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第三文化村の須藤福次郎邸を拝見する。 [気になる下落合]

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 設計上は和洋折衷館だが、外観がほとんど和館という意匠は、目白文化村Click!の住宅ではむしろめずらしいだろう。洋間は、玄関を入ってすぐ左手(北側)に位置する8畳大の応接室のみで、あとの生活空間はすべて畳敷きの日本間構成となっている。下落合667番地の第三文化村に建っていた、会社役員の須藤福次郎邸だ。
 この住宅が特異なのは、西側の門や玄関のある八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)から見ると1階建ての平屋なのだが、西ノ谷(不動谷)Click!側から見あげると2階建てに見えることだ。つまり、西ノ谷(不動谷)に面した東側の急斜面を削って地階を設置し、実質上は2階建ての住宅となっている点だろう。地階は4部屋を除き、まるで清水寺の舞台のように太い柱が多数設置され、1階部分の居住空間を支える構造となっている。
 須藤邸が、第三文化村における最南端の敷地に建設されたのは、1926年(大正15)の遅い時期だと思われる。同年も押しつまった12月に、帝国建築協会から出版された「世界建築年鑑」第6号に竣工後の写真や図面が収録されており、須藤家が入居した直後に撮影されていると思われる。設計は猪巻貫一で、施工したのは以前にこちらの記事でもご紹介した、第一文化村の外れで営業していた下落合1536番地の宮川工務所Click!だ。同工務所の社屋は、目の前に拡がる目白文化村や箱根土地本社Click!にアピールするためか西洋館の意匠だが、須藤邸のような純日本家屋の建設も得意だったらしい。
 第三文化村の南側は、西ノ谷(不動谷)をはさんで東西に細長く南へとつづく敷地で、大正末には西側の丘上にはすでに住宅が建てられていたが、谷間をはさんだ東側にはすでに住宅敷地は造成されていたものの、なかなか住宅が建設されなかった。敷地の東側に青柳ヶ原Click!の丘陵があったため、午前中もかなり時間がたたないと陽光が射しこまず、それが住宅建設の遅れた要因だろう。あるいは、投機目的で敷地は売れていたものの、条件が悪くてなかなか転売できなかったものだろうか。1931年(昭和6)に、国際聖母病院Click!聖母坂Click!を建設するため青柳ヶ原の上部が大きく削られてからは、陽射しの障害がなくなり1940年(昭和15)ごろから住宅が次々と建ちはじめている。
 須藤福次郎邸の敷地は、1935年(昭和10)ごろになると銀座ワシントン靴店Click!の創業者・東條舟壽(たかし)の実弟が、屋敷を建てて住んでいたとうかがっているので、須藤邸は建設からわずか10年ほどしか建っていなかったことになる。1936年(昭和11)撮影の空中写真や、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照するとすでに東條邸が確認できるので、仕事の関係から須藤家は新築の家を手放しどこかへ転居しているのだろう。
 須藤福次郎は、第三文化村に自邸を建てたころ日本果実工業社の取締役に就任していたが、1935年(昭和10)にはすでに日和通鉱社の取締役に移籍しており、その後、自身で起業したとみられる日本鉱発社の代表に就任している。ひょっとすると、1935年(昭和10)ごろに日和通鉱社を退社して独立し、日本鉱発社を設立する際、その資金調達のためにせっかく建てた自邸を売却しているのかもしれない。
 1926年(大正15)の暮れに、帝国建築協会から出版された「世界建築年鑑」第6号に収録の、竣工した「須藤福次郎邸」の説明文から引用してみよう。
  
 東京府下落合町字落合(ママ:下落合)第三文化村 須藤福次郎邸
 同建築物は省線電車目白駅の西北(ママ:西南西)約八丁の地点に在り附近一帯文化住宅を以て一村を作り震災後郊外文化村として面目を一新す 俗に目白文化村又は落合文化村(ママ)とも云ふ 其の内同邸は第三区文化村(ママ)に在り地面の傾斜せるを適当に応用して地下室となし研究室、見本室、書斎、物置等となす 外観美しく室内間取の最も宜しき点多し 応接室は洋式にして居間次の間客間茶の間等は純日本式とす。(カッコ内引用者註)
  
 文中では、「震災後郊外文化村として」と書かれているが、もちろん下落合の目白文化村や近衛町Click!、あるいは落合第一・第二府営住宅Click!関東大震災Click!以前から建設されている。また、松下春雄Click!が画題にしたように「下落合文化村」Click!という表現は地元でも聞いたことがあるが、「落合文化村」はあまり聞かないネームだ。
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 玄関を入ると、左手が洋間の応接室だったことは先述したが、突きあたりの廊下を右に折れると右手(西側)に板張りの台所があり、つづいて8畳の茶の間がある。おそらく、家族はこの茶の間で食卓を囲んだのだろう。茶の間からは、浴室へと入ることができた。また、茶の間を突っきると、庭に面した南側の広い廊下へと抜けることができた。この廊下の右手(西側)には、トイレへの入口があり、トイレは小用と大用に分かれていた。
 玄関を入り、廊下の向かいには3畳の狭い女中部屋とトイレがあり、廊下を南へ歩くと左手(東側)には床のある居間(8畳)に次の間(8畳)、そして床のある客間(8畳)がつづいている。客間は、玄関つづきの廊下からは直接入れず、次の間あるいは茶の間を抜けると入室することができた。この中で、いちばん南側に面し広い廊下に接している客間が、もっとも陽当たりがよく快適な空間だったと思われる。須藤邸の敷地は広いので、南側の広い廊下から眺める庭園も、和式の凝った造りをしていたのかもしれない。
 また、地階は屋内の階段から下りるのではなく、庭を東側へまわると両開きのドアから入ることができたようだ。地階には12畳大の研究室、8畳大の書斎、同じく8畳大の物置、そして3畳大の見本室を利用することができた。書斎や見本室は、それぞれ研究室を通らないと利用できないが、物置は研究室からではなく、応接室や女中部屋のある北側からまわると入口のドアが設置されていたようだ。
 さて、須藤福次郎は研究室や見本室、書斎などでなにを研究していたのだろうか。のちに、鉱業系の企業の取締役へ就任しているところをみると、なにか鉱物関連の研究開発あるいは採集を行っていたのかもしれない。研究室の隣りに見本室が設置されているのも、なにか鉱物関連の成果や採集した標本を展示して訪問客に見せる部屋だったものか。これら地階の部屋は、西ノ谷(不動谷)の急斜面を利用して設計され、東側に面して大きめな窓がいくつも並んで穿たれていたため、昼間なら十分な採光が得られただろう。だから、“地下”の部屋という雰囲気は、まったくしなかったにちがいない。
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 目白文化村の第三文化村Click!は、1924年(大正13)に売り出されたが、早々に全敷地が売約済みとなったにもかかわらず、なかなか住宅が建設されなかった。つまり、関東大震災後に投機目的の“不在地主”が、郊外住宅敷地の買い漁りをしていた時期と販売が重なったため、土地投機の対象にされたからだ。だが、西ノ谷(不動谷)に面した西側の尾根筋、すなわち八島さんの前通りClick!(星野通り)沿いは、大正末から次々と邸宅が建設されている。1926年(大正15)の時点で、北から南へ広い敷地に建つ大塚邸、〇あ井邸(1文字不明)、そして須藤福次郎邸の3棟だ。
 けれども、10年後の昭和10年代になると、これらの邸宅はすでに解体されて、同じく北から南へ吉田博・ふじをアトリエClick!、佐久間邸、そして東條邸へと建て替えられている。その間には、金融恐慌や世界大恐慌をはさんでいるので、他の目白文化村内でも住民の動きが激しい時期だが、須藤邸は1935年(昭和10)ごろまでそのままだったとみられるため、恐慌の影響ではなく別の理由から転居しているのではないかと想定している。
 ここで、面白いことに気がついた。広い須藤福次郎の南側に接しているのは、佐伯祐三Click!がときどき訪問していた笠原吉太郎アトリエClick!だ。同アトリエを訪問しなくても、佐伯祐三は散歩の途中で、建設工事中の須藤邸はよく見かけて知っていただろう。ときに大工たちの仕事を、飽きずにジッと眺めていたかもしれない。つまり、佐伯は工事中の須藤邸へ入りこんで、または竣工して須藤家が転居してくる以前の、まだ無人だった同邸の北側敷地に入りこんで、「下落合風景」シリーズClick!の1作『目白の風景』Click!を仕上げているのではないかという可能性だ。
 あるいは、須藤一家が住みはじめてから、ひとこと須藤家へ断りを入れて邸の北側にイーゼルを立てているのではないか。なぜなら、『目白風景』の手前(画面下)を観察すると、佐伯の背後になんらかの建築物があり、画家が立つ位置へ影を落としているのが明らかだからだ。この“影”が、建設途中の須藤邸か竣工後の同邸かは不明だが、少なくとも1926年(大正15)の暮れには完成していたと思われるので、おそらく同年の晩秋以降に制作された可能性が高い。そして、以前の記事でも触れたが、周囲の草木の様子から冬の情景のようにも思えるので、1926年(大正15)の冬あるいは翌1927年(昭和2)の冬ないし早春のころの仕事のように思える。
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佐伯祐三「目白の風景」1926頃.jpg
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 佐伯祐三は、須藤邸の玄関引き戸をガラガラっと開けると、西ノ谷(不動谷)に面した敷地内で写生をしてもいいかどうか訊ねた。須藤福次郎は出社して不在であり、女中が取り次いで応対したのは奥さんだったろう。夫人は、聞き慣れない関西弁にとまどいながら、汚らしい格好Click!をした絵の具の染みだらけの佐伯を、頭の先からつま先までジロジロ眺めたあと、「よござんすよ。Click! でも、そこらを汚さないでくださいましな」とでも答えたかもしれない。「1時間ほどでっさかい、よろしゅう頼んますわ」という佐伯の息が、まだ陽が当たらず西側の玄関で蔭っているせいか白かった……そんな情景を想像してしまうのだ。

◆写真上:1926年(大正16)の暮れ、第三文化村に建設された須藤福次郎邸。
◆写真中上は、須藤邸の居間。中上は、同じく客間。中下は、同邸の応接室。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる須藤福次郎邸。須藤邸の敷地は広く、母家のあった側が下落合667番地で南側の庭が678番地だった。
◆写真中下は、須藤邸の1階平面図。中上は、同邸の地階平面図。中下は、同邸の八島さんの前通りと谷間に面した側面図。は、南北の側面図。
◆写真下は、須藤邸跡の現状(画面左手)。は、1926~1927年(大正15~昭和2)の冬に制作されたとみられる佐伯祐三『目白の風景』。は、写生中の佐伯祐三。
おまけ
 1938年(昭和13)の「火保図」にみる、西ノ谷(不動谷)に面した第三文化村の邸宅で、すでに3棟とも建て替えられている。下は、西ノ谷(不動谷)に面した須藤邸跡(画面左手)。
東條邸(旧須藤福次郎邸)1938.jpg
須藤邸跡不動谷.JPG

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落合とは反対側の渋谷を描く花沢徳衛。 [気になるエトセトラ]

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 これまで拙サイトでは、落合地域やその周辺域を流してまわる物売りClick!について、大正期から現代にいたるまであちこちの記事Click!ご紹介Click!してきた。おそらく、伝承されたり記録に残っているのはごく一部のみで、そのほかにも数多くの物売りがふれ歩きしていたのではないかと想像している。今回は、従来の記事に登場してこなかった、東京近郊におけるふれ歩き商売について書いてみたい。
 参照するのは、落合地域と同じ東京郊外の住宅街として発展し、新宿駅をはさみちょうど反対側にあたる渋谷地域における大正期の記録だ。神田生まれで渋谷に育ち、斎藤与里Click!へ師事した洋画家で俳優の、ここは花沢徳衛に登場してもらおう。1987年(昭和62)に新日本出版社から刊行された花沢徳衛『幼き日の街角』から、彼自身の挿画でご紹介したい。同書は、季節を追って正月にはじまり年間を通じて、おもに大正期の渋谷の街角で見られた風俗や、季節の風物詩を追いかける構成になっている。
 花沢徳衛がようやく物心ついたころの渋谷風景を、同書より引用してみよう。
  
 私は一九一一年東京神田の生まれ。「へェ神田ッ児ですか」なんてよくいわれるが、私が物心ついた頃、一家は渋谷に住んでいたから、神田のことはまるで知らない。私は自分の故郷は渋谷だと思っている。しかし現今の渋谷はあまりにも様変りが激しく、故郷として懐かしむよすがもない。そこで、私が幼い頃街角で見かけた風物を、想い出しては描いたのがこの絵本である。/私たち一家が渋谷で住んでいたのは、豊多摩郡と荏原郡の境を流れる三田用水に近い、東京府下豊多摩郡渋谷町大字中渋谷六七六番地(現渋谷区神泉)の地で、少し駅に向って歩けば荒木山(現円山)の色街があり、三田用水を渡って駒場に出れば、輜重兵第一大隊、近衛輜重兵大隊、騎兵第一聯隊と兵隊屋敷が並び、世田谷には砲兵旅団があったから、渋谷は馬と兵隊の通行のはげしい町だった。
  
