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第三文化村の須藤福次郎邸を拝見する。 [気になる下落合]

須藤福次郎邸外観1926.jpg
 設計上は和洋折衷館だが、外観がほとんど和館という意匠は、目白文化村Click!の住宅ではむしろめずらしいだろう。洋間は、玄関を入ってすぐ左手(北側)に位置する8畳大の応接室のみで、あとの生活空間はすべて畳敷きの日本間構成となっている。下落合667番地の第三文化村に建っていた、会社役員の須藤福次郎邸だ。
 この住宅が特異なのは、西側の門や玄関のある八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)から見ると1階建ての平屋なのだが、西ノ谷(不動谷)Click!側から見あげると2階建てに見えることだ。つまり、西ノ谷(不動谷)に面した東側の急斜面を削って地階を設置し、実質上は2階建ての住宅となっている点だろう。地階は4部屋を除き、まるで清水寺の舞台のように太い柱が多数設置され、1階部分の居住空間を支える構造となっている。
 須藤邸が、第三文化村における最南端の敷地に建設されたのは、1926年(大正15)の遅い時期だと思われる。同年も押しつまった12月に、帝国建築協会から出版された「世界建築年鑑」第6号に竣工後の写真や図面が収録されており、須藤家が入居した直後に撮影されていると思われる。設計は猪巻貫一で、施工したのは以前にこちらの記事でもご紹介した、第一文化村の外れで営業していた下落合1536番地の宮川工務所Click!だ。同工務所の社屋は、目の前に拡がる目白文化村や箱根土地本社Click!にアピールするためか西洋館の意匠だが、須藤邸のような純日本家屋の建設も得意だったらしい。
 第三文化村の南側は、西ノ谷(不動谷)をはさんで東西に細長く南へとつづく敷地で、大正末には西側の丘上にはすでに住宅が建てられていたが、谷間をはさんだ東側にはすでに住宅敷地は造成されていたものの、なかなか住宅が建設されなかった。敷地の東側に青柳ヶ原Click!の丘陵があったため、午前中もかなり時間がたたないと陽光が射しこまず、それが住宅建設の遅れた要因だろう。あるいは、投機目的で敷地は売れていたものの、条件が悪くてなかなか転売できなかったものだろうか。1931年(昭和6)に、国際聖母病院Click!聖母坂Click!を建設するため青柳ヶ原の上部が大きく削られてからは、陽射しの障害がなくなり1940年(昭和15)ごろから住宅が次々と建ちはじめている。
 須藤福次郎邸の敷地は、1935年(昭和10)ごろになると銀座ワシントン靴店Click!の創業者・東條舟壽(たかし)の実弟が、屋敷を建てて住んでいたとうかがっているので、須藤邸は建設からわずか10年ほどしか建っていなかったことになる。1936年(昭和11)撮影の空中写真や、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照するとすでに東條邸が確認できるので、仕事の関係から須藤家は新築の家を手放しどこかへ転居しているのだろう。
 須藤福次郎は、第三文化村に自邸を建てたころ日本果実工業社の取締役に就任していたが、1935年(昭和10)にはすでに日和通鉱社の取締役に移籍しており、その後、自身で起業したとみられる日本鉱発社の代表に就任している。ひょっとすると、1935年(昭和10)ごろに日和通鉱社を退社して独立し、日本鉱発社を設立する際、その資金調達のためにせっかく建てた自邸を売却しているのかもしれない。
 1926年(大正15)の暮れに、帝国建築協会から出版された「世界建築年鑑」第6号に収録の、竣工した「須藤福次郎邸」の説明文から引用してみよう。
  
 東京府下落合町字落合(ママ:下落合)第三文化村 須藤福次郎邸
 同建築物は省線電車目白駅の西北(ママ:西南西)約八丁の地点に在り附近一帯文化住宅を以て一村を作り震災後郊外文化村として面目を一新す 俗に目白文化村又は落合文化村(ママ)とも云ふ 其の内同邸は第三区文化村(ママ)に在り地面の傾斜せるを適当に応用して地下室となし研究室、見本室、書斎、物置等となす 外観美しく室内間取の最も宜しき点多し 応接室は洋式にして居間次の間客間茶の間等は純日本式とす。(カッコ内引用者註)
  
