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男爵家からの迎車位置は九条武子邸の門前。 [気になる下落合]

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 かなり以前、下落合753番地に住む九条武子Click!が邸前からクルマに乗り、大正天皇の墓所(多摩御陵)へ出かける記事Click!を書いたことがある。1927年(昭和2)2月20日の真冬のことで、彼女が死去するちょうど1年前の出来事だった。
 同年の『主婦之友』4月号では、彼女による手記で夫の男爵・九条良致といっしょに参拝したことになっているが、下落合へ九条良致が迎えにきたとは彼女の手記にもまたグラビアの記事にも書かれていてないので、おそらく同家から迎車だけが下落合へ手配されドライブの途中で、あるいは目的地へ着いてからいっしょに参拝しているのだろう。このとき、記者のクルマで洋画家の赤塚忠一が同行してスケッチを残している。
 このとき、九条武子は記事の本文を書き8首の短歌を詠んでいるが、その間の文章はドライブをしながら東京近郊の風景を写す、エッセイのような趣きになっている。甲州街道を西へ向かう車窓から眺めた風景で、調布あたりをドライブする様子から引用してみよう。
  
 甲州街道は良い道であつた。自動車は都の北、平坦な道を静かに走つてゆく。過ぎてゆく沿道の村々は、春の訪れもおくれて、未だ冬ごもりの寂しい色につゝまれてゐた。(中略) 青い屋根、桃色の窓、ラヂオのアンテナなども見える、ペンキを塗つた現代式住宅も、だんだんに少くなつて、調布の里を過ぎたあたりは、見はるかす遠い丘に鎮守の森、桑の畑など、それらは武蔵野らしいむかしのまゝの、画幅を展げてゐるのも嬉しかつた。
  
