵学校Click!)などの青年将校たち、陸軍戸山学校Click!や砲工学校、歩兵学校の若手将校たちなどの初顔合わせに近く、ネゴシエーションが不十分だったのに加え、意見対立を抱えたままの行動計画案の提示だった。
 つづいて1931年(昭和6)10月15日の夜、渋谷の料亭『銀月』で開かれた参加将校たちの集会では、計画の不備や思想的な対立で激論となってしまい、陸軍皇道派や憲兵隊の将校たちは蹶起に不参加、脱退を表明するにまでなってしまった。確かに、上記の行動計画は既存の政体の破壊だけで、なんら建設的な展望や新しい国家建設の計画が含まれておらず、「否定」ばかりで「対案」が存在しない空想的な計画書だったからだ。
 また、参謀本部の「桜会」がカネをふんだんにつかい、連日連夜、若手将校たちを集めては高級料亭で派手に豪遊するのを不愉快に感じた将校たち(彼らは参謀本部の将校たちのことを“宴会派”と呼んで軽蔑した)は、反感や不信感とともに計画から離れていった。しかも、この料亭豪遊はすでに警視庁や憲兵隊に察知されており、当時の内相・安達謙蔵をはじめ陸軍省や参謀本部の中枢にも計画は漏れていた。10月17日には、計画の首謀者だった橋本欣五郎や田中彌などが憲兵隊に一斉検挙されている。
 だが、未遂に終わったとはいえ政党政治の破壊と、閣僚の殺害予定を含むクーデター計画への罪状としては、橋本欣五郎中佐が重謹慎20日、田中彌と長勇の両大尉が重謹慎10日という軽い処分で、参謀本部を中心とした「桜会」は解散を命じられたとはいえ、その勢力がいまだ根強かったことがうかがわれる。この事件のあと、首謀者たちは地方・海外勤務や「満洲」に転勤させられた。田中彌は、1932年(昭和7)からポーランドの日本大使館付きに、翌1933年(昭和8)にはソ連の大使館付き駐在武官補佐官となり、翌1934年(昭和9)12月には帰国して陸軍大学校の教官に就任している。
 そして、1936年(昭和11)2月に二二六事件が勃発すると、陸軍部内では統制派に所属していた田中彌だが、各方面に向けて赤坂郵便局から「帝都ニ於ケル決行ヲ援ケ、昭和維新ニ邁進ス」と、蹶起をうながす檄文電報を発信している。ふつうに考えれば自明のことだが、逓信省の郵便局から平文(普通文)で電報を打ったりしたら、その内容からすぐに不審に思われるのはあたりまえだが、案のじょう電文を怪しんだ東京中央郵便局により、各地への発信は同局内で押さえられた。また、蹶起部隊と戒厳司令部との仲介を試み、蹶起部隊が有利になるよう工作も行っているが、二二六事件の終結後に検挙され同年8月に起訴されている。
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第三第一聯隊原隊復帰.jpg
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 だが、田中彌は軍法会議への起訴後、判決の日を迎えることなく1937年(昭和12)10月18日に自宅で拳銃自殺をしている。この自決について、田中彌が打電した先、あるいは背後で連携していた陸軍幹部や幕僚たちに累が及ぶのを避けるためとしている資料を見かけるが、それではまったく説明がつかない。赤坂郵便局から発信された電報は、東京中央郵便局で差し押さえられ憲兵隊が入手済みで、受信先の人物はとうに判明していただろうし、すでに憲兵隊による聴取は済み、8月の起訴後には軍法会議が開廷していたのであって(起訴状の内容も知っていただろう)、取り調べや法廷で証言する機会、つまり田中彌の口から連携していた人物たちの名が漏れる機会は、すでに終了していたのだ。
 田中彌は、起訴後に保釈されて自宅ですごしており、すなわち現代の司法でいう在宅起訴の状態にあり、他の事件への協力者ケースと同じく禁固3~5年ほどの刑期だったとみられ、ことさら重罰が下されるとは思えないこと、特に本人から精神的に追いつめられているような様子は見られなかったことなどから、自殺の原因は不明のままとなった。以下、1937年(昭和12)10月19日に開かれた軍法会議の、田中彌に対する判決文を引用してみよう。
  
 決定/本籍 東京市淀橋区下落合一丁目二百九十九番地/住所 東京市渋谷区代々木初台町五百四十番地/参謀本部附 陸軍歩兵大尉 田中 彌(後略)
 主文/本件公訴ハコレヲ棄却ス/理由/本件公訴ハ、被告人ガ、昭和十一年二月二十六日、東京ニ於ケル村中孝次、磯部浅一等反乱事件ニ際シ、反乱軍ノ企図セル維新断行ノ目的ヲ達成セシメンガタメ、同日、東京市赤坂郵便局ニ到リ、友人歩兵大尉中馬太多彦ソノ他数名ニ対シ、帝都ニ於ケル決行ヲ援ケ、昭和維新ニ邁進スル方針ナル旨ノ電報頼信紙ヲ提示シ、又前掲村中孝次ヨリ、蹶起将校等ハ歩兵第一聯隊ニ撤退スルヲ肯ゼザルニツキ、部隊ヲ内閣総理大臣官邸附近ニ終結セシメラルルヤウ、尽力セラレ度キ旨懇請セラレ、戒厳司令部ニ到リ、同人ノ希望ヲ伝達スル等、反乱者ニ軍事上ノ利益ヲ与ヘタリトイフニアレドモ、被告人ハ、昭和十一年十月十八日死亡シタルコト、被告人所属参謀本部ヨリノ通牒並ビニ死亡診断書ニヨリ明ラカナルヲ以テ、陸軍軍法会議法第三百九十九条第二号ニヨリ、控訴棄却ノ言渡ヲナスベキモノトス。(以下略)
  
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 この判決文を見ても、田中彌への捜査および本人の供述は結了しており、軍人という立場や矜持から、法廷で裁判長・若松只一陸軍歩兵中佐からの罪状認否に、「まちがいありません!」と答えたであろうことも想定できる。あるいは、有罪判決を受けて陸軍を免官になるのが、本人にとっては絶望して自決するほどに、残念無念なことだったのだろうか?

