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上落合・龍海寺の小原唯雄と東久邇宮稔彦。 [気になる下落合]

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 1941年(昭和16)に第3次近衛文麿Click!内閣が総辞職後、東久邇宮稔彦Click!を首班とする戦争回避の内閣が構想されるが、木戸幸一の反対にあって頓挫した。近衛による宮崎龍介Click!の密使と同様、東久邇宮は蒋介石Click!との和平会談を模索するが、さっそく東條英機Click!につぶされている。結局、敗戦とほぼ同時の1945年(昭和20)8月17日に、“敗戦処理内閣”の首班に指名されたが、在任期間がわずか54日で総辞職している。
 これほど自身の思想・主張と、就任したポストや時勢の推移が乖離しつづけた人物もめずらしいだろう。日中戦争の際、華北の第二軍司令官に就任しながら、日中戦争には終始反対であり一貫して批判的だった。また、陸軍大将に就任しながら南部仏印への進駐や日米戦争には猛反対し、戦時中は和平を模索する工作の中心的な人物となっていく。
 東久邇宮稔彦は、陸軍士官学校をへて陸軍大学を卒業したあと、1920年(大正9)にフランスへ留学するとフランス陸軍大学も卒業している。このとき、フランス革命について詳しく学んだとみられ、皮肉なことに王政や封建制を打倒した資本主義の政治思想である、階級観をベースとした自由主義や民主主義に強く共鳴したとみられる。日本からの帰国命令にしたがわずに無視し、愛人と7年間もフランス生活をつづけた。印象派のモネに弟子入りして洋画を習い、文学の愛読書はトルストイClick!だったという。自身の立場をかえりみず、革命歌=La Marseillaise(現・フランス国家)を唄うのが十八番(おはこ)となり、1990年(平成2)に102歳で臨終の間際にも、うわごとでこの革命歌を唄ったという。
 敗戦と同時に首相に就任すると、戦時中に憲兵隊から弾圧されつづけた反戦・平和運動家であり、和平工作のメンバーだった賀川豊彦Click!を招いて、内閣参与としているのは有名なエピソードだ。東久邇宮内閣が総辞職したあと、「敗戦の責任をとる」として東久邇宮稔彦は賀陽宮恒憲らとともに皇籍を離脱をしている。そして、1946年(昭和21)5月に貴族院も辞職し、同年にはGHQの指令により公職追放となった。ちなみに、このときいっしょに皇籍を離脱した賀陽宮は、その後、下落合の目白文化村Click!に転居してくる。
 戦後、東久邇宮は新宿西口の闇市で、乾物屋「東久邇商店」を開店している。だが、当然のことながら商売はうまくいかず、つづけて新宿で喫茶店を開いたり、自身の所有する骨董品を売る骨董屋を開店したが、いずれも短期間でいきづまり営業をやめている。これら商売の元手を出し斡旋をしていたのが、戦前から東久邇宮の取り巻きのひとりだった、小原唯雄という人物だった。東久邇宮は、愛人だった新橋芸者「秀菊」を落籍し、多摩川沿いに住宅を用意して通ったが、その愛人との手切れ金も、元・宮内庁長官の田島道治『拝謁記』第2巻(岩波書店/2022年)によれば、小原唯雄が用意したカネだったらしい。
 さて、この小原唯雄(龍海)という人物は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で建物(本堂)が全焼Click!したが、戦後もそのまま上落合に住みつづけている。上落合1丁目482番地に建っていた、その名も自身の僧名を冠した龍海寺だ。戦前から戦中にかけての地図類を参照すると、同番地に寺院のマークは採取されていないので、当時、公認された宗教法人であったのかどうかは不明だ。ただし、空中写真を観察すると、かなり大きな伽藍の大屋根や方丈が確認できる。
 この小原唯雄(横浜の鶴見総持寺で得度したことになっている僧名「龍海」)について地元の資料を調べてみると、『落合町誌』(落合町誌刊行会/1932年)に記載はないが、1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会から刊行された『昔ばなし』に、龍海寺と小原龍海の記述を見つけた。その記述によれば、小原唯雄はずいぶん以前から上落合に住んでおり、龍海寺の敷地を購入したのは昭和初期のことで、大屋敷をかまえていた林卯之輔という人物から入手していたのがわかる。同書より、小原と龍海寺について少し長いが引用してみよう。
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 昭和の初め頃のことである。日本橋の入船町で落合の住人「小原」氏が観音さまを拾った……と言う新聞記事があった。その観音さまの落し主が現れないので、小原さんがその観音さまをお守りすることになった。松田のお米やさんのウラの辺りに、大きなお堂を建てて入船観音として小原さんがおまつりしたのである。昭和十年前後に林卯之輔さんは、このお屋敷を誰方に御売りになって引越をされた。(中略) このお屋敷は全部壊わされて整地された。それから間もなく一抱もある大きなケヤキの柱などが運び込まれた。そのうちに彫刻をする人なども来て、物スゴイ大工事をやり出した。現在の大谷石の石垣は当時のものである。結局のところ入船観音の小原さんが、ここにお寺を建てるそうだ……と言うことになった。当時の私など、想像することも出来なかった大規模なものであった。長い年月を経て、大きな立派なお寺が建ち、大岩奇岩を配した立派なお庭が出来、竜海禅寺と呼ばれた。
  
