この10年間に読まれた人気記事ベスト20。 [気になる下落合]
今年も拙ブログをお読みいただき、ありがとうございました。本日のアップロードが、2023年最後のアーティクルとなります。どうぞ、みなさま良いお年をお迎えください。
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先日、2,400万PVClick!を超え、拙いブログも20年目に入ったので、数年ぶりによくアクセスされた記事を調べてベスト20をご紹介したいと思う。
ただし、2004年11月からの古い記事ほどアクセス数が膨大なのはあたりまえで、中には60,000PV近いものも存在している。したがってスタート時からでなく、2013~2023年にわたるここ約10年間に期間を限定して、アクセス数の多い人気の記事をご紹介してみたい。古い時期の記事で、よく読まれているのは以前のベスト20Click!を参照していただきたいが、それらも年月の経過とともに順位が大きく入れ替わっていたりする。
ちなみに、拙ブログにアクセスしている方がどのようなOSをお使いかというと、トップはWindowsの82.1%、次点がMac OSの8.5%、次いでAndroidの4.8%、iOSの4.3%、Linuxの0.3%とつづいている。したがって、アクセスの90.9%がPCあるいはWSを使ってアクセスされており、残りのデバイスがスマートフォンやタブレット(いわゆるPDA)の9.1%ということになる。記事の文字数が多いせいか、PDAで読むのがつらいので大画面のデバイスが圧倒的に多いのだろう。
さて、2013年から2023年までの約10年間で、よく読まれている記事のベスト20だが、まず20位から16位まで見てみよう。このあたりは、10,000PV前後の記事だ。なお、<上><中><下>などに分かれている連載記事は、もっともアクセス数の多い回をピックアップしているが、一連の連続する記事もほぼ同じようなPVだとお考えいただきたい。
落合地域や東京で起きた事件関連の記事が、20位以内に限らずよく読まれているのがわかる。西武線に飛びこんだ少女は、芥川龍之介Click!の自裁から間もないため、昭和初期に続出した未来に漠然とした不安を抱く“文学少女”Click!ではなかったかと想定したが、当時の新聞記事や遺族の証言を読んでも自殺の原因はいまだ不明のままだ。
アビラ村Click!の開発記事は、目白文化村Click!や近衛町Click!の記事と同様に人気が高いが、下落合でさまざまな“伝説”を残している金山平三Click!のキャラクターが愉快なのでアクセス数がことのほか多いのだろう。けしからぬ事件Click!も、東京各地で起きたやや猟奇的な事件を扱った記事だ。
各地で生存がささやかれる、ニホンオオカミClick!の人気が相変わらず高い。このあと上位にも登場してくるが、どこかUMA人気と結びついた“不思議大好き”な人のアクセスが多いのかもしれない。三岸好太郎・節子夫妻Click!の人気も高く、再び上位にも登場してくる。
つづいて、15位から11位までは12,000PV前後の記事が多い。
江戸東京という地域がら、徳川家に関する記事へのアクセスは多く、15位から11位までに3本の記事がランクインしている。目白崖線沿いにつづく、音羽の谷間をはさんだ小日向台地の第六天町に住んでいたのは、江戸期には15代将軍だった徳川慶喜Click!だ。下落合や目白にも、徳川家が次々と転居Click!してきている。また、徳川家に嫁いだはずの和宮と雑司ヶ谷村(のち高田村に包括)の新倉家Click!、そして実際に千代田城Click!に入った「和宮」との関係を推論・連載した記事もよく読まれている。
大磯記事Click!とともに、同地にあった三岸節子アトリエClick!の記事も再びランクインしている。また、落合地域でもあったとみられる闘鶏賭博Click!の記事も、なぜか人気だ。
次に、10位から6位までは15,000~20,000PVほどの記事がつづいている。
佐伯米子Click!の記事Click!が、これほど上位にきているのが不思議な気がする。佐伯祐三との出会い前後のことを書いたものだが、佐伯祐三のキーワードでよくひっかかり読まれているのだろうか。日本橋の“すずめ色”Click!は、わたしの故郷というか江戸東京の(城)下町Click!における昔からの色彩感覚や嗜好を書きとめた記事だ。
下落合に建っていた近衛家をめぐる屋敷の記事も、近衛新邸Click!に限らず高いアクセス数がつづいている。また、ここでもニホンオオカミに関する記事がランクインしている。つい最近まで、ニホンオオカミの目撃証言が寄せられている秩父山系Click!に、実際に出かけて取材した記事だ。異色のランクインは、戦後までチョモランマ(エベレスト)を超える世界一標高の高い山といわれていた、中国の「アムネマチン」Click!をご紹介した記事だ。子どものころ夢中になって読んだ、不思議や怪奇がテーマの『少年少女世界のノンフィクション』シリーズ(偕成社)を思いだしながら書いた文章だ。
さて、いよいよ5位から1位までは、20,000~30,000PVの記事が並んでいる。
この10年間の記事では、上落合と下落合に住んだ淡谷のり子Click!の人気が根強い。日本の軍国主義に抗しつづけた、彼女の生きざまClick!や思想が共感を呼ぶのだろう。
同じく、国家(大日本帝国)を破産・滅亡に導いた戦前の「亡国思想」を象徴する戦時標語Click!も、淡谷のり子記事とともによく読まれてベスト3にランクインしている。sonet-blog時代にリンクされ、ss-blogになってから過去の数値がリセットされてしまったfacebookからの「ファボり」は、ゆうに5,000カウントを超えていたと記憶している。おそらく、若い子たちを中心によく読まれているのだろう。
下落合の寺斉橋北詰めに、喫茶店「ワゴン」Click!を開店する萩原稲子Click!の記事も人気が高く2位にランクインしている。「萩原朔太郎」をキーワードにたどり着くのかもしれないが、「ワゴン」に集った多くの文学者たちにも惹かれるのだろうか。
そして、過去10年間の読まれた人気記事のベスト1は、佐伯祐三Click!が描く「八島さんの前通り」の高田邸Click!を取りあげた今年(2023年)3月の記事だ。ちょうど、東京駅のステーションギャラリーで「佐伯祐三―自画像としての風景―」展が開催されている最中であり、また山田五郎様Click!がWeb講義Click!で拙サイトを取りあげてくれたせいもあるのだろう。この講義以降、拙サイトの佐伯祐三記事へのアクセスが急増している。
なお、番外の21位の記事は、東京初空襲のドーリットル隊を取りあげたものだ。
記事では、対空砲火や迎撃戦闘機を避け、妙正寺川沿いの上落合と下落合の谷間を低空飛行したドーリットル中佐搭乗の1番機(2344機)Click!が、米国防省の爆撃計画からするとその直前に、おそらく早稲田中学校を東京第一陸軍造兵廠の施設とまちがえて誤爆した記事Click!だ。早稲田中学校の構内に入れていただき、誤爆で即死した小林茂(享年16歳)を記念する「いのり」(佐竹伊助・作)を撮影させていただいた。
なお、この数ヶ月で目立ってアクセスが多いのは、佐伯祐三や華族関連の記事Click!とともに、「大逆事件」をくぐり抜けた沖野岩三郎Click!の記事だったのを付記しておきたい。彼が孫と通った、下落合の白百合幼稚園のエピソードなどもご紹介したいと思っている。
以上が、2013年から今年(2023年)12月までのアクセス数が多い記事ベスト21だが、来年(2024年)11月24日で拙ブログは丸20周年となる。それまで記事を書きつづけられたら、今度は20年間を通じての人気の高い記事ベスト20を、ぜひ調べてみたいと思っている。
◆写真上:背後のバッケ(崖地)Click!の風情から、下落合の野外で写生している可能性がある大正期(1922~1923年ごろ)撮影の佐伯祐三。ひょっとすると、アトリエの南側に口を開けていた谷戸=西ノ谷(不動谷)Click!かもしれない。(写真はいずれもAI着色)
◆写真下:1929年(昭和4)撮影の、喫茶店「ワゴン」を開いたランキング2位の萩原稲子。
「もう少し眠ってから立上がりますからね」尾崎翠。 [気になる下落合]
先日、吉屋信子Click!をめぐる二度めの街歩きをした際、吉屋信子記念会の会長・藍田收様より、吉屋信子と尾崎翠Click!が同時に入選している、1915年(大正4)に刊行された「文章世界」6月号(博文館)の当該ページをわざわざお送りいただいた。
尾崎翠は、鳥取で大岩尋常小学校の代用教員をしていた時代で、いまだ「尾崎みどり」の筆名で投稿しており、栃木高等女学校に通う吉屋信子とは同じ19歳だった。吉屋信子Click!は、この数ヶ月後(1915年)に東京へとやってきて兄のもとに寄宿するが、尾崎翠は1919年(大正8)に目白の日本女子大学校Click!の国文科へ入学するため東京にきて、ほどなく同大学の春秋寮で生涯の友となる松下文子Click!と同室になっている。
久しぶりに「尾崎みどり」(尾崎翠Click!)の名前に出あったので、彼女が上落合842番地(1932年以降は上落合2丁目841番地)の借家2階で頭痛薬ミグレニンの依存症となって、被害妄想にとらわれ幻覚を見るようになり、兄に鳥取へ連れもどされたあとの経緯いについて、彼女の身近にいた肉親の証言なども含めご紹介してみたい。
1930年(昭和5)前後に上落合にいた尾崎翠は、10歳ほど年下の高橋丈雄との関係を含め、「すごい小説を書くお姉さん」(群ようこ)のような存在だったろうか。彼女のものごとにこだわらない、男っぽくてサバサバした性格も、むしろ「お姉さん」というよりは「お姐さん」という印象を抱かせたかもしれない。確かに、とても戦前の近代文学とは思えない、戦後1960年代の現代文学とみまごう新しい作品を次々と生みだしていた彼女の姿は、男女を問わず文学に関心のある人々に少なからぬ衝撃を与えただろう。
東京から鳥取にもどる途中で、列車の窓から何度か飛び降りようとした錯乱気味の尾崎翠だが(創作の現場である東京から、どうしても離れたくはなかったのだろう)、鳥取に着きミグレニンの薬物依存が消えてくると、衰弱するどころかたちまち健康を取りもどしている。すぐにも東京へもどりたかったのだろうが、東京行きを援助してくれた母親の世話や兄をはじめ相次ぐ肉親の死などで、自分の子どものように甥や姪たちの面倒までみることになり、なかなか東京へもどるきっかけがつかめなかったようだ。
1940年(昭和15)に、ずっと自宅で介護をつづけていた母親が死去した際、松下文子からとどいた供物の礼状に、尾崎翠は「私はもう少し眠ってから立上がりますからね」と返信している。母親の介護疲れで気持ちが沈んでいたせいもあるのだろう、東京を離れてから7年の歳月が流れていた。だが、尾崎翠が「立上が」ることを時代が許さず、すぐに日本は太平洋戦争へと突入していく。
尾崎翠は男っぽい性格だったからだろうか、彼女に育てられた甥や姪たちは、半分父親のような半分母親のような印象をのちのちまで抱いている。そんな「翠パパ」「翠ママ」の姿を、2016年(平成28)に尾崎翠フォーラム実行委員会から出版された『尾崎翠を読む-新発見史料/親族寄稿/論文編』より、甥の小林喬樹という方の証言から引用してみよう。
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手紙の文面でもそうですが、男のような話し方の部分がかなりあり、江戸っ子のべらんめえ口調のことも度々ありました。歯切れのよいタンカをきるというか、聞いていて溜飲の下がる思いがすることがよくありました。(中略) 翠伯母は、ものの考え方が科学的・合理的であり、人の考えないアイデアを思いつく人だったと思います。(中略) 翠伯母は、人を見下(くだ)すとか鼻持ちならない尊大さとかとは無縁の人でした。しかし、矜持を保つというか、内心での自尊心は相当強かったのではないかと思います。/人を声高に誹謗したり口汚く罵るなどということは全くありませんでしたが、鑑識眼は鋭く、短い的確な言葉で斬って捨てていました。ですからそれが痛烈な批判であっても、サッパリとしていて、後味のよいものでした。
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このあたり、上落合時代の寡黙で地味で目立ちたがらない尾崎翠の印象とは少し異なり、肉親の子どもたちを相手に気を許して、心を張らず飾らない素の姿を見せていたのだろう。彼女が「べらんめえ」の、(城)下町Click!言葉(の中でも江戸からつづく職人言葉)を話しているところなど、ちょっと従来の尾崎翠イメージからは想像もつかない。
