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錯覚を生む地域や町の「表現」について。 [気になる下落合]

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 昔から、大西洋を真ん中にはさむメルカトル図法のマジックというのがある。同図法の地図で見ると、日本列島はいちばん右端(極東)の果てに小さく、そして幅が薄めに描かれていて、一見すると確かに「東洋の小さな島国」としてのイメージ(印象)が強い。
 おそらくヨーロッパ人の感覚を、そのまま踏襲したとみられる上記のフレーズも、いまだに随所で見かける。たとえば、2018年(平成30)出版の野澤道生『やりなおし高校日本史』(筑摩書房)に、「そもそもポルトガル人は(中略)、東洋の小さな島国との貿易に、どんな魅力があったのでしょう」というような、いかにも定型的な表現が出てくる。
 でも、実際に面積で比較してみると、ヨーロッパ諸国の中で日本よりも大きな国は、アジアにまたがるロシアは例外としても、フランスとウクライナ、スペイン、そしてスウェーデンの4ヶ国しかない。ヨーロッパ大陸へ、実際に日本列島のサイズをあてはめれば一目瞭然で、日本はかなり「大きな島国」ということになる。東西が合併し広大になったドイツでも、日本の94%の面積にとどまる。ザビエルが船出したポルトガルは、北海道よりもひとまわり大きいぐらいのサイズだ。最近、ヨーロッパからのインバウンドがやたら多いので、その昔ささやかれた「あんな小さな島国に、なんで新幹線が必要なの?」というような錯覚から、「意外に長くて広いんだ」と再認識されているのではなかろうか。
 地理的な錯覚をもうひとつ挙げると、江戸期には無人島(ぶにんじま)と呼ばれた東京都の小笠原諸島は、昔から八丈島のもう少し先ぐらいの感覚で、いつか泳ぎに行きたいな……などと考えていたのだけれど、実際に出かけようとすると同じ東京都なのにとてつもなく遠いことに気づく。東京からはるか南へ1,000km、日本列島でいえば東京から九州を突きぬけ長崎県の五島列島あたりまでの距離に相当する。竹芝桟橋から定期航路の船足のやや速めなフェリー(「おがさわら丸」=約24ノット)に乗っても、たっぷり丸1日(24時間)はかかる距離なのだ。海が少し荒れでもすれば、もう少しかかるだろう。
 余談めくが、史的な錯覚というのもある。後世の価値観から解釈する結果論的な眼差し、いま風にいえば典型的な“あと出しジャンケン”の解釈だ。よく大学の講義や研究などで「やってはいけない」戒めとして例示されるのが、マルクスの著作で「宗教は、なやんでいる者のため息であり、また心のない世界の心情であるとともに精神のない状態の精神である。それは、民衆のアヘンである」(『ヘーゲル法哲学批判序説』光文社古典新訳文庫)あたりだろうか。現代の感覚で解釈すると、「宗教は中毒性のある犯罪的でとんでもない危険な麻薬」だということになる。
 だが、彼が生きていた社会状況を考えると、アヘンが「犯罪的でとんでもない危険な麻薬」でないことはすぐに見えてくる。マルクスと同時代の作家に、『クリスマス・キャロル』や『二都物語』のC.ディケンズがいる。彼の『エドウィン・ドルードの謎』には、アヘンが随所に登場している。アヘンは、街中のドラッグストアで売られる鎮痛剤・鎮静剤であり、タバコ屋や食料雑貨店、パブなどでも手軽に売られた嗜好品だった。強い酒を出すバーなどでは、店を出るときの酔い覚ましとして客に配られている。
 21世紀の現代社会に置きかえれば、「宗教は……アスピリンである(上落合の尾崎翠Click!風にいえば「宗教は……ミグレニンである」)」、「宗教は……タバコあるいはアルコールである」ぐらいの、当時は習慣化すると薬物依存症になりかねない薬剤ないしは嗜好品……ほどの感覚だったろう。だが、上記のマルクスの記述を、後世の“あと出しジャンケン”的な視点で、「宗教は中毒性のある犯罪的でとんでもない危険な麻薬」などとご都合主義的に解釈し、宗教弾圧の口実にした国々や、社会をひっくり返しかねないマルクスを忌避するため、誤解釈をプロパガンダ化する思想弾圧の国家があちこちに存在した。
 前置きが長くなったけれど、このような錯覚は落合地域でも見られる。いつか、地理的な錯覚のひとつに挙げた、別の地方の方がたまに口にする「小さな町内に、ずいぶんいろいろな人が住んでいたのですね」もその一例Click!だが、下落合を近くの山手線の駅名に引きずられて「目白」と表現するのも、あらぬ錯覚を生む素地となっているだろうか。ちなみに、現在の山手線・目白駅は従来の高田町金久保沢Click!にあり、大正期以前の本来の地名「目白」は、現在の駅から2km前後の東寄りのところだ。ちょうど、通称地名として用いられていた幕府の練兵場「高田馬場(たかたのばば)」が現在の駅(たかだのばば)Click!から1kmほど東寄りなのと同様で、山手線・高田馬場駅があるのは上戸塚また一部は諏訪町だ。
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雑司ヶ谷音羽絵図1857安政4.jpg
地形図1921.jpg
 10年以上も前だが、下落合の中部・西部を取材しているとき、古くからお住まいの方々から「ここは下落合であって、中落合Click!や中井などではない」と何度となく聞かされた。同じ流れでいえば、いくら近くにある駅が目白駅であっても、下落合は「目白」ではない。地名を曖昧に扱ったり、安易に変更Click!したりすると、昔から連綿とつづいているその土地ならではの史的な経緯やアイデンティティまでが曖昧化・稀薄化し、また妙な錯覚や誤解を産むのは、別に江戸東京の(城)下町Click!に限ったことではない。
 東京五輪1964前後の、「細かな町名は外国人に対して恥ずかしいしわかりづらい」などと、理由にもならぬ「自虐」的なコトバを吐いて、自国や地域の歴史・文化を考慮せず、また地方・地域のアイデンティティやコミュニティさえ踏まえずに、地名変更を強行した自治省の役人(その意識のほうがよほど「植民地根性」的かつ「売国」的で恥ずかしい)のおかげで、錯覚や誤解を生じかねない事態を招来している。1950年代以前の江戸東京の歴史を学びにきた外国人たちは、史料で学んだ地名や町名がどこにもないか、場所がまったくちがうのに困惑Click!し、それを探しまわることから始めなければならない。
 佐伯祐三Click!の作品を多くコレクションし、その作品の大半を空襲で焼いてしまった大阪の山本發次郎Click!は、佐伯の絵を画集に掲載あるいは展覧会に出品する際に、「下落合風景」シリーズClick!に『目白風景』(あるいは『目白の風景』?)と名づけたようだ。なぜ、そのまま『下落合風景』と名づけなかったのかは不明だが、東京での作品名とは差別化したかったのかもしれない。でも、地元にしてみれば、開業が迫った中井駅前の商店・宅地を造成中の風景(下落合1916-1977番地一帯)を称して、『目白の風景』Click!とはまかりまちがっても呼ばない。目白駅から作品の風景まで、たっぷりと2kmは離れている。
 当初、山本發次郎がタイトルを決めたとすれば、彼は東京の土地勘がなかったがため、佐伯が描く風景は省線・目白駅がいちばん近いと解釈し、『目白の風景』なら当たらずといえども遠からずと考えたものだろうか。これも、典型的な地理的錯覚のように思える。作品の距離感を大阪にあてはめれば、そのおかしさがわかるだろう。佐伯が肥後橋Click!越しに描いた中之島の風景から、南へ下って地下鉄・中央線の本町駅をすぎ、地下鉄・御堂筋線の心斎橋駅あたりに建っている大丸心斎橋店あたりが、ちょうど2kmほど離れたエリアになる。その一帯の風景を描いたとして、それを「中之島風景」などと名づけたら、地元の人からすぐにも「なんやこれ、けったいなタイトルつけんといてや~」となるにちがいない。
中井風景1926頃.jpg
佐伯祐三「目白の風景」.jpg
佐伯祐三「肥後橋風景」1926011.jpg
 下落合の風景を、特に開発途上の区画や工事中・造成中のエリアを連作で描いた松下春雄Click!や佐伯祐三は、当時の展覧会では「下落合」あるいは「落合」の地名を尊重し踏襲しているが、中村彝Click!は山手線の駅名につられてか下落合の風景を「目白」(『目白の冬』Click!など)としている。ただし、中村彝の場合は「下落合」あるいは「落合」という地名がそれほど知られてはおらず、特異な住宅地(目白文化村Click!近衛町Click!アビラ村Click!など)の開発で注目を集めるのは、大正後期になってからなので、あえて目白駅Click!という知名度の高いネームから引いたのかもしれない。
 だが、中村彝が生きていた当時、「目白」と呼ばれていた地名は画面(メーヤー館Click!)の位置から東へ2.5km前後も離れており(現在の「目白」は大半が高田町と一部は長崎町)、彝自身の思いこみや錯覚に加え、のちにタイトルから地名の誤解を生じる素地のひとつになったのではないだろうか。もっとも、メーヤー館(宣教師館)Click!のある教会は「目白福音教会」Click!だし、下落合にある文化村は「目白文化村」だし、矢田津世子Click!龍膽寺雄Click!らが暮らしていたアパートは「目白会館文化アパート」Click!なので、最寄りの知られた駅名を引っぱってくるのは中村彝に限ったことではなく、ゼネコンの不動産ビジネスからマンション名に「目白」がつく建物は、現在でも多々見られる。そういう意味からすると、一貫して「下落合」「落合」あるいは「下落合文化村」とタイトルしつづけた佐伯祐三や松下春雄Click!の視座は、ひとつの見識といえるかもしれない。
 少し主題からスライドするかもしれないが、各地の商店街に「〇〇銀座」などとつけ、古い落ち着いた町並みが残る街々を「小京都」「小江戸」などと呼ぶのは、いかがなものだろうか? なぜ、よその地方の地域名や町名を借りてまで、「自虐的」かつ「売街的」に地元の宣伝をするのだろうか? 「ここは戸越で銀座じゃない」「ここは金沢で京都なんかじゃない」「ここは川越で江戸じゃない」と、地域の史的なアイデンティティとともに誇りをもち、苦々しく思っている地元住民は決して少なくないはずだ。
 観光客から「ほんま京都によう似てはる、京のミニチュアや」といわれて、または「ほんとに昔の江戸にそっくりだな、コピーしたみたいだぜ」などとウワサされて、地元の人たちは嬉しいのだろうか? 観光などの認知度で「勝負」するなら、なおさら本来の町名、古からの地名、素の地域の姿や魅力で「勝負しようぜ」からスタートしなければ、いつまでたっても借りものではない、「ならではの独自な街の魅力」が育たないのではないか。
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東京区分図1965.jpg
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 鎌倉の街のことを、「古都」などと表現している記述を見ると唖然とする。鎌倉が、公家や朝廷を中心とする「都(みやこ)」だったことは、ただの一度もない。彼らがまったく関与できない、新しい階級の中核として武家文化が花開いたのが鎌倉という街だった。自身がいる街をよく知ること、自身が住む地域の史的経緯やアイデンティテイを大切にすること、古来からつづく地名や町名を尊重すること、それが地域愛をはぐくむ初歩の初歩だと思う。

