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樹木のトンネルだった七曲坂。 [気になる下落合]

七曲坂.JPG 大島久直.jpg
 七曲坂は、その東西に位置する通称「権兵衛坂」と「オバケ坂」Click!とともに、わたしが学生時代からいちばん多く上り下りした坂道だろう。旧・下落合全域で、目白崖線に通うもっとも古い坂道といわれ、その開拓は鎌倉時代とも、あるいはそれ以前からともいわれている。
 下落合の総鎮守である氷川明神の境内に沿って通う、鎌倉街道のひとつ「雑司ヶ谷道」(新井薬師道)から丘上へクネクネと登り、そのまま北へ曲がりくねった道を進むと、やがて清戸道(目白通り)を経て「鼠山」と呼ばれたエリアへと抜ける道筋だ。昔から七曲坂Click!の話になると、地元の戦前を知る方は決まって、条件反射のように「大島大将」の名前を口にされた。それは、いまでもまったく変わっていない。七曲坂の丘上に建つ、巨大な西洋館に住んでいた陸軍大将の大島久直について、『落合町誌』(1932年・昭和7)から引用してみよう。大島久直は1928年(昭和3)に亡くなっているので、町誌に書かれている久直の記述は、五男「大島久忠」の項目内だ。ちなみに、大島久忠は戸山ヶ原Click!にあった近衛騎兵連隊Click!に勤務していた。
  
 当家は元秋田藩佐竹氏に仕ふ、先考久直文久年間江戸に出でゝ軍事に志し累進して陸軍大将に昇さる、其の間各種陸軍の顕職に歴補す、殊に日清役の戦功により華族に列し男爵を授けられ、日露役に於ては第九師団長として旅順並に満州軍の中堅として偉功を樹て、明治四十年勲績を以て子爵に昇さる。現主は其の五男にして明治二十三年六月の出生、昭和三年家督を相続し襲爵仰付けられ、前名忠と改む、(後略)  (同書「人物事業編」より)
  
 下落合には戦前、元帥や大将クラスの軍人たちが多く屋敷をかまえていた。軍人関連の戦前資料をご覧いただけば、明治から昭和にかけて、まるで「帝国陸海軍」の縮図のような地域だったことがわかる。でも、わたしは親父譲りで戦前の軍隊がキライだから、この目白・下落合界隈をご紹介するサイトで、軍人の物語をあまり取り上げたくない。
 むしろ自由な精神から、軍や内務省(警察)と期せずして大なり小なり対峙してきた落合地域の芸術家をはじめ、あるいは彼らに意識的かつ主体的に抵抗しつづけたリバタリアン、リベラリスト、ジャーナリスト、知識人、事業家たちのような存在にこそ共感をおぼえるので、彼らについてはできるだけ触れてみたいと考えている。
大島久直邸.jpg
大島邸事情明細.jpg 大島邸陸軍1936.jpg
 ただし例外があるとすれば、この記事がそれだ。七曲坂をご紹介するとき、「大島大将」というキーワードは欠かせない存在となっている。なぜそれほど、七曲坂と大島大将が深く結びついているのだろうか? その疑問がようやく解けたのは、1916~17年(大正5~6)に建てられたとみられる大島邸と、現在は十三間道路(新目白通り)の下、聖母坂下にあった“あめりか屋”施工の陸軍元帥・川村景明別邸の写真を、ある方がわざわざ探し出してくださり、お譲りいただいたからだ。
 大島邸は、いまでも地元で七曲坂を語るには欠かせない重要なキーワードのひとつとなっている。大島久直は、1918年(大正7)に陸軍を退役しているので、七曲坂の邸はその直前に建設されたことになる。七曲坂を上り下りするにつれ、大島邸の巨大な西洋館が少しずつ姿を現わす様子を一度目にすれば、当時の人々には忘れることのできない強烈な印象を残しただろう。「大島大将の七曲坂」という言葉が、地元の記憶へ自然に刻みこまれたのがよくわかるのだ。おそらく、佐伯祐三Click!も七曲坂を歩いているだろうが、彼の好みからいえばおよそ『下落合風景』のモチーフにはなりそうもない、豪華で巨大などっしりとした西洋館だ。
 写真を観察すると、手前が七曲坂の道筋で撮影ポイントは大島邸の反対側、通称「権兵衛山」の頂上近くの傾斜が急な西斜面からだろうか? さっそく、古くからご近所にお住まいのI様とM様にお訊ねしたところ、はたしてそうだった。いまだ洋風住宅という言葉が似つかわしくない、明治期からつづく欧米直輸入タイプの西洋館の趣きが濃厚だ。西洋館の裏側(西側)には、建築当初は1階建てだった和館が隠れている。この大きな屋敷を支えるコンクリートの強固な擁壁は、坂の西側面に往時そのままの姿をとどめて、現在でも見ることができる。
 邸の屋根上にある、まるで彫刻のような大小の装飾はなんだろう? 暖炉の煙突のようでもあり、そうでなければまるで軍艦の望楼のような風情の構造物だ。竣工直後に撮影されたのだろう、手前の庭木がまだ大きく育ってはおらず、屋敷西側の洋館部全景を見ることができる。大島邸は、1928年(昭和3)に邸を建てた久直が亡くなると、ほどなく若干の増改築が行われたようだ。邸内へ頻繁に遊びに行かれていた、当時小学生だったI様のご記憶によれば、すでに屋根上の装飾「煙突」は存在せず、洋館の北側部はそのままだったものの、南側の内部が和室造りに変わっていたようだ。また、北西側の和館部の一部が2階建てに改築され、子供部屋になっていたらしい。
大島邸火保図.jpg 大島邸戦後1947.JPG
 わたしの学生時代から、大島邸跡は丈の高い草木が繁る、広い原っぱとなっていたように記憶している。戦後の一時期は、東京飯店の社長宅となっていたようだが、その家も壊されたあとは、草原が拡がるばかりの敷地だった時代が長い。うちのオスガキたちが小学生のころ、原っぱに入りこんではトンボやセミ、バッタを採っていた。ときどき、管理人のヲジサンに叱られては追い出されていたらしい。原っぱの一部には、おそらく地下室の残滓なのだろう、防空壕のような大きな洞穴が口を開けていた。そこが危険なので、子供が入りこまないよう管理されていたのだろう。
 現在のマンションが建設される前、大島邸跡の七曲坂側の擁壁上には濃い樹林がみられ、権兵衛山側(東側)の斜面の木々とともに、坂全体がみどりのトンネルのような趣きだった。昼なお薄暗く、夏の日盛りに崖線を上り下りするときは、必ずひんやりした空気が漂う七曲坂を選んだものだ。

