So-net無料ブログ作成
気になる下落合 ブログトップ
前の5件 | 次の5件

「肥ったうえにも肥えて」ドッシリの壺井栄。 [気になる下落合]

上落合郵便局周辺.JPG
 短期間で転居を繰り返す、昭和初期の小坂多喜子Click!上野壮夫Click!の生活はめまぐるしい。小坂多喜子は、寄宿させてもらっていた上落合469番地の神近市子邸Click!を出ると、ほんの2ヶ月ほど神近邸の近くに借りた自分の下宿に住み、上野と結婚してからは妙正寺川の北側にあたる葛ヶ谷御霊下(のち下落合5丁目)の836番地ないしは857番地で暮らし、ほどなく上落合郵便局のある大きなケヤキClick!が目印の、上落合665~667番地界隈に引っ越している。
 ふたりが左翼運動をしていたから転居が頻繁だった……というよりも、当時の作家や画家たちがしょっちゅう居どころを変えるのは、別にめずらしいことではなかった。それは、“気分転換”と語られることが多いが、より安い家賃の家に移ったり、周囲の環境(騒音や商店街の遠さ)が気に入らないため、生涯借家の暮らしがあたりまえの当時としては、引っ越しが気軽に考えられていたからだ。
 だが、小坂・上野夫妻が上落合郵便局近くの家から1931年(昭和6)3月に転居した、池袋駅も近い豊島師範学校Click!裏の長屋は、明らかに地下へ潜った共産党のアジトのひとつだった。ここで、上野壮夫は地下活動を支援していて逮捕され、小坂多喜子は夫が拘留中に長男を出産することになった。夫婦で子どもを育てるのが無理なので、この長男はのちに岡山の親もとにあずけられている。
 このアジトは、豊島師範学校裏に拡がる広い草原の向こう側にあり、多喜子の次女である堀江朋子『風の詩人-父上野壮夫とその時代-』(朝日書林/1997年)によれば、安普請の「家並の前の細い道の一番奥の道を左に折れた所に四軒長屋があった」と書かれている。1936年(昭和11)の空中写真で、その表現を参照しながら道をたどると、はたして立教大学のすぐ手前に、4軒とも同じ規格の長屋を見つけることができる。「そのとっつきの家が二人の住いであった」(同書)の場所は、西巣鴨町(大字)池袋(字)中原1262~1263番地(現・西池袋3丁目)あたりに建っていた長屋だろう。
 さて、この池袋のアジトから阿佐ヶ谷へ転居し、小林多喜二の虐殺事件Click!のあと再び夫妻は上落合(2丁目)829番地の“なめくじ横丁”Click!にもどってくるのだが、夫が検挙されて不在中に池袋のアジトで長男を出産し、乳飲み子を抱えて途方に暮れていた小坂多喜子は、阿佐ヶ谷へ転居する直前、上落合503番地の壺井栄Click!のもとへ相談に訪れている。そのときの様子を、1986年(昭和61)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』から引用してみよう。
  
 私の記憶にある壺井栄さんの最初の家は、上落合のたしか鹿地亘氏の近くにあった家である。当時の上落合はプロレタリア作家の巣で、村山知義氏や中野重治氏、神近市子氏などそれぞれ近くに住んでいた。/あまり手入れのしていない高い樹木が道路のある南側を取りかこんでいる、薄暗いような家の客間兼居間とおぼしき部屋に、私は最初の男の子を抱いて放心したように座っていた。その家は、そのころ、そのへんによく見かけたありふれた間取りの平家で、南側の真中に玄関があり、その両側に部屋があった。/私はその時打ちのめされて、虚脱したように放心していて、その八畳間の縁近くに座っていた時の、絶望的な気持だけがいまだに強く残っている。夫は当時非合法運動をしていて、私は最初の子供を、夫が四谷署に一ヵ月あまり検挙されていた留守中のアジトで、三日三晩苦しんだあげく産み、産後の肥立ちも悪く、経済的な生活の見通しもないような時だった。私はそういう状態のなかで壺井さんの家に、行き場のない気持で、ふらふらっと訪ねたのだ。
  
四軒長屋1936.jpg
鹿地亘460.JPG
中野重治・原泉481.JPG
 登場している鹿地亘Click!の家は上落合460番地、つまり全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部が置かれていた家だ。彼は、のちに下落合4丁目2135番地(現・中井2丁目)に住み、GHQによる「鹿地事件」のあとは上落合1丁目36番地に転居している。
 周辺には、文章に書かれている上落合503番地の壺井栄Click!壺井繁治Click!の家をはじめ、上落合186番地の村山知義Click!村山籌子Click!のアトリエ、上落合481番地に家があった中野重治Click!原泉Click!、上落合469番地または少しあとに476番地の神近市子Click!などが住んでいた。今回の記事とはまったく関係ないが、ちょうど同時期に上落合242番地から同427番地には「国民文学」の歌人・半田良平が住んでおり、半田は1945年(昭和20)に上落合427番地の家で没している。
 上落合503番地の壺井栄は、当時は4~5歳だった養子の真澄を育てるのに夢中で、訪ねてきた小坂多喜子にはおもに子育てのアドバイスをしていたようだ。壺井夫妻が上落合549番地に転居してからも、小坂多喜子は頼りになりそうなドッシリとかまえる壺井栄を訪ねている。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 二度目に訪れた家は、上落合の郵便局の裏の、高いけやきの木のある細い坂道を上ったところの路地の二階家だった。これはまた倒れそうな、スリラー小説にでも出てきそうな二階家で、この家に住んでおられた時の栄さんは生涯のうちでも、いちばん苦労をなさった時期かもしれない。繁治さんは、検挙されて留守がちのようだったし、台風のとき、古い畳をつっかい棒に一晩中ささえていたという話をきかされたのも、この家だった。毛糸のあみ物に熱心で、手先の器用な栄さんは、こまかい模様あみなどもみるみるうちにあまれて、それがまた、あみ目が揃っていて、きれいで美しく、専門家はだしだった。それが当時の生活の支えにもなっていたようだった。そのころ、落合の小学校の校庭が見おろせるところに一人で住居をかまえていた中条百合子さん(中略)の家でも、栄さんに時々会った。中条さんのグリーンの大きなカーディガンを熱心にあんで居られた。
  
