南原繁に嫁した笠原美寿の妹・喜久。 [気になる下落合]
明治末から大正にかけ、内村鑑三Click!は淀橋町柏木436番地(現・北新宿1丁目)に住んで聖書研究会を開催していた。参加する会員たちは、市民や学生、女性などの別に「教友会」「柏会」「白雨会」(学生会)、「もあぶ会」(女性会)などに分かれて活動していた。「白雨会」のメンバーには、帝大や慶應、高商(現・一橋大学)の学生たちがおり、坂田祐、星野鉄男、南原繁、松本実三、鈴木錠太郎、石田三治、高谷道男の7名が参加している。南原繁は、英国の詩人・ワーズワースの作品にちなみ、「白雨会」のことを「We are Seven」と呼んでいた。
当時の柏木や百人町界隈は、雑木林があちこちに残る典型的な東京郊外で、官憲が「柏木団」Click!と名づけた社会主義者やアナーキストたちが集まって住む地域でもあった。当時の様子を、1914年(大正3)10月25日に発行された『白雨会誌』から引用してみよう。ちなみに、同誌の文章は1994年(平成6)に出版された、星野達雄『からし種一粒から』(ドメス出版)からの孫引きだ。
▼
秋半バ、半月中天にかかり、夜静かなり。路傍の草むらに跪き、月光をあびつつ四人各々祈祷を神に捧げ、一同霊に充されて帰る。星野君は本日井の頭より中野に帰る途上、我等七名の前途を予言せり、曰く/彼(星野)は医癒と伝道、松本は経済学者、石田は基督教文学、高谷はバンヤン的伝道、南原は政治を以てする伝道、鈴木は学問ある農家の主人、坂田は宗教家。/我等の将来果して如何になりゆくべきか、ただ全能なる神御自身のみ知り給うべし。
▲
この中で、南原繁は政治にいかず帝大で政治学者となっている。南原は香川の出身で、1907年(明治40)に第一高等学校に合格して東京へやってくる。当時の一高の校長は新渡戸稲造で南原は在学中に多大な影響を受けたようだ。その後、帝大法科大学政治学科へ入学し、このころから「白雨会」に参加している。1914年(大正3)に帝大を卒業すると一度は内務省へ入るが、1921年(大正10)に同省を辞めて帝大法学部の助教授に就任。ヨーロッパ各地の大学に留学し、3年後の1924年(大正13)にようやく帰国している。「白雨会」メンバーの星野鉄男は、笠原美寿Click!の弟すなわち笠原吉太郎Click!の義弟にあたり、さらに鉄男の下には星野喜久(のち百合子)がいた。
南原繁は、内務省に就職して2年後、1916年(大正5)に星野喜久と結婚している。おそらく兄の星野鉄男が、南原に妹を紹介したものだろう。結婚と同時に、喜久は「百合子」と改名した。南原の母親の名前が「キク」だったため、南原家に「キク」さんがふたりになるのを避けるためだった。姑と嫁が同じ名前で、結婚を機に同姓同名がふたりになってしまうというパターンは、下落合702番地にあった南原邸の、ごく近くで見たことがある。南原邸から北へ3軒隣り、下落合679番地(のち680番地)に住む高良興生院Click!の院長・高良武久Click!と高良とみClick!夫妻のケースとまったく同様だ。高良とみはそのまま改名せず、高良家には「とみ」さんがふたり存在しつづけた。南原繁と百合子(喜久)の結婚の様子を、1916年(大正5)に発行された『白雨会誌(三)』から孫引きしてみよう。
▼
大正五年十一月二十日(月)午後三時、今井館に於て、南原繁君、星野百合子嬢(鉄男君令妹)の結婚式挙行せらる。内村先生司式せられ、坂田夫妻媒酌たり。松本君はるばる大阪より上京出席せられ、白雨会全部参列す。
▲
南原夫妻は結婚後、ほどなく下落合702番地の新邸に引っ越してくる。西坂・徳川邸Click!の北に隣接した敷地で、当時はボタンの名所「静観園」Click!に面していた。南原百合子は、「とみ子さんは料理がヘタである」といわれてしまった、戦後は政治家になる高良とみとは異なり、料理がとてもうまかったようだ。新婚家庭を平山成一郎とともに訪ねた真野毅は、百合子の手料理を褒めている。
南原繁がヨーロッパへ留学するころから、百合子は体調を崩して床につくようになる。群馬県の郷里へ子供を連れて帰り、南原が帰国するまで静養している。3年後、夫がヨーロッパから帰国するころにはやや回復していたが、その後再び重態となり、1925年(大正14)8月30日に29歳で他界してしまう。あとには、7歳と5歳の幼児が残された。
再び、1925年(大正14)10月15日の『白雨会誌(七)』から、埋骨式の様子を孫引きしてみよう。
▼