■写真上は、七曲坂につづく旧・大島邸の擁壁。は、『落合町誌』に掲載された大島久直。
■写真中は、1916~17年(大正5~6)ごろ七曲坂に建てられた大島久直邸。下左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる大島邸。下右は、1936年(昭和11)の空中写真。
■写真下は1938年(昭和13)の「火保図」で、は1947年(昭和22)の空中写真にみる大島邸。同邸は戦災にも焼けず、戦後まで七曲坂に建っていた。


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コメント 15

ChinchikoPapa

チェーンソーも、なかなか微妙な機械なのですね。
nice!をありがとうございました。>Krauseさん
by ChinchikoPapa (2008-05-08 13:50) 

ChinchikoPapa

浜千鳥を浮彫りにした神社というのは、ほんとうに珍しいですね。
nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-05-08 13:53) 

ChinchikoPapa

舞うのもたいへんですが、それを支えるほうはもっとたいへんそうですね。
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-05-08 13:55) 

ChinchikoPapa

昔の美術の先生というと、ほんとうにベレー帽をかぶっていました。そして、それがよく似合いましたね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2008-05-10 00:17) 

テツオ

久しぶりコメント。何回か付けようと思った記事はあったのですが。拝読だけは欠かさず。フラワーショップアベーユの、、、です。
1946年生まれですが、小学校低学年の頃は建物が健在でした。既にだったか、いつ空き家になったのか分かりませんが、しばらくは空き家。日本風ではない欧米流の富貴貴顕、上流階級のお屋敷で目立ちました。玉砂利の立派な道路が続いて、たしか絵に描いたような車寄せがあったような気が。テレビのロケによく登場するお屋敷とそっくりのイメージが強くて、記憶はおぼろげです。小学校高学年の時に空き地となり、そこで野球の練習をしていました。細長いのでキャッチボールとノックと守備練習。

磯釣とお魚を食べることとステレオ写真とクラシックカメラ中心のブログです。
http://siokaze1.cocolog-nifty.com/sakanachann/
それぞれかなりマニアでないとちょっと、、、ですけど。
by テツオ (2008-05-10 16:31) 

