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学習院の旧石器時代層から想うこと。 [気になるエトセトラ]

学習院バッケ1.JPG
 先日、学習院馬場Click!へおじゃましたのと相前後して、学習院キャンパスの目白崖線に自然のまま残るバッケ(崖地)Click!も散策してきた。学習院の南、神田川をはさんだ対岸には、1929年(昭和4)まで「字バッケ下」の地名が戸塚町市街図にも記載され、下落合と同様にこのあたりも「バッケ」という用語がごく一般的につかわれていたエリアだ。もっとも、字バッケ下Click!は甘泉園のバッケに対する地形的な呼称が住所名になったものと思われる。
 以前、徳川義宣(よしのぶ)Click!の記事でもご紹介したが、目白学園(目白大学)と同様に学習院大学のバッケからも、2008年に旧石器時代の遺構や石器が発見され、考古学的にはきわめて重要なかけがえのない区画となっている。目白学園キャンパスで発見された旧石器Click!は、1950年(昭和25)という敗戦から間もない時代、しかも岩宿遺跡が発見されてからそれほど時間がたっていない時期のことであり、世間から大きな注目を集めた。また、目白学園とその周辺域では、旧石器時代から鎌倉期、さらには江戸時代にいたるまで連続して人が住みつづけていることが確認されており、歴史的な断絶期がほとんど存在しない重要な地域遺跡となった。
 実は、学習院大学のキャンパスとその周辺もまったく同様で、旧石器時代から新石器(縄文)、弥生、古墳、ナラ、平安、鎌倉、室町、江戸、やがては明治時代・・・と断絶期がほとんどなく、常に人が居住し、行き交った史的連続性の高い遺跡のひとつだ。すなわち目白崖線には、人が有史以来住みつづけてきたのであり、その上に建っている住宅街の地下は、ほとんどすべてが考古学的な「埋蔵文化財包蔵地」といっても過言ではないだろう。
 行政によって、正式に「埋蔵文化財包蔵地」と指定されたエリアは、目白崖線沿いに飛びとびで存在している。でも、わたしが保存している古墳期(おそらく前期と末期)に鍛錬された鉄剣・鉄刀Click!碧玉勾玉Click!は、指定地の区画から出土したものではない。崖線沿いにある、ふつうの住宅街の工事現場から出土しているのであり、敷地所有者の方からお譲りいただいたものだ。行政による指定地は、あくまでも“学術調査”によって専門家が規定したエリアに限られている。ところが、目白崖線沿いにお住まいの方々は、自宅をリニューアルしたり地下や車庫を新築したりする際に、さまざまな遺構・遺物を発掘Click!しており、それはことさらめずらしい現象ではない。縄文・弥生の土器片や、巨大な古墳群Click!に並べられたとみられる埴輪片が邪魔なので、砕いて田畑の地面に鋤きこんでしまった・・・という話は、目白・落合地域全域で聞かれるエピソードだ。
 学習院のバッケから発見された旧石器は、考古学的な「武蔵野台地標準土層」で表現すると、いわゆる第Ⅴ層から第Ⅸb層まで、すなわち旧石器時代後期のほぼ全地層から出土している。別の言い方をすれば、旧石器時代後期の比較的新しい第1文化層から、かなり古い第3文化層にまでまたがる、同一地点における垂直的な発掘成果ということになる。これは、どのような意味を持つのかというと、縄文時代(新石器時代)以前の旧石器時代(無土器時代)にも、かなりの密度で人々=旧石器時代人が、目白崖線に居住・往来していたことを示唆する成果といえるのだろう。それだけ、この地域が住みやすい環境で、食糧や物資が豊富だったことを意味している。
学習院バッケ2.JPG 学習院バッケ3.JPG
 さて、旧石器が続々と出土した学習院の自然科学研究棟あたり、ちょうど学習院馬場Click!の北側斜面にあたる崖地を、馬術部の練習を見ながら散歩してきたのだが、地表に露出した土面から顔をのぞかせている、破砕痕の残った黒曜石を見つけた。石器として加工はされていないが、大きな原石を加工したあとの破片か、あるいはその貴重性を考えると加工前のストックだったのかもしれない。もちろん、江戸東京地域では黒曜石は採れない。旧・新石器時代には、長野県や北海道、静岡県などで採取された特別な石材であり、当時の物流ルートによって遠くからここまで運ばれてきた可能性がある。おそらく、新石器時代(縄文時代)=標準土層第Ⅲ層の地層ないしは残土にまぎれた黒曜石だと思われるが、神津島で産出した同石が南関東の遺跡で発掘されているところをみると、陸上ばかりでなく海上ルートによって運ばれてきたとも考えられる。