 同誌のグラビアには、出発時とみられるクルマの前に立つ黒紋付きの九条武子をとらえた写真が、同誌のカメラマンによって撮影されている。(冒頭写真/AI着色) 背後に写るクルマは、当時は最新モデルだった米国GMのシボレー「スペリア」シリーズだと思われるが、ステップに滑りどめの踏み台が設置・補強された国内の特別仕様車だろうか。
 前回の記事では詳しく触れなかったが、この九条武子が出発前にクルマ横に立っている撮影場所について、少し具体的に考察してみよう。『主婦之友』の記事では、昼ごろに下落合を出発したと書かれており、真冬の太陽光線は画面のやや右手上空から、西へ傾き気味に射していると思われる。すなわち、右手が南面する方角だろう。彼女を迎えにきた男爵家のドライバーは、遠慮したのか運転席から下りて画角からは外れている。
 以前の記事では、写真のキャプションとして「自邸前のクルマ脇にたたずむ多摩へ出発前の九条武子」としたが、クルマとともに彼女の背後に写る、板塀が設置された家屋は九条武子邸ではない。九条武子の自宅は、カメラを向ける撮影者の背後、すなわち道路から少し凹状に拡げられたスペースに九条邸の瀟洒な門があったはずだ。
 九条邸敷地の周囲は、大正期から丈の高い密な生垣と細かに編まれた細い竹垣で囲まれており、写真のような板塀は設置されていなかった。また、敷地内の母家の位置も、門のあるオバケ坂Click!(バッケ坂)筋の道路から少し離れており、写真にとらえられた住宅のように道路際へ近接していない。この写真が撮影される前年、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を参照すると、板塀のある道路に近接した住宅は、九条邸の向かい隣り(東隣り)にあった堀末邸だろう。念のために、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を確認すると、道路に近接した東西に長い堀末邸の母家を確認することができる。
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 また、板壁越しに少し離れた位置に見えている、道路からも目立つ大樹はクスノキだろうか。この遠目では常緑樹のクスノキのように見える巨木は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にもとらえられており、またこの一帯は空襲を受けていないせいで、戦後1947年(昭和22)撮影の米軍による空中写真にも、大きく育って枝葉を繫らせている様子が目立って確認できる。このクスノキは、清水厚邸の南東に面した広い庭園に生えていた。ちなみに、「下落合事情明細図」に収録された下落合761番地の清水厚は、帝国工業の専務取締役で大正期から同所に大きな屋敷をかまえていた。
 九条武子と、彼女を迎えにきた男爵家のクルマは、板塀のある堀末邸の北寄りの門から道沿いに南西へ7~8mのところ、道路西側に面した九条武子邸の門のほぼ真ん前で撮影されていることがわかる。カメラマンは、道路より少し引っこんだ九条邸門前のスペースに立ってシャッターをきっているのだろう。そして、クルマは九条邸に向けて入ってきた子安地蔵通りへ再び出られるよう、すでに方向転換が済みいつでも出発できる用意ができている。南側は、細い山道が通うだけのバッケ(崖地)Click!で、クルマの通行は当時もいまもできない。九条武子を乗せたシボレーは、子安地蔵通りを右折し七曲坂Click!を下ると、甲州街道へと抜けるために小滝橋あたりから南下するコースを走っていったのだろう。
 自邸の門前に駐車する、クルマの前で撮影された九条武子をAIエンジンを使って着色したので、過去の記事に掲載していた下落合753番地の自邸ですごす彼女の日常的な写真も、ついでにAIでカラーリングしてみよう。これらの写真は、彼女の家によく遊びにきていた親友のひとり、“清子さん”が自身のカメラでプライベートに撮影したものだ。以前にも1点、書斎で仕事をする九条武子をとらえた写真をAI着色でご紹介Click!している。
 さて、下落合の九条邸へ遊びにくる親友のひとりに、宮崎龍介Click!と結婚し目白通りをはさんだ北側、九条邸から直線距離で800mほどの高田町雑司ヶ谷3621番地(現・西池袋2丁目)に住む柳原燁子(宮崎白蓮)Click!がいた。彼女が九条邸に遊びにきていて遭遇したらしい面白いエピソードが、九条武子が死去した翌年1929年(昭和4)に太白社から出版された歌集『白孔雀』のあとがきに記録されている。同書は、吉井勇Click!が編纂して木村荘八Click!が装丁を担当し、あとがきを宮崎白蓮Click!が書いている。少し長いが引用してみよう。
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 思想のとても新しい若い男が、あの方と話合った事があった。その男の話は常日頃そうした話に耳なれていた私でさえ、びっくりさせられるようなことを、たあ様(九条武子)の前でべらべらとしゃべった。それにあのたあ様は眉根一つ動かさずにむしろその男につりこまれたかのように聞いておられた。そしてその男の話に充分の理解と最も明晰な洞察をもって、今の社会の如何に改造すべきや、現内閣の政治上の事に至るまで、とても確かな意見を出して具合よく応答されたのには聞いていた私が呆れた。「どうせ華族の女だもの、薄馬鹿に定まってらあ、武子っていう女は低能だよ」/たしかにこんな陰口をたたいた事のあったこの男も、すっかり参ってしまって、辞去する頃には、「ねえ、僕らの運動の資金をかせいで下さいな、何? 丁度新聞社から夕刊に出す続きものを頼まれてるんですって? そいつはうまいや、いや、どうも有難う。」/その男が帰ってしまったあとで私はたあ様に訊いた。「たあ様の周囲にあんな話をして聞かせる方もありますまいに、いつのまにあんな学問をなさったの?」 その時、たあ様は笑いながら、「私だってそう馬鹿にしたもんじゃありませんよ。」(カッコ内引用者註)
  
