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下練馬の「シクジツケミ」と「ハネサワ」再考。 [気になるエトセトラ]

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 最近、練馬地域の字名で「谷」とついている地名が、東京南部や神奈川県南部(鎌倉Click!など)と同様に「ヤツ」と発音されていたのを知った。もちろん「谷戸」という地名も残されているが、これが「ヤツ」と発音されていたのか、あるいは漢字表記に引っぱられ近代には「ヤト」と発音されていたのかは不明だ。たとえば、1800年代のはじめ(化政年間)に記録された『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)には、上練馬村の字名「海老ヶ谷」は「エビガヤツ」と記録されている。
 「ヤツ」あるいは「ヤト」は、もともと原日本語(アイヌ語に継承)の「yat(ヤト゜)」に漢字が当てはめられたと思われ、英語の発音に近い「t」=「ト゜」を、近世以降の日本語の「ツ」と発音するか「ト」と発音するかで地域の地名音、あるいは当てはめる漢字が変わってきているのではないかと想像している。ちなみに「yat(ヤト゜)」は、直接的には人体の「わきの下」を意味するが、両側をバッケ(崖地)Click!にはさまれた台地や丘陵に切れこむ、多くは突きあたりに湧水源をともなう谷間の呼称、いまでいう文字どおり“谷戸”地形の場所がそう呼ばれている。
 練馬の「谷(やつ)」発音に刺激され、以前に落合地域の富士講である月三講社Click!について、周辺地域への拡がりを調べた際、江古田駅の北にある江古田富士Click!へ登った記事Click!を書いたのを思いだした。現地を訪れる際、1909年(明治42)に作成された1/10,000地形図を参考にしたのだが、そこに「宿濕化味」や「羽根澤」という字名を見つけて惹かれたのを記憶している。宿濕化味は「シクジツケミ」、羽根澤は「ハネサワ」と発音されていたのだが、もうひと目で昔からの地名音に漢字を無理やり当てはめた様子がうかがえるので、ずっとアタマの片隅にひっかかっていたのだ。そこで、今回は現地の地形をこの目で確かめるため、初めて昔日の下練馬村の同地を歩いてみた。
 「宿濕化味」と「羽根澤」のエリアを、「埼玉道」を軸に歩きまわったあと、『新編武蔵風土記稿』や『練馬区史』、その他の資料類を諸々参照したのだが、地名の由来や字名としての解説は、わたしの見るかぎり掲載されていなかった。ちなみに、埼玉道(江戸期は「さきたまどう」と発音されていただろうか)は、清戸道Click!(現・千川通り)から分岐して下練馬村の総鎮守・氷川明神の北をまわり、大山街道Click!や川越街道と交叉したあと、荒川早瀬の渡しから埼玉(さきたま)へと抜ける道筋のことだ。「宿濕化味」と「羽根澤」は、埼玉道のちょうど東西に位置する字名として近年まで残っていた。
 まず、「宿濕化味」について『新編武蔵風土記稿』を参照すると、小名として「濕化味(シゲミ)」が採取されているのが判明した。「(宿)濕化味=ジツケミ」ではなく、「シゲミ」とルビがふってある。ところが、「濕化味」の小名の上に「宿」が付くと「シクジツケミ」と発音されたようで、またもうひとつ字名として「前濕化味(マエジツケミ)」というエリアのあったことが判明した。まず、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』から引用してみよう。
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 下練馬村
 (前略)日本橋より三里許、民戸四百二十六、東は上板橋村西は上練馬村、南は中荒井村北は徳丸本村及脇村なり、東西二十八町南北一里程、こゝも蘿蔔を名産とす、当所は河越街道中の馬次にして、上板橋村へ二十六町、新座群下白子村へ一里十町を継送れり、道幅五間、此道より北に分かるゝ道は下板橋宿へ達し、南へ折るれば相州大山道への往来なり、御打入以来御料所にて今も然り、(中略)/小名 今神 濕化味(ルビ:シゲミ) 三間在家 早淵 田抦 宮ヶ谷戸 宿 本村
  