 壺井栄が上落合549番地に住んでいた時期で、壺井繁治が豊多摩刑務所Click!に収監中のころに訪ねたものだろう。書かれている中條百合子は、すでに結婚して宮本百合子Click!になっていたが、夫が獄中にいたため上落合740番地の借家で女中とともに暮らしていた。小坂多喜子は「落合の小学校」としているが、宮本百合子がチーチーパッパがうるさくて執筆できないと癇癪を起こしノイローゼ気味になった、中井駅前の落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校)のことだ。
 当時もいまも、女縁Click!(女性のネットワーク)はすごい。小坂多喜子は、落合地域とその周辺域に住む多くの女性作家とは顔見知りで交流があり、彼女たちは頻繁に訪ね合っては、詳細な近況や暮らしの情報を交わしている。次のエピソードも、そのような環境で小坂多喜子が垣間見た壺井栄の姿だ。引きつづき、同書より引用してみよう。
上落合斜めフカン1941.jpg
壺井栄戸塚4丁目592番地洋装店.jpg
壺井栄・壺井繁治503.JPG
  
 「大根の葉」を発表された当時、私には二人目の娘が産れて、そのお産の手伝いに田舎からきていた女の子を佐多さんの家の女中さんに世話してはくれまいかと言って、佐多さんと連れ立って上落合の私の家に訪ねてこられた時の栄さんは和服姿だった。若い頃の栄さんは、後年の渋い和服姿から想像できないほどだいたんな、モダンな感覚の洋服を着ておられた。当時私たちは東中野駅まえの線路沿いの、前に柵の見える洋装店で洋服を注文していたが(たしかサカエ洋裁店といい、バレリーナの谷桃子の両親があるじだった)、ある時、その店で真黒の、当時流行したメルトンという生地のオーヴァーを栄さんが作られた。真黒の表地に真赤な裏地をつけたオーヴァーで、当時としては非常にだいたんな取合せで、私はそのオーヴァーを着た栄さんが、真赤な裏地をけ立てるようにして差入れに行かれていた姿を今もはっきりとおぼえている。
  
 さすが、オシャレには眼がきく小坂多喜子の文章だが、若いころの壺井栄もファッションにはうるさかったようで、彼女たちは馴染みの洋裁店を東中野駅の近くにもっていた様子がわかる。ちなみに、中央線沿いのサカエ洋裁店だけれど、各時代の「大日本職業別明細図」Click!を参照してみたが見あたらなかった。「佐多さん」とは、もちろん下落合の南に接した戸塚町上戸塚593番地、のち淀橋区戸塚4丁目593番地(現・高田馬場3丁目)に住んでいた窪川稲子(佐多稲子)Click!のことだ。
 ある日、小坂多喜子は壺井繁治から「(妻が)便所の掃除をしない」とグチをこぼされた。それは「一種嘆息のような調子で、思いあまって、困惑されて、吐き出されたような言葉」(同書)だったが、主婦の仕事をこなしながら作家活動をするなど、そんな「なまやさしい気持では何事もなし得ない」と壺井栄を擁護している。今日なら、人妻にグチッてるヒマがあったら「自分で掃除すればいいだけの話じゃん」で終わりだが、「新しい女」をめざした小坂多喜子でさえ、便所掃除は主婦の仕事という前提で、「便所の掃除を投げうった栄さんの勇気」が立派だと書いている。
壺井栄.jpg 小坂多喜子1935頃.jpg
壺井栄・壺井繁治549.JPG
壺井栄(晩年).jpg
 小坂多喜子は、「当時も肥っておられたが」と書きだしているが、壺井栄がドッシリと大仏さんのようになっていく様子を、上落合から東中野、そして鷺宮まで見つづけていた。戦後の晩年に、壺井栄はぜんそくによく効くドイツの新薬を試していたようで、その副作用からか「肥ったうえにも肥えて」と表現している。彼女は、あのドッシリとした体躯で「あなた、大丈夫よ。心配するだけ損よ」と、不安な気持ちを落ち着かせてもらいたくて、心を癒やしてもらいたくて、壺井栄を訪ねつづけていたのかもしれない。

◆写真上:小坂多喜子・上野壮夫が新婚家庭を営んだ、上落合郵便局周辺の街並み。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる池袋中原1262~1263番地の四軒長屋。は、鹿地亘が住んでいた上落合460番地の全日本無産者芸術連盟(ナップ)跡。は、中野重治・原泉夫妻が暮らした上落合481番地の邸跡。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された上落合東部の写真へ、文中に登場するプロレタリア作家・画家たちの住居をポインティングしたもの。は、1941年(昭和16)春に早稲田通りの戸塚4丁目592番地の洋品店前を藤川栄子Click!と散歩する壺井栄。は、上落合503番地にあった壺井栄・壺井繁治の旧居跡。
◆写真下は、ネコにも頼られそうな壺井栄()と小坂多喜子()。は、上落合549番地にあった壺井夫妻の旧居跡。(路地奥左手) 壺井繁治が「便所掃除をしない」と、小坂多喜子にこぼしたのはこの家だ。は、ドッシリとした壺井栄のプロフィール。

読んだ!(21)  コメント(24) 

岡不崩と本多天城の下落合アトリエ。 [気になる下落合]

本多天城アトリエ跡.JPG
 日本画界には歴代、「四天王」と呼ばれる画家たちがいる。江戸の末期、木挽町狩野派の10代・勝川院雅信(まさのぶ)の弟子たちだった狩野芳崖(ほうがい)、橋本雅邦(がほう)、木村立嶽(りつがく)、狩野勝玉(しょうぎょく)は「狩野派最後の四天王」と呼ばれたし、橋本雅邦や狩野芳崖の弟子たちだった下村観山(かんざん:芳崖弟子)、横山大観(たいかん)、菱田春草(しゅんそう)、西郷孤月(こげつ)は「雅邦四天王」、あるいは「朦朧体四天王」などと呼ばれている。
 そして、雅邦四天王とほぼ同時代を歩んだ狩野芳崖の弟子たち、岡不崩(ふほう)Click!岡倉秋水(しゅうすい)Click!、本多天城(てんじょう)、高屋肖哲(しょうてつ)の4人は芳崖四天王と呼ばれた。その四天王のうち、岡不崩とともに本多天城もまた下落合にアトリエをかまえていたことが判明した。情報をお寄せくださったのは、岡不崩のご子孫にあたるMOTさんだ。以下、コメント欄から引用してみよう。
  
 父より本多天城宅について改めて聞きました。落合道人様ご指摘の通り一ノ坂の途中にあって,坂を上がった突き当りのひとつ前の十字路を右に曲がった場所にあったと申してました。岡不崩の遣いで出向くと褒美に1銭の駄賃がもらえて,それで大福6個が買えたらしいです。十字路の左側には駄菓子屋?があって駄賃を使ったとか。岡不崩アトリエの裏は空き地になっていて中井通りを回らずに一ノ坂に抜けることができたそうです。
  
 さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、蘭塔坂(二ノ坂)Click!沿いの下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)にある岡不崩(岡吉壽)アトリエ(やはり表札が達筆で読めなかったのか姓が「岡吉」と誤記されている)のすぐ北側、急な一ノ坂を上りきってしばらく歩くと、上の道(坂上通り)Click!に突きあたる2本手前の路地を、右に折れた角から2軒目に本多天城アトリエを見つけることができる。当時の住所でいうと、下落合4丁目1995番地だ。
 この敷地は、まったく同じ住所である川口軌外アトリエClick!の3軒南隣りであり、下落合4丁目1986番地にあった阿部展也アトリエClick!の2軒北隣りという位置関係になる。また、本多天城アトリエの西隣りには、「熊倉」という苗字が採取されているが、これがMOTさんの書かれている「熊倉否雨」の住まいであり、同じく日本画家のアトリエだろうか? 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、残念ながら岡不崩とともに、本多天城や熊倉否雨の名前は記録されていない。
 MOTさんのお父様、つまり岡不崩のご子息の証言によれば、岡不崩アトリエ裏の空き地を通ってそのまま一ノ坂に抜け、坂を上りきった上の道(坂上通り)へ出る手前の十字路を右へ曲がると、本多天城アトリエ(2軒目)があった……という道順は、「火保図」ともピタリと一致し、しかも1936年(昭和11)に撮影された空中写真では、1銭のお駄賃が楽しみな“おつかい散歩道”を完全に再現することができる。おそらく、大福を売っていた店は下落合4丁目1990番地、すなわち十字路の北西角に店開きしていたタバコ店(店名は不明)のことで、目白文化村Click!近くの商店がみなそうだったように、タバコといっしょに副業で菓子も販売している店舗だったのだろう。
 岡不崩が、狩野芳崖のもとに入門したのは1884年(明治17)ごろといわれ、芳崖の弟子では最古参といわれている。本多天城は、翌1885年(明治18)に芳崖のもとへ30回以上も通って、ようやく入門を許されている。それは、芳崖が「己れの画風は飯が喰えぬから夫れでもよろしきや?」(高屋肖哲の回想)というように、弟子をとることにかなり消極的だったせいだろう。天城は最初、近澤勝美について洋画を学んでいたが、芳崖の作品に魅了されて転向したらしい。不崩と天城とは同年ごろ知り合ったとみられるが、弟弟子の天城は不崩の2歳年上だった。だが、狩野芳崖は1988年(明治21)に死去してしまうため、実際に彼らが師弟だった時間はわずか4~5年にすぎない。
本多天城アトリエ1938.jpg
岡不崩アトリエ1938.jpg
本多天城アトリエ1936.jpg
岡不崩アトリエ.jpg
 狩野芳崖の指導法は独特だったらしく、実際に日本画の技術面を教えていたのは狩野友信であり、芳崖はおもに画論や作品に対する批評を弟子たちに聞かせていた。当時、狩野芳崖は小石川植物園にあった図画取調掛(所)に勤務しており、弟子たちはそこへ当然のように出かけていっては絵を習っていた。当時の様子を、2017年(平成29)に求龍堂から出版された『狩野芳崖と四天王-近代日本画、もうひとつの水脈』所収の、椎野晃史『芳崖四天王コトハジメ』で引用されている岡不崩『鑑画会の活動』から孫引きしてみよう。
  
 芳崖・友信翁二翁が毎日出勤して画をかいている。我々も毎日弁当を持って出かける。然し余等ハ掛員でもなんでも無い。それならば何んで行くのかそこが面白いのだ。我々の頭脳にハ茲は役所であると云ふ考えが浮かばない。芳崖先生の画塾か鑑画会の事務所としか思へなかった。取調所の小使や植物園の人達は、余等を取調所の生徒だと思っていた。毎日出かけて行って鑑画会へ出品する画をかいている。古画の模写をやる、下画が出来ると芳崖先生の批評を受ける、(狩野)勝玉や(山名)貫義がやってくる、(狩野)探美や(木村)立嶽なども遊びにくる。どを(ママ)しても画塾である。(カッコ内引用者註)
  
 小石川植物園に置かれた図画取調掛(所)の実態は、狩野派の画家たちが集って新しい日本画を研究し模索した画塾だったのだろう。ときに写生旅行も行われ、芳崖が死去する前年、1887年(明治20)4月には芳崖とともに狩野友信、岡倉秋水、岡不崩、本多天城が連れだって妙義山に出かけている。
 狩野芳崖は、臨本や粉本の類を嫌っていたようで、図画取調掛(所)の実情は画塾だったにしても、とても日本画の塾とは思えない自由な学びや表現が許されていたようだ。
岡不崩アトリエ1926.jpg
岡不崩「一騎討」不詳.jpg
岡不崩「群蝶図」1921.jpg
 同書の椎野晃史『芳崖四天王コトハジメ』より、再び引用してみよう。
  
 (前略) 芳崖は放任主義であるが、決して弟子のことを顧みなかったわけではない。不崩によれば出来上がった画を芳崖に持っていくと、紙に塵が混じっていれば小刀で削り取って、色なり墨なりで繕ってくれたという。そんな芳崖に対して不崩は「其親切と熱心なのには敬服の次第である」と述べている。また芳崖が下画を直す際には「その図の心持ちを取って、それを完全ならしめるやうに」したという。自身の型を押し付けるのではなく、芳崖の教育方針はあくまで自主性を重んじたものであった。
  