◆写真上:下落合(現・中落合/中井含む)の中・西部で、あちこちに残る下落合の旧住所プレート。住民の方々が、いまだ納得していないのは明らかだろう。
◆写真中上は、ヨーロッパに日本列島をかぶせた面積比較図。は、1857年(安政4)の尾張屋清七版「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる大正期まで「目白」と呼ばれていた地域。「関口」の町名は、神田上水Click!大洗堰Click!を築造した江戸期以降で、それ以前は丘陵一帯を「目白」あるいは「目白山」と称していた。絵図の右下には、音羽の谷間から上がる目白坂の中腹に室町末期~江戸初期に足利から勧請された目白不動Click!が描かれている。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる落合地域とその周辺。
◆写真中下は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『下落合風景』Click!で、開業直前だった中井駅前の商店や住宅の造成地を描いている。工事中の道端に積まれた土砂あるいは大谷石の“山”に上って描いたものか、画面の視点がかなり高めだ。は、少し時間を空けたとみられる同じ場所を寄り気味で描いた佐伯祐三『目白の風景』。は、1926年(大正15)11月ごろに肥後橋を入れて中之島を描いた佐伯祐三『肥後橋風景』。
◆写真下は、1919年(大正8)の冬季に描かれたとみられる中村彝のスケッチ『目白の冬』。は、1965年(昭和40)の「東京区分図」にみる落合地域とその周辺。は、冒頭写真と同じく町名変更に納得できない住民の方がそのままにしているプレート。
おまけ
 下落合の地名を変えることに、90%以上の住民がアンケートで「反対」の意思表示をしているにもかかわらず、行政が勝手に地名変更を進めるのに「多くの住民が激怒」と報じる1965年(昭和40)5月3日発行の「落合新聞」。その歴史や地域のアイデンティティを尊重せず、あまりにもずさんで安易な変更に記事を読む58年後のわたしでさえ腹が立つ。
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たぶん陽咸二と千家元麿はいとこ同士。 [気になる下落合]

