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いろは牛肉店の木村荘八とその周辺。 [気になるエトセトラ]

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 拙ブログでは木村荘八Click!について、岸田劉生Click!との関連などでいろいろ書いてきたが、それは同店が明治期に、わたしの実家のご近所Click!だったせいでもある。日本橋吉川町(両国広小路/現・東日本橋2丁目)に、有名な「第八いろは牛肉店」Click!(牛鍋店)があったからで、日本橋米澤町の実家とは直線距離で150mほどしか離れていない。
 木村荘八Click!の父親で創業者の木村荘平は、1906年(明治39)に67歳(数え歳:以下同)になると芝浦の自邸(芝浜館)で病没しており、跡を継いだ2代目・木村荘平(長男・木村荘蔵)には経営能力がなく、大正期に入るとまもなく倒産している。親父が生まれたとき、第八いろは牛肉店はとうに閉店していたはずだが、祖父母に連れられて通った親の世代からから、さまざまなエピソードを聞かされたのだろう、親父の昔話Click!の中にも両国広小路Click!の「いろは牛肉店」は幾度となく登場していた。
 だが、木村荘八Click!が日本橋吉川町で生まれた経緯や、洋画家をめざす以前の様子についてはあまり触れてこなかったように思う。吉川町の第八いろは牛肉店は、現在は東日本橋2丁目の両国広小路の南寄りにあった町だが、同店舗が建っていた跡はその後の両国広小路の大規模な拡幅工事とともに、現在は通りの下になってしまったとみられる。木村荘平は、もともと力士になりたかったほどガタイの大きな人物だったようだが、京の伏見で青物屋を開店していたところ明治維新を迎え、まもなく店が倒産してしまった。その後、神戸で製茶業をはじめたが、これもほどなく倒産している。
 1878年(明治11)に39歳になっていた木村荘平は、東京にやってきて一旗あげようと三田四国町(現・港区芝3丁目の一部)に大屋敷を借りて住んでいる。同町には、明治政府が設置した屠畜場があり、彼は官有物払い下げの動きに乗じて同施設を安価で手に入れた。江戸期より、大江戸(おえど)ではももんじ(獣肉)Click!が盛んに食べられていたが、牛は運搬や農耕に役立つ動物なので食べていない。だが、これからは牛肉を使った洋食や和食が流行るとみた、彼の思惑はみごとに当たることになる。
 屠畜場の入手とほぼ同時に、まずは三田に牛鍋屋Click!の1号店を開店した。江戸期からつづく、各種すき焼き料理Click!とは異なり、したじ(濃口醤油)ベースの出汁をあらかじめ張った鉄製鍋に牛肉を入れ、すき焼きClick!と近似した東京近郊の野菜や豆腐を入れて煮る料理法だった。店の経営は、いっさいを“2号さん”の岡本まさ(のち正妻)に任せている。そのときの様子を、1969年(昭和44)に学藝書林から出版された『ドキュメント日本人第9巻/虚人列伝』収録の、小沢信男『いろは大王・荘平』から引用してみよう。
  
 明治十一年、上京して新事業にとりかかった荘平は、さっそく三田四国町の一角に牛鍋屋をひらき、ツレアイの岡本まさに経営させた。どうせ四辺は原っぱ、屠殺場の従業員やマッチ工場の職人相手の掘立小屋みたいな小食堂だった。屋号を「いろは」と名づけた。いろはは手習い学問のはじまり、初心忘るべからず。新天地で新事業に立ちむかう荘平の、率直な決意がしのばれる。/それから二十余年、「いろは」は東京中はおろか日本中にも知られるような大店になるのだ。やはり荘平の最も成功した事業といわねばなるまい。
  
 木村荘平が死去したとき、いろは牛肉店は東京で20店舗を数えるまでになっていた。牛鍋店が流行るとともに、木村荘平には大金が転がりこみ、やがて生来の女好きから愛人を次々につくることになった。だが、彼には愛人を妾宅に囲って遊ばせておくという発想がなく、次々とできる愛人にいろは牛肉店の支店を任せていくことになる。つまり、「自分の食い扶持は自分で稼いでよね」という、まことに都合のよい“経営方針”を打ちだしていた。
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 彼の死後、1908年(明治41)現在で3人の妹や愛人たちに経営を任せ、営業していた店は以下のとおりだ。すでに5店舗がつぶれるか、人手にわたっていたのがわかる。
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 この中で、第八いろは牛肉店が木村荘八が生まれた日本橋吉川町の店舗だ。同店の経営は、三田で知りあった当時はまだ16歳の鈴木という女性が切り盛りしている。第八いろは牛肉店の開店当時は、いまだハイティーンの年齢だったろう。木村荘八は、彼女の二男として生まれた。長男が木村荘太なのに、なぜ二男が「荘八」なのかというと、彼は木村荘平の正妻や愛人の間でできた子どもたちのうち、8番目に生まれた男の子だからだ。父親が死去したとき、木村荘八はまだ14歳の中学生だった。
 ところで、落合地域からいろは牛肉店の牛鍋が食べたいと思ったら、明治末では牛込通寺町(現・神楽坂6丁目の一部)の第十八いろは牛肉店が、最寄りの店ということになる。落合地域から、街道筋である現在の早稲田通りをそのまま神楽坂方面へ歩けば、3.5~4.0kmほどで同店に到着できる。たとえば、目白駅や高田馬場駅あたりからだと、当時の未整備な道筋を考慮しても、およそ歩いて40~50分前後で店の暖簾をくぐれただろう。
 余談だけれど、わたしの学生時代まで神楽坂には、いくつかの古い牛鍋屋が営業をつづけていた。座敷の2階に上がると、窓の手すり越しに神楽坂の毘沙門横丁を眺めながら牛鍋をつつくことができた。牛鍋は、すき焼きとは異なり出汁を先に張るので、薬研(やげん=七色唐辛子Click!)や山椒をかけて食べることが多かったが、中でも毘沙門天(善國寺)の南隣りにあった「牛もん」が安くて気どらず、古い建物で風情もあり好きだった。
 さて、第十八いろは牛肉店は木村荘平の愛人が経営していたか、あるいは子どもがいたのかは不明だが、つごう30人にものぼる彼の子どもたちの構成は以下のとおりだ。
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 実に男子13人・女子17人で、このうち生まれてまもなく早逝した子どもを除くと、男子11人・女子10人の息子や娘たちがいたことになる。
 木村荘平は、妻や愛人たち、それに子どもたちを養うために次々と事業を起こしていった。三田で屠畜場を経営していたのは先に触れたが、その東京家畜市場の社長をはじめ、東京諸畜売肉商(食肉店)組合の頭取、東京博善会社(火葬場)の社長、東京本芝浦礦泉会社の社長、日本麦酒醸造会社(現・ヱビスビール)の社長などなどを兼業し、はては東京商会議所議員、日本商家同志会顧問、東京市会議員、東京府会議員などまでつとめている。この中で、現在も事業が社名そのままで存続しているのは、東京に7ヶ所の斎場を運営している博善社のみだ。もちろん、上落合の落合斎場Click!も同社の経営となっている。
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 木村荘八は、父・荘平のことを「興味が湧かず、親愛感を起さない」、「『滑稽』で『ヘンてこ』で大べらぼうClick!」(『続現代風俗帖』)と書いているが、彼が17歳になり兄の荘太が結婚すると、第八いろは店は兄夫婦が経営することになり、荘八と母親は浅草東仲町(浅草広小路)にある第十いろは店を任されることになった。
 そこには、1890年(明治23)に21歳で別荘地Click!大磯Click!に没した長女の木村栄子(曙)が住んでいた店であり、中学生の木村荘八は彼女のいた部屋をあてがわれている。そして、23歳もちがう一面識もない姉の使っていた机も、そのまま彼が受け継いだ。1953年(昭和28)に東峰書房から出版された、木村荘八『続現代風俗帖』から引用してみよう。
  
 机には曳出しが二つあると云つたが、見ると、その一方はカラで、向つて右の方だけに厚さ一寸程の黒のクロース表紙のノートと、いはゆる「唐ちりめん」のやうな小切れを菊形にはいでふつくらと綿を入れて作つた古びた肘突き(さしわたし四五寸)。この二品と、曳出しの奥に、一つまみ程、紫紺色の毛糸屑がつくねてあつた。(中略) 曙さんは手細工に奇用(ママ)だつたと伝へられたから、勿論肘突きは曙さんの手製であつたらうし、毛糸は手編みものの残りでもあらう。ノートは小説の原稿の書いてあるものだつた。/僕は僕のモノにしてから、机はよごしたし、曳出しの中は乱雑にしたけれども、三つの品物はいつも「尊敬」と「愛情」を持つて丁寧にしてゐた。毛糸屑の入れ場には困りながら、いつも別にその辺へつまんで入れておいた、その手触りも、今懐しく思ひ返すことが出来る。
  
 木村曙は、1889年(明治23)に読売新聞へ連載小説『婦女の鑑』を連載したのをはじめ、次々に新聞各紙へ連載作品を執筆するなど、明治以降に出現した女性作家の第1号だった。その活動は、同じ歳の樋口一葉Click!よりも5~6年ほど早い。
 彼女は、東京高等女学校(現・お茶の水大学付属高等学校)を出ると、フランス語と英語に堪能なため、文部省からフランス留学を命じられた女性の随行員としてヨーロッパへ留学しようとしたが、父親の荘平に反対され、浅草広小路の第十いろは店の帳簿係に就いている。その仕事の合い間に、のちに荘八が使う書机で次々と作品を執筆していたのだろう。
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 木村荘八がもの心つくころ、すでに死去した木村栄子は「曙さん」と呼ばれ偶像化されており、木村一族(おもに女性)から尊敬されていた。だが、伝説的な存在ではあっても、彼には姉としての情が湧かず、あくまでも高名な女性作家として「曙さん」を眺めている。

◆写真上:日本橋吉川町にあった、木村荘八が描く記憶画『第八いろは牛肉店』。
◆写真中上上左は、晩年の木村荘平。上右は、明治前期に撮影の左から右へ「現代ひさ子夫人・木村荘平・先代まさ子夫人」のキャプション。1908年(明治41)出版の松永敏太郎『木村荘平君伝』(錦蘭社)の掲載写真で、早い話が「愛人ひさ子・荘平・正妻まさ子」ということだ。は、木村荘八が描いた記憶画で三田四国町の『第一いろは牛肉店』。は、同町の木村荘平邸(芝浜館)に集合し木村夫妻と愛人たち(孫含む)の記念写真。
◆写真中下は、第八いろは牛肉店を描いた木村荘八の記憶画『牛肉店帳場』(1932年)。は、木村荘八の記憶画で長男の結婚で吉川町から引っ越した浅草広小路の『第十いろは牛肉店』。建物1階に、「曙女史室」の吹き出しがみえる。は、同店の居間を描いた記憶画だろうか木村荘八『室内婦女』(1929年)。新聞を読む母親と、遊びにきた近所の少女と外出するのか髪を結いなおす妹(士女)を描いているのかもしれない。
◆写真下は、前出の『木村荘平君伝』に掲載された第八いろは牛肉店の写真だが暗くてよくわからない。中上は、木村一族の長女で明治最初期の小説家だった木村曙(栄子/)と木村荘八()。中下は、浅草の第十いろは店で木村荘八が受け継いだ木村曙の書机。は、1912年(大正元)ごろに撮影されたフュウザン会の木村荘八(右)と岸田劉生(左下)。

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「どこを切っても金太郎」的な昔話の世界。 [気になるエトセトラ]