 芳崖の死の翌年、1889年(明治22)に図画取調掛(所)や鑑画会を母体にした東京美術学校(初代校長:岡倉覚三=天心)が設立されると、芳崖四天王の4人は天心の勧めもあって同校の第1期生として入学している。だが、翌1890年(明治23)に天心の引き抜きで、岡不崩は東京高等師範学校の美術講師に、岡倉秋水は女子高等師範学校の美術講師に就任するために同校をわずか2年で中退している。本多天城は、高屋肖哲とともに卒業しているが、やはりのちに教職を経験している。
 さて、本多天城が下落合へアトリエをかまえたのは、いつごろのことだろう? 岡不崩は大正末、すでに下落合へアトリエを建てて転居してきており、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」には採取されているが、本多天城アトリエの敷地はいまだ草原のままだ。1930年(昭和5)の1/10,000地形図を参照しても、相変わらず空き地表現のままなので、天城アトリエの建設は1931年(昭和6)以降のように思える。同年、岡不崩と高屋肖哲は東京美術学校創立時のエピソードを語る座談会に出席しており、それを読んで懐かしくなった天城が、不崩のもとへ連絡を入れた可能性もありそうだ。
 また、本多天城は岡不崩から日本画と西洋画を問わず、画家たちのアトリエが集中している下落合の様子を聞いていたのかもしれない。さらに、もう一歩踏みこんで推測すれば、大正末に計画されていた東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画も、岡不崩あるいは日本画がベースであるアビラ村の発起人のひとりである夏目利政Click!あたりから、事前にウワサ話として聞きおよんでいたのかもしれない。
岡不崩.jpg 本多天城.jpg
本多天城「水草」不詳.jpg
本多天城「水墨山水」不詳.jpg
 わたしの母方の祖父Click!は、売れない書家で日本画家だったが、苗字は代々「狩野」だった。おそらく明治維新とともに大江戸(おえど)とその周辺域から失職して四散した、江戸狩野派の末流だと思われるのだが、早くから横浜に住んでいる。きっと、明治以降に失業した数多くの幕府や諸藩の御用絵師たちと同様に、欧米へ輸出用の書画や器物用の絵柄を描きつづけていた、狩野一派のなれの果てではないかと想像している。

◆写真上:下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)にあった、本多天城のアトリエ跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる本多天城と岡不崩のアトリエ。は、MOTさんのお父様がおつかいに出かけた「大福楽しみお遣いコース」。は、本草学会を結成し多彩な植物の鉢が置かれていた岡不崩のアトリエ庭。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる岡不崩アトリエ。いまだ本多天城アトリエは建設されておらず、十字路も敷設されていない。は、坂東武者の騎馬戦を描いたと思われる岡不崩『一騎討』(制作年不詳/部分) 時代は鎌倉期の想定だろうか、太刀と長巻による太刀打ちの刹那を描いている。は、1921年(大正10)制作の植物や蝶の描写が精細かつ正確な岡不崩『群蝶図』(部分)。
◆写真下:上は、岡不崩()と本多天城()。は、制作年不詳の本多天城『水草』(部分)。は、やはり制作年不詳の本多天城『水墨山水』(部分)。画面の背景に描かれた樹木や草原、山々の描写には、明らかに雅邦四天王による朦朧体からの影響が色濃い。
おまけ
MOTさんのお父様が、本多天城アトリエへお遣いに出かけ、途中で立ち寄っていた十字路角地の商店。1938年(昭和13)の「火保図」では「タバコ」店と記載されているが、おそらく菓子類も置いて売っていたのだろう。写真は、タバコ店のあった跡の現状。
タバコ屋1938.jpg
タバコ屋跡.JPG

下落合3丁目1986番地(現・中井2丁目)の山手坂上にあった、赤尾好夫邸=旺文社の「火保図」(1938年)と写真(1935年ごろ)です。
赤尾邸1938.jpg
赤尾邸1935頃.jpg

読んだ!(14)  コメント(27) 

小坂多喜子と伊藤ふじ子。 [気になる下落合]

クララ洋裁学院跡.jpg
 小林多喜二Click!が書いた小説『党生活者』(1932年)に登場するハウスキーパー「笠原ふじ子」を、平野謙は「ふじ子」の名前が重なることから、“ウラ取り”せずにフィクションをそのまま解釈して、伊藤ふじ子Click!のことをハウスキーパーだと規定したため、戦後の長期間にわたり誤った言説がつづくことになった。
 その後、潜行した小林多喜二の周囲にいた人々の証言から、伊藤ふじ子は多喜二の正式な妻だったことが判明し、平野謙は自身の誤りを認めているようなのだが、わたしはその文章をいまだ確認していない。小林多喜二と伊藤ふじ子が初めて出逢ったのは1931年(昭和6)の早春、彼女が新宿の果物店の2階に住んでいたころ、ビラ張りを手伝っていた人々に混じって多喜二がいたという経緯からのようだ。当時、多喜二は豊多摩刑務所Click!から保釈されたばかりで、3月から大山Click!(神奈川県)の麓にある七沢温泉に逗留する直前の出来事ということになる。
 画家になりたかった伊藤ふじ子は、このころ明治大学の事務局に勤務しながら、長崎町大和田1983番地にあった造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!プロレタリア美術学校Click!)へ通うため、目白駅から目白通りを頻繁に往来していた。画家が大勢住み、あちこちにアトリエがあった下落合地域(現・中落合/中井含む)に馴染んだのも、ちょうどこのころからだったのだろう。ほどなく、差出人に「七沢の蟹」と書かれた手紙が、伊藤貞助が経営していた新宿の書店経由で、伊藤ふじ子のもとへ頻繁にとどくようになる。もちろん「七沢の蟹」とは小林多喜二のことで、中身は求愛の手紙だった。1932年(昭和7)4月、伊藤ふじ子は多喜二と結婚して地下へもぐり、ともに潜行生活を送ることになる。
 1933年(昭和8)2月20日、小林多喜二が築地署で虐殺された夜、杉並町馬橋3丁目375番地に遺体が運ばれ通夜が行なわれていたとき、小坂多喜子Click!は異様な光景を目撃することになった。原泉Click!は、伊藤ふじ子が特高Click!に検挙されるのを懸念して、事前に「あんたが(小林多喜二の)女房だなどといったらどういうことになると思うの」といい含めておいたのだが、伊藤ふじ子は取り乱して夫の遺体にすがりついた。
 そのときの様子を、1985年(昭和60)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春―わたしの逢った作家たち―』から引用してみよう。
  
 その多喜二の死の場所へ、全く突如として一人の和服を着た若い女性が現われたのだ。灰色っぽい長い袖の節織の防寒コートを着たその面長な堅い表情の女性は、コートもとらず、いきなり多喜二の枕元に座りこむと、その手を両手に取って自分の頬にもってゆき、人目もはばからず愛撫しはじめた。髪や毛、拷問のあとなど、せわしなくなでさすり、頬を押しつける。私はその異様とさえ見える愛撫のさまをただあっけにとられて見ていた。(四十年を経た現在、これを書いていて、上野壮夫にその時の印象をきくと、やはりその場に居合せた人はあっけにとられて見ていたという。) その場を押しつつんでいた悲愴な空気を、その若い女性が一人でさらってしまった感じだった。人目をはばからずこれほどの愛情の表現をするからには、多喜二にとってそれはただの人ではないということだけは分ったが、それが誰であるかは分らなかった。その場に居合せた誰もが、その女性が誰なのか分らなかったのではないかと思う。如何に愛人に死なれても、あれほどの愛の表現は私にはできないと思われた。
  
