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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(8) [気になる下落合]

曾宮一念「風景」1920.jpg
 少し前にも触れたが、画面に既視感があると感じたのは、この造成地にあるキリの木だった。曾宮一念Click!が1920年(大正9)に描くキりの木は、1923年(大正12)制作の『夕日の路』Click!でも、やや成長した枝ぶりで再度描かれている。それは、もとの角地の道端ではなく、曾宮の造園によってアトリエの南西庭に移植されたあとの姿だ。
 曾宮一念Click!は、1921年(大正10)3月初めに下落合623番地へ建設中だったアトリエが竣工後、綾子夫人が臨月だったためすぐには新居へ引っ越しはせず、長男・俊一Click!の出産(3月22日)を待ち、同年の3月末に淀橋町(大字)柏木(字)成子町北側128番地の借家Click!から下落合へ転居してきている。キリの移植を軸に考えると、わたしが描かれた画面の風情に既視感があるのはあたりまえのことだった。画面の前の道を歩きながら、しょっちゅうこの風景を目前にして散策しているからだ。当時と同様に、曾宮一念アトリエClick!跡は広い空き地となって舗装され、長年にわたり駐車場として利用されてきた。一時期は、北側に小さな医院が開業していたが、現在はその敷地も含めて駐車場になっている。
 『風景』に描かれた造成地は、中村彝Click!によれば夏目利政Click!が借地権を管理する地所で、夏目が曾宮にアトリエの建設を勧めたのではないか。ひょっとすると、ドロボーClick!に入られた下落合544番地に住んだ際、曾宮一念は彝の仲介で夏目にアトリエ敷地探しを依頼してから、淀橋町柏木へ転居しているのかもしれない。
 曾宮がアトリエを建てたあと、この一帯には片多徳郎Click!(下落合734番地)や牧野虎雄Click!(下落合604番地)、蕗谷虹児Click!(下落合622番地)、一時的だが村山知義・籌子夫妻Click!(下落合735番地)などのアトリエが集中するが、これも夏目利政Click!によるマネジメントだった可能性がある。下落合800番地台の“アトリエ村”Click!につづき、夏目利政はここでも“アトリエ村”を形成しようとしていたのではないか。余談だが、さまざまな画集を発行していた後藤真太郎Click!の座右寶刊行会本社も下落合735番地、つまり村山アトリエと同番地なので、これも夏目による紹介だったのかもしれない。
 夏目利政は、当該の土地を所有しているのではなく、借地権およびその管理を地主から委託され、画家たちを勧誘してはアトリエを建てていたフシが見える。曾宮一念アトリエも、ふたりで打ち合わせながら夏目が図面を引いているのではないか。
 当時の様子を、1926年(大正15)に岩波書店から出版された中村彝『芸術の無限感』Click!より、大正9年7月21日付け洲崎義郎Click!あての手紙から引用してみよう。
  
 曾宮君は夏目君が借地権を持つて居る地所を借り受けて、そこへ画室を立(ママ:建)てることになりました。二瓶君の画室の少し先の谷の上で大変眺望のいゝ処です。
  
 曾宮アトリエは、下落合584番地の二瓶等アトリエClick!から、西へ約210mほど歩く諏訪谷Click!に南面した位置にあった。のち1926年(大正15)の夏、佐伯祐三Click!が画面の左手から連作「下落合風景」Click!の1作『セメントの坪(ヘイ)』Click!を描く、あの場所だ。
曾宮一念アトリエ1926.jpg
曾宮一念「夕日の路」1923.jpg
桐の木1920.jpg 桐の木1923.jpg
曾宮一念「風景」現状.jpg
 『風景』を描いた1920年(大正9)の時点で、地鎮祭は終っていたものだろうか。自身の住宅を建てる前、その敷地を写真に収めるのは今日ではありがちなことだが、曾宮一念はタブローに仕上げて保存したのだろう。画面の様子から、季節は秋の風情だが、曾宮アトリエが竣工するのは、翌1921年(大正10)3月のことだ。したがって、アトリエが完成する5~6ヶ月ほど前、そろそろ地鎮祭が終わり建設に取りかかりそうな1920年(大正9)10月下旬あたりの情景だろうか。では、画面を仔細に観察してみよう。
 まず、曾宮アトリエClick!の敷地に接する北側には、1926年(大正15)の時点で「下落合事情明細図」に記載されている青木辰五郎邸が、いまだ建設されていないのがわかる。なにかの畑地(上部が紅葉しはじめた植木畑だろうか?)になっていたようで、ほどなく北側の位置には青木邸が建設されている。鶴田吾郎Click!によれば、青木邸は植木農家だったということで、その家の娘のひとりを描いた『農家の子』Click!(1922年)がタブローで残されている。昭和期に入ると、青木邸の敷地には新たに三沼邸が建設されている。
 画面の左手に見えている、濃い灰色の大きな屋根と赤い屋根の家屋群が、東京美術学校のOBだった下落合622番地の日本画家・川村東陽邸だ。曾宮一念が隣りにアトリエを建てた当時、川村東陽Click!は画業そっちのけで落合村会議員(のち町会議員)の職務に就いていたとみられ、なにかと羽振りがよく近隣に対して威張っていたのだろう。のちに、曾宮一念との間で川村家の飼いネコをめぐる「ウンコ戦争」Click!を引き起こすことになるが、『風景』を描いている曾宮一念は当時、そんなことは知るよしもなかった。
 川村東陽は、1932年(昭和7)に東京35区Click!制が施行されるころ、淀橋区議会議員に立候補するためか下落合から転居している。その広い跡地(画面では左手一帯)には、蕗谷虹児アトリエClick!をはじめ白井邸や谷口邸Click!などが建設されている。ちなみに、曾宮アトリエの西隣りにあたる下落合622番地の谷口邸は、昭和初期から海軍の八八艦隊構想に対し軍縮外交を優先して、米内光政Click!とともに最後まで日米開戦に反対しつづけた、元・聯合艦隊司令長官の退役海軍大将・谷口尚真邸だ。
 画面の奥に見えている、ややキリの木の陰になっている赤い屋根の2階家は、1926年(大正15)現在でいえば荒木定右衛門邸(下落合621番地)だが、これも既視感が生じた大きな要因のひとつで、現在でも灰色の屋根が乗る2階家の向こう側(北側)、東西に長い同じ敷地の位置に、赤い屋根の2階家が同様の向きで建っている。昭和期に入ると、荒木邸の敷地には新たに木村邸が建設されている。
 荒木定右衛門邸の少し左手(西側)、薄いグレーの主屋根を南北に向けて西陽が当たる2階家は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」でいえば山田邸(下落合630番地)ということになる。ちなみに、山田邸の少し北西側、同じ下落合630番地の森田亀之助邸Click!の南側には、昭和に入ると里見勝蔵Click!がアトリエをかまえて京都から転居してくる。佐伯祐三が1926年(大正15)10月10日に描いた『森たさんのトナリ』Click!の、あの一画だ。ひょっとすると、左手の遠方に見えている2階家が、『森たさんのトナリ』に描かれた2階家の近くに建つ住宅なのかもしれない。距離感からいえば、ちょうどそのあたりに見えたはずだ。
曾宮一念「荒園」1925.jpg
庭の曾宮一念.jpg
浅川ヘイ1920.jpg 浅川ヘイ1923.jpg
浅川ヘイ.jpg
 さて、興味深い画面の右手(東側)を観察してみよう。右側に描かれた、北へと向かう道筋はやわらかく東へとカーブしている。現在は、できるだけ直線化されているが、宅地の関係からどうしても修正しきれない北寄りの道は、東側へ曲りこんだまま現在にいたっている。道路の右端は、板を並べてつないだような簡易板塀に蔦がはっているような表現で描かれているが、この塀の向こう側が下落合604番地の大きな浅川秀次邸の敷地だ。
 浅川邸の板塀は、関東大震災の前後に造りかえられたらしく、高価そうな和風の白い腰高の練塀が広い屋敷を取り囲んでいた。それは、曾宮一念の『夕日の路』(1923年)でも見ることができるが、その仕様から浅川邸は大きな和風建築だったとみられる。また、曾宮アトリエの建設や浅川邸の新たな練塀の築造とともに、道路の直線化も促進されたと思われるが、1936年(昭和11)の空中写真を見ると、現状とはやや異なりいまだ中ほどから東へゆるやかにカーブしている様子が見てとれる。また、1938年(昭和13)ごろになると浅川邸は転居し、かわって土井邸(おそらく洋館)が建設されている。
 曾宮一念は西陽が好きなのか、『風景』(1920年)でも『夕日の路』(1923年)でも橙色の光線で風景を描いている。その夕陽に照らされた浅川邸の新たな練塀を、1926年(大正15)10月22日に描いたのが佐伯祐三の『浅川ヘイ』Click!だ。いまだ実見はおろか、戦災をくぐり抜けて現存しているかさえ不明な作品だが、おそらく曾宮一念の『風景』同様にパースのきいた構図で、重い瓦を載せた和風の白い練塀がつづく、赤土が剥きだしの道路を描いていると思われる。たぶん、サインがないためどこかに埋もれているのかもしれないが、心あたりのある方はぜひコメント欄にでもご一報いただきたい。
 曾宮一念は、『風景』の中央に描き、アトリエの建設とともに庭の西側に移植したキリの木について、著書に想い出を記している。1938年(昭和13)に座右寶刊行会から出版された曾宮一念『いはの群』より、下落合へ転居してきた当時の様子を引用してみよう。
  