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 わたしは小学生のとき、親父の千代田小学校Click!(現・日本橋中学校Click!)時代の同窓生で、たぶん評判の美少女だったのだろう、江戸東京ではもっとも優れ洗練された柳橋Click!芸者Click!になった女子の、引退式Click!に連れられていったことがある。引退式が開かれたのは、大川(隅田川)に面していた広い座敷だったので、大きな料亭「柳水亭」か「亀清楼」Click!だったと思うのだが、親父に料亭の名前までは訊かずじまいだったので確証はない。日本橋側から柳橋Click!をわたって、すぐの料亭だったような気がする。
 その後、柳橋の料亭の歴史について知りたくなり、親父の書棚にあった成島柳北や互笑会などが編著した多彩な書籍類に馴染んだのだが、柳橋で「青柳」という料亭は聞いたことがない。「青柳」といえば東両国、つまり柳橋とはちょうど大川をはさんで対岸(本所側)の斜向かいにあった、江戸期から有名な旅籠も兼ねた高級料亭だ。大橋(両国橋)東詰めにある、同じく江戸期からつづく「ももんじ屋」Click!の南並びにあたる位置だ。
 江戸期より、大橋(両国橋)Click!は東詰め(本所側)の一帯を「東両国」、また反対に西詰めは日本橋側(米沢町や薬研堀Click!、元柳町など)の一帯を「西両国」と呼びならわしていたので、「東両国の青柳」がいつの間にか「西両国の青柳」と誤伝され、後世になって「柳橋の青柳」になってしまったのかもしれない。この「西両国」「東両国」という呼称は、江戸と下総の両国を結ぶ「両国橋」が、川向こうの下総を江戸に編入し「大橋」と呼ばれるようになったあとも活きていたので、かなり古い地域表現の可能性がある。
 なぜこんなことを書くのかといえば、先日、藤岡美和様よりご招待いただいた「陽咸二 混ざりあうカタチ」展Click!図録(宇都宮美術館)の年譜に、陽咸二Click!の母親・陽きちについて「柳橋の料亭『青柳』を営んでいた小川源次郎の四女」と書かれていたからだ。小川源次郎が経営していたのは、東両国(本所側)の高級料亭「青柳」であって柳橋ではない。「青柳」は、安藤広重Click!が『江戸高名会亭尽 両国 青柳』に取りあげるほど、大江戸(おえど)Click!でも屈指の超高級料亭だった。
 もっとも、1922年(大正11)10月22日付け「万朝報」に、「逆境に超然たる若き芸術家/柳橋の旗亭青柳の娘さんを母として生れた陽氏」を書いた記者が、江戸東京に土地勘のまったくない人物だった可能性もありそうだ。いつだったか、柳橋のことを「浅草」と書いてトンチンカンな江戸東京の食レポを書いた博文館の記者の記事Click!をご紹介したけれど、東両国の本所にある料亭のことをどうまちがっても「柳橋の~」とは呼ばない。陽咸二が、大橋(両国橋)のたもと(詰め)にある料亭「青柳」と表現したのを、記者が勝手に柳橋と勘ちがいしてしまった可能性もあるだろうか?
 ここで面白いのは、小川源次郎の長女で女流画家として有名だった小川とよ(豊)と結婚(東京における夫人に)した人物は、出雲王家の末裔で東京府知事もつとめた、ここでも何度かご紹介している千家尊福Click!だった。そして、1888年(明治21)に生れたのが、落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)に住んだ千家元麿Click!だ。また、「青柳」の四女・小川きちと結婚したのが陽其二であり、1898年(明治31)に出生したのが陽咸二Click!だ。つまり、千家元麿と陽咸二は10歳ちがいのいとこ同士ということになる。詩人と彫刻家のこのふたり、どこか(特に小川家)で顔をあわせてやしないだろうか? 千家元麿の関連資料に、陽咸二の名が登場している気もする。そうなると、佐伯夫妻Click!とも知己ということで、陽咸二がさらに落合地域へ“近づく”ことになるのだが……。
 さて、陽咸二が特異な存在なのは、文展・帝展に毎年入選しつづけ、1922年(大正11)の第4回帝展に出品した『壮者』で特選を受賞しているのをはじめ、それまで数々の受賞歴があったにもかかわらず、まったくそれらに拘泥せず、表現法や表現メディアも含め常に変化をしつづけていった芸術家だという点だ。現代の感覚では、常に進化しつづける美術家=コンテンポラリー・アーティストは別にめずらしくないが、当時の日本ではほとんど見かけない稀有な存在だった。上記の図録より、陽咸二の芸術観がよく表明されている遺稿(執筆年不詳)から、少し長いが引用してみよう。
  
 日本の若い彫刻家の多くが、或る一定の一ツの表現様式<スタイル>の様な物を持て居る、持ちたいと願て居る。そして持て居る人はそれをほこって居る。持たない者は持つことにあせって居る。こうして若いくせに小さな世界に安住して仕舞ふ。(中略) 色々な表現様式が有るのを知らないかの様に又そう云ふことをするのを恐ろしい事の様に、賞を頂戴するまでは色々の事をやって居るが、その内のどれかが特選にでもなると、さあ大変だ、それが自分のスタイルだと思って仕舞ふらしい。其后は毎年同じ様な所に同じ様な作品を発表する。そうすると又不思議に、それにも同じ様に特選をやる。こんな事を三・四年辛棒(ママ:辛抱)づよくくりかえしくりかえし(中略)やって居ると、ついに院賞を下さる。つまり彼の辛棒強さを推賞(ママ:推奨)するので在る。そうすると新進の作家達が「なる程、辛棒がかんじんだわい」と思込む。(中略) それも毎年少しずつでもよくなって居るなら、又思い様もあらふが大体は始めの方がよくって後のは始めの様な熱も無く其だ(惰)勢の様な物だに過ぎないと思ふ程。(カッコ内引用者註)
  
去年の習作1921.jpg
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広重「江戸高名会亭尽 両国 青柳」拡大.jpg
構造社第4回展「綜合試作・記念碑運動時代」1930.jpg
 この文章は、およそ100年後の現在でもそのまま当てはまるだろうか。時代は移り、社会は変わり、生活環境が激変しているにもかかわらず、「五十年一日」のごとくなんの変わりばえもしない、昔ながらの表現法や表現手段を踏襲している“現代”の展覧会を観たりすると、平凡で退屈で、死にたくはならないが会場で午睡したくなる。別に彫刻に限らない、絵画も音楽も演劇もまったく同様だ。
 新派の舞台Click!で、「いっそ、私には死ねといってください」Click!などといわれても、21世紀の今日では「古っ! いつまで同じことやってんだい」としか感じないし、1960年代後半のモードJAZZやBeatlesのそっくりサウンドを奏でるバンドが現代に出現しても、個人的な趣味・娯楽の好き嫌いな世界は別として、音楽的にはまったく意味がない。
 ところが、絵画や彫刻の世界では、案外それが「辛抱」を前提にまかり通ってしまうから不思議だ。陽咸二の上掲の文章は、彫刻に限らず芸術全般についての認識、および自身の制作姿勢(思想=芸術観)について語っているように思える。のちに、彼は構造社のパンフレットで、「作風が常に流動して居る内は進歩して居りますが固定した形式が出来上つた時は進歩の停止した時です」(1931年)とも書き残している。
 陽咸二の仕事が、がぜん面白くなるのは東京美術学校の仲間たちと、「絵土爛社」を結成する1923年(大正12)あたりからだろうか。社員には、下落合1599番地の落合第三府営住宅Click!に住んでいた江藤純平Click!や、下落合414番地の近衛町Click!に住む島津良蔵Click!と「島津マネキン」を創業する荻島安二Click!らがいた。特に荻島安二は、目白文化村Click!中村邸Click!において、暮らしの中の彫刻を実践した人物として知られている。同社は、神田の文房堂Click!で展覧会を開いたようなのだが、その詳細は不明らしい。
 また、陽咸二は同年に趣味家集団「日本我楽他宗」へ“入信”し、彫刻に限らず多種多様な表現法による作品を生みだす契機になっている。陽咸二は、我楽他宗を主催した三田(林蔵)平凡寺に対し、「第二十二番札所 横臥山夜歓寺」と名のり、同宗の“信者”で趣味人だった侯爵・松平康荘の邸内で撮影された記念写真も残っている。また、1926年(大正15)には日名子実三Click!や雨田光平らの「構造社」に参画すると、彫刻家・河村目呂二らと親しくなり作品の幅を大きく拡げていったようだ。
 「陽咸二 混ざりあうカタチ」展図録に掲載された、河村目呂二の子孫にあたる内山舞『思い出の系譜~曽祖父 河村目呂二のこと』から引用してみよう
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 美校卒業後の大正時代から昭和初期の活動で特にユニークなのは、日名子実三らとの構造社、三田平凡寺の我楽他宗、武井武雄とのジャズ・マニアだが、その内、構造社と我楽他宗において陽咸二と活動を共にした。しかしその交流の頻度や密度がどれほどだったのか、一回り年下の、自分と同様に型にはまらないこのクリエーターを目呂二がどんな風に思っていたのか、まだ記録が見つからず詳細はわかっていない。ただ、数多の書簡の束から陽のハガキをピックアップし、わざわざスクラップブックに貼り付けてあることを考えると、陽の才能と人物に一目も二目も置いていたであろうことは想像に難くない。/どちらも奇人として当時の世間を騒がせていたようだが、陽咸二に漂う無頼の匂いに対し、目呂二のそれは人を喜ばせるための道化であったように思う。彫刻の社会性や建築化を志向する構造社に在って、愛する猫や人形が醸し出す「可愛らしさ」や「儚さ」を一貫して追求しているのも目呂二らしい。
  
