伊藤千代子がことぞかなしき。 [気になる下落合]
歌人で国文学者の土屋文明は、これまで二度ほど拙ブログの記事に登場している。最初は、諏訪高等女学校の記念写真で清水多嘉示Click!や平林たい子Click!とともに写る土屋文明Click!であり、二度めは佐伯祐三Click!の田端駅周辺での足取りを追いかけた記事で、芥川龍之介Click!との交友における土屋文明Click!だった。
1922年(大正11)3月、諏訪高等女学校の卒業式で撮影された記念写真が残っている。上段の右にいるのが、同年4月より松本高等女学校の校長に就任する予定の土屋文明で、上段の左側にいるのがもうすぐ下落合の中村彝Click!のもとへ立ち寄り、『下落合風景』Click!を制作することになる美術教師の清水多嘉示Click!だ。そして、清水多嘉示のすぐ前にいる少女こそが伊藤千代子だ。
土屋文明は、1924年(大正13)に長野の木曽中学校校長を辞して(赴任を拒否したとする資料もある)、東京帝大を卒業して以来再び東京へやってきて、小石川区上富坂13番地のいろは館に宿泊しながら法政大学文学部講師の職を見つけている。この間、伊藤左千夫忌や正岡子規忌、長塚節忌、山本信一忌などの歌会に参加したり、短歌誌「アララギ」への寄稿をつづけ平福百穂や岡麗、斎藤茂吉Click!、芥川龍之介Click!、武藤善友、菊池寛Click!らと交流している。そして、1925年(大正14)10月ごろ、芥川龍之介の紹介で田端500番地に転居し、当時は足利で暮らしていた妻と子どもを呼びよせている。
翌1926年(大正15)7月、土屋一家は下落合1501番地の落合第一府営住宅Click!へと転居してくる。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」には、落合第一府営住宅の「二十」号に「土ヤ」の名前が採取されている。郵便のあて名は、番地を書かなくても「落合府営住宅1-20号」でとどいただろう。当時の府営住宅Click!は、自邸を建設するための積立資金制度がメインだったので、20号に自邸を立てた家主が都合で転居して貸家にしていたか、あるいは自邸を手放したあとに土屋文明一家が入居していると思われる。
さて、1922年(大正11)3月に諏訪高等女学校を卒業した伊藤千代子は、故郷の諏訪で一時的に代用教員をつとめ、つづいて仙台の尚絅女学校英文予科で学んだあと、1925年(大正14)に20歳で東京女子大学の英語専攻部へ編入している。このとき、田端あるいは下落合にいた恩師の土屋文明を訪ねたかどうかは不明だが、諏訪高女時代に白樺派や大正デモクラシーの雰囲気を身にまとった教師の彼から、強いインパクトを受けたのはまちがいないだろう。土屋は、同女学校で英語と国語、それに修身を教える教師だったが、伊藤千代子が英文科あるいは英語の道へ進んだのを見ても、多大な影響を受けたとみられる。
土屋文明の思想性について、1961年(昭和36)に南雲堂出版から刊行された近藤芳美『土屋文明―近代短歌・人と作品―』が、端的に表現しているので引用してみよう。
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思想の形成期は大正初年、一次大戦と重なるデモクラシーおよびヒューマニズムの移入の時である。その世代の知識階級の大半と同じように、彼の「思想」の骨格をなすものは自由主義的ヒューマニズムともいうべきものであったのだろう。「白樺」の青年文学者らと共通する清潔な理想主義が彼の文学と人生の考え方のどこかにはある筈といえよう。彼の世代の一人、芥川竜之介はその思想の限界に立った時に自殺しなければならなかった。「新思潮」の旧同人久米正雄らは懶惰な遊民リベラリストとして堕落して行った。茂吉は熱狂的な戦争歌人となり、中村憲吉は東洋閑寂の世界にこもる趣味詩人となった。その中で、土屋文明だけがなお、自己の「思想」の限界を知りながら、時代と、時代に生きる人間の苦しみとを執拗に歌いつづけていたのは何によるものなのであろう。