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 またまたキャプションがなく、記憶にもない山の写真が出てきた。今度はアルバムに貼付されず、ネガとともに袋に入ったままのカラー写真だ。わたしが大きくなった小学生3~4年の姿なので、カラーフィルムが普及したころのものだろう。
 山の斜面から、すでに冠雪した大きな富士山がとらえられており、その富士の容姿から神奈川県西部の山か、静岡県東部の山から眺めたものだとわかる。家族が登っている山はそれほど高くはなく、写真を次々にめくると登山道がわりの涸れ沢や、根府川石らしい石仏(江戸期)が写っている。家族が山道をゆく写真を見ていくうちに、社(やしろ)の写真が出てきた。拝殿本殿の背後に、大きな山を背負っているので“ご神体”は背後の山岳そのものか、そこにあるなんらかの記念物だろうと想定して、しばらくプリントをめくるうちに「まさかり(鉞)」が岩に添えられているので、ようやく気がついた。
 これらの写真は、足柄下郡の箱根町にある金時(公時)社と、奥の院がある裏山ではないだろうか。金時社は、その北側の約8kmほどのところに位置する、静岡県小山町の不老山南峰の山麓にも同名で建立されていてまぎらわしいが、社の背後に見える冬枯れした山のかたちが、明らかに箱根外輪山の金時山なので神奈川県側だと規定することができる。
 写真の後半では、矢倉沢峠近くにある同社の奥の院や、金時手鞠石と金時宿り石とみられる風景も記録されている。これらの巨石や巨岩が、「金太郎」が祭神として奉られる以前、山麓にある金時社の本来の主柱(祭神)であり、おおもとの信仰は縄文時代からつづくとされる、巨岩・巨石信仰の聖域だったのではないだろうか。金時と結びつけられたのは、金太郎伝説がちまたで知られるようになった、中世以降の付会によるものだろう。
 場所が不明だった前回の山岳写真Click!は、金時山を登山する小学校低学年のわたしがとらえられていたけれど、それから数年ののち、今度は金時山の山麓(南側)にある金時社とその裏山に登っていたことが判明した。この写真の情景も、わたしはまったく記憶に残っていないが、親たちが繰り返しわたしを連れて金時山とその周辺域を訪れているところをみると、ことさら「♪ま~さかりか~ついで金太郎~」の「♪あ~しがらや~まのやまおくで~」界隈が気に入っていたものだろうか。w
 余談だけれど、子どものころに東京の街を歩いていて飴屋を見つけると、親父がよく金太郎飴を買ってくれた。家へ土産として買ってくる中にも、何度か金太郎飴が混じっていたように思う。口に含んでも特にそれほど感動はせず、砂糖の味しかしないただ甘いだけの昔ながらの飴なのだが、親父にとっては子どものころの懐かしい菓子のひとつだったのだろう。江戸東京では、明治以降にできた新しい飴菓子だが、「どこを切っても金太郎」という親父の言葉とともによく憶えている。同時に、「なにを演っても池辺良」という親父の口グセは、この「どこを切っても金太郎」から派生した慣用句なのだろう。w
 さて、この足柄にいた暴れん坊で力もちの、破天荒な金太郎が京に進出して坂田公時になった……などという伝説は、中世以降のできの悪い付会ではないだろうか。(説話の成立は1200年以降の鎌倉時代) 確かに金太郎の怪童伝説は、足柄とその周辺域に現代までエンエンと口承伝承されてきてはいるが、藤原時代に源頼光に見いだされ彼の四天王のひとりとなって「鬼」の酒呑童子を退治する……なんて説話は、物語の語り部がちまたに登場する中世以降の“説話”あるいは“講談”の類であって、足柄の金太郎と坂田公時は生まれ育った地域も異なるまったくの別人ではないかと思っている。
 坂田公時とは、京近くの坂田郡(滋賀県長浜市)にいた「公時(金時)」という人物ではないだろうか。そもそも金太郎の容姿自体が、朝廷と対峙する「大江山」の酒呑童子と同様に、「足柄山」のまつろわぬ坂東の「鬼」のような、ダイナミックな姿をしているではないか。
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 足柄の金太郎については、もうひとつ面白い伝説が残っている。すなわち、金太郎が深く信仰していたのは、クニノトコタチにはじまる日本古来の7天神のうち、6番目に位置する日本列島の自然創造神である「大六天(第六天)」神Click!だったことだ。
 東日本には、中でも富士の裾野やその周辺域には、古来から数多く奉られた大六天(第六天)の社Click!だが、そんな日本古来の信仰をもつ金太郎が、同じく大六天(第六天)Click!の女神カシコネとオモダルを信仰して昔からヤマトと対峙する、丹波や丹後つづきの大江山にいる酒呑童子を攻撃するなど、不自然きわまりない筋立てとして映る。ましてや、ヤマトがアマテラスを担ぎだし、当時は創立数百年にすぎない新興宗教だった伊勢社を、坂東の足柄にいた金太郎が許容するとも信仰するとも思えないのだ。
 足柄の地に伝承された金太郎伝説が、どこかの時代に大きく歪曲され、無理やり源頼光の四天王伝説と結びつけられたのではないだろうか。あるいは、そのような伝説を創造することで、なにかと朝廷と対峙・対立し、まつろわぬ気味の坂東を手なずけるための、慰撫工作(帰属=まつろわせる物語)だったのかもしれない。藤原時代は、特にその後期から常に武者(つわもの)=侍(さむらい)の進出に、朝廷や公家が戦々兢々としてすごした時代であり、その強大な勢力の中心地は古墳期からすでに鋭く対立(上毛野・南武蔵連合vs北武蔵)していた、原日本色の強い坂東(関東地方)なのは明らかだった。
 少し横道へそれるが、先日、民俗学系の動画を見ていたら「桃太郎伝説」に触れ、番組では「鬼がかわいそう」という結論だったのが面白かった。「鬼」が、せっせと生産努力してようやく貯めたのかもしれない財宝をたくさん所持しているから、家来を集めて「鬼」が住む島を勝手に攻撃して侵略し、それらの財宝を強盗し簒奪する桃太郎は、もう極悪非道でムチャクチャひどい侵略者だ……というのが番組のオチだった。w これは、平安期を舞台にした説話「一寸法師」も同様だが、まったくそのとおりだと思う。
 これらの物語には、後世になると「鬼」が「里人を苦しめた」からという、免罪符のような一文がマクラとして付け加えられるようになる。だが、本来の伝説は『日本書紀』の「景行天皇条」に見られるのとまったく同様に、北陸地方や関東地方は「土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし(土地が肥沃で収穫量も多く広大なので、侵略して盗ってしまえ)」という天皇の命令と同一の発想から生まれているのだろう。こうして、古墳期以来とみられる「丹」地方(出雲王朝の同盟国だったといわれている)や「越」地方(翡翠の女王ヌナカワの国)、そして坂東地方との対立は陰に日に深まっていったように思える。
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 これらは架空の物語らしく伝承されてはいるけれど、先の酒呑童子伝説の丹波・丹後や、同じく岡山(出雲勢力の東端?)あたりの桃太郎伝説には、ヤマトへの帰属を拒否する原日本勢力による、なんらかの史的な背景があって誕生した説話の臭いがプンプンしている。もちろん、そのおおもとには記紀に描かれた近畿地方の「土蜘蛛(ツチグモ)」や「国栖(クズ)」の退治伝説をはじめ、史的根拠が希薄な「ヤマトタケル神話」(征伐伝説)が、これら昔話の規範として横たわっているのだろう。
 さて、足柄伝説の金太郎は、明らかに山岳の民であって農業を生業(なりわい)とする平野部の定住民とは異なっている。中には「山姥(やまんば)」の息子だという説もあるが、どうだろうか? 「山姥」という呼称自体が、山岳民の女性につけられた蔑称のように聞こえるのは、農業を営み自分たちとは異なる生活をしている、農民から見た山岳地帯にいる異業種の人々を「テンバ(転場)」や「サンカ(山窩)」、「ミブチ(箕打ち)」Click!「ヒョットコ(火男)」Click!などと呼んで蔑んだのと、同質の眼差しを感じるのだ。
 だから、そのような“得体の知れない”山の民の中に、ことさらバカ力のある強靭かつ大きな肉体をもった、農地のある里では見たこともないような男児が出現し、それが里人たちに目撃されるようになったとすれば、すぐさまイエティ(雪男)のように脅威化し、実態以上の尾ヒレをつけて伝説化されただろう。今日では、「きんたろう」と発音される金太郎だが、古代から中世においては「金」=黄金(こがね)ではなく「かね」=鉄Click!を意味する名詞だから、本来は「かねたろう」と呼ばれていたのかもしれない。「太郎」はもちろん、「坂東太郎」というような呼称と同様に、「隋一のもの」「もっとも際だったもの」「最高のもの」というような意味あいだ。
 ひょっとすると、探鉱師(山師)Click!タタラの集団Click!、あるいは山にいた小鍛冶の工房(刀鍛冶から見たいわゆる蔑称「野鍛冶」Click!)で生まれたのかもしれない金太郎だが、金属にまつわる伝承が付随するのも、そのようなニュアンスを色濃く感じさせる。すなわち、金太郎は砂鉄を製錬した目白(鋼)Click!で鍛えたと思われる巨大なまさかり(鉞)をかついで山を徘徊していたのであり、武器ともなりうる強力な刃物の存在は、その背後に大鍛冶・小鍛冶Click!の仕事を強く連想させる。常にまさかり(鉞)を携帯し、力仕事が得意な金太郎は、山仕事をするかたわら鉞や鉈(なた)、鋸(のこ)などの刃物を鍛えていた山鍛冶の系譜だろうか。
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 金太郎にしろ桃太郎にしろ、また一寸法師にしろ、「鬼」がいるからむやみやたらに攻撃して退治しようというような、「どこを切っても金太郎」的で好戦的な昔話はそろそろ止揚して、先の面白かった動画のように、もう少し民俗学的なアプローチによる研究や解釈が強調されてもいい時代だろう。そういえば、太平洋戦争中に制作された戦時アニメ『桃太郎 海の神兵』(松竹/1944年)でも、対戦国は十把ひとからげに「鬼」とされていた。

◆写真上:富士の裾野までが間近に見わたせる、金時社の裏山にある山稜。
◆写真中上:親からもらった古いカメラで撮影したらしい、金時社の周辺に展開する風景。
◆写真中下は、1960年代半ばごろの金時社と背後に聳える金時山。は、かなり樹々が成長した金時社の現状。は、杉林につづく金時社の参道。
◆写真下は、金時社奥の院にある巨岩。当時は岩の上に祠が建ち鉞が置かれていたが、現在は存在しないようだ。は、金時社奥の院のさらに山奥に置かれた金時宿り石の裂け目。は、金時宿り石の現状と昭和初期の制作と見られる観光絵はがき。近年は『鬼滅の刃』の「一刀石」に見立てられ、アニメの聖地として観光スポットになっているらしい。

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下落合の輸入する人、輸出する人。 [気になる下落合]

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 国立公文書館の史料を漁っていると、ときどき興味深い案件に出くわすことがある。海外から日本へモノを輸入する人や、逆に国内から海外へモノを輸出しようとしている人が、当該の役所へさまざまな課題で申し入れや問い合わせをしている文書だ。
 下落合1639番地の第二文化村Click!に住んだ吉田良継という人は、「満洲」の安東県にあった国営「鴨緑江採木公司」に勤めていたが、もともとは外務省の官僚で同省から鴨緑江採木公司へ出向していたのだろう。1931年(昭和6)1月7日、正月が終わってすぐに古巣の外務省を訪ねている。「採木公司」とは、森林から材木を伐りだす製材業者だが、鴨緑江採木公司は日本と中華民国の両政府が共同出資して設立された合弁企業だった。
 鴨緑江採木公司は、「満洲」の鴨緑江流域で伐りだした材木を原木のまま、あるいは製材して各地へ輸送(輸出)する業務を行っており、外務省から派遣された吉田良継はそこで1930年(昭和5)ごろまで「渡支課長」をしていた。おそらく、外務省を訪れた当時の彼は、材木を日本へ輸入する同公司の東京支社勤務になっていたか、あるいは長期出張で帰国し目白文化村の自邸にいたとみられる。なぜなら、彼が外務省に残していった名刺には、「満洲」ではなく日本の住所が印刷されていたからだ。
 当時、「満洲」の河川流域に拡がる膨大な森林資源は、中華民国と日本(植民地化していた朝鮮含む)ともに建築資材としての需要が高く、また両国の製紙工業においても需要がうなぎ上りに急増していた。したがって、製材業者の「満洲」進出が盛んとなり、中華民国からも日本からも、数多くの企業が現地で採木会社を設立している。日本からは、三井財閥や大倉財閥Click!、南満洲鉄道、王子製紙など大小さまざまな企業が進出し、伐採権を得た決められたエリアでの採木と植林を行っている。
 鴨緑江採木公司の吉田良継が外務省を訪れた用件は、中華民国側が同公司へもう一度厳密な測量のやり直しをする旨を伝えてきているが、日本側から改めて測量チームを派遣して立ちあわせる必要はなく、鴨緑江採木公司側で対応するから任せてほしいというような内容だった。1931年(昭和6)1月7日に起草された稟議書から、その概要を引用してみよう。
  
 採木公司帽児山分局管内伝採区域外採伐ニ関スル件/本件ニ関シ客年十二月十九日附機密第五一三号 今般採木公司両理事長ニ於テヲ以テ 御禀申ノ趣了承採伐協定ニ依ル測量協定産点測量ノ際 実施ニ付キ政府ヨリ正式委員派遣ノ義ハ見合ス意合ス意嚮ナリニ付 同公司ニ於テ適宜取運アル様伝達方可能御取計相成度此段回答中進ス
  
 この文面では、両国で測量した樹木の伐採協定による境界につき、政府より正式な測量委員を派遣する必要はないというような趣旨だが、吉田良継は口頭で「満洲」鴨緑江における課題を、外務省の担当者に詳しく話しているとみられ、翌1月8日に手描きではなく和文タイプで作成された稟議書ではかなり詳細な内容となっている。
 それによると、中華民国側が改めて測量を申し出ているのは、鴨緑江採木公司を同国と日本の合弁会社から中華民国の傘下に収めるための布石ではなく、先年に議決された森林保護政策の一環だとして、日本から改めて委員を派遣する「実地測量」(立ち会い)は不要としている。また、当初に両国が取り決めた採木境界線を越えて伐採しているのは、同公司側も中華民国側の採木業者も同様なのが判明しており、中華民国側による再測量は両者の越境採木を防止するにはちょうどいい機会だと考えていたようだ。
 同時に、公司側が越境伐採した際は、中華民国側へ採木ぶんの税金を改めて納めており、同国と公司の関係が悪化したことはないとしている。そして、中華民国側の測量には1週間ほどかかると報告しており、この間の測量による境界規定その他の実務は、鴨緑江採木公司のわれわれ現地スタッフに任せてほしいとしている。
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 吉田良継が、外務省にこのような稟議書を提出したおかげで、当時の「満洲」における採木業者別の木材の生産量や地域別輸出量、投下資本量、従業員数、木材種類など、詳細な林業統計「木材ニ関スル統計」(1931年1月)が添付されることになり、いまとなっては貴重な史料となっている。それによれば、鴨緑江採木公司は本社が安東(現・安東省)にあり、1908年(明治41)に両国の共同出資で設立されている。1931年(昭和6)の時点で資本金は300万円で、おもに鴨緑江の右岸を採木地域としており、森林の育成と採木、材木の輸出をおもな業務としていたことがわかる。
 1929年(昭和4)時点で、安東地域における木材は紅松や杉松、落葉松、その他が採木されており、合計18万4,824石の生産量だった。材木単位の「石」は、1尺(30.3cm)×1尺×1丈(10尺)の立方体のことで、1石=0.27m3ということになり、鴨緑江流域を含む安藤地域では年間約50,000m3の木材が生産されていたことになる。地元「満洲」での消費はもちろん、輸出(輸入)先は日本や中華民国、朝鮮などがあり、1929年(昭和4)現在でもっとも輸入が多かったのは中華民国だった。
 さて、上記は昭和初期に日中合弁会社の生産品(木材)を日本へ輸入する事例だが、今度は輸出するケースを見てみよう。目白文化村の北側、下落合1500番地すなわち落合第一府営住宅Click!18号に住んでいた大里雄吉という人は、1928年(昭和3)に日本の古い貨幣や刀剣、書画骨董、標本類を海外へ輸出する事業を起ち上げようとしていた。
 ちなみに、大里雄吉邸は下落合1501番地に住んだ土屋文明Click!邸の2軒東隣りの家だ。1928年(昭和3)1月27日に、外務省へ問い合わせた文書の一部を引用してみよう。
  
 謹啓 公務御繁忙の析柄甚た恐縮なの次第に候ヘでも左記の要件に関し、御示教を仰ぎ度此段奉懇願候/二伸、参銭郵券一葉同封申上候 拝具/一、通用を廃止せられたの古代金銀貨、金銀製品、並ニ古代刀剣類の輸出は、可能に候哉。若し手続を要するとせば、その手続の詳細。/ 二、北米合衆国に於ては、距今五十年以上の古物は、無税にて入国を許可する由に候ヘども、果して事実に候哉。若し事実とすれば距今五十年以上の古物を内容とする荷物の送達にあたり、通関に必要なる心得。/三、我国に於て、国外撤出を禁制せる品目の詳細。/北米合衆国、英蘭、愛蘭、豪洲、印度、加奈太の税関の本邦輸出品(書画骨董品、博物学上の標本)に対する課税方法と、該国に於ける輸入禁制品目。/以上
  
