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ナルプ崩壊に居あわせた上落合の平林彪吾。 [気になる下落合]

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 ときに、落合地域は戦前戦後を通じて街角ごとに、洋画・日本画を問わず画家や彫刻家などの美術関係者が暮らし、街全体が「美術町」ではないかと思うことがある。ここで記事にしてきたのはほとんどが洋画家だが、落合地域に住んだ美術家たちの10分の1も取りあげていないのではないかと感じている。なぜなら、「下落合風景」Click!を描いていない画家たちは、拙サイトの趣旨としては基本的に取りあげにくいからだ。
 だが、それに輪をかけて多いのが小説や詩、短歌、俳句などを創作する文学関係者だ。特に上落合は、数軒おきに文学関係者が住んでおり、特にプロレタリア文学に関していえば昭和初期にはみんな「隣り同士」だったのではないかとさえ思えてくる。いや、プロレタリア文学に限らず、戦後も落合地域には文学の香りが強く漂っている。大正期の文士たちから、岩井俊二が『Last Letter』(2020年)で描く上落合の作家・乙坂鏡史郎(福山雅治Click!)にいたるまで、取りあげ出したらキリがないのだ。w
 たとえば、下落合の北隣りにあたる長崎地域にあった各種アトリエ村Click!に住む画家たちをモデルに描いた、『自由ヶ丘パルテノン』(1949年)を書いて戦後にベストセラー作家となった堀田昇一Click!は、1960年代の半ばに自費出版していた復刊文芸誌「槐(えんじゅ)」に、こんなことを書いている。2009年(平成21)に図書新聞から出版された、松本眞『父平林彪吾とその仲間たち』から孫引きしてみよう。
  
 路地の奥のつきあたりに山田清三郎Click!の家があった。その東隣りは最勝寺というちょっとしたお寺と、その墓地になっていた。(中略) 山田の家と同じ並びに「鶏飼ひのコムミユニスト」をかいた故平林彪吾Click!がいた。また近くに「貧農組合」の作者細野孝二郎Click!がいた。さらに三・四軒はなれたところに戦旗社関係の詩人野川隆と広沢一雄がいた。そしてかくいう堀田昇一もまた平林彪吾と隣合せていた。/僕のいた家の前のだらだら坂を下りて、中井駅の方へ曲る、崖の下の家に詩人の森山啓Click!がいた。漫画家の加藤悦郎Click!がいた。いまと違って、どこか鄙びた閑散たる田園的おもかげのあった中井駅のあたりには、黒島伝治Click!らと一しょに「文芸戦線」を脱退した宗十三郎がいた。……ジグザグの道を通って作家同盟へはいって来た那珂孝平がいた。また少しはなれたところには本庄陸男がいた。また詩集「南京虫はうたう」の詩人の新井徹がいた。その近くには、上野壮夫Click!小坂たき子Click!などもいた。
  