 文中では、「震災後郊外文化村として」と書かれているが、もちろん下落合の目白文化村や近衛町Click!、あるいは落合第一・第二府営住宅Click!関東大震災Click!以前から建設されている。また、松下春雄Click!が画題にしたように「下落合文化村」Click!という表現は地元でも聞いたことがあるが、「落合文化村」はあまり聞かないネームだ。
須藤邸居間.jpg
須藤邸客間.jpg
須藤邸応接室.jpg
須藤福次郎邸1926.jpg
 玄関を入ると、左手が洋間の応接室だったことは先述したが、突きあたりの廊下を右に折れると右手(西側)に板張りの台所があり、つづいて8畳の茶の間がある。おそらく、家族はこの茶の間で食卓を囲んだのだろう。茶の間からは、浴室へと入ることができた。また、茶の間を突っきると、庭に面した南側の広い廊下へと抜けることができた。この廊下の右手(西側)には、トイレへの入口があり、トイレは小用と大用に分かれていた。
 玄関を入り、廊下の向かいには3畳の狭い女中部屋とトイレがあり、廊下を南へ歩くと左手(東側)には床のある居間(8畳)に次の間(8畳)、そして床のある客間(8畳)がつづいている。客間は、玄関つづきの廊下からは直接入れず、次の間あるいは茶の間を抜けると入室することができた。この中で、いちばん南側に面し広い廊下に接している客間が、もっとも陽当たりがよく快適な空間だったと思われる。須藤邸の敷地は広いので、南側の広い廊下から眺める庭園も、和式の凝った造りをしていたのかもしれない。
 また、地階は屋内の階段から下りるのではなく、庭を東側へまわると両開きのドアから入ることができたようだ。地階には12畳大の研究室、8畳大の書斎、同じく8畳大の物置、そして3畳大の見本室を利用することができた。書斎や見本室は、それぞれ研究室を通らないと利用できないが、物置は研究室からではなく、応接室や女中部屋のある北側からまわると入口のドアが設置されていたようだ。
 さて、須藤福次郎は研究室や見本室、書斎などでなにを研究していたのだろうか。のちに、鉱業系の企業の取締役へ就任しているところをみると、なにか鉱物関連の研究開発あるいは採集を行っていたのかもしれない。研究室の隣りに見本室が設置されているのも、なにか鉱物関連の成果や採集した標本を展示して訪問客に見せる部屋だったものか。これら地階の部屋は、西ノ谷(不動谷)の急斜面を利用して設計され、東側に面して大きめな窓がいくつも並んで穿たれていたため、昼間なら十分な採光が得られただろう。だから、“地下”の部屋という雰囲気は、まったくしなかったにちがいない。
須藤邸平面図1階.jpg
須藤邸平面図地階.jpg
須藤邸正面背面.jpg
須藤邸南北面.jpg
 目白文化村の第三文化村Click!は、1924年(大正13)に売り出されたが、早々に全敷地が売約済みとなったにもかかわらず、なかなか住宅が建設されなかった。つまり、関東大震災後に投機目的の“不在地主”が、郊外住宅敷地の買い漁りをしていた時期と販売が重なったため、土地投機の対象にされたからだ。だが、西ノ谷(不動谷)に面した西側の尾根筋、すなわち八島さんの前通りClick!(星野通り)沿いは、大正末から次々と邸宅が建設されている。1926年(大正15)の時点で、北から南へ広い敷地に建つ大塚邸、〇あ井邸(1文字不明)、そして須藤福次郎邸の3棟だ。
 けれども、10年後の昭和10年代になると、これらの邸宅はすでに解体されて、同じく北から南へ吉田博・ふじをアトリエClick!、佐久間邸、そして東條邸へと建て替えられている。その間には、金融恐慌や世界大恐慌をはさんでいるので、他の目白文化村内でも住民の動きが激しい時期だが、須藤邸は1935年(昭和10)ごろまでそのままだったとみられるため、恐慌の影響ではなく別の理由から転居しているのではないかと想定している。
 ここで、面白いことに気がついた。広い須藤福次郎の南側に接しているのは、佐伯祐三Click!がときどき訪問していた笠原吉太郎アトリエClick!だ。同アトリエを訪問しなくても、佐伯祐三は散歩の途中で、建設工事中の須藤邸はよく見かけて知っていただろう。ときに大工たちの仕事を、飽きずにジッと眺めていたかもしれない。つまり、佐伯は工事中の須藤邸へ入りこんで、または竣工して須藤家が転居してくる以前の、まだ無人だった同邸の北側敷地に入りこんで、「下落合風景」シリーズClick!の1作『目白の風景』Click!を仕上げているのではないかという可能性だ。
 あるいは、須藤一家が住みはじめてから、ひとこと須藤家へ断りを入れて邸の北側にイーゼルを立てているのではないか。なぜなら、『目白風景』の手前(画面下)を観察すると、佐伯の背後になんらかの建築物があり、画家が立つ位置へ影を落としているのが明らかだからだ。この“影”が、建設途中の須藤邸か竣工後の同邸かは不明だが、少なくとも1926年(大正15)の暮れには完成していたと思われるので、おそらく同年の晩秋以降に制作された可能性が高い。そして、以前の記事でも触れたが、周囲の草木の様子から冬の情景のようにも思えるので、1926年(大正15)の冬あるいは翌1927年(昭和2)の冬ないし早春のころの仕事のように思える。
須藤福次郎邸跡.jpg
佐伯祐三「目白の風景」1926頃.jpg
写生中の佐伯.jpg
 佐伯祐三は、須藤邸の玄関引き戸をガラガラっと開けると、西ノ谷(不動谷)に面した敷地内で写生をしてもいいかどうか訊ねた。須藤福次郎は出社して不在であり、女中が取り次いで応対したのは奥さんだったろう。夫人は、聞き慣れない関西弁にとまどいながら、汚らしい格好Click!をした絵の具の染みだらけの佐伯を、頭の先からつま先までジロジロ眺めたあと、「よござんすよ。Click! でも、そこらを汚さないでくださいましな」とでも答えたかもしれない。「1時間ほどでっさかい、よろしゅう頼んますわ」という佐伯の息が、まだ陽が当たらず西側の玄関で蔭っているせいか白かった……そんな情景を想像してしまうのだ。