 花沢徳衛は神田生まれだが記憶がないため、江戸東京の習慣Click!にしたがえば自身のことを「渋谷っ子」と規定していた。彼は「中渋谷676番地(現渋谷区神泉)」と書いているが、同番地は現・渋谷区円山町23番地で、「神泉」は京王井の頭線の最寄りの駅名だ。神泉の谷から、南の丘上に通う道沿いが中渋谷676番地にあたる。もちろん、いまだ神泉駅など存在せず、彼のいう「駅に向って歩けば」は、自宅から道玄坂上にでて電車道を通り、600~700mほどでたどり着ける山手線・渋谷駅のことだ。
 渋谷は落合と同じく豊多摩郡に属しており、ちょうど花沢徳衛が物心つくころの、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)によれば、渋谷の人口は70,057人(16,494戸)であり、同時期の落合は1,292人(237戸)なので、よほど渋谷のほうが郊外住宅地として拓けるのが早く、すでに市街地が形成されていた様子がわかる。だからこそ、多種多様なふれ売りが各地から集合してきたのだろう。ちなみに、新宿駅のある当時の淀橋町は28,812人(6,933戸)で、渋谷のほうが市街地化が早かった様子がわかる。
 さて、正月は江戸の馬鹿囃子(ばかっぱやし)とともに獅子舞いClick!がやってくるのは同じだが、落合地域ではあまり聞かない物売り・ふれ売りをご紹介したい。まるで祭りのような派手な衣装を着た男女が5~6人、家財道具のような荷物を積んだ大八車Click!でやってきて、往来や店先など場所もかまわず、いきなり餅つきをはじめる「粟餅や」が渋谷に現れている。落合地域では聞かないが、親父Click!からは日本橋の昔話とともに聞かされた江戸期からつづく商売だ。その様子を、同書より引用してみよう。
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 (前略)せいろを仕掛けたへっついには火がはいったままで、煙をなびかせてやってきて、営業中の商家の前でもかまわず、総がかりで手早く荷を降ろして店を開く。/店先をふさがれた商家でも、そこは東京市内とちがい郊外の町のこと、一刻店先がにぎやかになっていいや、とばかり平気である。/やがて鳴物入りで歌を唄いながら餅つきがはじまる。見物人が道にあふれ、往来もくそもあったものではない。一商売すますと「おやかましゅう」と一言残して、さっと消えて行く。
  
 この「粟餅や」には子連れもあり、親父の話では子どもたちに派手な服を着せては、音曲にあわせて躍らせるケースもあったようだ。ひょっとすると、東京市内からの転居者も多かった落合町にも、大正後期には姿を見せていたかもしれない。
 「子どもだまし」も、小学校の門前に姿を見せている。香具師(やし)あるいはテキヤと呼ばれる露天商は、わたしの子どものころにもいて校門前に見世を拡げていたが、学校かPTAかは忘れたけれど、「買ってはいけません」というお触れがでたことを記憶している。
  
 小学校の先生のような背広を一着に及び、子どもたちが前に立つと、ペン先がガラスでできた万年筆を一本取り上げ、いきなりあき缶の底にたたき込み、缶の底をガラスペンで穴だらけにしてしまう。次にそのペンで紙にすらすらと丸や直線を書いて見せる。万年筆は子どもたちの憧れの品である。買って帰ると、インクがボタボタ出すぎたり出なかったりで使い物にならなかった。/X光線というのを売る奴がいた。径二センチの長さ一〇センチほどの黒いクロスを張ったボール紙の筒にレンズが付いている。これを使えば何でも透視できるというのだ。買って帰ると、何を見ても外見とはちがうモヤモヤした物が見える。こわして見たら中に鳥の羽根がはいっていた。
  
 「これ、不良品だよ!」と、校門前の「子供だまし」にクレームを入れようとするが、下校時間をすぎればとうにどこかへ消えている。見つけたとしても、「そりゃ悪かった、新しいのをあげる」といって交換するが、間をおかず尻に帆かけて逃亡するのだろう。テキヤと同じで、それでも文句をいおうものなら、「万年筆が5銭で買えるか!」などと開き直ったりするので、子どもたちにとっては興味津々だが怖い対象でもあっただろう。
 渋谷には、市内と同様に角兵衛獅子もやってきたようだ。これも江戸期からの風物詩で、はるばる越後(新潟県)から農閑期に出稼ぎでやってくる人たちだったが、明治以降は専門職として成立していたのだろう。たいがいふたり以上の子どもを連れていて、太鼓にあわせ子どもたちに曲芸のような獅子舞いを踊らせる。
 大正期には、困窮する農村から売られてきた子も多く、親方からアクロバットのような芸をきびしく仕込まれ、悲惨な生活を送る子も少なくなかったにちがいない。食事さえ満足にさせてもらえず、やせ細った子どもたちに同情して見物客は財布のヒモをゆるめるのだが、それが親方のつけ目でもあった。もちろん、子どもたちは小学校へなど通っていない。
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 渋谷にも、富山の薬売りClick!はやってきている。中には、ツキノワグマの剥製を背負って歩く富山の胆売りもいたようで、子どもたちはもう嬉しくてパニックのような騒ぎになっただろう。子どもたちは、富山から歩いてくるものとばかり思っていたようだが、団体で汽車に乗り東京へ着くと、決められたテリトリーへそれぞれ散開していったらしい。現代の富山の薬売りは、もちろん最寄りの東京支社・支店からやってくる。
  
 「奥州仙台さい川の名産孫太郎虫――」何の薬か分らないが、孫太郎という人が川で死んだ時、遺体にたくさんついていた虫だというのを聞いて気味悪かった。/熊の胆売りは、自分の商品が正真正銘の物であることを印象づけるため、暑さの中をご苦労にも熊の剥製を背負って歩いていた。/特殊構造の天秤棒で細長い薬ダンスを担ぎ、ガチャガチャ、リズミカルな音をたてて歩く定斎やさん。この人たちは決して被り物をかぶらない。この薬を飲んでいれば、決して暑さに負けない、といいたいのである。
  
 東京市内には、官設の消防署があったが郡部の渋谷にはなく、落合地域とまったく同様に鳶職を中心とした消防組Click!が組織されていた。江戸期と同じ印半纏に猫頭巾という姿で、消防ポンプはあったが纏(まとい)もちが先頭をきって走っていた。
 「ほうかいや」も門口にきては、さまざまな芸を見せていたようだ。「ほうかいや(法界屋)」は全国を流浪する旅芸人のことで、演歌師とも呼ばれていたようだが、わたしは見たことがないし知らない。また、落合地域の資料にも記録が見えない。八木節や安来節など有名な民謡を奏でながら、小さな子どもたちに踊らせては駄賃をとる、角兵衛獅子に近い芸人たちだったようだ。楽器も三味線や月琴、胡弓、尺八、太鼓などさまざまで、江戸期から街中にいた新内流しClick!の門づけのような存在だったのだろう。
 新聞の号外売りは、なにか事件があればどこの街でも新聞店から大きな鈴を腰につけて走りでてたろうが、大正期ともなれば宣伝屋もよく姿を見せるようになる。「♪ラ~メちゃんたらギッチョンチョンでパイのパイのパ~イ」はわたしもすぐに唄えるが、1918年(大正7)ごろにつくられエノケンClick!が浅草で唄って大ヒットした『東京節』Click!だ。親父が風呂場などで口ずさんでいるのを聴いて、いつのまにか自然に憶えたのだが、親父が生まれるかなり以前の曲なので、おそらく祖父母あるいは年長のオトナから教わったのだろう。宣伝広告屋のBGM(客寄せ歌)として、街中ではよく使われていたようだ。
  
 一九二一年初夏のある日、裏長屋に住んでいた九歳の私は、突然表通りから聴こえてくる大音響にビックリして飛び出した。表通りへ出て見ると、それは「ギッチョンチョン」とは全く関係のない化粧品の広告で、馬力とよばれていた荷馬車を大きな箱で擬装し、それに広告文が書かれ、音は箱の上に仕掛けた拡声器から出ていた。
  
 落合地域にも、「♪ラ~メちゃんたらギッチョンチョン」の広告屋がきたかどうかは証言がないので不明だが、大正期に新宿で開店していたカフェ「ブラジル」の広告ビラを、上空から撒いていた飛行機が目白学園Click!校庭に墜落Click!しているほどなので、おそらく「♪パ~リコとバナナでフライフライフラ~イ」もきているのではないか。ちなみに、連れ合いや友人たちに訊いてみたら「♪ギッチョンチョンでパイのパイのパ~イ」と難なく唄えたので、祖父母の世代から広く東京じゅうで唄い継がれてきた曲ではないだろうか。
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花沢徳衛「幼き日の街角」1987.jpg 花沢徳衛プロフィール.jpg
 上記の『東京節』の動画にも登場するが、渋谷にはラオ屋も頻繁にきている。もっとも、下落合にある飯田高遠堂Click!の前で、わたしはピーーッと蒸気音を景気よく鳴らす小型トラック仕様のラオ屋を見かけているので、いまでも下落合・目白地域にはキセルの愛好者がいるのだろう。渋谷には、幕府の鷹匠の末裔である「鳥刺し」もきているが、幕府鷹狩り場Click!で野鳥も多い御留山Click!のある下落合にも、鳥刺しはやってきているにちがいない。

◆写真上:江戸期に将軍鷹狩り用のタカの生餌を捕まえた幕府鳥刺しは、明治になると野鳥を捕獲して売る小鳥屋へ転職した。以下、挿画はすべて花沢徳衛。
◆写真中上中上は、粟餅屋と子どもだまし。中下は、1911年(明治44)作成の「渋谷町全図」にみる花沢宅位置。は、現在の同番地界隈(画面左)。
◆写真中下中上は、江戸期から街中ではお馴染みの角兵衛獅子と多彩な意匠でやってくる富山の薬売り。中下は、ほうかいや(法界屋)と渋谷町消防組。
◆写真下は、「ギッチョンチョン」の広告屋といまでも見かけるラオ屋。は、1987年(昭和62)出版の花沢徳衛『幼き日の街角』(新日本出版社/)と著者()。
おまけ
 子どものころTVを観ていると職人の親方や大工の棟梁、ガンコな爺さん、老舗の職人、ベテランの刑事などで頻繁に登場した花沢徳衛。かなり歳をとってからのバイプレーヤーの姿しか知らないが、若いころから洋画家をめざしていて個展も何度か開催しているらしい。
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ずっと女性が気がかりな林泉園の青柳有美。 [気になる下落合]

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 秋田県の出身で、関口教会Click!(東京カテドラル聖マリア大聖堂)で神父をつとめながら、明治女学校Click!の教師として女学生たちに教え、巌本善治Click!とともに女学生の専門誌「女学雑誌」を刊行していた人物に青柳有美がいる。その後、実業之世界社に入社し、雑誌「女の世界」を刊行する編集責任者となった。
この「関口教会」は、1895年(明治28)に関口水道町に設立された、いまは存在しないプロテスタント系の教会であり、現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会とはなんら関係のない組織であるのを、め~めさんよりご指摘いただいた。(コメント欄参照) したがってプロテスタント関口教会につとめていた青柳有美は牧師であり「神父」ではない。以下、「神父」の記述は「牧師」と読み替えていただければ幸甚この上ない。
 「女の世界」は、男も買って読む女性誌として特殊な人気があり、女性の性や恋愛、生理、私生活などについてコト細かに取材・観察した記事内容となっている。拙ブログでは、「女の世界」に出稿した宮崎モデル紹介所Click!の広告を見て応募し、中村彝Click!のアトリエでモデルになった小島キヨClick!のエピソードをご紹介している。そして、小島キヨは辻潤Click!と結婚して落合地域で暮らすことになる。
 その後、青柳有美は新聞記者などをへて東邦電力社員となり、下落合367番地の「近衛新町」Click!松永安左衛門Click!が開発した林泉園住宅地Click!に住み、さまざまな著作の執筆生活に入ることになった。大正末ごろに下落合へ転居してきて、1936年(昭和11)ごろまで住んでいたようだ。前回ご紹介した菊地東陽邸跡Click!から、南東へ直線距離で170mほどのところの西洋館にいた。職業の肩書としては、「東邦電力社員」のほか「文筆業」「恋愛評論家」「女性修身教育家」「女性評論家」などと呼ばれていたようだ。
 また、その著作というのが『女学生生理』(1909年)をはじめ、『世界の新しいふらんす女』(1913年)、『最新結婚学』(1915年)、『女の裏おもて』(1916年)、『男女和合の秘訣』(同)、『女の話と男の話(お夏清十郎 恋の姫路)』(1917年)、『新性慾哲学』(1921年)、『女征伐』(同)、『接吻哲学』(同)、『恋愛読本』(1926年)……などなど、およそ女性をテーマにした妙な本を数多く執筆し、ほとんど“変態”ではないかと思うような文章を残している、落合地域ではめずらしい物書きだ。
 「名古屋女」の筋肉や皮下脂肪について、ちょうどよい具合だと研究してみた、1913年(大正2)に明治出版社より刊行された青柳有美『日本美人論』から引用してみよう。
  
 日本の地図を披(ひら)いて見ると、名古屋地方は北海道を頭とし九州を尾にして居る本土の中央にある。東京になると早や北に片寄り過ぎる。京都になつても、モウ南に寄り過ぎだ。名古屋地方は実に日本々土の中央で全く中京である。随(したがつ)て、名古屋女の筋肉は南方人の如くカラカラして固つても居らねば、又北方人の如く多量の皮下脂肪に覆はれて、ダブダブしても居らず、肥らず痩せずといふ中庸を得て居ることになる。(中略) 名古屋女の筋肉の発達が、巧に中庸を得て過不足無く、肥つているやうでも緊縮(しま)つたところがあり、観る眼に美しく感ぜらるゝのは無理も無い。(カッコ内引用者註)
  
