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髑髏に惹かれる晩年の今西中通。 [気になる下落合]

今西中通「風景」1930.jpg
 結核にかかり、晩年には髑髏(シャレコウベ)Click!のモチーフに惹かれて描いた画家に、下落合の中村彝Click!がいる。明らかに、晩年に髑髏を描くセザンヌの影響を受けているとみられるが、結核に罹患し晩年になると同様に髑髏のモチーフに惹かれていた画家に、上落合851番地に住んだ今西中通Click!がいる。もっとも、髑髏に惹かれる晩年をすごしたのは上落合ではなく、九州の福岡市にあるアトリエだった。
 今西中通が上落合に住んだのは、近くに赤堀佐兵や赤星孝、坂本善三など独立美術協会の画家仲間が住んでいたからだが、これらの画家たちについて拙サイトではほとんどご紹介していない。彼らもまた、今西中通と同様に上落合や下落合の風景を描いている可能性が高いが、落合地域で暮らす画家たちの数があまりにも多いのに気おされて、いまだ調べきれていないのが現状だ。
 今西中通は、隣接する上落合850番地に住んでいた画学生の手塚緑敏Click!や妻の林芙美子Click!とも交流があり、野見山暁治は近くに中村恒子Click!も住んでいたと証言している。当時、画家をめざしていた中村恒子は、少数のインテリゲンチャによる前衛党の確立を提唱する福本イズムで知られる福本和夫Click!の愛人であり、パリでいっしょだった同じ鳥取出身の前田寛治Click!からの紹介で知りあったのだろう。このあと、中村恒子は下落合630番地から井荻へ転居していた里見勝蔵Click!の愛人になるが、それをいさめようとした外山卯三郎Click!がひどい目に遭っているのは、すでに記事へ書いたとおりだ。
 1930年(昭和5)から1934年(昭和9)までの足かけ5年間に、今西中通は『落合風景』Click!(1932年)をはじめ、数多くの上落合や下落合の風景を描いているとみられるが、フォービズムによる荒々しい筆致や、実景にもとづかない画面の“構成”を多くとり入れている可能性があり、どこの風景をモチーフにしているのか具体的な描画ポイントの特定はむずかしい。1934年(昭和9)には西落合の隣り、井上哲学堂Click!野方配水搭Click!が見える低地の、江古田1丁目81番地に転居している。江古田の転居先は、ニワトリの飼育小屋を人が住めるよう改築しただけの、たいへん粗末な借家だったようだ。
 このあと、江古田から世田谷の赤堤へ転居し、日米戦がはじまる1941年(昭和16)には、結核療養のために香川県坂出市の姉のもとへ身を寄せている。今西中通は高知県の出身なので、同じ四国にもどれたことにホッとひと息ついていたころだろう。彼は坂出市で、小学校の美術講師や着物の柄の下絵などを描きながら、独立展に作品を出品しつづけている。そして、敗戦後は悪化する病状を押して福岡在住の画家・谷川歳夫の誘いから、絵画研究所を設立するために終焉の地となる福岡市へ転居している。
 そのときの様子を、1978年(昭和53)に河出書房新社から出版された、当時は福岡在住だった画家・野見山暁治の『四百字のデッサン』から引用してみよう。
  
 美術学校時代はアカデミックな画法に反抗して、当時新しい運動であったフォービズムに私は熱中していた。きみはフォービズムでも何でもない、アカデミックそのものじゃないか。戦争が終わり、戦火で焼けただれた福岡の街に、四国から引っ越してきた今西中通さんは、私の今までの仕事を無惨にやっつけた。今西さんはシュール・レアリズムの心情をキュービックな画法で作りあげていて、私にはおよそ無縁の、ワケの解らない絵であった。今西さんは暇さえあればスケッチブックを持って外を歩いた。デッサンは、セザンヌそっくりだった。今西さんのそれらの絵を通して、私はグレコに熱中するようになった。
  
