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上落合では安静と静養つづきの今野大力。 [気になる下落合]

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 上落合504番地に住んだ今野大力Click!は、旭川から初めて東京にやってきたのは1927年(昭和2)3月のことだった。当初は四谷郵便局に勤務し、ほどなく本郷郵便局へ移っている。それまでは旭川郵便局に勤務していたが、地元では当初叙情詩人として知られていた。東京へやってきた年にも、旭川新聞の記者だった小熊秀雄Click!や鈴木正輝らとともに詩誌「円筒帽」(すぐに廃刊)を発行している。
 今野大力は、旭川新聞紙上で福本イズムClick!に感化された北村順次郎から公開論争を挑まれ、それに対し『哀れなる盲蛙に与へる―北村順次郎君に答へて―』を書いて、頭でっかちで理論優先の北村を「甚だ奇怪にして嗤ふべき愚痴を自ら暴露し、しやあしやあたる人間である」と痛烈に批判している。今野の立脚点、すなわち労農現場に密着せず大衆を置き去りにした、インテリゲンチャの地に足が着いていない「空論」に対して、彼は死ぬまで厳しい目を向けつづけていたように見える。ちなみに、小熊秀雄もこの公開論争に参加し、今野大力を擁護する文章を書いている。
 1928年(昭和3)の「戦旗」11月号Click!から連載された、小林多喜二Click!『一九二八年三月十五日』Click!についても今野は批判的だった。福本イズム臭のする作品に対しては、必要以上とも思えるほどの批判をあびせている。小林多喜二の同作については、「前衛分子のみによつて運動が出来ると思ふ大衆に対する甚だしき不信(無関心)のバクロは結局唯心的な理想主義的な傾向であつて、正しきプロレタリア文学ではない」(『小林多喜二君の作品』/1929年)とまでいいきっている。このあたり、自身は「文芸戦線」派であり、小林多喜二は「戦旗」派であるというような、どこか“セクト主義”的な狭量が透けて見えるが、まさか自身が「戦旗」「婦人戦旗」「少年戦旗」の3誌をその終刊号まで編集し面倒みることになるとは、当時の今野大力は思ってもみなかったろう。
 1928年(昭和3)6月、旭川から小熊秀雄一家が東京へとやってくることになり、在京の今野大力と鈴木正輝は巣鴨刑務所近くの巣鴨町向原(現・東池袋2丁目)に借家を見つけ、小熊一家とともに今野と鈴木も同居して共同生活をしている。ちょうどこのころ、今野は「文芸戦線」の黒島伝治と知りあった。だが、肋膜炎が悪化していた今野大力は、9月になると本郷郵便局を辞職し、静養のために旭川へ一時帰郷している。
 小熊秀雄は杉並町堀之内(現・杉並区堀ノ内)へ転居したあと、翌1929年(昭和4)春には落合地域の北隣り、長崎町西向(現・豊島区千早町2丁目)へと転居してくる。1990年(平成2)出版の宇佐美承『池袋モンパルナス』(集英社)では、「絵かきのなかに詩人がひとり、まぎれこんでいた。色白く、額ひろく頬はこけ、秀でた眉は横一文字……」という書きだしで登場する、小熊秀雄の“池袋モンパルナス時代”のはじまりだった。
 旭川にもどった今野大力は、肋膜炎がよくなると北都毎日新聞社に入社して編集記者をつとめている。小熊秀雄が長崎町に転居したころ、今野大力は旭川で四・一六事件に巻きこまれ検挙された友人たちの支援活動をつづけながら、病院で看護助手をしていた丸本久子と知りあい結婚している。だが、それもつかの間、黒島伝治からの強い要請で今野は再び東京へ単身やってきて、労農芸術家連盟へ参加している。このとき、杉並町高円寺にあった文芸戦線社の2階に、今村恒夫や長谷川進らと合宿している。そして、旭川の久子夫人を呼び寄せて、1930年(昭和5)6月から暮らしはじめたのが上落合504番地の家だった。
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文芸戦線192911.jpg 戦旗192911.jpg
 久子夫人はこのときまだ19歳で、丸本家から家出同然に東京へとやってきている。家出を手助けしたのは、文学好きな姉の丸本照子で、小熊秀雄とは旭川新聞社時代の同僚で旧知の文学仲間だった。久子夫人は非常に明朗な性格で、当時26歳になっていた今野大力はその「明るさ」にずいぶんと助けられることになる。宮本百合子Click!『小祝の一家』(1934年)には、こんな1シーンがある。
  