 学習院キャンパスから見つかった旧石器には、珪質頁岩(けつがん)製のものがあり、この石は東北や北海道からしか産出しない。したがって、この石も遠方からの物流ルートによって、この地にもたらされた可能性が高そうだ。また、第Ⅴ層~第Ⅸb層からは、ものを煮炊きしたと思われる炭化物集中痕や、石器の製造現場だったと思われる砕石場痕なども見つかっており、学習院の丘上ないしは斜面は定住を前提とした石器の「製造加工場」だったのかもしれない。すなわち、石器を製造する人々、その原材料となる石材を輸送する人々・・・というように、専門の仕事をそれぞれが担当する“分業化”社会が、当時から形成されていた可能性さえ示唆している。
 青森の三内丸山遺跡の発掘が、縄文時代のイメージを根底からくつがえしてしまったように、旧石器時代も改めて大きな見直しを迫られているように感じる。彼らは、動物を追いまわしながら「ウッホウホホ」と、定住もせずに野原を駆けまわって流浪していただけではないだろう。弥生期以前の日本列島人を、ことさら「原始人」「劣等人種」扱いして、「皇民化」が行なわれていない無知蒙昧な野蛮人たち・・・と規定し、自国の古代史に泥を塗りつづけ「自虐的」におとしめてきた、明治政府以来の非科学的な「日本史」(関西史)は、今回の学習院の発掘成果もそうだが、これからも事実の前には果てしない崩壊を繰り返してゆくにちがいない。発見や確認された事実の前に、予断や神話的妄想・空想の類が駆逐されていくのは、世界のどこの国でも、またいつの時代でも同様のことだ。
旧石器Ⅴ層.jpg 旧石器Ⅶ層.jpg
旧石器Ⅸb層.jpg 旧石器時代ローム層.jpg
 学習院の考古学チームは、1923年(大正12)に大阪府羽曳野市の巨大な前方後円墳・誉田山古墳(こんだやまこふん)を発掘調査している。いまでも大学史料館Click!には、そのときに発掘された水鳥埴輪(5世紀前葉)などの成果物が保存されている。なぜ、当時の宮内省はこんな「大間違い」な、みずから墓穴を掘るような発掘調査を許可したものか、今日のかたくなで非科学的な宮内庁からみれば不思議なのだが、学習院チームはいそいそと発掘調査へ出かけていった。おそらく、わたしが想像している以上に、大正時代は創造的で開放的な世相だったのではないか。
 そして、ほどなく上記の5世紀に造られた埴輪類を発掘して持ち帰り、宮内省へと納めている。(のちに宮内省から学習院へ移管) 誉田山古墳は、明治政府が「応神天皇」(201~310年??)の墓である「応神天皇陵」と規定した前方後円墳であり、当時の宮内省はそれをみずから人文科学的に否定する学術調査を、学習院の考古学チームへ依頼してしまったことになる。3世紀に生き4世紀初頭に死去している北九州生れの人物(その生存年代にさえ多大な疑義が提出されている)が、100年以上もあとの5世紀前半に築造された墓の被葬者でないのはいうまでもない。
 現在、宮内庁はおそらく上記のケーススタディでひどく懲りたのだろう、「天皇陵」の発掘を以降全面的に禁止し(昨年、立ち入りが許可された古墳が2例あるが発掘は不許可)、学術とも科学とも無縁な姿勢を取りつづけているが、すでに大正期の学習院チームの成果により、そのほころびは明らかとなっている。また、台風によって大規模な土砂崩れを起こし、墳丘を取り巻く埴輪の一部が露出してしまった某古墳のように、「被葬者と埴輪の年代が、そもそもぜんぜん合わねえじゃんか」と指摘されてしまった「天皇陵」もあったりする。
 △△天皇陵とされた古墳が、実はなんの調査もなされずに、幕末の国学者や明治政府の宮内省と教部省(のち文部省)の官僚が、神話の記述や登場人物たちの事跡を空想しながら、古墳の規模やサイズのみを気にしつつ、具体的な根拠もなしに「なんとなく」テキトーに決めていた事実も、同志社大学の綿密な追跡研究によって、すでに明るみに出てしまってから久しい。
黒曜石片.jpg 石器状切片.jpg
旧石器時代標準土層名.jpg 水鳥埴輪(5世紀).jpg
 わたしとしては、南武蔵勢力を中心に関東圏の巨大な古墳群Click!の被葬者にこそ興味があるのだけれど、ついでに近畿圏の古墳にも誰が埋葬されているのかぐらいは知っておきたい。少なくとも、誉田山古墳は「応神天皇」の墓などでないことは、学習院の考古学チームによって証明されているのだが、他の古墳群にはいったいどのような地域の有力者たちが被葬されているものか、日本史を見直すうえでも興味があるのだ。70年ほど前から科学的な進歩を拒み、神話世界につかった「なんとなく」の空気がよどんでいる宮内庁へ、21世紀の現代的な人文科学の光が射す日を待ちたい。