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 これを受けとった外務省の担当者は、「手間のかかることを……。同業者に取材して、自分で調べればわかることなのに」と、まずは思っただろう。でも、納税者からの問い合わせなのでシカトして回答しないわけにはいかず、同年2月14日に「書画骨董博物標本通関等ニ関スル各国取扱振ニ関スル件」として回答している。
 それによれば、古い金銀貨幣や刀剣類(書画骨董など)の輸出に関する手続きは、外務省ではなく大蔵省に訊いてくれという回答だった。また、米国は100年以上の古物に関しては無税だと思うが、詳しくは米国の大蔵省(財務省)に問い合わせしてほしいし、海外への輸出を禁止されている品目については大蔵省に訊いてくれと回答している。
 また、米国は学術的あるいは公共的な目的をもって輸入される書画骨董には20%課税で、イギリス・オランダ・アイルランドは無税、オーストラリアは学術的あるいは公共的な目的をもつ書画骨董は無税だが、それ以外の営利目的の同品輸入は20%課税、インドは学術的あるいは公共的な目的をもって輸入される書画骨董には15%課税だが、博物標本に関しては無税、カナダは書画骨董や博物標本に関しては基本的に無税だが、営利目的の書画骨董の輸入に関しては17.5%課税、また特に絵画(油彩画・水彩画・パステル画)には価格の22.5%課税……などなどと回答している。
 ところが、大里雄吉はこの回答に納得できず、また大蔵省へ問い合わせようとはせずに、米国では100年以上たった美術品に関しては無税ということで、その詳細については米国大蔵省(財務省)に確認してくれとのことだが、その規則や手続きについてもっと詳しく教えてくれと、同年2月20日に再度外務省へ問い合わせをしている。同時に、上掲各国の関税法規についての詳細をもっと解説してくれとの要望を添えた。
 これに対し、外務省では「そんなこと、うちに訊かれても困るしわからないから、米国領事館に訊いてよね」と回答している。確かに日本の外務省が、米国の税関に関する最新の各種手続きや関税の詳細情報について把握しているとは思えないので、これは無茶な要求だろう。また、各国の関税法規については回答しておらず、「そんなの同業者に取材するか、図書館か本屋さんにいって自分で調べてよ」と、ノド元まで出かかったかもしれないが、それではケンカになるのであえて触れなかったのかもしれない。
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 下落合の大里雄吉という人は、100年以上前の骨董品に関する情報にこだわっているので、おそらく慶長期以降の大判小判や分銀、または江戸期以前も含む刀剣類を輸出しようとしていたのかもしれない。だが、どう考えても問い合わせをする先は外務省ではなく、輸出先を予定している各国の領事館だと思うのだが、彼は外務省にこだわりつづけている。

◆写真上:大里雄吉が海外輸出を計画したらしい、江戸期の貨幣と刀剣。金の含有量が約84%といわれる慶長小判と、長曾根興里入道虎徹Click!の鋩(きっさき)。
◆写真中上上左は、目白文化村の吉田良継が1931年(昭和6)1月7日に外務省を訪れて具申した稟議書類。上右は、訪れた際に残した吉田良継の名刺。中上は、上記の申入書を吉田良継の詳細な説明を含め正式にタイピングしたもの。中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合1639番地界隈。吉田家はすでに転居したのか、同地番には「佐藤」と「松田」のネームが採取されている。は、吉田邸跡の現状。
◆写真中下は、吉田良継関連の稟議書類に添付された1931年(昭和6)1月に関東庁殖産課が作成した「木材ニ関スル統計」の一部。は、第一府営住宅の大里雄吉が外務省に問い合わせた書画骨董などの輸出に関する手続きや課税についての手紙。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合1500番地(第一府営住宅内)の大里雄吉邸。は、同住所にあった大里邸跡(左手前)。は、2枚とも外務省が作成した「あ~、もう、やんなっちゃった」感がにじみ出ている手書き回答書案。

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上落合に住んだ「種蒔く人」の今野賢三。 [気になる下落合]

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 東京と故郷の間を、これほどせわしなく往来した人物はあまり知らない。だからか、上落合時代も含め今野賢三の軌跡は、ぼんやりと霞んでハッキリしない。1931年(昭和6)ごろから、今野賢三Click!は上落合502番地に住んでいたが、同地番に住んでいた小川信一(大河内信威)Click!蔵原惟人Click!立野信之Click!ほどに地元での印象が強くないのだ。むしろ、東京よりも故郷・秋田での印象のほうが圧倒的に強いのではないだろうか。そういえば、昭和初期の上落合502番地には国際文化研究所Click!も創設されていた。
 今野賢三が、秋田で呉服店の丁稚や新聞売り、鉄道工場の職工、洗濯屋の店員、郵便局などに勤め、やがて活動弁士Click!の仕事をするようになったのは大正初期のころだ。1915年(大正4)に東京へやってきて、本郷区駒込にあった駒込館の活動弁士になっている。同時に、このころから故郷の秋田魁新報や雑誌「成長」に小説や短歌、評論などを書きはじめている。だが、当時の彼は強い思想性とは無縁だったようで、1917年(大正6)には秋田で書いた小説『をののき』が風俗紊乱罪に問われて検挙されている。
 1919年(大正8)になると、のちに雑誌「種蒔く人」をともに発刊することになる、本郷区谷中に下宿していた金子洋文と同居している。ここで労働新聞編集部に勤務するが、すぐに退社して秋田へもどっている。1921年(大正10)になると、秋田で近江谷友治(小牧近江の叔父)から「種蒔く人」(種蒔き社)の同人に誘われて参加し、同年の2月に土崎版(秋田版)の「種蒔く人」創刊号を刊行。だが、3月号と4月号の3号が刊行されただけで、すぐに休刊している。つづいて、同年10月には東京で「種蒔く人」(東京版)を創刊し、今野賢三もそれにあわせて東京へともどることになる。
 「種蒔く人」に参加したころ、今野賢三はそれほど社会に対する強い問題意識はもっていなかったとみられる。作品が風俗紊乱で検挙されたように、彼は当時の芸術派的な作家をめざしていたと思われ、特に強く思想性や主張を前面に押しだした作品を残していない。このころの今野賢三について、1982年(昭和57)に無明舎から出版された佐々木久春・編/今野賢三・著『花塵録―「種蒔く人」今野賢三青春日記―』から引用してみよう。
  
 「種蒔く人」出発当時の今野賢三の社会主義について、彼は未だ関心が無かった、あるいは未熟であった、ということが言われる。日記をみても、弁士の生活のあい間に芸者を追いまわし、芸術の憧れに悶々としていて、思想など云々できないのではないかという人が居るかもしれない。それは当っている、しかしまちがっている。/人にとって思想とは、知的に了解することではあるまい。生活の傾向が血肉となっている、これが思想であろうと思う。だからこそ有島や太宰らが遂に共鳴できない体質の違いを感じプロレタリアートに別れを告げたのだろう。
  
 2歳のとき父親を病気で喪い、母親の手ひとつで育てられた今野賢三は、幼いころから丁稚奉公にでて辛酸をなめつくす生活を経験している。おそらく、若いころの宮地嘉六Click!大泉黒石Click!と同様に、苦労をしながら底辺に生きる「プロレタリアート」は、いつも彼のすぐ隣りにいただろう。だからこそ秋田で、そして東京で「種蒔く人」への参加を通じて急速に思想的な深化をとげ、そこに表現された思想へストンと「血肉」とともに当てはめることができたのではないかと思われる。
 1922年(大正11)になると、「種蒔く人」6月号から小牧近江に代わり、今野賢三は同誌の編集・発行・印刷の責任者を引き受けている。「種蒔く人」に参画してわずか1年半の間に、彼は劇的かつ貪欲に社会主義思想を吸収し、自身が依って立つ「血肉」の思想としていったのではないだろうか。同年の8月には、佐々木孝丸Click!らと劇団「表現座」を結成し、次いで秋田へと帰り有島武郎Click!秋田雨雀Click!を招いて各地を講演してまわっている。
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 このときから、今野賢三はまるでなにかに憑かれたように活動し、数多くの作品を執筆していく。そして、彼は若いころから師事していた有島武郎から徐々に離反している。関東大震災Click!が起きたとき、彼は31歳になっていた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 「種蒔く人」の編輯人・発行人・印刷人は大正十一年六月号以降、小牧から今野が引き継いだ。ますます社会主義文芸の方向へおもむく。それは師と仰ぐ有島武郎が苦悩したところであり、今野にとっては有島とのわかれとなるところでもあった。有島の作品「酒狂」に対する今野の感想に、有島は礼状を書いている。「酒狂」は有島の年譜において大正十二年一月となっているが、雑誌発売は前年十一年の十二月のようである。
  
 関東大震災の直前まで、今野賢三は有島武郎と交流していた様子がわかる。
 だが、1923年(大正12)9月の関東大震災による混乱のドサクサにまぎれ、アナキストや社会主義者が拉致・連行され虐殺される甘粕事件Click!や亀戸事件が発生し、近代ではまれにみる残虐な国家権力による犯罪が起きると、それを契機に労働運動や社会主義運動に対する弾圧が日々激しさを増していった。大震災の影響で、「種蒔く人」はやむなく休刊するが、それは印刷所が罹災して刊行できなくなったのと同時に、「種蒔く人」の方向性をめぐり同人たちの間で以前から対立が起きていたせいもあるだろう。
 1924年(大正13)になると、「種蒔く人」の実質的な終刊号となる「種蒔き雑記」が刊行される。この中で、同誌の中心となって活動していた小牧近江と金子洋文は、亀戸事件をめぐる経緯や記録に詳しく取材したルポルタージュを発表した。この作品は、初期プロレタリア文学運動における記録文学の記念碑とされているものだ。
 同年4月には、「種蒔く人」の再建会議が開かれるがどうしても意見が一致せず、ついに種蒔き社はそのまま解散することになった。そのかわり、同年6月には新たな文芸誌として「文芸戦線」を創刊することに決まった。同誌第2号(7月号)の表紙には、同人として今野賢三や金子洋文、中西伊之助Click!、武藤直治、村松正俊、柳瀬正夢Click!前田河広一郎Click!松本弘二Click!、小牧近江、佐野袈裟美、佐々木孝丸Click!青野季吉Click!平林初之輔Click!の13人の名前が印刷されている。
 「文芸戦線」創刊号で、青野季吉は種蒔き社の解散について、「樽蒔く人」の評論家・平林初之輔の発言をめぐる小牧近江と金子洋文、中西伊之助らとの対立に触れている。創刊号より、青野季吉『「文芸戦線」以前―「種蒔き社」解散前後』から少し引用してみよう。
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 震災中に起った社会的事実の手痛い経験は私たちにいろんなことを教えた。乃至はいろんなことを確かめさせた。そこで『種蒔き社』の同人中に無産階級解放運動の執る可き道に関して、意見の上で多少の距離が生じた。そこで旧『種蒔き社』の如き、行動の一単位としての意義をも持っていた団体は、その場合自ら不便なものとならざるを得なかった。文芸方面に於てはよし共同の戦線を張ることが出来ても、無産階級解放運動の他の方面では、特に主として行動に現われたる方面では、これまでの『種蒔き社』の行き方で一致することは困難となった。そこで行動の方面では各自が新境地に向って進み、共同の戦線を張るならば文芸方面に局限せねばならぬこととなった。そこで行動の一単位としても意義を持っていた『種蒔き社』という群(グループ)を解体しなければならぬこととなった。
  ▲
 青野季吉は、「種蒔く人」同人の対立から距離を置いていたので、一連の動きを総括した文章が書けたのだろう。翌年、「文芸戦線」の同人を中心に日本プロレタリア文芸連盟が結成されている。これら一連の動きの中で、「種蒔く人」の編集・発行・印刷の責任者だった、かんじんの今野賢三の姿や動向がぼんやりとして見えにくい。
 この間、彼は膨大な作品を発表しつづけており、生涯でもっとも執筆活動が盛んだった多作期とも重なる。また、「文芸戦線」が発刊されるとともに、彼は再び東京と秋田を頻繁に往復し、大山郁夫の講演会や労農党秋田支部結成に奔走している。そして、秋田で小作農を組織化して農民運動を展開するなど、どちらかといえば東京での「理論」や「議論」よりも故郷の現場での「実践」へ、理屈をこねまわすよりも目の前で困難な課題に直面している人々をどうするのかへ、ことさら注力していたフシが見える。
 その後、日本プロレタリア文芸連盟内の対立から労農芸術家連盟の結成時においても、今野賢三は主導的な位置にはおらず、仲間とともに行動をともにするといった感じが強い。彼は執筆するかたわら、無産大衆党の堺利彦Click!を秋田へ同行して講演会を開いたり、堺の東京市議会への立候補をサポートしたりした。そして、1930年(昭和5)に秋田で小作争議を指導して翌1931年(昭和6)に検挙され、4ヶ月にわたって拘留されている。今野賢三が上落合502番地へとやってくるのは、秋田で無罪判決を勝ちとり釈放されたあと間もない時期だった。この年、彼は秋田魁新報へ40回連載の新聞小説も執筆するなど、相変わらず創作意欲はきわめて旺盛だった。
 今野賢三が、上落合502番地の住居へいつまで住んでいたのか不明だが、この間、労農文化連盟→左翼芸術家連盟→労農芸術家連盟へと順に参加しているが、彼は「理論闘争」よりも創作活動に専念しており、1934年(昭和9)には小説や評論などとともに、秋田の故郷である『土崎発達史』を刊行している。このあと、思想弾圧で思うように執筆活動ができなくなってからも、『土崎港町史』(1941年)を出版するなど、終生にわたって生まれ故郷・秋田へのこだわりや愛着が強く感じられる。
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 上落合502番地の区画には、小川信一や蔵原惟人、立野信之らが住んでいることは先述したが、すぐ南隣りの上落合503番地には壺井繁治・壺井栄夫妻Click!が住み、南西隣りの上落合504番地には今野大力Click!が家族とともに暮らしていた。ちょうど今野賢三が上落合に住みはじめたころ、特高の拷問とその後のいい加減な治療で重体に陥った今野大力とその家族が、上落合503番地の壺井邸Click!に身を寄せ静養していたはずだ。また、南側の道路をはさんだ上落合506番地には、時代は異なるが一時期は神近市子Click!も住んでいる。

