ピンポンダッシュの三角アトリエ。 [気になるエトセトラ]
子供のころ、しゃれた家や変わったデザインの住宅ができると、どのような人たちが住んでいるのか、ちょっとのぞいてみたくなったものだ。ものすごく大きな屋敷があると、門口についているチャイムを押してみたくなる。はたして、どんな人が顔をのぞかせるのか、物陰に隠れて友だちとドキドキしながら待ちかまえていたりする。中からお爺さんやお婆さんが出てきたりすると、子供心にもがっかりしたものだ。逆に、きれいなお姉さんが「どなた?」などと言いながら出てくると、もうそれだけでウキウキ嬉しくなってしまう。
前が八幡社で、周囲にはまだところどころ畑が残っているようなところへ、いきなり真っ赤な屋根にブルーのドアがついた三角形のアトリエができたりすると、もうそれだけで近所の子供たちは舞い上がってしまっただろう。どんな人たちが暮らしているのか、絶対に確めないではいられない。寝ても醒めてもそれが気になり、夢の中にまで三角の家が登場したりする。もちろん、子供たちはいつの時代にも、ピンポンダッシュをしないではいられない。
上落合の月見岡八幡前にあった、村山知義の三角アトリエClick!も子供たちの格好な標的となった。でも、もちろん大正当時に“ピンポンチャイム”はなく、単調なブザーかベルの音色だった。1924年(大正13)に発行された、『婦人之友』10月号のオカズコねえちゃんClick!、いや村山籌子Click!のエッセイから、そのときの様子を引用してみよう。
●
八百屋さんや、酒屋さんに、物を頼むときに「あすこの、三角の家ですよ。」といふと、「村山さんですね。」と、誰でも、すぐ分つたやうな返事をして届けてくれる。私は、帽子もかぶらず、洋服を着て、袋をさげて、買物にゆくと、後から子供がついて来て、「あすこの三角の家の人だよ。」とか何とかいつて、私が角をまがつて、家へはいるまで見てゐる。家の前を通る人は、家の入口にペンキで、マヴオとか、そのほか、独逸語で意識的構成主義とか、大きくかいてあるので、ふりかへりながら、「おい、こゝがマヴオかい。」などといつてゐる。それをうちできいてゐると、をかしくて、ふき出しさうになる。そしておまけに、悪戯に鈴(ベル)を押すので、早速走つてゆくと、物音がして、人の走る気配がする。戸を開けて少しおこつてやらうと思ふと、誰も見えないし、前の建築場から、大工が四五人こつちをむいてゐるので、まあ、言はなくてよかつたと、顔が赤くなる。 (村山籌子「三角の家」より)
●
1923年(大正12)に完成し、ご近所の人たちの度肝を抜いた三角アトリエに、当時は一般的だった和服姿ではなく、めずらしい断髪で洋装の若い女性がいたりしたら、子供たちばかりでなく大人でさえ、一度はベルを押してダッシュしてみたくなっただろう。目白文化村が売りに出されてまだ2年め、同年に販売をはじめた第二文化村の周辺をスカートをはいた女性が通ると、それだけで近所じゅうのウワサになっていた時代の落合村(1924年から落合町)なのだ。
「ねえねえ、あんた聞いた?」
「聞いたわよ~。毎日すき焼きばっか食べてる、変態画家のことだろう?」
「ちがうわよ~。あっちもんの着物きたモガってのが、そこの坂を歩いてたんだってよ!」
「うそっ、マジ~?」
「いやあねえ~。下落合もだんだん住みにくくなるわよね~」
「あたし、一度でいいからさ、見てみたいんだよ~」
・・・とかいう会話が、洗い場で野菜を洗う近所のおかみさんたちの間で、きっと交わされていたのだ。落合村は、東京市内からははるかに遠く辺鄙な田舎だった。ましてや、家が三角形だったりすると、子供たちは容赦なく歌さえ作って唄ってしまうのだ。
●
此間も台所で、椅子に腰をかけて、本を読んでゐると、前の垣を五つ位の小さい男の子が、家をみて、即興詩をつくつて、変なことをうたつてゐる。何だらうと思つてきいてゐると、
「この、うちの戸は、なあぜちひさい。
なあぜちひさい。
ちひさいから、ちひさい。
このうちの戸は、なあぜあをい。
なあぜあをい。
あをいから、あをい。
あをいから、あをい。」
と、なんべんも繰かへして、金属性のかん高い声をだしてゐる。そしてその上に傍についてゐるお婆さんに「ねえ。なぜ、この戸は小さいのよ。あの窓だつて、どうしてあんなに細いのよ。」ときいてゐる。さうすると、お婆さんは困つてしまつて、 「ほーら、あの屋根の赤いこと。真赤ね。赤いね。そーら。」といつて、ごまかしてしまつた。 (同上)
●