 もう二十年も前のことになる。思ひがけないよくて安い地所を見付けたと思つてゐると私の借りた日から地代が二倍にされてゐる。それに前の借地人二年分の地代も払へといふことで、まづこんなものかと驚いたものである。然しこゝへは以前来て路端の桐の木を写生したことがあり、ちようどこの木は私の借りた地所と路との傾斜面に根を張つてゐた、ことはつておくがこの木もその時買ひ取れといふので以来私のものとなつてゐるのである。(中略) さて家を建てることになつたが履脱ぎ三尺の土間もつけられない始末なので、庭の周囲の垣根の予算などあらう筈がなく、丸太に針金の手製で間に合はす積りでゐるとこれも東南に四十間を立派な檜垣を作らされてしまつた。(青文字引用者註)
  
 この敷地と路端との境界に生えていた「桐の木」は、アトリエを建てる前から曾宮一念の印象的なモチーフになっていたようで、『風景』(1920年)や『夕日の路』(1923年)につづき、第12回二科展で樗牛賞を受賞する『荒園』(1925年)までつづけて描かれている。
曾宮一念アトリエ1936.jpg
諏訪谷入口.JPG
セメントの坪(ヘイ).jpg
セメントの坪(ヘイ)現状.JPG
 どうやら、借地権を管理していた夏目利政は、かなりの商売上手というか“やり手”だったようで、曾宮一念は手もなく彼に丸めこまれてアトリエを建てているようだ。夏目は、地主や建設事務所からコミッションをもらって、画業とは別に生活の足しにしていたのだろう。

◆写真上:1920年(大正9)に、アトリエの建設予定地を描いた曾宮一念『風景』。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。中上は、1923年(大正12)制作の曾宮一念『夕日の路』(提供:江崎晴城様Click!)。中下は、『風景』と『夕日の路』のキリの拡大。は、曾宮一念アトリエ跡の現状。
◆写真中下は、1925年(大正14)制作の『荒園』(提供:江崎晴城様)にみる移植されたキリ(右手)。中上は、庭にたたずむ曾宮一念(提供:江崎晴城様)。中下は、『風景』と『夕日の路』の浅川邸練塀の比較。は、写真の浅川邸練塀の拡大。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる『風景』の描画ポイントと曾宮一念アトリエ。中上は、『風景』の描画ポイント跡の現状で右側の坂道は諏訪谷へと下る。中下は、1926年(大正15)の夏(9月1日以前)に制作された佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』。は、『セメントの坪(ヘイ)』の現状と印は『風景』描画ポイント。佐伯がイーゼルを立てた『セメントの坪(ヘイ)』の川村東陽邸敷地は、やがて谷口邸の建設予定地となり、1935年(昭和10)ごろに谷口尚真一家が赤坂から転居してくることになる。
おまけ1
 谷口尚真は、満洲事変の際に日中戦争は絶対反対、ましてや日米戦争などもってのほかと、死ぬまで一貫して戦争に反対しつづけた。軍国主義の体制内で、日本の「亡国」招来を見通せていた数少ない提督のひとりだ。後輩の米内光政とも親しく、戦争へと突き進む日本の「静かなる盾」の役割りをはたしていたが、1941年(昭和16)に下落合で死去している。敗戦間際に、陸軍から生命を狙われていた米内光政Click!は、自宅へは帰れず“潜行”して隠れ家を転々としているが、下落合の林泉園近くで頻繁に目撃されている。谷口尚真の人脈がらみで、下落合の隠れ家にいた可能性もありそうだ。写真は、谷口尚真(左)と米内光政。下は、画家たちのアトリエに囲まれた1938年(昭和13)の谷口尚真邸。海軍の提督でありながら、一貫して戦争に反対しつづけた谷口尚真については、また機会があれば書いてみたい。
谷口尚真.jpg 米内光政.jpg
諏訪谷界隈1938.jpg
おまけ2
 武蔵野らしく、下落合の森に実るヤマグワの実。ジャムにしてもパイにしても、色どりがきれいでベリーのように甘酸っぱくて美味しいだろう。
クワの実1.JPG

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佐伯祐三の入浴を節穴からのぞく「アキや」。 [気になる下落合]

大正期の乳母車.jpg
 下落合661番地の佐伯祐三Click!のアトリエに、米子夫人の記憶によれば伊香保からやってきた「アキや」という女性を女中がわりに寄宿させていた。この女性は、苗字は不明だが「アキ」という名前だったらしく、佐伯家では彼女のことを「アキや」と呼んでいた。関東大震災Click!が起きる前、1922~1923年(大正11~12)ごろのことだ。
 実は、すでにアキやClick!は拙ブログに登場している。大柄で肥りぎみな身体をゆらしながら、佐伯家の娘・彌智子と曾宮家の息子・俊一を乳母車に乗せ、下落合のあちこちを散歩したり、目白通りで買い物をしていたあの女性だ。伊香保というと群馬県なので、友人の誰かからの紹介か、あるいは米子夫人の悪い足を心配した池田家とのつながりで預かり、寄宿させていたのかもしれない。東京へは、なにか目的があってやってきたのだろうが、佐伯一家が第1次渡仏をする関東大震災のころにはいなくなっているようなので、どこかへ家事見習いとして住みこむか新たな働き口を見つけたのかもしれない。
 その様子を、以前に江崎晴城様Click!よりお送りいただいた曾宮一念Click!の講演記録から再び引用してみよう。この講演は、1984年(昭和54)11月9日に行われたものだ。
  