◆写真上:学習院キャンパスの南側に残る、昔ながらのバッケ(崖地)に通う小路。
◆写真中上:旧石器時代から現代までの地層が重なる、学習院バッケ()と土層露出面()。
◆写真中下:2010年に発行された「目白の森のその昔-学習院と考古学-」(学習院大学史料館)より、2008年に発掘された標準土層第Ⅴ層(第1文化層)の黒曜石のナイフとコア(左上)、第Ⅶ層(第2文化層)の黒曜石剥離とスクレーパー(上右)、第Ⅸb層(第3文化層)の石斧(下左)。下右は、発掘現場にみられる旧石器時代の地層で前方がバッケ(崖地)の急斜面。
◆写真下上左は、石器を造ったあとの残滓かストックらしい黒曜石。上右は、石器状をしている切片。下左は、関東ローム層の旧石器時代における一般的な堆積地層。下右は、1923年(大正12)に学習院チームが誉田山古墳の墳丘から発掘して持ち帰った5世紀前葉の水鳥埴輪。


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コメント 27

dendenmushi

@天皇陵の学術調査の必要性と要望は、ずいぶん昔からいろいろ言われているようですが、あくまで「天皇家の墓」だからとがんばる宮内庁の菊のカーテンは固いようですね。
そもそも天皇陵だと比定する作業が、記紀などのほか、江戸時代の記録を根拠に、かなりアバウトに大きな網をかぶせてしまったもので、調査研究の結果によるものではありませんしね。
by dendenmushi (2012-03-18 07:27) 

マチャ

天皇陵の学術調査は日本の成り立ちを考える上で不可欠ですね。
今となっては天皇陵のほとんどが違うことは明らかですし、
それが発掘調査で裏付けられたとしても、今さら天皇家の歴史に
傷がつくとは思えません。

私も歴史系記事で天皇陵を取り上げてますが、実際とは違うことを
はっきり書いた上で、その天皇にまつわる神話や伝承を
紹介しています。

しかし、学問的な部分とのバランスが難しいですね。
by マチャ (2012-03-18 08:49) 

