知らないけど懐かしい目白風景1964。 [気になる下落合]
1964年(昭和39)に文藝春秋新社から出版された、ドイツ文学者で随筆家、また文学評論家の高橋義孝のエッセイに、『わたくしの東京地図』という随筆写真集がある。撮影は出版社のカメラマン・山川進治が担当し、東日本橋出身の木村荘八Click!による挿画がところどころに掲載されている。もちろん、木村荘八Click!は1958年(昭和33)に死去しているので、これらの挿画は高橋義孝が好みで挿入しているのだろう。彼は知ってか知らずか、木村荘八は自由学園Click!の美術教師Click!だったので、目白駅は頻繁に利用していた。
本書の内容は、高橋義孝が東京のいろいろな街並みを散歩し、自身の経験や記憶、想いなどと重ねあわせて紹介するという企画ものだが、「東京地図」として散歩する街のよくある順序というか、街々を歩いて紹介するありがちな順番が、彼ならではの奇抜なプライオリティで面白い。高橋義孝は(城)下町Click!の神田の生まれで、生粋の“神田っ子”だ。だから、「神田」の街を真っ先に紹介するのは当然だけれど、その次の章で紹介するのが「日本橋」ではなく、いきなり「目白」というのがユニークなのだ。「日本橋」の街は、ほぼ同書のトリ(終い)の章で紹介されている。
そう、高橋義孝がこのエッセイを書くずいぶん以前、30歳のときから妻の実家だった豊島区高田町鶉山(現・目白2丁目)の家を自宅にしていた。だから、それ以前から彼は「目白」に馴染んでいたのだろう。もっとも、高橋義孝のいう「目白」は少し範囲が広そうで、旧・高田町(現・目白/雑司ヶ谷)だけの範囲ではないようだ。豊島区ばかりでなく、文京区の目白台Click!や関口台(旧・椿山Click!/目白山Click!)も、昔からつづく地域の概念として含まれているらしい。おそらく、東京15区Click!から35区Click!へと移行する、彼が学生時代のころまで存在した目白崖線沿いの、小石川区目白(台)と豊島区高田町→目白(町)の記憶あるいは印象が、どこかに色濃く残っていたのかもしれない。
わたしもまた、もし本書のような「東京地図」を書くとすれば、最初の章にはまちがいなく「日本橋」をすえるのだろうが、2番目は“神田っ子”の高橋教授と氏神である神田明神Click!には申しわけないけれど、「神田」ではなく「落合」の章をもってきそうだ。もはや、下落合に住みはじめてから長いので、東京の街で特別な思いがこもる日本橋を除けば、もっとも思い出が多く馴染みのある街は、山手線・目白駅の西側、高田馬場駅の北西側に拡がる落合(町)ということになってしまった。
高橋義孝がとらえる「東京地図」の眼差しは、いきなり冒頭で榎本其角が江戸の雷Click!を詠んだ句「稲妻や 昨日は東 今日は西」からはじまる「口上(序)」と、巻末の「あとがき」に集約されている。同書より、少しだけ引用してみよう。
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近年の東京が変って行く有様を見れば、誰だって思わずこういう(其角の)句や言葉を口にしたくなるに違いない。私は殊更に旧を尊ぼうとする者ではないが、東京に生れて東京に育った人間ならば、たとえば今の日本橋の上に佇んでみれば、恐らく誰しも憮然たる想いを懐かざるをえないだろう。/さりとて、ここを去って帰り行くべき故郷(くに)はない。墓は浅草清島町の寺にある。(中略) だから今では、ままよと、この化物じみた東京の片隅に居直った恰好になっている。(カッコ内引用者註)
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なんだか、現代のエッセイとしても通用しそうな表現だが、これが書かれた当時は東京オリンピック1964による防災インフラClick!の食いつぶしや掘割りの埋め立て、公園・緑地・景観つぶし、地域コミュニティの破壊=町殺しClick!が行なわれている真っ最中だった。著者は例として日本橋Click!を挙げているけれど、あの東京じゅうで起きていた大量破壊から60年、橋上のぶざまな高速道路を取っぱらう事業Click!が、ようやく昨年より始動している。
高橋義孝は、わたしの親父よりも10歳以上は年上だが、「目白」の章がはじまるとすぐに新派の『残菊物語』Click!、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の舞台写真を挿入している。写っているのは、時期的にみて日本橋浜町にある、わたしも子ども時代にさんざん連れてかれた明治座Click!の舞台で、水谷八重子(初代)Click!のお徳と安井昌二Click!の菊之助だろう。