 (前略) 体のえらい立派な女中さんがいましてね、名前は忘れましたがね。それが佐伯の一人娘の彌智子さん、やっぱりちょうどうちの息子と同じ年くらいのまだちょっと歩けるくらいの赤ちゃん。その二人を乳母車に乗せて、買い物旁々、歩いてくれるんです。僕はそれで大変助かりましてね。うちの息子は行くの嫌だなんて言ったこともありますけど、とにかく追い出しちゃうと、ウトウトと乳母車の中で二人とも居眠りしちゃう。そうすると、一日、その体の大きな女中がお守りしながらいてくれるんです。その間、僕は絵を描いていられたんで、大変ありがたかった。僕も不自由な生活ですしね。そうして夜、迎えに行って、佐伯の所に行くと、晩飯を一緒によく食った。それで佐伯はまあ毎日のように、牛肉のすき焼きなんですよ。こっちはちょっと飽きちゃったけどね。それでもまあ、向こうへ行けば僕は自炊する必要もないし、それで、毎日のようにすき焼きを二人でね。
  
 米子夫人Click!は足が悪く、曾宮の綾子夫人は以前から病気がちだったので、ふたつの家庭はアキやの活躍で非常に助けられていた様子が伝わる。
 あきヤは、かなり身長が高く肥りぎみで体格がよかったらしく、絵のヌードモデルにしたくなったのだろう、佐伯祐三は近所の二瓶等(二瓶徳松)Click!と相談して、あきヤにモデルになってくれるよう頼みこんでいる。そのきっかけを作ったのは、中村彝Click!のルノワールばりの表現に惹かれていた二瓶等Click!のほうだったのかもしれない。ルノワールが描く女性は、よくいえば“ふくよか”、悪くいえば肥満ぎみの女性が多く、二瓶もそのような女性をモデルにして描いてみたくなったものだろうか。
 宮崎モデル紹介所Click!から派遣されてくるモデルは、家族の暮らしや生活費に困っている女性が多いせいか、そこまで“ふくよか”なモデルはなかなかおらず、そもそものきっかけは二瓶等が佐伯に頼みこんだ可能性もありそうだ。
 また、アキやはおかしな性格をしていて、佐伯が入浴しているとしばしば風呂場をのぞき見していたようで、佐伯自身や、それを聞いた米子夫人も困惑していたらしい。それも、焚口の近くの小窓から湯加減を確かめるためにのぞくのではなく、アキやは風呂場の板壁に開いていた節穴から中をジッとのぞいていたらしい。
 この風呂場だが、佐伯邸の母家にもアトリエにも風呂は設置されていない。米子夫人の足が悪いため、いちいち菊の湯Click!(または福の湯Click!)へ通わなくても済むように、庭先へ簡易風呂場をしつらえたあとのエピソードだと思われるので、1922年(大正11)以降のことだろう。この風呂は、銭湯へ出かけるたびに悪い足をジロジロ見られる米子夫人が、DIY好きな佐伯に頼むか、大工に依頼して庭先に建てさせたものだ。
佐伯母家&アトリエ.jpg
下落合661佐伯アトリエ.jpg
佐伯アトリエ平面図.jpg
 その様子を記した手紙も、江崎晴城様よりお送りいただいた曾宮一念Click!資料にあった。佐伯米子Click!から曾宮にあてた手紙で、内容に「としちやんとメンタイちやんは、死んでしまいました。」とあるので、戦後にやり取りされたものだろう。「としちやん」とは、1945年(昭和20)3月25日に中国の湖北省老河口で戦死した曾宮俊一Click!のことで、「メンタイちやん」とはもちろん第2次渡仏時のパリで、1928年(昭和3)8月30日に病没した娘の佐伯彌智子Click!のことだ。ふたりは、1922年(大正11)2月21日生まれ(彌智子)と、1921年(大正10)3月21日生まれ(俊一)とで歳も近く、アキやが両アトリエからふたりを連れだしては、下落合を散歩しながらよく面倒を見ていた。
 佐伯が死去した際、曾宮アトリエClick!に佐伯の幽霊(庭先からの声Click!)が現れたのを綾子夫人が気づき、その様子を曾宮が手紙で佐伯米子に伝えたのだろう、その返信として大阪の佐伯祐正Click!のもとにも、「庭さきを、メンタイちやんをだいて行ったりきたりする佐伯の姿を兄が、はっきり見た」と米子は記している。そして、佐伯死去の電報を受けとる前に、佐伯祐正は「あゝもうこれはだめだナ」と感じていたらしい。
 アキやの話が登場するのは、この佐伯の幽霊譚のすぐあとのことだ。これも、アキやについて曾宮から米子夫人へなにか改めて問い合わせをしているらしい。戦後の年代は不明だが、「三月廿二日夜」の日付が入る佐伯米子の手紙Click!から引用してみよう。
  
 あの時のアキヤという女中のことは曾宮さんにおっしやられていまさらのように思い出しました。肥っていたのでハダカのモデルにしようと二瓶(等)さんとさえき(佐伯祐三)がたのみましたら奥さん(米子夫人)には見せないけれど男性二人には見せると申しました。そしてとうとうモデルになりましたが……。(カッコ内引用者註)
  
 アキやがモデルになった作品とは、どれのことだろうか。ちょうど、1923年(大正12)ごろに描かれた佐伯祐三の作品に、『ベッドに坐る裸婦』(1923年/和歌山県立近代美術館蔵)と、『裸婦』(1923年ごろ/西宮市大谷記念美術館蔵)の2点がある。確かに、かなり肥ったドッシリ型の女性で当時としては身長も高そうだが、米子夫人が強調するほどに肥満体ではなく、“ふくよか”ぐらいClick!な体型のように見える。2作品ともルノワールばりの表現で、おそらく二瓶等のキャンバスも同様の絵の具で塗られていたと思われる。
米子手紙1.JPG
米子手紙2.JPG
曾宮一念・俊一.jpg
佐伯祐三・彌智子.jpg
 描かれた場所は、ベッドが置かれ敷物なども揃っていそうな環境なので、佐伯アトリエではなく下落合584番地の二瓶等アトリエClick!で制作されたものか。二瓶等の作品には、翌1924年(大正13)に発表されたベッドに座る『裸の女』が、やはりルノワールばりの筆致で描かれており、同作が佐伯とともに描いたアキやの可能性が残る。ただし、『裸の女』も3段腹の“ふくよか”な女性だが、メタボというほどではないように思える。もっとも、現代の感覚からいえば、食べすぎで肥満といわれてしまいそうだが……。
 佐伯の入浴を、板壁の節穴からのぞいていた挑発的なアキやの話は、佐伯と二瓶のモデルになった話の直後に登場している。つづけて、米子夫人の手紙から引用しよう。
  
 サエキがおふろに入っていると板のふし穴からのぞいて(ダンナ)その頃の言葉)<二重のカッコは米子筆記のママ>とよんで何かいうので、こまっておりました。/お食よくは“おおせい”<原文は傍点>で大変でした。おデンが好きで大きなお鍋に一ぱいたいらげてしまいました。あれはたしか伊香保からきたのですが今も生きていたら一度曾宮さんにおめにかけたいようです。(< >内引用者註)
  