◆写真上:明治期まで田中彌の実家があった、下落合299番地の現状。
◆写真中上は、1928年(昭和3)の陸軍大学校卒業者名簿。中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合299番地で「田中」のネームはすでにない。中下は、1907年(明治40)撮影の落合尋常高等小学校の卒業写真。は、1975年(昭和55)出版の今西英造『昭和陸軍派閥抗争史』(伝統と現代社)の陸軍派閥系譜図。
◆写真中下は、1936年(昭和11)2月26日に撮影された蹶起部隊。は、1936年(昭和11)2月28日に“原隊復帰”する麻生三聯隊(上)と麻布一連隊(下)の兵士たち。は、下落合の佐々木久二邸から参内直後の岡田啓介首相。
◆写真下上左は、三月事件・十月事件と二二六事件に関与し自決した田中彌大尉。上右は、1952年(昭和27)に出版された立野信之Click!『叛乱』(六興出版社)。は、1937年(昭和12)10月19日に開廷した軍法会議における田中彌への判決全文。下左は、二二六事件に参加して処刑された安田優陸軍砲兵少尉。下右は、1936年(昭和11)7月12日に遺族とともに同行した彫刻家・長田平治が制作した安田優少尉のデスマスク。

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落合第一尋常小学校の校長ボコボコ事件。 [気になる下落合]

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 1928年(昭和3)1月28日に、上野精養軒Click!では全国校長会や全国教育51団体の主催による、中学校の「試験撤廃祝賀会」が開かれていた。その会場で、落合第一尋常小学校Click!の校長・大塚常太郎は、同祝賀会に参加していた同役職の小学校長たちから、ボコボコに殴られヒドイめに遭っている。冗談のような話だが、事実だ。
 小学校の校長たちによる、ひとりの校長への集団暴行なので立派な刑事事件だが、大塚校長は警察には被害とどけを出さなかったらしい。そのかわり、この年の3月を最後に落合第一尋常小学校を辞め、同校には新校長として佐口安治が就任している。大塚常太郎は、その後も東京市内の小学校校長を歴任しているので、この事件をきっかけに教師を辞めてしまったわけではない。では、なぜこんなことが起きてしまったのだろうか?
 大正末から昭和初期にかけ、小学校から中学校へ進学する際の受験戦争が、子どもの親たちまで巻きこんで過熱していた。ちょうど、1960~1970年代に登場した「教育ママ」「教育パパ」に象徴される、大学受験戦争のようなありさまだったようだ。当時の中学校は5年制で、それを終えると高等学校に進むわけだが、当時の高校は現代とは異なり大学の予科に相当するので、進学校の中学校(現代の高校に近い感覚)に入学できれば、次の進学先である大学への切符を手に入れたも同然だった。
 だから、小学校時代から親たちは中学受験に向けて子どもの尻をたたいていたわけで、最初から尋常高等小学校を卒業したら働きはじめる子どもたちは別にして、中学校への進学組は教師たちも特に目をかけ力を入れて教えていたのだろう。そのあまりに加熱しすぎた受験戦争に待ったをかけたのが、文部省や各種教育団体だった。すなわち、中学の入学試験撤廃を打ちだしたのだ。中学への入学は、小学校の校長から送られてくる内申書(成績+生活態度)のみを判断材料に、入学者を決定するよう通達が行われた。
 ところが、頭を抱えてしまったのが当の中学校だった。少し考えればわかることだが、Aという小学校でトップの成績を修めた生徒でも、Bという小学校では中程度に相当しかねないことは、地域や学区ごとに学力がてんでバラバラな状況を見れば明らかだった。だが、A小学校もB小学校も成績優秀生徒には、両校とも「特等」の内申書を作成することになる。だから、中学校側としては、A小学校の「特等」生徒をそのまま入学させてしまうと、より優秀な生徒が入学機会を奪われてしまうのではないかと懸念した。
 また、もうひとつ別の問題も生じていた。中学受験が、小学校の内申書しだいになるのを知った親たちの間では、校長や教師たちへ盆暮れの付け届けはもちろん、料亭やレストランに招いては高額な酒食でもてなすなど、常軌を逸した接待攻勢が聞かれるようになっていく。事実、小学校から中学校への進学を希望する生徒たちの内申書が、ほぼ全員トップクラスの成績というような、当時の用語でいえば「情実地獄」のありえない小学校も出現している。中には、最優秀の「特等」成績を修めた生徒が、なぜか20人もいる小学校さえあった。また、先手を打つと称して、進学希望先の中学校にいる校長や教師たちの自宅にまで押しかけ、贈物・接待攻勢に乗りだす親たちまでが現れた。
 裏口入学の詐欺師も登場している。「どこそこの中学校には顔がきくので、おカネをあるていど積めば内申書が悪くてもなんとかなる」……と親の弱みにつけこみ、同年3月28日付け東京朝日新聞によれば、「試験地獄が生んだ驚くべき新犯罪」の見出しで、情実入学をネタに500~1,000円(物価指数をもとに現代価値に換算すると31万8,000~63万6,000円)を、多くの親たちから騙しとった事件の記事が掲載されている。
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 受験戦争をなくそうと試みられた中学校の入試廃止だったが、教育現場の腐敗=「情実地獄」を招きかねない事態を見るにつけ、文部省の態度は急にグラグラしはじめる。中学校側も、これでは生徒の実力がわからないので、入学試験と同等の各種諮問をやるけどいいよね?……と文部省に念押しし、結局、大多数の中学校では実質的な入学試験がそのまま継続している。文部省は、その動きに対して「交渉の度毎に態度が変る」を繰り返し、結局、ほぼ全中学校での名称を変えた入学試験を黙認するかたちとなった。東京府立第一中等学校の川田校長が、同年3月の入試について談話を発表している。
 「今度の様に試験課題から採用決定までに苦心したことはない……小学校で一番を十人も二番を十五人も作つたところがあるとの事だ。何れを甲、乙と決め難いからといふことだが内申を受けた方は鳥渡考へさせられる。僕のところなどにも父兄が訪問にきて物を置いて行き一々それを返送するのにどれ位骨が折れたか知れない」。
 このような状況や流れの中で、上野精養軒での全国小学校長会などが主催した冒頭の「試験撤廃祝賀会」だったのだ。会場には、鳩山一郎首相代理や永野修身文相、平塚広義東京府知事らが出席して行われ、永野文相が「我々は教育の本義の上からも児童育成の上からも、今日試験地獄の名ある現制度を改革する必要ありとして改正を断行した次第でありまして、敢て世論の非難を恐れず実施した次第であります」と挨拶した。けれども、試験廃止に異議を唱えているのは「世論の非難」ばかりでなく、当の受験される中学校側の廃止反対や教育現場の腐敗を懸念する強い批判だった。
 さっそく、中学校側の出席者からヤジが飛び、入試廃止を推進してきた教育評論家たちとの間でケンカに近い激しい応酬となった。誰も永野文相のあいさつなど聞いてはおらず、会場は乱闘寸前の混乱状態になったようだ。そんな緊迫した状況の中で、どうやら教育現場の腐敗=「情実地獄」に腹を立て、中学校の入試廃止には反対だったらしい落合第一尋常小学校Click!の校長・大塚常太郎は、不用意なことを叫んでしまったようだ。
 以下、1929年(昭和4)出版の『昭和年史/昭和三年』(年史刊行会)から引用しよう。
  