 この若い男は、運動資金をたかるためカネを「リャク」(略奪・略取)にきた、アナキストかサンディカリストの活動家だったのだろう。そのような男が訪問し、九条武子へ気軽に面会できたのは下落合の家しかない。傍らにいた宮崎白蓮も、「常日頃そうした話に耳なれていた私」と書いているので、宮崎龍介と結婚したあとのエピソード、おそらく大正末ごろの出来事だとわかる。しかも、白蓮の書き方から、訪問した男をすでに宮崎邸かどこかで見知っていた可能性が高そうだ。
 個々の人間性や思想、個性などに目を向けず、「どうせ華族の女」と十把一絡げの稚拙で非主体的な階級観を語ってしまうこの男は、のち1933年(昭和8)に起きた岩倉靖子Click!らを含む、学習院のサークル「目白会」や日本女子大学校のサークル「五月会」の特高Click!による摘発を、どのような眼差しで眺めていたのだろうか?
 「リャク」の男が、九条邸を訪れたのはかなり見当ちがいだったと気づいたように、勉強家で読書好きな九条武子は、当時の最先端だった思想書Click!にも欠かさず目を通していた様子がうかがわれる。同じ浄土真宗でも宗派が異なる大谷派から出版された、ヘーゲル哲学と真宗教義とを比較し近代的解釈を試みた哲学者・清沢満之の『他力門哲学』をはじめ、当のヘーゲルが著した弁証法哲学の各書籍や、それらを「逆立ちしている」と社会科学的な視点から批判したマルクスの著作さえ、彼女は読んでいた可能性がある。だから生半可な“理論武装”では、知識量の豊富さと論理性において彼女にまったく歯が立たなかったのだろう。
「白孔雀」九条武子/吉井勇/木村荘八1929.jpg 九条武子ブロマイド_color.jpg
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 気軽に訪問できる下落合の九条武子邸へ、同じ浄土真宗本願寺派で光徳寺Click!の息子たちだった、佐伯祐三Click!佐伯祐正Click!は訪問していないだろうか? ふたりとも、下落合661番地のアトリエから直線距離でわずか400m余のところに、九条武子が住んでいることは確実に知っていたとみられる。特に佐伯祐正は、イギリスでセツルメントの思想を学んで帰国しており、九条武子とは同じ宗派内でも近しい思想の持ち主ではなかったかと思われるからだ。弟のアトリエに寄ったついでに、九条邸へ挨拶に訪れているのではないか。

◆写真上:1927年(昭和2)2月20日の出発直前、自邸門前で撮影された九条武子。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる九条武子邸。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・九条邸。中下は、1947年(昭和22)の同写真にみる同邸とその周辺。は、九条武子とクルマがいた地点の現状。
◆写真中下:いずれも親友の“清子さん”が撮影したプライベート写真にAI着色したもので、は、朝5時Click!に起きて庭掃除をする九条武子。中上は、草刈りをする同女。中下は、人形や雪洞が置かれた居間でくつろぐ同女。は、書斎で朝刊を読む同女。
◆写真下上左は、1929年(昭和4)に出版された吉井勇・編/木村荘八・装丁による九条武子『白孔雀』(太白社)。上右は、東京大学法学部の「明治新聞雑誌文庫」に保存されている、宮武外骨Click!の「美人」アルバムに収録・貼付された九条武子ブロマイド。は、近所の野良ネコClick!を相手に縁側で日向ぼっこをする同女で、“清子さん”による下落合でのプライベート写真には随所にネコが登場している。は、同じく縁側で繕いものをする同女。
おまけ1
 子どもたちがよく転んでケガをする、崖地(現・野鳥の森公園)に面した丘上に散在する石を、工事用の“ネコ”を使って道路整備する九条武子。近隣の下落合住民は、屋外での彼女の姿を頻繁に目撃していただろう。AIエンジンによる着色を試みたが、“清子さん”の写真が大きくブレているせいか、カラーリングがうまくいかない。下の写真は、当時の九条武子邸を建設したとみられる1940年(昭和15)に撮影された服部建築土木の建築士などスタッフたち(提供:森山崇様Click!)と、記念写真が撮影された同社の社屋(旧・遠藤邸Click!)の玄関。 
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服部建設土木事務所記念1940.jpg
服部建築土木(旧遠藤邸).JPG
おまけ2
 暖かい日がつづき、正月に近所にあるモミジの紅葉がちょうど見ごろになっている。
正月の紅葉.JPG

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