◆写真上:1926年(大正16)の暮れ、第三文化村に建設された須藤福次郎邸。
◆写真中上は、須藤邸の居間。中上は、同じく客間。中下は、同邸の応接室。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる須藤福次郎邸。須藤邸の敷地は広く、母家のあった側が下落合667番地で南側の庭が678番地だった。
◆写真中下は、須藤邸の1階平面図。中上は、同邸の地階平面図。中下は、同邸の八島さんの前通りと谷間に面した側面図。は、南北の側面図。
◆写真下は、須藤邸跡の現状(画面左手)。は、1926~1927年(大正15~昭和2)の冬に制作されたとみられる佐伯祐三『目白の風景』。は、写生中の佐伯祐三。
おまけ
 1938年(昭和13)の「火保図」にみる、西ノ谷(不動谷)に面した第三文化村の邸宅で、すでに3棟とも建て替えられている。下は、西ノ谷(不動谷)に面した須藤邸跡(画面左手)。
東條邸(旧須藤福次郎邸)1938.jpg
須藤邸跡不動谷.JPG

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ものたがひ

落合道人さま、こんにちは。落合の斜面を生かした須藤邸、面白いですね。私も、佐伯はこの建築現場を、興味を持ってみていたに違いないと思います! で、佐伯の作品ではありませんが、笠原吉太郎の『下落合風景を描く佐伯祐三』(https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2006-06-05)が、この現場と関連するようですね。
笠原の描く佐伯の背後には、おそらく南面する、背丈より高い擁壁がありますが、当時下落合にいくつも造られていた擁壁のどこであるかは、切り取られた?画面からは考えようがないと思っていました。しかし、笠原吉太郎の家に隣接した建築現場となると、話は変わります。佐伯と笠原が親しくても、いつも佐伯が絵を描くところに付いていった訳ではあるまいと思いますが、自宅脇で描き始めていたら、自分も画道具を持ち出してその姿を描く、というのは大いにありえそうだと考えます。つまり、須藤邸の「見本室」を建築するあたりは、斜面を削り一旦擁壁を造る必要があると思われ、入り込み易い更地ができたチャンスを逃さず佐伯はイーゼルを立てていた、という想定です。そうであるとすると、この佐伯はどこを描いているかも問題となりますが、須藤邸敷地の南端の方から南東方向を見ているのだとすると、笠原邸の北面ないし青柳ケ原の尾根の下方?という感じがします。それらしい佐伯の作品あるでしょうか。w
by ものたがひ (2024-02-29 11:52) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、コメントをありがとうございます。
西ノ谷(不動谷)側に面した、箱根土地が設置した擁壁はいつもの大谷石による築垣ですが、須藤邸敷地内の“地固め”は不明なのでコンクリートだった可能性はありますね。ただ、第一文化村にほぼ隣接した宮川工務所は、箱根土地とその出入り業者とはツーカーの仲だった可能性がありますので、その場合は大谷石の可能性のほうが高いでしょうか。
わたしは、勝手に西ノ谷(不動谷)と諏訪谷が合流する、徳川邸のある丘の向かいに築かれていた、10mほどはありそうなコンクリート擁壁ではないかと独断で想像しているのですが。w そう、松下春雄が徳川邸の庭を描いたとき、向かい側に見えている『下落合風景を描く佐伯祐三』の仕様によく似たコンクリート擁壁です。この仮定ですと、佐伯が描いているのは樹木があらかた伐採された青柳ヶ原ということになりそうですね。
また、須藤邸の敷地内に築かれた急斜面の擁壁だとすると、『目白風景』とは向きが逆になり、おっしゃるとおり笠原吉太郎アトリエあるいは西ノ谷(不動谷)の出口あたりを描いていることになります。当時は、樹林や草原が繁る一帯だったと思うのですが、なにか画因をおぼえるような工事あるいは建設でもしていたのでしょうか。釣り堀屋が、湧水流を引き込むために掘削工事をしていたとか。w
1968年に刊行された『新宿と文学 : そのふるさとを訪ねて』(新宿区教育委員会)には、本作『目白風景』が収録されており、佐伯アトリエの「西側展望」と書かれています。当時は、佐伯米子が健在でしたので、おそらく本人に確認しているはずですね。『目白風景』は、正確には佐伯アトリエの西南側となりますが、ほぼ場所が規定できたことになります。
by ChinchikoPapa (2024-02-29 13:57) 

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