 板壁の節穴から「ダンナ」と声をかけ、アキやは佐伯祐三になにをいっていたのだろうか。なにか性的な言葉を浴びせて佐伯を挑発していたものか、あるいは無邪気になにか冷やかしをいっていたものだろうか。
 ヌードモデルになるぐらいだから、案外、男にはスレていたのかもしれない。アキやについて、佐伯や曾宮の記録以外に、二瓶等Click!関連の資料にもなにか残っていそうだし、師の中村彝にも作品の批評を請うついでになにかを話していそうだし、さらには佐伯アトリエを同時期に借りて卒業制作をしていた山田新一Click!も、なんらかの証言を残していそうなのだが、寡聞にしてアキやの話はこれらの資料から見いだすことができないでいる。
佐伯祐三「ベッドに坐る裸婦」1923.jpg
佐伯祐三「裸婦」1923頃.jpg
二瓶等「裸女」1924.jpg
 米子夫人の言葉を信じれば、鍋いっぱいにつくったおでんをひとりで平らげたというから、かなりの大食漢だったらしいが、おそらく佐伯夫妻の献立とは別に、自分用の料理をつくっては台所脇にあった3畳の女中部屋で食べていたのだろう。米子夫人は食が細かったようなので、佐伯家の余ったすき焼きClick!“はなよめ”Click!の缶詰なども、とっておくと傷んで(腐って)もったいないからと、アキやがさっさと片づけていたのかもしれない。

◆写真上:籠編みが多かった、大正期から昭和初期にかけての古い乳母車。
◆写真中上は、1985年(昭和60)に目黒美術館によって撮影された佐伯邸の母家とアトリエ。は、解体直前に撮影されたとみられるアトリエ(右)、母家(中)、増築部の米子夫人居間(左)。は、風呂場のない佐伯邸1階の平面図。
◆写真中下中上は、佐伯米子から曾宮一念あての「アキヤ」が登場する手紙。中下は、曾宮一念と息子の俊一。は、佐伯祐三と彌智子。
◆写真下は、1923年(大正12)制作の佐伯祐三『ベッドに坐る裸婦』。は、同年ごろ制作の佐伯祐三『裸婦』。は、1924年(大正13)の帝展出品作で二瓶等『裸の女』。

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盗品の夢二屏風をめぐる宮地嘉六と沖野岩三郎。 [気になる下落合]

落合第一府営住宅三間道路.jpg
 この物語は、下落合(現・中落合/中井含む)で酒屋を経営する尾崎三良という人物が、1929年(昭和4)ごろドロボーClick!に入られた時点からはじまる。尾崎が店内を掃除中、打ち水のために井戸へバケツの水を汲みにいっているほんのわずかな隙に、ショウウィンドウに並べていたパイナップル缶詰めを3つ盗まれた。だが、店の硝子戸には板を包んだような風呂敷が立てかけられていたので、店主は最初、お客がちょっと他の用事を済ませに店前を離れただけと考え、パイナップル缶の盗難には気づかなかった。
 ところが、待てど暮らせど風呂敷包みを残したお客は現れず、ついにショウウィンドウのパイナップル缶が消えているのに気づき、ようやく店主はドロボーに入られたことを察知した。ショウウィンドウから缶詰めを盗んでいると、意外に早く店内にもどってきた店主に気づき、ドロボーはあわてて風呂敷包みを残したまま逃走したらしい。電話で警察に相談すると、風呂敷包みをもって被害届けを提出しろということになった。
 戸塚警察署Click!へ出向き被害届けを出して、警官が立ちあいのもとで風呂敷包みをそっと解くと、竹久夢二Click!の作品らしい屏風が1隻現れた。高価なものらしいので、近いうちに盗難届けがあるだろうということで、屏風は戸塚警察署が保管することになり、店主は署長から預かり証をもらって下落合に帰った。
 ところが、1年たっても盗難届けがどこからも提出されず、店主の尾崎は戸塚警察署から呼びだされると、屏風は遺失物扱いになるので改めて遺失物拾得届けを提出させた。そして、1年すぎても持ち主が不明ということで、そのまま屏風は店主に下げわたされた。のちに判明することになるが、屏風は住宅の蔵の奥にしまわれていたもので、持ち主もその盗難に気づかず数年後にようやく「ない」ことに気づいている。
 尾崎三良は、夢二屏風を部屋へ飾るというような趣味にまったく興味がなかったので、店の得意先である作家に声をかけてみようと思いついた。得意先とは、当時は落合町葛ヶ谷15番地Click!(現・西落合1丁目)に住んでいた、家を新築したばかりの宮地嘉六Click!だった。ちょうど、報知新聞に連載していた『愛の十字街』の原稿料で、念願の自邸を片岡鉄兵邸Click!の並びに建設したばかりだった。酒屋の店主は、ドロボーと夢二屏風の一件を宮地嘉六に話すと、家には似合わないからと代金も取らずに置いていった。
 その宮地邸を訪れたのが、東北地方の学校を転々としながら長く教育現場に勤務していた小泉秀之助だった。彼は、日本の生活言語から地方方言を排斥し、「標準語」Click!の強制を推進した著作類でつとに有名な人物で、この当時は下落合かその周辺域に住んでいたようだ。薩長政府の意向へ忠実のあまり、東北方言はもちろん東京方言Click!の駆逐にも加担していたとすれば、『京都ぎらい』Click!の京都人・井上章一と同様の思いで、わたしも少なからず怒りをおぼえる人物のひとりだ。1941年(昭和16)に美術と趣味社から刊行された「書誌情報」5月号収録の、沖野岩三郎Click!『続宛名日記』(廿二)から引用してみよう。
  
 そこへ(宮地嘉六邸へ)訪問して来たのが小泉老であつた。「これは珍しいものがあるね。実は僕が福島県の師範学校長をしてゐる時、夢二君が山田順子女史と相携へて福島へ来たものだ。その時半折一枚の美人画を買つた。僕の買つた美人画は非常によく出来てゐたが、友人にもつて行かれて惜しいことをしたものだ。君、これを僕に売つてくれないか」/「しかし、これは僕の所有品ぢやないんだから、持主に相談してみませう。」/「では頼むよ」/と、いふやうなことで、遂にその屏風は小泉老のものとなつたのである。爾来櫛風沐雨ではなく、行儀正しく小泉邸の一室に飾られてゐたのである。(カッコ内引用者註)
  
