「裏」=中ノ道ではなく「表」の道を進む葬列。 [気になる下落合]
以前、麹町区三番町に生まれ、夫から「“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないで」と頼まれ、西落合へ嫁いできた女性をご紹介Click!した。今回は、麹町区麹町で15歳まで育った女性が、1916年(大正5)に下落合へ転居して暮らしはじめている様子をご紹介したい。ちょうど、中村彝Click!が下落合へアトリエを建てたころだ。
麴町時代は、もちろん乃手の家庭らしく山王権現社Click!の氏子だったが、ときどき内藤新宿町にある太宗寺閻魔Click!の縁日に遊びにきたりしているので、新宿界隈には明治末から馴染みがあったようだ。もともと、母親の実家が下落合(現・中落合/中井含む)は現在の見晴坂Click!や六天坂Click!の下あたりで、落合地域の様子はもの心つくころから祖父母の家で目にしている。彼女の家庭は、もともと父親が材木・建築関連の仕事をしており、明治末からスタートしていた生活改善運動と、それにともなう郊外文化住宅(田園都市)構想のブームを見こんだ転居だったのかもしれない。
やや横道にそれるが、明治末から大正前期にかけ、東京の(城)下町=旧・市街地(東京15区Click!エリア)から、当時は武蔵野Click!と呼ばれることが多かった山手線の西部へ転居している、古くからの家庭が意外に多い。それは、市街地への工場進出による煤煙(空気の汚濁)あるいは河川の汚染などによる生活環境の悪化や、感染症(特に結核Click!やお染風Click!=インフルエンザ)の流行などを避けるため、交通網の発達と連動して生活改善を意識的に推進しようとする家庭が多かったのだろう。
(城)下町Click!から郊外への転居ブームは、その後、震災被害の最小化をめざして1923年(大正12)の関東大震災Click!直後にも、地盤の堅固な東京西部の丘陵地域への家庭移動にみられ、つづいて戦後1964年(昭和39)の東京オリンピックによる、再び住環境破壊にともなう“町殺し”Click!に呆れはてた、それまで故郷を離れがたく(城)下町でがんばってきた家々の、西部地域への転居を加速させている。
さて、麹町に住んでいた子どものころ、母方の祖母が下落合で穫れた野菜類をしょって、柏木駅Click!(のち東中野駅Click!)から中央線に乗り麴町までとどけてくれていた。子どもたちは、それを楽しみにしていて四ツ谷駅Click!までそろって迎えにいったらしい。下落合へ転居後は、のちに西武線・中井駅(1927年設置)の近くに住んでいたようだ。
では、青木初という方が目にした明治末から大正初期にかけての、めずらしい下落合の風景を見てみたい。同時代の下落合風景は、過去に小島善太郎Click!が絵画Click!や文章Click!で記録したのをご紹介している。1993年(平成5)に新宿区立婦人情報センターより刊行された『新宿に生きた女性たちⅡ』の、青木初「二人三脚の建具屋の暮らし」から引用しよう。
▼
母親の実家が落合で、大きな藁葺き屋根の農家で裏がずっと山になっていました。夏休みやお正月にはよく遊びに行きましたけれど、母親は長く居ることは滅多にありませんでしたよ。昔は、実家にいつまでも嫁がいるとうるさく言われましたからね。/その頃の落合は畑や田んぼが広がっていて、駅の方(中井駅は未設)は櫟(くぬぎ)の林が続いていました。妙正寺川はよく水が出ましたね。大水の後には鯰や鯉が打ち上げられていて、それを長い棒の先に五寸釘を何本も打ってそれで突くんですよ。真っ暗な夜に、壊れたような土瓶に石油を入れて芯を出して松明にして、それがあっちこっちにポッポッと付(ママ:点)いて、その明かりで突くんです。どの家にも丸い桶があって「鯰取ってくるから、水張って待ってろーっ」といって出て行くのです。私は鯰が嫌いで食べませんでしたね。/なんでも自給自足の暮らしでしたが、田んぼよりも前菜物(青物野菜)を多く作っていて、高田馬場のヤッチャバ(青物市場)へ持って行きましたね。(カッコ内引用者註)
▲
母親の実家も含め、周囲にあった農家は小作農家ではなく、それぞれが広めの地所を所有する自作農家だった。のちに設置される西武線・中井駅の東側あたりから、現在は施設廃止と樹林の伐採をめぐって住民裁判が進行中の「清風園」Click!あたりまで、わずか5軒の農家しかなく、周辺の一帯はこの農家が所有し耕す田畑だった。
1910年(明治43)作成の1/10,000地形図を参照すると、確かに家屋が5軒しか採取されていないのがわかる。ちなみに、より古い1880年(明治13)に作成されたフランス式1/20,000彩色地形図Click!では、6軒の家屋が採取されている。落合ダイコンClick!は、特に漬け物Click!にした製品がもっとも高く取引きされたらしく、冬場に湧水を利用して造成した“洗い場”Click!でダイコンなど野菜類を洗うのはたいへんだった。
