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連携「下落合と早大を訪れた旧石器人」。 [気になる下落合]

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 昨年(2023年)の秋、早稲田大学Click!会津八一Click!記念博物館で、同大キャンパスの下に眠る遺跡から出土した旧石器を一堂に展示する、「早稲田大学を訪れた旧石器人―その石はどこから来たのか―」という展覧会が開催された。なんとなく、拙サイトのような展覧会タイトルが興味深くて惹かれ、ブラブラと散歩がてら久しぶりに早大キャンパスの同記念館(旧・中央図書館)を訪れてみた。
 戦後、相沢忠洋Click!の発見をきっかけに岩宿遺跡Click!を発掘した明治大学とともに、早稲田大学が旧石器時代の発掘に注力するのにはわけがある。松本清張Click!のファンなら、すぐにお気づきでご存じだと思うが、彼の短編作品に『石の骨』(1955年)というのがある。戦前から旧石器をはじめ、より古い時代の動物化石(歯)と同じ地層から人骨化石までを発見したとし、日本における旧石器時代の存在を論文で主張しつづけ、考古学界というかおもに官学の帝大から、嘲笑や揶揄、非難、嫌がらせ、罵詈雑言を浴びせられつづけた在野の考古学者が主人公として登場している。
 ところが、しばらくすると手のひらを返したように帝大のとある教授が主人公に接近し、彼が発見した遺物をさも自分が発掘したかのような論文を発表して、発掘物には教授の名前入りのラテン語学名をかぶせ、現地の発掘調査には発見者である主人公の参加さえ排斥して認めなかった。つまり、研究成果の丸ごとドロボー=かすめ盗りをしたわけだが、その裏にはこのドロボー教授を追い落とすための、さらにドロドロした学内の派閥争いが存在していた……というような展開だ。『石の骨』では、すべてが仮名になってはいるが、このストーリーはあらかた当時の事実にもとづいて描かれている。
 なにやら、第二文化村Click!に住んだ島峰徹Click!歯科医学Click!と東京帝大医学部との経緯を想起してしまうが、島峰が早期に同大学を見かぎり“独立”をめざしたため、彼の業績は横盗りされずに済んだのではないかとさえ思えてくる。
 早くから旧石器時代の存在を主張した、小説の考古学者が直良信夫であることは周知の事実だが、今日では彼が発見した明石人は東京大空襲Click!で標本が失われ、石膏型しか残存しておらずいまだ論争がつづいているものの、葛生人は15世紀の人骨であることが判明し、誤りであったことが明らかになった。だが、彼が採集した多くの石器類は、官学から自然石の見誤りだとされ、学問の「常識外れ」で世間知らずとさんざん嘲笑されたにもかかわらず、岩宿ケースと同様に旧石器時代の遺物が混じっていたのではないかと推測されている。今日の眼から見れば、新たな学術的な発見や研究は「常識外れ」や既存「常識」の否定からしか生まれない、典型的なケーススタディのように映る。
 直良信夫は、1930年代になると早稲田大学で古生物学教室の助手になり、1945年(昭和20)には講師、戦後の1960年(昭和35)には文学博士号を取得して、同大の古生物学の教授に就任している。このような状況や経緯から、岩宿遺跡の発掘を担当した明大および早大が、戦後もしばらくの間、旧石器時代の研究では学界をリードすることになった。岩宿遺跡の発掘からわずか5年後、「新宿にも旧石器人がいた!」と新聞で大々的に報道された目白学園Click!における落合遺跡Click!の発掘も、早大の考古学チームが担当している。
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 くだんの「早稲田大学を訪れた旧石器人」展だが、まずキャンパスとその周辺域からの出土と限定されているにもかかわらず、その多彩な発掘物の豊富さに目を見はる。展示されていたのは、その展示テーマに沿ったごくごく一部にすぎないのだが、それでも膨大な量の旧石器を目にすることができた。日本列島に旧石器人の痕跡が認められるのは、2023年現在で約4万年ほど前から(遺跡数は10,150ヶ所)だが、いわゆる縄文時代を迎えるまでの期間が後期旧石器時代と呼ばれる、日本の基層部を形成する歴史だ。早大キャンパスから出土している石器類は、3万5千年前からの旧石器だが、落合遺跡Click!から発見されている旧石器(また学習院キャンパスClick!から発見された旧石器)も、その近接した地理的条件からおよそシンクロした遺物が多いと思われる。
 比較的厳密な年代規定ができるのは、日本列島の広範囲にわたって堆積した火山灰による地層の年代規定によって、旧石器がどの火山灰層(ローム地層)から出土しているかがわかりやすく、離れた地域同士でも比定がしやすいからだ。特に、伊豆・箱根連山や富士山などの頻繁な噴火で形成された関東ロームClick!は、各地層別による詳細な年代規定がしやすいため、ブレの少ないより正確な旧石器の時代を知ることができる。ただし、ロームは強酸性土壌なので人骨や動植物などの有機物は融解してしまうため、万年単位では遺物として残りにくいというデメリットがある。したがって、日本における旧石器人の生活や行動を知るうえで、人々が用いていた旧石器(一部は初歩的な土器Click!)は大きな手がかりであり、日本史におけるかけがえのない考古学上の資料といえるだろう。
 同展では、早稲田の安部球場(戸塚球場)Click!跡(現・早大総合学術センター+中央図書館)から出土した下戸塚遺跡、東伏見キャンパスの下柳沢遺跡、所沢キャンパスのお伊勢山遺跡などがメインとなっているが、下落合の落合遺跡に近い旧石器時代から現代までつづく遺跡が発掘された、複合遺跡の下戸塚および下柳沢の各遺跡について図録より引用してみよう。
  