 上落合の街角の、ごく一画さえ切り取ってもこの密度なのだ。もちろん、最勝寺Click!界隈から中井駅へ出るまでの間には、堀田昇一が触れていない付きあいのなかった、プロレタリア文学以外の文学者たちも数多く住んでいたはずだ。
 いままで、これらの文学者たちをできるだけ登場させるように記事を書いてきてはいるが、まったく触れずにきた人々も少なくない。昭和初期の数年間だけ取りあげても、上記のような密度で文学関係者が住んでいたのだから、少しタイムスパンを長めに時代を拡げてとらえてみると、とんでもない人数になるのがおわかりいただけるだろうか。わたしが死ぬまで書きつづけたとしても、個々の画家や文学者たちひとりひとりの人物像や落合地域における軌跡を、いくつかの記事に分けてアップするのはとうてい不可能なことなのだ。
現代文学の発見第6巻「黒いユーモア」1969学藝書林.jpg 平林彪吾「鵜飼ひのコムミュニスト」1985三信図書.jpg
平林彪吾「月のある庭」1940改造社.jpg 平林彪吾.jpg
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 さて、今回は文中に登場している平林彪吾(松元實)について書いてみたい。学藝書林から出版された『現代文学の発見』Click!シリーズの第6巻「黒いユーモア」(1969年)を、1970年代後半に大学生協で買って読んでいたわたしは、平林彪吾の『鶏飼ひのコムミユニスト』は早くから接していた作品だ。平林彪吾が住んでいたのは上落合(2丁目)791番地、最勝寺Click!墓地の西側にあたる一画で、上落合(2丁目)783番地の「サンチョクラブ」の置かれた加藤悦郎宅Click!には、周辺に住む小説家や詩人、画家たちが参集していた。
 平林彪吾というと、1935年(昭和10)に改造社の「文藝」に入選した『鶏飼ひのコムミユニスト』をはじめ、武田麟太郎Click!が主宰し反戦・反ファシズムを掲げて民主主義を標榜する作家たちや、弾圧されつづけた左翼作家たちに誌面を提供した、まるでのちの人民戦線の作家版のような「人民文庫」での作品群が思い浮かぶ。彼の文学仲間には下落合の矢田津世子Click!をはじめ、細野考二郎、亀井勝一郎Click!、上落合の上野壮夫Click!小坂多喜子Click!、画家の飯野農夫也Click!などがいた。だが、筆名を「平林彪吾」にする以前、彼は松元實の本名などで作家活動をしており、上落合に転居してくる前年の1929年(昭和4)には日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)Click!に加入している。
 上落合への転居は、翌1930年(昭和5)10月で、上落合791番地の同じ地番には隣家の堀田昇一や、路地奥には山田清三郎が住んでいた。上落合の借家は、堀田昇一宅と似たような造りで、その家の様子を松本眞『父平林彪吾とその仲間たち』から引用してみよう。
  
 上落合時代、六畳に四畳半、三畳、殆ど同じ間取りの長屋であった。第三回プロレタリア作家同盟大会では、(堀田昇一は)父と共に執行部を糾弾、以後、同盟解散に至る混迷の四年間、志を共有した隣人として住む。常に、運動にはまともに取り組むが、いつしか組織の歪みに突き当たる。理論は正しくとも、組織は所詮、矛盾を抱えた人間の集まりであった。(カッコ内引用者註)
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 上落合時代の松元實(平林彪吾)は、日本プロレタリア作家同盟の「官僚化」した執行部をめぐる確執が激化した第3回の大会で、鹿地亘Click!や山田清三郎、川口浩Click!らが執行部から除外されたのに対し、堀田昇一や本庄陸男らとともに批判の先鋒として抗議の声をあげている。結局、小林多喜二Click!の仲裁的な提案により、新しい方針書を中野重治Click!が取りまとめることで大会は終了したが、特高Click!による激しい弾圧と執行部内の確執で、松元實(平林彪吾)はナルプの崩壊期に立ちあうことになった。
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 この間、松元實(平林彪吾)はナルプの「文学新聞」や、「プロレタリア文学」への執筆を中心に活躍するが、家庭には生活苦がついてまわり、信子夫人はついに絵画の勉強をあきらめて銀座のバーへ勤めにでている。そんな状況の中、「文藝」(改造社)の第1回懸賞小説に応募するが、彼の『南國踊り』は選外になってしまった。そして、ナルプ解散声明の直後、松元一家は上落合から下十条へと転居している。
 1930年(昭和5)10月から1934年(昭和9)6月まで、およそ4年間を上落合ですごした松元實(平林彪吾)だが、特高による弾圧激化や築地署における小林多喜二の虐殺Click!、そして家庭の生活苦などがつづき、よい思い出が少ない上落合時代だったのではないだろうか。上落合から離れた翌1935年(昭和10)、「文藝」の第2回懸賞小説に応募した『鶏飼ひのコムミユニスト』が入選し、本格的な作家活動をスタートすることになる。この間の詳細は、松本眞『父平林彪吾とその仲間たち』に詳しく、著者は実際に上落合にも足を運んでいるので、興味のある方はぜひ同書をお読みいただきたい。
 『鶏飼ひのコムミユニスト』は、ナルプの仲間だった詩人・大導寺浩一から勝手に自分をモデルにして書いたと抗議を受けたため、中野重治Click!に調停を依頼するが1年近くもゴタゴタがつづくことになった。だが、落合地域における同じようなシチュエーションはほかにもあり、『鶏飼ひのコムミユニスト』を「山羊飼ひのアナアキスト」に変換して、途中の「文学者同盟」での細かな出来事を別にすれば、ちょうど同時代に落合地域を転居していた詩人・秋山清Click!の生活に多くの面で当てはまるだろうか。
 秋山清は、下落合から葛ヶ湯(現・西落合)への転居をへて、上落合の落合火葬場Click!裏の丘(上高田の寺町)斜面にあった「乞食村」Click!に接する、功雲寺(萬晶院)の墓地裏でヤギ牧場を開業しており、「藪の入口には乞食たちが住んで」いたことになっている「小田切久次」(『鶏飼ひのコムミユニスト』の主人公)の生活環境と酷似している。「小田切久次」は、「乞食たち」と竹藪をめぐって緊張関係にあったが、アナーキスト詩人の秋山清は「乞食村」の子どもたちにヤギの乳を無償で配り、そのお礼として「裕福」な「乞食村」が設置した共同浴場を自由に利用させてもらっている。
 特高や憲兵隊の弾圧が苛烈さを増した1930年代前半、執筆だけではとても食べてはいけないので、家禽や家畜を飼って飢えをしのぐ秋山清や「小田切久次」のような人物は、落合地域に限らずほかにも大勢いただろう。上落合(1丁目)186番地に住んだ村山籌子Click!は、シェパードClick!を何頭が飼ってブリーダーのような仕事をしており、陸軍への寄付用として売りつけたのだろう、下落合(4丁目)2108番地の吉屋信子Click!に押し売りしてイヤな顔Click!をされている。大正末から昭和初期にかけては、ニワトリClick!ハトClick!、ウサギ、イヌなどを投資目的で飼育する事業が大ブームになっていたころだ。
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 平林彪吾は新聞や雑誌への執筆も増え、作家活動がようやく軌道にのってきた矢先に急死する。1939年(昭和14)3月末、武田麟太郎と浅草で飲み歩いている際、ドブに転倒して大腿部にケガをした。手当てをしなかったのが災いし、1ヶ月後の同年4月28日に敗血症で死亡している。作家としては本格的な活動がこれからという時期、まだ37歳の若さだった。