 (永野文相が)手前みそをならべたにもかゝわらず、席上中学校長側と教育評論家協会側との間に激論が起こつたり、或は府下落合小学校長大塚氏が「預つてゐる生徒全部に満点の成績をくれても之を取締る規則がない」と情実の猛烈になつて来ることを皮肉つただけで、同席の他の小学校長から「馬鹿なことをいふ奴はなぐれ」といつて乱打されたり、全くお話にならない混乱に陥つた。此の混乱は実に新制度の未熟と欠陥に起因してゐるものと見るべきであつた。(カッコ内引用者註)
  
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昭和三年史1929.jpg 学校から実社会へ我が児に何を為さしむべき乎1927章華社.jpg
 もう、上野精養軒の会場は昭和初期の戸塚町議会Click!にも似た、格闘技リングと化してしまったようだ。自分の意見に反対の者は殴って血を流させて黙らせるという、しごく単純でフィジカルな「論理」だ。落合第一尋常小学校の大塚校長は、美味しい思いをして「入試廃止」賛成の小学校長たちの間にまぎれこんだためヒドイ目に遭ったのか、それとも当時はほとんどの小学校長が「入試廃止」に賛成で、全国校長会も組織全体の統一見解としてそれでまとまっており、大塚校長のような存在が“異端”だったのかはさだかでないが、少なくとも学校長ともあろう者が、寄ってたかってひとりの校長を「乱打」するなど、上掲の文章のとおり「お話にならない」常軌を逸した行為だろう。
 混乱の様子は、さっそく翌日の新聞でも詳しく報道されているようだが、会場でボコボコにされた大塚校長に対して、落合第一尋常小学校に子どもを通わせていた親たちはどのような感慨をおぼえたのだろう? 学校へ「情実地獄」の攻勢をかけるには、カネ持ちや地域の有力者が有利なことはいうを待たず、ふつうの勤め人家庭の親たちにしてみれば、子どものためにしてやれることには限界がある。そんなふつうの親たちから見れば、「大塚校長よくぞ叫んでくれた!」と歓迎されそうだが、このボコボコ事件のわずか2ヶ月後に、大塚校長は落合第一尋常小学校から転出している。
 結局、文部省が「入試廃止」を決めたにもかかわらず、中学校では入学試験に代わり「筆記諮問」と「口頭試問」=表現を変えた入学試験がつづくという、ほとんど詐欺のような結果に終わった。同年の教育専門誌「教育」6月号(茗渓会)は、以下のように総括している。
  
 当局の弁護なるもの一ツに一大痛棒を呈したい。曰く「何といつても此度の一大収穫は小学校の準備教育を廃止したことである」と。成る程準備教育は一時止めた。併し是はペテンにかかつて止めたのだから今後益々盛になるとも決して衰へまい。ペテン、勿論当局者には毛頭此の如き考へのなきは充分知悉して居る。唯事実がペテンになつた丈である。
  
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 結局、小学校における受験の「準備教育」は行われなくなったが、以前にも増して「補習」という名の受験勉強が熱心に行われるようになる。中学校側も、入学試験は全廃したが「筆記諮問」「口頭試問」は実施する……、まさにコトバだけを操る口八丁のペテンだ。

◆写真上:前谷戸の谷間にプールが設置されている、落合第一小学校の校庭。
◆写真中上は、1929年(昭和4)5月24日に松下春雄Click!が旧・箱根土地本社Click!の前庭からモッコウバラ越しに撮影した、竣工直後の落合第一尋常小学校の講堂と西ウィングの校舎。は、1932年(昭和7)に市郎兵衛坂側から前谷戸越しに撮影された落合第一尋常小学校。は、1960年代に撮影された落合第一小学校の運動会(AI着色)。
◆写真中下は、1960年代の戦災をくぐり抜けさすがに老朽化が進んだ同校校舎。下左は、1929年(昭和4)に出版された『昭和年史/昭和三年』(年史刊行会)。下右は、1927年(昭和2)に出版された岡田怡川『学校から実社会へ我が児に何を為さしむべき乎』(章華社)。性格や思考を推し測る児童向け「知能テスト」のはしりで、落合第一尋常小学校の校長・大塚常太郎がモデル校として全面的に協力している。
◆写真下:落合第一小学校の、南側にある体育館()と北側にある校門()の現状。

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箱根土地主催の目白文化村写真コンクール。 [気になる下落合]

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 1924年(大正13)の11月、箱根土地Click!は写真月報社から発行されていた「写真月報」12月号の誌上で、下落合の目白文化村Click!に建つモダンな住宅街の雰囲気を感じさせる街角(住宅)写真の、「目白文化村懸賞写真募集」という写真コンクールを開催している。
 同誌に掲載された応募要項を、そのまま引用してみよう。
  
