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下落合の菊地東陽邸を拝見する。 [気になる下落合]

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 七曲坂筋Click!の三間道路をはさみ、浅田知定邸Click!の向かいの下落合(1丁目)476番地には、オリエンタル写真工業Click!を創立した菊地學治(東陽)が住んでいた。同じく下落合476番地に住んでいた、UDトラックスの創業者である安達堅造Click!邸から路地をはさんだ南隣りの敷地だ。1945年(昭和20)4月13日夜半に、目白駅から目白通り沿いが爆撃された第1次山手空襲Click!で、ともに全焼していると思われる。
 菊地東陽は、オリエンタル写真工業が設立された1919年(大正8)の翌年、早くも下落合の借家で家族や招聘した外国人技師らとともに暮らしている。当初の菊地邸は下落合604番地で、ほぼ同時代には松居松翁Click!が住み、のちに牧野虎雄Click!がアトリエをかまえる地番と同一の区画だ。1925年(大正14)に作成された「出前地図」や、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を参照すると、子安地蔵通りから西へ少し入った路地の角地に、菊地東陽邸を確認することができる。佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作として描いた、『浅川ヘイ』Click!=浅川秀次邸の北東隣り、曾宮一念アトリエClick!から斜(はす)に道路をはさんだ2軒北東隣りが菊地邸だった。
 昭和期に入ると、オリエンタル写真工業の経営が軌道にのり、菊地東陽は1931年(昭和6)に先の下落合476番地へ大きな自邸(西洋館)を建設して転居している。このあたり、下落合801番地に住んでいた安達堅造が、UDトラックスの事業が軌道にのるとともに、下落合476番地に大きな屋敷(西洋館だとみられる)を建てて転居しているのによく似た経緯だ。自邸を新築したばかりの、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」より、菊地學治の項目を引用してみよう。
  
 オリエンタル写真工業株式会社々長兼技師長(号東陽)菊池(ママ:地)學治 下落合四七六
 山形県人菊池(ママ:地)宥清氏の三男にして明治十七年二月を以て生れ同四十二年家督を相続す 夙に米国に航り写真工芸の研鑽に努め帰朝後オリエンタル写真工業会社を創立、社長謙技師長の重椅に座し見識を以て汎く社内外の信望を聚む、家庭夫人より子は神奈川県人小松松太郎氏の長女である。
  
 菊地學治は、子どものころから「芸術号」として「東陽」を名のっており、おそらく表札にも菊地東陽と書いていたのだろう、1938年(昭和13)に作成された「火保図」掲載の下落合476番地の家は、「菊地東陽」邸として採取されている。ちなみに、オリエンタルの社名は菊地の号「東陽」が「東洋」の音と一致し、なおかつ社名の15画は経営的にも縁起がよいといわれたため採用されたと伝えられている。
 菊地東陽の実家は、山形県山形市七日町で祖父の時代から古い写真館を営んでおり、彼は子どものころからスタジオや写真技術を身近に見て育っているのだろう。1898年(明治31)に14歳になると東京をはじめ各地の写真館で修行し、4年後に山形県の菊地写真館を一度は継いでいる。だが、より深く写真技術を学びたくなったのか、19歳になった1903年(明治36)に再び東京へやってきて、鹿島写真館の経営を任されている。それもつかの間、翌年には米国へ渡りシアトルの写真館に就職している。
 シアトルで働いたあと、ほどなくポートランドでセンチュリー写真館を創業、つづいてニューヨークへ進出し3軒の写真館を開設している。1909年(明治42)にはポートレート専門の出張カメラマンとなり、それが繁昌して翌年にはニューヨークにキクチスタジオを創業し、同時に写真感光乳剤の研究開発に注力している。1919年(大正8)に帰国すると、実業家で初代社長となった植村澄三郎とともに、オリエンタル写真工業設立へと動きだした。
 菊地と植村が、落合村(1924年より落合町)葛ヶ谷660番地(現・西落合2丁目)に工場建設を決めたいきさつを、1941年(昭和16)刊行の『菊地東陽伝』より引用してみよう。
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 落合の奥の葛ヶ谷を通り掛つて、丁度昼飯時なので、哲学堂の公園で休憩して居ると、偶々此処に、清水が流れて居り、また尨々たる原野が打続いて居つて、幽邃であつた。しかも、井上円了博士の創設になる哲学堂には、植村翁も幾度か来られ、此処を流れる渓流に鉤を垂れられたといふ清游の地であつた。(中略) この地の水質や水量を調査研究されたところ、水質もよく水量も多く、乳剤工場には全く理想的な地であるといふので、早速此地を選び、工場の建設に着手されたのである。(中略) 見渡せば大根畑、竹藪、田圃、緑の森や丘があるきりで、他に何にもなく、たゞ哲学堂と三井墓地がしよんぼりレリーフのやうに浮出してゐた。
  