◆写真上:プロレタリア文学運動の嚆矢とされる「種蒔く人」だが、一連の組織あるいは運動の方向性をめぐる対立やゴタゴタでは印象が薄い今野賢三。
◆写真中上は、「種蒔く人」の中心メンバーで左から今野賢三、金子洋文、小牧近江(AI着色)。は、秋田市立図書館のシンボル「種蒔く人」記念碑。下左は、1921年(大正10)刊行の「種蒔く人」創刊号(土崎版)。下右は、1982年(昭和57)出版の佐々木久春・編/今野賢三・著『花塵録―「種蒔く人」今野賢三青春日記―』(無明舎)。
◆写真中下上左は、秋田や東京を往復しながら活動弁士をしていた時代の今野賢三。上右は、1934年(昭和9)に撮影された労農芸術家連盟時代の今野賢三。は、1888年制作のゴッホ『種をまく人』だが文芸誌「種蒔く人」のシンボルとなったのはミレー作の画面のほうだ。下左は、1924年(大正13)6月に創刊された「文芸戦線」の7月号(2号)には表紙に同人13人の名が印刷されている。下右は、晩年に撮影された今野賢三。
◆写真下は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる上落合502番地。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。は、道路左手の奥が上落合502番地の現状。

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非戦・反戦で「国賊」と呼ばれた沖野岩三郎。 [気になる下落合]

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 現在のロシアでは、非戦・反戦を口にする人物は警察から執拗にマークされ、それがメディアをもつ報道領域であれば徹底的に弾圧されている。プーチンを批判する記者は次々に殺され、非戦・反戦の姿勢で報道するマスコミは沈黙するか、地下へもぐるか、国外へ脱出せざるをえなかった。日露戦争のころ、キリスト教をベースに非戦・反戦を唱えたトルストイの母国が、21世紀の今日にしてこのありさまだ。
 ちょうどトルストイと同時期、沖野岩三郎Click!はトルストイズムに共鳴して、和歌山県新宮で日露戦争の勃発に際し、キリスト教会の信者や仲間たちとともに非戦・反戦を積極的に唱えている。だが、露骨な官憲による弾圧や嫌がらせ、町民たちからの憎悪をむき出しにした罵倒や非難、戦争へ賛同するように周囲から迫る言わず語らずの“同調圧力”などで故郷にいたたまれなくなり、1904年(明治37)に東京へ“脱出”している。彼が非戦・反戦を唱えるようになった原因は、教師の時代にまでさかのぼる。
 沖野岩三郎は1896年(明治29)、和歌山師範学校を卒業すると最初は県下で小学校の教師になっている。1900年(明治33)には、生まれ故郷の日高郡寒川(そうかわ)にもどり寒川小学校の校長へ就任している。その際、彼は生徒たちに向けて「日清戦争義戦論」を教えてしまっていた。彼はかつての教え子から、「私共に歴史を教へて下さる時、日清戦争は弱い朝鮮を助けて独立させる為めに起した正義の軍であると申された」と詰問された。沖野岩三郎は言葉に詰まって沈黙し、強い衝撃を受けている。
 実際は、朝鮮を独立させるどころか日本の植民地化をより徹底して促進し、日本が中国大陸にまで利権を拡大するための足場=橋頭保を築いた戦争だったからだ。同様に教え子から日露戦争について、「露国が朝鮮の背後から、彼の弱い国を奪ひに来るから、矢張り朝鮮の為めに其の弱きを扶けて独立せしむる為めに起した戦争だ」といわれ、なぜ日清戦争が勃発したとき教師だった彼はそのようなウソを教えたのか、教え子の顔を見つめたままひと言も返せず愕然とするしかなかった。
 当時の日本が、戦争を起こすたびに繰り返される「強国から弱国を救うため」「列強から弱国を独立させるため」「列強からアジアの植民地を解放するため」という「義戦論」は、1945年(昭和20)に大日本帝国が破産・滅亡するまで繰り返される。日清戦争では、「討てや懲せや支那兵を、支那は御国の仇なるぞ」と子どもたちが唄ったのが、「討てや懲せや露西亜兵を、露西亜は御国の仇なるぞ」へ単に入れ替わっただけだった。
 日本が、その「強国」や「欧米列強」となんら変わりのなない、植民地および利権を拡大するため19世紀型の帝国主義戦争をなぞっていることに、沖野岩三郎は1902年(明治35)にハル夫人とともに和歌山教会で受洗し、翌1903年(明治36)に教師を辞めるころには、教え子の言葉を突きつけられるとともに早くも気づいていた。日中戦争さらには太平洋戦争の敗戦後、教師たちが戦意高揚Click!と戦争賛美の教育をほどこし、教え子たちを侵略戦争へ送りだしていたことに気づいたのとまったく同じ経緯だ。
 このような情況の中、キリスト教会の活動を通じて非戦・反戦を訴えていく行脚は、周囲からの徹底した弾圧や迫害に遭うことになる。2008年(平成20)に書斎屋から出版された、関根進『大逆事件異聞-大正霊戦記・沖野岩三郎伝』から少し引用してみよう。
  
 日々、激しく非戦・反戦の辻説法を繰り返したために、「ロシアのスパイじゃ」「国賊!」「非国民め」と罵られて、とうとう教会にも居づらくなり、こんどは仲間に先立って東京の神学校に入学を決意する。/「夫れと同時に、私の文学思想は、露伴、紅葉を離れて、トルストイやゴーリキに進んだ。遂に洗礼を受けると同時にトルストイの非戦論が激烈に私の心を支配するやうになった。そして日露戦争の眞最中に私は激烈な非戦論を抱いて上京した」(「生を賭して」)/(中略) 岩三郎は上京して明治学院神学部に、ハルは女性伝道師を養成する米人宣教師ウェスト夫人の経営する私塾・聖書学館に入学するわけだが、東京遊学といった悠長な話ではなく、実際は地元からの批判を逃れるための脱出行に近かった。
  
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 その後、1906年(明治39)に夏期伝道のため和歌山県の新宮を訪れた際、自身と同じような思想を語る大石誠之助やその仲間たちと出会うことになる。そして、明治学院を卒業するとともに、沖野岩三郎は望んで新宮教会の牧師として赴任することになった。このときから、彼と同じような想いや新しい思想をもつ新宮のキリスト教徒をはじめ医師、教師、僧侶、学生などと親しくなっていく。
 沖野は新宮で、一度だけ幸徳秋水に出会っている。秋水が「赤旗事件」に憤慨し故郷の高知から東京へ向かう途中、1908年(明治41)夏に大石誠之助邸へ滞在したときだ。その送別会は熊野川での舟遊びだったが、酒が飲めない下戸の彼も出席している。その席上で、沖野のトルストイズムと秋水のアナキズムは激しくぶつかり、送別会が激論の場になってしまったという。ふたりはおそらく折り合うことなく、そのまま物別れに終わっているのだろう。「大逆事件」が起きる2年ほど前のことだった。
 「大逆事件」の直後、その成りゆきへ敏感に反応した文学者に石川啄木Click!がいる。彼は裁判記録にまで目を通し、官憲の暴挙に激昂している。同書より、つづけて引用しよう。
  
 判決前後の日記には、「日本はもうダメだ」(明治44年1月18日)「社会主義は到底駄目である」(翌19日)と激し、秋水や大石らの処刑後、7千枚に及ぶ裁判書類を二晩かけてスバルの同人で弁護士の平出修の事務所で読み耽り、「頭の中を底から搔き乱された」と痛恨の思いを記している。/「明日を期待しつつも、社会的、個人的事情が暗く啄木をとりまき、その底辺に喘ぐもののニヒルな心境は、啄木に近代人の自覚が高かっただけ、如何ともしがたく」(秋山清Click!・著『啄木と私』)つきまとったのだろう。「我々青年を囲繞する空気は今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行きわたっている」(『時代閉塞の現状』)と、啄木が直覚したように、やがて、国家が個人の心魂の深奥まで支配するイビツな時代に突入する。
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 徳川幕府の封建制を倒し、入れ替わった政府に無理やり「資本主義革命」などと規定された明治維新が、実は軍閥・華族政権のタライまわしで、憲法や議会さえ20年以上も設定されることなく、本来の資本主義革命の政治思想とは無縁な、あるいはほとんど反映していない、徳川幕府に代わる単なる「強権の勢力」で「イビツな」国家であったことが、石川啄木のような高い「近代人の自覚」を、ようやく備えるようになった1945年(昭和20)の敗戦後、遅ればせながら「普く国内に行きわたっ」たというわけなのだろう。同書では、明治維新から敗戦までの政治支配を、まともな資本主義革命なら醸成されるはずの政治思想(民主主義・自由主義など)が存在しない、強力な「国権メスメリズム」と一貫して表現している。
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 「大逆事件」を追いかけていると、当時のおもなアナキストや社会主義者を一網打尽にする事件をデッチ上げ、彼らを死刑または無期懲役へと落としこむと同時に、思想を問わず彼らの周囲にいた非戦・反戦を唱える人々までも、あわよくば網にひっかけて葬り去ろうとしていた政府の思惑が透けて見える。新宮における被告たちの遺族や家族は、沖野自身も含め「国賊」「非国民」とののしられて迫害されるが、生き残った沖野岩三郎は彼らの救援活動に奔走している。今日、大石誠之助らが新宮市の名誉市民として称えられているのを見たら、彼はどのような感慨を抱くだろうか。
 沖野岩三郎Click!は、1920年(大正9)8月に牧師を辞任すると、堰を切ったような勢いで小説や評論、エッセイ、童話、旅行記、研究書などを書きはじめている。その膨大な著作物や書籍は、もちろん刑事たちの常時尾行や頻繁な家宅訪問をともなう「特別要観察人」の抑圧下、下落合1505番地(昭和初期には下落合1510番地/1932年から1965年まで下落合3丁目1507番地/現・中落合2丁目)で書かれたものが多い。
 沖野の小説については、徳冨蘆花Click!など一部の作家を除き、当時の「私小説」家が群れ集う文壇からは、さっそく賀川豊彦とともに「純文学」ではない「通俗小説」家、あるいは異端の「牧師小説」家の称号を贈呈されている。同書より、再び引用してみよう。
  
 辻橋三郎は『死線を越えて』の作家・賀川豊彦Click!とともに、日本では数少ない牧師文学者として沖野岩三郎を位置づけ、沖野独特の宿命観について「紙の力を信じつつ、人生の矛盾をそのまま肯定する」という「祈りのある運命観」と評しているが、沖野が数奇な体験から得た宿命観とは、教条的な神学や神秘的な悟りの境地、さらに、逃避的な諦観を否定したものである。(中略) イエスという一人の男の受難に倣うことによって自由を摑む――この執着心こそが宿命論者としての崇高な生き方だと考えた。(中略) 沖野岩三郎は、ベストセラー小説『死線を越えて』の作者・賀川豊彦と共に説教臭い牧師作家といわれ、(中略)文芸評論家からは「一風変わった」通俗作家と位置づけられたにすぎない。
  
 「私小説」作家の間からは、あからさまに「下手糞な説教作家だ」「虚無党奇談の講釈師だ」とさんざん非難されたが、死ぬまでペンを置くことはなかった。
 1936年(昭和11)に美術と趣味社から刊行された「書誌情報」は、執筆する作家たちにアンケートを送っている。当時は、番地が下落合3丁目1507番地に変わっていた沖野岩三郎は、趣味は空欄としたうえで、「和歌山縣にて小学教師。明治四十年明治学院神学部卒業。大正九年より文筆生活。著書――童話、小説、感想、旅行記、研究 合計五十一冊」と答えている。すでに、就業していたはずの教会牧師が経歴から除かれている。また、彼は趣味が「読書」とも書けないほど、執筆に集中・没頭していた時期なのかもしれない。
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 下落合では、第三文化村Click!(下落合3丁目1470番地 玉翠荘)に住んだ宮地嘉六Click!との間で、沖野岩三郎は面白いエピソードを残している。沖野邸と宮地邸は、直線距離でわずか160mほどしか離れていないので、当時は親しく交流していたようだ。お互い謹厳実直で、マジメを絵に描いたような性格だったせいか気が合ったのかもしれない。1941年(昭和16)に開催された竹久夢二Click!遺作展をめぐる逸話なのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1910年(明治43)3月に撮影された、「大逆事件」直前の新宮における記念写真。左からふたり目が浄土真宗大谷派の僧侶・高木顕明(死刑→無期懲役/獄中自殺)、中央が新宮教会の牧師・沖野岩三郎、右端が医師の大石誠之助(死刑)。僧侶・高木顕明もまた、現在は同宗派から僧籍復帰と名誉回復が行われている。
◆写真中上上左は、1899年(明治32) の寒川小学校の校長時代に撮影された沖野岩三郎。上右は、1905年(明治38)に撮影された沖野ハル。下左は、1926年(大正15)に出版された沖野岩三郎『宿命論者のことば』(福永書店)。下右は、1929年(昭和4)に出版された『現代長編小説全集21/賀川豊彦・沖野岩三郎篇』(新潮社)。
◆写真中下は、近代日本史料研究会(1959年)が保存していた警察資料「特別要観察人情勢一班第五」。「大逆事件」の遺族や家族を救援する沖野岩三郎の様子が克明に記録されているが、沖野のことは「思想頗ル険悪ニシテ基督教ヲ基礎トシ主義ノ普及ヲ図レル」などと書かれている。は、「大逆事件」で刑死した新宮の医師・大石誠之助。は、1917年(大正6)ごろに書かれた沖野岩三郎『宿命』の生原稿。
◆写真下上左は、1989年(平成元)に出版された野口存彌『沖野岩三郎』(踏青社)。上右は、2008年(平成20)出版の関根進『大逆事件異聞-大正霊戦記・沖野岩三郎伝』(書斎屋)。は、1924年(大正13)に下落合の自邸で撮影された沖野岩三郎・ハル夫妻(AI着色)。この写真は東西の生活文化や習慣Click!のちがいからか、少なくとも東京(おそらく関東も)では不自然に映る。イスに座るのは奥様(お上Click!)のほうで、男はちゃんと立ってなきゃ。