 小原唯雄という人物は、もともと上落合に住んでいたらしいが、突然、日本橋入船町で観音像を「拾った」ころから、にわかに仏教に帰依して禅師となり、自宅の場所を寺院に改造して信仰をはじめる……という、いかにも怪しくいかがわしい経緯に感じるのはわたしだけではないだろう。ほんとうに、日本橋で観音像を「拾った」のだろうか? 事実、戦後になると観音像は骨董屋で購入して、「高村光雲に鑑定を依頼」したところ貴重な古仏だと判明したということになっている。ちなみに1936年(昭和11)の夏、小原は詐欺罪と不敬罪で駒込署に逮捕され、数日前まで中條百合子Click!が入れられていた留置所で拘留されているが、これも戦後になると特高による宗教弾圧にすりかわっているようだ。
 この小原唯雄が、それまで住んでいた上落合の自宅とは、龍海禅寺を建築中に大工たちへ仕事場として提供していた、上落合1丁目215番地ではないだろうか。ちょうど、のちに龍海寺が建立される広い敷地の斜向かい、つまり上落合会館通りをはさみ旧・林卯之輔邸の北側あたりだが、建築現場へ材木などの資材や加工した調度品を運びこむにはなにかと都合がいい場所だ。1938年(昭和13)の「火保図」を参照すると、建設途中のため龍海寺はいまだ採取されていないが、215番地の大きな建物には「小原仕事場」(作業場)の文字が記載されている。村山知義・籌子アトリエClick!から、北へ130mほどのところだ。
 戦後、1950年(昭和25)になると東久邇稔彦は小原龍海と組み、「ひがしくに教」を開教して教祖となった。これも小原の入れ知恵らしいが、特に布教活動を行うわけでもなく、宗教法人になれば税金がかからないため生活がラクになるというのが目的だったようだ。東久邇家では、戦前の生活と同様に使用人たちも全員そのまま雇用していたので、彼らの人件費を支払うのに窮していたのだという。だが、政府は「ひがしくに教」を宗教法人とは認めず、東久邇と小原のもくろみは外れている。
 このエピソードひとつを見ても、戦前から小原龍海が東久邇宮のごく近くにいて、なにかとその名前を利用しながら、政財界から膨大なカネを集めていたのが透けて見える。上落合に巨大な龍海寺が竣工すると、政財界人たちの“寺詣り”がはじまった。もちろん、その中には東久邇宮稔彦もいた可能性が高い。つづけて、同書より引用してみよう。
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 やはり今の鳥居のあたりに入口があり、私などはお庭に入って木の香が新らしいお寺を見上げたものである。このお寺には墓地がなかった。檀家がなかったのであろう……しかし、毎日のように立派な自動車に乗った政財界の偉い人がお詣りに来ていた。(中略) ところが、昭和二十年五月の大空襲で、この大伽藍も一夜にして灰塵となってしまった。(中略) 戦後、竜海寺は汚水処理場前の通りに面して移築されている。そしてこの広大な敷地は、南半分が公園に、北半分が一般の住宅に……となったが、昭和三十七年八幡神社が、今の八幡公園のところから遷宮(引越し)して来たのである。
  
 毎日のように参詣していた政財界人たちは、小原龍海になにを“お願い”しにきていたのだろう。なにやら、ラスプーチン的な地位を想像させるが、皇室や貴族院、陸軍などに顔がきく小原は、戦前・戦中はなにかと利用価値が高かったのだろう。小原は彼らから喜捨や(観音の)拝観料、参詣料の名目で莫大なカネを集めていたとみられる。
 1968年(昭和43)に、松本清張Click!の取材を受けた東久邇稔彦は、小原龍海と「ひがしくに教」について次のように話している。2011年(平成23)に文藝春秋から出版された浅見雅男『不思議な宮さま―東久邇宮稔彦王の昭和史―』から、一部を孫引きしてみよう。
  