 夢二屏風が遺失物扱いで、戸塚警察署から尾崎酒店主が引きとったのはパイン缶窃盗事件の1年後、すなわち1930年(昭和5)ごろのことなので、小泉秀之助が尾崎三良から宮地嘉六経由で屏風を譲ってもらったのは、同年以降ということがわかる。
沖野岩三郎表紙掲載.jpg 宮地嘉六プロフィール.jpg
沖野岩三郎邸跡正面.jpg
宮地嘉六邸跡駐車場.jpg
 さて、時代はくだり1940年(昭和15)ごろのこと、下落合3丁目1507番地に住む沖野岩三郎Click!は、知人の小泉秀之助が所有する夢二屏風の存在を知っていたので、翌年に開催が予定されている竹久夢二遺作展の主催者のひとり、天江富弥へその旨を知らせておいた。すると、小泉と面識がなかった天江はアオイ書房の志茂太郎へ、展覧会への出品を働きかけるよう依頼した。志茂は、さっそく小泉邸を訪問して出品を請うが、ちょうどそこへ折よく訪れたのが沖野岩三郎だった。
 小泉秀之助は、作品を未知の人物を通じて展覧会に出したりすると、汚したり破られたりするので遺作展へは屏風を出品しないと、志茂へ断っている最中だった。そこで、沖野岩三郎が遺作展の主催者たちはそんな無責任な人物ではないと、自身が保証人になって気むずかしい小泉から夢二屏風をようやく借りだすことができた。
 ちなみに、ここで登場している人々について、竹久夢二遺作展の主催者である天江富弥は、児童文化研究家で郷土史家、またコケシ収集家として全国的にも有名で、沖野岩三郎とは旧知の間がらだったとみられ、またアオイ書房の志茂太郎は蔵書票(いまの蔵書シールのこと)づくりの趣味人で、のちに日本蔵書票協会を創立している人物だ。
 翌1941年(昭和16)に、「竹久夢二七回忌遺作展覧会」が開かれたが、その展示会場で厄介な問題がもちあがっていた。沖野岩三郎が、ある会合で天江富弥に会うと、彼は浮かない顔をして沖野に会場での出来事を語った。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 「あの屏風を並べて置くと、そこへ入つて来た某夫人が、まあ……と言つたまま立竦んでしまつたので、どうしたのかと尋ねると、あの屏風は其の夫人のもので、盗難にかかつたのださうですよ。小泉さんにそんな事をいふのも失礼だし、黙つてお返しして置いたが、持主は小泉さんのお買ひになつた金額へ多少の増額してでも、戻してほしいといふんですが、ひとつ小泉さんに談判してみて下さいませんか」と、いふのであつた。/「よろしい」とはいつたものの、他人の大切にしてゐる屏風を、これは君贓品だぞとは言はれるものでない。/その後何度も何度も小泉老の所へ行つて、言ひかけては止し、言ひかけては止してゐたが、或日のこと、今日こそと思ひながら小泉家を訪ねると、宮地嘉六君と玄関先で落合つた。/「宮地君、いい所で落合つた。今日はひとつ小泉老に話したい事があつて来たんだ、君はその話をきいて、小泉老が憤慨でもしたなら、なだめてくれないか」/私がさういつたので、宮地君は笑ひながら、「まあどんな事が知れないが、あなたの仰しやる事に、腹を立てるやうな小泉さんではありますまい」と言つた。
  
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 この先の様子は、読者にももう想像がつくのではないだろうか。沖野岩三郎が、屏風が盗品であり「どろばうからお買ひになつたのではございますまいが」、どうやって手に入れたのかを訊きはじめると、宮地嘉六の顔色がサッと変わり、小泉が「これは此の宮地君から買つたんだよ」と答えると、座の雰囲気がみるみるおかしくなってしまった。
 「謹厳すぎる程謹厳な宮地君」の顔色を見て、これはマズイと焦った沖野岩三郎は、「そんな事はどうでもよいのです」と慌てていいつくろい、要するに屏風を盗まれた本来の持ち主に、小泉が売りもどしてあげるかどうかが重要な課題なのだといった。だが、それでは済まない真面目な宮地嘉六は、酒屋の尾崎三良とのいきさつを詳しく話し、自分は尾崎から屏風を購入しておらず、そのままスルーで売った代金は酒屋の主人へそのままわたしている、後日、尾崎本人を連れて証明するなどということになってしまった。
 はたして数日後、沖野岩三郎は小泉邸に呼ばれると、宮地と酒屋の尾崎がそろっており、懸命に説明しはじめた。このころ、宮地嘉六はすでに下落合3丁目1470番地の、第三文化村Click!に建つ「玉翠荘」に住んでいただろう。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 尾崎君は宮地君の冤を雪ぐといふやうな態度で実情を精しく語られた。宮地君は膝を乗り出して、/「その節、私は一厘一銭の手数料をもらはなかつた事も、此所で尾崎君に證明していただきたいのです」といつた。/「幾らか差上げようと申しましたが、絶対に受取つて下さいませんでした。尚必要がございますならば、私から戸塚警察署に證明願を出して證明していただいても宜しいのでございます」と、尾崎君は言つた。
  
 いかにも宮地嘉六らしい、几帳面かつ隙間のない釈明だった。小泉秀之助と沖野岩三郎は、むろんふたりの証言に納得したが、小泉は「此の屏風を千円で買はうといつても売りませんよ」と、もとの持ち主へ返却することは頑なに拒否した。こちらも超マジメな沖野岩三郎は、天江富弥からのたっての頼まれごとなので弱りきって、もとの持ち主だった大会社の重役夫人にわざわざ会いに出かけている。ちなみにこの夫人の邸も、ドロボーが逃走ついでに酒屋のパイン缶を盗っていく経路からして、下落合に建っていたと思われる。
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 いきさつをすべて聞き終えた元・持ち主の夫人は、「物置倉の中に深くしまつてゐた私は、夢二さんに叱られるべきですね」といい、「小泉さんに、どうぞ安心してあの屏風を大切にして下さるやうお伝へして下さいまし」ということで、どうやら八方が丸く収まったようだ。当時、大きな屋敷が建ち並んでいた落合地域は、ドロボーClick!たちにとっては格好の標的Click!になっていたようで、盗品をめぐる話はあちこちに記録Click!されている。

◆写真上:第一府営住宅の三間道路で、撮影位置から60mほど先の袋小路を右折すると正面が沖野岩三郎邸跡。正面左手に見える、三角に刈り込まれた庭木の家が土屋文明Click!邸跡で、背後90mほどのところに第三文化村の宮地嘉六邸があった。
◆写真中上は、下落合の近所に住んだ沖野岩三郎()と宮地嘉六()。は、路地正面が下落合3丁目1507番地の沖野岩三郎邸跡で庭門があった位置。は、下落合3丁目1470番地の宮地嘉六が住んだ第三文化村の「玉翠荘」跡。
◆写真中下:盗難事件の屏風が描かれたのと同じころの夢二作品で、は『秋の憩い』(大正中期)、は『憩い』(1926年ごろ)、は『この夜ごろ』(昭和初期)。
◆写真下は、1924年(大正14)に庭で撮影された沖野岩三郎・ハル夫妻。は、葛ヶ谷15番地(現・西落合1丁目)邸の書斎で執筆する宮地嘉六。は、沖野岩三郎が警察の執拗な抑圧から逃れるために軽井沢千ヶ滝中区595番地の浅間山麓に建てた「惜秋山荘」(右)。戦後になると、同山荘はキリスト者たちが集まる拠点のようになり、沖野岩三郎は1955年(昭和30)に日本キリスト教団に復帰し浅間高原教会の牧師に就任している。
おまけ
 1955年(昭和30)に牧師に復帰した、軽井沢の浅間高原教会(現・軽井沢高原教会)。
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おでん屋が見た聞いた画家たちの素顔生活。 [気になる下落合]