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土屋文明が、青春時代に身にまとった自身の思想性と、世の中の矛盾に対するその「限界」を十分知りつつ、歌作をつづけていた動機がなんであるにせよ、「アララギ」に寄せられた批判に対しては、斎藤茂吉のように嫌悪感や憎悪をむき出しにして感情的に罵倒することもなく、ほとんど沈黙したまますごしている。
一方、東京女子大学へ進んだ伊藤千代子は、土屋文明から学んだ「自由主義的ヒューマニズム」では、当時の社会矛盾や課題がまったく解決できないことを痛感していく。その「限界」を飛び越えるために、彼女は左翼運動に身を投じることになった。東京女子大へ入学したその年、彼女はふたりの友人を誘って社会科学研究会をつくり、『空想から科学へ』や『資本論』を読みはじめている。彼女がめざした「変革」とは、現代ではあたりまえな主権在民(当時の女性には選挙権さえなかった)と社会的平等の実現だった。
土屋文明から影響を受けた伊藤千代子がめざしたのは、今日から見れば自由主義的民主主義思想ととらえることが可能だろうが、治安維持法に反対して腐敗した政党政治を否定し、軍国色が強まりはじめた昭和初期の流れへ主体的に抵抗するには、左翼活動の道しか残されていなかったところに彼女の悲劇があるのだろう。
1928年(昭和3)の「三・一五事件」Click!の朝、伊藤千代子は滝野川の路上で特高Click!に逮捕され、のちに築地署で小林多喜二Click!を虐殺する毛利基Click!警部の凄惨な拷問を受けることになった。収監された市ヶ谷刑務所は、特に食事が粗末でひどかったらしく、彼女は拷問によるダメージに加え徐々に身体を壊し衰弱していく。それでも、気丈な手紙を家族あてに書いて出しながら、保釈されて活動にもどれる日を待ち望んでいたとみられる。
同年8月、伊藤千代子は獄中で意識不明の重体となり病院へ移送されている。この病院は、のちに今野大力Click!がやはり重体になって送られた、陸軍軍医学校Click!の下部組織化していた済生会病院Click!ではないだろうか。市ヶ谷刑務所の刑死者慰霊碑から戸山ヶ原Click!の同病院までは直線距離で800mほどの距離だが、そこでは満足な治療を受けられなかったという証言が残っている。特高の取り調べの夢でもみるのか、「嫌だ、知らない」と叫んだり、「先生(土屋文明)のところへ行きたい」とうわごとでつぶやいたりしている。同年9月24日、伊藤千代子は釈放されないまま急性肺炎になり、24歳で死亡している。
三・一五事件Click!は、マスコミにはいっさい伏せられていたため、土屋文明は教え子の死をしばらくは知らなかった。1928年(昭和3)ごろの土屋文明は、下落合でどのようなことを思い暮していたのだろうか。近藤芳美の『土屋文明』から引用してみよう。
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(『往還集』の)作品の中に、その現実直視の歌い方に関わらず、しだいにペシミズムの影が濃くなって来ている事に気付く。それを暗い時代の到来の予感と結びつけて考えることは出来ないだろうか。相次ぐ思想弾圧の日、文壇は大正の末年から昭和のはじめにかけてほとんどプロレタリア文学の一色におおわれていた。その時代の中で「あやまたず一世を終へる」と歌い、その願いを「いやし(卑し)」と知ってつぶやく一人の言葉が、土屋文明の作品に今保ちつづられている姿勢であり、さらに彼の生涯の文学をつらぬく抜きがたい性格だといえない事はない。ひそかなペシミズムは、保身の思いと共に常に影のようにまつわりながら戦争に至る後々の作品につづいて行くのである。(カッコ内引用者註)
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土屋文明が、教え子の伊藤千代子の死を知ったのがいつなのかはハッキリしないが、少なくとも1935年(昭和10)には「亡父七年」と「四十六歳」につづき「某日某学園にて」を歌っているので、それ以前に知っていたのはまちがいないだろう。当時、土屋文明は斎藤茂吉から『アララギ』を任され責任編集者になっていた。