 文中に武井武雄Click!が登場するが、「ジャズ・マニア」はサイクリング愛好会「JAZOO MANIA」のことだと思われるが、ちなみに当時の「ジャズ(JAZZ)」は時代的にみてニューオリンズ、ないしはデキシーランドの元祖的な黒っぽいJAZZだったろう。武井武雄Click!の絵にも、同JAZZの演奏らしい行列表現が見られる。河村目呂二は陽咸二の死後、第10回構造社展(1937年)の展覧会パンフレットに「趣味人陽さん」という文章を寄稿しており、かなり親しい付き合いだったことがうかがえる。
 「趣味人」としての陽咸二Click!については、ずいぶん前にも触れているが、その一端を上記の第10回構造社展パンフより、濱田三郎『陽君の芸術』から少し引用してみよう。
  
 其の多趣味性は天啓のものであつた。市井の諸事は何事にもあれ最も興味と感激を以て探究し、芝居道を論じ落語を語り、華道に明るく、日本画を描き玩具を作り、朝顔の大輪咲きに鼻を高くし、釣魚に星を戴いて家を出で、麻雀に夜の更くるのを知らず、酒に酔えば流行歌の王たり、駄洒落と軽口と悪口とは陽君得意の独断場であつた。あらゆる自然の物象を遊戯化した江戸時代浮世絵芸術家と其の点相似たところがある。この「趣味」の魔法の手箱の中から易々と陽君の彫刻がとり出されて居るのである。
  
 どこか、尾張町(銀座)育ちの岸田劉生Click!と同じような江戸東京の匂いClick!がするけれど、劉生が腹を立てたときに出る東京弁下町方言Click!の上品な商人言葉ではないしゃべりClick!と、陽咸二がふだんから話す(城)下町Click!方言は、よく似ていたのではなかろうか。
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 電車に乗ろうとするとき、きれいな女子を見かけると秋子夫人を置き去りにして、サッサと追いかけては車両に乗りこみ、彼女の真ん前に座って楽しそうにしていたなど、陽咸二に関するエピソードを書きはじめるとキリがない。柳橋の芸者になった、同級生の美しい女子(だったはず)の引退式へ、母親を放りだしわたしを連れて駆けつけた下戸の親父にしても、どこか共通する性格があるように思われるけれど、きょうはとりあえず、このへんで……。

◆写真上:1924年(大正13)に撮影された、『閨怨歌曲』を制作する陽咸二。
◆写真中上は、1921年(大正10)撮影の『去年の習作』を制作する陽咸二。1970年(昭和45)前後に、新宿駅前でギターを弾いてそうな風体だ。は、1835~1842年(天保年間)に安藤広重の連作『江戸高名会亭尽』のうち「両国 青柳」()とその拡大()。屋形へふたりの柳橋芸者が乗りこむところで、「青柳」から仲居が料理を運んでいる。は、1930年(昭和5)開催の構造社第4回展の綜合試作『記念碑運動時代』。
◆写真中下は、1924年(大正13)に松平康荘邸で開催された我楽他宗の記念写真。陽咸二は後列の右から4人目で、中列の右端には河村目呂二が見える。は、1923年(大正12)に制作された陽咸二『仔猫』。は、大のネコ好きだった河村目呂二が制作した多種多様な『まねきねこ』に囲まれてご満悦の目呂二本人。
◆写真下は、1924~1930年(大正13~昭和5)ごろに描かれた陽咸二『薬缶と湯呑之図』。「薬缶」は我楽他宗における陽咸二の名称「夜歓寺」にかけ、背後の「湯呑」を逆さに伏せているのはyou know me?(オレ、わかるでしょ?)のシャレのめしだと思われる。は、9代目・成田屋Click!を描いたとみられる陽咸二『和藤内』(近松『国性爺合戦』)。下左は、1930年(昭和5)制作の陽咸二がデザインした雑誌「コレクトマニア」創刊号。下右は、この春に宇都宮美術館で開催されたも「陽咸二 混ざりあうカタチ」展図録(2023年)。安藤広重の画面を除き、いずれも「陽咸二 混ざりあうカタチ」展図録(宇都宮美術館)より。

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大黒葡萄酒の隣りにあった石倉商店工場。 [気になる下落合]

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 先年、大型マンションの建設で寮棟×4が壊されてしまったが、学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)の南側のバッケ(崖地)Click!下、下落合10番地(のち下落合1丁目20番地)に、包帯やガーゼ、脱脂綿など医療分野の衛生商品を製造する石倉商店工場が操業していた。東隣りには、甲斐産商店Click!大黒葡萄酒壜詰め工場Click!(現・メルシャンワインClick!)が建っていた位置にあたる。
 なぜ石倉商店工場が気になったのかというと、下落合の旧・神田上水沿いに建てられた規模が大きめな工場の中でも、石倉商店はもっとも早い時期に進出してきているのではないかと考えられるからだ。同社が残した沿革記録によれば、下落合に工場を建設したのは1912年(大正元)となっているが、地元で刊行された『落合町誌』(落合町誌刊行会)によれば1911年(明治44)設置と記載されている。この齟齬は、おそらく工場の進出・建設時期と、実際に生産拠点を移転し操業を開始した時期との差によるものだろう。明治期における石倉商店の本店は、日本橋大伝馬町2丁目5番地にあった。
 石倉商店について、1907年(明治40)に東京模範商工品録編纂所から刊行された、『東京模範商工品録』掲載の事業紹介より引用してみよう。
  
 石倉商店が繃帯材料の販売を始めしは、明治二十六年の頃にして、其の当時にありては、需要微々として振はず従て本業を営むものも都下に於て僅かに四戸に過ぎざる有様なりしも店主石倉次郎(ママ:治郎)氏は本業務の前途光望なるに嘱目するが故に敢て意に介することなく、研究に研究を重ね一念品質の改良に留意し努めて止むことなかりしが故に品質は益々好良に趣くと共に、世上の進歩に伴ひ漸次繃帯材料の需要は増加したるを以て、業務は年と共に隆昌を告げ販売力は同業者中にありて第一位を占むることゝなれり、今ま(ママ)本商店の製品目を示せば左の如し/第三改正日本薬局法/硼酸綿/石炭酸綿/精製綿/昇汞綿/ヨードフオルム綿/サリチール酸(ママ:サルチール酸)綿/止血綿/硼酸ガーゼ/精製ガーゼ/昇汞ガーゼ/ヨードフオルムガーゼ/サルチール酸ガーゼ(カッコ内引用者註)
  