Marigreen

小中高と教え込まれてきた歴史の教科書を疑ってかからなければならないのは悲しいです。この記事を読んでいたら、家永教科書裁判を思い出した。
by Marigreen (2012-03-18 09:55) 

御光堂(pulin)

天皇陵として国家的管理の対象にするなら、考古学的な裏付けがきちんとなければならないのに、平安を乱すからといって(つまり天皇陵は神聖だから発掘調査の対象にできないとする)、循環論法的な理由で調査を拒む宮内庁ですが、今のところ。国民の大半も関心がないか、あえて知らなくてもいいとする人が多そうなので、当分見込はなさそうですね。
by 御光堂(pulin) (2012-03-18 13:55) 

ChinchikoPapa

dendenmushiさん、コメントとnice!をありがとうございます。
昨年でしたか、宮内庁詰めの歴史学者(という肩書でしたが少なくとも人文科学分野の「歴史学」とは思えません)が、「なぜ科学的な検証や考古学的な比定調査を拒むのか?」という記者の質問に対し、「権威が薄れるから」と答えていたのには唖然としました。まるで神官か、巫(かんなぎ)、占い師のような返答で、そもそも学術を語り、21世紀の学者を名乗ることさえ恥ずかしい姿勢だと思いますね。
わたしも、「天皇陵」が初めて比定される際のプロセスを知ったときは、こんないい加減で無根拠、かつテキトーに決められていたのかと愕然としました。そもそも、これらの古墳がすべてほんとうに「天皇陵」なのか?・・・という、根本的な疑義も存在しますが、発掘されてはマズイものが続々と出てくるのを怖れる宮内庁は、菊のカーテンならぬ、戦後は鎧戸ぐらいの頑丈な遮蔽をしているとさえ感じてしまいます。


by ChinchikoPapa (2012-03-18 23:31) 

ChinchikoPapa

颯爽と街を歩く女性のうしろ姿は、何度見てもかっこいいですね。w
nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2012-03-18 23:34) 

ChinchikoPapa

マチャさん、コメントとnice!をありがとうございます。
いつも、記紀の物語を(ときどき横線入りの記事を爆笑しながら)、とても楽しく拝見しています。w
ひとつは、「天皇陵」の学術的な発掘調査は、日本の古代史を解明するうえでは不可欠な、きわめて重要なテーマであるのは間違いないのですが、もうひとつ、記紀やアマミク神話(琉球神話)、あるいはカムイユカル(アイヌ神謡)などに代表される、日本の神話類をまったくの空想、絵空事として片づけてはマズイ・・・というテーマもありますね。
もちろん、記紀などには朝鮮半島の三国史記を模倣したと思われる千子二運のしかけ(王朝の継続性誇示)や、粉飾、象徴化、権威づけのための虚構など多々あるとは思うのですが、なんらかの史的事実を基盤にして創作されている側面や、可能性は否定できません。
たとえば、「神武」は九州から海路で近畿へ侵入してきて浪速(大坂湾湿地)で大敗しますが、紀伊半島を迂回し熊野から侵入してナラへとたどりつきます。この経緯は、地元の先住の日本勢力と思われるアビ系(阿部氏)の伝承や、侵略された側である紀国の女王・ナグサトベの伝承と、多くの点で一致しています。つまり、このような事実として起きたエピソードを「神武」神話に象徴させて(もちろん天皇家に都合よく粉飾して)、記述している可能性が高い・・・とみられることですね。
そのような観点からみますと、記紀の記述と古来から伝わる地元の伝承、あるいは神話と考古学的な成果との突き合わせも、古代史を解明するには不可欠な課題だと思います。
ただ、わたしがうらやましく感じますのは、近畿地方の古墳を調査・研究する学者が、戦前から圧倒的多数なのに対し、関東地方の膨大な大小古墳群は明治時代から重要視されずに研究者もきわめて少なく、しかも保存もいい加減で破壊されつづけてきた経緯があります。その点で、戦前からよく保存や手入れがゆきとどいている近畿圏の古墳環境がうらやましいですね。
by ChinchikoPapa (2012-03-19 00:02) 

