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いろは牛肉店の木村荘八とその周辺。 [気になるエトセトラ]

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 拙ブログでは木村荘八Click!について、岸田劉生Click!との関連などでいろいろ書いてきたが、それは同店が明治期に、わたしの実家のご近所Click!だったせいでもある。日本橋吉川町(両国広小路/現・東日本橋2丁目)に、有名な「第八いろは牛肉店」Click!(牛鍋店)があったからで、日本橋米澤町の実家とは直線距離で150mほどしか離れていない。
 木村荘八Click!の父親で創業者の木村荘平は、1906年(明治39)に67歳(数え歳:以下同)になると芝浦の自邸(芝浜館)で病没しており、跡を継いだ2代目・木村荘平(長男・木村荘蔵)には経営能力がなく、大正期に入るとまもなく倒産している。親父が生まれたとき、第八いろは牛肉店はとうに閉店していたはずだが、祖父母に連れられて通った親の世代からから、さまざまなエピソードを聞かされたのだろう、親父の昔話Click!の中にも両国広小路Click!の「いろは牛肉店」は幾度となく登場していた。
 だが、木村荘八Click!が日本橋吉川町で生まれた経緯や、洋画家をめざす以前の様子についてはあまり触れてこなかったように思う。吉川町の第八いろは牛肉店は、現在は東日本橋2丁目の両国広小路の南寄りにあった町だが、同店舗が建っていた跡はその後の両国広小路の大規模な拡幅工事とともに、現在は通りの下になってしまったとみられる。木村荘平は、もともと力士になりたかったほどガタイの大きな人物だったようだが、京の伏見で青物屋を開店していたところ明治維新を迎え、まもなく店が倒産してしまった。その後、神戸で製茶業をはじめたが、これもほどなく倒産している。
 1878年(明治11)に39歳になっていた木村荘平は、東京にやってきて一旗あげようと三田四国町(現・港区芝3丁目の一部)に大屋敷を借りて住んでいる。同町には、明治政府が設置した屠畜場があり、彼は官有物払い下げの動きに乗じて同施設を安価で手に入れた。江戸期より、大江戸(おえど)ではももんじ(獣肉)Click!が盛んに食べられていたが、牛は運搬や農耕に役立つ動物なので食べていない。だが、これからは牛肉を使った洋食や和食が流行るとみた、彼の思惑はみごとに当たることになる。
 屠畜場の入手とほぼ同時に、まずは三田に牛鍋屋Click!の1号店を開店した。江戸期からつづく、各種すき焼き料理Click!とは異なり、したじ(濃口醤油)ベースの出汁をあらかじめ張った鉄製鍋に牛肉を入れ、すき焼きClick!と近似した東京近郊の野菜や豆腐を入れて煮る料理法だった。店の経営は、いっさいを“2号さん”の岡本まさ(のち正妻)に任せている。そのときの様子を、1969年(昭和44)に学藝書林から出版された『ドキュメント日本人第9巻/虚人列伝』収録の、小沢信男『いろは大王・荘平』から引用してみよう。
  
 明治十一年、上京して新事業にとりかかった荘平は、さっそく三田四国町の一角に牛鍋屋をひらき、ツレアイの岡本まさに経営させた。どうせ四辺は原っぱ、屠殺場の従業員やマッチ工場の職人相手の掘立小屋みたいな小食堂だった。屋号を「いろは」と名づけた。いろはは手習い学問のはじまり、初心忘るべからず。新天地で新事業に立ちむかう荘平の、率直な決意がしのばれる。/それから二十余年、「いろは」は東京中はおろか日本中にも知られるような大店になるのだ。やはり荘平の最も成功した事業といわねばなるまい。
  
