下落合の輸入する人、輸出する人。 [気になる下落合]
国立公文書館の史料を漁っていると、ときどき興味深い案件に出くわすことがある。海外から日本へモノを輸入する人や、逆に国内から海外へモノを輸出しようとしている人が、当該の役所へさまざまな課題で申し入れや問い合わせをしている文書だ。
下落合1639番地の第二文化村Click!に住んだ吉田良継という人は、「満洲」の安東県にあった国営「鴨緑江採木公司」に勤めていたが、もともとは外務省の官僚で同省から鴨緑江採木公司へ出向していたのだろう。1931年(昭和6)1月7日、正月が終わってすぐに古巣の外務省を訪ねている。「採木公司」とは、森林から材木を伐りだす製材業者だが、鴨緑江採木公司は日本と中華民国の両政府が共同出資して設立された合弁企業だった。
鴨緑江採木公司は、「満洲」の鴨緑江流域で伐りだした材木を原木のまま、あるいは製材して各地へ輸送(輸出)する業務を行っており、外務省から派遣された吉田良継はそこで1930年(昭和5)ごろまで「渡支課長」をしていた。おそらく、外務省を訪れた当時の彼は、材木を日本へ輸入する同公司の東京支社勤務になっていたか、あるいは長期出張で帰国し目白文化村の自邸にいたとみられる。なぜなら、彼が外務省に残していった名刺には、「満洲」ではなく日本の住所が印刷されていたからだ。
当時、「満洲」の河川流域に拡がる膨大な森林資源は、中華民国と日本(植民地化していた朝鮮含む)ともに建築資材としての需要が高く、また両国の製紙工業においても需要がうなぎ上りに急増していた。したがって、製材業者の「満洲」進出が盛んとなり、中華民国からも日本からも、数多くの企業が現地で採木会社を設立している。日本からは、三井財閥や大倉財閥Click!、南満洲鉄道、王子製紙など大小さまざまな企業が進出し、伐採権を得た決められたエリアでの採木と植林を行っている。
鴨緑江採木公司の吉田良継が外務省を訪れた用件は、中華民国側が同公司へもう一度厳密な測量のやり直しをする旨を伝えてきているが、日本側から改めて測量チームを派遣して立ちあわせる必要はなく、鴨緑江採木公司側で対応するから任せてほしいというような内容だった。1931年(昭和6)1月7日に起草された稟議書から、その概要を引用してみよう。
▼
採木公司帽児山分局管内伝採区域外採伐ニ関スル件/本件ニ関シ客年十二月十九日附機密第五一三号 今般採木公司両理事長ニ於テヲ以テ 御禀申ノ趣了承採伐協定ニ依ル測量協定産点測量ノ際 実施ニ付キ政府ヨリ正式委員派遣ノ義ハ見合ス意合ス意嚮ナリニ付 同公司ニ於テ適宜取運アル様伝達方可能御取計相成度此段回答中進ス
▲
この文面では、両国で測量した樹木の伐採協定による境界につき、政府より正式な測量委員を派遣する必要はないというような趣旨だが、吉田良継は口頭で「満洲」鴨緑江における課題を、外務省の担当者に詳しく話しているとみられ、翌1月8日に手描きではなく和文タイプで作成された稟議書ではかなり詳細な内容となっている。
それによると、中華民国側が改めて測量を申し出ているのは、鴨緑江採木公司を同国と日本の合弁会社から中華民国の傘下に収めるための布石ではなく、先年に議決された森林保護政策の一環だとして、日本から改めて委員を派遣する「実地測量」(立ち会い)は不要としている。また、当初に両国が取り決めた採木境界線を越えて伐採しているのは、同公司側も中華民国側の採木業者も同様なのが判明しており、中華民国側による再測量は両者の越境採木を防止するにはちょうどいい機会だと考えていたようだ。
同時に、公司側が越境伐採した際は、中華民国側へ採木ぶんの税金を改めて納めており、同国と公司の関係が悪化したことはないとしている。そして、中華民国側の測量には1週間ほどかかると報告しており、この間の測量による境界規定その他の実務は、鴨緑江採木公司のわれわれ現地スタッフに任せてほしいとしている。
吉田良継が、外務省にこのような稟議書を提出したおかげで、当時の「満洲」における採木業者別の木材の生産量や地域別輸出量、投下資本量、従業員数、木材種類など、詳細な林業統計「木材ニ関スル統計」(1931年1月)が添付されることになり、いまとなっては貴重な史料となっている。それによれば、鴨緑江採木公司は本社が安東(現・安東省)にあり、1908年(明治41)に両国の共同出資で設立されている。1931年(昭和6)の時点で資本金は300万円で、おもに鴨緑江の右岸を採木地域としており、森林の育成と採木、材木の輸出をおもな業務としていたことがわかる。
1929年(昭和4)時点で、安東地域における木材は紅松や杉松、落葉松、その他が採木されており、合計18万4,824石の生産量だった。材木単位の「石」は、1尺(30.3cm)×1尺×1丈(10尺)の立方体のことで、1石=0.27m3ということになり、鴨緑江流域を含む安藤地域では年間約50,000m3の木材が生産されていたことになる。地元「満洲」での消費はもちろん、輸出(輸入)先は日本や中華民国、朝鮮などがあり、1929年(昭和4)現在でもっとも輸入が多かったのは中華民国だった。