 下戸塚遺跡は東京都新宿区の下戸塚に位置する遺跡であり、早稲田大学総合学術センター・中央図書館の建設に伴い発掘調査された。旧石器時代、縄文時代、古代、中世、近世を含む複合遺跡である。近くには神田川が流れ、その南側の台地上に遺跡が立地する。/下柳沢遺跡は東京都西東京市に位置する遺跡である。早稲田大学は東伏見キャンパスの諸施設を建設するにあたり、3次の発掘調査を行った。こちらも旧石器時代、縄文時代、古代、中世、近世の遺構・遺物が検出される複合遺跡である。遺跡周辺は東に向かって緩やかに傾斜する大地となっているが、台地内を流れる石神井川によって谷地が形成されている。
  
 このふたつの遺跡が同時に取りあげられているのは、出土した旧石器が関東ロームのⅢ層より下の立川ロームと呼ばれる地層に含まれていたからだ。より具体的にいうなら、第1文化層(Ⅴ層上部)、第2文化層(Ⅳ層下部/Ⅳ層中部)、第3文化層(Ⅳ層上部)などで出土位置が似かよっており、出土した旧石器のもととなる石材も、地理的に比較的近接した遺跡のせいか共通するものが多かったためだろう。下落合の落合遺跡や学習院遺跡もまた、上記とほぼ同様の出土傾向だとみられる。
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 旧石器の石材としては、同大の分析によれば信州の黒曜石、伊豆半島の黒曜石、栃木県北部の珪質頁岩および黒曜石、房総半島南端の白滝頁岩、丹沢山塊の凝灰岩、近場の河川流域などで入手できる河原石に多いチャート(堆積岩)や安山岩などだ。同図録では、旧石器人は回遊(流浪)するため家族・一族あるいはグループ単位でこれら地方・地域間を移動し、石器づくりに必要な石材を入手していたのだろうと推測している。
 だが、後期旧石器時代人は現代人と同様の思考能力を備えたホモ・サピエンスであり、そこには狩猟採集にともなうテリトリー感覚や地理的感覚(=土地勘や地勢感)などが豊富に備わっていたとみられ、下戸塚や下柳沢から栃木県北部や長野県、伊豆半島、房総半島の南端、あるいは丹沢山塊まで定期的に回遊していたとは、わたしは考えづらいように思う。海や平野部など獲物が多く、生活が安定する場所(テリトリー)は離れがたく、また豊富な森や山の恵みがある馴染みのエリアから遠く離脱し、あえて生存のリスクを増大させるような行動はできるだけ避けたがったにちがいない。
 そこで登場してくるのが、石材を専門に運搬する人々の存在を示唆するロジスティクス(物流)論、あるいは石材運搬・石器製造および修理(野川沿いの遺跡群事例)・狩猟採集専門などに役割が分担されたチームあるいはグループによる分業論だ。そこでは、石器づくりに欠かせない貴重な石材は使用価値ばかりでなく、交換価値が付与され相応の収穫物と石材(ないしは石器)とが「等価値」を前提に交換されたのではないだろうか。これらの石材は、もっとも原始的な貨幣的役割を担ったのではないかという考え方だ。
 さて、わたしの手もとにある旧石器・石器Click!だが、落合遺跡をめぐる周辺のバッケ(崖地)に露出した関東ロームの、いずれかの地層から出土したのをいただいたものだ。この中で、刃部には明らかに粗い磨製跡が見られる槍先形尖頭器は、近場の大きめな河川敷で採取し製造したらしい安山岩製とみられる。下戸塚遺跡からも、安山岩製の切出形石器が出土している。また、前回の記事では比較的時代が新しいのではないかと考えた、動物の毛皮などを剥ぐのに使われたとみられる大型の掻器(スクレイパー)だが、堆積岩(チャート)製とみられるので意外に古いのではないかと改めて考え直している。下戸塚や下柳沢の各遺跡からも、チャート製のスクレイパーが各々出土しているからだ。