 こんな文章がエンエンとつづき、「名古屋女」の筋肉や皮下脂肪がひきしまってちょうどよく、ほかにも別々の章立てで「顎」「唇」「鼠歯」「肌」「皮膚」「鼻」「声」「言葉」「指」「額」「眼」「白膜」「髪」「尻」「胸」「足」はては排泄物と研究が進み、おしなべて「美人」だから具合がいいのだという「研究論文」となっている。
 おそらく、名古屋の新聞社に就職した際、名古屋の女性とつき合いでもしたのだろうか、そのときに味わった感想をそのまま文章化しているようにさえ思える。これを、明治女学校の教師であり、関口教会の神父をつとめていた人物が書いているのだから、「変態教師」で「変態神父」だったのではないかと、あらぬ想像してしまうのだ。
 このように、女性が気になって気になってしかたがない、「筋肉フェチ」か「皮下脂肪(ふくらみ)フェチ」の「美人論」者かと思いきや、妙なところで「女修身」などをもちだして、朝鮮半島の儒教倫理・道徳のようなことをふりまわして蔑視し、それを押しつけようとするので大の「女好き」だけれども、おそらく「女性礼賛者」では決してないのだろう。
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 ところが、そのわずか4年後の1916年(大正5)に広文堂書店から出版された『人情論』では、あれだけ全身から排泄物までベタ褒めしていたはずの「名古屋女」は、「魯鈍」で「ダラシな」く、「ドス黒き顔」をして「肉」ばかりということにされており、「三河女」こそが素晴らしい女ということになっている。同書より、少しだけ引用してみよう。
  
 三河女は智的表情に富めり。名古屋女の如く、魯鈍してダラシなき相貌を有するものに非ず。その飽くまでも智的にして、顔面に鋭敏なる組織と表情とのあるは、是れ実に三河女の特色なり。(中略) 三河女の皮膚の色は、其マレー乃至土蜘蛛血液の不足なるだけそれだけ、名古屋女よりも白し。名古屋女の如きドス黒き顔色は、之を三河女に見るべからず。
  
 「名古屋女」は、すでに「土蜘蛛(つちぐも)」Click!の血が色濃く流れているなどとされてしまい、「三河女」の肌や身体、顔つきこそが白くて美しいということになり、もう途方もなくメチャクチャな内容の「研究論文」となっている。これを素直に解釈すれば、好きだった「名古屋女」にはあっさりフラれてしまい、その後につき合ったのが静岡出身の「三河女」だった……ということにでもなるだろうか。
 繰り返すが、これを明治女学校の教師であり、関口教会の神父だった人物が書いているのだから、青柳有美は女学生や女性信者たちにも“評判”の、「危ない教師」で「危ない神父」だったのではないかと、ほとんど確信的に思えてしまうのだ。
 ところが「名古屋女」につづき、期待の「三河女」も彼にとっては「土蜘蛛」ならぬ「国栖」のトラウマになってしまったものか、大正の後半になると「昨今の日本女は」と国家単位に普遍化し、地方・地域色はもちろん個々人の人格や個性をいっさいがっさい捨象・無視した、根拠薄弱な(自身の体験内でのみ組み立てた狭隘な)一般論(?)に収斂していき、先述した朝鮮半島の儒教的道徳観(「女修身」)のような眼差しで、「女には気をつけろ」と東邦電力の社員たちへ講演・訓示するようにまでなっていく。
 これはわたしの想像だが、細かく観察するような眼差しを女性に向けてはいるものの、実はハナからなにも見ても認識してもおらず、自身が勝手に想い描く理想的な“女性像”(ごく私的な枠組み)が前提として厳然と存在し、それを求めて生身の女性とつき合った結果、それらの“型”にはまった理想が次々と崩れて裏切られ、理想とはほど遠い側面を見いだしたり、相手から愛想をつかされてフラれたりするごとに、地方地域の名を冠した「女」たちが「土蜘蛛」に変身しているのではなかろうか。
 大正後期になると、彼の著作には「名古屋女」も「三河女」も姿を見せなくなり、代わって「日本の女」「仏国の女」というように国家単位による女性一般のくくり(要するに十把一絡げで大雑把かつデタラメな主体設定)がやたら多くなる。青柳成美の基盤となっている女性観について、「巴里の女美術家」つまり女性画家を書いた文章が典型例なので、1913年(大正2)に東亜堂から出版された『世界の新しいふらんす女』から少し引用してみよう。
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女学生生理1909丸山舎出版部.jpg 日本美人論1913明治出版社.jpg
人情論1916広文堂書店.jpg 接吻哲学1921日本性学会.jpg
  
 (女性画家は)少しでも名の知れてるやうなのになると、自惚で、我儘で、我慢で、利己的で、何んとも仕様が無いものだ。その上大抵、多弁至極と来る。女らしい優しいところが全く無い。こんな女を女房にした男は、如何に嬶天下に甘んずる西洋人でも、一生浮ぶ瀬の無いのに歎声を発ざるを得ざる次第と相成る。画室にでも籠つて、こんな女美術家が懸命に描いてるところを見ると、更に層一層の不快を感ぜざるを得ない。(カッコ内引用者註)
  
 この直前の文節で、日本女子大卒の高等教育を受けた女が、「お針は出来ず女の道は何一つ心得て居無」いからダメ的な文章も書いているので、およそ青柳有美が“ぴんから兄弟”のようなワードとともに抱いていた彼本来の女性観が透けて見える。
 上記の文章からも、女性は謙虚で、謙譲で、我慢強く、利他的で、無口で、男に対しては優しくなければウソで、男を陰でバックアップして浮かぶ瀬へと押し上げてくれなければならず、女美術家などもってのほかだ……と、ほとんど洋画家・柏原敬弘Click!や「画見博士」こと芳川赳Click!よりも“重症”な、女性コンプレックスの持ち主だったことがうかがわれる。ほかにも、このあと女性作家や職業婦人など自立している女性には端からケチをつけ、ケシカラン的な文章を書き連ねていてかなり異常で異様に映る。
 彼は秋田県で、いちおう東日本に属する地方の出身のはずだが、江戸東京地方にやってきてこれほど地元の文化や風俗Click!、生活習慣に馴染まない(馴染めない)東北人もかえってめずらしい。同時期に下落合に住んでいた、同じ秋田出身の矢田津世子Click!などは、彼の目から見れば「とんでもない土蜘蛛女」ということになりそうだ。
 このような人物が、原日本の生活文化Click!が色濃く残る江戸東京Click!で暮らしていながら、キリスト教の神父とは無縁な中国・朝鮮半島由来の儒教倫理・道徳(特に「女修身」)をありがたく拝借し、率先して没入していくのは当然のなりいきで、東邦電力の社員(自分も社員なのだが)に向けた講演では、「女に気をつけろ」的な言質が急増していくことになる。1926年(大正15)に電気之友社から出版された『電気技工員講習録』に収録の、林泉園住宅の東邦電力社員たちへ向けた講演「電気修身」(爆!)から引用してみよう。
  
 苟(かりそめ)にも上役から言ひ付けられたことだと成れば、多少そこに無理があると思つても、他人へ迷惑の懸らぬ限り、何んでも「ハイハイ」と苦い顔一つ見せず、よろこんで之を遵奉てゆくところが、是れ人間としての美しい處で無いか。(中略) 若い男が、やり損なつて一生を棒に振つてしまふに至るのは、十中の八九まで酒と女が原因に成る。恐ろしいものは酒と女とだ。第一酒と女とは、金銭の懸る仕事で、ロハなんかで出来るものでは無いのである。殊に昨今物価騰貴の折柄、諸事倹約を旨とせねばならぬ時に、酒を飲んだり女にトボケたりして居つては、迚(と)ても生活が立つて行かぬのだ。(カッコ内引用者註)
  
 してみると、「名古屋女」も「三河女」もマジメにつき合った恋愛相手などではなく、やたらカネばかりかかる、その筋の“商売女”だったとも思えてくる不用意な発言だ。
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 どうやら酒も恋愛(女)も、自分自身が選択して楽しむべき主体的な行為であることは、どこかへ丸ごと置き忘れ去られ、「怖ろしいもの」=「酒と女」がこの世に存在するから悪いとまでいいたげな「修身」講演だ。こういう没主体的な言質を吐いているからこそ、なんでも滅私奉公で「ハイハイ」ということをきかない、「高等教育」を受けた「多弁至極」で論理的な女たちにやりこめられ、教師も神父の職も辞めざるをえなかったのではないか?

◆写真上:下落合367番地の、林泉園住宅地Click!にあった青柳有美邸跡(左手)。
◆写真中上は、1897年(明治30)からの巣鴨庚申塚時代に撮影された明治女学校キャンパス。は、関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる東邦電力林泉園住宅地の青柳有美邸。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる青柳有美邸。は、1909年(明治42)に出版された『女学生生理』(丸山舎出版部/)と、1913年(大正2)に出版された『日本美人論』(明治出版社/)。は、1916年(大正5)に出版された『人情論』(広文堂書店/)と、1921年(大正10)に出版された『接吻哲学』(日本性学会/)。
◆写真下は、かなり売れいきがよかったとみられる1926年(大正15)出版の『恋愛読本』(二松堂/)と、1932年(昭和7)の明治図書出版協会版の復刻『恋愛読本』()。は、下落合時代の青柳有美。下左は、「電気修身」が収録された1926年(大正15)出版の『電気工員講習録』(電気之友社)。下右は、林泉園の自宅で読書をする青柳有美。

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下落合の菊地東陽邸を拝見する。 [気になる下落合]

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 七曲坂筋Click!の三間道路をはさみ、浅田知定邸Click!の向かいの下落合(1丁目)476番地には、オリエンタル写真工業Click!を創立した菊地學治(東陽)が住んでいた。同じく下落合476番地に住んでいた、UDトラックスの創業者である安達堅造Click!邸から路地をはさんだ南隣りの敷地だ。1945年(昭和20)4月13日夜半に、目白駅から目白通り沿いが爆撃された第1次山手空襲Click!で、ともに全焼していると思われる。
 菊地東陽は、オリエンタル写真工業が設立された1919年(大正8)の翌年、早くも下落合の借家で家族や招聘した外国人技師らとともに暮らしている。当初の菊地邸は下落合604番地で、ほぼ同時代には松居松翁Click!が住み、のちに牧野虎雄Click!がアトリエをかまえる地番と同一の区画だ。1925年(大正14)に作成された「出前地図」や、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を参照すると、子安地蔵通りから西へ少し入った路地の角地に、菊地東陽邸を確認することができる。佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作として描いた、『浅川ヘイ』Click!=浅川秀次邸の北東隣り、曾宮一念アトリエClick!から斜(はす)に道路をはさんだ2軒北東隣りが菊地邸だった。
 昭和期に入ると、オリエンタル写真工業の経営が軌道にのり、菊地東陽は1931年(昭和6)に先の下落合476番地へ大きな自邸(西洋館)を建設して転居している。このあたり、下落合801番地に住んでいた安達堅造が、UDトラックスの事業が軌道にのるとともに、下落合476番地に大きな屋敷(西洋館だとみられる)を建てて転居しているのによく似た経緯だ。自邸を新築したばかりの、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」より、菊地學治の項目を引用してみよう。
  
 オリエンタル写真工業株式会社々長兼技師長(号東陽)菊池(ママ:地)學治 下落合四七六
 山形県人菊池(ママ:地)宥清氏の三男にして明治十七年二月を以て生れ同四十二年家督を相続す 夙に米国に航り写真工芸の研鑽に努め帰朝後オリエンタル写真工業会社を創立、社長謙技師長の重椅に座し見識を以て汎く社内外の信望を聚む、家庭夫人より子は神奈川県人小松松太郎氏の長女である。
  
 菊地學治は、子どものころから「芸術号」として「東陽」を名のっており、おそらく表札にも菊地東陽と書いていたのだろう、1938年(昭和13)に作成された「火保図」掲載の下落合476番地の家は、「菊地東陽」邸として採取されている。ちなみに、オリエンタルの社名は菊地の号「東陽」が「東洋」の音と一致し、なおかつ社名の15画は経営的にも縁起がよいといわれたため採用されたと伝えられている。
 菊地東陽の実家は、山形県山形市七日町で祖父の時代から古い写真館を営んでおり、彼は子どものころからスタジオや写真技術を身近に見て育っているのだろう。1898年(明治31)に14歳になると東京をはじめ各地の写真館で修行し、4年後に山形県の菊地写真館を一度は継いでいる。だが、より深く写真技術を学びたくなったのか、19歳になった1903年(明治36)に再び東京へやってきて、鹿島写真館の経営を任されている。それもつかの間、翌年には米国へ渡りシアトルの写真館に就職している。
 シアトルで働いたあと、ほどなくポートランドでセンチュリー写真館を創業、つづいてニューヨークへ進出し3軒の写真館を開設している。1909年(明治42)にはポートレート専門の出張カメラマンとなり、それが繁昌して翌年にはニューヨークにキクチスタジオを創業し、同時に写真感光乳剤の研究開発に注力している。1919年(大正8)に帰国すると、実業家で初代社長となった植村澄三郎とともに、オリエンタル写真工業設立へと動きだした。
 菊地と植村が、落合村(1924年より落合町)葛ヶ谷660番地(現・西落合2丁目)に工場建設を決めたいきさつを、1941年(昭和16)刊行の『菊地東陽伝』より引用してみよう。
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 落合の奥の葛ヶ谷を通り掛つて、丁度昼飯時なので、哲学堂の公園で休憩して居ると、偶々此処に、清水が流れて居り、また尨々たる原野が打続いて居つて、幽邃であつた。しかも、井上円了博士の創設になる哲学堂には、植村翁も幾度か来られ、此処を流れる渓流に鉤を垂れられたといふ清游の地であつた。(中略) この地の水質や水量を調査研究されたところ、水質もよく水量も多く、乳剤工場には全く理想的な地であるといふので、早速此地を選び、工場の建設に着手されたのである。(中略) 見渡せば大根畑、竹藪、田圃、緑の森や丘があるきりで、他に何にもなく、たゞ哲学堂と三井墓地がしよんぼりレリーフのやうに浮出してゐた。
  