彼女は、甥や姪の面倒をみながら、そして母親の介護をつづけながら、上落合にいるときと同様に文学作品には欠かさず目を通していたようだ。また、上落合時代は武蔵野館Click!や公楽キネマClick!へ頻繁に通ったように、鳥取の地元でも映画鑑賞は熱心につづけ、映画雑誌も欠かさず読んでいた様子がうかがわれる。つづけて、同書より引用してみよう。
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寺町の家の、八畳の一間が翠伯母の生活空間でしたが、粗末な本棚には、キネマ旬報、改造、文藝春秋などの雑誌や、改造社の現代日本文学全集、レベッカ、風と共に去りぬ、二十四の瞳、ノンちゃん雲に乗るなどの本が並んでおりました。/普段は手内職をするほかは、拡大鏡で一日中、新聞や雑誌、本を丹念に読んでいました。映画にもよく連れていって(ママ)もらいましたが、見るのは洋画ばかりで、当時川端通りにあった帝国館によく連れて行って(ママ)もらったものです。(中略) いつの頃でしたか、翠伯母がNHK鳥取放送局の番組に出るとか出ないとかの話があったとき、翠伯母がNHKを「日本薄謝協会」と皮肉ったことを、私も、私の姉もよく覚えています。
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尾崎翠の書棚の様子から、この証言の記憶が1950年代前半あたりのものだとわかる。日本が敗戦を迎え、食糧難の時代がつづいた戦後も彼女はペンをとっていない。NHKが、尾崎翠の健在を戦後初めて確認したとき、彼女は出演を固辞しているが、それは「日本薄謝協会」のせいではなかっただろう。w 派手なことが嫌いで、寡黙に懸命に生きて大好きな煎茶を呑みタバコをふかしながら、ひたすら静かに執筆していたいというのが、彼女の文学スタイルであり生活やふるまいの矜持だったのだろう。
尾崎翠は、1933年(昭和8)に上落合を去ってから戦後まで沈黙をつづけている。したがって、東京では彼女はミグレニン中毒で長期療養中、あるいは病気で廃人同様になり再起不能、さらにはひどいのになると鳥取で死んだことにされていた。それは、友人だった(はずの)林芙美子Click!が出版界に死亡情報を流したせいでもあるが。
尾崎翠が鳥取で母親を弔っていたころ、落合時代には近所の上落合545番地Click!に住んで知りあいだった大田洋子Click!が、東京朝日新聞の懸賞小説に入選し、鳥取の彼女のことを文章に書いている。それによれば、尾崎翠は病気でもっか療養中だとされており、あまり親しくなかった大田洋子の言葉に彼女は少なからずカチンときたのだろう。
1940年(昭和15)に一度だけ、尾崎翠はさっそく東京朝日新聞へ久しぶりに原稿を送り「反論」している。その記事の内容を、1998年(平成10)に文藝春秋から出版された群ようこ『尾崎翠』から、少し長いが孫引きしてみよう。
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次に大田洋子は私が未だに郷里で病弱な日を送つてゐるものと誤認してゐる。それきり文通もなく殊に私の郷里埋居の長く、沈黙の久しい罪であらう。しかしこれは黄金の沈黙かも知れないと思つてゐる。(中略) 大田洋子は私の健康に対する誤認を解かなければならない。あの駄作に次ぐ幾つかの聯作を企てたりして心身の疲れ切つた帰郷であつたから洋子はそのまゝ私が何年も疲労を持越してゐるものと考へてゐるらしい。とんでもない事である。帰郷して二ケ月もするうち健康はとみに盛返して来た。これを聞かせたら洋子は卒倒するかも知れない。その顔を見たいものである。(中略)/で、健在の幾年間は、仕事の上では大いに笑はれる資格があつたし、晩年の母にとつては少しばかりよい子供であつたかの気もするし、多くの甥や姪の『叔母さん』であつた。まあそんな生活である。都会の一隅に住んでつまらないものを少しばかり物してゐた独りものゝ私しか知らない大田洋子ではあつたが、郷里へ来れば母もあつたし肉親も多い。まづありふれた世界の一員である。落合での一人ぐらしの如く物事に超然としても居られなかつた。妹の結婚、母の死等、世の中といふものはまことに冠婚葬祭の世の中であつた。私がもし自然主義作家の席末でも汚してゐたとしたら、こんな生活を克明に描破して洋子へも健在を謳はせたかも知れないと思ふのである。
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下町言葉の「べらんめい」が得意だったらしい彼女は、「どっち向いて誰のこと書いてんだい? あたしゃ、ちゃんと元気で生きてるってばに!」と、長谷川時雨Click!並みにノド元まで出かかったのではないだろうか。ついでに、当時の文壇では支配的だった「自然主義作家」=「私小説」家たちのつまらない作品群へ、チクリと皮肉な針を刺すのも忘れていない。この文章を読むかぎり、尾崎翠はまったく変わらずに健在だったことがわかる。
尾崎翠が母親の死後、戦争や生活に追われることなく再びペンを執っていたら、日本文学の20年も30年も先をいく表現を予感させるような作品が、次々に生まれていたのではないかと思うと残念でならない。大田洋子Click!への「反論」を、東京朝日新聞に書いていたちょうどそのころ、松下文子の返信には「もう少し眠ってから立上がりますからね」と書いている。「すごい小説を書くお姉さん」には、ぜひもう一度「立上が」ってほしかったのだ。
◆写真上:昭和初期のころに撮影された、30歳前後の尾崎翠。(AI着色)
◆写真中上:上は、吉屋信子記念会会長・藍田收様よりお送りいただいた吉屋信子と尾崎翠がともに「秀才投票」で入選している1915年(大正4)刊行の「文章世界」6月号(博文館)。中は、1914年(大正3)の「女子文壇」8月号(女子文壇社)に入選した尾崎翠。下は、1920年(大正9)刊行の「新潮」1月号(新潮社)に掲載の尾崎翠。
◆写真中下:上左は、1917年(大正6)撮影の21歳の尾崎翠。上右は、1931年(昭和6)8月22日刊の都新聞の取材に答える尾崎翠(35歳)。「1週間も髪を洗っていない」と撮影を嫌がっているが、早く近所の銭湯「三の輪湯」Click!で洗ってきてほしい。下は、1920年(大正9)の「文章倶楽部」2月号に掲載された尾崎翠(24歳)の肖像。(各AI着色)
◆写真下:上左は、2016年(平成28)に出版された『尾崎翠を読む』(尾崎翠フォーラム実行委員会)。上右は、1998年(平成10)に出版された群ようこ『尾崎翠』(文藝春秋)。下は、鳥取県岩美郡岩美町の愛宕山にある西法寺に建立された尾崎翠生誕碑。
「目白教会」を伝道教会と福音教会が綱引き。 [気になる下落合]
早稲田大学Click!の第一高等学院Click!(教養課程)で、1923年(大正12)から戦後の1952年(昭和27)までの30年間にわたり、生物学を教えていた教授に本間誠がいた。親父は、戦時中から戦後にかけて諏訪町(現・高田馬場1丁目)に下宿Click!して、同高等学院の理科に在籍していたので、確実に本間教授の講義を受けているだろう。
本間誠は、東京帝大農学部(遺伝学)に入学すると、身体を壊してしばらく静岡県の伊東で静養するうちに、伊東教会へ通うようになり洗礼を受けている。1915年(大正4)には、帝大農学部の近くに下宿して中渋谷日本基督教会講話所(現・中渋谷教会)へ通うようになった。大学を卒業後、1921年(大正10)にはキリスト教の教師試験を受験してパスし教師試補の資格を得て、教会での礼拝説教活動ができるようになった。早大の第一高等学院で教職に就いたのは、その翌々年ということになる。きょうはクリスマスの直前でもあるので、近所にある教会について少し書いてみたい。
1921年(大正10)秋に富路子夫人と結婚すると、高田町高田1442番地(現・雑司が谷3丁目)加藤方の2階を借りて住みはじめている。現在では、ちょうど都電荒川線Click!の鬼子母神電停西側にある雑司が谷地域文化創造館のあたりだ。6畳+4畳半+3畳の狭い部屋だったが、本間夫妻はここの6畳間で1922年(大正11)2月に、目白日本基督教会講話所を設立している。のちの目白伝道教会、現在もある目白町教会の前身だった。
毎週水曜日の午後に講話会が開くようになったが、場所がらか通ってくるのは近くに下宿する早大生が多かったようだ。多いときには30名ほどが6畳に集まったが、階下の加藤家から「家が古いから大勢二階に上ると危ない」「取次が面倒だ」といわれ、近隣からも「下宿の他の学生の勉強の邪魔になる」など苦情が相次いだため、同年8月には高田町大原1558番地(現・目白2丁目)に一戸建ての借家を見つけて移転している。
1923年(大正13)に、本間誠が早稲田第一高等学院へ就職するころになると、折りたたみイスを30脚そろえオルガンも寄贈されたので、木曜夜の祈祷会と日曜礼拝がスタートしている。1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」には、高田町1558番地に「本間誠」の名前を見つけることができる。目の前に「東京牧場」Click!のひとつ、博勇社牧場が拡がるのどかな一帯だった。また、同年から礼拝堂の建設と、伝道教会設立に向けた計画が具体化していく。以前より、目白講話所が奥まった敷地にあるのでわかりにくく、もう少し目白駅に近い敷地が求められた。
こうして、1928年(昭和3)の暮れに本間夫妻は多大な借金をして、高田町大原1600番地の家屋と借地権を手に入れ、北側の家にはまだ人が住んでいたので、南側の家を牧師館と講話所にしている。新たな敷地は、目白駅から直線距離で250mほど、川村学園Click!のすぐ北東側にあたる位置で、以前の敷地に比べて100mほど駅に近くなった。翌1929年(昭和4)には、目白日本基督教教会講話所が中渋谷教会から承認され、改めて目白伝道教会として活動していくことになった。
さて、キリスト教徒でもないわたしが、なぜ目白伝道教会(現・目白町教会)に惹かれたかといえば、本間教授が早大第一高等学院に通った親父の恩師である点もあるけれど、もうひとつ、当時の記録に思わぬ人物の名前を見つけたからだ。
早大第一高等学院は、現在の早大文学部や早稲田アリーナ37号館(旧・記念会堂Click!)などがある戸山キャンパスにあったのだが、そこで教えていた本間教授の姿を、1969年(昭和44)に刊行された『目白町教会四十年史』(日本基督教団目白町教会)収録の、渡鶴一「早稲田大学における本間先生との出会い」および神沢惣一郎「早稲田大学教授としての本間誠先生」から、少し長いが引用してみよう。
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第一高等学院は少し離れた戸山町の、現在記念会堂のある敷地にあつた。幾棟も木造二階建の校舎が立ち並んでいる中で、先生の教室は奥まつた一番南寄りの棟の二階に位置していた。窓外には隣接の陸軍戸山学校の藪や木立が見え、そちらの方から、晴れた冬の日など、授業時間の静けさの中へ雉子の鳴声がひゞいて来たりした。この教室に隣つて博物関係の標本室があつて、その一隅の窓際に先生のデスクがあり、此処が、今から想えばお粗末な、だが当時にあつては先生達の中では比較的恵まれた部類に属する、先生の研究室?で、此処で先生はおよそ二十年間、つまり大戦末期の昭和十九年六月に第一高等学院が陸軍に徴用されるまで、研究や思索に多くの時を過ごされたのであつた。(渡鶴一)
あるとき先生が講義の終りに、ひる休み自分の研究室で聖書購読の集りをしているから、関心のある人は出席して欲しいといわれたことがある。私は友人の〇〇〇〇君(註釈略)と二人でその会に出たことがあるが、これが共助会の集りであつた。私は当時すでにキリスト教青年会の集会にも出ていたので、その後続いて出席することを遠慮したが、友人はその後先生からこれを読みなさいといわれてわたされたといつて、ガラテア書講解をみせてくれた。(神沢惣一郎)<人名伏字引用者>
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第一高等学院の南の校舎から見えた、戸山ヶ原Click!の陸軍施設群Click!が興味深い。渡鶴一は「戸山学校」と書いているが、校舎の南側に接して見えていたのは陸軍軍医学校Click!であり、またキャンパスの西側に現在の箱根山通りをはさんで見えていた建物は、731部隊(石井部隊)Click!の国内本拠地だった防疫研究室Click!のはずだ。