 文中の「蘿蔔」は、もちろんいまも練馬名産の美味しいダイコンのことだし、「河越街道」は現在は川越街道と書かれる道路のことだ。下練馬村は、下落合村や上落合村と同じく幕末まで行政や農地が徳川幕府直轄の村、いわゆる「天領」だったことがわかる。
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 この中で、小名の「濕化味」のほかに同じく小名に「宿」とあるのに留意したい。「宿(しゅく/しく)」は、明らかに中世以降の日本語と思われるが、実は「宿濕化味(シクジツケミ)」が近世の小名と昔日の古地名がくっついた字名ではないかとみられる資料が残されている。『練馬区史・歴史編』には、江戸期の「御年貢割附状」や「御年貢皆済目録」などが収録されていて、その中に「宿濕化味」とともに「前濕化味」という小名も採取されているからだ。「前」もまた、「宿」と同様に近世に付けられた日本語だとみられる。
 この「宿濕化味」と「前濕化味」は、明治以降もそのまま小名として残っていたらしく、下練馬村の村会議員を決める1880年(明治13)の「村会規則」まで継続している。
  
 北豊島郡下練馬村々会規則(明治十三年八月廿一日)/第一章 総則
 (中略)/第十条 村会ノ議員ハ二十五名トシ、其撰挙ノ部分ヲ定ムル左ノ如シ/一ノ部 議員三人 下練馬村字上宿下宿/二ノ部 議員二人 同村字下田柄/三ノ部 議員二人 同村字本村/四ノ部 議員二人 同村字今神/五ノ部 議員二人 同村字前湿化味/六ノ部 議員三人 同村字南三軒在家 北三軒在家/七ノ部 議員三人 同村字宿湿化味 (以下略)
  