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連携「下落合と早大を訪れた旧石器人」。 [気になる下落合]

最後の早慶戦_出陣学徒壮行早慶戦19431016.jpg
 昨年(2023年)の秋、早稲田大学Click!会津八一Click!記念博物館で、同大キャンパスの下に眠る遺跡から出土した旧石器を一堂に展示する、「早稲田大学を訪れた旧石器人―その石はどこから来たのか―」という展覧会が開催された。なんとなく、拙サイトのような展覧会タイトルが興味深くて惹かれ、ブラブラと散歩がてら久しぶりに早大キャンパスの同記念館(旧・中央図書館)を訪れてみた。
 戦後、相沢忠洋Click!の発見をきっかけに岩宿遺跡Click!を発掘した明治大学とともに、早稲田大学が旧石器時代の発掘に注力するのにはわけがある。松本清張Click!のファンなら、すぐにお気づきでご存じだと思うが、彼の短編作品に『石の骨』(1955年)というのがある。戦前から旧石器をはじめ、より古い時代の動物化石(歯)と同じ地層から人骨化石までを発見したとし、日本における旧石器時代の存在を論文で主張しつづけ、考古学界というかおもに官学の帝大から、嘲笑や揶揄、非難、嫌がらせ、罵詈雑言を浴びせられつづけた在野の考古学者が主人公として登場している。
 ところが、しばらくすると手のひらを返したように帝大のとある教授が主人公に接近し、彼が発見した遺物をさも自分が発掘したかのような論文を発表して、発掘物には教授の名前入りのラテン語学名をかぶせ、現地の発掘調査には発見者である主人公の参加さえ排斥して認めなかった。つまり、研究成果の丸ごとドロボー=かすめ盗りをしたわけだが、その裏にはこのドロボー教授を追い落とすための、さらにドロドロした学内の派閥争いが存在していた……というような展開だ。『石の骨』では、すべてが仮名になってはいるが、このストーリーはあらかた当時の事実にもとづいて描かれている。
 なにやら、第二文化村Click!に住んだ島峰徹Click!歯科医学Click!と東京帝大医学部との経緯を想起してしまうが、島峰が早期に同大学を見かぎり“独立”をめざしたため、彼の業績は横盗りされずに済んだのではないかとさえ思えてくる。
 早くから旧石器時代の存在を主張した、小説の考古学者が直良信夫であることは周知の事実だが、今日では彼が発見した明石人は東京大空襲Click!で標本が失われ、石膏型しか残存しておらずいまだ論争がつづいているものの、葛生人は15世紀の人骨であることが判明し、誤りであったことが明らかになった。だが、彼が採集した多くの石器類は、官学から自然石の見誤りだとされ、学問の「常識外れ」で世間知らずとさんざん嘲笑されたにもかかわらず、岩宿ケースと同様に旧石器時代の遺物が混じっていたのではないかと推測されている。今日の眼から見れば、新たな学術的な発見や研究は「常識外れ」や既存「常識」の否定からしか生まれない、典型的なケーススタディのように映る。
 直良信夫は、1930年代になると早稲田大学で古生物学教室の助手になり、1945年(昭和20)には講師、戦後の1960年(昭和35)には文学博士号を取得して、同大の古生物学の教授に就任している。このような状況や経緯から、岩宿遺跡の発掘を担当した明大および早大が、戦後もしばらくの間、旧石器時代の研究では学界をリードすることになった。岩宿遺跡の発掘からわずか5年後、「新宿にも旧石器人がいた!」と新聞で大々的に報道された目白学園Click!における落合遺跡Click!の発掘も、早大の考古学チームが担当している。
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下戸塚遺跡(弥生期環濠集落).jpg
旧石器時代遺跡1963.jpg
 くだんの「早稲田大学を訪れた旧石器人」展だが、まずキャンパスとその周辺域からの出土と限定されているにもかかわらず、その多彩な発掘物の豊富さに目を見はる。展示されていたのは、その展示テーマに沿ったごくごく一部にすぎないのだが、それでも膨大な量の旧石器を目にすることができた。日本列島に旧石器人の痕跡が認められるのは、2023年現在で約4万年ほど前から(遺跡数は10,150ヶ所)だが、いわゆる縄文時代を迎えるまでの期間が後期旧石器時代と呼ばれる、日本の基層部を形成する歴史だ。早大キャンパスから出土している石器類は、3万5千年前からの旧石器だが、落合遺跡Click!から発見されている旧石器(また学習院キャンパスClick!から発見された旧石器)も、その近接した地理的条件からおよそシンクロした遺物が多いと思われる。
 比較的厳密な年代規定ができるのは、日本列島の広範囲にわたって堆積した火山灰による地層の年代規定によって、旧石器がどの火山灰層(ローム地層)から出土しているかがわかりやすく、離れた地域同士でも比定がしやすいからだ。特に、伊豆・箱根連山や富士山などの頻繁な噴火で形成された関東ロームClick!は、各地層別による詳細な年代規定がしやすいため、ブレの少ないより正確な旧石器の時代を知ることができる。ただし、ロームは強酸性土壌なので人骨や動植物などの有機物は融解してしまうため、万年単位では遺物として残りにくいというデメリットがある。したがって、日本における旧石器人の生活や行動を知るうえで、人々が用いていた旧石器(一部は初歩的な土器Click!)は大きな手がかりであり、日本史におけるかけがえのない考古学上の資料といえるだろう。
 同展では、早稲田の安部球場(戸塚球場)Click!跡(現・早大総合学術センター+中央図書館)から出土した下戸塚遺跡、東伏見キャンパスの下柳沢遺跡、所沢キャンパスのお伊勢山遺跡などがメインとなっているが、下落合の落合遺跡に近い旧石器時代から現代までつづく遺跡が発掘された、複合遺跡の下戸塚および下柳沢の各遺跡について図録より引用してみよう。
  
 下戸塚遺跡は東京都新宿区の下戸塚に位置する遺跡であり、早稲田大学総合学術センター・中央図書館の建設に伴い発掘調査された。旧石器時代、縄文時代、古代、中世、近世を含む複合遺跡である。近くには神田川が流れ、その南側の台地上に遺跡が立地する。/下柳沢遺跡は東京都西東京市に位置する遺跡である。早稲田大学は東伏見キャンパスの諸施設を建設するにあたり、3次の発掘調査を行った。こちらも旧石器時代、縄文時代、古代、中世、近世の遺構・遺物が検出される複合遺跡である。遺跡周辺は東に向かって緩やかに傾斜する大地となっているが、台地内を流れる石神井川によって谷地が形成されている。
  
 このふたつの遺跡が同時に取りあげられているのは、出土した旧石器が関東ロームのⅢ層より下の立川ロームと呼ばれる地層に含まれていたからだ。より具体的にいうなら、第1文化層(Ⅴ層上部)、第2文化層(Ⅳ層下部/Ⅳ層中部)、第3文化層(Ⅳ層上部)などで出土位置が似かよっており、出土した旧石器のもととなる石材も、地理的に比較的近接した遺跡のせいか共通するものが多かったためだろう。下落合の落合遺跡や学習院遺跡もまた、上記とほぼ同様の出土傾向だとみられる。
槍先形尖頭器.JPG
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 旧石器の石材としては、同大の分析によれば信州の黒曜石、伊豆半島の黒曜石、栃木県北部の珪質頁岩および黒曜石、房総半島南端の白滝頁岩、丹沢山塊の凝灰岩、近場の河川流域などで入手できる河原石に多いチャート(堆積岩)や安山岩などだ。同図録では、旧石器人は回遊(流浪)するため家族・一族あるいはグループ単位でこれら地方・地域間を移動し、石器づくりに必要な石材を入手していたのだろうと推測している。
 だが、後期旧石器時代人は現代人と同様の思考能力を備えたホモ・サピエンスであり、そこには狩猟採集にともなうテリトリー感覚や地理的感覚(=土地勘や地勢感)などが豊富に備わっていたとみられ、下戸塚や下柳沢から栃木県北部や長野県、伊豆半島、房総半島の南端、あるいは丹沢山塊まで定期的に回遊していたとは、わたしは考えづらいように思う。海や平野部など獲物が多く、生活が安定する場所(テリトリー)は離れがたく、また豊富な森や山の恵みがある馴染みのエリアから遠く離脱し、あえて生存のリスクを増大させるような行動はできるだけ避けたがったにちがいない。
 そこで登場してくるのが、石材を専門に運搬する人々の存在を示唆するロジスティクス(物流)論、あるいは石材運搬・石器製造および修理(野川沿いの遺跡群事例)・狩猟採集専門などに役割が分担されたチームあるいはグループによる分業論だ。そこでは、石器づくりに欠かせない貴重な石材は使用価値ばかりでなく、交換価値が付与され相応の収穫物と石材(ないしは石器)とが「等価値」を前提に交換されたのではないだろうか。これらの石材は、もっとも原始的な貨幣的役割を担ったのではないかという考え方だ。
 さて、わたしの手もとにある旧石器・石器Click!だが、落合遺跡をめぐる周辺のバッケ(崖地)に露出した関東ロームの、いずれかの地層から出土したのをいただいたものだ。この中で、刃部には明らかに粗い磨製跡が見られる槍先形尖頭器は、近場の大きめな河川敷で採取し製造したらしい安山岩製とみられる。下戸塚遺跡からも、安山岩製の切出形石器が出土している。また、前回の記事では比較的時代が新しいのではないかと考えた、動物の毛皮などを剥ぐのに使われたとみられる大型の掻器(スクレイパー)だが、堆積岩(チャート)製とみられるので意外に古いのではないかと改めて考え直している。下戸塚や下柳沢の各遺跡からも、チャート製のスクレイパーが各々出土しているからだ。
 つづいて、緑がかった珪質頁岩とみられる、ていねいに磨製された片側が破損している石斧(ハンドアックス)だが、先の関東ロームの年代区分でいえば第4文化層(Ⅲ層上部)あるいは縄文時代早期~前期にかかる磨製石斧ではないかと思われる。石斧の片側が、修理できないほど欠損したので放棄された可能性が高いが、珪質頁岩による旧石器もまた関東各地の遺跡から出土している。
 最後に、友人を通じて長野県の方からいただいた、信州産の黒曜石で製造された小型の石核だが、早大本学キャンパスの下戸塚遺跡から非常に近似したサイズの石核が出土しているのに驚いた。「二次加工のある小型石核」と名づけられた同石器も、同様に信州産の黒曜石でつくられている。いただいたときには、確か縄文期とうかがったように記憶しているが、もう少し年代が古い時代に製造された石核石器ではないだろうか。
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局部磨製石器(所沢キャンパス.jpg
石核.jpg 小型石核(下戸塚遺跡).jpg
早稲田大学を訪れた旧石器人2023.jpg 日本列島四万年のディープヒストリー2021.jpg
 神田川や妙正寺川の流域では、数多くの旧石器時代の遺構が発見されている。それぞれ、発掘を担当した大学や自治体は異なるが、行政の境界や大学の垣根を超えてまたがる旧石器の研究が進捗すると、より大きな成果が期待できそうで面白い。今回の「早稲田大学を訪れた旧石器人」展のように、石器の材質からたどる物流ルートあるいは人的回遊を想定すれば、そのルート上に新たな遺跡が発見できるかもしれない。ちなみに、同展の図録には明治大学が発掘した「砂川遺跡」の成果についても、その分析法とともに触れられている。

◆写真上:グラウンドの下に旧石器時代から近世までつづく複合遺跡の下戸塚遺跡が眠っていた早稲田大学安部球場(AI着色)で、1943年(昭和18)10月16日に行われたいわゆる「最後の早慶戦」(出陣学徒壮行早慶戦)を撮影したもの。
◆写真中上は、1988年(昭和63)ごろ撮影の下戸塚遺跡で弥生期に形成された環濠集落跡を発掘中。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる落合地域と周辺域の旧石器時代遺跡で河川をはさみ両岸の斜面または高台に位置している。
◆写真中下:わたしの手もとにある、目白学園の落合遺跡周辺から出土した旧石器および石器。は、使用跡が残る局部磨製の槍先形尖頭器(約116×62mm)。中上は、大型のスクレイパー(約135×95mm)の両面。中下は、いまでも手を切りそうなスクレイパーの刃部。は、縄文前期にかかるかもしれない精密に研磨された石斧(約99×48mm)。
◆写真下は、1963年(昭和38)に撮影された落合遺跡の一部。中上は、早大所沢キャンパスから出土した接触変成岩(ホルンフェルス)製の局部磨製石器。中下は、知人を通じていただいた信州の黒曜石による石核(約29×20mm/)と、下戸塚遺跡から出土した同じ信州黒曜石による小型石核()。は、「早稲田大学を訪れた旧石器人」展の図録()と、2021年出版の森先一貴『日本列島四万年のディープヒストリー』(朝日新聞出版/)。

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「裏」=中ノ道ではなく「表」の道を進む葬列。 [気になる下落合]

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 以前、麹町区三番町に生まれ、夫から「“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないで」と頼まれ、西落合へ嫁いできた女性をご紹介Click!した。今回は、麹町区麹町で15歳まで育った女性が、1916年(大正5)に下落合へ転居して暮らしはじめている様子をご紹介したい。ちょうど、中村彝Click!が下落合へアトリエを建てたころだ。
 麴町時代は、もちろん乃手の家庭らしく山王権現社Click!の氏子だったが、ときどき内藤新宿町にある太宗寺閻魔Click!の縁日に遊びにきたりしているので、新宿界隈には明治末から馴染みがあったようだ。もともと、母親の実家が下落合(現・中落合/中井含む)は現在の見晴坂Click!六天坂Click!の下あたりで、落合地域の様子はもの心つくころから祖父母の家で目にしている。彼女の家庭は、もともと父親が材木・建築関連の仕事をしており、明治末からスタートしていた生活改善運動と、それにともなう郊外文化住宅(田園都市)構想のブームを見こんだ転居だったのかもしれない。
 やや横道にそれるが、明治末から大正前期にかけ、東京の(城)下町=旧・市街地(東京15区Click!エリア)から、当時は武蔵野Click!と呼ばれることが多かった山手線の西部へ転居している、古くからの家庭が意外に多い。それは、市街地への工場進出による煤煙(空気の汚濁)あるいは河川の汚染などによる生活環境の悪化や、感染症(特に結核Click!お染風Click!=インフルエンザ)の流行などを避けるため、交通網の発達と連動して生活改善を意識的に推進しようとする家庭が多かったのだろう。
 (城)下町Click!から郊外への転居ブームは、その後、震災被害の最小化をめざして1923年(大正12)の関東大震災Click!直後にも、地盤の堅固な東京西部の丘陵地域への家庭移動にみられ、つづいて戦後1964年(昭和39)の東京オリンピックによる、再び住環境破壊にともなう“町殺し”Click!に呆れはてた、それまで故郷を離れがたく(城)下町でがんばってきた家々の、西部地域への転居を加速させている。
 さて、麹町に住んでいた子どものころ、母方の祖母が下落合で穫れた野菜類をしょって、柏木駅Click!(のち東中野駅Click!)から中央線に乗り麴町までとどけてくれていた。子どもたちは、それを楽しみにしていて四ツ谷駅Click!までそろって迎えにいったらしい。下落合へ転居後は、のちに西武線・中井駅(1927年設置)の近くに住んでいたようだ。
 では、青木初という方が目にした明治末から大正初期にかけての、めずらしい下落合の風景を見てみたい。同時代の下落合風景は、過去に小島善太郎Click!絵画Click!文章Click!で記録したのをご紹介している。1993年(平成5)に新宿区立婦人情報センターより刊行された『新宿に生きた女性たちⅡ』の、青木初「二人三脚の建具屋の暮らし」から引用しよう。
  