 文中には製品として書かれていないが、石倉商店の“本業”は各種包帯づくりだったとみられ、別項目で「繃帯材料一式」と書かれている。上記の紹介文には、綿とガーゼばかりが挙げられているが、それらが明治末の販促製品だったのだろう。
 また、文中では「明治二十六年の頃」としているが、石倉商店は、1887年(明治20)に石倉治郎の創業により、製造工場を高田村高田384番地に設置している。神田川北岸の、いわゆる河川敷で砂利場Click!と呼ばれた地域にあたり、現在の根性院Click!の西南西に位置する豊島区高田1丁目だ。このときは、いまだ法人化されておらず、1911年(明治44)に合名会社化するとともに、下落合10番地の広い敷地へ工場を新設して移転してくる。
 『落合町誌』には詳しく書かれていないが、昭和初期までに石倉商店が製造する医療・衛生製品の品質が高かったものか、東京で開催された博覧会で何度か表彰されている。1922年(大正11)の平和記念東京博覧会(昭和初期の同社沿革には「大正十五年」と誤記)では銀牌を、1928年(昭和3)の大礼記念国産振興東京博覧会では優良国産賞牌を、1931年(昭和6)の第3回化学工業博覧会では有巧賞をそれぞれ受賞しており、医療・衛生製品の分野ではいずれも最高賞だと同社資料には誇らしげに書かれている。
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 石倉商店は、昭和に入りどのような事業を行っていたのだろうか。1932年(昭和7)刊行の『落合町誌』から、石倉合名会社についてその一部を引用してみよう。
  
 偶々(明治)二十八年戦役に軍需品として採用され、爾来品質の改良不断の努力を続け三十七八年戦役に再び納品の光栄に浴すると共に、衛生思想の向上に伴ひ益々製品の真価を世の認識する処となり、遂に外国製品を全く駆逐するの域に達した、而して同四十四年組織を合名会社石倉商店と改め経営の合理化を図り、工場を現位置落合に移し、設備を拡充すると共に多量生産に拠る生産費の低下に鋭意し、欧州大戦には三度軍需品納入の御用を仰付られ、軍需品並に一般医療用衛生必需品の海外輸出を開始し戦後も輸出を持続して好評を博し、漸次輸出量を増加しつゝあり以て今日帝都業界のオーソリチーとして、自他共に許す商運を招来するに至つた。(カッコ内引用者註)
  
 『落合町誌』は、「人物事業編」に紹介されている人物や企業からは、いくばくかの出版協賛金を集めていたと思われるので、歯の浮くような美辞麗句や阿諛追従の表現が目立つが、石倉商会の上記紹介文はほぼ実情に近かったのではないかと思われる。日清・日露の両戦争で、陸軍に衛生材料を大量に納品したのが、事業の発展・拡大する大きなきっかけとなったようだ。第1次世界大戦でも陸軍に納品し、戦争で医療品が極度に不足していたヨーロッパ諸国にも輸出しているとみられる。
 大正末から昭和初期にかけ、陸軍が各地に設置していた衛戍病院をはじめ、東京帝大や慶應大など主要大学医学部の附属病院、鉄道省をはじめとする官公庁の各病院、台湾や樺太の公立各病院、全国の自治体や日本赤十字社が運営する各病院、大手企業の付属病院や付属医院などへ製品を納入している。下落合の工場も拡張をつづけ、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、東隣りの大黒葡萄酒壜詰め工場よりも、約3倍ほどの規模となっていたのがわかる。工場の従業員も、1936年(昭和11)の時点で70名を超えていた。
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石倉商店工場1936.jpg
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 ちょっと余談だが、細い道路をはさみ石倉商店工場の西隣りには、山本螺旋(ネジ)合名会社の工場が操業していたが、1935年(昭和10)前後に工場建屋のリニューアルか、あるいは事業の変更による生産ラインの再整備からか、既存の建屋がなくなり敷地全体がしばらく空き地状態になっていた。1930年(昭和5)ごろまでつづく、世界恐慌の影響による事業の縮小・再編なのかもしれないが、1936年(昭和11)の空中写真でも、いまだ敷地の東半分が空き地のままとなっている。
 その空き地にイーゼルを立て、東北東を向いて23.5×33.0cmの小さめな板キャンバスに向かっていたのが、下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)から長崎東町1丁目1377番地(現・豊島区長崎1丁目)へ転居Click!したばかりの片多徳郎Click!だ。彼が名古屋の寺で自裁する直前、絶筆といわれる1934年(昭和9)に制作された『風景』Click!には、石倉商店工場とみられる赤い屋根の建屋群が描かれている。学習院昭和寮Click!のバッケ(崖地)下、奥に見える青い屋根の建屋が甲斐産商店(大黒葡萄酒壜詰め工場)で、手前の南北に長く描かれた建屋が石倉商店工場ではないかとみられる。
 さて、1936年(昭和11)の空中写真が撮影された時期、石倉商店は陸軍ばかりでなく海軍への納入も計画している。1936年(昭和11)2月に、海軍大臣・大角岑生あてに提出された「海軍購買名簿登録願」が国立公文書館に保存されている。同願書には、経営明細書をはじめ、会社の登記簿謄本、貸借対照表(1934年決算書)、最新の製品カタログ、第三者機関の帝国興信所による詳細な報告書などが添付されている。ちなみに、この時期には初代の経営者・石倉治郎から、2代目の石倉長三郎に事業が受け継がれていた。
 おそらく、海軍が2月に予定する登録審査会に間にあうよう願書を提出したらしいが、登録審査は次回への持ちこしとなった。つづけて、同年6月にも審査会が開かれるが、やはり審査は次回まで持ちこしとなっている。持ちこしの理由は不明だが、海軍には企業によるさまざまな登録願書が提出されていたとみられ、審査を行う以前に時間切れとなったか、あるいは書類に不備があり追加で提出を要請したのだろう。
 同年10月の再々登録審査で、石倉商店は最終的に「否決」されてしまう。否決の理由が書かれていないので詳細は不明だが、おそらく海軍は陸軍に比べて将官や兵員の数が少なく、すでに衛生材料や医療品の納品業者が飽和状態だったのではないだろうか。この時期、陸軍の兵員数が約30万人なのに対し、海軍は約7万人とキャパシティが大きく異なっていたせいもあるのだろう。石倉商店は、1936年(昭和11)に一度だけ願書を出しただけで、その後は再び提出していないようだが、日米戦が近づくにつれ国家総動員体制のもと、企業統合が進んだ時点では海軍にも製品を納入していたのではないだろうか。
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 石倉商店工場は山手大空襲Click!で壊滅したが、戦後は事業を再開し1960年(昭和35)に作成された「全住宅案内図帳」にも、大黒葡萄酒工場とともにネームが採取されている。だが、1969年(昭和44)には高田馬場住宅Click!が建設されているので、その間に大黒葡萄酒の下落合工場とともに移転したか、あるいは合併・吸収などで消滅しているのだろう。