ChinchikoPapa

テツオさん、コメントをありがとうございます。お久しぶりです。(^^
リンクをしていただき、ありがとうございます。さっそく、「さかなちゃん」サイトをRSSに設定させていただきました。So-netブログは、「読んでるブログ」を最大20件までしか表示できませんので、コンテンツを更新されますと随時タイムスタンプ順に上位へ表示されるかと思います。
また、貴重な情報をありがとうございます。これだけの建物が空き家になると、ちょっと近寄りがたく怖いですね。現在、大島様(久忠様のご子息)は都内にご健在で、クラス会にもときどき顔を出されているようです。
わたしの学生時代(1970年代後半)、すでに門のところには立入禁止の札が下がり、一応ふさがれていましたので気軽には入れませんでした。オスガキどもは、立入禁止の柵などなんのその、学校の帰りにいつも入り込んでは遊んでいたようです。(笑) いまのデュープレックスが建ちはじめる直前まで、大島邸の草っぱで下の子は虫を追いかけていたようです。
by ChinchikoPapa (2008-05-10 17:19) 

テツオ

ありがとうございます。こちらから勝手にリンク張っていただけで、そうとう毛色、傾向の異なるブログ。まあ、KYに近い場違いで、たまに地元下落合もなんとなく書いているということですけど申し訳なし。
大島邸跡地は、空き地での野球少年たちの練習の後に、いつのまにか売れて、中華料理店経営者のコンクリートの豪邸になって、火事を出して、左前になって、とにかく手放して、空き地になって、しばらくして億ションになったという経緯ですね。その空き地の時代に、たしかローライコードだったかな二眼レフのお散歩撮影でごく普通に入ったことがありました。いやミノルタオートコードだったかリコーフレックスだったか。老人ボケかな。
大島さんの屋敷だったということなんて戦後の少年は誰も知らなかった。いつだったか、なにかの折、亡父に、たしか昔、七曲の丘の上に西洋屋敷があったよね、あれはいったい何だったのと聞いて、陸軍の軍人で大島さんという、閣下だか貴族だかと教えられて初めて知った。
by テツオ (2008-05-10 19:10) 

ChinchikoPapa

わたしは東京飯店社長宅の時代をおそらく知らないのか、記憶がほとんどないですね。気がついたら廃墟だった・・・という感触です。
確か、コンクリートの豪邸は北側に建っていて(そこが基礎が残る廃墟になっていました)、南側が広い芝庭だったような印象です。なんだかいつも草原で、人の背丈の半分ぐらいに伸びた草が、毎年7月ぐらいになるときれいに刈られていたという記憶ばかりですね。わたしも原っぱ時代に、新宿方面の眺望やタヌキの森側をちゃんと撮影しておけばよかったです。
大島大将は、退役後に子爵を授爵されているようですね。
by ChinchikoPapa (2008-05-10 23:24) 

テツオ

どうも。大島久直をググったら、幕末に秋田藩の槍術指南の家に生まれ戊辰戦争に官軍で参戦。秋田というと佐竹ですが、欧州列藩同盟に入っていない数少ない例外。このあたりは浅田次郎の南部藩の壬生義子伝あたりから、幕末小説ではいろいろと書かれているところですな。山本周五郎や藤沢周平はいいけど、司馬遼太郎は薩長明治日本政府の富国強兵政策に対する批判不足でちといけません。ともかく会津も長岡もつらい目にあった。君子豹変しなかった白虎隊や上野の彰義隊もそうですが、薩長にはいいようにやられてしまったという同情というか判官びいきがあります。佐幕派列藩と旗本御家人は首をすくめて動かなかったのがほとんど。ウチはその頃、会津から只見峠を超えて越後に逃げた敗走兵の末裔と聞いてますのでなおさらです。
僅かな例外を除いて官軍に連戦連敗というのが不思議ですが、一番は錦の御旗、賊軍というのが魔法のように効いたらしい。奥州列藩戦争では砲のアームストロングとスナイドル小銃の性能の差も大きかったという定説。天子様という存在が日本人の心に一貫して張り付いていたということになるのでしょうが、これも不思議。
大島邸から発展しましたけど、亡父は大島大佐の屋敷ともいっていました。え、大佐であの屋敷と思いました。久忠は子爵を相続した昭和戦前の当主だった大佐でしたね。
by テツオ (2008-05-11 01:35) 