時事新報19330222(夕刊).jpg
小林多喜二通夜20150220.jpg
 小坂多喜子Click!は「愛人」だと想像したようだが、彼女は多喜二の妻だったのだ。しかも、結婚してから10ヶ月ほどしかたっていない新婚夫婦だった。小坂多喜子は、「居合せた誰もが、その女性が誰なのか分らなかったのではないか」と書いているが、少なくとも原泉と「そっとここから消えてしまいなさい」と忠告した江口渙は、どこかでふたりの関係を耳にして知っていたのかもしれない。
 伊藤ふじ子は、多喜二の母・小林セキにも妻だと名乗って挨拶をしたようだが、澤地久枝によれば田口タキを多喜二の妻同然にあつかってきた手前、「死人に口無しだ」と彼女の申しでを突っぱねたとされている。
 小坂多喜子は『わたしの神戸わたしの青春』の中で、平野謙の「ハウスキーパー論」をそのまま踏襲して、伊藤ふじ子のことをハウスキーパーだと思いこんでいる。「イデオロギーの便宜のための、そういう女性の役目に私は釈然としないものを感じるのだ」と書いているが、その後、何度か伊藤ふじ子と偶然に出会っているにもかかわらず、多喜二の通夜の席で見せた彼女の言動を、あえて確認しようとはしなかったようだ。
伊藤ふじ子1.jpg 伊藤ふじ子2.jpg
クララ洋裁学院1936.jpg
目白中学校跡1928頃.jpg
 小坂多喜子が多喜二の死後、伊藤ふじ子と偶然知り合ったのは洋裁を通じてだった。小坂多喜子が上落合2丁目829番地に住んでいたころで、伊藤ふじ子は1933年(昭和8)11月30日にクララ洋裁学院を卒業して、下落合から東京帝大セツルメントClick!の講師として通いはじめ、同時に長崎のプロレタリア美術学校に通っていたころのことだ。伊藤ふじ子は、1934年(昭和9)に特高に逮捕され、やがて森熊猛と再婚しているので、その少し前ということになるだろうか。小林多喜二の虐殺から、およそ1年ほどが経過していた。同書より、再び引用してみよう。
  
 私はその彼女とその事件のあと偶然知り合い、私の洋服を二、三枚縫って貰った。その時の彼女の話をよく覚えている。それはどこか寂しい夜道を、彼女が棒をふりふり洋裁を習いに通ったという話である。人家のまばらな草のぼうぼうと生い繁った夜道を女が一人歩くのには護身用の棒が必要であったのであろう。彼女は多喜二の死のあと、自活するために洋裁を習いに通ったのであろうか。私はその彼女の芯の強さと行動力に打たれた。その時二人の間には小林多喜二の話は一言も出なかった。それからしばらくして、私たちの交際は何となく切れてしまった。
  
 文中の「人家のまばらな草のぼうぼうと生い繁った夜道」とは、目白中学校Click!が練馬へ移転したあと、下落合1丁目437~456番地の旧・近衛文麿邸Click!の所有地内にあった、広大な空き地(原っぱ)のことだ。その北西側にポツンと建っていたのが、下落合1丁目437番地に移転して間もない小池元子のクララ洋裁学院Click!だった。
 つまり、小坂多喜子の聞いた言葉が誤りでなければ、目白通りから入ってすぐ(約50m)のクララ洋裁学院へ、伊藤ふじ子は目白通り側からではなく南側または東側から、広大な空き地(草原)を縦断ないしは横断して、「棒をふりふり」通っていたことになる。換言すれば、下落合で暮らした伊藤ふじ子の借家ないし下宿先は、目白中学校跡地の南側ないしは東側のどこかである可能性がきわめて高いことになるのだ。
クララ洋裁学院路地.JPG
下落合の雪景色.JPG
 小坂多喜子が、もう少し伊藤ふじ子と親密になっていれば、謎が多い小林多喜二の地下生活について詳細な証言が得られ、また下落合での彼女の住所も判明したのではないかと思うと残念でならない。伊藤ふじ子は森熊猛との再婚後、晩年に残したわずかなメモ類や「彼は」で終わる未完の手記を除き、多喜二についてはいっさい黙して語らなかった。

◆写真上:下落合1丁目437番地(現・下落合3丁目)に2000年(平成12)まであった、クララ洋裁学院の跡地。当時は、突き当たりから左手一帯が広い空き地だった。
◆写真中上は、1933年(昭和8)2月22日の時事新報に掲載された小林多喜二の死亡記事。特高による検閲で拷問死とは書けず、「怪死」がせいいっぱいの表現だった。は、新発見の写真にとらえられた小林多喜二の遺族と通夜に駈けつけた人々。
◆写真中下は、森熊猛と再婚後の伊藤ふじ子。は、1936年(昭和11)の空中写真にみるクララ洋裁学院と目白中学校跡地で、広大な空き地の南東側のどこかに伊藤ふじ子の下宿ないしは借家があったとみられる。は、1928年(昭和3)ごろの冬季に撮影された目白中学校跡地Click!から目白通りの商店街を眺めたところ。
◆写真下は、クララ洋裁学院があった路地で正面を横切るのが目白通り。路地は行き止まりだが、画面右手から背後にかけてが広大な草原だった。は、下落合の森に降り積もる雪。黒い喪服がわりの洋服を身につけつづけた伊藤ふじ子にとって、1933年(昭和8)は下落合での立ち直りを賭けた、厳しく寂しい“冬物語”の1年間そのものだったろう。「限りなき孤独/ひたすらにかたむく思想/ありし日の夢も失せて/凍る冬 死の虚ろさ……」(上野壮夫『抒情』/「人民文庫」1937年6月号)より。

読んだ!(19)  コメント(22) 

下落合18番地で印刷された「時代」。 [気になる下落合]