◆写真上:石倉商店が工場で生産していた包帯やガーゼ、脱脂綿などの医療製品。
◆写真中上は、1907年(明治40)に撮影された法人化前の高田村高田384番地にあった石倉商店工場。は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる石倉商店工場。は、高田馬場住宅の西側敷地にあたる同工場跡の現状。
◆写真中下は、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『風景』(部分)。南北に長い、赤い屋根の建屋群が同工場ではないかと思われる。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同工場。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同工場。
◆写真下は、1936年(昭和11)に海軍大臣あてに提出された「海軍購買名簿登録願」。は、2葉とも石倉商店の製品パンフレット。は、海軍審査会の「否決」決定書類。
おまけ
 1945年(昭和20)5月17日に米軍の偵察機F13Click!によって撮影された、第2次山手空襲Click!(5月25日夜半)の1週間前の空中写真が残されている。同写真を観察すると、石倉商店工場は近隣の工場群とともにいまだ焼けておらず、幾重にも密集した細長い工場の建屋が確認できる。したがって、同工場が焼けたのは5月25日夜半の第2次山手空襲だろう。
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佐伯祐三『墓のある風景』を細覧する。 [気になる下落合]

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 1926年(大正15)9月22日に、佐伯祐三Click!が描いた『墓のある風景』(20号)とみられる、連作「下落合風景」Click!の1作だ。(冒頭写真) 以前にも、取りあげているが画面を観たとたん、ひと目で描画場所がわかったので、詳細な解説をしないままになっていた。きょうは、少し詳しく画面に描かれたモチーフについて書いてみたい。
 左側に連なって見えているのは、薬王院の墓地(旧・墓地)Click!の周囲に築かれている塀だが、1878年(明治11)に同院が御留山Click!の西側から移転した際には、いまだこの塀は存在していなかったろう。簡単な垣根か、あるいは生垣で囲まれていたのかもしれない。明治期あるいは大正初期の地形図を参照しても、墓地の記号はあるが塀の記号は記載されていない。旧・墓地には、江戸期に建立されたとみられる五輪塔や蘭塔(卵塔)Click!、宝篋印塔などの墓、月三講社(富士講)Click!の碑なども見られるが、現在地へ移転する際に改葬あるいは移設しているとみられる。
 描かれた塀の上に長く伸びているのは、わたしが子どものころまで異様に長かった、追善供養のための卒塔婆だ。いまでも塀の上には、卒塔婆がいくつかのぞいているが、木材価格が高騰し資源保護がいわれるようになってから、その長さは半分以下に短縮されている。画面の卒塔婆は、塀沿いに建立された墓石の背面あるいは側面に立てられているものだが、現在でもそれは変わらない。佐伯祐三は、薬王院の旧・墓地にめぐらされた塀沿いの二間道路上で、北から南を向いて『墓のある風景』を描いている。
 墓地をめぐる塀は、一見コンクリート製だが、実は中身=“芯”になっているのは昔ながらの土塀で、しかもかなり幅が薄いものだ。おそらく、大正半ばごろから設置されている塀で、1923年(大正12)に作成された1/10,000地形図から、それらしい記号(太実線)を確認することができる。現在は、古い塀の上から新たなコンクリートが薄めに吹きつけられているが、塀が大正期のままだった数年前までは、古いコンクリートの割れ目や剥脱した部分から、“芯”になっている土塀が顔をのぞかせていた。
 旧・墓地をめぐる塀は、当時は最先端の工法だったコンクリートで塗り固められてはいたが、幅の薄さから倒壊を防ぐために、塀の裏側へ三角形をしたコンクリートの控え壁を密に設置している。また、薄い壁なので柔軟に形状を変えることができたせいか、旧・墓地の南側へ下る「下水道階段」Click!のある斜面では、独特な丸みをおびたアールのデザインが施されている。数年前に行われた補修では、大正期の意匠を残したまま表面をコンクリートの薄い膜で覆う工法が採用されたようだ。
 塀に沿って左の道端に建てられているのは、手前が変圧器の載った電力線Click!の電柱で、奥が当時は多かった電球がむき出しの大型の街路灯だろう。墓地の近くで寂しい風情ということもあり、夜になると周辺は闇に包まれて住民には物騒なため、目白通り沿いに見られるのと同じ仕様の、大きくて明度の高い街路灯Click!が設置されていたと思われる。現在では、手前の電柱と街路灯が統合され、住宅地によく見られる小規模な蛍光灯ないしはLEDの街灯ではなく、やはり大正期と同様に大きめな道路に設置される、明度の高いナトリウム灯ないしは水銀灯が設置されている。
 道路の右手に建つ家は、当時は多かった日本家屋の2階家で、佐伯が歩いた当時は建設されて間もない時期だったろう。外壁に腐食防止のクレオソートClick!を塗ったらしい、モノクロ画面では黒っぽく見える住宅は下落合811番地の東嶌邸(1960年現在)で、画面右手(西隣り)の枠外には2軒並びで建てられた代々木邸(同)があるはずだ。
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 大正末の同時期に、一帯の敷地へ建てられたとみられる2階家の日本家屋は、佐伯祐三の描画ポイントから60mほどのところに、戦前戦後を通じて同一の方が住まわれているT邸として、いまでもそのまま見ることができる。佐伯が「散歩道」Click!にしていた、薬王院の北西側一帯は空襲の被害を受けておらず、わたしの学生時代には『セメントの坪(ヘイ)』Click!に描かれた家々Click!を含め、大正期からの風情が残っていた。
 また、描かれた東嶌邸の陰から、旧・墓地に面した道路側にチラッと見えている、2階家の屋根とみられる庇(ひさし)は、佐伯が描いた当初から戦後まで、一貫して飯沼邸だ。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)によれば、住人の飯沼一省は内務省に勤めた内務書記官で、『落合町誌』の当時は大臣官房都市計画課長だった。
 また、右手前(北隣り)の空き地は、そろそろ普請がスタートする下落合802番地の寺井邸の建設予定地だ。同予定地や東嶌邸の道路沿いを観察すると、新興住宅地によく見られる敷地境界の縁石(大谷石)とともに、下水溝(側溝)Click!とみられる大谷石Click!ないしは花崗岩製の構造物が設置されているのがわかる。
 左手の塀の上に突き出た、墓地の南側に建っている住宅1棟の2階部分が見えているが、下落合820番地の秦鎌太郎邸だろう。秦邸は、昭和期に入ると転居したのかネームが見あたらず、また地番も下落合2丁目819番地(現・下落合4丁目)に変更されて、同じ敷地には伊藤邸が建設されている。画面に描かれた、塀の上に見えている秦邸の2階部が、ちょうどのちの昭和期に伊藤邸が建設されるあたりだ。
 『墓のある風景』の道を、そのまま真っすぐ進むと50mほどで広い空き地に出る。赤土がむき出しの、新たな宅地造成が進められている久七坂Click!沿いの敷地だが、目白崖線のちょうど丘上にあたる眺めのいい一帯だ。ここに家を建てれば、新宿駅の東西一帯が見わたせる絶好の眺望をうたえる宅地開発のはずだった。だが、この広い住宅地の開発は、なぜか昭和10年代になってもまったく進まなかった。1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲の直前、米軍の偵察機F13Click!によって撮影された空中写真にも、大きめな屋敷がわずか2棟しか建設されておらず、残りは原っぱのままだった。
 佐伯祐三は、赤土がむき出しの広い空き地に出ると、まずは眺望を確認するために崖線の淵に立っただろう。丘上から、1段下に造成された広い敷地には、巨大な赤い屋根を載せた池田邸Click!が建っていた。住民の池田常吉は、掲載を断ったものか『落合町誌』には収録されていないが、明治末まで台湾銀行の支配人だった人物だ。佐伯は、この丘上から池田邸のフィニアル(鯱)が載る赤い大屋根を描いたとみられる「下落合風景」を残しているが、1926年(大正15)10月1日の『見下シ』Click!(20号)が相当するだろうか。
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 佐伯は、この広い造成地を横切ると、久七坂沿いの道へ出るのが「散歩道」のコースだったようだ。そして、久七坂筋を北上する途中で描いたのが、1926年(大正15)9月20日の『散歩道』Click!(15号)だ。さらに、その先には曾宮一念アトリエClick!の前にある谷戸の諏訪谷Click!が口を開けているが、同日の午前(?)に『曾宮さんの前』Click!(20号)を描いていることでも、佐伯がよく歩いた散歩コースが自ずと透けて見えてくる。
 すなわち、佐伯祐三が1日に風景モチーフのタブローを2種類(おそらく彼の制作法から作品枚数的にはもっと多いと思われる)仕上げている日には、かなり近接した下落合の街角風景を描いている可能性の高いことがわかる。これは、散歩の途中で気に入った風景モチーフを複数箇所見つけるからだと思われ、『墓のある風景』と同日の午後(?)には『レンガの間の風景』(15号)が制作されている。しかし、現存する佐伯の「下落合風景」シリーズには、それに相当する画面が存在していない。
 「制作メモ」Click!を参照すると、同じ日に近接した風景を描いた例としては、上述の1926年(大正15)9月20日に制作された『曾宮さんの前』と『散歩道』のほか、9月19日の『原』Click!(15号)と『道』Click!(15号)、9月28日の『八島さんの前通り』Click!(20号)と『門』Click!(20号)、9月29日の『文化村前通り』Click!(20号)と『切割』Click!(20号)、10月21日の『八島さんの前』Click!(10号)と『タテの画』Click!(20号)、10月23日の『浅川ヘイ』Click!(15号)と『セメントの坪(ヘイ)』Click!(15号)などが挙げられ、いずれもごく至近距離の描画ポイントで風景を同じ日に描いている。
この画面は、8月以前に描かれていた同作Click!とは別画面とみられ、曾宮一念が常葉美術館で観た40号の画面Click!を含め、バリエーション作品ではないかとみられる。
 佐伯がたどる散歩コースにおける、制作の特長や性癖のようなものが垣間見える気がするけれど、『墓のある風景』と同日の9月22日に描かれた『レンガの間の風景』は、いったいどこを描いたものだろうか。前者は20号で、後者は15号とキャンバスのサイズが異なっているので、佐伯祐三は一度アトリエにもどって昼食を食べたあと(?)、再び15号のキャンバスを手に『レンガの間の風景』の描画ポイントに向かっていると思われる。わたしが1970年代から見てきた実景では、空襲から焼け残った『墓のある風景』周辺の住宅街に、レンガ造りの邸宅、あるいはレンガの塀をめぐらした住宅は記憶にない。
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 ひょっとすると、大邸宅が建ち並んでいた久七坂Click!が通う目白崖線の斜面に、レンガ造りの塀でも連なっていたのだろうか。それは、赤い屋根にフィニアルが載る池田邸のものだったかもしれない。これまで、佐伯作品を観てきたわたしの勘では、薬王院近くの風景のように感じるが、どなたか久七坂の古い風情をご存じの方がいればご教示いただきたい。

