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上落合時代の今野大力の暮らしが見えにくい。 [気になる下落合]

今野大力宅跡.JPG
 1935年(昭和10)5月27日、小熊秀雄Click!東京市中野療養所(江古田結核療養所)Click!に入院中の、今野大力(だいりき)Click!の病床を見舞った。だが、高熱がつづく今野大力はあいにく就寝中で、小熊は出版されたばかりの『小熊秀雄詩集』(耕進社/1935年)の見返しに、ベッドの枕もとにあった赤青2色の色鉛筆でなにか書きとめると、本をそっと置いて立ち去った。小熊秀雄が見た、今野大力のやつれはてた最後の姿だった。
 『小熊秀雄詩集』の見返しには、今野大力へあてた次のような献辞が書かれていた。
  
 僕は君の意志の一部分/を、この詩の仕事で果/し分担した、将来も/君の意志を継続することを誓ふ/一九三五・五・二七 著者/今野大力様/江古田の東京療養所にて
  
 北海道の旭川時代から、今野大力が江古田の結核療養所で死去するまで、ふたりがきわめて親密な関係にあったことをうかがわせるエピソードだ。小熊秀雄は寝ている病人を起こさず、枕もとに詩集を置いてそのまま立ち去ったが、その23日後に今野大力は力尽きている。これから創作活動が本格化する、まだ31歳の若さだった。
 たとえば、長崎町五郎窪から落合町葛ヶ谷640番地(のち西落合2丁目641)へ転居し、下落合1443番地の福田久道Click!が主宰する「木星社」Click!から長編叙事詩『昔の家』を刊行した千家元麿Click!は、いくつかの資料をあたれば同時代の社会的状況や当時の街並みとともに、落合地域で生活する姿が浮かびあがってくる。だが、同じ落合地域に住んだ上落合504番地の詩人・今野大力は、ぼんやりとした姿でしかとらえることができない。
 今野大力について書かれた本はけっこう多い。古いところでは1972年(昭和47)に地元の旭川で出版された佐藤喜一『詩人・今野大力』(創映出版)をはじめ、1995年(平成7)出版の『今野大力作品集』(新日本出版社)、1996年(平成8)出版の津田孝『宮本百合子と今野大力』(同)、新しい本では2014年(平成26)出版の金倉義慧『北の詩人・小熊秀雄と今野大力』(高文研)などがある。また、今野大力をモデルにした小説には、壺井栄『廊下』(1940年)や宮本百合子の『一九三二年の春』(1932年)、『小祝の一家』(1934年)、『刻々』(1933年)などいくつかの作品がある。
 だが、『廊下』は中野療養所へ入所した今野大力をモデルにしており、また『小祝の一家』は上落合を出て旭川から家族全員を呼び寄せた1933年(昭和8)以降の情景だし、『刻々』は特高に逮捕された1932年(昭和7)の留置所における今野大力を描いている。彼が再び上落合へもどり壺井栄・繁治宅Click!に寄宿するのは、『刻々』で受けた拷問のあとのことだ。そして、これらの作品は小説の形式で描かれており、事実に限りなく近いとしても作者の想像や創作が加わっている可能性を否定できない。
 なお、佐藤喜一『詩人・今野大力』は今野大力と小熊秀雄が論争のすえに訣別していると解釈しているが、その後、ふたりは最後まで緊密な関係にあったことが、のちの証言者たちによって明らかになっているので留意が必要だ。
 さて、これらの本や資料にいくら目を通しても、上落合に住みそこで生活をする今野大力のリアルな姿が浮かんでこない。このような例は、これまで落合地域にいたさまざまな分野の人物を取りあげてきた中ではめずらしいケースだ。旭川時代と、東京にやってくる前後の姿は鮮明で印象的だ。また、特高Click!の拷問で中耳炎から脳膜炎になり、それが治癒すると旭川から家族全員を呼び寄せてていっしょに暮らすが、やがて結核Click!が悪化して東京市中野療養所へ入院する経緯も、さまざまな資料からその情景が思い浮かぶ。だが、上落合時代の今野大力の姿が、まるで霞の向こうにいるようでハッキリしない。
今野大力.jpg 小熊秀雄.jpg
東京市中野療養所1926.jpg
 今野大力が、友人たちと住んでいた高円寺の下宿から上落合504番地の借家に転居してきたのは、1930年(昭和5)のことだった。ちなみに、2年後には隣家の上落合503番地に壺井栄・繁治夫妻Click!が転居してくるので、壺井夫妻は今野から借家の大家を紹介されているのかもしれない。この年の6月、旭川から妻の久子を呼び寄せているので、おそらくそれに合わせての転居だったのだろう。同年の11月、今野大力は「文芸戦線」を発行していた労農芸術家連盟を黒島伝治Click!らとともに脱退し、文線打倒連盟を結成している。そして、11月24日には労芸に残ったメンバーの前田河広一郎と岩藤雪夫らから暴行を受け、耳の下に焼きゴテをあてられて重傷を負った。
 いわゆる「焼ゴテ事件」について、同年12月13日に上野自治会館で開かれた真相報告会に出席した、佐藤喜一の『詩人・今野大力』(創映出版)から引用してみよう。
  