著者の目白での生活は、それほど幅員のない家の前にある道路を、クルマが頻繁に往来するせいか空気が汚濁し、いつも「薄い靄」みたいなものがかかっているのを嘆いている。オリンピック関連の工事だろうか、ときに大型トラックが通ったりすると家が揺れたようだ。1960年代の半ばから1970年代にかけ、東京の空気や水は汚濁のピークを迎えていた。いまからは想像もつかないだろうが、自動車の排ガス規制がなかったせいか午前10時なのに陽射しが午後3時Click!ごろのように感じられ、遠景がかすんで連日のようにスモッグ注意報が出ていた。また、下水道の未整備から工場排水や生活排水が河川にそのまま流れこみ、主要河川は中性洗剤の泡が飛ぶまるでドブ川Click!のようなありさまだった。
高橋義孝が住んでいた目白の自宅周辺の様子を、同書より少し引用してみよう。
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轟々といえば、秋十月の雑司ヶ谷鬼子母神のお会式の太鼓の音はまさにこれだ。何百、何千という人が手に手に小太鼓(ママ:団扇太鼓)を持って、テンツク、テンツク、テンテン、ツクツクと打ち鳴らしながら、いつ果てるとも知れない列を作って池袋の方から、一隊毎に灯りの入った万燈を先頭に押し寄せてくる。あの音には、本当に「轟々」たるものがあった。あの小太鼓、その一つを打ってみれば、疳高いが可愛らしい音がするのに、それが何百、何千と集まると、ただもう轟々というどよめきになる――ということを知ったのは、昭和十八年に高田の馬場から、この目白へ引越してきてからのことである。一度はその行列について歩いたこともあるが、何かこうつられて、ついつい余程の道のりをテンツクの行列と一緒に歩いてしまった。忌いましかった。(カッコ内引用者註)
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学習院昭和寮Click!の寮生Click!も、毎年秋にはお会式の団扇太鼓Click!に悩まされつづけていたので、出発点は池上本門寺だけでなく万燈行列Click!は東京各地から、雑司ヶ谷鬼子母神めざして集合してきていたのだろう。
文中に「高田の馬場」が出てくるが、これは当時の通称地名としての「たかたのばば」Click!のほうで、山手線・高田馬場(たかだのばば)駅周辺のことではないだろう。現在、高田馬場駅があるのは戸塚町上戸塚あるいは諏訪町であって、「高田の馬場」は徳川幕府の練兵場があった、現在の甘泉園公園の南側にあたる一帯(現・西早稲田3丁目)だ。
内田百閒Click!はどこかの随筆で、お会式の「轟々」とした団扇太鼓の音が聞こえてくると、手もとにおいていた日本刀Click!で万燈行列へ斬りこみたいと書いていたが、高橋義孝のエッセイにもその箇所が引用されて出てくる。また、鬼子母神といえばすすきみみずくClick!だが、著者はそれを土産に高田老松町に住んでいた内田百閒を訪ねたことがあるようだ。つづけて、同書より引用してみよう。
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一度あれ(すすきみみずく)を買って、お土産にして、内田百閒先生のお宅へ伺ったことがあるが、あとで百閒先生の書かれたものを拝見すると、同じく高田老松町に住んでおられた百閒先生は、鬼子母神のお会式の太鼓の音がすると、抜刀して太鼓の行列の中へ斬り込みたくなると書いておられた。薄のみみずくは先生にとって洒落にもならなかったことだろう。/それはとにかく(ママ:ともかく)、お会式の晩は、偶々東京に居合わせると、やはり鬼子母神の境内まで出かけて行って、ずらりと並んだ夜店のアセチレン瓦斯の匂いを嗅いでこずにはいられない。(カッコ内引用者註)
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内田百閒は岡山出身なので、手もとにあった刀剣は備前伝Click!、それも雑司ヶ谷金山Click!にいたかもしれない江戸石堂Click!の守久一派Click!だったとしたら、さらに面白いエピソードになりそうだ。もっとも、実際に斬りこんでたらコトだけれど。