神沢惣一郎の回想の中に、友人として本間誠の集まりへいっしょに出席する「〇〇〇〇君」が登場しているが、歴史学(政治史が中心で専門は近代政治史・政治思想史)の〇〇教授は、わたしが選択していた専門課程のゼミ論(卒論)の担当教授で、アルバイトや野暮用などでゼミをサボりがちなわたしの成績表に、いまでも信じられないが数少ない“マル優”をくれた教授だった。つまり、〇〇教授もまた親父と同様に本間誠の教え子だったということで、がぜん目白町教会への興味が湧いてきたというしだいだ。
もうひとつ、『目白町教会四十年史』には面白いエピソードが伝えられている。1940年(昭和15)に宗教法人法が施行されると、日本基督教会では「日本基督教団」法人化のため、各教会の責任者が同意書を提出することになった。もちろん、目白伝道教会では本間牧師が署名・捺印し教会本部に送っている。その後、法人格の日本基督教団が創立され、改めて各地域の教会名が再検討されることになった。同書より、その様子を引用してみよう。
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昭和十六年六月二十四、二十五日には、日本基督教団創立のための総会が開かれ、教団が創立された。その後、当教会の名称は日本基督教団目白教会となることと思ったが、下落合一丁目の目白福音教会が目白教会という名をとりたく希望し、打ち合せ会の時、創立の古い方がとるべきだとの意見に支配され、私たちは目白教会と称えることができなくなったが、われわれの教会は目白町にあるから目白町教会と名付けようということになり、その様に届け出たのであつた。/昭和十七年三月八日に「旧名称 目白日本基督教会、新名称 日本基督教団目白町教会、教会主管者 本間誠」として教会規則認可の申請を出し、それに対して、三月三十一日附で、東京府松村光麿知事により「教会規則を定むるの件認可す」という文書が五月二十七日にとどいた。その時から今の名称を用いているのである。
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このとき、目白伝道教会は1932年(昭和7)の東京35区制Click!により豊島区目白町2丁目1600番地であり、目白駅も近いので「目白教会」となるのが自然だった。ところが、下落合1丁目492番地にあった福音教会が、明治末から山手線の駅名をかぶせて目白福音教会Click!と名乗っており、こちらのほうが歴史も古く規模も大きかったので、どうしても譲らなかったのだろう。下落合にある目白福音教会が「目白教会」となり、目白伝道教会はしかたがないので当時の住所から「目白町教会」と改名することになった。
「うちは、古くからずっとやってんだからね」、「けど、おたくは下落合ざんしょ?」、「こっちは明治末からやってんだからさぁ。ちなみに、おたくはいつから?」、「そりゃ、12年前の昭和4年からだけどもさぁ。でもねぇ、信仰や教会てえもんにゃ古いも新しいもねえやな」、「じゃあだんじゃねえやね、うちは明治末からやってんだからさぁ」……と、こんなくだけた裏店(うらだな)の屋号争いみたいな会話を牧師さんたちがするはずないがw、およそ創立総会ではこのような成りゆきだったのだろう。
このとき、目白福音教会が地元の地名を尊重して「下落合教会」となっていれば、目白伝道教会はそのまま素直に「目白教会」を名のることができていたのだろう。もっとも、現在では下落合教会(下落合みどり幼稚園)Click!が、戦後間もない時期から第二文化村Click!(現・中落合Click!)に存在しているので、「下落合」はすでに使えなくなっているけれど。
落合地域と同様に、目白町(高田地域)も激しい空襲被害を受けている。戦時中や戦後すぐのころは、信者会員の数が徴兵・徴用や疎開のせいで激減し、1945年(昭和20)12月にはわずか63名になってしまった。同年6月の「教会通信」によれば「周辺焼跡が数十歩に迫る」と記されており、同教会がかろうじて延焼をまぬがれている様子が伝えられている。
◆写真上:高田町1600番地(現・目白2丁目)に創立された目白町教会の現状。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる本間誠邸と教会予定地。中は、1930年(昭和5)に撮影された目白伝道教会の日曜学校で後列中央が本間誠。下は、1933年(昭和8)撮影の目白伝道教会外観。
◆写真中下:上は、1933年(昭和8)に撮影された目白伝道教会内部。中は、1969年(昭和44)に刊行された『目白町教会四十年史』(日本基督教団目白町教会/左)と、同教会の牧師・本間誠(右)。下は、1945年(昭和20)5月17日に米軍偵察機F13Click!によって撮影された第2次山手空襲Click!(5月25日夜半)直前の目白駅とその周辺。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)撮影の目白町教会。空襲で延焼が「数十歩に迫」ったことがわかる。中・下は、1959年(昭和34)に撮影された目白町教会の外観と内部。
村山知義の上落合再訪で「神社がない!」。 [気になる下落合]
村山知義Click!は、旧・八幡通りClick!や旧・神田上水(1966年より神田川)に向けてゆるい斜面を形成している、上落合(1丁目)186番地の200坪ほどの土地に25年間も住んでいた。母親があちこち歩いては探してきた借地で、地主は「すぐその下に住んでいるごく人のいい夫婦」だったと書いているので、東向きの緩斜面のすぐ2軒隣りに屋敷をかまえていた、この区画一帯の地主である宇田川家だったろう。★
★その後、元上落合人さんからのご教示で、村山知義・籌子アトリエの敷地は東隣りにある中村銀太郎家から借りていたことが判明しました。詳細はコメント欄を参照ください。
村山知義Click!が東京帝大文学部に入学した1921年(大正10)、母親と弟の3人家族は上落合の家に転居してくる。彼が生まれた市街地の神田区末広町Click!とは異なり、豊多摩郡落合村は江戸期とさほど変わらない風情や風俗、生活習慣がそのままつづいていた。このときから7年後に、地主である上落合189番地の宇田川家に嫁いできて、苦労を重ねたた宇田川利子という方の証言を、以前こちらでも記事でご紹介Click!している。近くの街道筋が、鶏鳴坂Click!などと現役で呼ばれていたころだ。
上落合186番地の借地へ最初に建てた住宅について、1970年(昭和45)に東邦出版社から刊行された村山知義『演劇的自叙伝1』から引用してみよう。ちなみに、この建物はのちに設計・建築する「三角アトリエ」Click!とは異なり、最初期の住宅のことだ。
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そこへ下見張り、赤瓦の屋根、洋館まがいの、小さな二階屋を建てた。当時は洋館を建てた経験のある大工はごく少なかったので、変な、折衷的な建物だった。/私はその場所をひと目見て気に入ってしまった。弟を指揮して、方々さがし歩いて、赤煉瓦の屑を拾い集めた。目白の高台との間の下落合の低地帯にはゴム工場などがあったので、使い残しの煉瓦が棄ててあった。それでやっと、高さ四尺ほどの煉瓦の門柱を一本立てた。セメントは左官屋にわけて貰った。しかし、二本は立てられなかったので、もう一本は木の棒だった。/そこに小さな白ペンキ塗りの扉を付け、スロープには、もとからあったつつじをズラリと、玄関に通じる小路の両側に植えた。
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「目白の高台」とは、もちろん下落合の高台のことで、上落合側の高台からは旧・神田上水や妙正寺川をはさみ、下落合の緑におおわれた目白崖線が見わたせた。1921年(大正10)では、洋館を建てた経験のある大工はまだ周辺には少なかっただろう。同時期にアトリエを建設していた佐伯祐三Click!は、大規模な洋館建築が建ち並ぶ明治期からの別荘地Click!だった大磯Click!から、手馴れた大工をわざわざ紹介してもらっている。
いまだ農家や、農家つづきの地主が多かった上落合では、この洋館もどきの家は周囲の風情からは浮いてずいぶん目立っていただろう。村山知義が「赤煉瓦の屑」を集めたゴム工場は、箱根土地Click!の堤康次郎Click!が出資していた東京護謨工場Click!のことで、現在のせせらぎの里公苑から落合水再生センターClick!あたり一帯で操業していた。同工場のゴム製品を、大八車Click!に乗せて駒形の履物屋まで納品し、帰りに神田市場で仕入れた青果を積んで帰った、上落合の青果商の証言Click!もご紹介していた。
当所の家は、1階が客間とダイニングキッチンで、2階が家族の部屋となっており、建物面積が3間半×2間半(6.36m×4.54m)と非常に小さく建設費も安かっただろう。当時はクヌギの林が多く、上落合の斜面や妙正寺川沿いには田畑が拡がっている田園風景だった。1927年(昭和2)以降は「昭和通り」と呼ばれ、村山邸の南側を走る江戸期からの街道筋だった丘上の馬場下通り(現・早稲田通り)は、大きなケヤキなどが繁る江戸期からの街道そのままの風情で、夜が明けるころには野菜を満載した大八車が往来していた。村山知義は一高の帽子をかぶり、画道具を抱えながら上落合の周辺を散策しては写生している。
翌1922年(大正11)1月に、村山知義は東京帝大を中退するとベルリン遊学に出発している。そこで絵画を学びながら、「大未来派展」や「デュッセルドルフ国際美術展」などへ出品し、同年9月にはベルリンのトワルディー画廊で個展を開いている。また、ドイツ劇場でニッティ・インペコーフェンの舞踏を観て、すっかりとりこになった。
そして、帰国後の1923年(大正12)2~5月にかけ、彼は自身の設計で「三角の家」(本人は「奇怪なアトリエ」と表現)を建設している。アサヒグラフに掲載された三角アトリエについては、これまで拙ブログでも折にふれ繰り返し記事にしてきたが、翌1924年(大正13)6月に結婚して村山籌子Click!が住むようになってからのエピソードも、過去に数多くの記事Click!をご紹介Click!している。この三角アトリエは、1930年(昭和5)の初めに音楽家で建築家の濱徳太郎に貸していたが、1937年(昭和12)に取り壊されている。
アトリエを濱徳太郎に賃貸したあと、村山夫妻が入居した隣りの日本家屋は新築で、そのほかにも敷地内にアパートを建設したようだが、自宅をリフォームするために大正末ごろから住んでいたのが、下落合735番地のアトリエClick!だった。このアトリエにも、アサヒグラフの記者が取材に訪れ何枚かのバリエーション写真が残されている。
さて、『演劇的自叙伝』を執筆中に、上落合での暮らしを思いだして懐かしくなったのだろう、戦後、村山知義は急に上落合186番地の自宅跡を再訪したくなったようだ。戦前の村山邸には上落合をはじめ、下落合、東中野、長崎の各地域に住んだ左翼運動がらみの文化人や芸術家が多数訪れて集い、打ち合わせや集会ばかりでなく、ときには演劇の稽古場などにも使われていたため、特に思い入れの強い場所だったろう。また、ようやく自由な表現ができるようになった矢先、敗戦直後の1946年(昭和21)8月に鎌倉で死去した村山籌子Click!と、22年間もいっしょに暮らした土地でもあった。
無性に上落合へ出かけたくなった様子を、同書よりつづけて引用してみよう。ちなみに、この文章が書かれた当時、村山知義は上落合にほど近い大久保に住んでいた。
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私は不意に、上落合の家のもとあったところに行ってみたくなったので、寝坊している妻を起して、二人で出掛けた。午前八時、小、中学生の登校姿にたくさん出会う。厳寒の早朝の散歩は爽快だ。散歩のつもりで、ユックリ歩いて、二十分でもとの家の前についた。(中略) その筋向いが山岡さんの家のあったところで、むろん、戦災で一面に焼けたところなので、むかしの面影は全くないが。その一丁目二七番地の家には「山岡寓」という表札が出ていた。(中略) 八幡神社の裏手の石段を上って、私は驚いた。神社がない!/確か二年ほど前、ここに来た時には、戦後建て直された神社があった。それがいまは影も形もなく、新宿区立の「八幡公園」というものになっており、ギッコンバッタンやブランコやの遊び道具が具えてある。/神社から道路一つ隔てた、神田川との間の低地帯には、あのころ大きな製氷会社が建てられ、火事になって、大騒ぎをしたことなどがあったが、すっかり取りはらわれ、立て看板によれば都の「処理場」が建てられようとしている。恐らく塵芥のだろうが、どうしてこんな町の真ん中につくるのだろう?
