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大泉黒石の墓所は化石ちらしの青御影石。 [気になる下落合]

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 下落合に二度も住んでいた大泉黒石Click!について、いろいろと記事をアップし全集をはじめ作品群に目を通したところ、とても面白いので急に墓詣でを思いたった。拙ブログに登場し、ことさら人物像に興味が湧き魅力を感じて、血縁でもないのに進んで墓参までしたくなったのは、過去に鎌倉幕府における実質上の将軍=CEOだった政子さんClick!、芝居「東海道(あずまかいどう)四谷怪談」Click!ではなぜか怨霊にされてしまった(田宮)於岩さんClick!と、芝居「松竹梅雪曙(しょうちくばいゆきのあけぼの)」の八百屋お七Click!、一家3人が眠る麹町の佐伯祐三Click!墓所Click!ぐらいしかいない。
 大泉黒石の墓所は、西武池袋線・小平駅前に拡がる都立小平霊園にある。昭和初期から、箱根土地Click!国立Click!の学園都市と連動するように、鉄道敷設まで計画して宅地開発していた地域だが、実際に住宅街が形成されたのは戦後になってからのことだ。大泉黒石が眠るのは、霊園西側にあたる一画だった。まるで公園のような墓所で、ところどころにはベンチがすえられ、ハイキングを楽しむような雰囲気で墓参できるようになっている。実際、芝生にシートを拡げランチの準備をしている家族連れもいた。
 さっそくお参りを済ませ、大泉家の青黒っぽく見える墓石をよく観察すると、いわゆる青御影石(ブルーパール)と呼ばれる石材で、一面に青白く光る貝殻の化石が混じっているのがわかる。強めの光が当たると、これらの貝化石がまるで螺鈿のようにブルーやピンクなど真珠色に輝くので、文字どおり「パール」と呼ばれるゆえんだ。三浦半島などでの化石採集Click!が好きだった、大泉黒石にはピッタリの墓石といえるだろうか。
 ところで、読売新聞の転居欄で1926年(大正15)9月現在、下落合744番地Click!に大泉黒石の転居先を見つけたとき、わたしは自分でも呆れる初歩的なミスをしていたのに遅まきながら気がついた。それは、大泉黒石の落合地域と周辺域における、めまぐるしい転居を追いかける記事を書いた際、板橋区中新井1丁目71番地と板橋区下石神井町北1丁目305番地の転居先を、双方とも「練馬区」Click!に訂正してしまったことだ。これはありえない恥ずかしいミスで、東京35区Click!に板橋区はあっても練馬区は存在しない。板橋区に「練馬地区」はあったが、練馬区が板橋区から分離・独立するのは、東京23区制が成立した戦後、1947年(昭和22)になってからのことだ。したがって、それぞれの『文芸年鑑』(改造社版/第一書房版)が記録しているとおり、双方の住所は「板橋区」のままが正しい。
 ということで、落合地域とその周辺域における大泉黒石Click!の転居先を、もう一度改めて整理してみよう。まず、いま現在判明している住所でもっとも早い時期のものが、1921年(大正10)の高田町雑司ヶ谷442番地、すなわち黒石自身が『俺の自叙伝』の中で「三条家と背中合わせに偉大なる冠木の門」と書いている家だ。このあと、小さな子どもたちが汽車を見に出られるほど、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)にごく近いエリアに転居している可能性が高いが、以下、その転居ルートを追いかけてみよう。
 高田町雑司ヶ谷442番地(1921年) → 同町雑司ヶ谷?(1923年ごろ/武蔵野鉄道近く) → 長崎村五郎窪4213番地(1924年) → 長崎町大和田2028番地(1926年) → 落合町下落合744番地(1926年9月~) → 高田町鶉山1501番地(1930年) → 板橋区中新井1丁目71番地(1932年) → 板橋区下石神井北1丁目305番地(1936年) → 淀橋区下落合4丁目2130番地(1936年~)……ということになる。大泉黒石は“引っ越し魔”なので、この間にまだ判明していない住所がいくつかあるのかもしれない。
 上記の住所で、高田町鶉山1501番地の家を、前回は『文芸年鑑』(改造社版)の記録に沿って1932年(昭和7)としていたが、1930年(昭和5)には同住所に住んでいたことが判明した。1988年(昭和63)に緑書房から出版された『大泉黒石全集』第8巻に添付の「黒石廻廊/大泉黒石全集書報」No.8には、日本画家で作家の岸大洞による『巡査と雪まみれの組打ちとなった黒石』が収録されており、文中には1930年(昭和5)の暮れあたりに高田町鶉山の大泉邸を訪ねるくだりが登場している。
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 大泉黒石が、下落合744番地に住んだ大正末から昭和初期にかけて、彼はどのような文学表現の位置にいたのだろうか。1926年(大正15)は、ちょうど『人間廃業』(文録社)と『人間開業』(毎夕社出版部)を相次いで出版した時期と重なる。その様子を、2013年(平成25)に河出書房新社から出版された大泉黒石『黄夫人の手―黒石怪奇物語集―』収録の、由良君美『無為の饒舌』から少し引用してみよう。
  