南原夫人の葬式は、さきに、(群馬県)沼田に於て執行せられたるが、本日午後二時、下落合七〇二南原君宅に於て埋骨式を行う。/坂田司式し、賛美歌、聖書朗読し、百合子夫人の辞世の歌を朗読し、一場の感話をなし、最後の祈祷を植木君捧げ、星野光多叔父さん(牧師)祝祷をささげて式を閉ぢ、数名の近親と坂田付添い玉川河畔の墓地に埋葬せり。日暮、埋骨を終る。/当日南原君宅に来会せるもの、白雨会より、植木、松本芳夫、高田運次郎、星野鉄男の諸君及坂田夫妻、教友柴田鐫次及同夫人、其他親戚十数名。(カッコ内は引用者註)
▲
埋骨式にはもちろん、30mほど北に住んでいた笠原吉太郎・美寿夫妻Click!も出席していただろう。
百合子が残した辞世の歌の一首、および南原繁が妻の死後に詠んだ歌は以下のとおりだ。
主と友(ママ)に御国へ行かん我が身をば 心安かれ残る愛人(めでひと) 百合子
うつしみのきづなはたちて天ざかり ゆきし妻かも恋ひて思はむ 繁
一連の記事で、もうお気づきの方もいるだろうが、西坂・徳川邸Click!から目白通りへと抜ける道路、聖母坂Click!が拓かれるまで補助45号線計画Click!が存在していた、わたしが当サイトで「八島さんの前通り」Click!と呼ぶ三間道路沿いには、群馬県沼田を郷里とする星野家の一族が集合していた。下落合の「熊本村」Click!や「大分村」Click!のひそみに倣えば、「群馬村」ということになるだろうか。現在ではあまり呼ばれなくなってしまったが、この通りを「星野通り」と呼ぶ人たちも多かった。ちょうど、青柳邸前の丘上を「青柳ヶ原」Click!(現・国際聖母病院)と呼んだのと同じ感覚だ。
笠原美寿の祖母である星野るいをはじめ、多くの星野家の人々が群馬県沼田をあとにし、下落合で暮らしたのだが、「星野通り」の物語については、また機会があれば、もうひとつ、別の物語。
◆写真上:下落合702番地にあった、南原繁・百合子夫妻が暮らした邸宅あたりの現状。
◆写真中上:左は、淀橋町柏木の丘上にある聖書研究会が催されていた現在の聖書学院。右は、柏木436番地にあった内村鑑三邸跡の現状。当時は緑の丘だったが、現在は面影がない。
◆写真中下:上左は、1923年(大正12)に撮影された南原一家。上右は、実家のある群馬県沼田で撮られた南原百合子。下は、1938年(昭和13)年の「火保図」にみる南原邸とその周辺。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる南原邸。下左は、「星野通り」側から眺めた下落合702番地界隈。下右は、西ノ谷(不動谷Click!)側から眺めた南原邸につづくひな壇。
昔から和の刃物に惹かれるのですが、鎗鉋をこしらえている鍛冶仕事を見てみたいですね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 10:35)
「紀国(きこく)」がいつから「紀伊国(きいこく)」になったのか研究された方がいて、江戸期に「イ」や「エ」の母音を補って読みやすくする“流行”があったようだ・・・と書かれていたのを憶えています。「斐川(氷川)」が、「斐伊川」と表記されるようになったのも江戸期からのようですね。いまでは、「-」と音引きして読まれてしまうのですが、当初はどのように発音されたものか・・・。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 10:56)
ミンガスの、名盤中の名盤ですね。JAZZを聴きはじめてから、最初に買った100枚のアルバムの中に入っていたと思います。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 16:59)
女性から頬をひっぱたかれたことはありませんが、アタマをはたかれたことはありますねえ。w nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 17:06)
雑貨カフェ屋さんの名前が「jazzy」というのは、絶妙ですね。きっと、いろいろ楽しいものが入り混じった品揃えなんでしょうね。w nice!をありがとうございました。>ばんさん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 18:49)
展覧会でも展示されていましたけれど、車窓の“うたた寝”シリーズいいですね。w nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 19:09)
神奈中バスのカラーリングに出会うとホッと緊張感が解けるのは、子ども時代に形成された“場の印象”がいかに大切かがわかりますね。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 19:17)
加茂家のような豪農になると、もはや武家屋敷のような座敷ですね。