◆写真上:1926年(大正15)9月22日の制作とみられる、佐伯祐三『墓のある風景』。
◆写真中上は、2葉とも塗りなおされる前に撮影した薬王院の剥脱した塀の内部。中上は、幅の薄い塀を支える墓地内部の控え壁。中下は、墓地南側の斜面にある塀は独特なアールデザインが採用されている。は、旧・墓地に残る江戸期の五輪塔や蘭塔(卵塔)、宝篋印塔で、周囲の卒塔婆が佐伯の時代に比べかなり短くなっている。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる『墓のある風景』の描画ポイント。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる描画ポイント。中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイントで、空襲の被害をまぬがれた住宅街が拡がっていた。は、塀が塗りなおされる前に撮影した薬王院の塀沿い。
◆写真下は、佐伯が描いた家とほぼ同時期に建てられた現存するT邸。は、薬王院周辺の佐伯祐三が描いたタブローと描画ポイント。は、『墓のある風景』の現状。右手のベージュ外壁に赤い屋根の邸が、佐伯が描いた下落合811番地の東嶌邸跡。
おまけ
 大正期の下落合で多く見られた、宅地造成による下水溝(側溝)の痕跡。住宅敷地を大谷石による縁石で囲み、下水用の側溝には花崗岩またはコンクリートなどの蓋で覆われていた。
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華族たちが集まる昭和初期の落合地域。 [気になる下落合]

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 先日、1938年(昭和13)に作成された「火保図」で、日本デイゼル工業と安達堅造邸Click!をしらみつぶしに探していたところ、昭和期に入ってから落合地域へ転居してきている華族の多いことに気がついた。それは、明治以来の大名や公家筋などもともとの華族や、明治期以降に功績のあった人物に付与される“新華族”の別を問わない。
 以前、拙ブログでは落合地域とその周辺域に集まる徳川家Click!とその関連家系について書いたことがあるが、それは同家が元をただせば姻戚同士だからで、近くに住みたくなるのはあたりまえだから自然の流れのように感じていた。だが、華族が落合地域とその周辺域に集まるのはなぜだろう? 考えられる理由は、3つほどあるだろうか。
 まず、理由のひとつは関東大震災Click!で市街地の大半が壊滅すると、自邸を郊外へ移転する家々が続出した。華族も例外ではなく、転居先を検討する際に山手線の駅が近くて交通の便がよく、住宅地の開発が盛んな豊多摩郡落合町とその周辺に目をつけたという経緯だ。目白文化村Click!近衛町Click!アビラ村Click!など、他には見られない当時としてはオシャレで最先端の街づくりが行われていた点にも注目したかもしれない。
 理由のふたつめは、いわゆる「堂上華族」と呼ばれる近衛邸Click!や、日本でもっとも古い大名(鎌倉幕府の守護含む)である相馬邸Click!、あるいは徳川邸Click!など、目白崖線沿いには華族の屋敷Click!が明治期から建てられつづけていたので、「どうせなら“同族”が多い地域へ引っ越そう」と考えたのかもしれない。目白崖線の東側は、明治期からの開発で住宅地にあまり余裕はないが、西側の落合地域ならまだ広めの宅地が残っており、かつリーズナブルに屋敷を建てられる……という算段もあっただろうか。
 理由の3つめは、しごく単縦に華族の子弟や孫たちが通うことになる、近衛篤麿Click!が生前に計画し目白駅の東側へ移転させた学習院Click!へ、徒歩でも通える立地条件だったことだ。これらいずれかの理由から、あるいは複合する理由から、落合町やその周辺域へ転居してくる華族が、昭和期に入ると急増しているとみられる。
 たとえば、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、同時点で5家の新たな転入華族が紹介されている。同書から、少し引用してみよう。
  
 従四位 子爵 板倉勝史  下落合五三四
 当家は板倉周防守重宗の次男伊予守重形の後裔、重形兄重郷より分れて上州安中三万石の城主となる、それより十代を経て先代勝観氏明治十七年子爵を授けらる、氏は其の二男にして明治二十一年十月を以て生れ大正十二年家督を継ぎ襲爵被仰付、先是明治四十四年学習院高等科を卒業さる。
  