食事は麦飯が中心だったが、物日(ものび:祝日や祭礼日)には白米が炊かれている。おかずは、目白通りに開店していた万屋(よろずや)へ自転車で出かけ、塩漬けのサケやマスを購入していた。おやつは、たいてい手作りのかき餅かおにぎりで、たまにはカリントウが出たらしい。麹町一帯の家庭に、電気が引かれたのは大正の最初期だったが、当時の下落合ではいまだランプ生活がふつうだったそうだ。
青木初という方が、下落合へ転居してきたのは15歳のときだったが、妹たちは麹町の小学校に通っていたので、落合尋常小学校Click!(のち落合第一尋常小学校Click!)へと転入している。成績が優秀で「全甲」だったため、校長が上級の学校への進学を奨めたが、「女に教育はいらない」という親の方針で許してはもらえなかった。
15歳をすぎた彼女は、裁縫を悉皆屋Click!ではなく近所の素人の奥さんの家へ習いに出かけ、ときには依頼された着物も縫っていた。家の手伝いが多く、洗い張りなども手伝いながら、長女の彼女は母親の相談にもよく乗ってあげていたようだ。家庭には、定期的に髪結いがまわってきて、彼女は日本髪を結ってもらっていた。
つづけて、同資料の「二人三脚の建具屋の暮らし」から引用してみよう。
▼
日照りが続くと雨乞いをするんですよ。あぜ道に巻藁(まきわら)を組んで、むしろ旗を立てて、それを大勢で空に向かって突くんですよ。遠くの江ノ島の方まで男衆が徳利で水を貰いに行ってくるんですよ。それを奉るんです。/当時、麹町は火葬だったけど、大正十四年頃の落合は未だ土葬でしたね。おばあさんが亡くなった時は大変大きなお葬式でした。女は白無垢で、男は黒装束に編み笠と藁草履で、寝棺を八人で担いだんです。今の通りが裏になるので、そこを通るのはいけないといって、早稲田通りを通って上落合まで長い長い行列が続きました。
▲
雨乞いのむしろ旗には「龍王神」という文字が書かれており、いまも中井御霊社Click!には祈願が成就して奉納されたものだろうか、1竿のむしろ旗(182×92cm)が奉納されている。江ノ島へ出かけるのは、同島の元神である龍神の岩屋(洞窟)に湧く聖水をもらいにいくためだが、「男衆」はそれとは別の弁天様にも用があったのかもしれない。w
葬式のシーンが描かれているが、当時の落合地域は土葬が主流で、行列が上落合へ向かうのは落合火葬場Click!へいくのではなく、最勝寺Click!の墓地へと向かっているのだろう。当時の葬儀や葬列の様子は、1994年(平成6)に新宿歴史博物館から刊行された『新宿区の民俗(4)落合地区篇』収録の、「都市化と葬墓制の変化」という論文に詳しい。実際に、1928年(昭和3)に行われた最勝寺へと向かう土葬の葬列写真も掲載されている。
上記の文章で興味深いのは、鎌倉支道Click!とみられる古い中ノ道Click!(下の道・新井薬師道=現・中井通りClick!)がなぜか「裏」の道と規定されており、江戸期の街道筋である馬場下道Click!(のち昭和通り/現・早稲田通り)が「表」の道と認識されていることだ。下落合の六天坂や見晴坂の坂下一帯が、彼女の実家が所有する農地だったらしい地点から、すなわち先の1/10,000地形図に採取されている5軒の農家のいずれからも、中ノ道を通れば最勝寺までは600~700mほどの距離でたどり着けるが、早稲田通りを迂回するとなると(葬列の道筋にもよるが)、一気に1.3~1.4kmと倍以上のルートになる。
この葬儀の習慣は、落合村(町)のしきたりや“お約束”というよりも、どこの誰々が死去したことを村じゅうに触れまわる、地域の公示・公告的な意味合いが強かったのではないだろうか。儀式というのは、もともと共同体へのなんらかの“宣言”や“公告”を動機、あるいは目的としたものから出発している例が多い。同時に、人々(葬儀では残された家族や姻戚)の心構えや気持ちの整理をうながす精神的な効果も、少なからず大きかったにちがいない。
青木初という方は、下落合で1922年(大正11)に建具師と結婚し、その翌年には関東大震災に遭遇している。目白文化村Click!や近衛町Click!をはじめ、大正後期の下落合はモダンな住宅群の建設ラッシュだったので、その仕事は多忙をきわめたのではないだろうか。下落合における関東大震災時の記録はめずらしいので、また機会があればご紹介したい。
◆写真上:大正末か昭和初期ごろに撮影された、妙正寺川の“どんね渕”Click!(AI着色)。
◆写真中上:上は、1880年(明治13)作成の1/2,0000地形図にみる6軒の農家。中は、文中の時代と重なる1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる5軒の農家。下は、1927年(昭和2)ごろ美仲橋から西を向き撮影された妙正寺川とその現状。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)に撮影された洪水の妙正寺川(AI着色)。中は、中井御霊社に保存された「龍王神」のむしろ旗。下は、1923年(大正12)の関東大震災直後に撮影された江ノ島。津波の跡も生々しく、同島は1m前後も隆起している。
◆写真下:上・中は、1928年(昭和3)ごろに撮影された落合地域の葬列。文中の証言と、まったく同様の情景がとらえられている。下は、昭和初期に撮影された最勝寺山門。