 目白文化村懸賞写真募集
 一、題材 市外下落合目白文化村にある住宅建築物
 一、応募印画 大さ及点数制限なし/但し必ず台紙に貼り。裏面に撮影日時。/
  題目。住所氏名を明記すること。応募印画は返却せず
 一、 締切 大正十三年十二月二十日
 一、 届先 市外下落合目白文化村箱根土地株式会社宛
 一、 審査 小西写真専門学校 結城林蔵氏/東京写真研究会主幹 秋山轍輔氏/
  『カメラ』主筆 高桑勝雄氏
 一、 褒賞 壱等 五拾円 壱名 弐等 参拾円 五名 参等 拾円 拾名
  選外佳作 若干名 商品贈呈/但し一人一賞とし、同一人にて二点以上入賞の際は最高
  賞一点を採る。褒賞は永く保存せられたき方には御希望により本社に於て調整すべし。
  審査発表 大正十三年十二月二十五日 目白文化村本社階上に印画陳列、審査発表。
  
 褒賞された作品について、「永く保存せられたき方」には箱根土地本社で相談に応じるとしているので、これらの入選作は箱根土地本社屋Click!の壁面に、パネルにして架けられていた可能性もありそうだ。ひょっとすると、これらの懸賞写真はいまでもどこかに眠っているのかもしれない。なぜなら、箱根土地は翌1925年(大正14)には国立(くにたち)Click!へ移転しており、下落合で戦災に遭うことはなかったからだ。国立は戦後まで本格的な住宅街が形成されず、ほとんど空襲を受けていない。
 なお、審査員のネームで小西写真専門学校の教授だった結城林蔵は、下落合1379番地の第一文化村で暮らした住民で、昭和期に入ると東京写真専門学校を創立している。また、東京美術学校Click!東京高等工業学校Click!の教授もつとめていた。第一文化村の神谷卓男邸Click!から、二間通りをはさんで西隣りに位置する敷地だ。
 さて、「目白文化村懸賞写真募集」に対して、12月20日の締め切り日までに300点をゆうに超える応募作品が集まっている。これらの作品には、もちろん目白文化村の住民たちもこぞって応募していただろうが、住民ではなく落合・目白地域に住むカメラが趣味の人たちや、市街地に住むアマチュアカメラマンたちも、下落合にやってきてはカメラのレンズを文化村の街角へ向けていたにちがいない。1924年(大正13)の11月末から暮れにかけ、目白文化村の道をカメラ片手にゾロゾロ歩く人々を見て、箱根土地の写真コンクールを知らない住民たちは、「いったいなにごと?」と訝しんだかもしれない。
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 コンクールの結果を、1925年(大正14)の「写真月報」2月号より引用してみよう。
  
 目白文化村懸賞写真審査
 箱根土地株式会社にては、目白文化村建築物の写真画懸賞を以て募集しつゝありしが、客歳十二月二十日の締切期日までに参百数十点の作品集まり結城林蔵、秋山轍輔、高桑勝雄三氏の審査にて左記の三十六及び佳作三十点を入選せしめた。
  
 以下、同誌に掲載された入賞作品リストを見てみよう。ただし、入選の写真自体は「写真月報」に掲載されておらず、いろいろな資料を漁ったが発見することができなかった。
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 なんだか、入選者の苗字を見ていると、文化村の住民がかなり多くまじっていそうだけれど、「静かな」とか「淋しい」「静日」などのタイトルから、大正期の目白文化村が市街地からはかなり離れた東京の郊外住宅地だった風情が感じられる。
 「画家の或る日」は、文化村を写生してまわる画家をとらえた写真だと思われるが、当時はイーゼルを立てモダンな西洋館群をモチーフに制作する画家の姿が、村内のあちこちで見られただろう。当時の下落合はモダン住宅で飼うペットブームClick!で、特にイヌClick!は人気が高かった。「主を待つ犬」は、目白文化村のどこかで勤めから帰る飼い主を待つイヌをとらえたものだろう。同コンクールの入選作が発表された1925年(大正14)、死んだ主人の帰りを渋谷駅頭で待つ“ハチ公”が評判になるのは、もう少しあとのことだ。
 3等の当選者には、作品「無題」を応募した伊藤文子という女性がいるが、下落合2108番地Click!に住んでいた吉屋信子Click!がイヌを連れて近所を散歩をするとき、いつもコンパクトな「ベストポケット・コダック」Click!を携帯していたように、大正末になるとカメラを手にする女性もそれほどめずらしくなくなっていく。
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 入選作のタイトルから、課題である「目白文化村にある住宅建築物」のとおり、大正末の西洋館を中心とした邸宅群がとらえられていると想像できるが、ぜひ入選作の画面を見てみたい。モノクロの画面しか残っていない笠原吉太郎Click!『下落合風景を描く佐伯祐三』Click!以来、久しぶりに“指名手配”の下落合コンテンツだ。
 箱根土地は、目白文化村ばかりでなく新宿にあった遊園地「新宿園」Click!や、東大泉を開発した「大泉学園都市」Click!のテーマでも、同様に「写真懸賞募集」を行っている。このような手法が、SP施策として現地に人を集めやすいと考えたのだろうか。
 大泉学園のケースを、1924年(大正13)の「写真月報」12月号から引用しよう。
  
 大泉学園都市内写真懸賞募集
 箱根土地株式会社の経営する大泉学園内の写真を左記規定によつて募集してゐる。/大泉学園都市は学校を中心として大泉公園、電車、停車場、公園道路、娯楽場を新設して新住宅地を経営せんとする全面積五十萬坪、富士を眺め松林うちつゞく近郊最高の形勝地(ママ:景勝地)なる由にて目下その一部を分譲売出中である。/大泉都市に至るには、省電山手線池袋駅にて武蔵野電鉄(ママ)に乗換へ約二十分にて新設東大泉駅に着。東京駅より東大泉駅までは約一時間を要すといふ。(カッコ内引用者註)
  