ChinchikoPapa

Marigreenん、コメントをありがとうございます。
いまや、昔教科書で習った弥生時代のイメージが、後期縄文時代に近いでしょうか。
三内丸山遺跡が発掘される少し前、青森では縄文期の水田跡が見つかっているのですが、「水田稲作」を縄文-弥生の史的境界の指標としてしまった関係から、「特殊な例」として学会からは無視されつづけています。あくまでも稲作の伝来を、「西から」にしておきたい人々がいるようですね。
「西から」の仏教伝来も、戦前の朝鮮・百済と天皇家のつながりを優先したいがため、いわゆる「仏教伝来」よりも古い石仏が東北で発見されても、「特殊な例」としてその事実を直視しようとはしません。
わたしが好きでときどき書いている刀剣についてですが、日本刀(湾刀)が発明されたのは東北や関東であり、それが東から西へと伝播していったと解釈されるようになったのは、ようやく1970年代ごろからのことです。
目の前の史的な事実や成果を、「見なかったこと」「なかったこと」にする歴史学者が多すぎると感じます。
by ChinchikoPapa (2012-03-19 00:33) 

ChinchikoPapa

御光堂(pulin)さん、コメントをありがとうございます。
わたしは、誰が埋葬されているのか興味津々なのですが、興味ない人のほうが圧倒的に多そうですね。w むしろ、宮内庁は圧倒的な無関心をこそ怖れるべきなのに・・・と思うのですが、そういう感覚や危機感が昔からほとんどない役所のようです。
あと、発掘された高句麗(北朝鮮)様式の高松塚古墳について、きちんと高句麗古墳との比較研究をしてほしいです。チマチョゴリ風の衣類をまとった、いまやカビだらけの女性像(意図的に朽ちさせているんでしょうか?)に関心が向きがちですけれど、古墳の天井に描かれた天空星座はいわゆる「日本の夜空」ではなかったはずです。そのあたりも、北朝鮮古墳の星空の描写との比較は不可欠だと思うのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2012-03-19 00:55) 

ChinchikoPapa

浴恩館公園よさそうですね、行ってみたくなりました。『次郎物語』もなつかしいです。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 01:19) 

ChinchikoPapa

『Kwanzaa』はジャケットも初見でした。どんなサウンドなのでしょうね。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 01:22) 

ChinchikoPapa

なんだか、身体があとで内側からポカポカと温まりそうなメニューですね。
nice!をありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 01:24) 

ChinchikoPapa

『あっしが乾燥ワカメだったころ』は、けっこう面白かった記憶がありますよ。
nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 01:27) 

ChinchikoPapa

わたしも、このところパフェが食べたくて仕方がないのです! 神田のフルーツパーラー「万惣」が店じまいをするので、さっそく食べに出かけたのですが、長蛇の列で断念しました。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 01:30) 

ChinchikoPapa

ウォータータンクのようなデザインの、サイロ状の塔はなんなのでしょう。鉄梯子が付いているところをみますと、やっぱり水道タンクなのでしょうか。nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 01:34) 

ChinchikoPapa

青紫色の東京タワーは、まだ見てません。今度、暗くなったら意識的に探してみます。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 01:38) 

ChinchikoPapa

わたしの知っている双生児たちは、いずれもずいぶん性格や趣味が異なります。二卵性と一卵性に関係なく、顔つきはそっくりでも差異が目立つケースもあるみたいですね。nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 01:42) 

ChinchikoPapa

うちは20年来、井筒ワインの大ファンで、ときどきロゼを箱ごとダースで取り寄せることがあります。nice!をありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 01:45) 