 木村荘平が死去したとき、いろは牛肉店は東京で20店舗を数えるまでになっていた。牛鍋店が流行るとともに、木村荘平には大金が転がりこみ、やがて生来の女好きから愛人を次々につくることになった。だが、彼には愛人を妾宅に囲って遊ばせておくという発想がなく、次々とできる愛人にいろは牛肉店の支店を任せていくことになる。つまり、「自分の食い扶持は自分で稼いでよね」という、まことに都合のよい“経営方針”を打ちだしていた。
木村荘平.jpg 荘平・先代まさ子・現代ひさ子.jpg
木村荘八「第一いろは」.jpg
芝浜館.jpg
 彼の死後、1908年(明治41)現在で3人の妹や愛人たちに経営を任せ、営業していた店は以下のとおりだ。すでに5店舗がつぶれるか、人手にわたっていたのがわかる。
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 この中で、第八いろは牛肉店が木村荘八が生まれた日本橋吉川町の店舗だ。同店の経営は、三田で知りあった当時はまだ16歳の鈴木という女性が切り盛りしている。第八いろは牛肉店の開店当時は、いまだハイティーンの年齢だったろう。木村荘八は、彼女の二男として生まれた。長男が木村荘太なのに、なぜ二男が「荘八」なのかというと、彼は木村荘平の正妻や愛人の間でできた子どもたちのうち、8番目に生まれた男の子だからだ。父親が死去したとき、木村荘八はまだ14歳の中学生だった。
 ところで、落合地域からいろは牛肉店の牛鍋が食べたいと思ったら、明治末では牛込通寺町(現・神楽坂6丁目の一部)の第十八いろは牛肉店が、最寄りの店ということになる。落合地域から、街道筋である現在の早稲田通りをそのまま神楽坂方面へ歩けば、3.5~4.0kmほどで同店に到着できる。たとえば、目白駅や高田馬場駅あたりからだと、当時の未整備な道筋を考慮しても、およそ歩いて40~50分前後で店の暖簾をくぐれただろう。
 余談だけれど、わたしの学生時代まで神楽坂には、いくつかの古い牛鍋屋が営業をつづけていた。座敷の2階に上がると、窓の手すり越しに神楽坂の毘沙門横丁を眺めながら牛鍋をつつくことができた。牛鍋は、すき焼きとは異なり出汁を先に張るので、薬研(やげん=七色唐辛子Click!)や山椒をかけて食べることが多かったが、中でも毘沙門天(善國寺)の南隣りにあった「牛もん」が安くて気どらず、古い建物で風情もあり好きだった。
 さて、第十八いろは牛肉店は木村荘平の愛人が経営していたか、あるいは子どもがいたのかは不明だが、つごう30人にものぼる彼の子どもたちの構成は以下のとおりだ。
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 実に男子13人・女子17人で、このうち生まれてまもなく早逝した子どもを除くと、男子11人・女子10人の息子や娘たちがいたことになる。
 木村荘平は、妻や愛人たち、それに子どもたちを養うために次々と事業を起こしていった。三田で屠畜場を経営していたのは先に触れたが、その東京家畜市場の社長をはじめ、東京諸畜売肉商(食肉店)組合の頭取、東京博善会社(火葬場)の社長、東京本芝浦礦泉会社の社長、日本麦酒醸造会社(現・ヱビスビール)の社長などなどを兼業し、はては東京商会議所議員、日本商家同志会顧問、東京市会議員、東京府会議員などまでつとめている。この中で、現在も事業が社名そのままで存続しているのは、東京に7ヶ所の斎場を運営している博善社のみだ。もちろん、上落合の落合斎場Click!も同社の経営となっている。
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木村荘八「第十いろは牛肉店」1953.jpg
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 木村荘八は、父・荘平のことを「興味が湧かず、親愛感を起さない」、「『滑稽』で『ヘンてこ』で大べらぼうClick!」(『続現代風俗帖』)と書いているが、彼が17歳になり兄の荘太が結婚すると、第八いろは店は兄夫婦が経営することになり、荘八と母親は浅草東仲町(浅草広小路)にある第十いろは店を任されることになった。
 そこには、1890年(明治23)に21歳で別荘地Click!大磯Click!に没した長女の木村栄子(曙)が住んでいた店であり、中学生の木村荘八は彼女のいた部屋をあてがわれている。そして、23歳もちがう一面識もない姉の使っていた机も、そのまま彼が受け継いだ。1953年(昭和28)に東峰書房から出版された、木村荘八『続現代風俗帖』から引用してみよう。
  
