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下落合の日常生活を綴る沖野岩三郎。 [気になる下落合]

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 1921年(大正10)ごろから下落合1505番地(のち1510番地→1932年以降は下落合3丁目1507番地)に住んだ沖野岩三郎Click!は、当時の下落合に展開していた風景を織りまぜた作品を、小説やエッセイを問わずしばしば書いている。
 年譜などでは、1921年(大正10)に下落合へ転居したことになっているが、1920年(大正9)に書かれた小説『地に物書く人』(民衆文化協会出版部)にはすでに下落合が登場しており、もう少し早い時期に引っ越しあるいは自宅が竣工するまでの仮住まいの借家に転居しているのではないか。あるいは、たまたま郊外散歩をした際に、下落合をハイキングClick!してその風情が気に入り、転居前の作品に登場させているのだろうか。
 いずれにしても当時の下落合は、東京府住宅協会Click!による第一および第二の落合府営住宅Click!の敷地へ、会員たちの注文住宅があらかた竣工していただろうが、1922年(大正11)から販売される目白文化村Click!近衛町Click!は影もかたちもなく、沖野岩三郎の自宅である落合第一府営住宅8号Click!の南側に口を開けた前谷戸Click!周辺には、箱根土地が開発した郊外遊園地Click!不動園Click!が開園しているばかりで、一帯は東京郊外の典型的な田園風景だったろう。目白通りには、いまだダット乗合自動車Click!によるバス路線Click!も存在せず、目白駅からは俥(じんりき)が通う時代だった。
 1920年(大正9)に執筆された『地に物書く人』(文生書院)では、市街地に開院している女医の「由子」が、郊外の下落合へ往診する様子が描かれている。沖野岩三郎Click!が、牧師時代から東京府住宅協会の会員となり、住宅建設資金の定期積み立てをしていたとすれば、同年の時点で自邸が建設されつつある様子を見に、しばしば下落合を訪れていた可能性がありそうだ。当時の東京府による落合府営住宅は、借家ではなく建設資金の積み立てによる一戸建ての持ち家住宅制度だった。同書より、下落合が登場するあたりを引用してみよう。
  
 「済まないが妻が少し病気なので御苦労願へないでせうか。」/伊藤は言い難さうに斯う云つて由子の顔を滋々と見入つた。/「参りますワ どちらでございますか(。:ママ)」/「どうも少し遠方でございますが。」/「遠方だつて宜しうございますワ。」/「下落合ですが御出で下さいますか。」/「下落合? 目白の近くでございませう。」/「江ゝさうです、御足労ですナ。」/斯んな会話の後で由子は革袋を提げて伊藤と一緒に家を出た。行つてみると若い美しい細君が寝てゐた。由子の診断は妊娠といふ事であつた。/「精々一ケ月の御苦しみですよ、最う直ぐ快くなりますから。」/由子は夫婦と十分間ばかり話し合つて帰つて来た。細君は九州辺の小さい華族の娘だといふ事であつた。(中略) 下落合を畑の中にある伊藤の家に行つて見ると細君の雪子は三十九度七分の熱で呻吟してゐた。しかし診察してみると扁桃腺が腫た為に来た熱と知れた。/チブスにでも罹つたのでは無いかと、心配してゐた一同の愁眉は開けた。(カッコ内引用者註)
  
 大正中期の落合地域には、いまだ西洋医が開業しておらず、往診がたいへんなので市街地の医者は「遠方」の下落合へはきてくれなかった様子が、「伊藤」の口ぶりからうかがえる。往診は、診察道具が入っている「革袋」を提げた「由子」が、「伊藤」とともに山手線に乗って目白へ出かけているのだろう。零落した華族の妻が伏せる、「畑の中にある伊藤の家」には目白駅前から俥(じんりき)Click!で通ったとみられる。
 この小説から15年後、1935年(昭和10)に子供の教養社から出版された沖野岩三郎のエッセイ『育児日記から』には、目白通り沿いの沖野邸とその周辺の風景や、孫の「遥(はるか)」と「ナオミ」の世話をする様子が描かれている。沖野家へ養子に入った沖野節三と妻の寿美子の子どもたちなのだが、夫妻はヨーロッパの大学へ留学しており、帰国するまで祖父母の沖野岩三郎・ハル夫妻が面倒をみることになった。
沖野岩三郎チューリッヒ1931.jpg
地に物書く人1920.jpg 沖野岩三郎プロフィール.jpg
 エッセイを読むと、沖野夫妻の当時の生活や孫が通った白百合幼稚園Click!など、周辺の様子がうかがえて興味深い。同書には写真も掲載されており、沖野邸や庭の風景、幼稚園での情景などがわかる貴重な資料となっている。同書より、少し長めに引用してみよう。
  