 箱根土地が、いまだ学校の誘致をあきらめていないころの大泉学園都市分譲の様子だが、ここでは武蔵野鉄道のことを「武蔵野電鉄」と表現しているのが面白い。西武鉄道村山線のことを、地元でも地図制作会社でもマスコミでも「西武電鉄」と表現していたのと同じ感覚だろうか。また、「五十萬坪」と書かれているが、実際に敗戦時まで開発されたのはその半分弱ほどの面積だった。やはり市街地から遠かったせいか、戦後1947年(昭和22)に撮影された空中写真でさえ、開発済みのエリアでも空き地がかなり目立っている。
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 目白文化村でも大泉学園でも、また新宿園でも写真コンクールが催されているところをみると、東京商科大学Click!(現・一橋大学)の誘致に成功した国立(くにたち)でも、同様のコンクールが行われていたのではないか。国立は戦災をほとんど受けていないので、それらの応募作品がどこかに残されてやしないだろうか。もっとも、国立は戦後にならないと住宅街が形成されていないので、撮影のモチーフはかなり限られるような気がするけれど。

◆写真上:第一文化村にいまも残る、日本画家の旧・渡辺玉花アトリエ。
◆写真中上からへ、解体された井門邸(第一文化村)、神谷邸(同)、梶野邸(同)、安食邸(のち会津八一邸/同)、末高邸(同)、中村邸(同)、林邸(同)。
◆写真中下からへ、前谷戸の埋め立てと文化村倶楽部(左手のライト風建築/1923年)、第一文化村の二間道路で正面は神谷邸の門(1925年)、鈴木邸(第二文化村)、松下邸(同)、宮本邸(同)、先年解体された安東邸(同)、石橋邸(同)。
◆写真下からへ、吉田邸(第三文化村)、須藤邸(同)、箱根土地本社ビル、第一文化村から眺めた旧・箱根土地本社(中央生命保険倶楽部)と穂積邸、第二文化村の鈴木邸から見る第一文化村の渡辺邸(冒頭の渡辺玉花邸とは別)、いちばん下は1925年(大正14)発刊の「写真月報」2月号(写真月報社)に掲載された「目白文化村懸賞写真審査」結果。これら目白文化村写真の邸宅および街角風景は、すべて過去の拙記事でご紹介済みClick!だ。

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下落合を描いた画家たち・安井曾太郎。 [気になる下落合]