今西中通「風景」1930-32.jpg
今西中通「牛と車」1931-33.jpg
野見山暁治「四百字のデッサン」1978.jpg 中村恒子.jpg
 今西中通が、晩年にことさら髑髏のモチーフに興味をもったのは、中村彝と同様にセザンヌによる髑髏の静物画シリーズを目にしていたからだと思われる。無理して九州に転居した今西中通は、アトリエで寝つく日々が多くなり、本来の目的であった絵画研究所の設立は予定地が米軍に接収されて、計画自体が流れてしまった。連日つづく下がらない熱と咳に悩まされながら、野見山暁治を相手に「あともう一年でもいい生かしてくれ、次の仕事が解りかけたんだ」と語っている。
 このころ、野見山暁治と今西中通は妙な約束を交わしている。どちらかが先に死んだら、自分の頭蓋骨を相手にプレゼントするという契約だ。今西が、たびたび頭蓋骨はあまりにも美しいというので、野見山は九州大学医学部にいる友人から、こっそり頭蓋骨の標本を借りうけている。少しあと、野見山暁治は頭蓋骨をモチーフに『卓上髑髏』(1947年)を仕上げているが、大学から借りた当初は気味が悪いのと恐怖感とで、とてもモチーフにする気にはならなかったようだ。
 今西中通は、独立美術協会の画家仲間が福岡へ訪ねてくるのを楽しみにしていたようだが、自身の作品やスケッチに対して厳しかったのと同様に、他人の絵についても容赦のない批評をあびせたので、しばらくするとほとんど誰も遊びにこなくなってしまった。福岡市に転居した当時、今西はセザンヌからピカソ、ブラックなどにつながるキュビズムの流れの制約から、さらにその先へ逃れでようとする制作の焦りと、頭の中には表現のいいアイデアがあるにもかかわらず、いつまで生きられるのかわかず仕事が思うようにはかどらないせいで、しじゅう焦燥感にかられていたという。
今西中通.jpg 野見山暁治1954頃.jpg
野見山暁治「卓上髑髏」1947.jpg
セザンヌ「三つの髑髏」(1900).jpg
 野見山暁治は自身の作品について、「画面というものを意識しない、たんなる気まぐれの遊び」であり、「エカキをやめたらどうだ」とさえ酷評されている。そんな日々に交わしたのが、先の骸骨交換の約束だった。つづいて、同書より引用してみよう。
  
 こんな美しいものはない、といいだしたのは、もともと今西さんの方だった。表情をもっている人間の顔は厭だ、その中にだよ、こんなすばらしいものが、かくされているのは不思議だと思わんか、そんな風に今西さんは私をそそのかした。おそらくセザンヌの描いた頭蓋骨に、人物や静物をのりこえた絵画というものを今西さんは見たのだろう。すべての物は立体であり球体だ、というキュービズムの論理は、今西さんをとらえて離さなかったようである。/私はそのとき二十五歳だった。
  
 急速に衰弱していく今西中通は、明らかに自分が先に死ぬことを確実に意識していたはずだが、なぜ「どちらかが先に死んだら……」などという頭蓋骨交換話を野見山暁治と交わしたのだろうか。今西は、髑髏に象徴的なキュビズムの魅力に気づけと彼に教えたかったのか、それとも人間は自分自身の中にとてつもない美がひそんでいると単純に気づかせたかっただけなのか、野見山暁治はその約束にとまどうばかりで、今西の意図をハッキリとは理解できなかったようだ。
 野見山暁治が、頭蓋骨をモチーフに制作している静物画のことを知ると、今西中通は頭蓋骨を自身のアトリエにもってこさせ、もう一度、念を入れて頭蓋骨交換の約束を野見山としている。福岡へ転居してきてからまだ1年ほどなのに、今西中通は急速に衰弱していった。1946年(昭和21)から翌年にかけ、今西中通の顔は髪と髭とにおおわれて、頭蓋骨のかたちを暗示するような表情になっていったと、野見山暁治は証言している。そして、野見山は頭蓋骨そのものではなく、その骸骨のようになった最晩年の表情が「ほんとうに美しい」と感じている。このあたり、中村彝の晩年について周囲の画家たちが「キリストのように神々しかった」と証言する、表情の美しさに通じるものがあるのかもしれない。
 今西中通は1947年6月に妻と5歳になる男の子、そして半年前に生れたばかりの女の子を残して、福岡市のアトリエでそのまま死去している。37歳だった。
中村彝「髑髏のある静物1923.jpg 今西中通「自画像」1945.jpg
今西中通「室内」1944頃.jpg
今西中通「静物」1946.jpg
 1946年(昭和21)は、敗戦後の混乱した世相から独立美術協会の展覧会は開催されなかったが、翌1947年(昭和22)12月には独立展の第15回展が開かれている。今西中通は、同展に前年制作の『静物』と『人物』の2点を出品する予定でいた。だが皮肉なことに、独立美術協会が今西中通を会員として迎え入れたのは、彼が死去したあとのことだった。