nice!をありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 19:20)
ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 19:25)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 19:26)
ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 19:29)
グラフィックデザインの世界でいいますと、アートディレクターやクリエイティブディレクターがいたのではないかと思うような建築デザインがありますね。nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 21:47)
サバの味醂干しは、ごまちゃんならずとも、わたしも大好物です。
nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
by ChinchikoPapa (2012-05-29 22:58)
デジカメも機種が変わると、ガラリと画面の質感が変わりますね。いまだに、Nikonの画面に馴れずにときどき戸惑っています。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2012-05-30 01:09)
子どものころ、鑑真和上像の開帳に合わせて親が連れていってくれたのですが、もうほとんど憶えてないですね。もっとも印象に残っているのは、やはり均整のとれた講堂建築でしょうか。nice!をありがとうございました。>マチャさん
by ChinchikoPapa (2012-05-30 10:28)
近々、高田馬場駅を起点とする、小田急電鉄の狛江行き計画線について書きたいと思っています。nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
by ChinchikoPapa (2012-05-30 12:38)
南原夫妻って内村鑑三に司式してもらえたなんて、幸せですねえ。また、一高時代の校長が新渡戸稲造だなんて、優秀な人には優秀な師がつくのですね。でも、百合子さんが若死にしたのは、痛恨事ですね。南原繁は、再婚しなかったのでしょうか?
by Marigreen (2012-05-30 16:53)
Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
百合子夫人との間にはふたりの娘がいましたが、のちに息子たちも生まれていますので再婚しています。東大総長をつとめていたころ、学生たちがよく下落合に集まっていた・・・というエピソードを聞きますね。
by ChinchikoPapa (2012-05-30 19:44)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2012-05-30 20:31)
チューブダイエットは、リバウンドがものすごそうですね。下剤で無理やり排泄させるなど、とても健康的とは思えません。w nice!をありがとうございました。>Lobyさん
by ChinchikoPapa (2012-05-31 11:37)
堂内のカラーリングが独特で美しいですね。西洋の教会とは異なる、清潔さを感じます。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2012-05-31 12:14)
わたしは、背骨右側の背筋の凝りが治りません。きっと、マウスやタッチパッドを長時間操作しつづけているせいです。nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
by ChinchikoPapa (2012-05-31 12:17)
ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>タッチおじさん
by ChinchikoPapa (2012-05-31 16:06)
「ミカンブラザーズ」の優勝、おめでとうございました。
nice!をありがとうございました。>キャプさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2012-05-31 21:24)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2012-06-01 10:34)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2012-06-03 22:55)