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上落合の家があった場所に惹かれるのか、村山知義は「二年ほど前」にも訪問しているので、このときが戦後初めての訪問でなかったことがわかる。月見岡八幡社Click!は、宮司だった守谷源次郎Click!と氏子連の決断によって1962年(昭和37)中にほぼ全社殿を現在地に遷座しているので、村山知義が訪れたのは1964年(昭和39/68歳)ごろだというのがわかる。「寝坊している妻」とは、再婚した女優の清洲すみ子(三繩濱)のことだ。
文中に「山岡さんの家」が出てくるが、日露戦争で左目を失明し「独眼竜将軍」と呼ばれた山岡熊治邸で、未亡人の山岡淑子は宮中で女官長をつとめていた。村山知義の母親・村山元子とは、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の後輩にあたり親同士は親しく交流していた。1941年(昭和16)に村山元子が死去すると、葬儀などで世話になった村山知義は挨拶に出向いている。その玄関口で、山岡淑子から「あなたにはあなたの信念もあり、芸術もおありでしょう。けれど、あなたはこの上もない親不孝な方ですよ」と叱られたのが、強く印象に残ったようだ。この山岡邸をすぎ、北へ70mほど道を進めばすぐ左手に、遷座後の月見岡八幡社を発見できていたはずなのだが。
ここで、村山知義は新たに敷設され関東バスの路線通りとなっていた新・八幡通りと、月見岡八幡社の表参道に面していた旧・八幡通りClick!とを取りちがえているのがわかる。八幡通りは、月見岡八幡社の移転とともに、八幡公園の入り口あたりの位置で計測すると70mほど西へ移動、つまり旧・村山アトリエの敷地に近づいていた。火事があった上落合2番地の山手製氷工場Click!は、その敷地が旧・八幡通りの東側に面していたのであり、新・八幡通りからはゆうに100m近く東に離れた位置にあたる。
文中の「処理場」とは、当時は東京都の「落合下水処理場」と呼ばれた施設で、現在は神田川や妙正寺川の「浄化水源」Click!の役割りはもちろん、都内西部の渋谷川や古川、目黒川などの水質向上のための実質的な「水源」となっている落合水再生センターClick!のことだ。
懐かしくなった村山知義は、戦時中に小滝橋から上流へ歩き旧・神田上水の近くに住んでいた中野重治・原泉夫妻Click!の旧居跡を訪ねているが、「全く見当がつかなかった」とガッカリしている。この家は、上落合(1丁目)481番地の借家Click!から、豊多摩刑務所Click!に服役中の中野重治の釈放を待って転居した、柏木5丁目1130番地の家のことだ。当時は、旧・神田上水の直線整流化工事の真っ最中で、あたり一帯が空き地だらけであり、その後、戦災にも遭い街の様子が一変していたので、馴染んでいたはずの村山知義の土地勘がまったくきかなくなっていたのだろう。1978年(昭和53)に出版された『中野重治全集』第26巻(筑摩書房)に収録の随筆『子供と花』に描かれた、近所のワルガキClick!たちが登場するあの家だ。
◆写真上:上落合186番地にあった、村山知義・村山籌子アトリエの現状。
◆写真中上:上は、ドイツ留学中に撮影された村山知義(左)。右端で大泉洋に似た顔をしているのは、親しくなった永野芳光だろうか。中上は、1918年(大正7)に「囚われの鳥」を踊るドイツの舞踏家ニティ・インペコーフェン。中下は、帰国直後の1923年(大正12)ごろ自由学園で踊る村山知義。下は、同年ごろ上落合のアトリエで踊る村山知義。自由学園Click!での舞踏とは異なり、体毛をすべて剃っているのがわかる。
◆写真中下:上は、村山アトリエ跡(右手)と月見岡八幡社の裏参道へと抜けられた小路。中は、1927年(昭和2)に下落合735番地のアトリエで撮影された村山夫妻。下は、1930年(昭和5)に竣工したばかりの上落合の邸前で撮影された村山一家。
◆写真下:上は、1935年(昭和10)に宮司・守谷源次郎が撮影した村山アトリエ側から見た月見岡八幡社の裏参道。中は、現在は八幡公園となっている裏参道つづきの小路。下は、1935年(昭和10)に同じく守谷源次郎が撮影した月見岡八幡社の茅葺き拝殿。以上の写真のうち、現状写真ではない戦前の古写真は、大正末から昭和初期にかけ村山知義が実際に目にしていた風景で、すべてAIエンジンによる推論着色。
★おまけ
クラシック伴奏の舞踏で恍惚となり、裸のまま寝てしまったのだろうか?w 下は1938年(昭和13)作成の「火保図」(左手が北)にみる村山知義・籌子アトリエの界隈。
佐伯祐三が描いた『林』を考察する。 [気になる下落合]
1968年(昭和43)に講談社から出版された『佐伯祐三全画集』に、モノクロ写真で『林』とタイトルされた作品(画集No.371)の小さなモノクロ画像が掲載されているのを、遅まきながら改めて気づいた。わたしは、佐伯祐三Click!の展覧会などで『林』の画面を実際に観たことがないし、カラー図版でも目にしたことが一度もない。既存の画集や図録に収録されるのもまれで、講談社版の『佐伯祐三全画集』のみではないだろうか。
したがって、現在では所在がわからなくなっている「行方不明」作品の可能性が高く、講談社では画集に収録しているものの、実際に作品を撮影しておらず、画面のモノクロ写真のみが入手できただけの収録だったりすると、とうに戦災で失われている作品なのかもしれない。『林』の制作年は1920年(大正9)ごろと曖昧に規定されているが、キャンバスサイズも不明なら作品の由来も記録されていないため、どこかに掲載されていた既存のモノクロ画像を反射原稿にしているだけで、実際に作品を前にスタジオで撮影して、画集に収録したものとは思えないのだ。
『林』の画面を眺めてみると、強い陽光が明らかに林間の左手から射しており、かなり逆光気味で描かれているのがわかる。手前のケヤキかクヌギの若木ように見える横並びの樹林は、ほとんどシルエット状に黒っぽく(色濃く)描かれており、枝々から葉をほとんど落としていることから、描かれた季節は晩秋から冬の情景のように思われる。
よく観察すると、手前に斜めに並ぶ密集した樹林は、画家がイーゼルをすえている地面とほぼ同じような高さの位置に生えているが、強い陽光が当たってハレーション気味の背後に見えている樹林は、その根元が急激に上部へとせり上がるように描かれているのがわかる。すなわち、これらの樹林は急激な斜面=バッケ(崖地)Click!に繁っているのであり、佐伯祐三は崖地の地形の下部あるいは谷状の底から、バッケ(崖地)を斜めに眺めながらキャンバスに向かっていることになる。
『林』と似た地形や構図で樹林を描いた作品には、1922年(大正11)ごろの制作とされている『東京目白自宅附近』Click!がある。『林』と同じく、いまだ宅地造成が行われていない自然地形のままの急斜面に繁る樹林を描いているが、同じく晩秋か冬に描かれており木々のほとんどが落葉し下草も枯れている。わたしは、「自宅附近」というタイトルと陽光の射し方などから、同作を下落合661番地にある佐伯アトリエのすぐ南側に口を開けた谷戸、すなわち西ノ谷(不動谷)Click!の斜面を描いたものだと想定している。
『東京目白自宅附近』の陽光は右手上空から射しており、「交友会」会長の青柳正作Click!と落合(第一)尋常小学校Click!の教師で『テニス』Click!をプレゼントした青柳辰代Click!の夫妻邸前に拡がる青柳ヶ原Click!の西側斜面、すなわち現在の情景でいえば丘上が造成で大きく削られているが、国際聖母病院Click!敷地の西側斜面を描いたものだと考えている。佐伯祐三は『東京目白自宅附近』を制作するために、養鶏場Click!のある当時は南へと抜けられた路地(現在は住宅でふさがれている)を通って西ノ谷(不動谷)へと下りていき、谷底にイーゼルをすえて北東の方角を向きながら同作を描いているとみられる。
佐伯アトリエのすぐ南側に口を開けた谷戸について、唯一、証言を残した人物が存在している。下落合でもパリでも、彼の身近にいた親友の山田新一Click!だ。1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された、山田新一『素顔の佐伯祐三』から引用してみよう。
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(クリスマスの)前日になると――当時の佐伯のアトリエの裏手は谷になっていて、今では公園になっている近所の池では、付近の農家の人達が大根やゴボウを洗っているのどかな田園地帯であったが、その雑木林のなかに常緑樹も間々生えていて、我々の仲間の数人が谷へ降りて、クリスマスツリーに手頃なモミの木を見立てて、鋸で切り倒した。これをアトリエに持って帰り、その狼藉の犠牲になったモミの木に、立派なデコレーションを飾り付けた。そしてパーティの準備を始めたのだが、(中略) この晩の情景を思い起すと、何やら知らず思い出し笑いが、今も込みあげてきてしかたがない。その宵、集まった仲間で今も存命なのは、僅かに童画の大家となった武井武雄Click!、同じクラスメイトの江藤純平Click!、そして札幌出身で、後に大連女子美の校長をし、現在、「新世紀」の委員をやっている二瓶等Click!夫妻。もうそのくらいになってしまった。寂しい思いがしてならない。(カッコ内引用者註)
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同じ落合町内をはじめ、佐伯アトリエの周辺に住んでいた彼の親しい友人たちが、こぞって佐伯アトリエで開かれたクリスマスパーティに参加していた様子がうかがえる。文中に書かれた佐伯「アトリエの裏手」、つまり北側に採光窓のあるアトリエの裏手(南側)の谷が、『東京目白自宅附近』を描いたとみられる西ノ谷(不動谷)だ。
また、「今では公園になっている」その公園とは、国際聖母病院の敷地に接した西側の急斜面下にいまもある“新宿区立聖母病院脇遊び場”のことだ。大正の中期、この公園位置の近くには湧水池があり、青柳ヶ原の反対側(東側)に口を開けた谷戸=諏訪谷Click!と同様に、付近の農家が収穫した野菜を洗う“洗い場”Click!のあったことがわかる。この湧水池は、箱根土地Click!による第三文化村Click!開発の進捗や、さらにその南側の宅地開発によって埋め立てられているとみられるが、1935年(昭和10)前後には谷戸の聖母坂Click!への出口近くに、人工的な湧水池が設置され釣り堀屋Click!が開業していた。
『東京目白自宅附近』は、西ノ谷(不動谷)に下りた谷底で制作されているとみられるが、山田新一が「雑木林」と書いているように、1922年(大正11)現在は谷底に湧水源からの小流れがある、ほとんど手つかずで自然のままの谷戸地形だった。この谷戸に開発の手が及ぶのは、1924年(大正13)に行われた箱根土地による第三文化村の造成(北側)と、1931年(昭和6)に青柳ヶ原の丘上を削り整地して建設された国際聖母病院Click!の開業、それにつづき1940年(昭和15)前後に行われた第三文化村境界の南側から、聖母坂へと抜ける谷戸の新たな追加造成……という開発経緯だ。
『東京目白自宅附近』(1922年ごろ)に描かれた西ノ谷(不動谷)は、両側から崖地が迫る比較的狭い谷戸地形だったと思われるが、1924年(大正13)に行われた箱根土地による第三文化村の開発で、谷戸北側のおもに東側の崖地が崩されて整地され、南へ向けたひな壇状の住宅敷地が造成されている。この時点で、谷戸北側の幅は大きく拡げられたが南側は手つかずで、相変わらず自然の渓谷のような面影を残していただろう。
その時代に描かれたのが、佐伯祐三「下落合風景」シリーズClick!の1作で1926年(大正15)ごろに制作された『目白風景』Click!だ。同作の画面を仔細に観察すると、谷戸の突きあたりにある奥の地形は広めで開けているように描かれているが、手前(南側)の地形は開発の手が入らない青柳ヶ原の自然のままだった西側斜面が、画家のすぐ右手まで迫っているのがわかる。西ノ谷(不動谷)の南側が開発されるのは、1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、先述の釣り堀屋が開業しているだけでほとんど手つかずのままだが、1944年(昭和19)の空中写真を参照すると、谷戸の南側すなわち聖母坂への出口までが大きく拡げられて(谷戸東側の崖地が崩されて)整地が進捗し、造成された住宅敷地に大きな屋敷が数軒建設されているのが見てとれる。
さて、1920年(大正9)ごろの制作とされている『林』にもどろう。この作品は、『東京目白自宅附近』(1922年ごろ)とほぼ同時期に制作された画面ではないだろうか。『林』はモノクロ画像のみなので、『東京目白自宅附近』と同様にルノアールばりの色使いで描かれているのかどうかは不明だが、わたしには同時期に西ノ谷(不動谷)の一画をとらえて制作しているように思われる。同作は、1920年「ごろ」とされているので、キャンバス裏などに制作年が記載されているわけではないだろう。少なくとも、1968年(昭和43)に『佐伯祐三全画集』が出版された時点での推定だと思われる。
『東京目白自宅附近』は、谷戸への陽光の射し方から午前中に西ノ谷(不動谷)の北東を向いて、すなわち青柳ヶ原の西側につづく急斜面を描いているとみられるが、『林』はその反対側につづく崖地(画面の様子からして少なくとも高さが6m以上の地点)を、陽が西へ傾いた同じような晩秋から冬の季節に描いているのではないだろうか。そして、『林』の丘上にはのちに「八島さんの前通り」シリーズClick!(別名:星野通りClick!)とタイトルされる、東京府の補助45号線(のちに敷設される聖母坂へ変更)が南北に通っていることになる。