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 落合地域からそれほど遠くないところで、おでん屋を営んでいたとみられる“むさしや九郎”という人物がいたことは、以前に下落合2118番地にあった椿貞雄アトリエClick!の様子とともにご紹介していた。この店には、会派を問わずさまざまな画家たちが立ち寄って、おでんをつまみながら酒を飲み、一種のたまり場と化していたようだ。
 むさしや九郎は、店を離れても画家たちと親しく交流している様子が見てとれるが、来店した画家たちから日本画・洋画界を問わず多種多様なエピソードを仕入れ、それを美術誌「美術新論」の正月号連載エッセイ『謹賀新年妄筆多罪』として書きとめている。中には、書いてほしくなかった出来事までが含まれていたのか、当の画家から編集部へ抗議がとどいたりもしているが、ふだんは表にでることの少ない画家たちの素顔を垣間見られる点では、飾らない貴重な証言記録といえるだろうか。
 以前に書いた記事の末尾でも触れたが、第一文化村Click!北側の下落合1385番地から、上高田422番地にアトリエを移した甲斐仁代Click!中出三也Click!は、バッケが原も近い妙正寺川沿いの空き地で自転車の練習をしている。1933年(昭和8)発行の「美術新論」1月号によれば、昼間はヘタクソな乗り方がみっともないので夜になると練習していたようだが、安売りしていた10円の中古自転車だったせいか乗りにくかったようだ。
 ふたりの練習を知り、すぐ近くの高台にアトリエがあった上高田421番地の耳野卯三郎Click!も、この夜間練習に加わったようだが、ボロ自転車のせいかバランスが悪く、最初に中出三也Click!が転んでケガをし、つづいて耳野卯三郎Click!も転倒して負傷し、最後には甲斐仁代Click!も倒れて傷を負い、3人とも擦り傷だらけになってしまった。あちこち白い包帯だらけの3人は、近くの酒屋の親父に笑われ、むさしや九郎にも笑われたのだろう、「なにしろ付属品共十円で買つた自転車だからな。笑ふなら自転車を笑つてくれよ。畜生」と、中出三也は盛んにこぼしている。
 この「夫婦」がおでん屋にくると、まったく正反対の飲みっぷりだったようだ。1929年(昭和4)発行の「美術新論」1月号(美術新論社)から、ふたりの様子をのぞいてみよう。
  
 さて、わしの店の縄のれんの外に、先づ無地の紅い帯が見え、続いて、しなやかな指先がちよいとのれんにかゝつて、『今晩は。』とやさしい声がしたら、それは甲斐仁代女史の出現にきまつてゐる。大抵は夫君(?)の中出三也先生と御一緒だが、女史の酒の飲み振りのよさは、恐らく閨秀画家の中では東洋一だらう。若し牧野虎雄先生の酒を静かなること林の如しと形容すれば、仁代女史の酒の飲み振りの静かにして且つやさしきは、雨に悩める海棠の風情とも申す可きか。一本、二本、三本、と女子の前に銚子の数が殖えて行く。が、いくら酔うても、女史の手、女史の言葉の、未だ嘗て乱れたるを見た事がない。而も時々ポツリポツリと言葉すくなに話される女史の言たるや凡て鋭く且つ優しい。
  
 甲斐仁代とは対照的に、中出三也は数本の銚子をアッという間に空けると、ベロベロに酔っぱらいそのまま寝てしまったらしい。また、酔うとケンカっ早くなって、相手をポカポカ殴るがすぐに疲れてやめてしまい、相手から逆襲されて殴られるのも早かった。だが、タンカは歯切れがよかったらしく、相手を殴ると「児雷也」のようにドロンとどこかへ雲隠れし、ケンカ相手が立ち直るころにはとうに闇の中へ姿を消していた。
 のちに下落合4丁目2080番地、金山平三アトリエClick!の近くに画室をかまえることになる、下落合の西ノ谷(不動谷)Click!にアトリエ(番地はいまだ不詳)があった岡田七蔵Click!は、大の釣り好きで六郷川(多摩川)や荒川、品川の台場で釣った帰りには、むさしや九郎のおでん屋に寄っては、魚籠(びく)の釣果を自慢しながら一杯やっていたらしい。武蔵野鉄道や西武線を利用して、石神井川の流域にもよく出かけていった。
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 その様子を、1929年(昭和4)の「美術新論」1月号から引用してみよう。
  
 (岡田七蔵の)顔は冬も漁夫のやうに真黒だ。その甲斐あつてか、びくも常に重く、なかなか釣りの名人だ。その代り、此の先生が釣場に立つて、イツタン糸を垂れたとなつたら、もう全心全肉、魚の事より外に何も考へず、其の結果、先生の口付は釣場では魚の口付に似て来るさうだ。これは上野山淸貢先生が牛ばかり写生してゐるうちに牛の顔に似て来、辻永先生が山羊ばかり写生してゐるうちに山羊髭が生へたのと同じ理屈であるからやがて次第に岡田先生の顔が魚の顔に似て来るのも、さう遠い将来ではないかも知れない。さう云へば闘犬に漸く飽きて今度は軍鶏にこり出した深沢省三先生の首の様子が、近頃軍鶏の首に髣髴として来た事実も不思議と云へば不思議である。(カッコ内引用者註)
  
 岡田七蔵は、釣りに没頭すると周囲の音がまったく聞こえなくなったようで、何度呼びかけても反応がなかった。集中力がすごいといえば聞こえはいいが、なにかに夢中になると精神的な“視野狭窄症”あるいはウワの空になってしまい、周囲の状況が耳に(目にも)入らなくなる不器用さははわたしも同じで、これまで少なからぬ失敗Click!を繰り返している。石神井川の土手で、何度も声をかけられているのに岡田七蔵はまったく気づかない。
 声をかけていたのは、石神井川へ写生にきていた友人の小林喜一郎で、「イヨウ、岡田君」と声をかけたのがはじまりで、何度も呼んだがまったく反応がなく、しまいには近づき「もしもし、御遊興中甚だ恐縮なれど」と大声で道を訊ねると、岡田は振り返りもせず簡単な道順を説明するばかりだった。これにじれた小林喜一郎は、耳もとで「岡田七蔵といふ御仁の家をご存知なきや」と怒鳴ると、ようやく浮きから目を離し「なあんだ、君だつたのか」と、ふたりで大笑いをしたようだ。
 岡田七蔵は将棋が趣味で、よく友人の児童文学者・川端伊織を相手に指していた。むさしや九郎が「ヘボ」というぐらいだから、ふたりともかなり弱かったのだろう。ふたりはビールを片手に、一手ずつ「何を此の野郎」「何を此の野郎」とお互いかけ声を上げながら駒を進めたらしいが、双方の駒がそろそろ相手陣に攻めこんでくるころ、いつの間にか王将の駒が消えてなくなっているのに、ふたりともようやく気づいている。盤面にビールをこぼした際、観戦していた小林喜一郎が濡れた箇所を拭きながら、双方の王将をすばやく懐中へ隠してしまったのだが、ふたりはそれに気づかず延々と指しつづけていたというから、これはもう「ヘボ」を通りこした「大ボケ」将棋だろう。
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 大正初期から目白駅Click!近くの下落合に住み、しばらく巣鴨町で暮らしたあと、戸塚町下戸塚112番地(のち戸塚町2丁目112番地)へ転居して、熊岡絵画道場(のち熊岡絵画研究所)を開設した熊岡美彦Click!も、おもしろいエピソードを残している。ちなみに、下戸塚112番地は早稲田通りをはさみ戸塚第二小学校の向かい側で、今日ではほとんど高田馬場駅前、JAZZスポット「イントロ」Click!や歌声喫茶「ともしび」があるあたりだ。
 佐伯祐三Click!が一時期そうだったように、熊岡も大工仕事Click!に魅せられてしまったらしい。でも、佐伯が自身で大工道具を使って普請(DIY)したのに対し、熊岡はまるで大工や植木屋を住みこみの弟子のように使いながら、何年にもわたって仕事をさせていたようだ。熊岡美彦の普請ヲタクの様子を、1930年(昭和5)の「美術新論」1月号から引用してみよう。
  