 机には曳出しが二つあると云つたが、見ると、その一方はカラで、向つて右の方だけに厚さ一寸程の黒のクロース表紙のノートと、いはゆる「唐ちりめん」のやうな小切れを菊形にはいでふつくらと綿を入れて作つた古びた肘突き(さしわたし四五寸)。この二品と、曳出しの奥に、一つまみ程、紫紺色の毛糸屑がつくねてあつた。(中略) 曙さんは手細工に奇用(ママ)だつたと伝へられたから、勿論肘突きは曙さんの手製であつたらうし、毛糸は手編みものの残りでもあらう。ノートは小説の原稿の書いてあるものだつた。/僕は僕のモノにしてから、机はよごしたし、曳出しの中は乱雑にしたけれども、三つの品物はいつも「尊敬」と「愛情」を持つて丁寧にしてゐた。毛糸屑の入れ場には困りながら、いつも別にその辺へつまんで入れておいた、その手触りも、今懐しく思ひ返すことが出来る。
  
 木村曙は、1889年(明治23)に読売新聞へ連載小説『婦女の鑑』を連載したのをはじめ、次々に新聞各紙へ連載作品を執筆するなど、明治以降に出現した女性作家の第1号だった。その活動は、同じ歳の樋口一葉Click!よりも5~6年ほど早い。
 彼女は、東京高等女学校(現・お茶の水大学付属高等学校)を出ると、フランス語と英語に堪能なため、文部省からフランス留学を命じられた女性の随行員としてヨーロッパへ留学しようとしたが、父親の荘平に反対され、浅草広小路の第十いろは店の帳簿係に就いている。その仕事の合い間に、のちに荘八が使う書机で次々と作品を執筆していたのだろう。
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 木村荘八がもの心つくころ、すでに死去した木村栄子は「曙さん」と呼ばれ偶像化されており、木村一族(おもに女性)から尊敬されていた。だが、伝説的な存在ではあっても、彼には姉としての情が湧かず、あくまでも高名な女性作家として「曙さん」を眺めている。

◆写真上:日本橋吉川町にあった、木村荘八が描く記憶画『第八いろは牛肉店』。
◆写真中上上左は、晩年の木村荘平。上右は、明治前期に撮影の左から右へ「現代ひさ子夫人・木村荘平・先代まさ子夫人」のキャプション。1908年(明治41)出版の松永敏太郎『木村荘平君伝』(錦蘭社)の掲載写真で、早い話が「愛人ひさ子・荘平・正妻まさ子」ということだ。は、木村荘八が描いた記憶画で三田四国町の『第一いろは牛肉店』。は、同町の木村荘平邸(芝浜館)に集合し木村夫妻と愛人たち(孫含む)の記念写真。
◆写真中下は、第八いろは牛肉店を描いた木村荘八の記憶画『牛肉店帳場』(1932年)。は、木村荘八の記憶画で長男の結婚で吉川町から引っ越した浅草広小路の『第十いろは牛肉店』。建物1階に、「曙女史室」の吹き出しがみえる。は、同店の居間を描いた記憶画だろうか木村荘八『室内婦女』(1929年)。新聞を読む母親と、遊びにきた近所の少女と外出するのか髪を結いなおす妹(士女)を描いているのかもしれない。
◆写真下は、前出の『木村荘平君伝』に掲載された第八いろは牛肉店の写真だが暗くてよくわからない。中上は、木村一族の長女で明治最初期の小説家だった木村曙(栄子/)と木村荘八()。中下は、浅草の第十いろは店で木村荘八が受け継いだ木村曙の書机。は、1912年(大正元)ごろに撮影されたフュウザン会の木村荘八(右)と岸田劉生(左下)。

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サンフランシスコ人

「牛肉店は東京で20店舗を数えるまでになっていた」

その当時、関西でも牛肉食文化があったのでしょうか?

「青物屋を開店していた」

青物屋.....懐かしい言葉ですね....

「フランス語と英語に堪能なため」

会話ですか?
by サンフランシスコ人 (2024-01-31 02:01) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
関西でも、食べられはじめていたと思います。長崎では、もっと早くから食されていたかもしれません。「青物店」の看板は、古い街ではいまでも見かけますが、昭和以降はフルーツも扱う「青果店」が一般的ではなかったかと思います。
木村曙は、会話と作文の双方に堪能だったのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2024-01-31 09:19) 

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