ChinchikoPapa

テツオさん、重ねてコメントをありがとうございます。
教科書に登場するような「有名人」(これも明治政府以降にことさら顕彰され、都合が良いように整理・付会された“英雄”たちが多いのでしょう)たちが、歴史を創って担っていく・・・的な司馬遼太郎の史観には、昔からどうしても馴染めずにどこかついていけません。いつかも書きましたけれど、江戸岬の付け根に千代田城を築いたのは、司馬史観流にいえばすぐにも迷わず太田道灌だと答えるのでしょうが、わたしは鎌倉時代からの寺社建築を中心に規模の大きな建築工法を絶やさず受け継いできた、地元の大工と左官だって建築主体だろう・・・という思いが、どこかにあるんですよね。
目白文化村を造ったのは、司馬史観風ならすぐにも堤康次郎と箱根土地ということになるのでしょうが、わたしはそこへ実際に家を建てて住み、地域の街づくりとしての「目白文化村」を具体的に創造していった住民たちのほうだって一方の主体だろう・・・と考えてしまいます。そういう視座から見ますと、司馬史観にはついていけない抽象化=一般化と、地元や現場へ一定距離をおいて密着しないもどかしさと、“英雄”=有名人中心(偏重)の史観をどこかに強く感じてしまうのです。
このサイトでも何度か触れていますけれど、いくら地元の方々が大正時代から線路上を走る貨物列車を目撃していても、西武新宿線(西武電気鉄道)は社史としての西武鉄道史にある1927年(昭和2)4月に開通という「公式記録」(後世の付会的抽象化)を、史実として容易に信じてしまう危うさについて、どこか現場や実相から乖離しがちな司馬史観につながるような匂いを感じてしまうのですね。
うちは、江戸期から一貫して町人でしたので、戊辰戦争時にはシカトかあるいは正反対に見物を決め込んでいたんじゃないかと思うのですが、上野山へ駆けつけた町人たちもずいぶん多くいたようです。薩長軍が上野山に火をつけたとき、駆けつけた江戸じゅうの町火消したちと薩長軍とのシビアな対峙は有名ですね。江戸東京史を、ほんとうの地域史として地元中心に描くとすれば、おそらくいまの「日本史」とはずいぶん違った、場合によっては対立項としての地域史が浮かび上がってくるんじゃないかと思います。それにしても、「忠臣蔵」が大好きな日本人にしては、「君子豹変」しっぱなしの薩長に“甘い”のは、なんとも皮肉な現象だと思いますが。(笑)
先日、お話をうかがった方によれば、大島久忠さんは近衛騎兵連隊へ勤務し、毎日馬に乗って七曲坂から戸山ヶ原へ通っていたとのことですが、その方のご記憶によれば「中佐」だったとのことです。その後、敗戦までの間に「大佐」へ昇進したのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2008-05-11 17:11) 

テツオ

まいどありがとうございます。おっしゃる通り、司馬史観につきましては、いろいろな論評がありまして、いろいろ読んだ記憶があります。だいたい司馬史観という言葉自体が批判的観点から出発するようで、そうでない肯定礼賛の立場からは司馬史観なんて言葉を聞かない。
で、ワタクシも昔の下落合のシンボルのひとつであった大島邸にはなんとなくコダワリがあって、久直、久忠の来歴は知りたいところでした。お手軽にググると、久直が最初に建てた家を上智大学が買って、これがソフィアの出発となっていた。大島館という最初の校舎。へー、そうだったのと驚きました。1910年(明治43年)建設。1912年に購入して1913年に上智大学は第一歩を踏み出したとありました。昭和51年に解体されている。四谷の上智大学の場所って、いかにも大名屋敷があったようなところ。新品で売ったような感じで、七曲の屋敷建設の資金になったと思います。へー、上智大学ってあまり古くないねと思った。
http://www.sophiakai.gr.jp/jp/modules/history3/content/index.php?id=28
久直は陸軍軍人として当然ですが、戊辰戦争、西南戦争、日進戦争、日露戦争に出陣しています。奥州戦争から函館戦争の転戦から始まって、戦死せず、大きな失敗もなく勤め上げたはず。軍歴は輝かしい。こういった軍史というのはけっこうまとまっているものだなと思いました。そりゃそうですね、不思議はない。多分、寄せ集めると膨大な公式軍史があるのでしょう。日清戦争の戦功で男爵。日露戦争では中将として乃木大将の片腕として旅順、奉天に転戦。この戦功で大将。子爵になって、陸軍大学校長、教育総監、軍事参議官などを歴任。大正7年退役、昭和3年没。勃興期から形成期の帝国陸軍の中枢を歩いたといっても過言はない。近衛師団長も歴任している。そうだったのか。普通の人は知らない。現在の下落合の人だって当然に知らないよね。
久忠はネット上では資料は少ない。騎兵大佐として日中戦争に参加している。陸士23期だが、陸軍大学には進んでいないようだ。いわゆる天保銭組ではなかったようだ。昭和12年、日中戦争用に101師団というのが編成された。この時すでに騎兵大佐とある。101師団は南京攻略戦では側面支援として揚州攻略とある。その中で、「大島久忠部隊長は竹田宮家と懇意で、宮家の千人針と小旗を持っての従軍だった。」という記述を見つけた。貴族なので普通の軍人とは違っていたことをうかがわせる。爵位を持つ貴族は陸軍大学校にはいかないものかも知れない。
日中戦争用の101師団は昭和15年に編成を解かれている。最後の編成では、「第12方面軍直轄 第3警備隊司令部, 大島久忠大佐」となっていたようだ。