 「お家はどこですか。」/「ここです。」/「ここはお家ですけれど、迷ひ児になつた時は、ここと言(ママ)つてもわかりませんよ、下落合の府営住宅ですつて云ふんです。」/「下落合の府営住宅」/「よろしい。もし巡査さんが、何番地かつてきいたら、千五百七だと云ふんですよ。さあ云つてごらん。」/「三百七五。」/「千五百七ですよ。」/「わかつた。」/(中略) 遥の機械学に一つの疑問が生じた。それは遥の最初に見た乗合自動車が旧式で、動き出す前に、前方でぐいぐい廻したのを見て、遥はこれを「ぐいぐい」といつて、そのまねをした。三越から買つて来た自分の自動車の発車に先だつても、必ず此のぐいぐいをやつて、それから発車したものである。/(中略) 遥の故郷は東京郊外の下落合なのです。彼がここに産れてここに育つた三年間の印象は、吾吾には想像の出来ない深いものをもつてゐるのです。遥が謂ふ所の「うら・畑」そのうら・畑は遥の始(ママ)めて三輪車を運転した所であり、そこで彼は始めて牡丹の花を見、つつじを見、桔梗を見、苺を見、ぐみを見、いちじくを見、その他いろいろの草木を始めて見た所なのです。/(中略) 彼が生来始めて土を踏みしめて立つた下落合の土と彼とは、永久に断つことの出来ない深い関係をもつてゐるのです。彼が始めて通つた白百合幼稚園、それは彼が成長後どこの大学を卒業しても、その感化から逃れることの出来ない幼稚園なのです。毎日、家を出て、あの小学校の所から坂を下って、駈け込んで行つた幼稚園内の空気は、彼が人間社会に於ける最初の社交場であつて、そこに過した二箇年の歳月は、実に尊い彼の人生経験場だつたのです。時時ねだつて見せにつれて行つてもらつた省線や武蔵野線。(中略) 夜が更けて、十一時十二時になると、始めて目白を通過する貨物列車の轟きが聞える。
  
 沖野邸の南側にあった庭で咲く、草木の様子が詳細に書きとめられている。おそらく「遥」ちゃんは、大正後期から目白通りを走りはじめたダット乗合自動車Click!の、クランク棒をボンネットの前でまわしてエンジンをかける旧式タイプのバスを記憶しているのだろう。沖野邸から西側に通う三間道路を北に歩いて目白通りへ出ると、ちょうど目の前がダット乗合自動車の車庫を兼ねた発着場Click!だった。
 佐々木久二Click!の妻である佐々木清香Click!が経営する、下落合1147番地(のち1146番地)の白百合幼稚園Click!については過去の記事でも随所に登場している。佐々木清香は尾崎行雄Click!の愛娘であり、妹の雪香Click!もまた下落合の相馬邸Click!に嫁いでいる。「小学校の所から坂を下って」は、落合第一尋常小学校Click!の東側にある霞坂Click!を下りていくと、途中から市郎兵衛坂Click!と合流し、ちょうど妙正寺川畔にある白百合幼稚園(佐々木久二邸Click!敷地)の真ん前に出ることができた。
 「省線」は山手線のことだが、「武蔵野線」は武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)のことだ。おそらく、沖野夫妻が散歩がてら、孫たちに汽車や電車を見せに連れていったのだろう。少し余談だが、武蔵野鉄道のことを沖野岩三郎のように「武蔵野線」、あるいは「武蔵野鉄道線」と表記する資料を何度か目にした憶えがある。ちょうど、下落合を走る西武鉄道村山線のことを、地元はもちろんマスコミなども通称「西武電鉄」Click!と呼んでいたように、当時、地元の住民たちが武蔵野鉄道をどのように名づけ呼称していたのかが、かなり前から気になっている。
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育児日記から1935.jpg 宛名日記1940.jpg
 さて、いまは住宅でふさがれているが、リニューアル後の沖野邸は南に面した庭門とは別に、北側に正門と玄関が設けられていた。そこを出で、L字状に歩けば60mほどで目白通りへと抜けることができた。その門を入った玄関には、大正末から呼び鈴が設置されており、しばしばイタズラに悩まされたようだ。“ピンポンダッシュ”ならぬ呼び鈴ダッシュで、頻繁に起きていたイタズラらしい。ずいぶん以前に、上落合186番地Click!に建っていた「三角アトリエ」Click!で、近所の子どもたちによる“ピンポンダッシュ”のエピソードClick!をご紹介していたが、沖野邸では子どもばかりでなく大人もやっていたようだ。
 昭和に入ると、呼び鈴はそれほどめずらしくないと思うのだが、ボタンを見るとどうしても押してみたくなる人たちが少なからずいたようなのだ。現在では、ボタンを押すとともにカメラが作動し来訪者の動画を記録するので、このイタズラは減っているだろう。1940年(昭和15)に美術と趣味社かに刊行された、沖野岩三郎『宛名日記』から引用してみよう。
  