 井上哲学堂Click!の斜面から湧く豊富な清水と、文中に「渓流」と書かれている妙正寺川Click!を活用して、落合や野方など周辺地主たちの共同出資により建設されたのが、郊外遊園地の「野方遊楽園」Click!(野方プールClick!)だった。開園は1923年(大正12)なので、オリエンタル写真工業の第1工場が竣工すると、まもなく開園していることがわかる。
 工場地の決定から12年後、初代社長だった植村澄三郎のあとを継ぎ2代目社長&技師長となった菊地東陽は、1931年(昭和6)に下落合476番地へ自邸を建設している。同邸は、近くの大屋敷だったとみられる安達堅造邸を凌駕するほど大きく、また住宅敷地はL字型をしており安達邸の2倍ほどの面積がありそうだ。現在の位置でいうと、七曲坂筋に建っている下落合地域交流館(旧・ことぶき館)の南側、および西側一帯の敷地だ。
 米国生活が長かったせいだろうか、少なくとも外観からは洋館仕様だったと思われるが、庭園には踏み石や灯籠などが見えているので、完全に洋式だったわけではなさそうだ。菊地邸は、1938年(昭和13)の火保図によれば、頑丈なコンクリートの不燃塀に囲まれているが、おそらく現在も赤い洋瓦が載る南欧風(スパニッシュ風)のデザインをした塀は、一部修復されたとはいえ空襲からも焼け残った当時のままなのだろう。
 昭和初期にはブームだったのだろうか、広いテラスや芝庭に面した大窓の軒下には、折りたたんで収容できたとみられる日除けテントが張りだしている。白と濃い色の縞模様だが、AIの推論エンジンClick!は赤ないしは濃いオレンジ色と認識しているようだ。おそらく、菊地邸の母家の屋根も赤ないしは濃いオレンジではなかっただろうか。ただし、画像が粗いのでカラーの解釈がどこまで正確かは不明だ。庭園やテラスに張りだす日除けのテントといえば、近衛町Click!に建っていた下落合416番地の長瀬邸Click!も、やはり折りたたみ式のタテ縞テントを採用していたので、当時の洋館建築では流行の設備だったのかもしれない。
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 『落合町誌』(1932年)には、菊地東陽とともにオリエンタル写真工業の紹介文も掲載されている。彼の名前がしばしばまちがっているのが気になるが、少し引用してみよう。
  
 社長菊池東洋(ママ:菊地東陽)氏は此の自覚に醒めて夙に米国に留学すること十有八年、其の間写真感光製品の乳剤研究に腐心し、偶々欧米漫遊中の伯爵勝精氏の知る処となり、協力苦心の結果優秀なる乳剤の発明に成功し、茲に相携て帰朝し、発明乳剤を基礎とし本邦に於て写真工業を興さん事を企て之を渋澤栄一子爵に謀れり、子爵亦写真工業の国産として緊要なる所以を感得せられ、該企業を植村澄三郎氏に委嘱せらるゝ処となり、同氏は其の友人知己を説き資金六萬万円を得てこゝに本社を創立するに至つた、これが大正八年九月二十二日にて、其の芽生へである。而して第一次事業として写真用感光製品の内印画紙の製造を企画し工場の設計建築其の設備に二ヶ年余を費し、大正十年十二月始めて本社の製品を市場に出せり。
  
 文中に登場している勝精(かつくわし)は、勝海舟Click!の養子で幕府15代将軍の德川慶喜Click!の九男であり、オリエンタル写真工業の取締役に就任している。同時に渋沢栄一Click!の四男である渋沢秀雄Click!も、同社の監査役に名前が見える。また、大倉喜八郎Click!も同社に出資していたようで、養子の大倉粂馬も取締役に名を連ねていた。
 同社は、文中にもあるように1921年(大正10)に初めて印画紙製品を市場へ投入するが、当初は海外製品に押されて売れいきがまったく伸びなかった。だが、1923年(昭和12)9月に関東大震災Click!が起きると、首都圏にストックされていた海外製の印画紙のほとんどが焼けてしまい、同社が販売する国産印画紙の需要が急激に高まった。
 大震災をきっかけに、同社の事業が軌道にのることになるが、『落合町誌』が刊行された1932年(昭和7)の当時、同社は12種類の印画紙を販売し、さらにガスライト印画紙、プロマイド印画紙と乾板、つづいて本格的なフィルムの製造に着手している。資本金も増資し、技術の進化や品質の向上とともに、日本の市場から海外製品を徐々に駆逐していった。
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 下落合476番地の菊地東陽邸跡の南側には、キクチ科学研究所Click!の本社屋が建っている。主力製品はプロジェクター用スクリーンやAVシステム、映像関連の各種ソリューションを提供するベンダーだ。前世紀のスチール写真から、デジタル映像分野への進出は、先見の明を備えた菊地東陽の遺伝子を、そのまま現代まで受け継いでいるのだろう。

◆写真上:下落合476番地に建っていた菊地東陽邸(AI着色)。『オリエンタル写真工業株式会社三十年史』と『菊地東陽伝』では、いずれも菊地邸を「目白文化村」としているが、同邸は東京土地住宅の「近衛新町」Click!に隣接する位置に建っていた。
◆写真中上は、1897年(明治30)撮影の山形市七日町にあった菊地東陽の実家・菊地写真館。中上は、ニューヨークのキクチスタジオで撮影された菊地東陽。中下は、竣工して間もないオリエンタル写真工業第1工場。その向こうに、野方遊楽園の大きなプールが見えている。は、1928年(昭和3)ごろ撮影の第1工場で左手には野方配水塔。
◆写真中下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合604番地の菊地邸。中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合1丁目476番地の菊地邸。中下は、菊地邸跡の現状で当時のものと思われる洋塀が残る。
◆写真下は、社長時代の菊地東陽()と『菊地東陽伝』(1941年)の中扉()。中上は、テントが張られた菊地邸のテラス。中下は、菊地邸の竣工記念写真で右から4人目が菊地東陽。は、1921年(大正10)に撮影されたオリエンタル写真工業のオフィス風景。
おまけ
 1932年(昭和7)に野方遊楽園(野方プール)の跡地を埋め立てて竣工した、オリエンタル写真工業第2工場の全景とファサード。右下に妙正寺川に架かる四村橋Click!が見え、第2工場の背後にある丘は井上哲学堂で遠景は松が丘Click!の住宅地。下の写真は、菊地東陽が1929年(昭和4)に設立した落合町葛ヶ谷676番地のオリエンタル写真学校Click!の全景。
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上落合・龍海寺の小原唯雄と東久邇宮稔彦。 [気になる下落合]

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 1941年(昭和16)に第3次近衛文麿Click!内閣が総辞職後、東久邇宮稔彦Click!を首班とする戦争回避の内閣が構想されるが、木戸幸一の反対にあって頓挫した。近衛による宮崎龍介Click!の密使と同様、東久邇宮は蒋介石Click!との和平会談を模索するが、さっそく東條英機Click!につぶされている。結局、敗戦とほぼ同時の1945年(昭和20)8月17日に、“敗戦処理内閣”の首班に指名されたが、在任期間がわずか54日で総辞職している。
 これほど自身の思想・主張と、就任したポストや時勢の推移が乖離しつづけた人物もめずらしいだろう。日中戦争の際、華北の第二軍司令官に就任しながら、日中戦争には終始反対であり一貫して批判的だった。また、陸軍大将に就任しながら南部仏印への進駐や日米戦争には猛反対し、戦時中は和平を模索する工作の中心的な人物となっていく。
 東久邇宮稔彦は、陸軍士官学校をへて陸軍大学を卒業したあと、1920年(大正9)にフランスへ留学するとフランス陸軍大学も卒業している。このとき、フランス革命について詳しく学んだとみられ、皮肉なことに王政や封建制を打倒した資本主義の政治思想である、階級観をベースとした自由主義や民主主義に強く共鳴したとみられる。日本からの帰国命令にしたがわずに無視し、愛人と7年間もフランス生活をつづけた。印象派のモネに弟子入りして洋画を習い、文学の愛読書はトルストイClick!だったという。自身の立場をかえりみず、革命歌=La Marseillaise(現・フランス国家)を唄うのが十八番(おはこ)となり、1990年(平成2)に102歳で臨終の間際にも、うわごとでこの革命歌を唄ったという。
 敗戦と同時に首相に就任すると、戦時中に憲兵隊から弾圧されつづけた反戦・平和運動家であり、和平工作のメンバーだった賀川豊彦Click!を招いて、内閣参与としているのは有名なエピソードだ。東久邇宮内閣が総辞職したあと、「敗戦の責任をとる」として東久邇宮稔彦は賀陽宮恒憲らとともに皇籍を離脱をしている。そして、1946年(昭和21)5月に貴族院も辞職し、同年にはGHQの指令により公職追放となった。ちなみに、このときいっしょに皇籍を離脱した賀陽宮は、その後、下落合の目白文化村Click!に転居してくる。
 戦後、東久邇宮は新宿西口の闇市で、乾物屋「東久邇商店」を開店している。だが、当然のことながら商売はうまくいかず、つづけて新宿で喫茶店を開いたり、自身の所有する骨董品を売る骨董屋を開店したが、いずれも短期間でいきづまり営業をやめている。これら商売の元手を出し斡旋をしていたのが、戦前から東久邇宮の取り巻きのひとりだった、小原唯雄という人物だった。東久邇宮は、愛人だった新橋芸者「秀菊」を落籍し、多摩川沿いに住宅を用意して通ったが、その愛人との手切れ金も、元・宮内庁長官の田島道治『拝謁記』第2巻(岩波書店/2022年)によれば、小原唯雄が用意したカネだったらしい。
 さて、この小原唯雄(龍海)という人物は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で建物(本堂)が全焼Click!したが、戦後もそのまま上落合に住みつづけている。上落合1丁目482番地に建っていた、その名も自身の僧名を冠した龍海寺だ。戦前から戦中にかけての地図類を参照すると、同番地に寺院のマークは採取されていないので、当時、公認された宗教法人であったのかどうかは不明だ。ただし、空中写真を観察すると、かなり大きな伽藍の大屋根や方丈が確認できる。
 この小原唯雄(横浜の鶴見総持寺で得度したことになっている僧名「龍海」)について地元の資料を調べてみると、『落合町誌』(落合町誌刊行会/1932年)に記載はないが、1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会から刊行された『昔ばなし』に、龍海寺と小原龍海の記述を見つけた。その記述によれば、小原唯雄はずいぶん以前から上落合に住んでおり、龍海寺の敷地を購入したのは昭和初期のことで、大屋敷をかまえていた林卯之輔という人物から入手していたのがわかる。同書より、小原と龍海寺について少し長いが引用してみよう。
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 昭和の初め頃のことである。日本橋の入船町で落合の住人「小原」氏が観音さまを拾った……と言う新聞記事があった。その観音さまの落し主が現れないので、小原さんがその観音さまをお守りすることになった。松田のお米やさんのウラの辺りに、大きなお堂を建てて入船観音として小原さんがおまつりしたのである。昭和十年前後に林卯之輔さんは、このお屋敷を誰方に御売りになって引越をされた。(中略) このお屋敷は全部壊わされて整地された。それから間もなく一抱もある大きなケヤキの柱などが運び込まれた。そのうちに彫刻をする人なども来て、物スゴイ大工事をやり出した。現在の大谷石の石垣は当時のものである。結局のところ入船観音の小原さんが、ここにお寺を建てるそうだ……と言うことになった。当時の私など、想像することも出来なかった大規模なものであった。長い年月を経て、大きな立派なお寺が建ち、大岩奇岩を配した立派なお庭が出来、竜海禅寺と呼ばれた。
  