◆写真上:上落合(2丁目)791番地の、平林彪吾一家が住んでいたあたりの現状。妙正寺川へと下る北向きの河岸段丘斜面で、この坂道を下りて右へいくと、ほどなく落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)をへて中井駅に着く。
◆写真中上上左は、1969年(昭和44)出版の『現代文学の発見』第6巻「黒いユーモア」(学藝書林)。上右は、1985年(昭和60)出版の平林彪吾『鶏飼ひのコムミユニスト』(三信図書)。中左は、1940年(昭和15)出版の平林彪吾『月のある庭』(改造社)。中右は、平林彪吾。は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる上落合791番地界隈。
◆写真中下は、1928年(昭和3)に撮影された最勝寺の山門。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合791番地界隈。は、1940年(昭和15)ごろ斜めフカンの空中写真にみる同界隈で、すでに新たな住宅が建ち並んでいるのがわかる。
◆写真下上左は、1936年(昭和11)に発行された武田麟太郎主宰のファシズムに抗した「人民文庫」6月号(人民社)。平林彪吾をはじめ高見順Click!矢田津世子Click!円地文子Click!秋田雨雀Click!大谷藤子Click!上野壮夫Click!小坂多喜子Click!らが執筆している。やがて、特高の検閲により次々と発禁処分になっていくが、ちょうど現在の中国やロシアにおける作家やジャーナリストなど反戦・民主主義勢力を結集したような(半地下)文芸誌だった。上右は、2009年(平成21)に出版された松元眞『父平林彪吾とその仲間たち』(図書新聞)。は、平林彪吾(松元實)とまだ幼い『父平林彪吾ととの仲間たち』の著者・松元眞。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる上落合2丁目791番地界隈。


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