 熊岡美彦先生に一個の道楽あり。道楽よりも病癖とや云はん。住宅の改築病コレ也。蓋し大工と植木屋とは先生の終生の友にして、巣鴨の森、鴉の啼かぬ日はあるとも、カンナの音、ハサミの音の聞こえざる日とてはなく、作りてはこはし、こはしては作り、トンカチトンカチ、十年一日の如し。されば昨日の洋式応接間は今日は変じて日本風の玄関となり、今日の平家建アトリエは明日はセリアガリて二階建の書斎となり、或はバルコンは落ちて地下室を現出し、台所は化けて茶室となり、茶室はまた化けて風呂場となり、かと思へば、いつかまた、もとの通りに逆戻りする事などもあり、改築に逆築に、滄桑の変四時絶ゆる事なし。為めに家人は座るに場所なければ、春夏秋冬、立ちて食事をとり、訪客も年ぢう会ふに部屋なければ、止むなく先生と玄関にて立話す。
  
 1930年(昭和5)の時点でこのありさまだから、下戸塚112番地の高田馬場駅前へ転居して「道場(研究所)」を開設してからは、さらに「病癖」が進んだのではないだろうか。このエピソードは、巣鴨町3丁目26番地のアトリエでの出来事だ。
 ところが、トンカチや庭バサミの音がピタリと止まった時期があり、家族はもちろん、いつも騒音に悩まされていた近所の人たちもホッとした。だが、あまりに熊岡アトリエがシーンとしているので、不審に思った近隣の人が熊岡家を訪ねると、ちょうど1927年(昭和2)から1929年(昭和4)までの2年間、熊岡美彦がフランスに滞在していることがわかった。応接した夫人は、「お蔭で、妾が体重も五貫目ほどふえたり」と答えている。「五貫目」(約18.8kg)は増えすぎで、かなり困った状況ではないだろうか。
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 ところが、熊岡美彦がパリから帰国すると、さっそく居間と茶室、アトリエの改築に同時着手し、家内じゅうあちこちが再び普請中となってトンカチトンカチと「修羅場」に逆もどりしてしまったそうだ。夫人は夫の帰国早々、再び体重が1貫目(約3.8kg)ほど減ったと嘆いている。さて、むさしや九郎が記録した、三岸好太郎Click!里見勝蔵Click!宮田重雄Click!伊藤廉Click!の4人による光線談義も面白いが、それはまた、いつか別の物語……。

◆写真上:むさしや九郎の店には、おでんをめあてに多くの画家たちが集った。
◆写真中上上左は、1922年(昭和11)に制作された俣野第四郎『甲斐仁代像』。上右は、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『N(中出)氏の肖像』。中上は、1928年(昭和3)に制作された甲斐仁代『睦(むつみ)』で、同年の「女人藝術」12月号の表紙に採用された。中下は、『睦』の左側に置かれた同じ日本人形を描いたとみられる1924年(大正13)に制作された中出三也『人形』。は、1935年(昭和10)に制作された中出三也『自転車練習』だが、まだふたりは自転車に乗れなかったのだろうか。w
◆写真中下は、1928年(昭和3)制作の岡田七蔵『石神井川風景』。は、同年制作の同『石神井の鉄橋』。は、1930年(昭和5)制作の同『会瀬の海』。いずれも当時の釣り場ばかりで、遊びだか仕事をしにでかけたのかは不明だ。w
◆写真下は、熊岡美彦()と1936年(昭和11)制作の同『自画像』()。中上は、1935年(昭和10)制作の同『山上の裸婦』。中下は、熊岡自身による戸塚町112番地の「熊岡絵画道場」案内図。は、1937年(昭和12)夏に美術誌へ掲載された同道場の生徒募集広告。
おまけ1
 昭和に入ると画塾を開く画家は多かったが、大正期の画塾時代からつづく下落合537番地の大久保作次郎アトリエClick!に新設された「目白絵画研究所」の生徒募集広告。
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おまけ2
 三岸好太郎の名前が出ているので、アトリエ保存の一報を書いておきたい。三岸夫妻の孫娘にあたられる山本愛子様Click!によれば、とある企業の協力および住宅遺産トラストの支援により、三岸好太郎・節子アトリエClick!保存の目途がどうやらつきそうとのこと、たいへん喜ばしい限りだ。国の登録有形文化財である同アトリエを、末永く保存していただきたい。
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下落合の北隣り戸田康保邸を拝見する。 [気になる下落合]

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 サクラソウ(桜草)に、「目白台」という品種があるのを初めて知った。明治中期に邸を建設し、目白通りをはさんだ下落合の北隣り、高田町雑司ヶ谷旭出41番地(1937年より目白町4丁目41番地)を中心とする広大な敷地に住んでいた、戸田康保(やすよし)Click!が品種改良を重ねたものだ。川村女学院Click!に建つ第一校舎の屋上から眺めた、関東大震災Click!の際には近隣の住民が大勢避難したという戸田邸の森を初めて目にできたので、改めて戸田康保について記事にしてみたい。
 戸田康保によるサクラソウの品種改良は昭和初期のことだった。おそらく同邸の大温室Click!で、庭師とともに開発へ取り組んだものだろう。開発した草花に当該地名をつけるのは、たとえば大江戸(おえど)のロンドン王立植物園を上まわる当時は世界最大のフラワーセンターで、街々に花卉を供給する染井地区Click!で開発された江戸桜「ソメイヨシノ」のように不自然ではない。でも、サクラソウの新種に邸から東へ1.5kmも離れた地名「目白台」をつけたのはなぜだろうか? 地名をとるなら「高田」か「旭出」、近い駅名をつけるなら「目白」でいいと思うのだが、なぜか「目白台」と名づけている。
 品種改良したサクラソウ「目白台」について、1957年(昭和32)に誠文堂新光社から出版された、石井勇義/穂坂八郎・編『原色園芸植物図譜』第4巻から引用してみよう。
  
 めじろだい(目白台)/昭和2~3年頃に、東京目白台の戸田康保氏が実生で作出し、地名を品種名とした。草姿は見るからに剛壮で生育は旺盛、葉はやや短大で多肉硬質。葉柄はごく太く短く、全草に粗毛を生ずる。花茎、花梗共に短太剛直である。花は表乳白色、裏は薄藤色地に転々と白斑を現わす。広幅、厚平辨、横向咲の大輪で、6辨花が多い。目は盛り上り、赤紫を帯びる。本種はさくらそうとプリムラ・オプコニカとを交配して、最初に成功した唯一の和洋交配種と見られている。
  