さて、上記は昭和初期に日中合弁会社の生産品(木材)を日本へ輸入する事例だが、今度は輸出するケースを見てみよう。目白文化村の北側、下落合1500番地すなわち落合第一府営住宅Click!18号に住んでいた大里雄吉という人は、1928年(昭和3)に日本の古い貨幣や刀剣、書画骨董、標本類を海外へ輸出する事業を起ち上げようとしていた。
ちなみに、大里雄吉邸は下落合1501番地に住んだ土屋文明Click!邸の2軒東隣りの家だ。1928年(昭和3)1月27日に、外務省へ問い合わせた文書の一部を引用してみよう。
▼
謹啓 公務御繁忙の析柄甚た恐縮なの次第に候ヘでも左記の要件に関し、御示教を仰ぎ度此段奉懇願候/二伸、参銭郵券一葉同封申上候 拝具/一、通用を廃止せられたの古代金銀貨、金銀製品、並ニ古代刀剣類の輸出は、可能に候哉。若し手続を要するとせば、その手続の詳細。/ 二、北米合衆国に於ては、距今五十年以上の古物は、無税にて入国を許可する由に候ヘども、果して事実に候哉。若し事実とすれば距今五十年以上の古物を内容とする荷物の送達にあたり、通関に必要なる心得。/三、我国に於て、国外撤出を禁制せる品目の詳細。/北米合衆国、英蘭、愛蘭、豪洲、印度、加奈太の税関の本邦輸出品(書画骨董品、博物学上の標本)に対する課税方法と、該国に於ける輸入禁制品目。/以上
▲
これを受けとった外務省の担当者は、「手間のかかることを……。同業者に取材して、自分で調べればわかることなのに」と、まずは思っただろう。でも、納税者からの問い合わせなのでシカトして回答しないわけにはいかず、同年2月14日に「書画骨董博物標本通関等ニ関スル各国取扱振ニ関スル件」として回答している。
それによれば、古い金銀貨幣や刀剣類(書画骨董など)の輸出に関する手続きは、外務省ではなく大蔵省に訊いてくれという回答だった。また、米国は100年以上の古物に関しては無税だと思うが、詳しくは米国の大蔵省(財務省)に問い合わせしてほしいし、海外への輸出を禁止されている品目については大蔵省に訊いてくれと回答している。
また、米国は学術的あるいは公共的な目的をもって輸入される書画骨董には20%課税で、イギリス・オランダ・アイルランドは無税、オーストラリアは学術的あるいは公共的な目的をもつ書画骨董は無税だが、それ以外の営利目的の同品輸入は20%課税、インドは学術的あるいは公共的な目的をもって輸入される書画骨董には15%課税だが、博物標本に関しては無税、カナダは書画骨董や博物標本に関しては基本的に無税だが、営利目的の書画骨董の輸入に関しては17.5%課税、また特に絵画(油彩画・水彩画・パステル画)には価格の22.5%課税……などなどと回答している。
ところが、大里雄吉はこの回答に納得できず、また大蔵省へ問い合わせようとはせずに、米国では100年以上たった美術品に関しては無税ということで、その詳細については米国大蔵省(財務省)に確認してくれとのことだが、その規則や手続きについてもっと詳しく教えてくれと、同年2月20日に再度外務省へ問い合わせをしている。同時に、上掲各国の関税法規についての詳細をもっと解説してくれとの要望を添えた。
これに対し、外務省では「そんなこと、うちに訊かれても困るしわからないから、米国領事館に訊いてよね」と回答している。確かに日本の外務省が、米国の税関に関する最新の各種手続きや関税の詳細情報について把握しているとは思えないので、これは無茶な要求だろう。また、各国の関税法規については回答しておらず、「そんなの同業者に取材するか、図書館か本屋さんにいって自分で調べてよ」と、ノド元まで出かかったかもしれないが、それではケンカになるのであえて触れなかったのかもしれない。
下落合の大里雄吉という人は、100年以上前の骨董品に関する情報にこだわっているので、おそらく慶長期以降の大判小判や分銀、または江戸期以前も含む刀剣類を輸出しようとしていたのかもしれない。だが、どう考えても問い合わせをする先は外務省ではなく、輸出先を予定している各国の領事館だと思うのだが、彼は外務省にこだわりつづけている。
◆写真上:大里雄吉が海外輸出を計画したらしい、江戸期の貨幣と刀剣。金の含有量が約84%といわれる慶長小判と、長曾根興里入道虎徹Click!の鋩(きっさき)。
◆写真中上:上左は、目白文化村の吉田良継が1931年(昭和6)1月7日に外務省を訪れて具申した稟議書類。上右は、訪れた際に残した吉田良継の名刺。中上は、上記の申入書を吉田良継の詳細な説明を含め正式にタイピングしたもの。中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合1639番地界隈。吉田家はすでに転居したのか、同地番には「佐藤」と「松田」のネームが採取されている。下は、吉田邸跡の現状。
◆写真中下:上・中は、吉田良継関連の稟議書類に添付された1931年(昭和6)1月に関東庁殖産課が作成した「木材ニ関スル統計」の一部。下は、第一府営住宅の大里雄吉が外務省に問い合わせた書画骨董などの輸出に関する手続きや課税についての手紙。
◆写真下:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合1500番地(第一府営住宅内)の大里雄吉邸。中は、同住所にあった大里邸跡(左手前)。下は、2枚とも外務省が作成した「あ~、もう、やんなっちゃった」感がにじみ出ている手書き回答書案。
コメント 0