現在、西ノ谷(不動谷)Click!は大きく拡げられ、渓流があった谷底も埋め立てられて当初の峡谷のような風情はどこにも残っていない。谷戸の東西に、そそり立つように向かいあっていたバッケ(崖地)も、おもに東側(青柳ヶ原側)が崩され均されてひな壇状の宅地となっているが、擁壁が築かれた西側の崖には当時の急斜面の面影がかすかに残っているだろうか。
◆写真上:画集では、1920年(大正9)ごろの制作とされている佐伯祐三『林』。
◆写真中上:上は、『林』に描かれた急斜面部分の拡大。中は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる西ノ谷(不動谷)の様子。下は、聖母病院脇遊び場から東側の国際聖母病院(旧・青柳ヶ原)側の崖地を見る。宅地開発で谷戸が拡幅され、谷底が埋め立てられているので、青柳ヶ原の急斜面はもっと手前の位置にあっただろう。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる西ノ谷(不動谷)。フリーハンドの大雑把な地図だが、第三文化村の開発が谷戸の北側で進捗しているのがわかる。中上は、1922年(大正11)ごろに制作された佐伯祐三『東京目白自宅附近』。中下は、国際聖母病院側に残るバッケ(崖地)の現状。下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる西ノ谷(不動谷)と、その周辺に拡がる住宅街の様子。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる西ノ谷(不動谷)。左側が北の変則的な地図で、同谷戸の聖母坂への出口近くに釣り堀屋が開業しているが、谷戸南部の宅地開発はまったく進んでいないのがわかる。また、第三文化村の造成とともに敷設された谷底の南へ向かう新道は途中でとぎれ、谷戸を北上する江戸期からとみられる旧道が東側(地図では青柳ヶ原の斜面にあたる上部)に残っており、この旧道が西ノ谷(不動谷)をへて長崎不動尊へ向かう参道筋だった可能性が高い。中は、西ノ谷(不動谷)西側のバッケ(崖地)。急斜面を垂直に近く修正し、大谷石による擁壁を築いているのがわかる。下は、1926年(大正16)ごろ制作の西ノ谷(不動谷)を描いたとみられる佐伯祐三『目白風景』。
★おまけ1
西ノ谷(不動谷)の北側から、文化村の新道が通う谷底を眺めたところで、両側の邸宅は第三文化村。大量の土砂が谷底に敷かれ、新道の傾斜もスロープ状に修正されているとみられる。下の写真は、聖母病院脇遊び場から西側のバッケ(崖地)の擁壁を眺めたところ。この地点でおよそ6m前後の高さがあり、『林』が描かれたのはこのあたりだろうか。
★おまけ2
佐伯アトリエから東北東へ、直線距離で1,100mのところにある目白庭園の晩秋。ご近所のゆかりさんからお送りいただき、あまりに美しいので掲載させていただいた。
目白停車場が存在しない山手線平面図。 [気になる下落合]
鉄道史では、1885年(明治18)3月16日に目白駅は開業したことになっているが、実際にはいまだ駅舎は存在せず、駅員がひとりもいない停車場だった可能性が高い。金久保沢Click!の駅舎建設予定地では、日本鉄道が提示した土地の売買価格があまりにも安価(実勢価格のおよそ半額)だったため、当該用地の地主たちが同年4月16日に東京府知事あてで、「迷惑至極」の抗議書Click!を提出していることから、強引な日本鉄道と予定地地主たちとの間で、用地の売買契約が成立していないのは明らかだ。
ちょうど、目白停車場の設置計画が具体化した1885年(明治18年)ごろに作図されたとみられる、目白橋や清戸道の分岐などが描かれた平面図が東京都公文書館に現存している。この平面図では、停車場予定地の土地売買がもめにもめていたせいか、目白停車場の駅舎はいまだ描かれていない。だが、別に目白停車場に限らず山手線の敷設では、日本鉄道の横柄で強引な土地買収が沿線地主の恨みをかい、各地で測定標杭の引っこ抜き事件Click!が多発していたのは、少し前の記事に書いたとおりだ。
同平面図では、現在は目白通り(大正期は「高田大通り」Click!)と呼ばれ目白橋をわたっている「新道」と、江戸期以前からの練馬方面への街道筋(おそらく鎌倉支道)だった「清戸道」Click!が、新たに架橋される目白橋の手前(西側)で南へとY字路に分岐し、清戸道は新道用に築かれた法面の下、つまり目白橋のすぐ南側で山手線の踏み切りをわたるのが、当初からの計画だった様子がうかがえる。わたしが清戸道Click!のことを表現する際、「およそ現在の目白通り」としている「およそ」とは、この新道(目白通り)と清戸道とでは、山手線が近づくにつれて南北へ微妙にズレが生じているからだ。
そして、新道筋に計画されていた目白橋が、かなり幅員の狭い仕様だった様子も描かれている。だが、同時に書きこまれた「目白停車場」の文字は、その予定地よりもはるかに北寄り(図面では右寄り)に位置しており、実際の停車場(日本鉄道が建てた初代・地上駅+プラットホーム)は、目白橋から南へ80mほど離れたあたりに設置されている。下落合に住んだ多くの画家や文学者などの住民たちは、目白橋と清戸道の踏み切りが上下に分かれ、そこからかなり離れた南に建設された初代(日本鉄道)および二代目(鉄道院)の目白地上駅Click!を、1922年(大正11)に橋上駅化Click!されるまで利用していた。
さて、日本鉄道による山手線の敷設では沿線でいろいろと物議をかもす工事がつづいたが、ひとたび停車場が完成すると市街地の住民たちが移住してくるケースが増え、周辺の地価はウナギのぼりに上昇していった。山手線が日本鉄道から鉄道院、鉄道省と推移する中、特に大正初期から生活改善運動とともに流行する「田園都市」ブームClick!が、市街地住民の郊外移住に拍車をかけるようになる。
たとえば、1903年(明治36)に設置された池袋停車場の周辺について、1919年(大正8)3月20日の東京朝日新聞に掲載された記事「東京新景=開けた池袋」から引用してみよう。
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郊外居住者のS君曰く、山の手線へ乗つて見給へ赤羽から新宿辺の沿線は両側とも新建の家屋が隙間もなく列んで凄まじい発展振りだと、事実その如く就中池袋が最も急激の変化を示してゐる、昨夏町制を施かれて西巣鴨町となつてからも依然市電の恩沢に縁遠い同地附近も山手線のお蔭と市の膨張につれて数多の工場を招致すると共に立派な居住地を形成するに至つた。(中略) 戦前三円の坪値が昨今三十円下では到底手に入らぬ、而も現在尚一箇月三戸乃至四戸平均で新建が殖えてゐる、
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この記事の上部には、西巣鴨第二尋常小学校(現・池袋小学校)の近くに建設中の、新興住宅地の様子をとらえた写真が掲載されている。(冒頭写真) 文中に「戦前」とあるのは、1914年(大正3)からはじまった第一次世界大戦のことだ。
また、同年には新宿駅から山手線を南へたどる各駅、すなわち新宿駅、代々木駅、原宿駅、そして渋谷駅の改良工事計画がスタートしている。この改良工事は、各駅舎の位置さえ移動させてしまうほどの大規模なもので、同時に山手線の旧線路廃止と新線路の高架工事や、中央線の千駄ヶ谷駅と原宿駅とを結ぶ新線の敷設(未成)などの大がかりなものだった。1919年(大正8)3月13日の東京朝日新聞に掲載された記事「面目を一新さるべき山の手線の各駅/渋谷、原宿、代々木、新宿」から抜粋してみよう。
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鉄道七年計画中の一改良事業として一昨年来改良工事に着手しつゝある東京市外山の手線中大正八年度より工事に取掛るべき渋谷新宿方面の各停車場の位置及線路の模様変へ等に関しては適同方面に明治神宮造営せられ参宮道路用地買収等の関係より各種の事情を慮り従来極秘に付されつゝありたるが既に用地も買収済みとなり諸般の工事計画も此程確定する運びとなりたり(中略) 渋谷駅の位置は現在より稍南方に寄りたる方即ち宮益坂下の踏切に近接して改築せらるべく(中略)又原宿停車場の新位置は現在より少し南方、水無橋の稍北方に変更さるべし(中略)次に代々木停車場は現在より稍南方に変更され乗降に複雑なるを以て有名なる同駅のことなれば改良工事も此辺に大に意を用ひ新宿停車場も渋谷同様大通り即ち市内電車の終点に近き位置に南移され構内も現在の二倍以上に取拡げらるべしと
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大正当時も現在も、この山手線西側の各駅では頻繁に大がかりな改良工事の行われていた様子がうかがわれて興味深い。特に、現在進行中の線路の付け替えやホーム拡幅までが行われた渋谷駅とその西口周辺、あるいは大規模な開発が目前に迫った新宿駅の西口周辺は、この先10年で外観からして大きな変貌をとげるとみられる。
上の報道から1年4ヶ月後、新渋谷駅の竣工が報道されている。1920年(大正9)8月1日刊の東京朝日新聞に掲載された、「新渋谷駅開通/祝賀会挙行」から引用しよう。
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新装成つた山手線渋谷駅は愈(いよいよ)今暁零時から開業する事となつた、駅附近の町民、有志会主催新駅開通祝賀会を今日午後三時から挙行する、会場は新駅前の広場で入口に緑門を設け鉄道大臣其他関係者を接待し、道玄坂芸者の手踊、煙火其他趣向を凝らした余興の数々が演ぜられる筈である(カッコ内引用者註)
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渋谷駅の周辺は、住宅街が形成されつつあったとはいえ、あちこちに田畑が残り駅を離れると、茅葺きの農家が点在するような風景だった。新興開発地には灌漑用水が残り、農地の畦道に立てば童謡の「♪春の小川は~さらさらいくよ~」(高野辰之『春の小川』Click!)を地でいく、もう少し北側の代々木風景のような風情が残っていた。
渋谷駅の新駅舎は華々しく開業したものの、このあと「鉄道七年計画」の山手線改良事業は、インフレの急速な進行とともに予算が目減りし、大幅な見直しが検討されるようになる。中でも、千駄ヶ谷駅と原宿駅間の新線敷設計画が白紙となり、山手線の電車線と貨物線とを分けての複線化(客貨分離で実質上の複々線化)工事は、計画が大幅に遅れることとなった。そのほか、山手線に限らず東海道線などの主要鉄道の工事計画も、次々と見なおされていくことになる。
1922年(大正11)7月12日刊の東京朝日新聞には、「鉄道改良計画の更改」と題する記事が掲載され、改良工事の全面的な見直しが行われることを報じている。
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現行の鉄道建設改良七年計画に属する総費額は本年度以降十一億四千三百七十八万百十一円であるが既報の如く此計画は大正九年度に樹てたもので其後経済事情の変遷のため建設費は戦前に比し六割改良費は同じ七割の物価騰貴に基づく追加額を計上せねば建設改良事業の遂行が絶対に困難に陥つてゐるのみならず鉄道対社会事情の急激なる変化のために既定計画の事業にして其の完成を急がねばならぬものを生じた 一方に於て比較的急を要しない事業も出来たので明年度の予算編成に際しては此の二つの意味から既定建設改良七年計画を更改せねばならぬ事を認め爾来着々調査中であつたが改良計画に関する事業予算は一通り修正を見るに至つた模様である
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文中の「戦前」は、上掲の記事と同様に1918年(大正7)に終結した第一次世界大戦のことで、戦後の急激なインフレはさまざまな社会政策に影響を与えている。
こうして、改良工事計画の予定が次々と狂っていくわけだが、その見通しの甘さと都市部における交通環境の急変を指摘しつつ、後手後手にまわる鉄道省の対応を批判する記事が、つづいて同年7月15日刊の東京朝日新聞に「誤れる鉄道政策」として掲載されている。
1922年(大正11)7月の時点で、山手線の車両は1~3両編成で運行されていた。たとえば大崎駅の利用者は、1916年(大正5)では年間約397万人だったのに対し、4年後の1920年(大正9)には年間約1,237万人と約3.1倍に達している。山手線西部の利用者増、すなわち郊外住民の急増は、さまざまな面で「改良計画」の破綻や見直しを生じることになる。
◆写真上:1919年(大正8)3月20日刊の東京朝日新聞に掲載された、西巣鴨第二尋常小学校(現・池袋小学校)付近に建設中の新興住宅街。
◆写真中上:上は、目白停車場が設置される直前とみられる目白橋周辺の平面図。中は、大正初期の目白停車場(おそらく鉄道院による2代目・地上駅)を描いた記憶画。下は、目白橋からかなり南へ下ったあたりの目白停車場(初代/二代・地上駅)跡。
◆写真中下:上は、1907年(明治40)ごろに現在の南口あたりから撮影された新宿停車場構内。中は、1914年(大正3)ごろに旧・青梅街道側から撮影された新宿停車場構内。下は、1911年(明治44)ごろに撮影された新宿停車場駅舎。
◆写真下:上は、1919年(大正8)3月13日刊の東京朝日新聞記事。中は、1920年(大正9)8月1日刊の同新聞記事。下は、1922年(大正11)7月12日の同新聞記事。
思想としてのキリスト教と沖野岩三郎。 [気になる下落合]
沖野岩三郎Click!が青年時代を送った明治末、キリスト教に限らず宗教が空想・夢想する理想的な世界(社会)と、それを実現する可能性のある社会主義思想とは、きわめて近しい関係にあった。キリスト者の場合は、誰からともなくキリスト教社会主義と名づけられた思想に還流し、さまざまな福祉事業や福利厚生事業を起ち上げている。