祖谷印刷跡1.JPG
 1935年(昭和10)4月に民族社から刊行された文芸誌「時代」は、下落合1丁目18番地にあった祖谷印刷所で刷られていた。この「時代」という文芸誌は、創刊号だけで終わってしまったようだが、あまたの文芸時評の中に、同年に開催された独立美術協会Click!の第5回展の展評が掲載されていて目をひく。いまや古書店でも見かけない、同誌の貴重なコピーを送ってくださったのは、三岸アトリエClick!山本愛子様Click!だ。
その後、同じく山本様の情報により、文芸誌「時代」は1935年(昭和10)の時点で第35号まで確認できることが判明した。
 「時代」創刊号が印刷されたのは下落合の祖谷印刷所だが、1938年(昭和13)になると同印刷所はすでに見あたらない。同年作成の「火保図」を見ると、下落合1丁目18番地には新たに月光堂印刷が開業している。おそらく、祖谷印刷所から社名を変更したか、印刷機など設備一式を居抜きで譲り受け、そのまま営業している次の印刷所なのだろう。同地番は、現在の十三間通りClick!(新目白通り)に面した清水川公園の西隣りで、西武線の線路をはさみ指田製綿工場Click!の北東側にあたる敷地だ。
 さて、同誌に掲載された「独立美術合評会」には、5人の評者が出席している。そのメンバーとは、画家であり彫刻家の清水多嘉示Click!、フランス文学者で評論家の小松清、小説家で劇作家の高橋丈雄、イタリア文学者の三浦逸雄、そして美術評論家の土方定一だ。おわかりのように、美術畑の人物は清水と土方だけで、あとの3人は文学畑の評者たちだ。合評は、清水多嘉示の「独立美術は現在日本に於て最も前衛的なものと思ひます。在来の日本絵画を見直してそこから新しく動きださうと云ふ気持が展覧会の指導的な立場になるんじやないかと考へてゐる」と、意気ごんでスタートした合評だが、清水は徐々に黙しがちになってしまう。
 なぜなら、独立展の多くの画家たちが、おもに文学畑の評者によってボロクソにいわれはじめたからだ。言葉少なになる清水多嘉示は、たとえばこんな具合だ。
  
 小松 どうです、清水君。/(清水氏躊躇してゐる間に三浦氏)
  
 清水多嘉示Click!が言葉少なになるにつれ、「どうです、清水君?」「清水君、どうかね?」という問いかけが増えていく。そもそも、この展評は洋画の前衛を自負する独立美術協会の画家たちを、ハナから批判する目的で開かれたのではないかとさえ思えるふしがある。合評の前提として提示されたテーマが、次のようなやり取りだったからだ。
  
 土方 (前略) 最近四、五年前まではともかく前進してきた一般人の芸術意識の後退といふことが考へられやしないでせうか? そして、独立展にしても、さういふものに直面した混乱といふか、追従といふか、それに対する各人の態度も興味深くでてゐる。(中略)
 三浦 思想的といふよりも、エスプリをかいてフオルムから入つて行つた画家の多いことを表はしてゐる。フオルムから行けばそれだけで一寸画はすゝんだやうに思ふ。しかし、真に新しいエスプリが新しいメチエを見付けた場合でないかぎり、一二年もつづけてやつてゐると、メチエの発見がない。
  
 ある意味で本質を突いている言葉なのだろうし、彼らにいわせれば「ホントのことだからしょうがないもん」なのだろうが、「誰のどこがいい」というポジティブな展評よりも「誰のどこがダメ」という言葉が大半を占めるにつれ、意気ごんで座談会に臨んだ清水多嘉示は、暗澹たる気持ちになっていったのではないか。清水は、少しでもいいたい放題の「悪評大会」を是正しようと試みているが、周囲の人たちとの会話が噛みあわない。
時代奥付.jpg
時代193504.jpg 独立美術合評会.jpg
時代目次.jpg
 第5回展の「第一室」から具体的な作品を対象とした評論がはじまり、清水は「良い悪いは別として」若い人たちががんばっていると水を向けるが、「作品として特別感心させられるものはない様だね」(小松)とにべもない。次々に出展作品が取りあげられるが、曾宮一念Click!については「絵画としてはそれほど進んでゐないと思ふ。矢張り諦観主義だよ」(小松)。野口彌太郎Click!については、「どこがよいのかわからなかった。風俗画という感じがした」(三浦)、「巴里風景などは下らないね」(小松)。児島善三郎Click!については、「マンネリズムだと思ふ、あの人の獲得したものは」(高橋)、「サロン的エレガンスに余り魅力も持てないし、また期待ももたない」「感性ばかりに阿ねつていて、思想性が欠けてゐる」(土方)という具合だ。
 伊藤廉については、「下らんね」(高橋)、「あの山々も大観ばりで、全くどうかと思ふ」(小松)。須田国太郎については、「結局頭でしかかいてゐないと云つた風な絵だね」(小松)、「死んだやうな絵だね」(三浦)。ここで清水多嘉示が、須田国太郎について「この人の力といふものが判つてきた様な気がする」とやや弁護するが、周囲から一蹴されてしまう。中村節也については、「作家の感性生活内容の貧しさをかくすため芸修行と云つたところ」(小松)……。そして、中村節也や松島一郎、熊谷登久平などの新人が、これからの独立展を牽引していかなければならないんだから、「もつとしつかりやつてもらわねば」ダメじゃないかと結んでいる。
 この展評の中で、評者たちから無条件で褒められているのは、「時代」の寄稿者でもある福澤一郎Click!と、あと2年で独立美術協会から脱退する里見勝蔵Click!、そして三岸節子Click!だ。特に、同協会の会員でもない(女性なので会員にしてもらえない)三岸節子についてはベタ褒めに近い。同誌から、再び引用してみよう。
祖谷印刷跡2.JPG
祖谷印刷所(下落合1-18).jpg
児島善三郎.jpg 野口彌太郎.jpg
須田国太郎.jpg 中村節也.jpg
  
 小松 (前略) ところでこの辺で第二室に移つて三岸節子の作はどうかね。色彩のハーモニーの点から云つても画面全部の構成の点からみても立派な出来ばへだと思ふ。去年より一段と良くなつたと思ふが。(略) 単純な色を使つておそらく三色か四色使つてそれで豊かな感じを出すところなぞ独立にも珍らしい。
 三浦 あれはいい。三岸夫人の絵は素直なところがいい。この人の線は物体をかぎるだけの線でなくて、絵画的なポエジイを秩序づける句読点のやうなものだ。非常に素質のいい人だといふ感じがする。
 小松 今まで日本の女流作家であれだけの作風なり技術をもつたものは、先ず皆無と云つていゝ。兎も角サンチマンと云ひ理智の働きと云ひ、その二つの要素の共同の働きと云ひ、僕はそのユニテに感心する。
 三浦 女で今のところともかく本質的な意味でもよく出来てゐる人だと思ふ。
 小松 マチスやデユフイの影響は多い。しかしそれをあそこまにで十分咀嚼して自己のものにしたと云ふことには心から感服出来るね。
 三浦 去年も里見君と話したが、実に豊かな絵をかく人だ。女でなく男だつてあれだけは仲々描けないよ。
  
