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落合地域の周辺で設計された昭和初期住宅。 [気になるエトセトラ]

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 以前、落合地域で設計された昭和初期の住宅を「文化住宅を超える落合の次世代型住宅」シリーズClick!として、落合町の3邸Click!ほどをご紹介していた。朝日新聞社が主催したコンペに、建築設計士たちが500点ほど応募し、そのうちの上位85作品が1929年(昭和4)に『朝日住宅図案集』Click!(朝日新聞社)として出版されている。また、上位16案の住宅設計図が、当時は新興住宅地の成城学園Click!で実際に建設されている。
 さて、以前は落合地域に限定して住宅作品を紹介してきたが、隣接する周辺域では大正末から昭和初期にかけどのような住宅が設計され、建てられたとすればどのような意匠をしていたのだろうか。まずは、落合地域の東隣りにあたる高田町高田1497番地、建築士・吉田亨二事務所に所属していた松浦嘉市の作品(朝日住宅29号型)から見ていこう。ちなみに、1497番地は当時の高田町の高田エリアには存在せず、字名が高田町鶉山1497番地とならないとおかしいが、地番のほうがまちがっている可能性が高い。おそらく、高田町高田1417番地の誤植ではないだろうか。
 高田町高田1417番地には、“オール電気の家”Click!で有名な電気工学の早大教授・山本忠興邸Click!があり、同じ早大教授で建築学の吉田亨二邸(事務所)も近接して建っていたのではないか。同事務所の松浦嘉市は、設計図に添えて次のように書いている。
  
 屋根は銅板瓦棒葺にして、壁は外部をクリーム色「アサノマイト」内部を白色「アサノマイト」塗とす、玄関及びポーチ、テレス(テラス)、コンクリート打とし、外部腰は茶色スクラツチタイル貼りとす、玄関内部腰は泰山タイル貼りとす、外部に面せる出入口の扉はシユラーゲのボタンロツクを使用す、便所は特に内務省式改良便所とせり。(カッコ内引用者註)
  
 「アサノマイト」は、石灰を主原料とする燃えにくい壁材で、当時は外壁用と内壁用が売られていた。シュラーゲは米国のドア金具メーカーで、現在でも多くの製品が販売されている。また、「内務省式改良便所」とは、便槽の内部に上下からの隔壁を設置し汲取り口までの経路を長くして、寄生虫Click!の卵や菌の死滅率を高めた便所のことだ。以前、「大正便所」というような呼称が登場していたが、同様に寄生虫の卵や菌を死滅させるため、構造に工夫をほどこした汲取り便所のことだ。
 外観および内観は、一部の女中室(3畳)を除けば今日の住宅とほとんど大差なく、和室も6畳間が1室あるだけで残りはすべて洋間となっている。また、あらかじめ主寝室や子ども部屋には、ベッドが造りつけで設置されていて、押入れから蒲団を取りだし敷いて寝るという生活スタイルをやめている。応接間は書斎を兼ねており、また2階の和室6畳は来客を泊めたりする予備の部屋のような扱われ方だったようだ。
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 次に、同じ高田町の雑司ヶ谷472番地に住む、猪瀬靑葦による朝日住宅69号型の設計図をみていこう。この住所は、当時の高田第一小学校(現・雑司が谷公園)のすぐ北側あたりの地番だ。平家建てでコンパクトな木造住宅だが、内部はかなり凝った造りとなっている。玄関を入ると、ステンドグラスによるオリジナルの窓が目にとまる。客間(応接間)と書斎(図書室)とを分け、また台所(4畳半)と茶の間(=食堂/4畳半)がつながった今日のダイニングキッチンのような仕様が採用されている。すでに女中部屋はなく、家族が参加して家事を分担するような設計だ。
 また、ベランダの先にはテラスが設けられ、パーゴラにはブドウやヘチマ、フジなどの蔦植物を這わせることで日陰ができるようになっている。面白いのは、家族の茶の間と居間とが分かれており、この2室だけが7畳と4畳半の日本間だったことだ。
  
 居間――は家族のもの、常住する所たるは言を待ちません故に一番便利で而も衛生上最良の処を選びました、人数の少ない家ですから来客の場合を考へ、主婦の居り勝ちな台所と居間とを玄関に近くとり、しかも二室は寝室ともなり、又夏など浴衣一枚で横臥に涼をとることもある関係上、仕切り戸を解放のまゝでも直接玄関より見えぬやうに、三尺の廻し戸を以てこの目的を達せしめました。/茶の間――使用時間の短い室ですが一家の団欒する所です、うらゝかな朝陽のもとに、又月の夜の室として配置させました、花台も作り、ラヂオも置けばこの室とします、タンス入れはカーテンにて隠すだけ
  