同書には、伝統工芸すすきみみずくの作者である若き日の飯塚喜代子の写真が掲載されている。わたしが義母に頼まれて、鬼子母神裏の工房へ直接すすきみみずくを買いに出かけたのは、いまから思えばこの方ではなく、すでにおばあちゃんになっていた同じ制作者の岡本富見のほうではないかと思われる。21世紀(2005年)に入ってまで、すすきみみずくを制作しつづけていた“名人”は後者のほうだ。
著者は、目白にシジュウカラは見かけるが、ウグイスはこなくなってしまったと嘆いている。この本が出版されてから60年ほどたつが、下落合には毎年ウグイスClick!の鳴き声が界隈に響きわたっている。おそらく、目白地域にも再びやってきているのだろう。
高橋義孝は、下落合にもたびたび足を運んでいるようで、舟橋聖一邸Click!の前にあったゴルフ練習場(のち古河鉱業目白クラブ?)をよく利用している。ほかにも、目白界隈とその周辺についていろいろなことが書かれているが、また機会があれば改めてご紹介したい。
◆写真上:いまでも縁日などには賑わう、雑司ヶ谷鬼子母神の広々とした境内。
◆写真中上:上は、1964年(昭和39)出版の高橋義孝『わたくしの東京地図』(文藝春秋新社/左)と、東京五輪1964であまりの変わりように代々木練兵場Click!跡で呆然と立つ著者(右)。遠景が霞がかかったようで、スモッグがひどかったのかがわかる。中は、雑司ヶ谷鬼子母神のお会式の賑わい。下は、(城)下町と同様に露店の鼈甲(べっこ)飴屋も出ていたらしい。鼈甲飴をこねて細工している、職人の表情がとってもいい。
◆写真中下:上は、東京では駄菓子屋などで“もんじゃ焼き”と同様に子どもたちのオヤツだったどんど焼き(お好み焼き)Click!の露店。こちらでは駄菓子屋Click!の「どんど焼き」が一般名称だったので、高橋義孝はあまり聞きなれない「お好み焼」という“字幕”が張ってあったと、わざわざキャプションで報告している。中は、伝統工芸すすきみみずくづくりの名人・飯塚喜代子。下は、鬼子母神境内で売られている現在のすすきみみずく。
◆写真下:上は、走るクルマの型を除けば現在とほとんど変わらない学習院横の目白通り歩道。中は、学習院大学の正門内から見た目白通り。下は、下落合の舟橋聖一邸の北側にあったゴルフ練習場。1960年(昭和35)になると、古河鉱業目白クラブが建設されている。
鬼子母神境内のすすきみみずくと聞くと、祖父がお世話になった秋田雨雀氏のお姉さんが境内で作って売っていたと言う祖母の話を思い出します。
by アヨアン・イゴカー (2023-02-27 23:29)
アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
そうなんですね、昔は鬼子母神の周辺に住んでいた女性たちは、すすきみみずくをたいがい作れたそうで(おそらく子ども時代から遊びで作っていたのでしょう)、かなり上手な人たちはちょっとした稼ぎ口になっていたようです。秋田雨雀のお姉さんも、かなり上手だったのでしょうね。それが、20世紀末には“名人”と呼ばれる方が2人になってしまい、現在では専門の“保存会”が技術を継承して作りつづけているそうです。
by ChinchikoPapa (2023-02-27 23:37)
高校時代、ヘッセにしてもトーマス・マンにしても、高橋義孝の訳が好きでした。内田百閒との師弟関係は知りませんでした。百閒は、同郷のよしみで親愛の感を抱いていますが、その揺るぎのない自己信頼と小気味よいまでのマイペースは,とても真似ができません。
by kazg (2023-03-01 18:33)
kazgさん、コメントをありがとうございます。
文庫本になったマンの『ヴェニスに死す』と『トニオ・クレーゲル』は、 確かに高橋義孝の訳で詠んだと思いますが、ヘッセはおそらく同じ「高橋」でも高橋健二のほうの訳本が多かったでしょうか。
3月に入ると、こちらの地方では「戦争」を語りつぐ特集が多いのですが、拙記事も弾圧と戦争について次回からつづけてアップしたいと考えています。
by ChinchikoPapa (2023-03-01 19:19)
ChinchikoPapa様
高橋義孝と健二、ご指摘の通りです。区別していたつもりですが、記憶の曖昧さにあきれます(汗)
by kazg (2023-03-02 21:27)
kazgさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
いえ、高橋義孝はヘッセの翻訳も多数手がけていますので、ご記憶ちがいではないと思います。ドイツ文学はその昔、文庫本によって訳者はみんな異なりましたよね。
by ChinchikoPapa (2023-03-02 21:57)