 小原唯雄という人物は、もともと上落合に住んでいたらしいが、突然、日本橋入船町で観音像を「拾った」ころから、にわかに仏教に帰依して禅師となり、自宅の場所を寺院に改造して信仰をはじめる……という、いかにも怪しくいかがわしい経緯に感じるのはわたしだけではないだろう。ほんとうに、日本橋で観音像を「拾った」のだろうか? 事実、戦後になると観音像は骨董屋で購入して、「高村光雲に鑑定を依頼」したところ貴重な古仏だと判明したということになっている。ちなみに1936年(昭和11)の夏、小原は詐欺罪と不敬罪で駒込署に逮捕され、数日前まで中條百合子Click!が入れられていた留置所で拘留されているが、これも戦後になると特高による宗教弾圧にすりかわっているようだ。
 この小原唯雄が、それまで住んでいた上落合の自宅とは、龍海禅寺を建築中に大工たちへ仕事場として提供していた、上落合1丁目215番地ではないだろうか。ちょうど、のちに龍海寺が建立される広い敷地の斜向かい、つまり上落合会館通りをはさみ旧・林卯之輔邸の北側あたりだが、建築現場へ材木などの資材や加工した調度品を運びこむにはなにかと都合がいい場所だ。1938年(昭和13)の「火保図」を参照すると、建設途中のため龍海寺はいまだ採取されていないが、215番地の大きな建物には「小原仕事場」(作業場)の文字が記載されている。村山知義・籌子アトリエClick!から、北へ130mほどのところだ。
 戦後、1950年(昭和25)になると東久邇稔彦は小原龍海と組み、「ひがしくに教」を開教して教祖となった。これも小原の入れ知恵らしいが、特に布教活動を行うわけでもなく、宗教法人になれば税金がかからないため生活がラクになるというのが目的だったようだ。東久邇家では、戦前の生活と同様に使用人たちも全員そのまま雇用していたので、彼らの人件費を支払うのに窮していたのだという。だが、政府は「ひがしくに教」を宗教法人とは認めず、東久邇と小原のもくろみは外れている。
 このエピソードひとつを見ても、戦前から小原龍海が東久邇宮のごく近くにいて、なにかとその名前を利用しながら、政財界から膨大なカネを集めていたのが透けて見える。上落合に巨大な龍海寺が竣工すると、政財界人たちの“寺詣り”がはじまった。もちろん、その中には東久邇宮稔彦もいた可能性が高い。つづけて、同書より引用してみよう。
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 やはり今の鳥居のあたりに入口があり、私などはお庭に入って木の香が新らしいお寺を見上げたものである。このお寺には墓地がなかった。檀家がなかったのであろう……しかし、毎日のように立派な自動車に乗った政財界の偉い人がお詣りに来ていた。(中略) ところが、昭和二十年五月の大空襲で、この大伽藍も一夜にして灰塵となってしまった。(中略) 戦後、竜海寺は汚水処理場前の通りに面して移築されている。そしてこの広大な敷地は、南半分が公園に、北半分が一般の住宅に……となったが、昭和三十七年八幡神社が、今の八幡公園のところから遷宮(引越し)して来たのである。
  
 毎日のように参詣していた政財界人たちは、小原龍海になにを“お願い”しにきていたのだろう。なにやら、ラスプーチン的な地位を想像させるが、皇室や貴族院、陸軍などに顔がきく小原は、戦前・戦中はなにかと利用価値が高かったのだろう。小原は彼らから喜捨や(観音の)拝観料、参詣料の名目で莫大なカネを集めていたとみられる。
 1968年(昭和43)に、松本清張Click!の取材を受けた東久邇稔彦は、小原龍海と「ひがしくに教」について次のように話している。2011年(平成23)に文藝春秋から出版された浅見雅男『不思議な宮さま―東久邇宮稔彦王の昭和史―』から、一部を孫引きしてみよう。
  
 「あれはある人が小原唯雄という坊さんを紹介したんです。りっぱな禅宗の坊さんだから……と。小原はわたしに、いま敗戦で日本人は精神的に虚脱状態になっている。どうして生きていったらいいかわからない。だから立派な教えによってそういう世間の人たちを救うべきだ、といいました。わたしも賛成して、小原にまかせたら、『ひがしくに教』と名をつけていろいろ宣伝して、ああいう大きなことになってしまったのです」「あなた(小原)にすべておまかせする、というようなことで、くわしいことはまったく知らないんです」「(小原の目的は)それによってカネを集めることだったらしい。本人はだいぶ集めたようです」
  
 著者も指摘しているように、この松本清張への証言はウソで、東久邇宮稔彦と小原唯雄の深い関係は戦前から戦後までずっとつづいていた。だからこそ、小原龍海は上落合に大伽藍を建てる莫大な資力が得られたのだし、地元の証言「立派な自動車に乗った政財界の偉い人」が毎日のように「お詣り」に訪れていたのだろう。
小原境界石.jpg 浅見雅男「不思議な宮さま」2011.jpg
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 山手大空襲で本堂が全焼したあと、龍海寺の跡地は北側が住宅地に南側が公園になったが、1962年(昭和37)に月見岡八幡社Click!が公園跡に遷座してくる。当の龍海寺は戦後、新・八幡通りClick!に面した落合下水処理場Click!の向かい、上落合1丁目230番地へと移転している。その後、埼玉県へ「ひがしくに教」とともに移転したといわれているが定かでない。上落合では、1970年代まで建物を確認することができる。上落合の小原龍海については、さまざまなエピソードを残しているので、また機会があれば記事にしてみたい。

◆写真上:上落合1丁目482番地の龍海寺跡(右手全体)で、大谷石の擁壁(解体)がある手前の住宅街から月見岡八幡社までの全敷地(約1,000坪)が境内だった。
◆写真中上は、1945年(昭和20)8月17日に組閣された東久邇宮内閣。重光葵(外相)、米内光政Click!(海相)、近衛文麿Click!(国務相)らが並ぶ。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる建設中の龍海寺と小原仕事場(作業場)。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる小原仕事場と龍海寺建設予定地。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月2日の空中写真にみる龍海寺の大屋根。は、東久邇宮稔彦(左)と小原龍海(右)。は、1950年(昭和25)4月15日撮影の「ひがしくに教」開教式で、右端が小原龍海で左隣りが東久邇稔彦。
◆写真下上左は、冒頭写真に写る大谷石擁壁の角にあった龍海寺の境界石で「小原」の字が刻まれている。上右は、2011年(平成23)に出版された『不思議な宮さま』(文藝春秋)。は、1966年(昭和41)作成の「住所表記新旧対照案内図」にみる上落合1丁目230番地に移転した龍海寺。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる龍海寺。

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下落合の日常生活を綴る沖野岩三郎。 [気になる下落合]

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 1921年(大正10)ごろから下落合1505番地(のち1510番地→1932年以降は下落合3丁目1507番地)に住んだ沖野岩三郎Click!は、当時の下落合に展開していた風景を織りまぜた作品を、小説やエッセイを問わずしばしば書いている。
 年譜などでは、1921年(大正10)に下落合へ転居したことになっているが、1920年(大正9)に書かれた小説『地に物書く人』(民衆文化協会出版部)にはすでに下落合が登場しており、もう少し早い時期に引っ越しあるいは自宅が竣工するまでの仮住まいの借家に転居しているのではないか。あるいは、たまたま郊外散歩をした際に、下落合をハイキングClick!してその風情が気に入り、転居前の作品に登場させているのだろうか。
 いずれにしても当時の下落合は、東京府住宅協会Click!による第一および第二の落合府営住宅Click!の敷地へ、会員たちの注文住宅があらかた竣工していただろうが、1922年(大正11)から販売される目白文化村Click!近衛町Click!は影もかたちもなく、沖野岩三郎の自宅である落合第一府営住宅8号Click!の南側に口を開けた前谷戸Click!周辺には、箱根土地が開発した郊外遊園地Click!不動園Click!が開園しているばかりで、一帯は東京郊外の典型的な田園風景だったろう。目白通りには、いまだダット乗合自動車Click!によるバス路線Click!も存在せず、目白駅からは俥(じんりき)が通う時代だった。
 1920年(大正9)に執筆された『地に物書く人』(文生書院)では、市街地に開院している女医の「由子」が、郊外の下落合へ往診する様子が描かれている。沖野岩三郎Click!が、牧師時代から東京府住宅協会の会員となり、住宅建設資金の定期積み立てをしていたとすれば、同年の時点で自邸が建設されつつある様子を見に、しばしば下落合を訪れていた可能性がありそうだ。当時の東京府による落合府営住宅は、借家ではなく建設資金の積み立てによる一戸建ての持ち家住宅制度だった。同書より、下落合が登場するあたりを引用してみよう。
  
 「済まないが妻が少し病気なので御苦労願へないでせうか。」/伊藤は言い難さうに斯う云つて由子の顔を滋々と見入つた。/「参りますワ どちらでございますか(。:ママ)」/「どうも少し遠方でございますが。」/「遠方だつて宜しうございますワ。」/「下落合ですが御出で下さいますか。」/「下落合? 目白の近くでございませう。」/「江ゝさうです、御足労ですナ。」/斯んな会話の後で由子は革袋を提げて伊藤と一緒に家を出た。行つてみると若い美しい細君が寝てゐた。由子の診断は妊娠といふ事であつた。/「精々一ケ月の御苦しみですよ、最う直ぐ快くなりますから。」/由子は夫婦と十分間ばかり話し合つて帰つて来た。細君は九州辺の小さい華族の娘だといふ事であつた。(中略) 下落合を畑の中にある伊藤の家に行つて見ると細君の雪子は三十九度七分の熱で呻吟してゐた。しかし診察してみると扁桃腺が腫た為に来た熱と知れた。/チブスにでも罹つたのでは無いかと、心配してゐた一同の愁眉は開けた。(カッコ内引用者註)
  
 大正中期の落合地域には、いまだ西洋医が開業しておらず、往診がたいへんなので市街地の医者は「遠方」の下落合へはきてくれなかった様子が、「伊藤」の口ぶりからうかがえる。往診は、診察道具が入っている「革袋」を提げた「由子」が、「伊藤」とともに山手線に乗って目白へ出かけているのだろう。零落した華族の妻が伏せる、「畑の中にある伊藤の家」には目白駅前から俥(じんりき)Click!で通ったとみられる。
 この小説から15年後、1935年(昭和10)に子供の教養社から出版された沖野岩三郎のエッセイ『育児日記から』には、目白通り沿いの沖野邸とその周辺の風景や、孫の「遥(はるか)」と「ナオミ」の世話をする様子が描かれている。沖野家へ養子に入った沖野節三と妻の寿美子の子どもたちなのだが、夫妻はヨーロッパの大学へ留学しており、帰国するまで祖父母の沖野岩三郎・ハル夫妻が面倒をみることになった。
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地に物書く人1920.jpg 沖野岩三郎プロフィール.jpg
 エッセイを読むと、沖野夫妻の当時の生活や孫が通った白百合幼稚園Click!など、周辺の様子がうかがえて興味深い。同書には写真も掲載されており、沖野邸や庭の風景、幼稚園での情景などがわかる貴重な資料となっている。同書より、少し長めに引用してみよう。
  
 「お家はどこですか。」/「ここです。」/「ここはお家ですけれど、迷ひ児になつた時は、ここと言(ママ)つてもわかりませんよ、下落合の府営住宅ですつて云ふんです。」/「下落合の府営住宅」/「よろしい。もし巡査さんが、何番地かつてきいたら、千五百七だと云ふんですよ。さあ云つてごらん。」/「三百七五。」/「千五百七ですよ。」/「わかつた。」/(中略) 遥の機械学に一つの疑問が生じた。それは遥の最初に見た乗合自動車が旧式で、動き出す前に、前方でぐいぐい廻したのを見て、遥はこれを「ぐいぐい」といつて、そのまねをした。三越から買つて来た自分の自動車の発車に先だつても、必ず此のぐいぐいをやつて、それから発車したものである。/(中略) 遥の故郷は東京郊外の下落合なのです。彼がここに産れてここに育つた三年間の印象は、吾吾には想像の出来ない深いものをもつてゐるのです。遥が謂ふ所の「うら・畑」そのうら・畑は遥の始(ママ)めて三輪車を運転した所であり、そこで彼は始めて牡丹の花を見、つつじを見、桔梗を見、苺を見、ぐみを見、いちじくを見、その他いろいろの草木を始めて見た所なのです。/(中略) 彼が生来始めて土を踏みしめて立つた下落合の土と彼とは、永久に断つことの出来ない深い関係をもつてゐるのです。彼が始めて通つた白百合幼稚園、それは彼が成長後どこの大学を卒業しても、その感化から逃れることの出来ない幼稚園なのです。毎日、家を出て、あの小学校の所から坂を下って、駈け込んで行つた幼稚園内の空気は、彼が人間社会に於ける最初の社交場であつて、そこに過した二箇年の歳月は、実に尊い彼の人生経験場だつたのです。時時ねだつて見せにつれて行つてもらつた省線や武蔵野線。(中略) 夜が更けて、十一時十二時になると、始めて目白を通過する貨物列車の轟きが聞える。
  
 沖野邸の南側にあった庭で咲く、草木の様子が詳細に書きとめられている。おそらく「遥」ちゃんは、大正後期から目白通りを走りはじめたダット乗合自動車Click!の、クランク棒をボンネットの前でまわしてエンジンをかける旧式タイプのバスを記憶しているのだろう。沖野邸から西側に通う三間道路を北に歩いて目白通りへ出ると、ちょうど目の前がダット乗合自動車の車庫を兼ねた発着場Click!だった。
 佐々木久二Click!の妻である佐々木清香Click!が経営する、下落合1147番地(のち1146番地)の白百合幼稚園Click!については過去の記事でも随所に登場している。佐々木清香は尾崎行雄Click!の愛娘であり、妹の雪香Click!もまた下落合の相馬邸Click!に嫁いでいる。「小学校の所から坂を下って」は、落合第一尋常小学校Click!の東側にある霞坂Click!を下りていくと、途中から市郎兵衛坂Click!と合流し、ちょうど妙正寺川畔にある白百合幼稚園(佐々木久二邸Click!敷地)の真ん前に出ることができた。
 「省線」は山手線のことだが、「武蔵野線」は武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)のことだ。おそらく、沖野夫妻が散歩がてら、孫たちに汽車や電車を見せに連れていったのだろう。少し余談だが、武蔵野鉄道のことを沖野岩三郎のように「武蔵野線」、あるいは「武蔵野鉄道線」と表記する資料を何度か目にした憶えがある。ちょうど、下落合を走る西武鉄道村山線のことを、地元はもちろんマスコミなども通称「西武電鉄」Click!と呼んでいたように、当時、地元の住民たちが武蔵野鉄道をどのように名づけ呼称していたのかが、かなり前から気になっている。
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 さて、いまは住宅でふさがれているが、リニューアル後の沖野邸は南に面した庭門とは別に、北側に正門と玄関が設けられていた。そこを出で、L字状に歩けば60mほどで目白通りへと抜けることができた。その門を入った玄関には、大正末から呼び鈴が設置されており、しばしばイタズラに悩まされたようだ。“ピンポンダッシュ”ならぬ呼び鈴ダッシュで、頻繁に起きていたイタズラらしい。ずいぶん以前に、上落合186番地Click!に建っていた「三角アトリエ」Click!で、近所の子どもたちによる“ピンポンダッシュ”のエピソードClick!をご紹介していたが、沖野邸では子どもばかりでなく大人もやっていたようだ。
 昭和に入ると、呼び鈴はそれほどめずらしくないと思うのだが、ボタンを見るとどうしても押してみたくなる人たちが少なからずいたようなのだ。現在では、ボタンを押すとともにカメラが作動し来訪者の動画を記録するので、このイタズラは減っているだろう。1940年(昭和15)に美術と趣味社かに刊行された、沖野岩三郎『宛名日記』から引用してみよう。
  