 つづいて、緑がかった珪質頁岩とみられる、ていねいに磨製された片側が破損している石斧(ハンドアックス)だが、先の関東ロームの年代区分でいえば第4文化層(Ⅲ層上部)あるいは縄文時代早期~前期にかかる磨製石斧ではないかと思われる。石斧の片側が、修理できないほど欠損したので放棄された可能性が高いが、珪質頁岩による旧石器もまた関東各地の遺跡から出土している。
 最後に、友人を通じて長野県の方からいただいた、信州産の黒曜石で製造された小型の石核だが、早大本学キャンパスの下戸塚遺跡から非常に近似したサイズの石核が出土しているのに驚いた。「二次加工のある小型石核」と名づけられた同石器も、同様に信州産の黒曜石でつくられている。いただいたときには、確か縄文期とうかがったように記憶しているが、もう少し年代が古い時代に製造された石核石器ではないだろうか。
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 神田川や妙正寺川の流域では、数多くの旧石器時代の遺構が発見されている。それぞれ、発掘を担当した大学や自治体は異なるが、行政の境界や大学の垣根を超えてまたがる旧石器の研究が進捗すると、より大きな成果が期待できそうで面白い。今回の「早稲田大学を訪れた旧石器人」展のように、石器の材質からたどる物流ルートあるいは人的回遊を想定すれば、そのルート上に新たな遺跡が発見できるかもしれない。ちなみに、同展の図録には明治大学が発掘した「砂川遺跡」の成果についても、その分析法とともに触れられている。

◆写真上:グラウンドの下に旧石器時代から近世までつづく複合遺跡の下戸塚遺跡が眠っていた早稲田大学安部球場(AI着色)で、1943年(昭和18)10月16日に行われたいわゆる「最後の早慶戦」(出陣学徒壮行早慶戦)を撮影したもの。
◆写真中上は、1988年(昭和63)ごろ撮影の下戸塚遺跡で弥生期に形成された環濠集落跡を発掘中。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる落合地域と周辺域の旧石器時代遺跡で河川をはさみ両岸の斜面または高台に位置している。
◆写真中下:わたしの手もとにある、目白学園の落合遺跡周辺から出土した旧石器および石器。は、使用跡が残る局部磨製の槍先形尖頭器(約116×62mm)。中上は、大型のスクレイパー(約135×95mm)の両面。中下は、いまでも手を切りそうなスクレイパーの刃部。は、縄文前期にかかるかもしれない精密に研磨された石斧(約99×48mm)。
◆写真下は、1963年(昭和38)に撮影された落合遺跡の一部。中上は、早大所沢キャンパスから出土した接触変成岩(ホルンフェルス)製の局部磨製石器。中下は、知人を通じていただいた信州の黒曜石による石核(約29×20mm/)と、下戸塚遺跡から出土した同じ信州黒曜石による小型石核()。は、「早稲田大学を訪れた旧石器人」展の図録()と、2021年出版の森先一貴『日本列島四万年のディープヒストリー』(朝日新聞出版/)。

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