SSブログ

浜町河岸で激昂したお梅姐さん。 [気になるエトセトラ]

浜町河岸.JPG
 久しぶりに、浜町河岸を歩いてきた。このあたり、最近では夏になると怪談話によく登場するエリアだが、出現する幽霊はどれもこれも1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!に起因しているようだ。大川に面した浜町公園の周辺と、その西側に位置する明治座の界隈が舞台になっている。スポーツセンターができたおかげで、なんだかとても狭くなってしまったように感じる浜町公園を歩きながら、親からさんざん聞かされた戦災の記憶を反芻してみる。
 浜町河岸のすぐ北側、東日本橋Click!(当時は西両国Click!/通称:薬研堀界隈Click!)にあったわたしの実家も、同日の夜半に全焼している。そのころの記憶としてわが家に伝わるのは、親父が高田馬場の下宿先へ持ち出していた1冊のアルバムに身のまわりの家具・調度・小物類と、蔵から見つかった火炎で熔けた10銭玉Click!ぐらいのものだ。ほかにも持ち出されたものはあったのだろうが、親戚たちの家に置かれたまま、すっかり忘れ去られたのだろう。
 空襲の記憶があまりに鮮烈なため、浜町河岸というと戦争や空襲の記憶として語られることが多い。わたしも子供のころから、その情景を何度も繰り返し聞かされて育ったので、1960年代に見た界隈の風景とが重なり、まるで自分がその現場にいて惨状を目撃していたかのような錯覚をおぼえるから不思議だ。物心つくころから反復して聞かされた話が、わたしの内部で勝手に映像化され記憶されている。親の世代だと空襲だが、祖父母の世代だと、浜町河岸のイメージはガラリと変わる。大川や深川が目の前なため、江戸前のうまい「う」Click!の見世ももちろんなのだが、それはまた、別の物語・・・。明治から大正にかけての人々にとっては、待合「醉月」の花井梅が起こした事件現場としての街、新派による『明治一代女』の舞台としてのイメージが強烈だ。
 高橋伝Click!と同様にマスコミや芝居、のちに映画で面白おかしく取り上げられたせいで、花井梅もまた、実像とはまったく異なる稀代の「毒婦」にデッチ上げられてしまった。彼女の生涯をみていると、もともとは佐倉の武家の出で気は強かったようだが、情にもろくて根はやさしい性格の女性だったように思える。ただ、感情が激すると前後の見境がなくなってしまう、直情型の性格でもあったようだ。事件は1887年(明治20)6月9日の夜、大川に面した浜町河岸で起きた。
 歌舞伎の女形で、通称「田圃(たんぼ)の太夫」と呼ばれた澤村源之助に恋をしていたお梅は、恋敵である芸者の喜代次に源之助を取られてしまう。ちなみに、「田圃の太夫」と名のっていたのは、当時の芝居小屋が江戸期と変わらずに、いまだ新吉原も近い浅草田圃Click!(あさくさたんぼ)の猿若町にあったからだ。源之助とお梅は、箱屋(見番に詰める芸者の付き人=マネージャーのような仕事)の峰吉を介して連絡を取り合い、逢瀬を重ねていたのだが、源之助を喜代次に取られてしまったのは、付き人の峰吉がちゃんと連絡をとらないでサボッたからだと逆上し、浜町河岸でつい刺してしまった。峰吉は逃げたが、のちに傷がもとで死亡している・・・というのが、一般的なこの事件の推移であり、コトのなりゆきとして記憶されている解釈だ。
浜町河岸1950.jpg
浜町河岸2010.JPG 花井梅.jpg
 でも、恋人との“つなぎ”を怠り恋敵に取られたぐらいで、自分のだいじなビジネスのパートナーである箱屋を刺すだろうか? それほど、お梅は紀伊国屋にぞっこんだったのだと解釈すれば、納得できないこともないのだけれど、そして直情型の性格を考えればありえそうにも思えるのだが、どこか動機がいまいち薄弱でハッキリしない。当時の裁判では、失恋の経緯が犯行の動機だとは採用されず、「醉月」を経営していた実父と、その味方をしていた峰吉との確執が主因とされて審議されたのだが、なんとなく謎に包まれている部分が残るようにも思える。事件当時の彼女は動転し、ひとりでは立って歩けなかったほどで、警察へも父親に付き添われて自首している。峰吉が死亡しているため、その不明な部分がいろいろと憶測を呼び、あることないことが脚色されて報道され、はては芝居に仕立てられて各地で上演されることになってしまった。
 お梅の事件を、最初に芝居にしたのは新派ではなく、翌1888年(明治21)に中村座で上演された『月梅薫朧夜(つきとうめ・かほるおぼろよ)』の河竹黙阿弥Click!だ。この芝居は現在ではほとんど上演されず、わたしは観たことがないのだが、当時は大当たりをとっていたようだ。もっとも、『明治一代女』のほうは、新派の十八番(おはこ)なので観ているのかもしれないが、子どものころのことなので、どうせ座席でスヤスヤと「新派午睡」Click!していたのだろう、まったく舞台の記憶がない。お梅=初代・水谷八重子Click!、澤村仙枝(源之助)=安井昌二、巳之吉(峰吉)=菅原謙次・・・のような憶えがあるのだが、きっとこれもあとで勝手に作られたイメージ映像なのだろう。
川口松太郎「明治一代女」.jpg 明治座界隈.JPG
 『明治一代女』は、川口松太郎が新派の女形・花柳章太郎のために書いた芝居だが、それ以前にも新派には、眞山青果が同じく女形・河合武雄のために書き下ろした『仮名屋小梅』が上演されている。この芝居では、お梅が「小梅」に源之助が「銀之助」に変えられているのだが、もちろんわたしは舞台を知らない。前者の『明治一代女』では、身勝手なお梅に思いを寄せつづける箱屋の巳之吉(峰吉)による純情物語・・・というような解釈だが、これまた、わたしには花柳界を単純に見すぎている(観客にわかりやすくしている)ような気もする。芝居では、刃物を持ってきたのは巳之吉(峰吉)ということになっている。浜町河岸でのふたりのやり取りを、ちょっと聞いてみよう。
  