 私の家には今呼鈴を取りつけてある。取りつけたのは、もう十六年前であるが、最初の頃は表を通る者が、無茶苦茶にそれを押した。それが決して子供だけでなく、大きな男が頻りにいたづらをしたものである。/妻は飯が焦げつきさうなのを放つて置いて、飛んで行つてみると、誰もゐない。またかと思つて出て行かないでゐると、大事のお客が来て待ちぼけてゐる。今度こそ待ちかねた彼の人だと思つて出て見ると、髪のもぢやもぢやした掠屋(金を強請に来る掠奪屋の事)が眼を光らしてゐたりするので、一時は其の呼鈴を取外さうかとさへ思つた事がある。
  
 沖野岩三郎の家にさえ、アナキストかサンディカリストか、はたまた左翼ゴロかは不明だがヤクザまがいの「リャク」が訪れたところをみると、彼は昭和期に入ってから稼ぎのいい作家のように周囲からは見られていたようだ。それとも、「求めよさらば与えられん」(マタイ伝)をそのまま実践する、キリスト者を装った単なるたかり屋だったものだろうか。
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 沖野岩三郎の小説はともかく、大正中期から以降のエッセイ類には自邸のある下落合が頻出している。近所で起きた出来事はもちろん、周辺に拡がる風景などを家族たちの姿にからめて描写することが多いようだ。また機会があれば、沖野家の下落合をご紹介したい。

◆写真上:1930年(昭和5)ごろ、下落合の沖野邸門前で撮影された家族の記念写真。右端にハル婦人、右からふたりめの隠れがちなのが沖野岩三郎。(AI着色)
◆写真中上は、1931年(昭和6)にヨーロッパから米国へ旅行した際にチューリッヒで撮影された沖野岩三郎。下左は、1920年(大正9)に出版された沖野岩三郎『地に物書く人』(文生書院)。下右は、よく使われる沖野岩三郎のポートレート。
◆写真中下は、1930年(昭和5)ごろに下落合の自邸庭先で撮影された孫たち。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された沖野家の記念写真。(AI着色) 下左は、1935年(昭和10)に出版された沖野岩三郎『育児日記から』(子供の教養社)の内扉。下右は、1940年(昭和15)に出版された沖野岩三郎『宛名日記』(美術と趣味社)。
◆写真下は、1935年(昭和10)ごろ撮影された白百合幼稚園のひな祭り。は1935年(昭和10)の「淀橋区詳細図」でたどる沖野遥ちゃんとお祖父ちゃんの登園コース。は、沖野岩三郎が孫を白百合幼稚園まで送っていったかなり急傾斜の霞坂。霞坂をくだると市郎兵衛坂と合流し、ほどなく白百合幼稚園の屋根と園庭が見えてきたはずだ。

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あまりにもあからさまな下練馬地域のフォルム。 [気になるエトセトラ]

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 「濕化味(シツケミ/シゲミ)」Click!の地名音に惹かれて、前回の下練馬地域に残る小名「丸山」Click!を調べているとき、あまりにもあからさまなフォルムを発見して絶句したことがあった。落合地域をはじめ新宿区域にも、古墳地名Click!とともに大きな幾何学模様Click!がいくつか存在することは、過去記事Click!何度Click!も触れてきているとおりだが、これほど明確に古墳の形状が現代まで残されているのは、耕地整理と宅地開発が市街地よりもかなり遅く、戦後になって行われた練馬地域全体の特徴だろうか。
 インターネット上で同地域の情報を調べていると、これらの幾何学的なかたちは昭和期におけるモダンな住宅街の形成テーマとともに語られていることが多い。すなわち、多摩川台(のち田園調布)Click!国立学園都市Click!と同様に、このような円形の、あるいは方形の道路網が整備されたのだろうというとらえ方だ。だが、歴代の空中写真を参照すれば明白だが、これら整った正円や方形の幾何学フォルムは、戦後、同地域で耕地整理が進捗し住宅街が形成される以前、すなわち周辺が田園風景で農家が散在する時代から、田畑の畔や畦道、境界、農道がこのような形状をしていた様子が歴然としている。
 モダン住宅街の特徴は、これら正円(あるいは半円)・方形の中心には鉄道駅や広場があるのが通例だが、下練馬に地下鉄・有楽町線が成増駅まで延長され、氷川台駅や平和台駅が設置されたのは1983年(昭和58)になってからのことだ。しかも、これらの駅は確認できる幾何学フォルムからは大きく外れており、円形や方形の中心はもちろんそれまで田畑→耕地整理→宅地のままだった。むしろ、旧来の田畑の畔や畦道、境界(地形的に段差や窪地が形成されていたとみられる)に沿って、後世に宅地化の道路敷設や宅地造成が進められた結果とみるのが自然だろう。中でも、もっとも典型的な“鍵穴”型をしている、平和台駅に近いフォルムを取りあげてみよう。(冒頭写真) 現在の住所でいうと、平和台4丁目から北町4丁目~7丁目に展開する、巨大な前方後円墳とみられる痕跡だ。
 この一帯(平和台4丁目)は、江戸期の小名では「西本村」「丸久保」と呼ばれた地域であり、近くには「大山」「中ノ台」「庚申塚」「富士山」(北町4~7丁目)などの小名が散在する。この中で、「富士山」は北町の氷川明神社にある富士塚にちなんだ、または富士講Click!が富士登山に向かう街道筋に見られる小名だが、「大山」は大山講の阿夫利社詣での街道筋にふられた小名だろうか? 「大山」や「大塚」は全国に展開する古墳地名の典型例であり、「大山(大仙)古墳」Click!「大山〇号墳」などが各地に存在している。また、「中ノ台」も突起地形を表す小名であり、田畑の中に起立している墳丘を想起させる呼称だ。タタラ集団Click!が奉った「荒神」が、江戸期に流行した庚申信仰Click!で転化したかもしれない、小名「庚申塚」があるのも地域的に興味深い特徴だ。ちなみに、小名「庚申塚」は平和台4丁目(西本村)に現存する庚申塔とは別の存在だ。
 平和台4丁目側、前方後円墳フォルムの東に位置する江戸期からの小名「丸久保」は、円形に窪んだ地形(湧水をともなう)からそう呼ばれていた可能性が高いが、これも古墳の周壕(濠)を感じさせる名称だ。事実、“鍵穴”フォルムの東側には、戦後まで灌漑用水が通っており、また正円形の北西側にも灌漑用水の流路が確認できる。
 平和台駅北側に位置する前方後円墳のフォルムをした畑地だが、全長を計測するとおよそ500mをゆうに超えている。もちろん、500m級の前方後円墳(日本最大となってしまう)があったわけではなく、他の耕地開拓事例と同様に墳丘を崩しその土砂で周壕(濠)を埋め、さらに外周域へ均して整地化Click!していったのだろう。江戸近郊の開拓が盛んに行われ、生産性の向上が急務だった江戸前期の事業だったかもしれない。
 小名「大山」の存在とともに、この地域には「塚」と認識できるレベルではなく、「山」と表現されるような大規模な突起(下落合の摺鉢山Click!のように)があった可能性を否定できない。墳丘が崩されて均され、整地化した農地Click!にされたとはいえ、少なくとも300mを超える前方後円墳を想定するのは、あながちピント外れではなさそうに思う。それほど、地形図や空中写真を参照すると、まるでナスカの地上絵のように、田畑の中に忽然と出現する幾何学形なのだ。
 一帯は、1950年代まではほとんど畑地(一部は田圃)だが、それ以降の時代になると農家以外の家屋が急増して住宅街が形成されている。だが、現在でも同フォルムの周辺には、農地(おもに練馬のダイコン畑)が随所に残っている。江戸期に行われた、大規模な農地開拓の土木工事で古墳の膨らみは跡形もなく、ほとんど平地に均されてしまったとみられるが、ここは実際に現地を歩いて検証してみるに限る。では、さっそく平和台へ出かけてみよう。
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 平和台駅から北東へ300mほど歩くと、前方後円墳フォルムの南端に当たる東西道(前方部南端)にたどり着くことができる。この前方部の形状の底辺となる、西北西から東南東にのびるほぼ直線の道路はゆうに250mを超えており、これほど規模が大きい古墳だったとみられる痕跡を歩くのは、青山墓地に隣接した南青山ケースClick!や目黒駅東口の森ヶ崎ケースClick!以来かもしれない。中野三谷ケースClick!や新宿駅西口の角筈ケースClick!などが、ひとまわり小さなサイズに感じられるスケールだ。
 前方部から後円部へ地形を確認しながら歩いていくと、江戸期の徹底した土木技術による農地開拓が行われたのだろう、前方部はほとんど平地化されているが、後円部はちょうど環状8号線と補助235号線が交差する正円の中心部あたりから、おもに南側と北側へ明らかに傾斜していることがわかる。つまり、後円部北側の一画は現在、パイの4分の1ピースほどが陸上自衛隊の練馬駐屯地として削られて不明だが、後円部だったとみられる正円部は、中心部の盛りあがっている地形が歴然としている。
 後円部とみられる、二重の円形に道路が敷設された道筋を歩いていると、なんともいえない不思議な気分になってくる。効率のよい道路の敷設や宅地開発なら、必ず直線状に拓かれるべき道筋が、わざわざきれいな正円形に敷かれている。そこに建つ住宅群やアパートも、畑地時代からつづく変形の敷地が多く、それぞれ妙な向きで建設されている。中央にある内側の小さな正円形を、墳丘が崩される以前に存在した本来の後円部のサイズだとしても直径は200mほど、南に延びる前方部を加えれば、やはり全長300mをゆうに超えるサイズの前方後円墳を想定することができる。
 また、外側の大きな正円形の東側=外廓の位置に、同じ曲線の境界(畔)跡を確認できるので、崩された墳丘の土砂は西側よりも、おもに東側へより多く運ばれて周壕(濠)や谷戸(久保・窪地)の埋め立てに使われたのかもしれない。特に後円部の地下は羨道や玄室が存在する位置なので、周囲の公園や庭先に大きめな房州石Click!が、庭石Click!などになって残されていないかどうか気になったが、今回の散策では発見できなかった。
 さらに、前方部の東側、古墳フォルムのほぼ造り出しClick!にあたるような位置に、西本村稲荷社と同御嶽社、それに庚申塔がまとめて配置されているのも気になった。なぜなら、大型古墳の急斜面を活用して古代以降のタタラ集団Click!神奈(鉄穴)流しClick!を行った事蹟かもしれず、稲荷は「鋳成」の庚申は「荒神」への江戸期における転化が疑われるからだ。換言すれば、これらの社(聖域)や塔などの史蹟は、崩される以前の墳丘のどこかに奉られていたものが、江戸期に入り農地開拓とともにこの位置に移され、社や塔への信仰とともに名称も変更された可能性がある。「久保」や「窪」Click!の地名、すなわち湧水源には噴出する地下水とともに砂鉄の堆積場Click!が形成されやすいのも史的事実だ。
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 さて、地下鉄・平和台駅の北側に位置する前方後円墳のフォルムを、便宜上、西本村古墳(仮)と名づけてみよう。同古墳(仮)だけでなく、古い時代の空中写真から周囲の状況はどうなっていただろうか? 特に、戦後もしばらくしてから宅地開発にともなう道路敷設が進捗する以前、いまだ農地と農家が散在するのみで、一面に広がる田畑の畔や畦道、境界、農道などがあるるだけの、この地域にどのような光景が見えるのだろうか? 戦前の空中写真を年代順に参照すると、その結果は一目瞭然だった。西本村古墳(仮)の周辺には、同じように幾何学的なフォルムだらけだったのだ。
 いまだ、多くの農地が耕地整理も宅地開発も行われていない、陸軍航空隊が撮影した1944年(昭和19)の比較的鮮明な空中写真を参照すると、西本村古墳(仮)の南東側、すなわち氷川台側に大型の円形および方形のかたちを見ることができる。これは、大型の前方後円墳跡とみられるフォルムと同一エリアに、大型の方墳あるいは前方後方墳とみられる痕跡が並列していた、目黒駅東口の上大崎今里ケースClick!に近似している。また、西本村古墳(仮)のすぐ近くにも、やや小さめな正円形のフォルムを確認することができる。これらは、主墳に付属した陪墳の古墳群跡だろうか。
 さらに、西本村古墳(仮)の南には周壕(濠)跡とみられる形状まで残る、やはり前方後円墳のフォルムが明らかに見てとれる。これだけ古墳跡とみられる痕跡が残るエリアでは、ある墳丘を崩して周壕(濠)を埋め立てる際、周壕(濠)域の面積が大きい古墳のケースは、周囲の余った墳丘の土砂もあわせて埋め立てに活用したのかもしれない。
 これらの幾何学フォルムの数々は、氷川台駅から平和台駅の先まで、およそ一辺が2km前後の方形エリアに集中して存在している。関東地方でいえば、100mを超える古墳が密集している埼玉(さきたま)古墳公園、あるいは千葉県の内房線にある青堀駅周辺に集中する50基ほどの大小古墳群に近似した光景といえるだろうか。北武蔵勢力とみられる埼玉(さきたま)古墳群も、千葉県に展開する南武蔵勢力とみられる古墳群も、大規模な農地開拓や宅地開発が行われなかったために、今日までその形状をよく残している史蹟だ。
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 今日、関東各地の宅地開発が進んでいない地域では、微細な土地の隆起や農地の形状を上空からの熱赤外照射や、X線照射によって観察する空中考古学が盛んだ。特に、群馬県や栃木県では大きな成果をあげており、それまで未発見だった大型古墳や玄室などが次々と発見されている。現代の住宅街の上空から、それらの照射は不可能だが、それに代わるなんらかの観察・分析法が見つからないものか、今後のテクノロジー進化に期待したい。