 辛口の批評者たち(清水多嘉示は除く)にしては、手放しで褒めているのが目立つ。福澤一郎と里見勝蔵を除き、その他の独立美術協会会員にしてみれば面目を丸つぶれにされたような展評だが、このような批評が積み重なって、児島善三郎をはじめ会員たちの嫉妬が高まり、三岸節子は4年後の1939年(昭和14)、「女性は会員になれないとの内規」を理由に同協会離脱する(弾きだされる)ことになるのだろう。
 第5回展の第十一室には、没後1年めにあたる三岸好太郎Click!の遺作も特別陳列されていた。それについて、「技術的にこの人の今までの仕事は概括的に説明出来ない」(土方)としながらも、「とに角、多くの影響をうけて自己の個性を育てて行つた点は三岸君の感覚の多様性を示すものだ」(小松)、「あれ位ひスウルレアリストで完成された人は居なかつたけれど」(三浦)と、おしなべて好評価されている。
三岸好太郎・里見勝蔵1933頃.jpg
時代紀伊国屋書店広告.jpg
 そして、「もちろん、ああいう人だから」という前提で、三岸好太郎Click!に「イデオロジツクのものを求めるのは無理かも知れぬが、エモーションは求められる」(小松)と、どこか憎めない「ああいう人」という性格も含めて、好意的にとらえられている。

◆写真上:下落合1丁目18番地の祖谷印刷所があったあたり(画面右手)、左側が十三間通り(新目白通り)で奥に見えているのが山手線のガード。
◆写真中上は、1935年(昭和10)4月に発刊された「時代」創刊号の奥付。は、「時代」の表紙()と座談会「独立美術合評会」の扉()。は、同誌の目次。
◆写真中下は、祖谷印刷所(のち月光堂印刷)の跡。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる月光堂印刷。中下は、独立美術協会の児島善三郎()と野口彌太郎()。は、同じく須田国太郎()と中村節也()。
◆写真下は、独立美術協会の創立メンバーだった三岸好太郎(左)と里見勝蔵(右)。は、同誌に掲載された新宿の紀伊国屋書店の田辺茂一・編による『能動精神パンフレット』出版広告。十返一や森山啓、舟橋聖一、田村泰次郎、窪川鶴次郎など落合地域やその近辺に関わりの深い作家たちの名前が並んでいる。

読んだ!(15)  コメント(17) 

小坂多喜子と小林多喜二。 [気になる下落合]

中井駅.jpg
 小坂多喜子Click!は、クールかつ進歩的な観察眼で人間を見つめる表現者であり、思想でゴリゴリに凝りかたまった融通のきかない共産主義者でも闘士でもない。思想や理想よりも先に、家庭や家族を愛し優先する生活者だった。だから、いろいろな局面で予断や思想的なフィルターを眼差しにあまりかぶせることなく、人間を細かくていねいに観察できたのではないだろうか。
 また、思いきりがよく寡黙がちだが、基本的には明るく楽観的な性格をしており、オシャレにも気を配る自由闊達でフレキシブルな精神の底流には、一度決めたらテコでも動かないような、芯の強情さも秘められていたようだ。彼女が生涯を通じて神近市子Click!を師のようにとらえ、その生き方に共鳴したのも、どこか共通する性格の根幹のようなものを感じていたからだろうか。
 そんな彼女が遭遇した許しがたい場面のひとつに、築地署の特高Click!による小林多喜二Click!の虐殺事件がある。小坂多喜子は、共産主義運動に加えられた階級敵の弾圧によって生じたあからさまで必然的な虐殺というような、左翼思想をベースとする理性的で位置づけ的な解釈よりも、こんなひどいことを平然と行なう政治は徹底的にまちがっている……というような、良識のある一般的な市民感覚で事件をとらえ、のちにトラウマになるほどの強烈な恐怖心を抱いた。虐殺事件を、あとあとまで感性的な認識でとらえるところに、小坂多喜子が夫とともに身を置いた思想の活動家としての「弱さ」があり、表現者としての息の長い「強さ」があったのかもしれない。
 小坂多喜子が小林多喜二Click!と出会ったのは、1930年(昭和5)3月に勤めはじめた有楽町駅のガード脇にあるビルの2階だった。神近市子Click!が紹介してくれた山田清三郎Click!を通じて、猪野省三が出版部長だった戦旗社の出版部で仕事をしはじめている。といっても、猪野部長に対して部員は彼女ひとりしかおらず、月給はわずか30円(現代の貨幣価値で10~12万円ぐらいか)だった。
 業務の内容は、同社が出版する書籍の校正作業がメインで、本を印刷している早稲田鶴巻町の印刷所へ出向することもめずらしくなかった。上落合から東中野駅へ出て、ラッシュアワーの中央線と山手線を乗り継いで有楽町に出社するよりも、西武線の中井駅から高田馬場駅まで出て近くの早稲田へ直行したほうが、徒歩あるいは高田馬場駅前からダット乗合自動車Click!に乗ればすぐなので楽だったろう。猪野省三とともに出向先の校正作業では、印刷所が昼食に天丼をとってくれたようで、神戸育ちの彼女にはそれがめずらしかったのか、特に美味だったことを記憶している。ちなみに、おそらく同じ印刷所なのだろう、上野壮夫Click!は親子丼が美味だったことを憶えていた。
 小坂多喜子が戦旗社出版部に勤めはじめたころは、同社刊の徳永直『太陽のない街』と小林多喜二『蟹工船』(ともに1929年刊)の2冊が、文学界のベストセラーになっていた時期と重なるので、大手新聞に次々と広告を出稿していた。その広告版下づくりも、彼女は手伝っている。当時の戦旗社には、中野重治Click!壺井繁治Click!、古沢元、のちの夫になる上野壮夫などが立ち寄っていたが、小林多喜二も顔を見せた。
有楽町駅へ1930.jpg
太陽のない街1929.jpg 蟹工船1929.jpg
 そのときの様子を、1985年(昭和60)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春―わたしの逢った作家たち―』から引用してみよう。
  
 そういうある日、小林多喜二が来たのだ。私の机すれすれの窓枠に腰をかけ、足をぶらぶらさせながら、「小坂多喜子というのは僕と同じ名前だね」と云った。小柄で、着流しの大島絣の裾からやせた足がのぞいていた。皮膚の薄い色白の顔がすぐ桜色にそまるようで、猪の省(猪野省三)と私に向って、というより主に私に向ってなにかひっきりなしにしゃべっていたが、私の覚えているのはその一言だけである。その時私が思ったことは「おしゃべりな男は嫌い」ということだった。私はその時二十一歳で、そういう若さの潔癖がそう思わせたのかも分らないが、やせて小柄な身体に似合わず、精力的な饒舌家というその時の印象は今も消えていない。(カッコ内引用者註)
  