ChinchikoPapa

きょうはわたしも、ちょっと食べすぎです。こんな夜中になっても、まだ満腹感が抜けないので、寝ないで起きています。w nice!をありがとうございました。>HAtAさん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 01:47) 

ChinchikoPapa

昨年、東芝(ライテック)がついに白熱灯の生産を止めましたね。明治期からですから、ずいぶんライフサイクルの長い製品だったと思います。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 01:51) 

ChinchikoPapa

サリン事件の朝、わたしは飯田橋にいて南北線や有楽町線の改札前をすぎるとき、いつもとちがう緊張感や慌ただしさ、ざわめきを感じました。2線とも永田町を通過するので、駅員たちは非常な危機感をおぼえていたんじゃないかと思います。10時少し前ごろだったでしょうか。5~6分後、会社に着いてTVのスイッチを入れ、初めて事件をしりました。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 13:27) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 13:28) 

ChinchikoPapa

よさそうな絵本ですね。うちの子どもたちのために、買ってあげたくなります。nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
by ChinchikoPapa (2012-03-19 14:28) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2012-03-26 23:43) 

ChinchikoPapa

少し前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2012-03-26 23:43) 

うつぎれい

数日前の巨大サークルの記事のリンクを辿って一年以上も前に書かれていたこの記事に遭遇しました。
隣りの長崎地区に比べると遥かに規模の大きい、連鎖的な谷戸集落地域だったろう目白崖線というのは、考えてみれば遺跡が多数出土して当然の場所なのだったろうと、この記事を読んで漸く気付きました。
「落合町誌」が昭和や大正・明治・江戸時代どころか、考古学的古代史にまで分け入るのだとは気付いてなかったので、ちょっと驚かされました。

大きな間違いを犯しているのが既に明らかな宮内庁と、その見解に与してることで大学等の地位を得てる御用歴史学者の類が、自ら改心してそれを正すなどということは ( 自分で自分の首を絞めることになるので ) 見込み薄・・・どころか、元から有り得ないので、お上が変わるのを大人しく待つという日本人の姿勢は本質的に駄目で、出来る筈の改革をわざわざ出来なくしてる元凶なのだと思います。

旧勢力の説を少しずつ突き崩して新しい説を徐々に認めさせてゆくという方法は、可能な限りは旧説にしがみついて間違いをなかなか認めずに、既にとっくの昔から間違っていて、ただ砂上の楼閣の如き自分たちの権威とそして地位を維持したいだけのためにそうしてる連中が、自分たちが退官するまでは変わりっこない・・・というのは元から言わずもがなです。

従って有効な方法は唯一つであり、旧来の権威が考えを改めるのを待つのではなく、「この指とまれ!」方式で新しい牙城を民間で立ち上げ、旧勢力のひしめく学会ではなくインターネット上で堂々と旗揚げして、そこに証拠と新説を結集し整合させて総てを公開で論証してゆき、日々刻々、旧勢力の全体 ( むろん宮内庁と御用歴史学者を含む ) に大恥をかかせて、マスコミもがそれに便乗して来るような状態を社会に作り出し、旧勢力の全体を追い落として放逐するしかないのです。

つまり元々対立してる旧勢力の牙城である、学会とか宮内庁とかに認められて初めて成功・・・という日本人特有の控え目で穏当なやり方を改めて、本気の攻撃をしかけて勝つしか、状況を変える方法は無いのです。