 巳之吉 「一昨日の晩も梅川で、太夫と二人が差向ひ、腹が立つてたまらなくなつて、思はず座敷へ飛び込んだ時にも姐さんは素早く何処かへ姿をかくし、私は飛んだ恥をかいて了ひました。姐さん、お恨みに思ひますよ。親ゆづりの田畑を残らず売払つてお金の工面をして来たのは、あなたの意地を立てさせる上、芸者をやめて、夫婦になるのを、たつた一つの楽しみにして来た巳之吉だ。」
 お 梅 「巳之さん、すみません、堪忍して下さい。千両のお金はお返し致します。きつと、お返し致します。」
 巳之吉 「金を返す。姐さん、そりやア何と云うお言葉だ、今になつて金を返して貰つて何になる。それよりは、太夫と別れてくんなさい。私と一緒に土地をはなれて、夫婦になつてくらして下さい。お願ひです。姐さん、お願ひです。どうか、太夫と別れておくんなさい。」
 お 梅 「それが出来るくらひなら、とつくに、わかれて、居りますよ。」
 巳代吉 「えツ。」                (川口松太郎『明治一代女』の「浜町河岸の場」より)
  
明治座.JPG 明治観音堂.JPG
 高橋伝とは異なり、花井梅の殺人事件には計画性がなく、一時の激しい感情に押し流された突発的な事件だと裁定され、判決は死罪にならずに無期懲役となった。事件から15年後の1903年(明治36)、お梅は刑務所から釈放されているのだが、その後さまざまな小商いをしたり、ときには自身を演じるために舞台に立ってみたりと、苦労の多い後半生だったようだ。彼女が1916年(大正5)に死の床へついたとき、最後まで看病したのが紀伊国屋の恋敵であったはずの喜代次だったのも、背後に複雑な事情があったことをうかがわせるエピソードなのだ。

◆写真上:大川の堤防側から見た浜町河岸で、わたしが子どものころに見た面影は皆無だ。
◆写真中上は、1950年(昭和25)ごろに撮影された浜町河岸で、見えているのは明治末に竣工した新大橋Click!下左は、浜町河岸からの現在の眺め。下右は、花井梅(むめ)。
◆写真中下は、川口松太郎・原作による新派の舞台『明治一代女』で、花柳章太郎の小梅と大矢市次郎の巳之吉。は、明治座界隈の成長した並木道。
◆写真下は、明治座の正面。は、劇場前にある明治観音堂。東京大空襲の際、コンクリートの耐火建築だった明治座なら・・・と避難して、「蒸し焼き」にされた大勢の人々を慰霊する堂だ。


読んだ!(17)  コメント(21)  トラックバック(3) 
共通テーマ:地域

読んだ! 17

コメント 21

みなせ

明治座は焼け落ちましたが、そこからほど近い人形町の一部は奇跡的に残った。
あの空襲ではいろいろと不思議な現象が起こり、一時的な風向きのせいでしょうか、焼けてしまうと思われたところが類焼を免れたりしていますね。明治座と人形町の距離を考えると、信じられない気がします。日本橋周辺で焼け残ったのは、人形町だけ。
by みなせ (2010-10-19 10:34) 

ChinchikoPapa

『PAINTED LADY』は、レディ・デイのアルバムを間違ってターンテーブルに置いた?・・・と、一瞬錯覚してしまうスタートでした。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2010-10-19 10:41) 

ChinchikoPapa

とり囲まれたのは災難でしたね。動員して、逆にとり囲んでやることはなかったのでしょうか? nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
by ChinchikoPapa (2010-10-19 10:51) 

ChinchikoPapa

わたしもニュールンベルグは、ワグナーと戦後のナチ裁判のイメージが強いです。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2010-10-19 10:55) 