 母親の実家が落合で、大きな藁葺き屋根の農家で裏がずっと山になっていました。夏休みやお正月にはよく遊びに行きましたけれど、母親は長く居ることは滅多にありませんでしたよ。昔は、実家にいつまでも嫁がいるとうるさく言われましたからね。/その頃の落合は畑や田んぼが広がっていて、駅の方(中井駅は未設)は櫟(くぬぎ)の林が続いていました。妙正寺川はよく水が出ましたね。大水の後には鯰や鯉が打ち上げられていて、それを長い棒の先に五寸釘を何本も打ってそれで突くんですよ。真っ暗な夜に、壊れたような土瓶に石油を入れて芯を出して松明にして、それがあっちこっちにポッポッと付(ママ:点)いて、その明かりで突くんです。どの家にも丸い桶があって「鯰取ってくるから、水張って待ってろーっ」といって出て行くのです。私は鯰が嫌いで食べませんでしたね。/なんでも自給自足の暮らしでしたが、田んぼよりも前菜物(青物野菜)を多く作っていて、高田馬場のヤッチャバ(青物市場)へ持って行きましたね。(カッコ内引用者註)
  
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 母親の実家も含め、周囲にあった農家は小作農家ではなく、それぞれが広めの地所を所有する自作農家だった。のちに設置される西武線・中井駅の東側あたりから、現在は施設廃止と樹林の伐採をめぐって住民裁判が進行中の「清風園」Click!あたりまで、わずか5軒の農家しかなく、周辺の一帯はこの農家が所有し耕す田畑だった。
 1910年(明治43)作成の1/10,000地形図を参照すると、確かに家屋が5軒しか採取されていないのがわかる。ちなみに、より古い1880年(明治13)に作成されたフランス式1/20,000彩色地形図Click!では、6軒の家屋が採取されている。落合ダイコンClick!は、特に漬け物Click!にした製品がもっとも高く取引きされたらしく、冬場に湧水を利用して造成した“洗い場”Click!でダイコンなど野菜類を洗うのはたいへんだった。
 食事は麦飯が中心だったが、物日(ものび:祝日や祭礼日)には白米が炊かれている。おかずは、目白通りに開店していた万屋(よろずや)へ自転車で出かけ、塩漬けのサケやマスを購入していた。おやつは、たいてい手作りのかき餅かおにぎりで、たまにはカリントウが出たらしい。麹町一帯の家庭に、電気が引かれたのは大正の最初期だったが、当時の下落合ではいまだランプ生活がふつうだったそうだ。
 青木初という方が、下落合へ転居してきたのは15歳のときだったが、妹たちは麹町の小学校に通っていたので、落合尋常小学校Click!(のち落合第一尋常小学校Click!)へと転入している。成績が優秀で「全甲」だったため、校長が上級の学校への進学を奨めたが、「女に教育はいらない」という親の方針で許してはもらえなかった。
 15歳をすぎた彼女は、裁縫を悉皆屋Click!ではなく近所の素人の奥さんの家へ習いに出かけ、ときには依頼された着物も縫っていた。家の手伝いが多く、洗い張りなども手伝いながら、長女の彼女は母親の相談にもよく乗ってあげていたようだ。家庭には、定期的に髪結いがまわってきて、彼女は日本髪を結ってもらっていた。
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 つづけて、同資料の「二人三脚の建具屋の暮らし」から引用してみよう。
  
 日照りが続くと雨乞いをするんですよ。あぜ道に巻藁(まきわら)を組んで、むしろ旗を立てて、それを大勢で空に向かって突くんですよ。遠くの江ノ島の方まで男衆が徳利で水を貰いに行ってくるんですよ。それを奉るんです。/当時、麹町は火葬だったけど、大正十四年頃の落合は未だ土葬でしたね。おばあさんが亡くなった時は大変大きなお葬式でした。女は白無垢で、男は黒装束に編み笠と藁草履で、寝棺を八人で担いだんです。今の通りが裏になるので、そこを通るのはいけないといって、早稲田通りを通って上落合まで長い長い行列が続きました。
  
 雨乞いのむしろ旗には「龍王神」という文字が書かれており、いまも中井御霊社Click!には祈願が成就して奉納されたものだろうか、1竿のむしろ旗(182×92cm)が奉納されている。江ノ島へ出かけるのは、同島の元神である龍神の岩屋(洞窟)に湧く聖水をもらいにいくためだが、「男衆」はそれとは別の弁天様にも用があったのかもしれない。w
 葬式のシーンが描かれているが、当時の落合地域は土葬が主流で、行列が上落合へ向かうのは落合火葬場Click!へいくのではなく、最勝寺Click!の墓地へと向かっているのだろう。当時の葬儀や葬列の様子は、1994年(平成6)に新宿歴史博物館から刊行された『新宿区の民俗(4)落合地区篇』収録の、「都市化と葬墓制の変化」という論文に詳しい。実際に、1928年(昭和3)に行われた最勝寺へと向かう土葬の葬列写真も掲載されている。
 上記の文章で興味深いのは、鎌倉支道Click!とみられる古い中ノ道Click!(下の道・新井薬師道=現・中井通りClick!)がなぜか「裏」の道と規定されており、江戸期の街道筋である馬場下道Click!(のち昭和通り/現・早稲田通り)が「表」の道と認識されていることだ。下落合の六天坂や見晴坂の坂下一帯が、彼女の実家が所有する農地だったらしい地点から、すなわち先の1/10,000地形図に採取されている5軒の農家のいずれからも、中ノ道を通れば最勝寺までは600~700mほどの距離でたどり着けるが、早稲田通りを迂回するとなると(葬列の道筋にもよるが)、一気に1.3~1.4kmと倍以上のルートになる。
 この葬儀の習慣は、落合村(町)のしきたりや“お約束”というよりも、どこの誰々が死去したことを村じゅうに触れまわる、地域の公示・公告的な意味合いが強かったのではないだろうか。儀式というのは、もともと共同体へのなんらかの“宣言”や“公告”を動機、あるいは目的としたものから出発している例が多い。同時に、人々(葬儀では残された家族や姻戚)の心構えや気持ちの整理をうながす精神的な効果も、少なからず大きかったにちがいない。
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 青木初という方は、下落合で1922年(大正11)に建具師と結婚し、その翌年には関東大震災に遭遇している。目白文化村Click!近衛町Click!をはじめ、大正後期の下落合はモダンな住宅群の建設ラッシュだったので、その仕事は多忙をきわめたのではないだろうか。下落合における関東大震災時の記録はめずらしいので、また機会があればご紹介したい。

◆写真上:大正末か昭和初期ごろに撮影された、妙正寺川の“どんね渕”Click!(AI着色)。
◆写真中上は、1880年(明治13)作成の1/2,0000地形図にみる6軒の農家。は、文中の時代と重なる1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる5軒の農家。は、1927年(昭和2)ごろ美仲橋から西を向き撮影された妙正寺川とその現状。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に撮影された洪水の妙正寺川(AI着色)。は、中井御霊社に保存された「龍王神」のむしろ旗。は、1923年(大正12)の関東大震災直後に撮影された江ノ島。津波の跡も生々しく、同島は1m前後も隆起している。
◆写真下は、1928年(昭和3)ごろに撮影された落合地域の葬列。文中の証言と、まったく同様の情景がとらえられている。は、昭和初期に撮影された最勝寺山門。

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下練馬の「シクジツケミ」と「ハネサワ」再考。 [気になるエトセトラ]

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 最近、練馬地域の字名で「谷」とついている地名が、東京南部や神奈川県南部(鎌倉Click!など)と同様に「ヤツ」と発音されていたのを知った。もちろん「谷戸」という地名も残されているが、これが「ヤツ」と発音されていたのか、あるいは漢字表記に引っぱられ近代には「ヤト」と発音されていたのかは不明だ。たとえば、1800年代のはじめ(化政年間)に記録された『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)には、上練馬村の字名「海老ヶ谷」は「エビガヤツ」と記録されている。
 「ヤツ」あるいは「ヤト」は、もともと原日本語(アイヌ語に継承)の「yat(ヤト゜)」に漢字が当てはめられたと思われ、英語の発音に近い「t」=「ト゜」を、近世以降の日本語の「ツ」と発音するか「ト」と発音するかで地域の地名音、あるいは当てはめる漢字が変わってきているのではないかと想像している。ちなみに「yat(ヤト゜)」は、直接的には人体の「わきの下」を意味するが、両側をバッケ(崖地)Click!にはさまれた台地や丘陵に切れこむ、多くは突きあたりに湧水源をともなう谷間の呼称、いまでいう文字どおり“谷戸”地形の場所がそう呼ばれている。
 練馬の「谷(やつ)」発音に刺激され、以前に落合地域の富士講である月三講社Click!について、周辺地域への拡がりを調べた際、江古田駅の北にある江古田富士Click!へ登った記事Click!を書いたのを思いだした。現地を訪れる際、1909年(明治42)に作成された1/10,000地形図を参考にしたのだが、そこに「宿濕化味」や「羽根澤」という字名を見つけて惹かれたのを記憶している。宿濕化味は「シクジツケミ」、羽根澤は「ハネサワ」と発音されていたのだが、もうひと目で昔からの地名音に漢字を無理やり当てはめた様子がうかがえるので、ずっとアタマの片隅にひっかかっていたのだ。そこで、今回は現地の地形をこの目で確かめるため、初めて昔日の下練馬村の同地を歩いてみた。
 「宿濕化味」と「羽根澤」のエリアを、「埼玉道」を軸に歩きまわったあと、『新編武蔵風土記稿』や『練馬区史』、その他の資料類を諸々参照したのだが、地名の由来や字名としての解説は、わたしの見るかぎり掲載されていなかった。ちなみに、埼玉道(江戸期は「さきたまどう」と発音されていただろうか)は、清戸道Click!(現・千川通り)から分岐して下練馬村の総鎮守・氷川明神の北をまわり、大山街道Click!や川越街道と交叉したあと、荒川早瀬の渡しから埼玉(さきたま)へと抜ける道筋のことだ。「宿濕化味」と「羽根澤」は、埼玉道のちょうど東西に位置する字名として近年まで残っていた。
 まず、「宿濕化味」について『新編武蔵風土記稿』を参照すると、小名として「濕化味(シゲミ)」が採取されているのが判明した。「(宿)濕化味=ジツケミ」ではなく、「シゲミ」とルビがふってある。ところが、「濕化味」の小名の上に「宿」が付くと「シクジツケミ」と発音されたようで、またもうひとつ字名として「前濕化味(マエジツケミ)」というエリアのあったことが判明した。まず、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』から引用してみよう。
  ▼
 下練馬村
 (前略)日本橋より三里許、民戸四百二十六、東は上板橋村西は上練馬村、南は中荒井村北は徳丸本村及脇村なり、東西二十八町南北一里程、こゝも蘿蔔を名産とす、当所は河越街道中の馬次にして、上板橋村へ二十六町、新座群下白子村へ一里十町を継送れり、道幅五間、此道より北に分かるゝ道は下板橋宿へ達し、南へ折るれば相州大山道への往来なり、御打入以来御料所にて今も然り、(中略)/小名 今神 濕化味(ルビ:シゲミ) 三間在家 早淵 田抦 宮ヶ谷戸 宿 本村
  
 文中の「蘿蔔」は、もちろんいまも練馬名産の美味しいダイコンのことだし、「河越街道」は現在は川越街道と書かれる道路のことだ。下練馬村は、下落合村や上落合村と同じく幕末まで行政や農地が徳川幕府直轄の村、いわゆる「天領」だったことがわかる。
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 この中で、小名の「濕化味」のほかに同じく小名に「宿」とあるのに留意したい。「宿(しゅく/しく)」は、明らかに中世以降の日本語と思われるが、実は「宿濕化味(シクジツケミ)」が近世の小名と昔日の古地名がくっついた字名ではないかとみられる資料が残されている。『練馬区史・歴史編』には、江戸期の「御年貢割附状」や「御年貢皆済目録」などが収録されていて、その中に「宿濕化味」とともに「前濕化味」という小名も採取されているからだ。「前」もまた、「宿」と同様に近世に付けられた日本語だとみられる。
 この「宿濕化味」と「前濕化味」は、明治以降もそのまま小名として残っていたらしく、下練馬村の村会議員を決める1880年(明治13)の「村会規則」まで継続している。
  
 北豊島郡下練馬村々会規則(明治十三年八月廿一日)/第一章 総則
 (中略)/第十条 村会ノ議員ハ二十五名トシ、其撰挙ノ部分ヲ定ムル左ノ如シ/一ノ部 議員三人 下練馬村字上宿下宿/二ノ部 議員二人 同村字下田柄/三ノ部 議員二人 同村字本村/四ノ部 議員二人 同村字今神/五ノ部 議員二人 同村字前湿化味/六ノ部 議員三人 同村字南三軒在家 北三軒在家/七ノ部 議員三人 同村字宿湿化味 (以下略)
  