同様に、新時代の仏教も例外ではなかった。こちらでは、佐伯祐三Click!の兄がイギリスで学んで帰ったセツルメント運動(イギリスにおける社会主義運動の一形態)をご紹介しているが、佐伯祐正Click!は大阪にある浄土真宗本願寺派Click!の光徳寺Click!で大がかりな地域的実践を試みており、その思想や活動はさっそく特高Click!からマークされている。また、佐伯家と同じ宗派で下落合753番地に住んだ九条武子Click!の多彩な事業も、それら思想潮流の影響を少なからず受けていただろう。
彼らの活動に共通するのは、簡単にいえば死後世界で救済される極楽浄土と奈落(または天国と地獄)について、信者に観念的で通りいっぺんの説教をするだけでなく、現世においてさえ少しでも救済されるべき施策へ、主体的に取り組むのが宗教者としての責務であり、その実践を通じてこそ宗教の存在理由や、より多くの信者を獲得していく具体的な道筋でもある……というような考えにもとづくものだった。むき出しの資本主義社会では、福祉分野を中心として多種多様な社会課題が山積していた時代だった。
確かに、口先ばかりの説教でなにもしようとしない宗教者が、機会さえあれば布施や喜捨や寄付ばかりを求める没主体的な姿勢に比べれば、上記のような宗教者の姿勢は少なからず周囲へ説得力をもって受け入れられただろう。1918年(大正7)に、当時は教会牧師だった沖野岩三郎は、雑誌「雄辨」11月号(講談社)収録の『日本基督教会の新人と其事業』の中で、次のように書いている。
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基督教の生命は社会問題と直接の関係を有するにある。霊魂不滅、天国地獄、復活、さう云ふ問題は基督教での大問題ではない。今日では其様な問題は神学生達にすら軽視されてゐる。基督教の溌溂たる生命は今少し手近にある。現代の社会と個人の霊性との関係が大問題である。社会問題、人生問題といふやうな事が先ず解決されて後に永生未来の問題は自ら決せられるのである。/然るに今の基督教会は殆ど社会問題と関係が無くなつてゐる。嘗て賀川豊彦が『貧民心理の研究』といふ大著をなした時、有力なる基督教の新聞が『斯様に社会を醜悪に視ないでも善ささうなものだ。』といふ意味の批評を加へてゐた。彼等は高踏的な霊魂論に祟られて社会の悲しき現象に驚愕する事すら出来ない程に非社会的になつてゐる。
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沖野岩三郎は、明治学院を中心とした神学生たちを見ていて、そのような想いに強くとらわれたのだろうし、そもそもキリスト教が活力(沖野は「生命力」という言葉を用いている)を失いかけているのは、社会の問題や課題から目をそむけつづけ、実社会と宗教とが大きく乖離してしまっているのが原因と考えたのだろう。同様に、宗教は異なるが仏教の佐伯祐正Click!もまた、同じことを考えていたにちがいない。なんのための宗旨なのか、誰のための宗教(思想)なのか、常に自問自答を繰り返していたと思われる。
沖野岩三郎は、牧師を辞めて下落合に転居してきてからも、この考え方は終生変わらなかったし、佐伯祐正もまた、1945年(昭和20)6月1日の大阪大空襲によるケガがもとで死去するまで変わらなかっただろう。雑誌「雄辨」11月号と同年の1918年(大正7)に、沖野岩三郎は『煉瓦の雨』(福永書店)を出版するが、あとがきには岡田哲蔵や賀川豊彦Click!、西村伊作Click!、三並良、宮本憲吉、加藤一夫、内ヶ崎作三郎、与謝野鉄幹Click!、与謝野晶子Click!、生田長江Click!、佐藤春夫Click!など、当時の哲学者や文学者、宗教者、教育家たちが文章を寄せている。もっとも、沖野岩三郎と同郷の佐藤春夫は警察の目を気にしてか、および腰で無理やり催促されて書かされたという体(てい)を終始装っているが。
この作品集では、「大逆事件」で処刑された大石誠之助は「大星」という姓になっており(まるで『仮名手本忠臣蔵』Click!の大星由良助のように)、「大星」(通称:ダダさん)は行方不明になり突然骨壺となって帰ってくるという経緯になっている。「大逆事件」から、わずか6年余しかたっていないこの時期、これが警察当局の検閲をくぐりぬけて出版できる、せいいっぱいの表現だったのだろう。
沖野は、同年の「雄辨」11月号とほぼ同じことを、1920年(大正9)に民衆文化協会出版部から刊行された沖野岩三郎『地に物書く人』でも、「今日の基督教は社会問題と基督教とに就いて今少しく研究の地歩を進めて行かなければ基督教といふものは単なる霊魂問題の説教をするものとなつて了ふ恐れがある」と、繰り返し社会課題の解決とキリスト教の宗旨あるいは使命とをセットにして語っている。彼の場合、社会課題の具体的かつリアルな解決策のひとつとして注目した思想が、新宮教会の牧師時代に親しく交流していた、キリスト教徒で医師の大石誠之助らグループが唱える社会主義だった。
明治期を通じて、近代精神の形成に大きく影響を与えたのは、宗教としてのキリスト教の浸透とは別に、その宗旨にみられる西洋的なヒューマニズムの拡がりだし、また社会主義思想(およびアナキズム)の拡大もまた、民衆を視座にすえた社会変革の思想という意味では、のちの大正デモクラシーを形成しそれを支えるベースを築いた重要なファクターであることはまちがいなく、片や宗教のキリスト教と片や政治思想の社会主義(またはアナキズム)は、今日では水と油のように思われがちだけれど、明治期には双方が互いに敏感かつ刺激的に影響しあい、日本における近代精神の形成へ相乗作用のように少なからず寄与していった……と書いては過言だろうか。
その象徴的な人物が、新宮地域においては医師で社会主義者(またはアナキスト)だった大石誠之助であり、新宮教会の牧師であり大石から強い影響を受けた沖野岩三郎だったのだろう。沖野は1908年(明治41)8月に、大石誠之助邸に1ヶ月ほど滞在した幸徳秋水にも一度会っているが、トルストイ主義Click!をめぐって沖野と秋水は激論を戦わせることとなってしまい、どうやらふたりの議論は並行線のまま折りあうことなく別れたようだ。
以前の記事で、沖野岩三郎が「大逆事件」の連座をまぬがれたのは、大石誠之助が自邸で催した新年会に出席しなかったからだと書いた。酒が1滴も飲めない下戸の沖野は、そこで行われたとされる検察がデッチ上げた「天皇暗殺」の「謀議」というシナリオの舞台へ、登場しなかったがために大逆罪に問われることはまぬがれている。だがもうひとつ、大石誠之助の近くにいたということで検挙されたとはいえ、沖野岩三郎が比較的に短期間で釈放されているのは、家宅捜査で押収するものがなかったことにも起因している。このとき、自身の重要な創作物を友人に貸し、家内にはなかったことも幸運だったろう。
1989年(平成元)に出版された、野口存彌『沖野岩三郎』(踏青社)から引用してみよう。
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つづいて(家宅)捜索がはじまるが、捜査官が本と手紙類に関しては徹底的に調査したことが判る。本はどの本も一頁ずつ全頁めくっている。とくに、はじめに入ってきた検事は「最初から終まで書籍と手紙とを必死に調べて居た」と記されている。しかし、押収するようなものはなにひとつとして出てこなかった。/この、押収するようなものはなにもなかったという事実が沖野が事件への連座をまぬかれるうえで大きく作用したと考えなければならない。大石(誠之助)の周辺にいる急進的な青年とも頻繁に往来があって、もし沖野の家から彼らの出した意味ありげな内容の葉書が一通出てきただけでも、検事によって思いもよらぬ解釈がくだされ、沖野自身が困難な立場に追いこまれたことが十分想像できるのである。(カッコ内引用者註)
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実は、家宅捜査で押収されることになっていたはずのモノを、沖野岩三郎は大石誠之助からプレゼントされて所持していた。当時は、出版と同時に即日発禁書とされていた、現在は岩波文庫に収録されている、1909年(明治42)に平民社から出版されたクロポトキン・著/幸徳秋水・訳『麺麭の略取』が書棚に並んでいるはずだった。
だが、沖野はたまたま同書を知りあいの小児科医へあげてしまっていた。もし、1年前に友人の医師へ同書をプレゼントせず、そのまま書棚に並べた状態であったなら、彼は逮捕と同時に行われた家宅捜査後ちょっとやそっとでは出てこれず、ヘタをすれば検事が描いた謀略のシナリオに組み入れられ、「大逆事件」の構成員のひとりとして死刑または無期懲役の判決を受けていたかもしれない可能性に、のちになって気づくことになる。
また、沖野から『麺麭の略取』をもらった小児科医も、医師仲間である大石誠之助とは交流があったため、「大逆事件」で大石誠之助が刑死したあと家宅捜索を受けている。だが、その医師は『麺麭の略取』の入手先をとっさに沖野岩三郎とは答えず、大石誠之助と捜査員に答えたため、沖野が「大逆事件」の「容疑者」として改めて逮捕されるのをまぬがれている。だが、当の小児科医は同書を所持していたということで、警察からは「要視察人」として常時尾行がつくようになってしまった。
沖野自身、「大逆事件」への連座を紙一重でまぬがれたことが、信仰に帰する「神」一重の加護だと考えていたのか、単なる偶然の重なりにすぎないととらえていたものか、彼の著作や資料の多くを読んでいないわたしとしてはなんともいえない。ただ、教会牧師を辞めて下落合1505番地(のち1510番地→1932年以降は下落合3丁目1507番地)へ転居してきたあとも、執拗に繰り返される刑事の訪問や尾行は、彼をいつ逮捕されるかわからない「大逆事件」当時からの緊張を解きはしなかったろうし、また昭和初期から敗戦までのより徹底した特高による宗教弾圧には、さらなる切実な危機感を抱いていたかもしれない。
◆写真上:明治学院大学キャンパスに残る、明治学院記念館(旧チャペル)のドア。
◆写真中上:上は、同大学のキャンパスに保存されて残る1889年(明治22)に建設された宣教師館(インプリ―館)。中は、インプリ―館に設置された独特なデザインの窓。下は、1890年(明治23)に建設された明治学院記念館(旧チャペル)。
◆写真中下:上は、沖野岩三郎も学生時代に目にしていた宣教師館(手前)と旧チャペル(奥)。中は、診察室における大石誠之助。下は、書斎の大石誠之助。
◆写真下:上は、沖野や大石誠之助、西村伊作らが写る新宮での記念写真。中左は、下落合時代とみられる沖野岩三郎。中右は、現在では新宮市の名誉市民になっている大石誠之助。下は、大石誠之助(左端のシルクハット姿)が新宮で開店した洋食屋「太平洋食堂」。医師の立場から、栄養価の高い洋食を普及しようと開店したが、流行らずに閉店している。
★おまけ
今年は暖かいせいか、家の近くのモミジがなかなか紅葉せず5割ほどが青いままだ。
AIで登場人物がリアルに感じられるか?(下) [気になる下落合]
前回Click!に引きつづき、今回は室内の採光があまり十分でないモノクロ写真類について、当該のAIエンジンでテストしてみよう。ここでは、画面の粒子が精細な画像と粗い画像でのカラー化との比較も試みてみたい。
まず、下落合の近衛町Click!にあったアトリエClick!で安倍能成Click!をモデルに『安倍能成氏像』(1944年)を制作する安井曾太郎Click!のモノクロ写真だ。ご覧のように、アトリエ内は薄暗く写真の粒子も荒いためか、AIによるカラー化はほとんど顔面のみで、ほかの部分はモノクロ写真とほとんど変わらないのがわかる。同様に、室内撮影ではないが御留山Click!の相馬邸Click!で撮影された相馬順胤・孟胤家の家族記念写真Click!も、もともと写真の粒子が粗いために大正期の人着写真のような仕上がりになっている。ただし、着物の色はうまく認識して再現されているようだ。
さらに、通常の雑誌や新聞などに掲載されているモノクロ写真をカラー化しようとすると、画面の粒子が粗く灰色のトーンが多諧調でないため、AIエンジンがとまどって判断不能となり、古くなって変色してしまった昭和のカラープリントのようになってしまう。1927年(昭和2)に新宿紀伊国屋の2階で開かれた、佐伯祐三Click!による初の個展写真をカラー化したが、フラッシュが焚かれているにもかかわらず白黒写真がセピア色の写真に変わっただけで、カラー化はほとんどなされていない。写真の粒子が粗いと、モノのかたちや色彩を認識するのが困難で、AIがとまどって判断を保留している様子が透けて見える。
ただし同じ雑誌ページの写真でも、粒子が細かくディテールがはっきりしている室内写真は、色の再現が比較的スムーズに行われている。佐伯祐三の死去後、佐伯米子アトリエClick!となっていた室内写真は、かなり細かな色の再現に成功している。ソファはバラ柄でピンク、テーブルクロスも濃いピンク、手前に置かれた太い格子縞の丸椅子クッションもピンクと、どこか米子夫人の“趣味”を感じさせるが、面白いのは第1次渡仏で佐伯夫妻がパリから土産に持ち帰ったソファ上の“男人形”だ。この人形の写真は、モノクロでしか見たことはないが、そのシルクハットが赤か茶系統に再現されているように見える。
いつだったか、この“男人形”と“女人形”を2体並べて描いた佐伯の贋作を見たことがあるが、そこではシルクハットが黒で描かれていた。写真の写りがあまりに小さいので、シルクハットがほんとうに赤か茶だったのかどうかのAIの正確性が問われるが、このような側面からもモノクロ写真の色彩判断に、学習が進んだAIエンジンによる推論の有効性を感じる。余談だが、カラー化を通じてアトリエ奥の棚の上に、まるでトトロのような人形が置かれているのに気がついた。濃い茶色に再現されているのはタヌキの焼き物か、あるいは幼馴染みの陽咸二Click!あたりからプレゼントされた変わった色の招き猫だろうか?