 私はこの夜誰と誰とがバクロ演説をしたか記憶していない、ただ今野大力の話、それもさいごの一句だけが今もありありと残っている。焼ゴテ事件はその源を「文線」発表の代作、盗作問題に端を発していた。岩藤雪夫が(略)「工場労働者」「訓令工事」がいずれも井上健次という無名作家の代筆だとわかった。これを合理化した共同制作のテエゼが金子洋文、前田河広一郎らによって発表され、かねて不満を持っていた黒島伝治らを脱退に導き、伝治と親しかった今野も道連れをし、なぐりこみを掛けた文線側の暴力漢、宮本百合子によれば、岩藤に今野が焼ゴテをあてられたというのである。/私の見た今野は色の浅黒い、やせた小男に見えた。「この顔にベッタリ焼ゴテを……」と発言したトタン、「弁士中止」が傍の臨検からかかり彼は別室に退場した。
  
 ゴーストライターが書いたものを、自作だと称して発表するのは文学作品では忌避されるべき話だが、当時の「文芸戦線」では常態化していたらしい。それが批判されると、「共同制作」という「テエゼ」をデッチ上げたため、呆れた黒島や今野が反発して脱退したのだろう。また、佐藤喜一の文章ではハッキリしないが、今野大力が警官から「弁士中止」を命じられたのは、「焼ゴテ事件」が警察の拷問のようだと発言したからだ。
 1930年(昭和5)の上落合時代、今野大力はこの「文線」内部で起きた創作に関する対立の大混乱に巻きこまれていたせいで、上落合ですごす生活の様子、彼の“生(き)”の姿があまり見えてこない。このあと、今野大力は日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)Click!に参加して、機関紙「戦旗」Click!の編集にたずさわることになる。戦旗社において、地味で根気のいる編集の仕事をする今野についても、多くの資料ではあまり触れられていない。
詩人・今野大力1972.jpg 今野大力作品集1995.jpg
宮本百合子と今野大力1996.jpg 北の詩人・小熊秀雄と今野大力2014.jpg
 たとえば、同じ詩人である壺井繁治の『激流の魚』(1966年)では、今野について「宮本百合子の下で」活動していたという程度の認識にすぎず、戦旗社のメンバーがほとんど逮捕されていく中で、「戦旗」「婦人戦旗」「少年戦旗」の3誌をひとりで最後まで編集しつづけたことには触れていない。他の資料もほぼ同様で、地味な仕事を引き受けた今野大力の印象は薄く、むしろ共産党の思想とは一線を画した小熊秀雄Click!が、折につけ今野大力の存在や作品に言及している。ただし、今野も小熊も早逝してしまったため、ふたりが再び注目を集めるのは戦後かなりたってからのことだ。
 1931年(昭和6)6月に、今野大力夫妻は落合地域の南側にあたる淀橋町柏木(現・東中野)へ転居し、このころに長女が生まれている。上落合時代から戦旗社の仕事をつづけていたが、当時の様子を、金倉義慧『北の詩人・小熊秀雄と今野大力』(高文研)に収録された、松居圭子「“婦人戦旗”のこと」より引用してみよう。
  
 <宮本>百合子さんのことはさておき、私には今野さんのイメージが、今もなおいきいきと記憶に残っている。健康そうでない青い顔や姿、ボソボソと語ることば、猫背、いつもガリ版を切っていた今野さんの姿。(中略) 一度こんなことがあった。百合子さんが洋装で印刷所にやってきた(といってももちろん彼女としてはできるだけ地味なものではあったが、昭和の初期にはまだ洋装はまれであった。しかも秘密を要する印刷所へ来る婦人としては)、今野さんにさっそくきびしく、といっても例のボソボソ声で、遠まわしに、しかし、いかにも迷惑そうに、目だたぬ服装で来てほしいとたしなめられた。次に会った彼女は、「母に貸してもらった」こまかい大島の絣を無造作に着て私たちの前にあらわれたことはいうまでもない。/このコンビで、「婦人戦旗」ははぐくまれていったのである。(< >内引用者註)
  
 小石川の裕福な家庭で育った宮本百合子と、酷寒のなか旭川の貧困家庭で苦学しながら育った今野大力とは、まったく対照的な性格のコンビだったが、それほど異なる境遇や性格のふたりだからこそ、どこかでウマがあったのかもしれない。
壺井宅1936.jpg
壷井栄・繁治宅跡.JPG
 このあと、今野大力は特高に逮捕され、そのときの拷問がもとで中耳炎を発症し、意識不明の状態で釈放されて警察から戸山ヶ原Click!済生会病院Click!へ移された。ところが、陸軍軍医学校の系列組織だった同病院では、軍医見習いによるいい加減な治療がほどこされ、恢復していないにもかかわらず彼を放りだしている。1932年(昭和7)6月、今野大力は上落合503番地の壺井栄・繁治宅へ寄宿して、再び上落合で養生することになるが、このように上落合時代の今野は常に重大事件に巻きこまれていたため、生活の細かな様子や落ち着いた日々の姿が記録されにくかったのだろう。済生会病院の「治療」がお粗末だったせいで脳膜炎を併発し、今野大力はほどなく危篤状態におちいるが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:上落合504番地の、今野大力夫妻宅跡の現状(奥左手)。
◆写真中上は、今野大力()と小熊秀雄()で、旭川時代からの詩作をめぐる親友だった。は、1935年(昭和10)に今野大力が入院した東京市中野療養所。
◆写真中下上左は、1972年(昭和47)出版の佐藤喜一『詩人・今野大力』(創映出版)。上右は、1995年(平成7)出版の『今野大力作品集』(新日本出版社)。下左は、1996年(平成8)出版の津田孝『宮本百合子と今野大力』(新日本出版社)。下右は、2014年(平成26)出版の金倉義慧『北の詩人・小熊秀雄と今野大力』(高文研)。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる今野大力宅(上落合504)と壺井栄・繁治夫妻宅(上落合503)。は、上落合503番地の壺井栄・繁治夫妻宅跡の現状。

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