 私の家には今呼鈴を取りつけてある。取りつけたのは、もう十六年前であるが、最初の頃は表を通る者が、無茶苦茶にそれを押した。それが決して子供だけでなく、大きな男が頻りにいたづらをしたものである。/妻は飯が焦げつきさうなのを放つて置いて、飛んで行つてみると、誰もゐない。またかと思つて出て行かないでゐると、大事のお客が来て待ちぼけてゐる。今度こそ待ちかねた彼の人だと思つて出て見ると、髪のもぢやもぢやした掠屋(金を強請に来る掠奪屋の事)が眼を光らしてゐたりするので、一時は其の呼鈴を取外さうかとさへ思つた事がある。
  
 沖野岩三郎の家にさえ、アナキストかサンディカリストか、はたまた左翼ゴロかは不明だがヤクザまがいの「リャク」が訪れたところをみると、彼は昭和期に入ってから稼ぎのいい作家のように周囲からは見られていたようだ。それとも、「求めよさらば与えられん」(マタイ伝)をそのまま実践する、キリスト者を装った単なるたかり屋だったものだろうか。
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 沖野岩三郎の小説はともかく、大正中期から以降のエッセイ類には自邸のある下落合が頻出している。近所で起きた出来事はもちろん、周辺に拡がる風景などを家族たちの姿にからめて描写することが多いようだ。また機会があれば、沖野家の下落合をご紹介したい。

◆写真上:1930年(昭和5)ごろ、下落合の沖野邸門前で撮影された家族の記念写真。右端にハル婦人、右からふたりめの隠れがちなのが沖野岩三郎。(AI着色)
◆写真中上は、1931年(昭和6)にヨーロッパから米国へ旅行した際にチューリッヒで撮影された沖野岩三郎。下左は、1920年(大正9)に出版された沖野岩三郎『地に物書く人』(文生書院)。下右は、よく使われる沖野岩三郎のポートレート。
◆写真中下は、1930年(昭和5)ごろに下落合の自邸庭先で撮影された孫たち。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された沖野家の記念写真。(AI着色) 下左は、1935年(昭和10)に出版された沖野岩三郎『育児日記から』(子供の教養社)の内扉。下右は、1940年(昭和15)に出版された沖野岩三郎『宛名日記』(美術と趣味社)。
◆写真下は、1935年(昭和10)ごろ撮影された白百合幼稚園のひな祭り。は1935年(昭和10)の「淀橋区詳細図」でたどる沖野遥ちゃんとお祖父ちゃんの登園コース。は、沖野岩三郎が孫を白百合幼稚園まで送っていったかなり急傾斜の霞坂。霞坂をくだると市郎兵衛坂と合流し、ほどなく白百合幼稚園の屋根と園庭が見えてきたはずだ。

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しゅん

いつも興味を持って読まさせていただいています。当時の生活がよくわかりますね。貴重な史料編纂ですね(^▽^)/

by しゅん (2024-02-12 05:06) 

ChinchikoPapa

しゅんさん、コメントをありがとうございます。
人々の生活や風景を記録したエッセイ類は、特に面白く感じます。現在の風景に重ねてみますと、すでに失われてしまった風景が透けて見えてきそうです。
by ChinchikoPapa (2024-02-12 09:44) 

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