by テツオ (2008-05-13 07:07) 

ChinchikoPapa

テツオさん、重ねてコメントをありがとうございます。
上智大学の「大島館」情報、ありがとうございました。上智大学は残念なことに一度もキャンパスへ入ったことがありませんので、「大島館」の存在そのものを知りませんでした。1976年(昭和51)に解体ということは、わたしが大学へ入りたてのころにはまだ建っていたわけで、同大学を受験していれば気がついたわけですね。ぜひ一度、この目で見てみたかったです。同大ソフィア会のサイトに掲載された「大島館」の写真を見ますと、いかにも赤レンガを多用した明治建築のように見えます。
同じページに女子寮だった「明泉寮」の写真も掲載されていますが、こちらはあの信濃町の旧・犬養毅邸だったようでビックリしました。犬養邸=明泉寮がアタマの中で結びついていませんでした。確か5年ほど前に、こちらも解体されてしまいましたね。サイトの記事を読みますと、「女子学生がレディになるようにいろいろ気を遣ってくれてたのよ」なんて言葉がさりげなく交わされたりして、さすが上智だと改めて関心してしまいました。(^^; もっとも、当時と現在の環境とはずいぶん異なるのかもしれませんが・・・。
大島久直の戦歴は、ほんとうにすさまじいですね。幕末から明治期のおもな戦役へほとんど参加してます。地元でも昔なら、近所の人たちは知っていたのでしょうが、いまではほとんど知られていないかもしれません。ほかに、取材しているとよくお話に登場するのは、旧・下落合2丁目では聖母坂下の川村景明陸軍元帥(別邸のち武藤家本邸)と、こちらはもっと地元の方たちへ印象が深く根づいている(上落合の方々からもよく耳にします)、旧・下落合4丁目の武藤信義陸軍元帥(本邸)です。現・林芙美子記念館の隣りだったせいか、林芙美子も隣邸のことをエッセイに書いてます。
大島邸へよく遊びに行かれた、先日、お話をうかがった方が落合尋常小学校時代のことですから、1930年(昭和5)前後に大島久忠中佐だったとしますと、それから1935年(昭和10)までの間に大佐へ昇進した可能性が大きいですね。
by ChinchikoPapa (2008-05-13 13:09) 

アヨアン・イゴカー

>司馬遼太郎の史観には、昔からどうしても馴染めずにどこかついていけません
仰る通りですね。歴史書と言うのは、「英雄」だの「権力者」によってまとめられていますが、それは無数にある事実のごく一部でしかありませんから。もっとも、その一部ですら十分に知らないことを恥じておりますが。
by アヨアン・イゴカー (2009-06-01 08:54) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、こちらにもコメントとnice!をありがとうございます。
おそらく、わたしの孫あたりの世代では、「日本史」を見る目がずいぶん変わってくるのではないかと思います。それは、日本国内だけの自己完結しがちな「日本史」研究にとどまらず、1990年代から本格化している近隣のアジア諸国との共同研究による成果と、国内で頻度が高まっている発掘成果とそのコンピュータ解析技術の進歩とで、研究スピードは累進的に速まるのではないかと期待してるんです。その中で激変しそうなのは、縄文-弥生-古墳の各時代のイメージではないかと想像しています。
by ChinchikoPapa (2009-06-01 15:15) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-01-31 23:44) 

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