 つまり、居間は主寝室として使用するが、家族が同時に寝るとは限らないので、誰かが起きているときは常に茶の間が使えるようにしている……ということなのだろう。「人数の少ない家」と書いているが、夫婦に子どもふたりの家族を想定している。
 建設費は3,000円なので、物価指数をもとに現代の貨幣価値に換算すると210万円ほどになり、設計費を入れても当時のサラリーマンには無理のないマイホームだったのだろう。ただし、これらの住宅はみなコンパクトで効率的にできているが、今日と大きく異なる点は庭が広めだということだ。庭園には、広めの芝生や花壇を設置してもまだ余るほどの広さで、のちに子どもが増えたりした際の増築を前提にしているのかもしれない。
 この住宅は、日本の気候に合わせて和室をできるだけ活かす設計をしているが、冬はかなり寒かったのではないだろうか。外観もどこか和風の雰囲気を残しているが、モダンな窓やテラスなどはともかく、これは当時の雑司ヶ谷に拡がる街並みや風情にフィットするようにとデザインされた設計者の意図をなんとなく感じる。
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 次に、落合地域の南東側に接する戸塚町諏訪172番地に住む、牧野正治と御田鋼男による共同設計の住宅だ。この地番は、高田馬場駅から早稲田通りを東へ200mほど歩いて右折した、ちょうど蒲焼き「愛川」Click!の斜向かいあたりの住所だ。
 朝日住宅76号型は和風の造りなのだが、同じく3,000円でできる住宅として設計されている。外観は一見洋風なのだが、室内は畳の部屋がメインで10畳の客間に6畳の居間、4畳半の子ども部屋という構成になっている。洋間は10畳大の書斎にキッチン、狭い化粧室の3部屋だが、すでにこの住宅にも女中部屋は存在しない。和風らしさは、南側に設けられた縁側廊下に表れているが、庭には積み石によるサークル状の噴水が設置されており、芝庭の拡がりとともに洋風な雰囲気を漂わせている。
 牧野正治と御田鋼男が書いた解説文、「設計に関する特長」から引用してみよう。
  
 家族本位とし間取りに変化を与へたり/便所は大正便所/盗難除けの為外部を洋風とせり/子供室を東南の最上の位置に配置せり
  
 西洋館には泥棒や強盗が入りにくいというのは、大正期からいわれていたことで、建物自体が堅牢な造りに加え、海外から輸入した頑丈なドアや窓などの部材・金具が使われていて、簡単には侵入できなかったからだ。確かに、大正末から昭和初期にかけて説教強盗Click!がねらった家々も、その多くが日本家屋か和館併設の和洋折衷住宅だった。
 大正期の落合地域には、それまでの日本家屋を否定するような西洋館が、東京土地住宅Click!箱根土地Click!、あるいはあめりか屋Click!などによって次々と建設されていったが、雑司ヶ谷や戸塚町は同じ郊外でも市街地により近く、落合地域よりも古い街並みなので、どちらかといえば従来の家々を……というか街並みに合うような住宅が設計され、建設されているように見える。
 昭和初期の新しい住宅は、和洋折衷の設計で女中部屋や書生部屋を排し、家族が積極的に家事へ参加できるような造りになっている。しかも、急増する勤め人=サラリーマンの核家族向けに、それほどコストがかからずコンパクトな設計が主流になっていく。『朝日住宅図案集』の編集に参画したらしい、上落合470番地Click!に住む東京朝日新聞社の記者・鈴木文四郎(文史郎)Click!は、同書の「和洋折衷に就いて」で次のように書いている。
  
 服装と同じく、住宅についても和洋折衷の可否についてはいろいろ議論があるやうで、何れか一方に決める可しといふ人も多いやうです。併し、私の観る所では、体裁や調和の上から和洋何れか一方にするのが望ましいやうですが、実用本位からは折衷少しも差支えないのみならずむしろ奨励すべしだと思ひます。総て西洋式の家に住むことは、寝室にしても食堂にしても他に流用が出来ず不便であります。少くとも建坪五十坪以上の家で、経済的にも可成り余裕のある家庭でないと、中途半端なものになるおそれがあります。純日本式の住宅は、一つの室が客間にも寝室にも利用され、その点では経済的であります。
  
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 鈴木文四郎Click!はこう書くが、戦後、建築資材の品質や建築技術が向上し住宅の密閉度が高くなるにつれ、事情は大きく変わってくる。日本の気候で、機密性が高い住宅の日本間(畳部屋)は、たちどころにカビやダニの温床となってしまう。わたしの家で唯一設置していた約7畳の和室を、先年のリフォームでついに洋間に変えてしまった。いくら殺虫剤で燻蒸Click!しても、機密性が高い現代住宅ではカビやダニの繁殖を防げないことがわかったからだ。

◆写真上:大正末に建てられた家の2階から、樹木が大きく育った庭先を眺める。
◆写真中上:高田町の松浦嘉市が設計した、朝日住宅29号型。
◆写真中下:高田町雑司ヶ谷の猪瀬靑葦が設計した、朝日住宅69号型。
◆写真下は、3葉とも戸塚町諏訪の牧野正治と御田鋼男の設計による朝日住宅76号型。
は、大正末から昭和初期の住宅で流行したステンドグラスを活用した窓。

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アヨアン・イゴカー

>寄生虫の卵や菌を死滅させるため、構造に工夫をほどこした汲取り便所
汲み取り便所にこのようなものがあったのですね。
紹介されている、当時の家の図面をみていると、一定の庭の空間があり、ほっとします。土地にゆとりがあったからでしょうね。
by アヨアン・イゴカー (2022-06-24 23:31) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
わたしも最近知ったのですが、汲取り便所にはいろいろな種類の構造があって、「大正便所」とか「内務省式改良便所」、「東京市〇〇便所」とかいう名称が付いています。おもに寄生虫の卵や消化器系の病原菌を死滅させるために開発されたようですが、大正期だけで5~6種類ぐらいあるようですね。構造によって設置コストが異なるため、施工主の予算に合わせて選ばれていたようです。
当時は防火の面からも、建蔽率が厳しく守られていたせいでしょうか、広めの庭がある住宅を見るとうらやましく感じます。
by ChinchikoPapa (2022-06-25 10:41) 

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