ここから一寸大変な話に入りますので、このブログにとって不味かったらここから先を削除して下さい。

現在の明治政府が始まって以来の学術性無視の宮内庁と御用歴史学者の方針というのは、色々な事から考えて、恐らくは例の鹿島晟氏だったかの言うように、明治の元勲といわれる人々が明治維新直前に天皇家そのものを、全くの偽者である「萩の大室家の後妻の連れ子」だった天皇家とは何の血縁も無い大室寅之輔という「瀬戸内の海賊の孫」を、明治天皇として擁立することで、そっくり偽物の天皇家とスリ替えてしまい、そのまま偽物の血筋を天皇家の血筋として奉って明治政府を権威付けして来た訳です。
そしてその事実を隠し続けつつ、それでもなお天皇という存在の見せ掛けの権威だけは何としても絶対的にしておきたいが為に、古代の歴史的事実と天皇家の権威に少しでも差し障るような事を、日本の民衆全体には一切知って欲しくない、要するに国民全体を何時までも・・・というよりは既に可能な限りは・・・ツンボ桟敷に置いておきたい為に、宮内庁と御用歴史学者たちが自ら姑息にも目隠し役となってる・・・という事でしかないと思われます。

私の聞いてる話では「天皇陛下」というのは元々「天皇」そのものを指す言葉ではなく、「陛」とはキザハシつまり階段の意味であり、明治以降の天皇にわざわざ「陛下」と付け足しているのは、「天皇の階段の下に居る者」の意味で、実は本物の天皇ではない明治天皇に対して伊藤博文あたりが「お前は本物の天皇ではない」ということを日々思い起こさせる為にそう呼んでいたものが、そのまま現在も続いているという解説です。
このことに「天孫降臨」を根拠にして異説が有り得るのは判っていますが、天皇という言葉自体が降臨した後の統治者を指す言葉であり、天の神を指してるワケではないので、その「階段の下に居る者」の本当の意味が「神の階段の下に居る者」の意味でないのは確かでしょう。
まあ明治天皇がそもそもスリ変えられた偽物であるならば、大正・昭和・平成と続く系譜もまた偽物でしかないということになるので、当然でしょう。
実際に、明治天皇以前の天皇もが天皇陛下と呼ばれていたなどとは、少なくとも私自身はこれまで一切聞いたことがないので、この話は無視出来ないと考えます。
但し今ではこの程度の話は、学研の「天皇家の秘密」なんていう「やや子供向けの単行本やムック本」にも書かれている内容なので、それほどヒソヒソと気を遣って話さなければならない話ではない筈です。
日本人特有の事なかれ主義が、こうした話の大半を封じ込んで自己規制してしまっているだけのことで、今では特別高等警察なんてトンデモないモノももう無いので、自粛して巨大な公然のウソを見過ごし続けることの方が、むしろ間違った態度ではないかと思います。

実際、上の話をしようとして宮内庁に直接電話を掛けてみると、宮内庁では色々な人に電話が代わった挙句、「そのような話は全く存じませんので、一切お答えしかねます」としか言わず、つまり何ひとつ反論さえしては来ず、そしてこちらが電話をかける際、「184」を最初に押して番号非通知にするなんてことを神経質にしなくとも、その後、公安警察らしき人物に後を着け回されるなんて事も、別に起きたりはしないのです。

話を戻しますが、考古学つながりでこちらにもリンクを張らせていただいた、例えば「恐竜考古学?」の分野に於きましても、昔々ロバート・バッカーやジョーン・オストロームらがそれ以前までの冷血動物説を覆す恐竜温血説を唱えた時も、アルバレス父子が巨大隕石による恐竜絶滅説を唱え始めた時も、そしていま私自身がETによる度重なる地表生物実験研究による地上生物の完全絶滅とパレットセットによるその後の選択された生物種の植え付けが「地球上の地質時代と先史時代に於ける大絶滅とその後の爆発的生物放散現象の真の原因だ」説を唱える時にも、そうした説が旧い説に取って代わる為には、旧説を遠慮なく叩き潰すべく「この指とまれ!」で新しい考え方の牙城を新規に旗揚げして、それに賛同する若い世代をそこに参集させるしか、真実が間違いに取って代わる方法は無い・・・のだと思います。

余りの長文、失礼致しました。
長々とここまで読んでいただいて誠に有難うございます。

でわ、この辺で・・・。


by うつぎれい (2013-09-27 12:52) 