 井上哲学堂Click!の斜面から湧く豊富な清水と、文中に「渓流」と書かれている妙正寺川Click!を活用して、落合や野方など周辺地主たちの共同出資により建設されたのが、郊外遊園地の「野方遊楽園」Click!(野方プールClick!)だった。開園は1923年(大正12)なので、オリエンタル写真工業の第1工場が竣工すると、まもなく開園していることがわかる。
 工場地の決定から12年後、初代社長だった植村澄三郎のあとを継ぎ2代目社長&技師長となった菊地東陽は、1931年(昭和6)に下落合476番地へ自邸を建設している。同邸は、近くの大屋敷だったとみられる安達堅造邸を凌駕するほど大きく、また住宅敷地はL字型をしており安達邸の2倍ほどの面積がありそうだ。現在の位置でいうと、七曲坂筋に建っている下落合地域交流館(旧・ことぶき館)の南側、および西側一帯の敷地だ。
 米国生活が長かったせいだろうか、少なくとも外観からは洋館仕様だったと思われるが、庭園には踏み石や灯籠などが見えているので、完全に洋式だったわけではなさそうだ。菊地邸は、1938年(昭和13)の火保図によれば、頑丈なコンクリートの不燃塀に囲まれているが、おそらく現在も赤い洋瓦が載る南欧風(スパニッシュ風)のデザインをした塀は、一部修復されたとはいえ空襲からも焼け残った当時のままなのだろう。
 昭和初期にはブームだったのだろうか、広いテラスや芝庭に面した大窓の軒下には、折りたたんで収容できたとみられる日除けテントが張りだしている。白と濃い色の縞模様だが、AIの推論エンジンClick!は赤ないしは濃いオレンジ色と認識しているようだ。おそらく、菊地邸の母家の屋根も赤ないしは濃いオレンジではなかっただろうか。ただし、画像が粗いのでカラーの解釈がどこまで正確かは不明だ。庭園やテラスに張りだす日除けのテントといえば、近衛町Click!に建っていた下落合416番地の長瀬邸Click!も、やはり折りたたみ式のタテ縞テントを採用していたので、当時の洋館建築では流行の設備だったのかもしれない。
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 『落合町誌』(1932年)には、菊地東陽とともにオリエンタル写真工業の紹介文も掲載されている。彼の名前がしばしばまちがっているのが気になるが、少し引用してみよう。
  
 社長菊池東洋(ママ:菊地東陽)氏は此の自覚に醒めて夙に米国に留学すること十有八年、其の間写真感光製品の乳剤研究に腐心し、偶々欧米漫遊中の伯爵勝精氏の知る処となり、協力苦心の結果優秀なる乳剤の発明に成功し、茲に相携て帰朝し、発明乳剤を基礎とし本邦に於て写真工業を興さん事を企て之を渋澤栄一子爵に謀れり、子爵亦写真工業の国産として緊要なる所以を感得せられ、該企業を植村澄三郎氏に委嘱せらるゝ処となり、同氏は其の友人知己を説き資金六萬万円を得てこゝに本社を創立するに至つた、これが大正八年九月二十二日にて、其の芽生へである。而して第一次事業として写真用感光製品の内印画紙の製造を企画し工場の設計建築其の設備に二ヶ年余を費し、大正十年十二月始めて本社の製品を市場に出せり。
  
 文中に登場している勝精(かつくわし)は、勝海舟Click!の養子で幕府15代将軍の德川慶喜Click!の九男であり、オリエンタル写真工業の取締役に就任している。同時に渋沢栄一Click!の四男である渋沢秀雄Click!も、同社の監査役に名前が見える。また、大倉喜八郎Click!も同社に出資していたようで、養子の大倉粂馬も取締役に名を連ねていた。
 同社は、文中にもあるように1921年(大正10)に初めて印画紙製品を市場へ投入するが、当初は海外製品に押されて売れいきがまったく伸びなかった。だが、1923年(昭和12)9月に関東大震災Click!が起きると、首都圏にストックされていた海外製の印画紙のほとんどが焼けてしまい、同社が販売する国産印画紙の需要が急激に高まった。
 大震災をきっかけに、同社の事業が軌道にのることになるが、『落合町誌』が刊行された1932年(昭和7)の当時、同社は12種類の印画紙を販売し、さらにガスライト印画紙、プロマイド印画紙と乾板、つづいて本格的なフィルムの製造に着手している。資本金も増資し、技術の進化や品質の向上とともに、日本の市場から海外製品を徐々に駆逐していった。
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 下落合476番地の菊地東陽邸跡の南側には、キクチ科学研究所Click!の本社屋が建っている。主力製品はプロジェクター用スクリーンやAVシステム、映像関連の各種ソリューションを提供するベンダーだ。前世紀のスチール写真から、デジタル映像分野への進出は、先見の明を備えた菊地東陽の遺伝子を、そのまま現代まで受け継いでいるのだろう。

◆写真上:下落合476番地に建っていた菊地東陽邸(AI着色)。『オリエンタル写真工業株式会社三十年史』と『菊地東陽伝』では、いずれも菊地邸を「目白文化村」としているが、同邸は東京土地住宅の「近衛新町」Click!に隣接する位置に建っていた。
◆写真中上は、1897年(明治30)撮影の山形市七日町にあった菊地東陽の実家・菊地写真館。中上は、ニューヨークのキクチスタジオで撮影された菊地東陽。中下は、竣工して間もないオリエンタル写真工業第1工場。その向こうに、野方遊楽園の大きなプールが見えている。は、1928年(昭和3)ごろ撮影の第1工場で左手には野方配水塔。
◆写真中下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合604番地の菊地邸。中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合1丁目476番地の菊地邸。中下は、菊地邸跡の現状で当時のものと思われる洋塀が残る。
◆写真下は、社長時代の菊地東陽()と『菊地東陽伝』(1941年)の中扉()。中上は、テントが張られた菊地邸のテラス。中下は、菊地邸の竣工記念写真で右から4人目が菊地東陽。は、1921年(大正10)に撮影されたオリエンタル写真工業のオフィス風景。
おまけ
 1932年(昭和7)に野方遊楽園(野方プール)の跡地を埋め立てて竣工した、オリエンタル写真工業第2工場の全景とファサード。右下に妙正寺川に架かる四村橋Click!が見え、第2工場の背後にある丘は井上哲学堂で遠景は松が丘Click!の住宅地。下の写真は、菊地東陽が1929年(昭和4)に設立した落合町葛ヶ谷676番地のオリエンタル写真学校Click!の全景。
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