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 下落合404番地の近衛町Click!に住んだ安井曾太郎Click!は、これまで地元の「下落合風景」をモチーフにした作品を描いていないのではないかと考えてきた。ところが、制作時期は不詳だが、『落合風景』(10号)のタブローが現存しているのが判明した。
 『落合風景』を所有していたのは、1978年(昭和53)に物故した三井物産社長をつとめた新関八洲太郎で、1972年(昭和47)に刊行された「東洋経済」7月号(東洋経済新報社Click!)に自身が好きな絵画として所有作品を紹介している。現在でも、同家に『落合風景』があるのかどうかは不明だが、出所がハッキリした安井作品だろう。
 いつごろ入手したのかは書かれていないが、新関八洲太郎はもともと洋画好きだったようなので、戦後、三井物産の役員全員がパージされ、いきなり常務取締役に就任したころかもしれない。それまでの新関は、アジア各国やオーストラリアなど海外勤務ばかりで、敗戦後は1946年(昭和21)の夏にようやく奉天(中国)から引きあげてくるような生活だった。したがって、ゆっくり展覧会や画廊などへ足を運んで絵画を観賞し、気に入った作品を購入できる機会や余裕はなかったように思われる。
 また、これは画題や風景モチーフとも関連するが、安井曾太郎が豊島区目白町2丁目1673番地から岡田虎二郎Click!の娘である岡田禮子Click!が住んでいた下落合404番地の敷地へ、山口文象の設計によるアトリエClick!を建設し転居してくるのは1935年(昭和10)のことなので、『落合風景』を描いているのはそれ以降の時代だと考えるのが自然だろう。
 さて、『落合風景』の画面を仔細に観察してみよう。明らかに東京地方へ大雪が降ったあと、その積雪が溶けはじめた翌日か、翌々日のころに描かれているとみられる。なぜ大雪だったのがわかるのかというと、面積が小さめな棒杭の上の切り口にまで積雪がかなり残っており、中途半端な降りの雪ではこのような残雪の風情が見られないからだ。棒杭が、半ば埋まるほどの積雪だったのではないだろうか。また、なぜ大雪が降った日のあと、それが溶けはじめたころに描いているのがわかるのかというと、周辺の樹木の枝葉には雪がほとんど残っていないからだ。すでに木々に積もった雪が溶けるか、あるいは風で振り落とされるかした、大雪が降った数日後の風景ではないだろうか。
 下落合へ転居した安井曾太郎が、各地を旅行せず比較的アトリエに落ち着いていたころ、あるいは好きな写生旅行が実質的にできにくくなった戦時中、さらには戦後になり1955年(昭和30)に死去するまで、東京に30cmを超える大雪が降った年は東京中央気象台によれば都合6回ある。転居して間もない二二六事件Click!があった1936年(昭和11)と1937年(昭和12)の2月、敗戦色が濃厚になりどこへも出かけられなくなった1945年(昭和20)の1月と2月、戦後にようやく食糧難の時代が終わろうとしていた1951年(昭和26)の2月、そして安井曾太郎が死去する前年の1954年(昭和29)1月の6回だ。
 この中で、1945年(昭和20)の1月に降った大雪の風景作品は、すでに拙記事でもご紹介している。同年1月に制作された、中野区上高田422番地に建つ耳野卯三郎Click!アトリエの丘上に立ち、妙正寺川越しに西落合から下落合に連なる丘陵を眺めた宮本恒平Click!『画兄のアトリエ』Click!だ。戦争も末期なので、すでに旅行は禁止され、軍部への協力に消極的な画家たちは、絵の具やキャンバスなど画材の配給Click!も満足に受けられずに、アトリエにあるストックの絵の具や画布、ときに板などを用いて静物画や肖像画を画室で描くか、アトリエ周辺を散策して気に入った風景を写生するしかなかった。『落合風景』は、安井曾太郎が戦争末期にあわただしく中国にいた関係から戦時中の作品とは考えにくいが、同様に画材が入手しにくく旅行どころではなかった敗戦直後に描かれているのかもしれない。
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 『落合風景』は、陽光(光源)が明らかに左手から射しているが、棒杭や樹々の影が描かれていないので晴天の日とは思えない。雲を透かした光線から、画面の左手が南側あるいは南に近い方角だろう。棒杭が並ぶすぐ向こう側はけわしい崖地になっているようで、急斜面から生える樹木の枝が左手のすみに描かれている。また、谷とみられる窪地をはさんだ向かい側にも木々が繁っているようで、やはり同じような崖地とみられる少し離れた急斜面に樹木が密に生えている様子が、画面上部の描き方から想定できる。このあたり、さすがに安井曾太郎はバルールが正確だ。このように画面を観察してくると、下落合の特に近衛町にお住まいの方なら、すでに描画ポイントがおわかりではないだろうか。
 安井曾太郎は、自宅を出て『落合風景』を描いてはいない。溶けはじめた雪で、ぬかるんだ道路を無理して歩くような仕事ではなく、自宅西側(おそらく南西端)の庭先にイーゼルを立て、深く落ちこんだ林泉園Click!からつづく谷戸を、南西の方角に向いて写生をしている。また、この作品は死去する直前の1954年(昭和29)の1月に描かれたものでもない。なぜなら、1954年(昭和29)には地下鉄・丸の内線の掘削工事がはじまっており、そのトンネル工事で出た大量の土砂を運び、ちょうど現在のおとめ山公園Click!にある弁天池Click!の北側あたりから安井曾太郎アトリエのある西側にかけ、大蔵省の官舎を建設するために深い谷戸の埋め立て工事が進捗していたからだ。
 この位置の谷戸については、近衛町Click!が開発される直前、1922年(大正11)に中村彝Click!アトリエに立ち寄った清水多嘉示Click!が描いた『下落合風景』Click!や、安井曾太郎アトリエの南隣りに建っていた酒井邸Click!の、庭先で撮影された家族写真などでもすでにご紹介している。安井曾太郎の『落合風景』が、もし1939年(昭和14)以前であれば、谷戸の“対岸”は御留山Click!つづきの相馬孟胤邸Click!であり、1940年(昭和15)以降であれば東邦生命Click!による開発地、すなわち同年に淀橋区へ提出された同社の「位置指定図」Click!をもとにした宅地造成Click!が進んでいたはずだ。
 安井曾太郎の『落合風景』が、戦前・戦中・戦後のいずれの作品かは不明だが、ことさら三井物産の新関八洲太郎が内地へ引きあげたあと、1946年(昭和21)の夏以降に入手したらしい点を考慮すると、戦後に開催された美術展、あるいは個展や画廊などで見かけた作品ではないだろうか。1945年(昭和20)の冬、安井曾太郎は前年から中国へ出かけており、帰国するのは3月をすぎたころで、すかさず同月に埼玉県大里郡へ疎開しているので、同年の大雪の日に『落合風景』を描けたとはタイミング的にも考えにくいのだ。
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 安井曾太郎は下落合に画室を残したまま、1949年(昭和24)には湯河原のアトリエClick!(旧・竹内栖鳳アトリエ)へ移り、下落合ではあまり制作しなくなるが、東京藝大の教授はつづけており、同時に日本美術家連盟会長や国立近代美術館評議員などにも就任しているので、湯河原と下落合を往復するような生活だったろう。したがって、大雪が降った画面の風景は、消去法的に考えれば1951年(昭和26)2月に制作された可能性が高い……ということになるだろうか? このころ、安井曾太郎は『画室にて(夫人像)』『孫』など家族の人物画を多く手がけており、身のまわりの人物や風景にも画因が向きやすかったのではないかと思われる。ただし、そのころの風景画にしては、『落合風景』はかなり写実に寄りすぎているようにも思えるが、画廊に依頼された「売り絵」を意識していたとすれば、出展作品とは異なり気負わず気軽に描いた画面なのかもしれない。
 美術評論家の松原久人は、1956年(昭和31)に美術出版社から刊行された『安井曽太郎と現代芸術』で、安井曾太郎による風景画を第1期から第17期までと分類しているが、それによると『落合風景』が戦後に描かれているとすれば、第16期と第17期の中間あたりに位置するタブローということになるだろうか。第16期は埼玉県大里郡への疎開時代で、下落合へ帰る1947年(昭和22)までであり、第17期は熱海来之宮や湯河原時代で1955年(昭和30)に死去するまでということになるが、この間も下落合のアトリエは存続しており、二度にわたる山手大空襲Click!からも安井邸は焼けずに残っていた。したがって、東京ですごすときは常に下落合の近衛町にいたはずだ。
 また、美術評論家の徳大寺公英は安井曾太郎の死後、同年に出版された『安井曾太郎論集』(美術出版社)収録の、「安井曾太郎氏のレアリスム」で次のようにいう。
  
 氏のレアリスムは対象の把握において客観的、合理的ではなく、主観的、情緒的なのである。安井氏は氏自身のレアリスムを自ら説明して「自分はあるものを、あるが儘に現したい。迫真的なものを描きたい。本当の自然そのものをカンバスにはりつけたい。樹を描くとしたら、風が吹けば木の葉の音のする木を描きたい。自動車が通つている道をかくのだつたら、自動車の通る道をかきたい。人の住むことの出来る家、触れば冷い川、灌木の深さまでも表したい。云々」(一九三三年)と述べている。如何にもプリミティヴな言葉である。これによって分るように、氏はモデルニスムの画家の陥つているような観念の過剰を知らない。モデルニスムと日本画との折衷による表現形式自身プリミティヴであり、それは極めて常識的な、日本的な、氏自身の感情に基づく自然観照とその表現なのである。このようにして氏のユニークな絵画様式が打ちたてられたのであり、氏はこれを現代的なレアリスムといつているわけなのである。そして安井氏の絵画のあらゆる限界もここにあるといわなければならないのである。
  
 「モデルニスム」とは聞きなれないワードだが、スペイン語の「Modernismo」(仏語のアールヌーボーと訳される場合が多い)、あるいは英語の「modernism」と同義で用いていると思われ、ここでは「モダンアート」か「近代主義絵画」とでもいうような意味だろう。
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 わたしは、安井曾太郎アトリエを見たことがなく(のちには新築した邸に子孫が住まわれていた)、とうに地下鉄・丸の内線の土砂で埋め立てられ、その上に建つ大蔵省の官舎しか知らないので、『落合風景』の描画位置はこの一画だとピンポイントで規定するのは難しい。