 いろいろ本をかりて読み、或るとき、何と思いちがいしたかマルクスの「資本論」をかしてくれと云った。五日ばかりすると、まだ下げ髪にしていた乙女が、小鼻に汗の粒を出してその本を患者の室へ返しに来た。/「――わかった?」/ 勉が、つい特長ある口元をゆるめ笑顔になって訊いた。そのとき乙女は、額からとび抜けそうに長い眉をつり上げ、二人とも小柄ながら、乙女よりは三四寸上にある勉の顔を見上げて、/「――わかんない!」/ 力をこめ首をふって、今云ったように云ったのであった。
  
 登場人物の「勉」が今野大力で、丸本久子が「乙女」という設定だが、旭川で似たようなことがあったのだろう。壺井栄Click!の作品に登場する彼女も、屈託なく非常に明るい性格に描かれているので、ほんとうにそのような女性だったのだろう。
 文芸戦線社の内紛と、今野大力が重傷を負った「焼ゴテ事件」が、この上落合時代に起きているのは前回の記事Click!で書いたとおりだ。1931年(昭和6)の春、今野大力は戦旗社へ入社し、以降「戦旗」が特高Click!の徹底した弾圧により発行できなくなるまで、同社雑誌の編集業務をつづけている。同年11月、上落合460番地の全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!本部のあとに日本プロレタリア文化連盟(コップ)Click!が結成され、今野大力も参加している。彼はそこで小林多喜二とも顔を合わせているはずだが、その様子は記録されていない。
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 翌1932年(昭和7)3月、コップへの弾圧がはじまり、3月26日には今野大力も検挙され駒込署へ連行されている。そして、殴打をつづける拷問で中耳炎となり、治療を受けさせず放置されたため意識不明の重体となって、特高はしかたなく陸軍軍医学校の下部組織で警察ともつながりが深い、戸山ヶ原Click!陸軍軍医学校Click!陸軍第一衛戍病院Click!に隣接する済生会病院Click!へ入院させた。
 もちろん、同病院では思想犯に満足な治療をほどこすはずもなく、軍医見習いに治療をまかせたため、退院後に病状が悪化し危篤状態に陥っている。中耳炎のいい加減な手術や治療から、乳嘴突起炎を起こし、脳膜炎を併発してついに瀕死の重症になった。宮本百合子の父親が設計したつながりと、蔵原惟人Click!の母親で北里柴三郎Click!(慶應義塾大学医学部の初代学部長)の妹だった蔵原しうClick!の働きかけから、慶應病院へ緊急入院することができたが、危篤状態を脱したのはおよそ11月になってからだった。4月に済生会病院へ入院してから、すでに半年が経過しており今野大力は一命をとりとめたものの聴覚を失った。
 そのときの様子を、1995年(平成7)に出版された『今野大力作品集』(新日本出版社)収録の、『奪われてなるものか―施療病院にて―』から引用してみよう。
  
 おれには君の唇の動くのが見えるだけだ/パクパクとただパクパクと忙しげな/静けさ、全くの静けさイライラする静けさ/扉の外に佇っていたパイの跫音も聞こえない/何と不自由な勝手のちがった静けさか/音響の全く失われたおれの世界/自分の言葉すら聞えず忘れてゆこうとしている/おれは君と筆談だ、(後略)
  