1942年(昭和17)に創元社から出版された土屋文明『六月風』収録の、「某日某学園にて」から全6首を引用してみよう。
語らへば眼かがやく処女等に思ひいづ 諏訪女学校にありし頃のこと
清き世をこひねがひつつひたすらなる 処女等の中に今日はもの言ふ
芝生あり林あり白き校舎あり 清き世ねがふ少女あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを 囚へられ獄に死にき五年がほどに
こころざしつつたふれし少女よ 新しき光の中におきておもはむ
高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき
土屋は、日中戦争が激しさを増した1937年(昭和12)ごろ、歌集『小安集』の中で「時代の終に生れあひたりと 繰りかへしいく人かに話しつ」と歌ったが、それは「時代の終」などではなく国家の滅亡という、未曽有の危機を迎える「亡国」の予兆にすぎなかった。
土屋文明が、田端から下落合の落合第一府営住宅20号へ転居してくるのとほぼ同時期に、落合町葛ヶ谷482番地(現・西落合3丁目)へやはり諏訪高等女学校時代の教え子のひとりだった平林タイ(平林たい子Click!)が引っ越してくるのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:下落合1501番地の、第一府営住宅内にあった土屋文明邸跡の現状(左手)。
◆写真中上:上は、1909年(明治42)ごろに撮影された記念写真で後列の右端が土屋文明、手前の杖を手にした人物が伊藤左千夫で後列の左端が斎藤茂吉。中は、1924年(大正13)に撮影された諏訪高等女学校の卒業写真で、清水多嘉示の前に伊藤千代子がいる。下は、土屋文明(左)と東京女子大学に入学したころの伊藤千代子(右)。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる落合第一府営住宅の土屋文明邸(地図中では「土ヤ」)。中は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる土屋邸。下は、土屋文明(左)と東京女子大4年生の伊藤千代子(右)。
◆写真下:上左は、1942年(昭和17)に出版された土屋文明『六月風』(創元社)。上右は、1961年(昭和36)に出版された近藤芳美『土屋文明―近代短歌・人と作品―』(南雲堂出版)。下は、戦時中の疎開先だった群馬県吾妻郡原町川戸の土屋文明。
2022-07-06 23:59
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コメント(2)
伊藤千代子と土屋文明、忘れがたい歌人、というより忘れがたいヒューマニストでした。
それだけに、
>「嫌だ、知らない」と叫んだり、「先生(土屋文明)のところへ行きたい」とうわごとでつぶやいたり
という苦痛を強いられる24歳は、痛ましい限りです。
ずっと以前「ひなせの詩歌 第三回 土屋文明の歌、の巻」(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2016-03-04)という記事で、地元岡山県の「日生」にちなんだ文明の歌を糸口に、伊藤千代子にも触れたことがありました。
by kazg (2022-07-14 19:04)
kazgさん、コメントをありがとうございます。
土屋先生による諏訪高女の「英語」の授業は、おそらく女学生が自身の置かれた状況と理想との大きな乖離に気づく、大正デモクラシーを背景に衝撃を受けるほどリベラルな内容だったのかもしれませんね。
ほかにも、土屋文明に大きく影響を受けた女学生が、諏訪の地元にはいたはずです。その中に平林タイ(たい子)がいますけれど、ほかの女学生がどのような軌跡を描いて生きてきたのか、たどってみたい気がします。
満州事変以降の、「アララギ」における斎藤茂吉と土屋文明の作品を対比させると、「アララギ」の存在意味がかろうじて土屋文明によって保たれていたように見えてしまいます。
by ChinchikoPapa (2022-07-14 21:33)