 「あれはある人が小原唯雄という坊さんを紹介したんです。りっぱな禅宗の坊さんだから……と。小原はわたしに、いま敗戦で日本人は精神的に虚脱状態になっている。どうして生きていったらいいかわからない。だから立派な教えによってそういう世間の人たちを救うべきだ、といいました。わたしも賛成して、小原にまかせたら、『ひがしくに教』と名をつけていろいろ宣伝して、ああいう大きなことになってしまったのです」「あなた(小原)にすべておまかせする、というようなことで、くわしいことはまったく知らないんです」「(小原の目的は)それによってカネを集めることだったらしい。本人はだいぶ集めたようです」
  
 著者も指摘しているように、この松本清張への証言はウソで、東久邇宮稔彦と小原唯雄の深い関係は戦前から戦後までずっとつづいていた。だからこそ、小原龍海は上落合に大伽藍を建てる莫大な資力が得られたのだし、地元の証言「立派な自動車に乗った政財界の偉い人」が毎日のように「お詣り」に訪れていたのだろう。
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 山手大空襲で本堂が全焼したあと、龍海寺の跡地は北側が住宅地に南側が公園になったが、1962年(昭和37)に月見岡八幡社Click!が公園跡に遷座してくる。当の龍海寺は戦後、新・八幡通りClick!に面した落合下水処理場Click!の向かい、上落合1丁目230番地へと移転している。その後、埼玉県へ「ひがしくに教」とともに移転したといわれているが定かでない。上落合では、1970年代まで建物を確認することができる。上落合の小原龍海については、さまざまなエピソードを残しているので、また機会があれば記事にしてみたい。

◆写真上:上落合1丁目482番地の龍海寺跡(右手全体)で、大谷石の擁壁(解体)がある手前の住宅街から月見岡八幡社までの全敷地(約1,000坪)が境内だった。
◆写真中上は、1945年(昭和20)8月17日に組閣された東久邇宮内閣。重光葵(外相)、米内光政Click!(海相)、近衛文麿Click!(国務相)らが並ぶ。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる建設中の龍海寺と小原仕事場(作業場)。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる小原仕事場と龍海寺建設予定地。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月2日の空中写真にみる龍海寺の大屋根。は、東久邇宮稔彦(左)と小原龍海(右)。は、1950年(昭和25)4月15日撮影の「ひがしくに教」開教式で、右端が小原龍海で左隣りが東久邇稔彦。
◆写真下上左は、冒頭写真に写る大谷石擁壁の角にあった龍海寺の境界石で「小原」の字が刻まれている。上右は、2011年(平成23)に出版された『不思議な宮さま』(文藝春秋)。は、1966年(昭和41)作成の「住所表記新旧対照案内図」にみる上落合1丁目230番地に移転した龍海寺。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる龍海寺。

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サンフランシスコ人

「昭和二十年五月の大空襲で...」

79年後....バーチャル・リアリティの東京観光....

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やっとこのような製品が出てきた....
by サンフランシスコ人 (2024-02-16 02:47) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
うーん、これって、ゲイシャに相撲、スシに三味線もった日本人、サムライに茅葺き屋根の家って、米国の明治か大正ごろからつづく「日本」のイメージの延長で、現代のヨーロッパやアジアからのリアルなリピータ観光客が見てさえ、「??」になってしまうんじゃないでしょうか。
エノケンの「♪ラ~メちゃんたらギッチョンチョンでパイのパイのパ~イ」(ラメ=デタラメのことです)の世界ですね。おまけにBGMは、江戸東京とはなんら関係ない津軽三味線風なのですが、これってわざと米国のアナクロニズム日本観を狙って制作された、観光客誘致のアプリなのでしょうか?
by ChinchikoPapa (2024-02-16 10:19) 

skekhtehuacso

この「禅宗 ひがしくに教」の写真はよく見ますが、このメガネの人が小原龍海さんで、この人の入れ知恵だったのですね。
どうでもいいことですが、私は東久邇稔彦さんのお写真を見るたびに、瀬川新蔵(俳優)を思い出します。
by skekhtehuacso (2024-02-16 22:03) 

ChinchikoPapa

skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
そういわれてみると、歳とってからはどことなく似ていますね。江戸時代風に丁髷のかつらをつければ、ちょっと見は瀬川新蔵と混同しそうです。w 濃い眉毛のかたちから、よけいに似ていると感じるのでしょうか。
by ChinchikoPapa (2024-02-17 13:24) 

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