さて、建物が写るモノクロ風景写真のカラー化に挑戦してみよう。たとえば、中村彝が庭に立つアトリエ写真(1920年)は、粒子が粗いものの人物や庭の風情はなんとかカラー化が成功している例だ。(冒頭写真) だが、鮮やかなオレンジあるいはエンジ色をした屋根の色彩判断がつかなかったようで、赤系統のカラーであることは認識できているようだが、色を抑えめに表現している。また、夏であるにもかかわらず、樹木や芝草の葉の色が黄色みがかっているのは、南から射す強烈な陽光のせいで、AIエンジンが光の照り返しか秋の紅葉かで迷ったのだろう。結果的には、秋に色づきはじめた草木のような雰囲気になってしまった。ピントが手前の樽あたりにあり、中村彝Click!がピンボケ気味だが、もう少し焦点が合っていたらよりリアリティのある人物表現ができたのかもしれない。
次に、近衛町にある酒井邸Click!の庭写真をカラーにしてみよう。林泉園Click!つづきの深い谷戸をはさみ、相馬邸側の木々の葉が落ちているので、AIエンジンは明らかに晩秋か冬の情景だと認識しているようだ。したがって、枝々に残った色の薄い葉には紅葉あるいは枯葉のような色彩をほどこしている。学習不足で、樹木や草の種類までを認識しているとは思えないが、おそらくテラスにいる5人の人物たち(うち赤ちゃんは故・酒井正義様)は、かなり当時の色に近い再現ができているのではないだろうか。
つづいて、同じ近衛町の南端にある学習院昭和寮Click!を撮影(1932年)した空中写真でテストしてみよう。カラー化を試みたが、ほとんどセピア色のモノクロ写真のような仕上がりだ。樹木はかろうじて深緑に彩色されているが、色が濃すぎてわかりにくい。また、近衛町に建つ家々の屋根や外壁も多彩な色をしていたと思うのだが、コンクリート造りの昭和寮Click!と帆足邸Click!の白っぽい表現を除いては、どの邸宅もセピア色に近い。これは、対象物が遠すぎてAIに色の判断がつかなかったものか、あるいは学習院昭和寮を目立たせるため周囲の風景を意図的に暗くして現像・プリントしているせいで、AIが色を認識できるまでの明度や質感が得られなかった可能性もありそうだ。
次に、御留山の「黒門」Click!をカラー化してみる。相馬邸の正門である黒門は、戦後のカラー写真Click!が残されており、ほぼモノトーンのこんな雰囲気の建造物だった。ただし、1915年(大正4)の新築で撮影されていることから、屋根瓦はもう少し灰色が濃くてもいいのかもしれない。カラー化への変換もリードタイムが短く、手前の砂利に薄灰色をほどこし、門の背後にある木々の葉をグリーンにしただけで、AIエンジンはあまり仕事がなかったのだろう。また、これはどの写真にもいえることだが、このAIエンジンは空の色に無頓着だ。人物や服装、室内の家具・調度などを中心に学習を積んでいるエンジンなのだろう。
次は、国際聖母病院Click!の敷地から見た西ノ谷(不動谷)Click!と、その丘上に建つ第三文化村Click!の家々だ。1935年(昭和10)前後の撮影だとみられるが、草木の表現はそこそこリアルなものの、家々の表現がイマイチだ。おそらく、草木が青々と繫っている季節に撮影されたように思われるが、前述の中村彝アトリエのカラー化と同様に、強い陽光が当たった部分は灰色のトーンが薄いせいか、色づいた葉や枯れた草のようなカラーリング処理になっている。周囲の情景や陽光の強さ、反射の強弱、家々の質感と光の反射のしかたなどを推論させ、季節を絞りこんでからそれに見あう彩色させるような、より統合的な学習をAIエンジンにさせる必要があるだろう。
つづいて、アビラ村の島津源吉邸Click!の洋館部をカラー化してみる。このモノクロ写真は、粒子の精細さもあって美しく彩色できている。左手上空から射す、やや逆光気味の様子も樹木の光り方や、芝生への照り返しなどがよく表現されており、実際に島津邸を目の前にしても、およそこのような情景ではなかったかと思わせる。窓ガラスの反射や、ハーフティンバー様式の外壁の質感も十分に再現できているようだ。だが、快晴だったとみられる空の表現が薄曇りのような色彩のままで、やはり地上のカラー化に対して追いついていない。この陽射しであれば、上空は青空だったのではないだろうか。
次に、上落合186番地の村山知義・籌子アトリエClick!をカラー化してみよう。屋根は、いちおう赤系統のカラーを認識しているし、外壁もクレオソートClick!が塗布された焦げ茶色で着色しているが、雑誌の写真でキメが粗いせいか、AIエンジンの推論も自信がなさそうだ。おそらく、建築領域が専門のこなれたAIエンジンを用いれば、より正確な色彩を推定して再現できるのかもしれない。いや、汎用のAIエンジンであっても、これから10年後20年後にはこのフォルムが村山アトリエであることを即座に認識して、相応のカラーリングをほどこせるようになっているのだろう。
最後に、目白通り(長崎バス通りとのY字路)の賑わいを撮影した1932年(昭和7)のモノクロ絵はがき「大東京豊島区長崎町本通下」をカラー化してみよう。右手が下落合で左手が長崎の、いわゆる清戸道Click!に形成された街道沿いの椎名町Click!だ。もともとの写真が大判で、画面の精細度が高いせいか当時の街並みを彷彿とさせる、それらしい仕上がりになっている。当時の乗合自動車Click!(ダット→東京環状)は、屋根が銀灰色で黄色のストライプが入り、ボディは濃いグリーンだったカラーが再現されている。女性たちの着物や、店先の商品、ショッキングカラーのない当時の地味な藍染めで文字白抜きの幟やサイン類も、忠実に再現されているのではないか。ただ電柱が木製ではなく、今日のコンクリート製のような着色なのがちょっと気になるが、おしなべて当時の商店街はこのような雰囲気だったろう。
以上、過去に拙サイトでご紹介した写真類を、AIエンジンを使ってカラー化の検証をしてみたけれど、その元となる原稿(モノクロ写真)の精細度や明度にもよるが、おしなべて当時の写真よりは鮮度が向上し、より生きいきとリアルな人物や場面、風景へと変貌して、われわれが生きる現代の延長線上に、これらの人々が生活し風景が展開していたのを、より親しく身近に地つづきで感じられるようになったのではないだろうか。もっとも、文中でも何度か触れたとおり、わたしが試用したAIエンジンは学習が初歩の段階・途上であり、これから爆発的にさまざまなテーマを学習するのだろうから、あくまでも現時点におけるいまだ稚拙なカラー化にはちがいない。来年になれば、より精度の高いリアルなカラー化が学習の深化で実現できているかもしれず、それほどICT+AIの技術は加速度的に進化をつづけている。
<了>
◆写真:AIエンジンでカラー化を試みた写真は、すべて拙ブログで過去に掲載したもの。
★おまけ
額から外されたキャンバスを、じかに撮影させていただいた佐伯祐三「下落合風景」シリーズClick!の1作『セメントの坪(ヘイ)』Click!(1926年夏)を、一度モノクロの写真に変換し、再びAIエンジンを使ってカラー化した画面が以下のステップ画像だ。ほとんど色彩が再現されておらず、このAIエンジンはモノクロ撮影の絵画(2D)の再現性が苦手なのがわかる。これが美術に特化したAIエンジン(そのようなAIが構築されていれば)を用いれば、油絵の具の多彩な特性や発色、描かれたもののフォルムや色彩、それに画家の特性や画面のマチエールなどを豊富に学習し、より的確なカラー化の推論結果が得られるのではないかと思う。
◆カラー実画面→モノクロ画面変換→AIエンジン着色
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◆モノクロ印刷絵はがき(1930年協会展)→AIエンジン着色
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AIで登場人物がリアルに感じられるか?(上) [気になる下落合]
いつも、拙ブログでは明治期から戦前ぐらいまで落合地域とその周辺域で暮らしていた人々を紹介することが多いので、必然的にその画像はモノクロ写真が主体になる。だが、それらの写真をカラー画像としてご紹介することができたら、彼ら彼女らをより身近でリアルな存在として感じられるだろうか? そんな実験がしたくて、今回、AIエンジンを使ってモノクロ写真のカラー化を試してみた。大昔の話ではなく、ついこの間までそのへんで暮らして仕事をしていた人たちなんだな……というような感慨をお持ちいただければ、今回の企画は成功なのだろう。
たとえば、パリの郊外のモラン村で教会を写生する佐伯祐三Click!のモノクロ写真を、AIエンジンでカラー化するとこのようになる。(冒頭写真) 頬がかなりこけ、憔悴気味で不健康そうな佐伯祐三の横顔がよりハッキリと表現され、傍らにいる娘の彌智子Click!は、まるでついさっき撮影された現代の女の子のようにリアルだ。ただし、アジア人とヨーロッパ人の肌の色にはそれほどちがいがなく、いまだ撮影場所の推定や人種の差異までを含め、活用したAIエンジンは学習していないようだ。
モランは、かなり乾燥した早春(1928年3月上旬で佐伯が死去する5ヶ月前)らしく枝々から葉を落とした樹木が目立ち、季節がら常緑樹の葉も色褪せて表現されている。ただし、道端の雑草まで緑のままだったかどうかは不明だ。他の写真にも登場するが、樹木や草原など緑の表現は比較的リアリティが高い。また後述するけれど、このAIは建物の表現が苦手で、おもに人物表現にチューニングされたアルゴリズムおよびエンジンなのだろう。背後の建物は、ほとんどモノクロームのままで彩色がゆきとどいていない。
このAIエンジンの推論プロセスを想定すると、まず人物の顔を認識して肌色にカラーリングしている。ただし、佐伯祐三や彌智子、横手貞美Click!(左端)とフランス人の男の子ふたりの人種のちがいは表現できず、肌色一般として5人の人物に着色している。また、彼らの着ている洋服は、その質感やモノクロで表現された灰色の微妙な濃度やトーンの相違などを踏まえながら、当時の色彩を推定して着色している。佐伯祐三のジャケットが黒に近い灰色で、マフラーがブルーグレイだったのも、また真ん中の男の子が青っぽいブレザーを着ていたのも、おそらくAIの判断どおり事実だったのだろう。
樹木の幹や草木の葉は、その形状から判断して周囲の季節や風景に見あう色彩をほどこしているとみられるが、先述のように道端の草は枯れて薄茶色をしていたかもしれず、大ざっぱな表現のレベルにとどまっているのかもしれない。さらに、背景にとらえられている建物は、ピントが甘いせいもありAIエンジンが色彩をうまく推定できず、お手上げだった様子が見てとれる。ただし、左側にとらえられた建物のエントランス(玄関口)に見える小屋根が、赤あるいはエンジ色だったことは認識できたようだ。
佐伯祐三関連のモノクロ写真を、AIエンジンでもう少しカラー化してみよう。1925年(大正14)1月に撮影されたとみられる、リュ・デュ・シャトーにあった佐伯アトリエでの記念写真だ。それぞれ人物は、それらしい色彩で着色されているが、川瀬もと子Click!(左端)や佐伯、前田寛治Click!の手の色彩が中途半端のまま終わっている。また、この記念写真では川瀬もと子の顔がかなりブレているが、シミュラクラ的な判断と周囲の形状から人間の顔だと推論しているのだろう。左手前に写る岩崎雅通の足元は、靴下を履いているはずだが素肌だと判断して、肌色に塗られているのが気になる。
背後の壁にかけられたタペストリーは、赤が基調の織物だったことがうかがえる。その認識のしかたから、赤から上部へいくにつれ紫(または青)に変化するグラデーションのデザインだったものか。この写真には、右手に佐伯が制作した画面が1点とらえられているが、モノクロで撮影された絵画をカラー化するのは、当該のAIエンジンには苦手なようだ。3Dではなく2Dに描かれた空間で、絵の具の微妙な色彩の違いや質感を認識するには、美術に特化した膨大な学習の積み重ねが不可欠だろう。
ためしに佐伯の「下落合風景」シリーズClick!で、モノクロ画面しか残されていない作品をAIエンジンでカラー化してみたのだが、いまだお話にならないレベルの仕上がりで再現性はまったく期待できない。これはカラーで残されている、わたしがカメラで直接撮影した作品を一度モノクロ画面に変換し、改めて当該のAIエンジンでカラー化を試みても、その再現性がほとんどゼロだったことでもうかがわれる(次回ご紹介予定)。
佐伯夫妻と前田寛治Click!が写る、同じく1925年(大正14)ごろに撮影された庭での写真では、籐椅子の色やテーブル上のフルーツとみられる色彩が認識できていない。ただし、テーブルクロスは米子夫人が好きなピンク系の色だった可能性が高く、またパリではよく着ていた米子夫人のこの着物が、薄紫の細かい柄だったことは認識しているようだ。それにしても、前田寛治の顔色が悪すぎて、まるで病人か死人のようだ。AIエンジンが肌色を決める際、どこに基準が置かれているのか、何枚もの人物写真を試してみたがよくわからない。おそらく、人の肌色に対する学習がまだまだ不十分なのだろう。
もう1枚、1928年(昭和3)3月にモランを散歩する佐伯祐三と同行した仲間たちをとらえた写真では、佐伯のうしろを歩く米子夫人と大橋了介の両側に見えている、家々の屋根の色がおそらく実際とは異なるのではないだろうか。これは、のちのモノクロ風景写真のカラー化でも触れることだが、モランに建つ家々の屋根がまるで日本家屋の瓦のように、濃淡のある灰色ばかりだったとは思えない。また、佐伯祐三がモランで描いた作品画面を観ても、赤や青などカラフルな屋根が多かったはずなのだ。
さて、下落合にゆかりの人たちの写真をカラー化してみよう。ドキッとするぐらいリアルなのは、いまでは山手通りの貫通で失われてしまった矢田坂Click!を上ってくる着物姿の矢田津世子Click!だ。しぶさ好みの彼女らしく、紬らしい着物に金茶のつづれ帯をしめているらしい。その刺繍柄から、刀剣の鍔をあしらった彼女お気に入りの帯だろう。吉屋信子Click!の書斎も、それらしくリアルに再現されている。ただし、壁に架けられた甲斐仁代Click!の作品とみられる花は、このような色彩ではなかったと思われる。
アサヒグラフのカメラマンが、1927年(昭和2)3月に上落合の自宅リニューアルのため、下落合735番地にアトリエをかまえた村山知義・籌子夫妻Click!の写真も、なかなかリアルに再現されている。モノクロでは気づきにくいが、「オカズコねえちゃん」Click!の右手の表情が女性らしくていい。背後の本箱の質感もうまく表現されているが、ここでもAIエンジンは手前にある籐椅子の表現が苦手なようだ。アトリエで佐渡おけさClick!を踊る金山平三Click!は、ガラス面に写る青空までがうまく再現されたが、笠の陰になっている顔面の色彩はくすんでいる。なにかの陰になっている部分、あるいは室内でも光がゆきとどかない一画などは、AIが着色をためらうのか中途半端な色彩に終わる傾向がありそうだ。