 ところが、明治末の1/10,000地形図には、「宿濕化味」は見えるが「前濕化味」は見あたらない。単なる採取漏れなのか、郵便制度などの影響から字名の再編が行われ「前濕化味」が消滅したのかは不明だが、あるいは少しあとになって「東濕化味」と「西濕化味」という地域名が見られ、これが「前濕化味」が分化したものだろうか。さらに、「宿濕化味」も一部が「宿化味」に分化しているようだ。以上の記録により「濕化味(湿化味:シツケミ/シ(ツ)ゲミ)」こそが、どうやら古地名らしいことが判明した。
 以前の記事では、大ざっぱな考察しかしなかったけれど、今回はもう少していねいに考えてみよう。まず「シツ」(sit=シト゜)は、以前にも書いたように原日本語では「丘陵・尾根・峰」という意味になるが、以前は曖昧に解釈していたケミ(以前はkemiで「血?」としていた)については、「ke(ケ)」=「削る・えぐる」で、「mim(ミム:ムは唇を結んで鼻音の「ん」に近い)」=「肉」と解釈すると、「シト゜・ケ・ミ(ム)」を地名的に意訳すれば「丘陵の削れた(えぐれた)場所」となるだろうか。
 地形図を見ただけでも判然としているが、実際に「(宿)濕化味」を歩いてみると、現在の開進第三中学校の西側へ谷戸地形が喰いこみ、またひとつの小丘を越えると再び深い谷戸地形で大きく削られている。つまり、丘陵がふたつの谷戸によって深くえぐられるように削られている一帯に、「(宿)濕化味」の古地名が伝えられていることがわかる。その東側(中学校寄り)の谷戸の突きあたり、湧水源があったとみられる場所には、マンホールが多数設置された、人が通るのもやっとの細い路地が現存しており、いまでも下落合のあちこちにある谷戸と同様に、湧水が地下の暗渠を流れつづけているのだろう。
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 では、埼玉道の東側=「羽根澤」の地形はどうだろうか。「羽根澤」は、現代では真ん中の「根」が取れてしまって「羽沢」と書かれているが、これで「はねざわ」と読ませているのだろう。だが、もともと原日本語がベースだったとすれば、「羽(ハ・パ)」に「根(ネ)」と発音していたはずであり、以前にも書いたように「パ・ネ(pa-ne)」=「(良質な)水のある所/沢/渓流/湧水」の意味だと思われる。「澤」は、後世に古地名「パネ/ハネ」本来の意味がわからなくなってから附属した語であり、期せずして「パネ澤」つまり「沢々」の重言になってしまった可能性が高いように思われる。これは、海岸線にめずらしく塩分を含まない湧水が流れ、田圃を耕作できたとみられるパ・ネに「田」を付けた、「羽田」(ここでも「根」が取れている)と同様のケースではないだろうか。
 実際に「羽根澤」(羽沢)地域を歩いてみると、こちらも大きな谷戸が丘陵へ深く切れこんでいる地形であり、その規模は「宿濕化味」に見られるふたつの谷戸よりも大規模で南北に長い。湧水源の手前(北側)にある谷戸の斜面には、「羽沢ふじ公園」の緑地帯が残されており、それを南へたどると湧水源だったと思われる環七から北側へ急激に落ちこむ小谷へと抜けることができる。いや、現在ではすっかり地形改造が進んでおり、環七から落ちこむのは同通りの法面かもしれず、「羽根澤」谷戸の突きあたりは環七を突き抜け、もう少し南へとつづいていたのかもしれない。
 「羽根澤」の渓流は、「宿濕化味」の小流れよりは規模が大きかったらしく、1/10,000地形図でも流れがハッキリと水色で描かれている。この湧水源近くの丘上には、「新桜台もくせい緑地」が練馬区によって保存されていた。サルスベリをはじめ、クスノキ、タイサンボク、ケヤキ、キンモクセイ、カエデ、シャリンバイなど、武蔵野の樹木や懐かしい庭木がところ狭しと生えている。
 もうひとつ、「羽根澤」の東(上板橋村/現・練馬区)に位置する「小竹」地名だが、この由来も地元には確とした伝承がなく古くから「不明」とされているようだ。前回の記事では、「kotan-ke(コタン・ケ)」=「村の地/本村」としたが、それは上板橋村・下板橋村の両村(現在の小竹は練馬区に編入されているが、江戸期は上板橋村の小名で板橋エリアだった)に、古くからの集落拠点に付けられる「本村(もとむら・ほんむら)」Click!の小名がなく、「小竹」がその位置に相当する“村”だったのではと想定したからだ。
 だが、現場の地形や地勢を考慮し改めて再考してみると、「kotan-kes(コタン・ケ(ス)/sは英語の複数形清音と同じ)=「村の端/村の終わり」とも解釈できることに気がついた。「小竹」は、なんらかのエリアの境界線に位置する地域だった可能性もありそうだ。地形を見ると、小竹が下練馬からつづく丘陵の東端に位置する半島のようにせり出した台地であり、古くから人々の集落があった地域の終端(崖淵)……というような古地名だろうか。
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御年貢位付(内藤家文書).jpg 練馬区史1980-1982.jpg
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 練馬地域には、落合地域と同様に氷川社や稲荷(鋳成?)社、弁天社が点在し「久保(窪)」Click!の地名も散見される。これら古地名と思われる地域と重なり、タタラ集団Click!が通過した痕跡があると面白いのだが、金糞(スラグ)Click!鉧(ケラ)Click!などが出土するタタラ遺跡Click!が、下練馬地域のどこかで発掘されているかどうか、わたしは不勉強で知らない。

◆写真上:出発点で終着点となった、古墳がベースといわれる江古田富士(浅間社)。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる「宿濕化味」。は、丘上の開進第三中学校を囲む樹林。は、「宿濕化味」に喰いこむ谷戸の湧水源。新道(じんみち)Click!のような風情だが、いまも湧水が地下を流れているのだろう。
◆写真中下は、同年の地形図にみる「羽根澤」。は、谷戸の斜面にある「羽沢ふじ公園」。は、環七も近い「羽根澤」谷戸の湧水源手前の路地。
◆写真下は、同年の地形図にみる「小竹」。中左は、内藤家に残された『御年貢位付』文書。中右は、1980~1982年(昭和55~57)に出版された『練馬区史』(練馬区役所)。は、「羽根澤」湧水源近くの丘上にある「新桜台もくせい緑地」のサルスベリ。
おまけ
 1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる、下練馬地域()と江古田富士()。下練馬の上空からは、「宿濕化味」と「羽根澤」の湧水源あたりに濃い緑の繁っているのが判然としている。また、江古田富士を円墳ではなく前方後円墳とすれば、前方部は現在の江古田斎場側にあっただろうか。江古田富士の右手にも、なんらかのサークル状の痕跡がうかがえるので、一帯は古代の古墳領域だった可能性もありそうだ。
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大泉黒石と日本心霊学会の出版物。 [気になる下落合]

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 大泉黒石Click!の作品を読んでいると、多種多様な学術分野の専門書を読みこんで、その専門知識を作品のテーマや物語の書割(背景)として活かしているのに驚かされる。その領域は、物理学や天文学、医学、薬学、精神分析学などの自然科学分野をはじめ、洋の東西を問わず各国の文学(古典含む)などに精通しているのはもちろん、日本のみに限ってみても近代文学に限らず古典文学や歴史、詩歌、芝居、講談、映画、落語、俳句、童話、はては長唄小唄などにいたるまで膨大な知見を備えていたとみられる。
 これほど視界が広角でパースペクティブが深い日本文学の書き手は、ちょっと他には思いあたらない。おそらく日々の勉強量は膨大だったと思われ、各分野に張られたアンテナは常に磨かれていて、自身がそのときに興味のある多彩な学問領域の成果物へ鋭敏に反応していたのだろう。日本の文芸のみに限ってみれば、当時の「日本人よりも日本人らしい」趣味や表現をしており、語学能力も抜群で大正中期には長崎方言だけでなく、すでに東京方言の(城)下町言葉Click!を流暢に話しマスターしていたと思われる。
 それほど貪欲に、多彩な分野の知識を吸収・蓄積し一般の「日本人より日本人らしい」アイデンティティを確立しようと懸命に努力を重ねたのは、もちろん日本を表現の場として選択したがゆえに、多くの現場で直面したとみられる「あいの子」差別に対する徹底した反発が、生涯にわたる創作モチベーションを形成していたのだろう。もし、彼が表現の場を日本ではなく、もうひとつの母国であるロシアや、同様に青春時代をすごしたフランスやイギリス、あるいはロシアの官僚である父親が赴任していた中国(上海)など他の国を選択していたとしたら、これほど執拗かつムキになってその国の歴史や文化に執着することなく、よりコスモポリタニズム的な傾向が強まったのではないかとさえ思える。
 大泉黒石Click!が得意とした分野のひとつに、独特な味わいをもつ怪奇小説群がある。彼がイギリスに居住していたとき、サキはリアルタイムに作品を発表しつづけていた。しかも、サキは新聞記者としてイギリスを基点にロシアやパリなどヨーロッパ各地を往来しており、同時代の黒石は彼の存在を知っていて、そのエピローグが魅力的な怪奇短編作品に接していた可能性が高い。また、黒石は短編の名手であるフランスのモーパッサンに私淑していたといわれるが、米国のオー・ヘンリーも彼と同時代であり、フランス語も英語も得意な彼はパリやロンドンの居住時に通読していたのではないだろうか。
 当時の日本は、各地で心霊研究が盛んで、現代的な意味での「オカルト」とはまったく異なり、自然科学の各分野からのサイエンティフィックなアプローチで、精神によって形成された未知の存在(心霊的な存在)や、いまだ当時の物理学では解明できていない(とされた)未知の力、すなわちさまざまな精神力や思念力(念力)などに対する研究が盛んに行われているような時代だった。
 宇宙空間が未知のテーマに満ちているのと同じく、人体の内部もそれとまったく同様に未知の課題ばかりであり、いまだ解明されていない存在や能力が宿っている可能性がある……という仮説が、多くの人々に受け入れられていたのだろう。この傾向はおよそ世界各国でも同様で、日本からは1928年(昭和3)に「心霊科学研究会」Click!の浅野和三郎や福来友吉Click!が参加した、ロンドンの第3回ISF(International Spiritualist Federation)をはじめ、世界各地で国際会議や同分野の学会が開かれ、それがニュースになるような時代だった。
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 大泉黒石Click!もまた、そのような世界的な風潮に興味を抱き、和・洋書を問わず同分野の多種多様な研究書や専門書に目を配っていた痕跡が認められる。彼が著した怪奇小説の中には、明らかに京都にあった日本心霊学会Click!(のち人文書院)を意識し、その出版物に目を通していた痕跡がうかがえる。たとえば、怪奇短編『葵花紅娘記』には次のような一節がある。『大泉黒石全集』第8巻収録の、同作品から引用してみよう。
  
 本業は脳神経専門の医学士であって、佐世保市立病院に勤める傍ら、専門の学術とは密接な関係があるために、大日本心霊学会に入って心霊現象の研究をもつづけている緒方正夫――すなわちかく申す私が、自宅の書室に籠って、「隠秘学」(オカルチズム)という心霊学の書物と首っ引きを致しておるところへ、一通の手紙が舞い込んだ。……貴君にぜひ聞いて貰いたいことがあるから、まことに勝手ながら、どうか直ぐに老生の別宅までお越しを願いたい……こういう意味の文面で、差出人は山北一次郎なる老医学博士、(後略)
  
 文中では「大日本心霊学会」と仮名で書かれているが、これは同時代の人々なら誰が読んでも、京都で1906年(明治39)に渡邊藤交(久吉)によって創立された日本心霊学会のことだと認識しただろう。そして、主人公の医師「緒方正夫」が医学の脳神経学とは別に同学会へ入会し、その刊行物を読んでいたのは、今日の眼から見れば非常に奇異な感じにとらわれるけれど、当時としてはそれほど特異なことではなかったと思われる。
 大泉黒石Click!が、日本心霊学会Click!に入会して会報まで購読していたとは思えないが、同学会の出版物はひととおり読んでいた可能性が高い。短編『葵花紅娘記』が書かれたのは1927年(昭和2)だが、ほぼ同時期に話題になっていた日本心霊学会の本に、同学会の中心メンバーだった野村瑞城による一連の著作がある。野村瑞城は、1924年(大正13)以来ほぼ毎年、同学会出版部より著作を刊行しており、ことに現代(当時)医学と「隠秘学」(当時のオカルティズム)との関係性について言及した内容が多い。
 たとえば、野村瑞城が著した同時代の本には、『原始人性と文化』(1924年)をはじめ、『霊の活用と治病』(1925年)、『白隠と夜船閑話』(1926年)、『民間療法と民間薬』(1927年)、『疾病と迷信』(1929年)、『沢庵と不動智の体現』(1930年)などがある。現在でもAmazonなどで入手可能な著作もあるので、興味のある方はご一読を。これらの本を大泉黒石は書店で、あるいは京都の日本心霊学会出版部から取り寄せて読んでいたのだろう。
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 大泉黒石Click!が『葵花紅娘記』を書く2年前、1925年(大正14)に日本心霊学会出版部から刊行された、野村瑞城『霊の活用と治病』から少し引用してみよう。
  
 私は前に血の陰暗晴明、即ち血の色彩について云つたが気分にも色がある。由来『烈火のやうに憤つた』『青息を吐いた』『赤心を示した』と云ふ如く精神状態、気分は色によつて形容されることが多い。それは単純な形容に過ぎないやうであるが翻つて考へて見れば、古人は既に或心意にはそれぞれ特有の色のあることを経験的に知つてゐたのかも知れぬ。(中略) それらの隠秘学者によつて云はれた宇宙的精力説が、今日の物理学よりも進んでゐる如く、古代隠秘学者の説には驚くべき卓見、驚くべき原理の発見がある。だから古代の隠秘学者は『心の色』について知つてゐたのかも知れない。
  
