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ずっと女性が気がかりな林泉園の青柳有美。 [気になる下落合]

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 秋田県の出身で、関口教会Click!(東京カテドラル聖マリア大聖堂)で神父をつとめながら、明治女学校Click!の教師として女学生たちに教え、巌本善治Click!とともに女学生の専門誌「女学雑誌」を刊行していた人物に青柳有美がいる。その後、実業之世界社に入社し、雑誌「女の世界」を刊行する編集責任者となった。
この「関口教会」は、1895年(明治28)に関口水道町に設立された、いまは存在しないプロテスタント系の教会であり、現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会とはなんら関係のない組織であるのを、め~めさんよりご指摘いただいた。(コメント欄参照) したがってプロテスタント関口教会につとめていた青柳有美は牧師であり「神父」ではない。以下、「神父」の記述は「牧師」と読み替えていただければ幸甚この上ない。
 「女の世界」は、男も買って読む女性誌として特殊な人気があり、女性の性や恋愛、生理、私生活などについてコト細かに取材・観察した記事内容となっている。拙ブログでは、「女の世界」に出稿した宮崎モデル紹介所Click!の広告を見て応募し、中村彝Click!のアトリエでモデルになった小島キヨClick!のエピソードをご紹介している。そして、小島キヨは辻潤Click!と結婚して落合地域で暮らすことになる。
 その後、青柳有美は新聞記者などをへて東邦電力社員となり、下落合367番地の「近衛新町」Click!松永安左衛門Click!が開発した林泉園住宅地Click!に住み、さまざまな著作の執筆生活に入ることになった。大正末ごろに下落合へ転居してきて、1936年(昭和11)ごろまで住んでいたようだ。前回ご紹介した菊地東陽邸跡Click!から、南東へ直線距離で170mほどのところの西洋館にいた。職業の肩書としては、「東邦電力社員」のほか「文筆業」「恋愛評論家」「女性修身教育家」「女性評論家」などと呼ばれていたようだ。
 また、その著作というのが『女学生生理』(1909年)をはじめ、『世界の新しいふらんす女』(1913年)、『最新結婚学』(1915年)、『女の裏おもて』(1916年)、『男女和合の秘訣』(同)、『女の話と男の話(お夏清十郎 恋の姫路)』(1917年)、『新性慾哲学』(1921年)、『女征伐』(同)、『接吻哲学』(同)、『恋愛読本』(1926年)……などなど、およそ女性をテーマにした妙な本を数多く執筆し、ほとんど“変態”ではないかと思うような文章を残している、落合地域ではめずらしい物書きだ。
 「名古屋女」の筋肉や皮下脂肪について、ちょうどよい具合だと研究してみた、1913年(大正2)に明治出版社より刊行された青柳有美『日本美人論』から引用してみよう。
  
 日本の地図を披(ひら)いて見ると、名古屋地方は北海道を頭とし九州を尾にして居る本土の中央にある。東京になると早や北に片寄り過ぎる。京都になつても、モウ南に寄り過ぎだ。名古屋地方は実に日本々土の中央で全く中京である。随(したがつ)て、名古屋女の筋肉は南方人の如くカラカラして固つても居らねば、又北方人の如く多量の皮下脂肪に覆はれて、ダブダブしても居らず、肥らず痩せずといふ中庸を得て居ることになる。(中略) 名古屋女の筋肉の発達が、巧に中庸を得て過不足無く、肥つているやうでも緊縮(しま)つたところがあり、観る眼に美しく感ぜらるゝのは無理も無い。(カッコ内引用者註)
  
 こんな文章がエンエンとつづき、「名古屋女」の筋肉や皮下脂肪がひきしまってちょうどよく、ほかにも別々の章立てで「顎」「唇」「鼠歯」「肌」「皮膚」「鼻」「声」「言葉」「指」「額」「眼」「白膜」「髪」「尻」「胸」「足」はては排泄物と研究が進み、おしなべて「美人」だから具合がいいのだという「研究論文」となっている。
 おそらく、名古屋の新聞社に就職した際、名古屋の女性とつき合いでもしたのだろうか、そのときに味わった感想をそのまま文章化しているようにさえ思える。これを、明治女学校の教師であり、関口教会の神父をつとめていた人物が書いているのだから、「変態教師」で「変態神父」だったのではないかと、あらぬ想像してしまうのだ。
 このように、女性が気になって気になってしかたがない、「筋肉フェチ」か「皮下脂肪(ふくらみ)フェチ」の「美人論」者かと思いきや、妙なところで「女修身」などをもちだして、朝鮮半島の儒教倫理・道徳のようなことをふりまわして蔑視し、それを押しつけようとするので大の「女好き」だけれども、おそらく「女性礼賛者」では決してないのだろう。
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 ところが、そのわずか4年後の1916年(大正5)に広文堂書店から出版された『人情論』では、あれだけ全身から排泄物までベタ褒めしていたはずの「名古屋女」は、「魯鈍」で「ダラシな」く、「ドス黒き顔」をして「肉」ばかりということにされており、「三河女」こそが素晴らしい女ということになっている。同書より、少しだけ引用してみよう。
  