 「東京目白台」は「東京高田町雑司ヶ谷旭出」が正確だが、既存の和種と洋種の「トキワザクラ(常盤桜)」を交配したのが、当時としては画期的だったようだ。
 ちょっと余談だけれど、1935年(昭和10)に結成された花卉同好会(戦後は園芸文化協会)には会長に島津忠重が就いているが、副会長には戸田康保と相馬孟胤Click!が就任している。戸田康保はサクラソウの品種改良で高名だったせいだが、下落合の相馬孟胤Click!は「丸弁大輪アマリリス」各種の品種改良で有名だったからだ。相馬孟胤の弟である相馬正胤が、西落合511番地に相馬果実缶詰研究所を設立し、そこで開発されたジャムになぜ「アマリリスジャム」Click!と名づけたのかが了解できた。アマリリスの育成は、相馬家がことのほか注力した品種改良の花卉の代表だったのだ。
 戸田康保邸(冒頭写真)は、1932年(昭和7)ごろまで建っていたようだが、徳川義親Click!が戸田家の敷地9,152坪を購入したのが1930年(昭和5)8月、雑司ヶ谷旭出41番地で徳川義親邸Click!を建設するための地鎮祭が行なわれたのは、翌1931年(昭和6)も押しつまった暮れなので、それまで転居作業を含め戸田康保は同邸にいたとみられる。
 また、徳川義親Click!が桜田町から転居してくるのは1932年(昭和7)11月28日なので、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)の曖昧な記述にも合点がいく。同誌は、戸田家が転居作業の最中に編集されていたのだ。なお、戸田康保邸には同じ華族(子爵)で浅野家へ養子にだした実子・浅野忠允(ただのぶ)が同居していたため、浅野家も含めた転居先の決定や引っ越しにも時間がかかったのではないか。
 『高田町史』には、戸田家は高田町雑司ヶ谷旭出から下落合へ転居することになっているが、戸田康保も当初はそのつもりだったのだろう。ところが、おそらく娘のひとりが原因不明の病気で熱が下がらないため、急遽、当時は大森海岸近くの別荘地だった大井伊藤町5921番地への、転地療養に変更している経緯は以前の記事Click!でもご紹介している。
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 さて、冒頭写真の戸田康保邸について建築資料を引用してみる。1954年(昭和29)刊行の「新住宅」10月号(新住宅社)に収録された須藤まがね『新日本住宅のあゆみ(2)』から。
  
 この住宅(戸田邸)も明治初期の暗中模索手法と、その後の安易模倣手法が一目で見較べられるので面白い建物だと思う。それぞれの建築の時や設計者が分らないのは残念である。/上げ下げ窓を持つ漆喰塗の西洋館に、千鳥破風や、唐破風を持ち込んだとこは愉快だが、忽ち軒先の蛇腹で苦しんでゐる。明治初年に二代目清水嘉助や、林忠恕が外人技師から学びとつた構造技術の上に新らしい日本建築を打ちたてようとした気ハクは一寸うかがえる。/右の方の後期の増築と思はれる部分は、もう日本の伝統には何の未練も持つて居ない。ただ2階の張出し部分の櫛形の欄間がベランダーの唐破風とよく釣合ひを保つてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 確かに、どこか芝居小屋(歌舞伎座Click!)か昔日の銭湯を思わせる、破風の屋根を載っけたファサードだ。目白通りの正門から入り、西へカーブする道を240mほど進むと車廻しにいたり、画面の左手に見える北面した玄関にたどり着く大邸宅だ。
 明治中期の竣工直後とみられる写真は、車廻し西側の芝庭から東南方向を向いて撮影している。戸田邸の母家が建っていたのは、現在の位置でいうと徳川ビレッジのほとんどの敷地ということになりそうだ。1932年(昭和7)ごろに解体された戸田邸の部材は、その一部が建設会社に売却されたものもあったようで、下落合に建っていた秋山邸Click!は、戸田邸の部材を再利用して昭和初期に建設されたものだとうかがっている。
 戸田康保が、高田町雑司ヶ谷旭出41番地に邸をたてて転居してくるのは明治中期だが、それ以前の住居を調べていて驚いた。日本橋の薬研堀Click!があった南側に接する、日本橋矢倉町(やのくらちょう=現・東日本橋1丁目)だったのだ。わたしの実家があった日本橋米沢町Click!(現・東日本橋2丁目)とは、薬研堀Click!(埋め立て後の大川端は千代田小学校Click!→現・日本橋中学校Click!)をはさみ、わずか200m弱しか離れていなかったことになる。親父は、戸田邸についてはなにも話してはくれなかったが、明治中期に目白停車場Click!近くに転居しているので、親のそのまた親世代でもすでに記憶が薄れていたのだろう。
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 日本橋矢倉町の戸田邸について、1905年(明治38)に出版協会から刊行された出版協会編輯局・編『二十世紀之東京・第弐編/日本橋区』より引用してみよう。
  
 矢の倉は浜町河岸に面した、薬研堀埋立地に踏み込んで四角形の端を噛切つた様な町である、もと矢の倉といふ、米倉の名を其儘に町名に呼んで、松平の下屋敷を合併して出来たもので、大川端最寄は、未だに旧屋敷其儘になつて居るが、薬研堀に面したところは、商店相並んだ、町通りをなして居る。大川端から這入る広場は北に戸田康保氏の邸宅を繞る土塀で、これは昔の屋敷の塀其儘に存して居る。
  
 同書は1905年(明治38)の出版だが、この文章は薬研堀の埋め立てにからめて明治前期か、または記憶をもとに書かれたらしいことがわかる。戸田康保とわたしは、いまの地名でいえば東日本橋の“同郷人”ということになるが、片や1万坪に近い敷地に大邸宅を建てて転居してきているのに、わたしはといえばサクラソウ「目白台」が開発された戸田邸の温室にも満たない、ネコ小屋みたいな家に住んでいるのはどうしたもんだろうか。
 先述の関東大震災の際、広い戸田邸の敷地内の森へ避難した周辺住民で、同級生のひとりを訪ねる一高学生の証言が残されている。1924年(大正13)に六合館から出版された第一高等学校国漢文科・編『大震の日』から、学生の文章を少しだけ引用してみよう。
  
 (前略)家族皆々無事なのを賀して、それから後藤末雄君を訪ふ。君の一家は、戸田邸に避難してゐた。暗い所で君や戸田子爵らにあふ。さつき記者から聞いた事を話すと、この辺の人は何も知らないと見えて非常に驚いた。
  
 「記者から聞いた事」とは、東京市内で早くも流布されはじめていた、「朝鮮人が井戸に毒を投げこんだ」や「朝鮮人が六郷をわたって攻めてくる」、あるいは「無政府主義者や社会主義者が反乱を起こす」など、まったく根も葉もない流言蜚語Click!のことだ。
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 目白駅の周辺域や豊島区に関する刊行物などでは、徳川義親邸については数多くの資料や証言類が紹介されているが、それ以前に住んでいた戸田康保邸についての証言はきわめて少ない。下落合515番地に自邸と能舞台をしつらえていた観世喜之Click!ともかなり親しく交流し、謡曲Click!にも造詣が深い戸田康保については、それはまた、少しあとの物語……。

◆写真上:明治中期に建てられ、和洋の建築様式が合体したような戸田康保邸。
◆写真中上は、戸田康保が品種改良に成功したサクラソウ「目白台」。は、1919年(大正8)に撮影された戸田康保邸内の大温室とその内部。
◆写真中下は、川村女学園の第一校舎屋上から1925年(大正14)に撮影された戸田邸遠望。は、現・徳川黎明会の正門近くにある戸田康保邸跡を記念する小さな石碑。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる戸田邸。
◆写真下は、1933年(昭和8)作成の市街図にみる戸田邸。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる徳川義親邸。いまだ戸田邸の面影が、敷地内のあちこちに残っている。下左は、1941年(昭和16)に撮影された戸田康保。下右は、1905年(明治38)刊行の出版協会編輯局・編『二十世紀之東京・第弐編/日本橋区』(出版協会)の中扉。
おまけ
 戸田邸の部材を活用して建築されたと伝わる、下落合768番地の秋山邸(解体)。
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秋山邸2.JPG
秋山邸3.JPG

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