 「心の色」とは、人体から空中へ放たれる「オーラ」のことで、この文章は「オーラの存在と思念に色がある」の章の一節だ。バカバカしいと一蹴するのはたやすいが、当時の学者や研究者たちは未知のテーマや分野については率直に「わからない」と認識し、ある仮説を立てては検証や再現性を試みるという、少なくとも現代よりは謙虚な姿勢で「隠秘学(オカルティズム)」に向き合っていたのは確かなようだ。今日のように、現象を既知・既存の科学(法則)へ無理やり当てはめてしまうというような、強引かつ傲慢な姿勢はあまり感じられない。当時は、既知の現象も未知のテーマも、自由に往来して研究できるフレキシビリティが、いまだ学術分野には残されていたのだろう。
 大泉黒石Click!もまた、当時の諸科学者と同様の眼で、日本心霊学会を眺めていたのかもしれない。同書の野村瑞城に限らず、黒石は日本心霊学会の出版物が扱うテーマを、自身の作品(怪奇・不思議小説)のどこかに活かすべく、片っぱしから読んでいたのかもしれないが、それは他の自然科学や人文科学の学術分野における専門書や研究書と同じような位置づけであり、特に日本心霊学会へ強い思い入れがあった様子はうかがえない。
 ちなみに、日本心霊学会が同時期に出版した本には、ほかにH.カーリングトン『現代心霊現象之研究』(1924年)、福来友吉『観念は生物なり』(1925年)、平田元吉『近代心霊学』(同年)、今村新吉『神経衰弱について』(同年)、福来友吉『精神統一の心理』(1926年)、日本心霊編輯部編『「病は気から」の新研究』(同年)、今村新吉『神経衰弱とヒステリーの治療法』(1927年)、小酒井不木『慢性病治療術』(同年)、永井潜『人及び人の力』(同年)、石川貞吉『実用精神療法』(1928年)、藤岡巌『近世生理学史論』(同年)などがある。
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 野村瑞城は「オーラは雰囲気」(前掲書)と呼ばれるものだと書き、「女には女特有のオーラがあり、男には男特有のオーラがある」とのことで、そのときどきの「心意に伴ふ色がある」とする海外の学説を紹介している。つまり、そのときの気分や気持ちしだいで「オーラ」の色は刻々と変化をするそうなのだ。でも、拙ブログへ記事を書いているとき、「あなたのオーラは黒石(硬質粘板岩)のように真っ黒です」などといわれたらイヤだな。

◆写真上:1930年(昭和5)に、北アルプスClick!の白馬岳でスキーを楽しむ大泉黒石。
◆写真中上上左は、1929年(昭和4)出版の『葵花紅娘記』(1927年)が収録された大泉黒石の短編集『燈を消すな』(大阪屋号書店)。上右は、1925年(大正14)に出版された野村瑞城『霊の活用と治病』(日本心霊学会)。は、『葵花紅娘記』の一節。
◆写真中下は、野村瑞城『霊の活用と治病』(1925年)の一節。は、日本心霊学会の中心メンバーで左から野村瑞城、渡邊籐交、ひとりおいて福来友吉。
◆写真下は、1925年(大正14)6月に京都公会堂で開催された日本心霊学会の学術講演会。登壇しているのは、京都帝大医学部の今村新吉。は、1934年(昭和9)ごろに撮影された温泉でも有名な山形県の本谷川渓谷に遊ぶ大泉黒石(左からふたりめ)。

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男爵家からの迎車位置は九条武子邸の門前。 [気になる下落合]

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 かなり以前、下落合753番地に住む九条武子Click!が邸前からクルマに乗り、大正天皇の墓所(多摩御陵)へ出かける記事Click!を書いたことがある。1927年(昭和2)2月20日の真冬のことで、彼女が死去するちょうど1年前の出来事だった。
 同年の『主婦之友』4月号では、彼女による手記で夫の男爵・九条良致といっしょに参拝したことになっているが、下落合へ九条良致が迎えにきたとは彼女の手記にもまたグラビアの記事にも書かれていてないので、おそらく同家から迎車だけが下落合へ手配されドライブの途中で、あるいは目的地へ着いてからいっしょに参拝しているのだろう。このとき、記者のクルマで洋画家の赤塚忠一が同行してスケッチを残している。
 このとき、九条武子は記事の本文を書き8首の短歌を詠んでいるが、その間の文章はドライブをしながら東京近郊の風景を写す、エッセイのような趣きになっている。甲州街道を西へ向かう車窓から眺めた風景で、調布あたりをドライブする様子から引用してみよう。
  
 甲州街道は良い道であつた。自動車は都の北、平坦な道を静かに走つてゆく。過ぎてゆく沿道の村々は、春の訪れもおくれて、未だ冬ごもりの寂しい色につゝまれてゐた。(中略) 青い屋根、桃色の窓、ラヂオのアンテナなども見える、ペンキを塗つた現代式住宅も、だんだんに少くなつて、調布の里を過ぎたあたりは、見はるかす遠い丘に鎮守の森、桑の畑など、それらは武蔵野らしいむかしのまゝの、画幅を展げてゐるのも嬉しかつた。
  
 同誌のグラビアには、出発時とみられるクルマの前に立つ黒紋付きの九条武子をとらえた写真が、同誌のカメラマンによって撮影されている。(冒頭写真/AI着色) 背後に写るクルマは、当時は最新モデルだった米国GMのシボレー「スペリア」シリーズだと思われるが、ステップに滑りどめの踏み台が設置・補強された国内の特別仕様車だろうか。
 前回の記事では詳しく触れなかったが、この九条武子が出発前にクルマ横に立っている撮影場所について、少し具体的に考察してみよう。『主婦之友』の記事では、昼ごろに下落合を出発したと書かれており、真冬の太陽光線は画面のやや右手上空から、西へ傾き気味に射していると思われる。すなわち、右手が南面する方角だろう。彼女を迎えにきた男爵家のドライバーは、遠慮したのか運転席から下りて画角からは外れている。
 以前の記事では、写真のキャプションとして「自邸前のクルマ脇にたたずむ多摩へ出発前の九条武子」としたが、クルマとともに彼女の背後に写る、板塀が設置された家屋は九条武子邸ではない。九条武子の自宅は、カメラを向ける撮影者の背後、すなわち道路から少し凹状に拡げられたスペースに九条邸の瀟洒な門があったはずだ。
 九条邸敷地の周囲は、大正期から丈の高い密な生垣と細かに編まれた細い竹垣で囲まれており、写真のような板塀は設置されていなかった。また、敷地内の母家の位置も、門のあるオバケ坂Click!(バッケ坂)筋の道路から少し離れており、写真にとらえられた住宅のように道路際へ近接していない。この写真が撮影される前年、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を参照すると、板塀のある道路に近接した住宅は、九条邸の向かい隣り(東隣り)にあった堀末邸だろう。念のために、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を確認すると、道路に近接した東西に長い堀末邸の母家を確認することができる。
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 また、板壁越しに少し離れた位置に見えている、道路からも目立つ大樹はクスノキだろうか。この遠目では常緑樹のクスノキのように見える巨木は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にもとらえられており、またこの一帯は空襲を受けていないせいで、戦後1947年(昭和22)撮影の米軍による空中写真にも、大きく育って枝葉を繫らせている様子が目立って確認できる。このクスノキは、清水厚邸の南東に面した広い庭園に生えていた。ちなみに、「下落合事情明細図」に収録された下落合761番地の清水厚は、帝国工業の専務取締役で大正期から同所に大きな屋敷をかまえていた。
 九条武子と、彼女を迎えにきた男爵家のクルマは、板塀のある堀末邸の北寄りの門から道沿いに南西へ7~8mのところ、道路西側に面した九条武子邸の門のほぼ真ん前で撮影されていることがわかる。カメラマンは、道路より少し引っこんだ九条邸門前のスペースに立ってシャッターをきっているのだろう。そして、クルマは九条邸に向けて入ってきた子安地蔵通りへ再び出られるよう、すでに方向転換が済みいつでも出発できる用意ができている。南側は、細い山道が通うだけのバッケ(崖地)Click!で、クルマの通行は当時もいまもできない。九条武子を乗せたシボレーは、子安地蔵通りを右折し七曲坂Click!を下ると、甲州街道へと抜けるために小滝橋あたりから南下するコースを走っていったのだろう。
 自邸の門前に駐車する、クルマの前で撮影された九条武子をAIエンジンを使って着色したので、過去の記事に掲載していた下落合753番地の自邸ですごす彼女の日常的な写真も、ついでにAIでカラーリングしてみよう。これらの写真は、彼女の家によく遊びにきていた親友のひとり、“清子さん”が自身のカメラでプライベートに撮影したものだ。以前にも1点、書斎で仕事をする九条武子をとらえた写真をAI着色でご紹介Click!している。
 さて、下落合の九条邸へ遊びにくる親友のひとりに、宮崎龍介Click!と結婚し目白通りをはさんだ北側、九条邸から直線距離で800mほどの高田町雑司ヶ谷3621番地(現・西池袋2丁目)に住む柳原燁子(宮崎白蓮)Click!がいた。彼女が九条邸に遊びにきていて遭遇したらしい面白いエピソードが、九条武子が死去した翌年1929年(昭和4)に太白社から出版された歌集『白孔雀』のあとがきに記録されている。同書は、吉井勇Click!が編纂して木村荘八Click!が装丁を担当し、あとがきを宮崎白蓮Click!が書いている。少し長いが引用してみよう。
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 思想のとても新しい若い男が、あの方と話合った事があった。その男の話は常日頃そうした話に耳なれていた私でさえ、びっくりさせられるようなことを、たあ様(九条武子)の前でべらべらとしゃべった。それにあのたあ様は眉根一つ動かさずにむしろその男につりこまれたかのように聞いておられた。そしてその男の話に充分の理解と最も明晰な洞察をもって、今の社会の如何に改造すべきや、現内閣の政治上の事に至るまで、とても確かな意見を出して具合よく応答されたのには聞いていた私が呆れた。「どうせ華族の女だもの、薄馬鹿に定まってらあ、武子っていう女は低能だよ」/たしかにこんな陰口をたたいた事のあったこの男も、すっかり参ってしまって、辞去する頃には、「ねえ、僕らの運動の資金をかせいで下さいな、何? 丁度新聞社から夕刊に出す続きものを頼まれてるんですって? そいつはうまいや、いや、どうも有難う。」/その男が帰ってしまったあとで私はたあ様に訊いた。「たあ様の周囲にあんな話をして聞かせる方もありますまいに、いつのまにあんな学問をなさったの?」 その時、たあ様は笑いながら、「私だってそう馬鹿にしたもんじゃありませんよ。」(カッコ内引用者註)
  
 この若い男は、運動資金をたかるためカネを「リャク」(略奪・略取)にきた、アナキストかサンディカリストの活動家だったのだろう。そのような男が訪問し、九条武子へ気軽に面会できたのは下落合の家しかない。傍らにいた宮崎白蓮も、「常日頃そうした話に耳なれていた私」と書いているので、宮崎龍介と結婚したあとのエピソード、おそらく大正末ごろの出来事だとわかる。しかも、白蓮の書き方から、訪問した男をすでに宮崎邸かどこかで見知っていた可能性が高そうだ。
 個々の人間性や思想、個性などに目を向けず、「どうせ華族の女」と十把一絡げの稚拙で非主体的な階級観を語ってしまうこの男は、のち1933年(昭和8)に起きた岩倉靖子Click!らを含む、学習院のサークル「目白会」や日本女子大学校のサークル「五月会」の特高Click!による摘発を、どのような眼差しで眺めていたのだろうか?
 「リャク」の男が、九条邸を訪れたのはかなり見当ちがいだったと気づいたように、勉強家で読書好きな九条武子は、当時の最先端だった思想書Click!にも欠かさず目を通していた様子がうかがわれる。同じ浄土真宗でも宗派が異なる大谷派から出版された、ヘーゲル哲学と真宗教義とを比較し近代的解釈を試みた哲学者・清沢満之の『他力門哲学』をはじめ、当のヘーゲルが著した弁証法哲学の各書籍や、それらを「逆立ちしている」と社会科学的な視点から批判したマルクスの著作さえ、彼女は読んでいた可能性がある。だから生半可な“理論武装”では、知識量の豊富さと論理性において彼女にまったく歯が立たなかったのだろう。
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 気軽に訪問できる下落合の九条武子邸へ、同じ浄土真宗本願寺派で光徳寺Click!の息子たちだった、佐伯祐三Click!佐伯祐正Click!は訪問していないだろうか? ふたりとも、下落合661番地のアトリエから直線距離でわずか400m余のところに、九条武子が住んでいることは確実に知っていたとみられる。特に佐伯祐正は、イギリスでセツルメントの思想を学んで帰国しており、九条武子とは同じ宗派内でも近しい思想の持ち主ではなかったかと思われるからだ。弟のアトリエに寄ったついでに、九条邸へ挨拶に訪れているのではないか。

◆写真上:1927年(昭和2)2月20日の出発直前、自邸門前で撮影された九条武子。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる九条武子邸。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・九条邸。中下は、1947年(昭和22)の同写真にみる同邸とその周辺。は、九条武子とクルマがいた地点の現状。
◆写真中下:いずれも親友の“清子さん”が撮影したプライベート写真にAI着色したもので、は、朝5時Click!に起きて庭掃除をする九条武子。中上は、草刈りをする同女。中下は、人形や雪洞が置かれた居間でくつろぐ同女。は、書斎で朝刊を読む同女。
◆写真下上左は、1929年(昭和4)に出版された吉井勇・編/木村荘八・装丁による九条武子『白孔雀』(太白社)。上右は、東京大学法学部の「明治新聞雑誌文庫」に保存されている、宮武外骨Click!の「美人」アルバムに収録・貼付された九条武子ブロマイド。は、近所の野良ネコClick!を相手に縁側で日向ぼっこをする同女で、“清子さん”による下落合でのプライベート写真には随所にネコが登場している。は、同じく縁側で繕いものをする同女。
おまけ1
 子どもたちがよく転んでケガをする、崖地(現・野鳥の森公園)に面した丘上に散在する石を、工事用の“ネコ”を使って道路整備する九条武子。近隣の下落合住民は、屋外での彼女の姿を頻繁に目撃していただろう。AIエンジンによる着色を試みたが、“清子さん”の写真が大きくブレているせいか、カラーリングがうまくいかない。下の写真は、当時の九条武子邸を建設したとみられる1940年(昭和15)に撮影された服部建築土木の建築士などスタッフたち(提供:森山崇様Click!)と、記念写真が撮影された同社の社屋(旧・遠藤邸Click!)の玄関。 
九条武子工事_color.jpg
服部建設土木事務所記念1940.jpg
服部建築土木(旧遠藤邸).JPG
おまけ2
 暖かい日がつづき、正月に近所にあるモミジの紅葉がちょうど見ごろになっている。
正月の紅葉.JPG

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