家の中にいると、こんなことを年じゅう聞かされる村山籌子もたいへんだけれど、近所の人たちは三角の家のことを子供たちへ説明するのに、もっとたいへんだったろう。にわかに建設された画家の家がなぜ三角形をしているのか、「なぜ?」「どうして?」を繰り返す小さな子供たちに、納得させなければならなかった。しかも、「マヴォ」とかいうわけのわからない仕事をしていて、ときどき天井から逆さまにぶら下がってしまう、得体の知れない不気味な人たちが出入りする家なのだ。
でも、近所の子供たちが三角の家を囃したててくれたおかげで、そして村山籌子がそれをエッセイに書き残してくれたおかげで、当時のモノクロ写真しか残っていない三角アトリエの色彩を、なんとかうかがい知ることができるのだ。
■写真上:三角アトリエに着色。写真も見ながら想像すると、こんな色彩だったのかもしれない。
■写真中:左は、アトリエのドアのあたり。入口に立っているのは村山知義か? 右は、1921~22年(大正10~11)に制作された平行四辺形の「サディスティッシュな空間」。
■写真下:1924年(大正13)発行の「子供之友」3月号(婦人之友社)に掲載された、岡内(村山)籌子・作で村山知義・画による「たまごとおつきさま」。このあと、作者と画家は結婚することになる。
三角のアトリエに出入りしていた人たちは本当に奇妙にみえたんでしょうね。さかさまにぶらさがるような人の中に高見沢路直という青年がいますが、のちの田河水泡です。マヴォのメンバーだったので上落合にはよく来ていたのでしょうね。柳瀬正夢の紹介で平林たい子とつきあったりしています。どんなだったんでしょうね、想像するだけでもワクワクします。
by ナカムラ (2008-02-09 12:24)
ナカムラさん、コメントをありがとうございます。
三角アトリエで逆さにぶら下がってたのが縁で、田河水泡は落合地域に馴染みができ、第一文化村に引っ越してきたものでしょうか。(笑) 田河の文章を読んでも、MAVOについては少ししか触れてないようですね。
村山籌子の文章では、アトリエの前で普請をしてる大工たちが、どんな住人が出てくるのか固唾をのんでジッと見ていたらしいですから、MAVOのウワサは当時の落合じゅうを駆け巡っていたんでしょう。籌子が歩いていると、うしろからゾロゾロ子どもたちがついてくる・・・というのも、きっと親のウワサ話をしじゅう耳にしてたんでしょうね。
by ChinchikoPapa (2008-02-09 16:19)
木の知識がない人間が木造住宅を建てているというのは、かなりショッキングな状況ですよね。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-02-09 16:20)
鶏のメスも災難ですね。怒らないのでしょうか?
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-02-09 16:20)
アイラーはLPのみでCDは持っていません。ということは、最近は聴いてない証拠ですね。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-02-09 16:20)
Krauseさん、nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2008-02-09 16:20)
Qちゃんさん、nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2008-02-10 11:14)
たねさん、nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2008-02-10 16:56)
Chinchikoさんの軽妙な再現シーンに、最近吉祥寺あたりにできたウメズさんのお屋敷を思い出してしまいました。
ご近所に誰が住むのか、何をしている人なのかという興味と警戒心のようなものは、今もあまり変わっていませんね。
その点、子供たちはむしろ無邪気に、゜誰かな、どんなかな」と楽しみなんですよね。
by sig (2008-06-11 11:34)
こちらにも、コメントとnice!をありがとうございます。>sigさん
楳図邸も、さっそくピンポンダッシュの標的になりますね。(笑) 子供がピンポンを押して、どこか物陰に隠れていると、「へび女」の扮装をした楳図家のどなたかが顔を出す・・・というような仕掛けにすれば、もう子供たちは怖くて嬉しくて、舞い上がってしまいます。その昔、コミック誌で読んだ大人たちも、怖いもの見たさにピンポンを押してみたくなりますね。同作の単行本再版プロモーションには、うってつけかと。(^^;
by ChinchikoPapa (2008-06-11 12:41)