ChinchikoPapa

うつぎれいさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
明治政府が成立して以来、幕末の「国学」も含めても、たかだか100年ほどの間に成立した「日本史」(関西史)による皇国史観で、この「日本」という国のアイデンティティがどれほど歪められ、貶められているかは、多角的な科学(自然・人文)の検証から、すでに回答が出ていると思います。明治政府による、古来からの“日本の神殺し”(神社合祀令)も象徴的ですね。
わたしの父祖代々が暮らした地域とその歴史を、中国や朝鮮半島の思想あるいは史観をそのまま剽窃して、こともあろうに「坂東夷」(少し北側は東北蝦夷)などと蔑視して呼称し、「日本」の歴史へ「自虐的」に泥を塗りつづけてきた近畿圏の勢力、あるいは明治政府による破産した大日本帝国のウソを、ひとつひとつ潰していくのが江戸東京地方を地場にする、わたしの視座であり、表現する場合は、わたしの“役目”のひとつだと感じています。
自然科学の分野からは、1960年代にスタートした東京大学病院による形質人類学からのアプローチをはじめ、血液学による白血球の因子研究、ウィルス学(1980年ぐらいまでは生物学範疇)の分野における肝炎ウィルスの列島分布研究、遺伝子学のSTS研究・・・等々から、すでに答えは明らかで、日本列島には大きく分けて人種レベルの適合進化からして異なる、ふたつの人びと(新モンゴロイド系民族と古モンゴロイド系民族)が存在しています。すなわち、概要的にくくれば九州へ上陸し「東征」したと思われる、朝鮮王権の一族が植民地化した近畿圏(ナラとその周辺域)と、それ以外の「原日本」列島の各地域です。
わたしは、「それ以外の日本列島の各地域」のひとつである坂東(関東)に根をおく人間、すなわち原「日本人」ですから、残念ながら皇国史観によってこの地域の「日本人」を蛮族視し蔑視する「日本史」(関西史)を、「はい、さようですか」と素直に受け入れるわけにはいきません。ましてや、朝鮮の「三国史記」を明らかに模倣・踏襲した記紀(最近は後世の偽書だという説も出始めていますが)の、ご都合主義的で「神話」的ウソの記述を、「ふむふむ、な~るほど」などと納得するわけにもいきませんね。
ひとつ残念で哀しいことは、明治から戦前まで100年このかた、徹底した「皇民化」教育・洗脳の成果でしょうか、「それ以外の日本列島の各地域」に住んでいる人びとが、「都」から遠く離れた「僻地」のような目でしか、自身の地域をとらえられていない、あるいはなにかというと近畿圏との関係を強調しありがたがって、自身の地域を「隷属的」ないしは「自虐的」に貶めていることに気づかない・・・ということです。
残念ながら、「坂東夷」と呼ばれている江戸東京地方のわたしは、「日本史」(関西史)の特に古代史については、「おきゃがれてんだ(寝ボケたこと言うな)」の立場ですからw、あらゆる今日的な科学的成果を通じて、徹底的に批判・否定していきたいと思っています。これは、日本を「亡国」一歩手前までミスリードしていった、明治政府とそのなれの果てである軍国主義の大日本帝国による「亡国」思想を否定する視点と、同一線上あるいは同一レイヤ上のテーマ・・・ともいえるかもしれませんね。
現天皇が、記者会見で三国史時代の朝鮮・百済とのつながりについて言及していますが、これは桓武以降の新しい時代のことであって、それ以前には別の半島諸国との(親戚的な)繋がりが濃密だった王権時代があるはずです。朝鮮半島における王権の変動や情勢が、直接的に近畿勢力の地図をも塗り替えていた、より古い時代の動向ですね。
北朝鮮(高句麗)様式の高松塚古墳のみならず、それらの物証は多くの「天皇陵」とされる古墳にも眠っているのかもしれませんが、「日本史」のコペルニクス的な転換を怖れていると思われる宮内庁は、いまのままでは当分、発掘を許可しないのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2013-09-27 17:40) 

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