 今野大力が検挙されたあと、久子夫人と娘は淀橋町柏木の家を大家に追いだされ、上落合503番地の壺井栄・壺井繁治夫妻Click!宅(このとき壺井繁治Click!は検挙・拘留されていて不在だった)に身を寄せていた。済生会病院をいい加減な治療のまま退院したあと、一時的に今野大力も壺井宅へ寄宿していたが、危篤状態ののち慶應病院から退院したあとも、同様に壺井宅で静養していたとみられる。慶應病院で介護人として付き添ったのは、久子夫人をはじめ窪川稲子(佐多稲子)Click!壺井栄Click!たちだった。
 1933年(昭和8)2月、小林多喜二Click!が築地署で虐殺Click!される前後、今野大力は旭川から父母と弟妹ら一家全員を呼び寄せていっしょに暮らしはじめている。だが、今野大力に残された時間はもうあまりなかった。特高の拷問で受けたダメージ以来、健康がみるみる失われ結核の症状が日に日に進行し悪化していった。静寂な小金井の家に移って療養していた今野は、1935年(昭和10)4月、ついに東京市中野療養所(江古田結核療養所)Click!へ入所し、担当の医師から「余命1ヶ月」を宣告されている。
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 同年5月27日、小熊秀雄は東京市中野療養所に入院中の、今野大力の病床を見舞った。だが、高熱がつづく今野大力はあいにく就寝中で、小熊は出版されたばかりの『小熊秀雄詩集』(耕進社/1935年)の見返しに、ベッドの枕もとにあった赤青2色の色鉛筆でなにか書きとめると、本をそっと置いて立ち去った。旭川時代からの親友だった彼が見た、今野大力のやつれはてた最後の姿だった。だが、小熊秀雄もまた結核で長くは生きられなかった。

◆写真上:1930~31年(昭和5~6)に上落合504番地の今野大力宅跡(左手前)と、1937年(昭和7)に上落合503番地で静養した壺井栄・繁治夫妻宅跡(左手奥)。
◆写真中上は、「文芸戦線」に執筆した今野大力()と「戦旗」に書いた小林多喜二()。は、1929年(昭和4)に刊行された「文芸戦線」11月号と「戦旗」11月号。
◆写真中下は、戸山ヶ原の済生会病院と陸軍軍医学校。陸軍第一衛戍病院が建設中なので、おそらく1929年(昭和4)ごろの撮影とみられる。は、済生会病院の正面玄関。は、昭和初期の慶應義塾大学病院。二度にわたる上落合在住の今野大力を追いかけていると、「焼ゴテ事件」の治療や特高の拷問による静養生活ばかりなのに気づく。
◆写真下は、1941年(昭和16)に撮影された今野大力の終焉地となった中野区江古田の東京市中野療養所の全景。は、別人のようにやつれはてた死の床の今野大力。は、中野療養所跡の現状で現在は北端が中野区立江古田の森公園となっている。

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コメント 4

アヨアン・イゴカー

まったく酷い時代でしたね。
>同病院では思想犯に満足な治療をほどこすはずもなく
非人道的で、許しがたいことが、平然と行われていたのですね。
by アヨアン・イゴカー (2022-06-24 23:21) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
もうひとり、釈放されず意識不明で市ヶ谷刑務所から済生会病院へ運ばれたとみられる女性に、土屋文明の教え子の伊藤千代子がいます。「アララギ」の土屋文明は下落合に住んでいましたので、近々、伊藤千代子とともに書きたいと思っているテーマです。
中編『セロ弾きのゴーシュ』、面白かったです。^^
by ChinchikoPapa (2022-06-25 10:31) 

kazg

痛ましいことです。
>土屋文明の教え子の伊藤千代子
そうでしたねえ。「こころざしつつたふれし少女よ」は千代子のことでしたが、「こころざしつつたふれしをのこ」たちの、等身大の姿に光を当てていただく御記事は、いつものことながら、とても興味深く、読み応えがあります。
by kazg (2022-07-02 18:28) 

ChinchikoPapa

kazgさん、コメントをありがとうございます。
中村彝のアトリエを訪ね、こちらでも連作『下落合風景』をご紹介してきた清水多嘉示は、諏訪高女で美術教師をしていましたが、卒業写真の真ん前に写る少女こそが伊藤千代子ですね。清水多嘉示は、同僚だった土屋文明を下落合に訪ねているかもしれません。土屋邸の近くの、目白文化村で撮影した写真が残っています。
「伊藤千代子がことぞかなしき」の記事は、来週半ばにアップロード予定です。彼女は、女性に参政権がなかった時代に「主権在民」と「社会的平等」の(おそらく土屋文明からの影響で)大正デモクラシーから出発した、今日から見れば民主主義者に近い存在ですが、特高(取り調べに当たったのは毛利基です)は容赦なく抹殺していきますね。
by ChinchikoPapa (2022-07-02 23:11) 

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