 ところが、明治末の1/10,000地形図には、「宿濕化味」は見えるが「前濕化味」は見あたらない。単なる採取漏れなのか、郵便制度などの影響から字名の再編が行われ「前濕化味」が消滅したのかは不明だが、あるいは少しあとになって「東濕化味」と「西濕化味」という地域名が見られ、これが「前濕化味」が分化したものだろうか。さらに、「宿濕化味」も一部が「宿化味」に分化しているようだ。以上の記録により「濕化味(湿化味:シツケミ/シ(ツ)ゲミ)」こそが、どうやら古地名らしいことが判明した。
 以前の記事では、大ざっぱな考察しかしなかったけれど、今回はもう少していねいに考えてみよう。まず「シツ」(sit=シト゜)は、以前にも書いたように原日本語では「丘陵・尾根・峰」という意味になるが、以前は曖昧に解釈していたケミ(以前はkemiで「血?」としていた)については、「ke(ケ)」=「削る・えぐる」で、「mim(ミム:ムは唇を結んで鼻音の「ん」に近い)」=「肉」と解釈すると、「シト゜・ケ・ミ(ム)」を地名的に意訳すれば「丘陵の削れた(えぐれた)場所」となるだろうか。
 地形図を見ただけでも判然としているが、実際に「(宿)濕化味」を歩いてみると、現在の開進第三中学校の西側へ谷戸地形が喰いこみ、またひとつの小丘を越えると再び深い谷戸地形で大きく削られている。つまり、丘陵がふたつの谷戸によって深くえぐられるように削られている一帯に、「(宿)濕化味」の古地名が伝えられていることがわかる。その東側(中学校寄り)の谷戸の突きあたり、湧水源があったとみられる場所には、マンホールが多数設置された、人が通るのもやっとの細い路地が現存しており、いまでも下落合のあちこちにある谷戸と同様に、湧水が地下の暗渠を流れつづけているのだろう。
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 では、埼玉道の東側=「羽根澤」の地形はどうだろうか。「羽根澤」は、現代では真ん中の「根」が取れてしまって「羽沢」と書かれているが、これで「はねざわ」と読ませているのだろう。だが、もともと原日本語がベースだったとすれば、「羽(ハ・パ)」に「根(ネ)」と発音していたはずであり、以前にも書いたように「パ・ネ(pa-ne)」=「(良質な)水のある所/沢/渓流/湧水」の意味だと思われる。「澤」は、後世に古地名「パネ/ハネ」本来の意味がわからなくなってから附属した語であり、期せずして「パネ澤」つまり「沢々」の重言になってしまった可能性が高いように思われる。これは、海岸線にめずらしく塩分を含まない湧水が流れ、田圃を耕作できたとみられるパ・ネに「田」を付けた、「羽田」(ここでも「根」が取れている)と同様のケースではないだろうか。
 実際に「羽根澤」(羽沢)地域を歩いてみると、こちらも大きな谷戸が丘陵へ深く切れこんでいる地形であり、その規模は「宿濕化味」に見られるふたつの谷戸よりも大規模で南北に長い。湧水源の手前(北側)にある谷戸の斜面には、「羽沢ふじ公園」の緑地帯が残されており、それを南へたどると湧水源だったと思われる環七から北側へ急激に落ちこむ小谷へと抜けることができる。いや、現在ではすっかり地形改造が進んでおり、環七から落ちこむのは同通りの法面かもしれず、「羽根澤」谷戸の突きあたりは環七を突き抜け、もう少し南へとつづいていたのかもしれない。
 「羽根澤」の渓流は、「宿濕化味」の小流れよりは規模が大きかったらしく、1/10,000地形図でも流れがハッキリと水色で描かれている。この湧水源近くの丘上には、「新桜台もくせい緑地」が練馬区によって保存されていた。サルスベリをはじめ、クスノキ、タイサンボク、ケヤキ、キンモクセイ、カエデ、シャリンバイなど、武蔵野の樹木や懐かしい庭木がところ狭しと生えている。
 もうひとつ、「羽根澤」の東(上板橋村/現・練馬区)に位置する「小竹」地名だが、この由来も地元には確とした伝承がなく古くから「不明」とされているようだ。前回の記事では、「kotan-ke(コタン・ケ)」=「村の地/本村」としたが、それは上板橋村・下板橋村の両村(現在の小竹は練馬区に編入されているが、江戸期は上板橋村の小名で板橋エリアだった)に、古くからの集落拠点に付けられる「本村(もとむら・ほんむら)」Click!の小名がなく、「小竹」がその位置に相当する“村”だったのではと想定したからだ。
 だが、現場の地形や地勢を考慮し改めて再考してみると、「kotan-kes(コタン・ケ(ス)/sは英語の複数形清音と同じ)=「村の端/村の終わり」とも解釈できることに気がついた。「小竹」は、なんらかのエリアの境界線に位置する地域だった可能性もありそうだ。地形を見ると、小竹が下練馬からつづく丘陵の東端に位置する半島のようにせり出した台地であり、古くから人々の集落があった地域の終端(崖淵)……というような古地名だろうか。
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 練馬地域には、落合地域と同様に氷川社や稲荷(鋳成?)社、弁天社が点在し「久保(窪)」Click!の地名も散見される。これら古地名と思われる地域と重なり、タタラ集団Click!が通過した痕跡があると面白いのだが、金糞(スラグ)Click!鉧(ケラ)Click!などが出土するタタラ遺跡Click!が、下練馬地域のどこかで発掘されているかどうか、わたしは不勉強で知らない。

◆写真上:出発点で終着点となった、古墳がベースといわれる江古田富士(浅間社)。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる「宿濕化味」。は、丘上の開進第三中学校を囲む樹林。は、「宿濕化味」に喰いこむ谷戸の湧水源。新道(じんみち)Click!のような風情だが、いまも湧水が地下を流れているのだろう。
◆写真中下は、同年の地形図にみる「羽根澤」。は、谷戸の斜面にある「羽沢ふじ公園」。は、環七も近い「羽根澤」谷戸の湧水源手前の路地。
◆写真下は、同年の地形図にみる「小竹」。中左は、内藤家に残された『御年貢位付』文書。中右は、1980~1982年(昭和55~57)に出版された『練馬区史』(練馬区役所)。は、「羽根澤」湧水源近くの丘上にある「新桜台もくせい緑地」のサルスベリ。
おまけ
 1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる、下練馬地域()と江古田富士()。下練馬の上空からは、「宿濕化味」と「羽根澤」の湧水源あたりに濃い緑の繁っているのが判然としている。また、江古田富士を円墳ではなく前方後円墳とすれば、前方部は現在の江古田斎場側にあっただろうか。江古田富士の右手にも、なんらかのサークル状の痕跡がうかがえるので、一帯は古代の古墳領域だった可能性もありそうだ。
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