ChinchikoPapa

これからの時期、サバは脂がのってうまい時期ですね。相模湾の獲れたてのサバを、そのまま刺身で食べたくなりました。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-10-19 10:57) 

ChinchikoPapa

みなせさん、コメントをありがとうございます。
うちの実家は、人形町から日本橋本町の方面へ逃げて、助かっているんですね。高田馬場の下宿から、たまたま自宅に帰っていた親父がひどいめにあっています。水のある川沿いへ逃げるのが安全と考えた人たちが、ずいぶん犠牲になってます。大火災の場合(関東大震災でもそうでしたが)、遮蔽物や凹凸がない区画では、逆に台風並みの暴風で大火流の通り道や火事竜巻などが起こりやすく、かえって危険なことを教えてくれてますね。
3月10日直後の日本橋は、人形町や本町も含めてほぼ西半分が焼け残っていましたけれど、その後の空襲でほとんどの街々が焼け、結局、日本橋人形町の界隈が最後まで焼け残りました。
by ChinchikoPapa (2010-10-19 11:11) 

ChinchikoPapa

わたしも別に設けているトップページから、テーマ別に記事をもっと整理したいです。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2010-10-19 15:01) 

ChinchikoPapa

焼きおにぎり、醤油もうまいですが甘めの味噌も美味ですね。
nice!をありがとうございました。>thisisajinさん
by ChinchikoPapa (2010-10-19 19:45) 

ChinchikoPapa

その昔、女性が忘れていった傘なのでしょうか。女性の傘がなんとなく似合う男と、似合わない男がいますね。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2010-10-19 22:57) 

ChinchikoPapa

カンパや出演を通じて、誰もが関われる映画づくりというのはいいですね。
nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2010-10-19 23:38) 

ChinchikoPapa

スヌードのモコモコ感がかわいいですね。
nice!をありがとうございました。>cocomotokyoさん
by ChinchikoPapa (2010-10-19 23:41) 

ChinchikoPapa

電柱がなくなるだけでも、街はまったく違う顔に見えるから不思議です。
nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2010-10-19 23:44) 

ChinchikoPapa

この夏も、アイスクリームはよく食べましたが、ラムレーズンの棒アイスもそのひとつです。わたしもラムレーズンに目がなくて、生協の注文用紙にあるとついマーカーしてしまいます。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2010-10-20 11:01) 

ChinchikoPapa

最近、ネットでFMを聴くことがときどきあります。仕事の合い間など、気分を変えるときにはいいんですよね。nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
by ChinchikoPapa (2010-10-20 11:08) 

ChinchikoPapa

だんだん、飼いネコの睡眠時間が長くなってきました。少しずつ冬に近づいているんですね。nice!をありがとうございました。>漢さん
by ChinchikoPapa (2010-10-20 11:10) 

ChinchikoPapa

2位の準優勝という結果は、誇っていいのではないでしょうか。
nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2010-10-20 18:43) 

ChinchikoPapa

めまいの最中に、耳鼻科で耳の中に水を入れる検査でめまいが取れると、メニエールだと聞いたことがあります。くれぐれもおだいじに! nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
by ChinchikoPapa (2010-10-21 10:06) 

ChinchikoPapa

「じゃがたらいも」という言葉がなつかしいですね。親の世代が、ときどきそう呼んでいました。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2010-10-24 20:28) 

ChinchikoPapa

そろそろ、薄っすらと雪化粧している富士山でしょうかね。
たくさんのnice!をありがとうございます。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2010-10-28 19:52) 

samutarou

浜町河岸の場所につい、てわたしも元千代田小学校その後久松中学校の所から、浜町公園あたりと思っておりました(その辺は大川端?)。
マピオンマップでも其処を指し示しましたが、古地図に由ると久松警察脇の元浜町川の両岸を指すようです。

焼け出されるまで明治座の看板前、出口屋の所。戦後は焼け跡の浜町河岸にしばらく住んでいました。
で 気になりまして。

近頃はyahooマップでも大川端・・・いろいろな所でそうなっているようです。
by samutarou (2014-04-07 13:11) 

ChinchikoPapa

samutarouさん、コメントをありがとうございます。
おっしゃる通りで、浜町堀(元浜町川)に架かっていた高砂橋あたりから、隅田川へと出る河口の川口橋あたりまでを、浜町河岸と呼んでいたようですね。尾張屋清七版の「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(嘉永3年)では、「濱町川岸」の記載が見えています。
最近、「大川端」という呼び名が不可解なのですが、もともと河竹黙阿弥が芝居の世界で前提としたのは、両国橋の北、本所の川岸にあった百本杭あたりのことだと思うのですが、いまはあちこちで「大川端」の文字を見ますね。
どうして、こんなことになっちゃったのかな?……と思っていましたら、どうやら石川島にできた高層マンション群の施設へ、やたら「大川端」という名称を付けているようで、そこからあちこちへ「大川端」が飛び火しているように感じました。w
by ChinchikoPapa (2014-04-07 17:10) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 3

トラックバックの受付は締め切りました