◆写真上:1930年(昭和5)制作の今西中通『風景』で、「落合風景」の可能性が高い。
◆写真中上は、同じく「落合風景」とみられる1930~32年(昭和5~7)ごろに制作された今西中通『風景』。は、1931~33年(昭和6~8)ごろ制作の今西中通『牛と車』。上落合の鶏鳴坂Click!を通う、郊外野菜を市場まで運ぶ牛車を描いたものだろうか。下左は、1978年(昭和53)に河出書房新社から出版された野見山暁治『四百字のデッサン』。下右は、落合地域のエピソードへ頻繁に顔を見せる画家志望だった中村恒子。
◆写真中下は、今西中通()と野見山暁治()。は、1947年(昭和22)制作の野見山暁治『卓上髑髏』。は、P.セザンヌ『三つの髑髏』(1900年)。
◆写真下上左は、1923年(大正12)制作の中村彝『髑髏のある静物』。上右は、1945年(昭和20)制作の今西中通『自画像』。は、1944年(昭和19)ごろ制作の今西中通『室内』。は、タブローの遺作のひとつとなった1946年(昭和21)制作の今西中通『静物』。

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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。今西中通と熱き画家たちという古い図録には、今西中通と同時代の画家の作品が掲載されています。今西中通の画風は、フォーブ→キュビズム、シュールレアリズム→セザンヌ風→堅牢な具象画と変遷していくようですが、同時代の画家たちも、キュビズム、フォーブ、シュールレアリズムの影響下にあったことがよくわかります。今西中通が落合地域に住まうことになったのは、キュビズムを本場で学び落合に住んでいた川口軌外を慕ってきたから?でしたっけ。今西中通は、晩年絵画研究所の設立のため、福岡に呼ばれ移住しますが、おそらく今西中通が尊敬していた坂本繁二郎が福岡にいたこともきっかけになったのではないかと思います。しかし、福岡出身の児島善三郎がなぜ他所者を呼ぶ必要があるのか?と疑問を呈したため、今西中通の元に集う画家仲間が激減したとのことです。当時の画家たちは、かなり閉鎖的で、ムラ社会であったのかもしれませんね。
by pinkich (2022-07-01 21:45) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
今西中通が上落合に住んだ理由が、下落合に川口軌外がいたからかどうかは、わたしが調べた範囲内ではわかりません。川口軌外側からの資料には、アトリエに来訪した画家たちの軌跡として、そのあたりのことが載っているかもしれません。ただ、上落合には独立展に出品をつづける画家たちが多数住んでいたようで、仲間としての彼らの紹介から転居してきてる可能性もありますね。
この記事では、上落合在住の独立展関係の画家名を3名ほど挙げていますが(もちろん拙ブログでは記事にしていないネームばかりです)、戦前戦後を通じてもっとたくさん住んでいたのではないかと思います。特に、プロレタリア美術が盛んだった昭和初期から1935年ぐらいまでの間、よく独立後術協会(それ以前は1930年協会ですが)へ出品する画家たちを相手に、プロ美側から論争を挑んでいたというようなエピソードがあちこちに登場しますので、おそらく想像以上に多数くの独立展系画家たちが居住していたのではないかと想像しています。
独立美術協会の中でも、児島善三郎の狭量ぶりは「有名」ですね。三岸好太郎の死後、三岸節子が同協会から文字どおり「独立」したときも、あとあとまで色々なことをいっては彼女の活動を「妨害」しています。拙ブログで、児島善三郎をあまり取り上げないのは、そんな理由からでもありますね。w
by ChinchikoPapa (2022-07-01 22:28) 

pinkich

papaさん 坂本繁二郎が主催する美術団体が主催する公募美術展で賞をとった野見山さんは、翌年無鑑査で複数点出品するはずでしたが、坂本繁二郎の反対にあい、卓上髑髏のみ出品したとのこと。反対理由は、髑髏の作品が坂本繁二郎の価値観(絵は真善美を体現しなければならず、髑髏の絵などもってのほか)に合わなかったようです。ユリイカの野見山さんの特別号に詳細が掲載されていました。
by pinkich (2022-07-12 20:07) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
髑髏に象徴される死のイメージが、「真善美を体現」していないというのは個人的な「審美眼」であって、美術一般の価値観とは関係のない視座ですね。キリストをはじめ、数多くの死体や髑髏を描いた西洋画は、では坂本繁二郎にとってはどのように映っていたのか、ちょっと訊いてみたくなりました。なんとなく、「野見山暁治が気に入らない」だけの屁理屈ようなニュアンスも感じます。
by ChinchikoPapa (2022-07-12 22:03) 

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