◆写真上:新関八洲太郎が所有していた、安井曾太郎『落合風景』(制作年不詳)。
◆写真中上は、1922年(大正11)に中村彝アトリエのある林泉園つづきの谷戸を描いた清水多嘉示『下落合風景』(清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様による)。は、1931年(昭和6)2月2日に安井曾太郎アトリエの隣家である酒井邸から、庭の家族がいるテラス越しに深い林泉園谷戸を撮影した写真(AI着色)。は、1944年(昭和19)に下落合のアトリエで『安倍能成氏像』を描く安井曾太郎。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる安井アトリエと想定描画ポイント。は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日撮影の安井アトリエ。左手(西側)の赤土がむき出しの空き地は、相馬邸を解体し東邦生命が開発する新興住宅地。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる焼け残った安井アトリエ。
◆写真下:1935年(昭和10)撮影の山口文象設計による安井曾太郎アトリエ(2葉AI着色)。

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杉邨ていと久生十蘭の佐伯アトリエ。 [気になる下落合]

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 1枚の興味深い写真(AIエンジンにより着色)が残されている。1934年(昭和9)6月に、三岸好太郎・節子夫妻Click!の野方町上鷺宮407番地Click!にあった旧アトリエClick!で撮影されたものだ。左には、1ヶ月後に急死する三岸好太郎Click!が、右端には当時、山本發次郎Click!が集めた佐伯祐三Click!作品の画集を出版しようと企画中だった編集者の國田弥之輔がいる。そして、中央にいる女性がハーピストの杉邨ていClick!だ。
 おそらく、杉邨ていが國田弥之輔と連れだって三岸アトリエを訪問しているのは、翌々年の1937年(昭和12)に座右寶刊行会から出版される『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』(限定500部)の取材なのかもしれない。1930年協会Click!から独立美術協会Click!への流れで、國田は会員だった三岸好太郎Click!に訊きたいことでもあったのだろうか。三岸アトリエを紹介したのは、三岸節子Click!と知り合いで、当時は芝区新橋1丁目21番地に住んでいた佐伯米子Click!だとみられる。ちなみに画集の出版を引きうけた、座右寶刊行会の社長だった後藤真太郎の住所は下落合2丁目735番地、すなわち昭和初期に自邸の建て替えで一時的に住んでいた、村山知義・籌子アトリエClick!と同一番地だ。
 佐伯祐正・祐三兄弟Click!の姪である杉邨ていは1927年(昭和2)8月、2回めの渡仏である佐伯一家Click!とともに、シベリア鉄道に乗ってパリへと向かっている。すでにご存じかと思うが、1928年(昭和3)の夏に夫と娘をフランスで相次ぎ亡くした佐伯米子Click!は、下落合2丁目661番地のアトリエClick!にもどってきてはいない。帰国直後から前記の芝区新橋1丁目21番地、つまり土橋Click!にあった池田象牙店Click!の実家で暮らしている。夫と娘との想い出が詰まった、下落合のアトリエではすごしたくなかったのだろう。実家暮らしは、「美術年鑑」によれば1936年(昭和11)までつづき、翌1937年(昭和12)には下谷区谷中初音町1丁目20番地に転居している。そして、佐伯米子が下落合のアトリエへもどってくるのは、「美術年鑑」によれば翌1938年(昭和13)になってからのことだ。
 この間、下落合の佐伯アトリエには誰が住んでいたのだろうか? わたしは、杉邨ていが久生十蘭の母親・阿部鑑といっしょに帰国した1932年(昭和7)から、佐伯米子が下落合にもどる直前の1937年(昭和12)までの5年間のどこかで、彼女が借りて住んでいたのではないかと想定している。もちろん、この間に杉邨ていは演奏活動を含め、大阪と東京の間を頻繁に往復していたとみられるが、東京における拠点は下落合の佐伯アトリエではなかっただろうか。大きなハープを置くのに、アトリエの広めなスペースはもってこいだ。これには、もうひとつの重要な証言がある。
 帰国後、東京での住まいの記録がなく、昭和初期にはハッキリしない杉邨ていの暮らしだが、1937年(昭和12)になると牛込区矢来町の牛込荘にいたことが、石田博英の証言から明確になる。つまり、佐伯米子が下落合のアトリエへもどると決意した直後、彼女は矢来町へと転居している可能性が高いことだ。1970年(昭和45)に大光社から出版された石田博英『明後日への道標』には、1937年(昭和12)に杉邨ていと同じ牛込荘に住んでいた石田が、彼女の部屋で巨大なハープと出版されたばかりの國田弥之輔・編『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』を見せられ、以来、芸術(特に美術)に魅せられたと書いている。すなわち、その少し前まで同画集を企画・出版するために、國田弥之輔は佐伯祐三の姪である杉邨ていを東京での足がかりに、佐伯米子の実家である池田家Click!や佐伯の関係者に取材、あるいは原稿を依頼してまわっていた可能性が高いのだ。冒頭の写真も、佐伯米子に紹介されたのか、そのような取材プロセスでの1枚ではないだろうか。
 そして、パリで杉邨ていと交際していたとみられる久生十蘭Click!が帰国するのは、1933年(昭和8)になってからであり、翌1934年(昭和9)にはさっそく新劇の拠点Click!だった早稲田大学Click!大隈記念講堂Click!で「ハムレット」を上演している。以降、久生十蘭は演劇の分野で活躍しているが、1935年(昭和10)前後から小説も発表するようになっていく。それら小説の中には、地域としての「落合」や楽器の「ハープ」、「絵描き」、「アトリエ」などのキーワードをよく見かけるのが、以前から非常に気になっていた。
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 たとえば、1939年(昭和14)に発表された『昆虫図』には、アトリエで暮らす貧乏絵描きたちが登場している。隣り同士のアトリエに住む、一方の絵描きの妻殺しが同作のテーマだが、画家のアトリエが建ち並んでいた落合地域の風情を感じるのはわたしだけではないだろう。戦後の1947年(昭和22)に発表された『予言』では、「落合」と「ハープ奏者」双方のキーワードが登場している。登場人物の「石黒」は、「落合にある病院」をうまく経営しており、絵描きの「安部」はステージ上で「娘がいいようすでハープを奏いている」会場へいき、ピストルで自分の胸を撃って死にかけるが、フランスへは「船はいやだから、シベリアで行く」などと、杉邨ていや佐伯一家のような旅程を病室で語っている。
 そして、1946年(昭和21)に発表された久生十蘭『ハムレット』では、下落合の情景がより詳細に記されている。もっとも、『ハムレット』の原型となった『刺客』(1938年)の舞台は、南伊豆にある「波勝岬」(ママ:波勝崎)にある城のような大邸宅であり、下落合の情景はどこにも登場しない。では、筑摩書房版の『ハムレット』より、少し引用してみよう。
  ▼
 小松の父は外交官として長らく英国におり、落合の邸は日本でただ一つの純粋なアングロ・ロマネスクの建築で、その書庫は大英図書館と綽名されたほど有名なものでしたので、こういうディレッタンティズムを満足させるにはまず十分以上だったのです。(中略) 翌朝早く家を出てバスで落合まで行き、聖母病院の前の通りを入って行くと、突当りに小松の邸が見えだしました。数えてみますとあれからちょうど二十八年たっているわけでしたが、家の正面がすこし汚れ、車寄せのそばに防空壕が掘ってあるほかなにもかもむかしどおりになっていました。
  