 三河女は智的表情に富めり。名古屋女の如く、魯鈍してダラシなき相貌を有するものに非ず。その飽くまでも智的にして、顔面に鋭敏なる組織と表情とのあるは、是れ実に三河女の特色なり。(中略) 三河女の皮膚の色は、其マレー乃至土蜘蛛血液の不足なるだけそれだけ、名古屋女よりも白し。名古屋女の如きドス黒き顔色は、之を三河女に見るべからず。
  
 「名古屋女」は、すでに「土蜘蛛(つちぐも)」Click!の血が色濃く流れているなどとされてしまい、「三河女」の肌や身体、顔つきこそが白くて美しいということになり、もう途方もなくメチャクチャな内容の「研究論文」となっている。これを素直に解釈すれば、好きだった「名古屋女」にはあっさりフラれてしまい、その後につき合ったのが静岡出身の「三河女」だった……ということにでもなるだろうか。
 繰り返すが、これを明治女学校の教師であり、関口教会の神父だった人物が書いているのだから、青柳有美は女学生や女性信者たちにも“評判”の、「危ない教師」で「危ない神父」だったのではないかと、ほとんど確信的に思えてしまうのだ。
 ところが「名古屋女」につづき、期待の「三河女」も彼にとっては「土蜘蛛」ならぬ「国栖」のトラウマになってしまったものか、大正の後半になると「昨今の日本女は」と国家単位に普遍化し、地方・地域色はもちろん個々人の人格や個性をいっさいがっさい捨象・無視した、根拠薄弱な(自身の体験内でのみ組み立てた狭隘な)一般論(?)に収斂していき、先述した朝鮮半島の儒教的道徳観(「女修身」)のような眼差しで、「女には気をつけろ」と東邦電力の社員たちへ講演・訓示するようにまでなっていく。
 これはわたしの想像だが、細かく観察するような眼差しを女性に向けてはいるものの、実はハナからなにも見ても認識してもおらず、自身が勝手に想い描く理想的な“女性像”(ごく私的な枠組み)が前提として厳然と存在し、それを求めて生身の女性とつき合った結果、それらの“型”にはまった理想が次々と崩れて裏切られ、理想とはほど遠い側面を見いだしたり、相手から愛想をつかされてフラれたりするごとに、地方地域の名を冠した「女」たちが「土蜘蛛」に変身しているのではなかろうか。
 大正後期になると、彼の著作には「名古屋女」も「三河女」も姿を見せなくなり、代わって「日本の女」「仏国の女」というように国家単位による女性一般のくくり(要するに十把一絡げで大雑把かつデタラメな主体設定)がやたら多くなる。青柳成美の基盤となっている女性観について、「巴里の女美術家」つまり女性画家を書いた文章が典型例なので、1913年(大正2)に東亜堂から出版された『世界の新しいふらんす女』から少し引用してみよう。
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女学生生理1909丸山舎出版部.jpg 日本美人論1913明治出版社.jpg
人情論1916広文堂書店.jpg 接吻哲学1921日本性学会.jpg
  
 (女性画家は)少しでも名の知れてるやうなのになると、自惚で、我儘で、我慢で、利己的で、何んとも仕様が無いものだ。その上大抵、多弁至極と来る。女らしい優しいところが全く無い。こんな女を女房にした男は、如何に嬶天下に甘んずる西洋人でも、一生浮ぶ瀬の無いのに歎声を発ざるを得ざる次第と相成る。画室にでも籠つて、こんな女美術家が懸命に描いてるところを見ると、更に層一層の不快を感ぜざるを得ない。(カッコ内引用者註)
  