◆写真上:耕地整理が行われる以前、戦前の1944年(昭和19)に撮影された空中写真にみる下練馬の「西本村」から「丸久保」界隈。北側の陸軍練馬倉庫から拡大された陸軍用地が、後円部の痕跡だったとみられる北側に喰いこんでいる。
◆写真中上は、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる同所のフォルム。陸軍の用地は米軍に接収され、物資の集積場として使用されていたようだ。は、現在でも農地で多く栽培されている練馬のダイコン畑。
◆写真中下:1944年(昭和19)の空中写真と、はその現状を撮影したもの。田畑の境界や畔、畦道、農道などがそのまま住宅道路になっている。戦後の耕地整理の際、あらかじめ幾何学的なフォルムの農地がモダンな形状に見えたディベロッパーが、そのまま道路を敷設して宅地開発を行ったものか。写真は近くに西本村稲荷や庚申塔がある道筋で、墳丘の土砂がおもに東側の埋め立てや整地に使われたとみられる痕跡。
◆写真下は、戦前1944年(昭和19)と戦後1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる氷川台から平和台にかけて随所に確認できる幾何学的なフォルム。この時代には、いまだに墳丘の残滓が残る地点があったかもしれない。は、西本村稲荷社と保存された庚申塔。
おまけ1
 同じようなフォルムが展開していた、目黒駅の東側に拡がる上大崎地域。こちらは、前方後円墳や方墳(前方後方墳?)とみられる墳丘の土砂が、江戸期に谷戸や谷間の埋め立て・整地=耕地開拓に使われず、森ヶ崎や今里の形状は後世までそのまま残っていた。
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おまけ2
 大型・中型古墳が密集したエリアが、そのまま大規模な公園化された埼玉(さきたま)古墳公園(上)と、内房線・青堀駅(千葉県富津市)の周辺に展開する大小の古墳群(下)。後者の青堀駅は、駅前のグリーンロータリーからして50mほどの前方後円墳(上野塚古墳)であり、内房線線路の南側には周壕(濠)をともなう大型古墳や陪墳などが密集して築造されている。千葉県は出雲圏の鳥取県を抜いて現在、古墳ランキングでは全国2位となっているが、頻繁に発見ニュースを耳にする群馬県は、もうすぐ5位の京都府を抜きそうな勢いだ。けれども、1457年(康正3)に太田道灌が江戸城Click!を築城して以来、農地化と都市化が急速に進んだ江戸東京地方では、その大多数が破壊され農地や家屋の下になってしまったのだろう。
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下練馬村の氷川明神社と小名「丸山」。 [気になるエトセトラ]

下練馬氷川社(氷川台氷川社).JPG
 先日、下練馬村の「シクジツケミ」Click!(現・練馬区桜台)とその周辺地名が気になり、台地に刻まれた谷戸や丘上を取材していたとき、石神井川へ下り氷川台へと上る段丘一帯が、下落合の雰囲気によく似ていることに改めて気づいた。石神井川の南岸は、目白崖線に似ているバッケ(崖地)Click!もつづいている。もっとも、この一帯の石神井川両岸の段丘は、神田川(古代は平川)が流れる目白崖線ほど規模は大きくはないが。
 「濕化味」の地名を調べているとき、「宿濕化味」とともに明治期には「前濕化味」(東濕化味と西濕化味に分化か?)の小名があり、石神井川にはそのエリアには濕化味橋と名づけられた橋が古くから架けられていることも知った。濕化味橋は現存しており、城北中央公園で発掘された栗原遺跡へと抜けられる橋で、同遺跡は旧石器時代から縄文・弥生・古墳・奈良・藤原(平安)と、各時代の遺物が一貫して出土した重層遺跡だ。
 すなわち、周辺の他の遺跡とあわせて考えれば、この練馬地域もまた旧石器時代から現代まで間断なく人が住みつづけてきた経緯が、落合地域とまったく同様の土地がらだということになる。また、落合地域から片山地域Click!江古田地域Click!、そして下練馬地域と西北方面を直線状に鳥瞰してみれば、これらのムラ同士では古代から人的あるいは物的な交流が頻繁にあったとみるのが、ごく自然な史的解釈なのだろう。
 下落合と下練馬およびその周辺域で、なんとなく地勢や風情がよく似ているため、『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)などで旧蹟や小名をたどってみると、下練馬村の総鎮守として位置づけられている練馬の氷川明神(現・氷川台氷川明神社)をはじめ、牛頭天王社(スサノオ社)、おびただしい数の稲荷社、弁天社、第六天社Click!金山社Click!(上練馬村)などなど、落合地域とその周辺域に酷似した地域性が浮かびあがってくる。
 また、小名を詳細に参照してみると、氷川台の氷川明神社の南側を流れる石神井川には丸山橋(この架橋は新しい)が設置され、その南の段丘一帯が「丸山」と呼ばれていたことも判明した。ちょうど、下落合氷川明神社Click!と小名「丸山」Click!とがセットになっている下落合とよく似た地勢だ。さらに、下練馬村と上練馬村では「本村(ほんむら/もとむら)」Click!と呼ばれる小名、すなわち鎌倉期あるいはそれ以前から集落があったとみられる場所が、下練馬村の氷川明神社のすぐ北北西並びに近接していることも確認できた。これも、下落合村と上落合村とでは、「本村」が川沿いのやや標高が高めな下落合村の南向き斜面にあり、下落合氷川明神社の西並びにあるのと近似している。
 このような地勢で氷川社と、全国に展開する古墳地名の「丸山」Click!とがセットになった地域には、なんらかの古墳時代における痕跡が、下落合の「丸山」のすぐ西にあった小名「摺鉢山」Click!の大きなサークル跡や、上落合の小名「大塚」Click!エリアにおける巨大なサークル跡Click!と同様に見つかるのではないかと考えたわたしは、明治期以降の地形図や1936年(昭和11)以降の空中写真をシラミつぶしに当たってみることにした。すると、あちこちに人工的と思われる地形の痕跡を見つけることができた。
 下練馬の氷川明神(スサノオ)が、下落合の氷川明神社(クシナダヒメ)と同様に大きな釣鐘型をしていたかどうかは、各時代の地形図を見ても、また空中写真を見ても樹林や田畑に覆われて判然としないが(農村地帯だったため空襲の被害は受けていない)、石神井川の北岸に古くから通う丘麓の街道、すなわち下落合の目白崖線沿いに通う雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)に相当する道筋に、大きな半円形の蛇行がいくつも確認できるのに気がついた。特に、氷川台氷川明神の西に位置する南に大きくふくらんだ半円が、ちょうど下落合氷川明神の西に位置する「摺鉢山」Click!の小名が残る、南へ大きくふくらんだ道筋に酷似しているのがわかる。この道筋から北を向くと、現在はなだらかな上り坂の住宅街が造成されている。
石神井川南岸斜面.JPG
高稲荷社.JPG
氷川台氷川明神1947.jpg
 「下落合摺鉢山古墳(仮)」Click!の記事でも書いたけれど、昔も現代も街道(道路)を通すのであれば直線状に敷設していくのが利用者にはもっとも効率的であり、あえて半円形のような曲線の道筋を通すのは、そこになんらかの“障害物”があったため、その“障害物”の周囲を迂回する必要に迫られたからだと解釈するのが妥当だろう。特に、トンネル技術も大規模な切通しを拓く土木技術も乏しかった昔日では、“障害物”を避けて道路を敷設するほうが、よほど手早く効率的だったのだ。そのような、古(いにしえ)の視線で地形図や空中写真を見ていると、興味深い事実に気づくことが多々ある。
 以上のようなことを考えている最中、友人からさらに興味深い情報が寄せられた。石神井川の南岸に位置する古くからの小名「丸山」の丘上に、巨大なサークル痕が見えるというのだ。さっそく、空中写真を年代順にたどってみると、同地区は戦前戦後を通じて本格的な宅地化が進んでいないせいか、古い時代の農道(畔および畦道)がそのまま戦後まで引きつづき残存している。その形状を観察していると、確かに大きなサークル状の痕跡になることが判明した。位置的には、西側に切れこむ宿濕化味の東谷戸と、東側に切れこむ羽根沢の谷戸との中間にある高台に見えている。
 サークルの直径は約250mで、正円形の北東部が江戸期に整備されたとみられる、埼玉(さきたま)道に薄く削られているのがわかる。正円は、東西の谷戸に沿うように南側で途切れており、前方後円墳の墳丘を崩して周囲四方へ均すように開拓すればこのような形状になるだろうか。ことに西側の土砂は、宿濕化味の東谷戸へ落とし農地を拡げるのに適していただろう。ちょうど、下沼袋の丸山・三谷ケースClick!南青山ケースClick!と同様の、大規模な土木技術が浸透した江戸期における開墾事業を想起させる。
 計測してみると、小名「丸山」に残された鍵穴型の全長は南北に約380mほどだが、先述のように墳丘の土砂を崩して周囲に均しているとすれば、下落合の「摺鉢山」と同様に200mクラスの前方後円墳、ないしはホタテ貝式古墳を想定できそうだ。その後円部の上には、1950年(昭和25)に練馬区立開進第三中学校が移転・開校しているが、その建設工事の際になにか遺物が出土してやしないだろうか。あるいは、江戸期の農地開拓で玄室や羨道の組石(房州石Click!?)、埴輪などの出土物はあらかた打ち棄てられてしまったのかもしれないが、下落合のケースのように田畑など地面を掘り起こすと、埴輪片や土器片、ときには副葬品とみられる遺物が出土する事例がなかったかどうか気になるところだ。
濕化味橋.jpg
下練馬丸山1909.jpg
埼玉道庚申塚1765明和2.jpg
 1987年(昭和62)の古い『練馬区小史』(練馬区)には、次のような記述が見えている。
  
 <古墳造営の>関東での動きは鈍く、北関東を勢力圏とする毛野<ケヌ>国(毛国→群馬・栃木の平野部)が、上毛野<カミツケヌ>(のち上野)、下毛野<シモツケヌ>(のち下野)へと展開する。この毛野勢力は新文化を十分吸収したものであり、時代は弥生から次の古墳文化へと進む。時代は四世紀に入る。東京都地域では、多摩川中流域に大小の古墳Click!が造られ、今の芝公園付近にも大型の古墳Click!を残すようになるが、練馬には古墳として特に記載するほどのものはなく、広い武蔵野平野の一部として古墳時代末の開発を待った形になっていた。(< >内引用者註)
  