 ちなみに、板倉家は大正末にはすでに下落合534番地(現・下落合3丁目)に転居してきており、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に収録されている。おそらく、関東大震災の直後に市街地から下落合へ転居してきているのだろう。ちょうど、雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)の戸田康保邸Click!(1934年より徳川義親邸Click!)の道路をはさんだ南隣りの位置で、目白聖公会の北側(裏)にあたる角の敷地だ。板倉邸前の道路を120mほど西へ歩けば、大久保作次郎アトリエClick!にたどり着く。
 以下、『落合町誌』の「人物事業編」からつづけて引用してみよう。
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富小路邸跡.jpg
  
 正四位子爵/貴族院議員 富小路隆直  上落合四六五
 当家は関白左大臣二条道平の男左衛門佐道世の後、道世分家を創立なし其邸富小路に在るを以て家号となす、夫より二十代を経て先代敬直に至り明治十七年子爵を授けらる、(中略) 大正六年東京帝大法科大学政治科を卒業し現時貴族院議員の任に在り。夫人ふさ子は長野県士族鳥羽林太氏の二女にして養子文光氏は子爵三室戸敬光氏の二男である。
  
 武門出の板倉家とは異なり、典型的な公家出身の華族だ。上落合465番地(現・上落合2丁目)は、現在の上落合中通りに面した地番で、同地番から西へ伸びる路地を入れば、40mほどで右手(北側)に上落合467番地の大賀一郎邸Click!が、その少し奥の同469番地には神近市子邸Click!と同470番地の鈴木文四郎邸Click!が、道路を90mほど進んだ左手(南側)には同470番地の吉武東里邸Click!が、また道路を抜けてT字路の正面には同670番地の古川ロッパ邸Click!が建っているような一画だった。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照しても、同地番に収録された7軒(そのうちの1軒は上田邸と記載されている)の住宅には、それらしい大きめな屋敷が見られないので、富小路隆直邸はふつうの一般住宅だった可能性が高い。
  
 正四位男爵/貴族院議員 今園國貞  下落合六七一
 当家は内大臣勸修寺の末家芝山の支流である、先君國映公は宮内大輔芝山國典の二男にして幼児興福寺に入り同寺中賢聖院の薫職たりしが、明治維新と共に勅命に依りて復飾し堂上の格を賜はり姓を今園と称す、同八年華族に列し同十七年男爵を授けらる。(中略) 現時貴族院議員にして公正会に属す、傍ら日本大学講師たり、(後略)
  
 今園家も、藤原氏の流れをくむ公家が出自の華族だ。下落合671番地(現・中落合2丁目)は、現在の国際聖母病院Click!の西端に位置する敷地で、不動谷(西ノ谷)Click!の谷戸沿いに南へ長く伸びる第三文化村のエリアだったとみられる。三間道路をはさんだ西隣りには、下落合667番地の吉田博・ふじをアトリエClick!があり、北隣りには佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!で最大サイズの「テニス」(50号)Click!をプレゼントした落合第一尋常小学校Click!の教師・青柳辰代邸Click!があった。下落合661番地の佐伯アトリエからは、南へ直線距離でわずか60mほどのところだ。
 だが、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、下落合671番地には150~200坪の宅地がふたつ描かれているだけで住宅は採取されていない。下落合へ短期間だけ住み、その後すぐに転居したか、あるいは誤りだらけな同図の採取漏れの可能性がある。
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 従四位子爵 渡邊英綱  上落合五八六
 当家は渡邊半蔵守綱の子重綱の五男、丹後守吉綱の後裔にして吉綱秩禄を分たれて徳川氏に仕へ泉州伯太其他一万三千五百二十石余を領す、夫より九代を経て先代章綱氏明治十七年子爵を授けらる、氏は先代寛綱氏の二男として明治二十七年三月を以て生れ、大正三年家督を相続し、襲爵被仰付。夙に東京農業大学を卒業す。(後略)
  
 武門の出である渡邊家の上落合586番地は、厳密にいえば1935年(昭和10)以降は消滅してしまった地番だ。現在の道筋でいうと、山手通り(改正道路)の下ないしは東端になっており上落合2丁目と3丁目の中間にあたる敷地だ。『落合町誌』の当時は、ちょうど落合富士Click!(大塚浅間古墳Click!)のすぐ北東あたりに位置する地番だった。
 1938年(昭和13)作成の「火保図」を見ると、すでに道路工事の計画予定が明確化していたのか、家屋が立ち退いたあとで上落合586番地は欠番となり、空き地が拡がっているような状態だった。渡邊家も、工事計画の進捗でどこかへ移転しているのだろう。
  
 正四位勲四等/鉄道技師 男爵 松村務  上落合六〇六
 本家は元金澤藩士にして先考務本明治初年身を陸軍に投じ累進して陸軍中将に陞る、其の間各重要軍職に歴任し、西南戦役、日清戦役に出征して功あり、殊に日露役には第一師団長として旅順攻囲軍に参加し偉功を樹て、同廿八年一月陣中に戦没す、同四十年十月当主先功に依りて華族に列せられ男爵を授けらる。男は其の二男として明治十七年三月の出生、同四十三年東京帝大工科大学土木科を卒業し鉄道院に奉職す、(後略)
  
 明治以降に功績があった、元軍人のいわゆる“新華族”の家系だ。上落合606番地もまた、先の上落合586番地とともに山手通り工事にひっかかっているが、1938年(昭和13)の「火保図」には地番が残されている。だが、すでに松村邸は見えず同地番には瀧沼邸と富士アパートの2軒が採取されているので、1935年(昭和10)前後には転居しているのだろう。
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 その後、落合地域には皇族や華族の屋敷が建ちつづけるが、文字数がオーバーぎみのためこのぐらいに。上記に挙げた5人の華族は、30~40代の壮年ばかりなのも大きな特徴のひとつだろうか。いちばん年上が、『落合町誌』(1932年)発刊の時点で満50歳の男爵・今園國貞だ。華族の中でも、比較的若い後裔の世代が落合地域に転居してきており、東京市街地の屋敷にこだわらず、当時はいまだ郊外の新興住宅地だった落合地域へ転居しても、それほど抵抗感がなかった世代……ということにもなるだろうか。

◆写真上:下落合の相馬孟胤邸Click!にあった、黒門(正門)Click!脇の番所長屋。
◆写真中上中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合534番地の板倉勝史邸と、板倉邸跡の現状(道路右手)。正面に見える緑は、徳川邸(旧・戸田邸)の敷地。中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合465番地の富小路隆直邸あたりと、上落合中通りから路地をはさんだ465番地を見た現状。
◆写真中下中上は、「火保図」にみる下落合671番地の今園國貞邸跡と、今園邸跡の現状(道路右手)。「火保図」には建物が採取されておらず、1938年(昭和13)には転居しているか採取ミスの可能性が残る。中下は、「火保図」にみる上落合586番地の渡邊英綱邸あたりと、上落合606番地の松村務邸界隈。1938年(昭和13)には改正道路(山手通り)計画が具体化しており、両邸ともすでに立ち退いている可能性が高い。現状写真では、渡邊邸は画面手前で、松村邸は山手通りの中央あたりになっている。
◆写真下:1936年(昭和11)の空中写真にみる、下落合と上落合の華族邸一覧。

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