 落合地域にお住まいの方ならすぐにピンとくるが、「聖母病院の前の通り」を(西へ)入っていくと突き当りは第三文化村Click!になる。そこに豪壮な「アングロ・ロマネスク」の意匠をした「小松の邸」が建っていたことになっているが、戦前、そのような建築が第三文化村にあった事実はない。強いていえば、「聖母病院の前の通り」から南北に通う「八島さんの前通り」Click!(星野通りClick!)へとでる手前の左手角地には、落合地域では二度にわたる山手大空襲Click!からも焼け残ることになる、やはり第三文化村のエリア内にあたる石材を多用して堅牢な吉田博・ふじをアトリエClick!が建っていた。
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 同じ筑摩書房の、都築道夫『久生十蘭-「刺客」を通じての史論-』から引用しよう。
  
 改作<『ハムレット』>は東京の落合――聖母病院の前を入ったところ、というから、現在の新宿区中落合二丁目で、いわゆる目白文化村のとば口あたり。昭和二十年五月二十五日の大空襲(あのへんは四月十四日<ママ>にも被害をうけているけれど、作ちゅうの記述から推理すると、その日はとうに過ぎている)の夜が、クライマックスになっている。(< >内引用者註)
  
 「四月十四日」は、4月13日夜半の第1次山手空襲Click!が正確だが、『ハムレット』は5月25日夜半の第2次山手空襲Click!までが物語の終盤となっている。そして、下落合に昔からお住まいの方ならお気づきだろう。第三文化村へと向かう「聖母病院の前の通り」の途中、中島邸Click!(のち早崎邸=旧・鶏舎Click!)と辻邸の間の路地を入ると、40mほどで佐伯アトリエの門前にたどり着けたのは1938年(昭和13)以前のことだった。
 つまり、やたら聖母病院界隈の描写に詳しい土地勘のある久生十蘭が、聖母病院前のバス停(当時は関東乗合自動車Click!「国際聖母病院前」Click!)で降り、聖母坂Click!を少し上ったところを左折して「聖母病院の前の通り」を歩いたとすれば、眼のすみで左手の奥にある大きな吉田博・ふじをアトリエClick!を認めながら、手前で路地を(北へ)右折して佐伯アトリエの門前へと、すぐに立つことができたはずだ。だが、それは1938年(昭和13)以前の話で、それ以降は私道の路地は、旗竿地だった高田邸の門やアプローチとしてふさがれてしまい、佐伯アトリエへは南側(病院側)から入ることができなくなった。
 つまり、この私道だった路地がふさがれる前、それは久生十蘭がフランスから帰国し、杉邨ていが佐伯アトリエを東京の拠点として使っていたとみられる、1933年(昭和8)から1936年(昭和11)までの3年間、久生十蘭にしてみれば通いなれたバス路線であり道筋ではなかったろうか。このふたりが、いつまで付き合っていたのかは不明だが、杉邨ていは1944年(昭和19)に虫垂炎から腹膜炎を併発し31歳で早逝しているので、少なくとも交際は1942年(昭和17)に久生十蘭が結婚する以前までなのだろう。
 どなたか、1935年(昭和10)前後に佐伯アトリエからのハープの音色をご記憶の方、または親世代がそんなことをいっていたという伝承をご存じの方はおられないだろうか?
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 このような観点から『ハムレット』を読み直すと、どこか一部に杉邨ていへのトリビュートを含んでいるように感じてしまうのは、はたしてわたしだけだろうか。もちろん、久生十蘭は1946年(昭和21)に同作を執筆していた際、通いなれた「聖母病院の前の通り」の佐伯アトリエへと右折する路地が、とうにふさがれていたことなど知らなかっただろう。

◆写真上:1934年(昭和9)6月に撮影された、三岸アトリエの杉邨ていと國田弥之輔。
◆写真中上は、1927年(昭和2)8月の渡仏直前に大阪の光徳寺で撮影されたAI着色Click!による14歳の杉邨てい(右)と佐伯米子(左)。は、パリへ到着しアトリエを借りたばかりの佐伯一家と杉邨てい。は、1937年(昭和12)に國田弥之輔の編集で刊行された『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』(座右寶刊行会)の奥付。
◆写真中下は、1966年(昭和41)に雑誌「新評」10月号に再録された久生十蘭『ハムレット』とその挿画。は、久生十蘭()と杉邨てい()。
◆写真下は、1925年(大正14)作成の「出前地図」にみる青柳ヶ原(のち聖母病院)へと抜けられる養鶏場の路地。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる中島邸と辻邸にはさまれた路地。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる旗竿敷地の高田邸の門からアプローチへとふさがれた早崎邸(旧・中島邸)東側の路地。
おまけ
 1945年(昭和20)5月17日にF13Click!から撮影の佐伯アトリエと周辺。アトリエから北側と西側の第三文化村の大半は延焼していそうだが、吉田アトリエから南は焼けていない。
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