 この直前の文節で、日本女子大卒の高等教育を受けた女が、「お針は出来ず女の道は何一つ心得て居無」いからダメ的な文章も書いているので、およそ青柳有美が“ぴんから兄弟”のようなワードとともに抱いていた彼本来の女性観が透けて見える。
 上記の文章からも、女性は謙虚で、謙譲で、我慢強く、利他的で、無口で、男に対しては優しくなければウソで、男を陰でバックアップして浮かぶ瀬へと押し上げてくれなければならず、女美術家などもってのほかだ……と、ほとんど洋画家・柏原敬弘Click!や「画見博士」こと芳川赳Click!よりも“重症”な、女性コンプレックスの持ち主だったことがうかがわれる。ほかにも、このあと女性作家や職業婦人など自立している女性には端からケチをつけ、ケシカラン的な文章を書き連ねていてかなり異常で異様に映る。
 彼は秋田県で、いちおう東日本に属する地方の出身のはずだが、江戸東京地方にやってきてこれほど地元の文化や風俗Click!、生活習慣に馴染まない(馴染めない)東北人もかえってめずらしい。同時期に下落合に住んでいた、同じ秋田出身の矢田津世子Click!などは、彼の目から見れば「とんでもない土蜘蛛女」ということになりそうだ。
 このような人物が、原日本の生活文化Click!が色濃く残る江戸東京Click!で暮らしていながら、キリスト教の神父とは無縁な中国・朝鮮半島由来の儒教倫理・道徳(特に「女修身」)をありがたく拝借し、率先して没入していくのは当然のなりいきで、東邦電力の社員(自分も社員なのだが)に向けた講演では、「女に気をつけろ」的な言質が急増していくことになる。1926年(大正15)に電気之友社から出版された『電気技工員講習録』に収録の、林泉園住宅の東邦電力社員たちへ向けた講演「電気修身」(爆!)から引用してみよう。
  
 苟(かりそめ)にも上役から言ひ付けられたことだと成れば、多少そこに無理があると思つても、他人へ迷惑の懸らぬ限り、何んでも「ハイハイ」と苦い顔一つ見せず、よろこんで之を遵奉てゆくところが、是れ人間としての美しい處で無いか。(中略) 若い男が、やり損なつて一生を棒に振つてしまふに至るのは、十中の八九まで酒と女が原因に成る。恐ろしいものは酒と女とだ。第一酒と女とは、金銭の懸る仕事で、ロハなんかで出来るものでは無いのである。殊に昨今物価騰貴の折柄、諸事倹約を旨とせねばならぬ時に、酒を飲んだり女にトボケたりして居つては、迚(と)ても生活が立つて行かぬのだ。(カッコ内引用者註)
  
 してみると、「名古屋女」も「三河女」もマジメにつき合った恋愛相手などではなく、やたらカネばかりかかる、その筋の“商売女”だったとも思えてくる不用意な発言だ。
恋愛読本1926二松堂.jpg 恋愛読本1932明治図書出版協会.jpg
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電気工員講習録1926表紙.jpg 青柳有美(読書).jpg
 どうやら酒も恋愛(女)も、自分自身が選択して楽しむべき主体的な行為であることは、どこかへ丸ごと置き忘れ去られ、「怖ろしいもの」=「酒と女」がこの世に存在するから悪いとまでいいたげな「修身」講演だ。こういう没主体的な言質を吐いているからこそ、なんでも滅私奉公で「ハイハイ」ということをきかない、「高等教育」を受けた「多弁至極」で論理的な女たちにやりこめられ、教師も神父の職も辞めざるをえなかったのではないか?

◆写真上:下落合367番地の、林泉園住宅地Click!にあった青柳有美邸跡(左手)。
◆写真中上は、1897年(明治30)からの巣鴨庚申塚時代に撮影された明治女学校キャンパス。は、関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる東邦電力林泉園住宅地の青柳有美邸。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる青柳有美邸。は、1909年(明治42)に出版された『女学生生理』(丸山舎出版部/)と、1913年(大正2)に出版された『日本美人論』(明治出版社/)。は、1916年(大正5)に出版された『人情論』(広文堂書店/)と、1921年(大正10)に出版された『接吻哲学』(日本性学会/)。
◆写真下は、かなり売れいきがよかったとみられる1926年(大正15)出版の『恋愛読本』(二松堂/)と、1932年(昭和7)の明治図書出版協会版の復刻『恋愛読本』()。は、下落合時代の青柳有美。下左は、「電気修身」が収録された1926年(大正15)出版の『電気工員講習録』(電気之友社)。下右は、林泉園の自宅で読書をする青柳有美。

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