 北関東の強大な毛野勢力Click!については触れているものの、全体が古い記述のままで、おもに1980年代以降に関東各地でダイナミックに展開された最新の発見・発掘成果に関しては、いまだ触れられずにいる。「古墳として特に記載するほどのものはなく」ではなく、早くから江戸近郊の農地開拓が行われていたため破壊されたケースが多く、また戦後は宅地化が急速に進み調査・発掘する機会を逸しているだけではないだろうか。
 ちょっと余談だが、旧石器時代や縄文期(遺跡数および遺跡規模による)はもちろん、弥生期や古墳期を通じても坂東(関東地方)の人口は現代と同様に、他の地方を凌駕するほど多かったのではないかという、人文科学ばかりでなく社会科学をベースとした「古代経済論+人口論」の切り口が非常に興味深い。近畿圏(関西史)の視点から、明治以降は薩長政府によるおもに教育分野のプロパガンダによってイメージづけられた、古代はまつろわぬ「蛮族」の「坂東夷」が跋扈する「未開の原野」=武蔵野という皇国史観Click!のレッテル貼りが、戦後もしばらくの間つづいていた。もちろん、敵対する勢力を「蛮族」として蔑称するのは、中国や朝鮮半島から借りた政治思想的視座だ。
 けれども、1980年代以降の古代史学あるいは考古学における群馬・栃木(ケヌ地方=毛野勢力のクニグニ)の巨大古墳群をはじめ、千葉(チパ地方=南武蔵勢力のクニグニ)、埼玉(サキタマ地方=北武蔵勢力のクニグニ)、および茨城などにおける膨大な大小古墳群が次々と発見されるにおよび(南武蔵勢力圏である江戸東京地方は、早くからの都市化および近郊農地化のため破壊ないしは発掘が不可能となっている)、それら古墳群をこれほど大規模かつ大量に造営するのに必要な、当時の肥沃な生産性を基盤とした経済力とマンパワー(労働力)が、必然的に「未開の原野」の神話史観ではまったく説明がつかないからだ。特に山林が比較的多く残され、古墳調査に熱心な千葉県と群馬県(つづいて埼玉県もかな?)では最先端の古墳探査技術を駆使し、21世紀に入ってからは続々と新発見がつづいている。
下練馬村丸山1936.jpg
下練馬村丸山1947.jpg
下練馬村丸山1948.jpg
 以前、下練馬の丸山地域の東側にあたる向原地域で、妖怪譚とともに鍵穴型のフォルムが残るポイントClick!を探ったが、同様に早くからの農地化で崩されてしまった「百八塚」(無数の塚)Click!と同様の大小古墳Click!が、練馬各地に散在していたのではないか。それは、各所に見え隠れする古墳地名(小名)からも、それをうかがい知ることができる。たとえば、自衛隊練馬駐屯地の周辺には、宅地開発がはじまる前の農村時代から田畑の畔や用水を含め、驚くほどあからさまなフォルムが残されているが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:下練馬地域の総鎮守である、氷川台の氷川明神社。境内のフォルムが判然としないが、多くの氷川社Click!のように古墳上に築かれた社だろうか。
◆写真中上は、石神井川の南につづく崖線の坂道。は、崖線上に築かれている高稲荷社の擁壁。ひな壇状の擁壁は、まるでタタラClick!神奈(鉄穴)流しClick!跡を想起させるが、高稲荷は高鋳成が中世以降に転化したものか。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる氷川台氷川社の周辺で、あちこちに気になる半円形の道筋が見られる。
◆写真中下は、1955年(昭和30)ごろに撮影された濕化味橋。田畑の中に点在する、樹木が繁るこんもりとしたふくらみが気になる。は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる丸山地域。は、埼玉道の明和年紀が残る庚申塚。
◆写真下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる丸山地域。は、同じく1947年(昭和22)の丸山地域。は、急速に宅地化が進む1948年(昭和23)の丸山地域。
おまけ
 バッケ(崖地)上に設置された高稲荷社(上)で、いつの時代かは不明だがタタラ集団Click!が創建した鋳成神Click!の聖域だったものが、中世以降に農業神の稲荷へ転化しているのではないか。埼玉道の付近には、江戸期からの大農家だったとみられる屋敷(中)がいまも多く残っている。丸山地域の丘上に開校している、練馬区立開進第三中学校のキャンパス(下)。
高稲荷拝殿.JPG
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大泉黒石の墓所は化石ちらしの青御影石。 [気になる下落合]

大泉黒石青御影石.JPG
 下落合に二度も住んでいた大泉黒石Click!について、いろいろと記事をアップし全集をはじめ作品群に目を通したところ、とても面白いので急に墓詣でを思いたった。拙ブログに登場し、ことさら人物像に興味が湧き魅力を感じて、血縁でもないのに進んで墓参までしたくなったのは、過去に鎌倉幕府における実質上の将軍=CEOだった政子さんClick!、芝居「東海道(あずまかいどう)四谷怪談」Click!ではなぜか怨霊にされてしまった(田宮)於岩さんClick!と、芝居「松竹梅雪曙(しょうちくばいゆきのあけぼの)」の八百屋お七Click!、一家3人が眠る麹町の佐伯祐三Click!墓所Click!ぐらいしかいない。
 大泉黒石の墓所は、西武池袋線・小平駅前に拡がる都立小平霊園にある。昭和初期から、箱根土地Click!国立Click!の学園都市と連動するように、鉄道敷設まで計画して宅地開発していた地域だが、実際に住宅街が形成されたのは戦後になってからのことだ。大泉黒石が眠るのは、霊園西側にあたる一画だった。まるで公園のような墓所で、ところどころにはベンチがすえられ、ハイキングを楽しむような雰囲気で墓参できるようになっている。実際、芝生にシートを拡げランチの準備をしている家族連れもいた。
 さっそくお参りを済ませ、大泉家の青黒っぽく見える墓石をよく観察すると、いわゆる青御影石(ブルーパール)と呼ばれる石材で、一面に青白く光る貝殻の化石が混じっているのがわかる。強めの光が当たると、これらの貝化石がまるで螺鈿のようにブルーやピンクなど真珠色に輝くので、文字どおり「パール」と呼ばれるゆえんだ。三浦半島などでの化石採集Click!が好きだった、大泉黒石にはピッタリの墓石といえるだろうか。
 ところで、読売新聞の転居欄で1926年(大正15)9月現在、下落合744番地Click!に大泉黒石の転居先を見つけたとき、わたしは自分でも呆れる初歩的なミスをしていたのに遅まきながら気がついた。それは、大泉黒石の落合地域と周辺域における、めまぐるしい転居を追いかける記事を書いた際、板橋区中新井1丁目71番地と板橋区下石神井町北1丁目305番地の転居先を、双方とも「練馬区」Click!に訂正してしまったことだ。これはありえない恥ずかしいミスで、東京35区Click!に板橋区はあっても練馬区は存在しない。板橋区に「練馬地区」はあったが、練馬区が板橋区から分離・独立するのは、東京23区制が成立した戦後、1947年(昭和22)になってからのことだ。したがって、それぞれの『文芸年鑑』(改造社版/第一書房版)が記録しているとおり、双方の住所は「板橋区」のままが正しい。
 ということで、落合地域とその周辺域における大泉黒石Click!の転居先を、もう一度改めて整理してみよう。まず、いま現在判明している住所でもっとも早い時期のものが、1921年(大正10)の高田町雑司ヶ谷442番地、すなわち黒石自身が『俺の自叙伝』の中で「三条家と背中合わせに偉大なる冠木の門」と書いている家だ。このあと、小さな子どもたちが汽車を見に出られるほど、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)にごく近いエリアに転居している可能性が高いが、以下、その転居ルートを追いかけてみよう。
 高田町雑司ヶ谷442番地(1921年) → 同町雑司ヶ谷?(1923年ごろ/武蔵野鉄道近く) → 長崎村五郎窪4213番地(1924年) → 長崎町大和田2028番地(1926年) → 落合町下落合744番地(1926年9月~) → 高田町鶉山1501番地(1930年) → 板橋区中新井1丁目71番地(1932年) → 板橋区下石神井北1丁目305番地(1936年) → 淀橋区下落合4丁目2130番地(1936年~)……ということになる。大泉黒石は“引っ越し魔”なので、この間にまだ判明していない住所がいくつかあるのかもしれない。
 上記の住所で、高田町鶉山1501番地の家を、前回は『文芸年鑑』(改造社版)の記録に沿って1932年(昭和7)としていたが、1930年(昭和5)には同住所に住んでいたことが判明した。1988年(昭和63)に緑書房から出版された『大泉黒石全集』第8巻に添付の「黒石廻廊/大泉黒石全集書報」No.8には、日本画家で作家の岸大洞による『巡査と雪まみれの組打ちとなった黒石』が収録されており、文中には1930年(昭和5)の暮れあたりに高田町鶉山の大泉邸を訪ねるくだりが登場している。
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 大泉黒石が、下落合744番地に住んだ大正末から昭和初期にかけて、彼はどのような文学表現の位置にいたのだろうか。1926年(大正15)は、ちょうど『人間廃業』(文録社)と『人間開業』(毎夕社出版部)を相次いで出版した時期と重なる。その様子を、2013年(平成25)に河出書房新社から出版された大泉黒石『黄夫人の手―黒石怪奇物語集―』収録の、由良君美『無為の饒舌』から少し引用してみよう。
  
 無為の地点に坐りこみ、文壇の狭隘な偏見のなかで生き残ろうとすれば、黒石にとってなお可能であったのは、偽作のレトリックを鋭ぎすますことであった。『人間廃業』はその題名から、すでに昭和無頼派を予想させるものがあるが、『人間失格』の湿り気はこれっぱかしもなく、爽快な饒舌の大洪水である。レトリックの美事(ママ)さにおいて、おそらく黒石文学のひとつのピークであろう。ここにも黒石の中国思想とロシア文学の教養は沁みでているが、落語や戯作者の修辞を完全にこなした自在な駆使ぶりは、驚嘆に価する。(中略) とりわけ面白いのは、黒石独自の日本人論で、アナーキズムとボルシェヴィズムを流行のように口にしながら、いずれは日本人の?せ我慢が尻尾をだして自滅するまで大挙して日本刀を振りまわす時勢が来るであろう予測を、「<アナ>と翻えり、<ボル>と揺れる……瑞穂国の枝や葉」に仮託して、辛辣に衝く部分である。風俗諷刺も抱腹絶倒の箇所にみち、これこそ大正文化史の生きた見本である。
  
 昭和期に入ると、「私小説」家たちが群れる「文壇」からは、「純文学」ではなく「通俗小説」だと規定されて意図的に締めだされ、文学関連の雑誌社・出版社からは「文壇」が手をまわして排斥された黒石は、日本各地を旅して旅行記や紀行文を発表することが多くなる。下落合744番地から高田町鶉山1501番地へ転居したころは、群馬県の沼田から月夜野町、湯宿温泉、栃木県の奥日光などをまわって、盛んに山岳紀行や温泉紀行を執筆している。おそらく、当時は“日本の秘境”といわれた山岳地帯あるいは秘境温泉を、黒石は山岳雑誌や新聞社と連携しながら、ほとんど取材・踏破しているのではないかとさえ思える。
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 1930年(昭和5)11月15日に、群馬県月夜野町にいた作家・綿貰六助を訪ねた大泉黒石は、その足で湯宿温泉に向かっている。雪が降る深夜の三国街道を、和服にマントを羽織りリュックサックを背負った姿で歩いていた黒石は、さっそく怪しまれて非常警戒中だった巡査の不審訊問にひっかかった。非常警戒中だったのは、前日に首相の浜口雄幸が東京駅で銃撃される事件が起きていたからだ。
 黒石が反抗的だったのだろう、拘引しようとする巡査と乱闘になった。黒石は身体が大きいので、巡査が組み伏せられそうなところへ加勢が入り、黒石はその場で逮捕されている。先述の岸大洞による、『巡査と雪まみれの組打ちとなった黒石』から引用してみよう。
  
 折しもタクシーで通り合わせた教員と運転手と三人掛りで先生(大泉黒石)を車に押し込め、沼田警察署の“ブタ箱”入り。しかし、ロシア皇帝縁類の文士であると翌日聞いた署長が、お見舞い酒を買い、先生は留置場を出た。その後、湯宿温泉に泊まり、法師温泉へ行き、三国山へ登る途中で吹雪に見舞われた。先生は難行中、先夜、月夜野町で車に押し込まれた際に打った胸の痛みが再発。/忌ま忌ましさに宿を谷川温泉に移し、「三国の処女雪」と題した紀行文を書き、十二月八日から四回、国民新聞学芸欄に連載し、即日郵送してくれた。(カッコ内引用者註)
  
 沼田警察署の署長は、「ロシア皇帝縁類の文士」だとして釈放しているが、大泉黒石Click!の父親アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチは、ペテルブルグ大学卒の法学博士で帝政ロシアの領事官だったが、トルストイClick!と同郷のヤースナヤ・ポリャーナにあった農家の出身であり、ロシア皇帝との縁故関係はない。署長が詫びに酒を買って差し入れているので、署員の中に黒石の愛読者がいて「皇帝縁類の文士」だというウソを、文学に疎かった署長に吹きこんだのかもしれない。大正末から昭和初期、ロシア革命の混乱を避け日本に亡命したロシア人は、それほどめずらしい存在ではなかった。
 翌1931年(昭和6)の春、大泉黒石は栃木県の鬼怒川温泉にいた。講談社から黒石に声がかかり、すでに紀行作家としても有名だった彼に執筆を依頼している。この企画は、作家や画家たちに日光から鬼怒川、塩原を回遊してもらい紀行文を書いてもらうという趣旨で、参加したのは黒石のほか竹久夢二Click!、洋画家・水木伸一、漫画家・麻生豊Click!、詩人・福田正夫、そして作家・田中貢太郎Click!の6名だった。この中で、田中貢太郎は黒石を「文壇」から排斥するのに加担した人物なので、お互いやや気まずかったのではないだろうか。
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大泉黒石「山と渓谷」1934漫画2.jpg
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 このとき、現地を案内したのは栃木の詩人・泉漾太郎だが、大泉黒石は彼が新婚だと知ると水木伸一が描いた色紙の絵に、「せまくともおらが家だぞ蝸牛」の俳句を賛している。詩・歌・句にも造詣が深い黒石だが、「蝸牛」は少し早い季違いだと感じただろうか。
  石碑(いしぶみ)や古語父の里の蕎麦の花
  姫に肖(に)て貴きものを女郎花(おみなえし)
  山の宿やお膳の上の螽斯(きりぎりす)
  干柿や五戸の部落の冬構へ             黒石

◆写真上:小平霊園にある、貝化石混じりの青御影石を用いた大泉黒石の墓。
◆写真中上は、大泉黒石の墓石全景。は、1934年(昭和9)に出版された大泉黒石『山と渓谷』(浩文社)に挿入された大泉黒石の漫画とスケッチ。
◆写真中下は、1930年(昭和5)出版の大泉黒石『峡谷と温泉』(二松堂/)と、1934年(昭和9)出版の同『山と峡谷』(浩文社/)。は、上記『山と渓谷』(浩文社)掲載の黒石スケッチ。は、黒部渓谷をわたる大泉黒石(パーティ右先登/AI着色)。
◆写真下上左は、2013年(平成25)に出版された大泉黒石『黄夫人の手』(河出書房新社)。上右は、1988年(昭和53)に出版された『大泉黒石全集』第8巻(緑書房)。は、上記『山と渓谷』(浩文社)に掲載の黒石漫画で1931年(昭和6)の日光~塩原紀行(講談社主宰)の1シーンだとみられる。は、盛んに山登りをするようになったころの大泉黒石。

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