 戦旗社出版部のドル箱作家のひとりで、プロレタリア文学のスターで象徴的な存在だった小林多喜二を前にして、「おしゃべりな男は嫌い」というのが、人を見る眼差しに予断やフィルターをかけない小坂多喜子らしい感想だ。
 その2年後の1932年(昭和7)、彼女は「プロレタリア文学」に小説『日華製粉神戸工場』を書くことになるが、そのとき「僕と同じ名前だね」といった小林多喜二の言葉がひっかかって、ペンネームを「小坂たき子」とひらがな表記にした。彼女が上野壮夫と結婚し、上落合郵便局近くのケヤキの大樹が見える借家から、出産のため一時的に池袋駅西口にある豊島師範学校Click!近くの長屋に転居し、1932年(昭和7)の秋に改めて阿佐ヶ谷の借家へ移るころのことだ。だが、阿佐ヶ谷の暮らしは1年ほどで切りあげ、彼女は夫とともに再び上落合の“なめくじ横丁”Click!へともどってくる。
 その阿佐ヶ谷時代に起きた最大の事件は、近くに家があった小林多喜二の虐殺事件だった。1933年(昭和8)2月20日の深夜、小坂多喜子と上野壮夫は突然「小林多喜二の死体が戻ってくる」という連絡を受け、真暗な道を阿佐ヶ谷駅に近い小林邸へと息せき切って走っている。1932年(昭和7)に起きた日本プロレタリア文化連盟(コップ)の弾圧で、小林多喜二は地下に潜行しているはずだった。
中井駅の道.JPG
小林多喜二邸1936.jpg
小林多喜二邸1941.jpg
 駈けつける途中、作家の若杉鳥子邸近くの道で、うしろから幌をつけた大きなクルマが、走る夫妻を追い抜いていった。警察の車両だったのだろう、多喜二の遺体が乗せられているのをふたりは直感している。夫妻は、今度はそのクルマのあとを追いかけはじめた。このとき、上野壮夫は近くの亀井勝一郎宅へ急を知らせたが、亀井が通夜の席へ顔を出すことはなかった。ちなみに、若杉鳥子もまた凶報を聞いて小林宅へ向かっていたが、途中で特高に逮捕され池袋警察署に連行されている。
 ふたりがようやく追いつくと、車両は両側に檜葉の垣根がある行き止まりの路地の突き当たりに停車しており、路地奥の左側が杉並町馬橋3丁目375番地(現・杉並区阿佐ヶ谷南2丁目)にあった平屋建ての小林宅だった。玄関を含めて三間ほどしかない家だが、庭に面した奥の間に小林多喜二の遺体は寝かされていた。
 そのときの小坂多喜子が受けた強い衝撃を、同書より再び引用してみよう。
  
 眼をとじた白蝋の顔はすでに死顔で、頬のあたりに斑点になった内出血のあとや首すじや手首に鮮明な輪になった黒い内出血のあとがあり、大腿部のあたりも一面真黒で、拷問による死であることが歴然としていた。剛い、豊かな髪が青白い電燈の光りで緑色に見えるほど黒々と、そこだけ生きているようで、私はいたましいというよりも恐怖で一ぱいだった。その不気味な髪の色は、その後折にふれ目に浮びあがってきて私をなやませた。その真すぐな剛い毛質が私のつれあいの髪の毛にダブって見え、私はその恐ろしい呪縛からぬけ出るのにその後十年余の年月を必要としたほど、それは強く私の脳裡に焼付いて離れなかった。
  
 小坂多喜子は葬儀の直後から、夏目漱石の弟子だった江口渙からの依頼で、小林多喜二の遺族への救援基金集めに近所の作家や画家たちの間を奔走している。吉祥寺の山本有三をはじめ、野口雨情、細田民樹、貴司山治、荻窪の細田源吉、津田青楓(画家)らが、逮捕覚悟で即座にカンパに応じてくれたようだ。
 日本の敗戦後、小坂多喜子は中央線の高円寺に住んでいるが、区役所や税務署が阿佐ヶ谷駅の近くにあるので、しばしば出かけている。彼女は同書の中で、荻窪駅や西荻窪駅、吉祥寺駅、高円寺駅などと比べ、「中央沿線で阿佐ヶ谷ほどつまらない街はないと思う」と書いている。それは、阿佐ヶ谷駅の周辺に特色のある商店街や、独特な雰囲気の街並みが見られないからだと書いているが、そればかりではないように思う。1933年(昭和8)の冬、小林多喜二の虐殺事件にいき合わせ、阿佐ヶ谷という地域全体が灰色になってしまったからではないだろうか。
小坂多喜子「わたしの神戸わたしの青春」1986.jpg 小林多喜二.jpg
小林多喜二通夜.jpg
 小坂多喜子が、小林多喜二の枕もとに座りこんでまもなく、ひとりの和服姿の女性が通夜の席へ飛びこんできた。のちに下落合に住み、下落合1丁目437番地(現・下落合3丁目)のクララ洋裁学院Click!へ通うことになる、前年に多喜二と結婚していた妻の伊藤ふじ子Click!だった。そして、小坂多喜子と伊藤ふじ子は、その後、上落合と下落合の近所同士で何度か交流をつづけているようなのだが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:中央線の東中野駅とともに、小坂多喜子が上落合時代によく利用したと思われる、1935年(昭和10)すぎに撮影された西武電鉄の中井駅。
◆写真中上は、ちょうど小坂多喜子が戦旗社に勤めていた1930年(昭和5)撮影の新橋側から見た有楽町駅のガード沿い。は、1929年(昭和4)に戦旗社から出版されベストセラーになった徳永直『太陽のない街』()と小林多喜二『蟹工船』()。
◆写真中下は、上落合469番地の神近市子邸Click!を出て、中井駅へ向かう近道となる細い道筋。背後が鈴木文四郎(文史朗)邸跡で、画面の左手が古川ロッパ邸跡。は、1936年(昭和11)と1941年(昭和16)の空中写真にみる杉並町馬橋3丁目375番地(現・杉並区阿佐ヶ谷南2丁目)にあった小林多喜二邸の界隈。
◆写真下上左は、1986年(昭和61)出版の小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』(三信図書)。上右は、1929年(昭和4)撮影の小林多喜二。は、1933年(昭和8)2月20日深夜から翌21日未明にかけ小林多喜二の通夜に駈けつけた人々。最近、同写真のバリエーションが新たに発見されているので、次回の記事で人物とともにご紹介したい。

読んだ!(14)  コメント(17) 
前の5件 | 次の5件 気になる下落合 ブログトップ