親友の“清子さん”が撮影した、陽光が当たる下落合の書斎机で執筆の考えごとをしている九条武子Click!のスナップも、動きのある一瞬をとらえたブレのあるハレーション気味のモノクロ写真だが、紺地の普段着とともにうまく再現されていると思う。中村彝アトリエClick!前の記念写真も、やはり籐椅子の表現が不得手のようだが、それなりに鮮明で見られる画面だ。ただし、背後に写るアトリエの色彩が判断できないのか、“保留”のような状態で全体がくすんで表現されている。そのせいか、この写真自体が昔に撮影された人着モノクロの古写真のような雰囲気になってしまい、矢田津世子のような活きいきとした鮮やかさがない。
中井駅も近い辻山医院Click!で撮影された大田洋子Click!、辻山春子Click!、林芙美子Click!の3人は、影が多くコントラストの強い画面のせいか、色彩の再現がいまひとつうまくいっていないように見える。おそらく、フラッシュが焚かれていないせいなのだろう。フラッシュを焚いて撮影されたと思われる写真をカラー化してみると、その相違がよくわかる。たとえば、「女人藝術」Click!の会合でなにやら楽し気に発言する長谷川時雨Click!や、1929年(昭和4)にアトリエで『降誕の釈迦』を制作する陽咸二Click!は、非常にうまくカラー化できている例だろう。長谷川時雨の着物と帯の質感や、陽咸二にいたっては着ているのが紺のデニム地のオーバーオールであることも認識してカラーリングされている。
<つづく>
◆写真:AIエンジンでカラー化を試みた写真は、すべて拙ブログで過去に掲載したもの。
★おまけ
AIエンジンで、よく見かける写真をカラー化するとこのようになる。佐伯祐三×2葉と、前回の記事でご紹介したばかりの望月百合子Click!の大正期の写真、および下落合の御留山に通う相馬坂で撮影されたドラマClick!の広報用モノクロスチール(1973~1974年)。
アナキスト望月百合子という生き方と思想。 [気になるエトセトラ]
アナキストだった石川三四郎の娘である望月百合子Click!も、新宿地域とのつながりが深い。石川三四郎は、先ごろの記事で戦後に沖野岩三郎Click!らと鼎談しているのをご紹介したばかりだ。生まれてすぐに母親を亡くしたため、彼女は甲府の望月家へ預けられて望月姓を名のるようになった。4歳のとき、すでに柏木地域(現・北新宿/西新宿)にも住んでいたようだが、アナキストが多く住んでいた「柏木団」Click!のエリアだろうか。
小学校を卒業すると、上級学校へ進学する際に「将来お嫁に行くのは嫌だ」といったため、養家では教師にしようと師範学校への進学を奨めている。望月百合子は、このころからすでに「お嫁さん」は「家」制度の奴隷Click!だという強い認識があったようだ。「お嫁さん」になるなら、いつでもイヤなら出ていける女中のほうがはるかにマシだと考えていた。大正初期の当時、女性が就職できる職業といえば、教師や看護婦、産婆(助産婦)、電話交換手、女工ぐらいしか選択肢がなかった。
それを聞いた実父の石川三四郎が、友人で女学校の校長をしていた宮田修を紹介している。当時の師範学校は、「忠君愛国」教育が中心だったから、それでは娘のためにならないと考えて成女高等女学校(現・成女学園)を紹介している。
1992年(平成4)に、新宿区立婦人情報センターが望月百合子にインタビューした記録が残っている。翌1993年(平成5)刊行の『新宿に生きた女性たちⅡ』から引用してみよう。
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成女ではその頃(大正三・一九一四)校長の宮田修先生が、週一回倫理の時間を教えていらした。女だからといって奴隷になるのではなく、人間として自分で考え、自分で道を拓いて行くように、人は皆平等であると教えた。ご自分でも部落出身の娘さんと結婚しようとして、そういう差別をなくしたいと考えたけれど、親戚中の反対に合ってやめになったそうです。そういう話を倫理の時間にされた。/平塚らいてう(ママ)さんが雑誌『青踏』を出された時(明治四四年・一九一一)世間から随分爪はじきされた。その時宮田先生は平塚さんのことをほめて雑誌に書いたんです、たった一人ほめた。その関係で卒業生の原田琴子さんは『青踏』に参加したんです。(中略)/一級下には堺利彦さんの娘さんで真柄さんがいて、堺家の集まりにさそわれて行くと、東大の「新人会」の学生さんたちが議論していて、ご家族の皆さんと一緒で大変楽しい雰囲気でした。
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このとき、望月百合子が通学するために下宿していたのは、松井須磨子Click!と島村抱月Click!がいた芸術座の裏にある親戚の家(横寺町)だった。一時期、結核とカリエスで休学するが、恢復したあと成女高等女学校へ復学している。また、このころ通学途中でストーカーに遭い追いかけられたことが契機で、同校の寄宿舎に入居した。
成女高等女学校を卒業すると、望月百合子は学校の推薦で読売新聞社へ入社している。最初に任されたのは「名流婦人訪問」記事欄で、柳原白蓮Click!や吉岡弥生らのインタビュー記事を書いたが、文学担当に変わってからは有島武郎Click!や芥川龍之介Click!、与謝野晶子Click!らを取材している。当時、女性の新聞記者は着物姿だったが、活動しにくいので途中から断髪して洋装に変えている。大正前期での断髪・洋装はめずらしく、モガClick!が登場するのはもう少し先の時代だ。新聞記者は月給が25円と高給だったが、ヨーロッパの視察から帰った父親の石川三四郎に、「学問をしないで記者を続けても駄目」だといわれ、読売新聞社は2年ほどで辞めている。
1920年(大正9)に、女子聴講生制度Click!をスタートさせた早稲田大学に入学すると、文学部で東洋哲学を専攻している。3年後の1922年(大正11)に留学生試験に合格し、望月百合子は農商務省に蜂蜜のサンプルやレポートを毎月提出することを条件に、10円/月の給費を同省から支給されている。「留学」と名がついているが、農商務省の海外リサーチ要員といった役目を負わされていた。彼女は、その給費でフランス語を学ぶと、パリのソルボンヌ大学へ入学して西洋史を専攻している。
1925年(大正14)にフランスから帰国すると、東京郊外の北多摩郡千歳村八幡山(現・世田谷区八幡山)に、父・石川三四郎とともに「共学社」を創立して農業のかたわら自給自足の生活をはじめている。この選択は、人間は土を離れては生活できないため、農業を中心に全員が平等で生活するコミューンを実践するという、アナキズム的な理想生活の発想をベースにしていた。父親は、そこに集まった仲間たちに講義をしたり、彼女は雑誌の編集をしたりしながら農作業をつづけて暮らしている。ちなみに、この八幡山の家には、のちに小林多喜二Click!の妻になる下落合に住んだ伊藤ふじ子Click!が下宿している。
千歳村八幡山のすぐ西側は同村粕谷だが、拙ブログでは吉岡憲Click!の故郷として登場している。また、同村八幡山のすぐ北側、松沢村松原には「少年山荘」(山帰来荘)と名づけたアトリエに竹久夢二Click!が住んでおり、望月百合子は「共学社」で穫れた野菜を配達していた。洋装に洋靴姿で、秋野菜を配達にきた望月百合子に会った夢二は、彼女をモデルに絵を描き「土つきし靴のいとしさよ烏ぐもり」の俳句を添えてプレゼントしている。また、フランス刺繡の室内履きとドイツ製のエプロンも出してきて、「エプロンの中に野の花を摘んで入れなさい」などと、これも彼女にプレゼントしてくれた。これは若い女と見ると、誰彼かまわずつい甘い言葉をかけてしまう夢二の性癖Click!からではなくw、アナキストの石川三四郎との交流で彼女とは小さいころからの顔なじみだったのだ。
1928年(昭和3)に、望月百合子は都新聞に掲載された蔵原惟人Click!の論文に反論し、いわゆる「アナボル論争」の口火を切っている。当時の彼女の思想について、中京大学現代社会学部紀要(2007年)に発表された、志村明子『戦前の女性雑誌から探る女性アナーキストたちの言論世界』が的確にまとめているので、少し長いが引用してみよう。
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この論文(第2期「女人藝術」1928年10月号/望月百合子『強権か自由か』)は前掲の「婦人解放の道」(同1928年7月号)同様に、普通選挙後に盛り上がってきている女性参政権運動への批判的見解をアナーキストの立場から明らかにするものである。また、市民派女権主義者批判のみならず『女人芸術』(ママ)関係者の中のロシア支持者たち、つまりマルクス主義女性たちに対する批判を明らかにする内容も併せて著述されている。アナキスト(ママ)たちは、1920年代当初に、プロレタリア独裁のソビエトに対する幻想をすてマルクス主義派と厳しく対立するようになった。/望月が『女人芸術』に寄せた論文がもう一本ある。「女人の社会的使命」(同1929年6月号)である。この論文中、近年、社会改造論が論議されているが、そこに強権主義の萌芽があるということを問題視している。彼女はアナーキストとして強権には否定的だからである。社会改造論は絶対的権威の実現という妄想につかれて突進していくが、そこに強権主義の萌芽があると望月はみなす。彼女は、有史以来の幾度の社会改造も真の自然的解放をもたらしていない、絶対観は強権思想を生み、強権思想は保守と反動となる繰り返しであると捉える。望月は強権の存在を「無」にしたアナーキズムの自由社会を提唱する。それは連帯的自治の社会である。(カッコ内引用者註)
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では、その「強権」支配下でどのように「連帯的自治の社会」を構築していくかの、政治的・社会的プロセスや具体的な方法論の欠如、および肝心な変革主体の不在を「ボル」派からすぐにも突っこまれそうだ。
あるいは、単に危険思想視された左翼思想はもちろん、資本主義政治思想の自由主義者まで弾圧しはじめる日本政府と、どう対峙していくのかが不確かな主張の中で、革命後に早々「強権主義」の最たるものを招来したロシア=スターリニズムについて、「強権思想は保守と反動となる繰り返し」という視座は、まさに的確な予言をしているといえるだろうか。
長谷川時雨Click!の『女人藝術』Click!では、望月百合子の論文の合い間に下落合の五ノ坂上に住んだ同じアナキストの高群逸枝Click!も、『新興婦人の道―政治と自治―』(1928年9月号)を発表している。志村明子の論文より、もう少し引用してみよう。
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高群によれば、解放とは強権を脱して自治を、被支配を排して支配なき状態を意味するのである。真の男女同権は、女権主義者の主張のように強権的、人為的であった従来の男性本位の意識ならびに生活態度を女性も同じように踏襲することではなく、新興者としての女性が必然的に伴っている女性本来の自然的、自治的生活態度ならびに意識へ、男性をきたらしめることである、とする。新興意識とは、自治意識のこととされる。自治とは、相互の協力形式による自由社会を指す。/クロポトキンが『相互扶助論』などの著書で示したように、高群も村落共同体の農民の生活に相互扶助や相互支持の習慣や風習を見いだしている。高群は、来るべき理想の新社会は、農工合体の共産村落を単位とする連合世界であるべき、という。共産の単位、共有の単位は、きわめて自然的な、そして小範囲なものであればあるほど、不合理の度合いが少ないとするからである。
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どこか、1960年代のヒッピーやコミューン志向の新興宗教的な匂いすら感じる世界だが、この主張もまた高群が多用する「自然的」とは、現社会で形成された個人的主観ではなく、一般化(普遍化)するとどのような状態であるのかが、すぐにも「ボル」派のみならず論理的思考の人物からは、突かれそうな文脈の“隙間”ではある。
やがて、「ボル」派が主流を占めるようになる『女人藝術』を去った望月百合子は、高群逸枝や平塚らいてふ、住井すゑたちと女性誌『婦人戦線』を創刊している。このあと、1930年(昭和5)に彼女は「共学社」仲間の古川時雄と結婚し、四谷区新宿1丁目58番地(現・新宿区新宿1丁目/翌1935年に千駄ヶ谷へ移転)に「ふらんす書房」を開店している。同書房は、岩波書店Click!と同じく書店と出版社を兼ねた店舗で、2階では英仏語を教える語学塾を開設していた。望月百合子は、ふらんす書房の代表として多彩な本の出版や、『トロットと猫と犬』(1935年)など代表的な翻訳本を次々と刊行していくことになる。ちなみに、『トロットと猫と犬』の挿画は、平塚らいてふの愛人で画家の奥村博士が担当している。
余談だが、新宿通りに面したふらんす書房のちょうど裏あたり、新宿御苑に面した側のビルに「現代ぷろだくしょん」の事務所があった。大学を出て間もない1983年(昭和58)ごろだったろうか、当時の上司に連れられて一度訪問したことがあり、映画「はだしのゲン」Click!3部作の監督・製作者の山田典吾・山田火砂子夫妻にお目にかかった憶えがある。ちなみに、いまの現代ぷろだくしょんは中井駅のすぐ南、上落合2丁目にオフィスがある。
◆写真上:北多摩郡千歳村八幡山に、実父と「共学社」を設立した望月百合子。19世紀の1900年(明治33)生まれの彼女は、21世紀(2001年)まで生きた。
◆写真中上:上・中は、成女高等女学校(現・成女学園)の正門と旧校舎。正門前の記念プレートは、1896~1902年(明治29~35)までここに住んだ小泉八雲Click!の旧居跡。下は、望月百合子の実父・石川三四郎(左)と竹久夢二(右)。
◆写真中下:上は、「共学舎」で父親と農業や学習、翻訳などをしていた千歳村八幡山時代の望月百合子で、大正中期とは思えず現代女性のように見える。中は、ごく近くの松沢村松原にあり「共学社」に野菜を注文していた竹久夢二の「少年山荘」(山帰来荘/1924年ごろ撮影)で、当時の千歳村とその周辺の風情がうかがえる。屋敷林の繁る庭にいるのは、当時、夢二の愛人だったお葉(永井兼代)Click!だろうか。下左は、1928年(昭和3)刊行の望月百合子『強権か自由か』が掲載された「女人藝術」10月号で表紙は吉田ふじをClick!。下右は、1930年(昭和5)に望月百合子らが創刊した「婦人戦線」3月号。
◆写真下:上は、「女人藝術」でボルシェヴィズムに対しアナキズムの論陣をはった望月百合子(左)と高群逸枝(右)。中上は、1940年(昭和15)の「四谷区市街全図」にみる「ふらんす書房」位置。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみるふらんす書房界隈。下左は、1934年(昭和9)刊行の田中令三『晒野』(ふらんす書房)の奥付。下右は、1935年(昭和10)出版のリシュテンベルジェ・作/望月百合子・訳『トロットと猫と犬』(ふらんす書房)。