 無為の地点に坐りこみ、文壇の狭隘な偏見のなかで生き残ろうとすれば、黒石にとってなお可能であったのは、偽作のレトリックを鋭ぎすますことであった。『人間廃業』はその題名から、すでに昭和無頼派を予想させるものがあるが、『人間失格』の湿り気はこれっぱかしもなく、爽快な饒舌の大洪水である。レトリックの美事(ママ)さにおいて、おそらく黒石文学のひとつのピークであろう。ここにも黒石の中国思想とロシア文学の教養は沁みでているが、落語や戯作者の修辞を完全にこなした自在な駆使ぶりは、驚嘆に価する。(中略) とりわけ面白いのは、黒石独自の日本人論で、アナーキズムとボルシェヴィズムを流行のように口にしながら、いずれは日本人の?せ我慢が尻尾をだして自滅するまで大挙して日本刀を振りまわす時勢が来るであろう予測を、「<アナ>と翻えり、<ボル>と揺れる……瑞穂国の枝や葉」に仮託して、辛辣に衝く部分である。風俗諷刺も抱腹絶倒の箇所にみち、これこそ大正文化史の生きた見本である。
  
 昭和期に入ると、「私小説」家たちが群れる「文壇」からは、「純文学」ではなく「通俗小説」だと規定されて意図的に締めだされ、文学関連の雑誌社・出版社からは「文壇」が手をまわして排斥された黒石は、日本各地を旅して旅行記や紀行文を発表することが多くなる。下落合744番地から高田町鶉山1501番地へ転居したころは、群馬県の沼田から月夜野町、湯宿温泉、栃木県の奥日光などをまわって、盛んに山岳紀行や温泉紀行を執筆している。おそらく、当時は“日本の秘境”といわれた山岳地帯あるいは秘境温泉を、黒石は山岳雑誌や新聞社と連携しながら、ほとんど取材・踏破しているのではないかとさえ思える。
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 1930年(昭和5)11月15日に、群馬県月夜野町にいた作家・綿貰六助を訪ねた大泉黒石は、その足で湯宿温泉に向かっている。雪が降る深夜の三国街道を、和服にマントを羽織りリュックサックを背負った姿で歩いていた黒石は、さっそく怪しまれて非常警戒中だった巡査の不審訊問にひっかかった。非常警戒中だったのは、前日に首相の浜口雄幸が東京駅で銃撃される事件が起きていたからだ。
 黒石が反抗的だったのだろう、拘引しようとする巡査と乱闘になった。黒石は身体が大きいので、巡査が組み伏せられそうなところへ加勢が入り、黒石はその場で逮捕されている。先述の岸大洞による、『巡査と雪まみれの組打ちとなった黒石』から引用してみよう。
  
 折しもタクシーで通り合わせた教員と運転手と三人掛りで先生(大泉黒石)を車に押し込め、沼田警察署の“ブタ箱”入り。しかし、ロシア皇帝縁類の文士であると翌日聞いた署長が、お見舞い酒を買い、先生は留置場を出た。その後、湯宿温泉に泊まり、法師温泉へ行き、三国山へ登る途中で吹雪に見舞われた。先生は難行中、先夜、月夜野町で車に押し込まれた際に打った胸の痛みが再発。/忌ま忌ましさに宿を谷川温泉に移し、「三国の処女雪」と題した紀行文を書き、十二月八日から四回、国民新聞学芸欄に連載し、即日郵送してくれた。(カッコ内引用者註)
  
 沼田警察署の署長は、「ロシア皇帝縁類の文士」だとして釈放しているが、大泉黒石Click!の父親アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチは、ペテルブルグ大学卒の法学博士で帝政ロシアの領事官だったが、トルストイClick!と同郷のヤースナヤ・ポリャーナにあった農家の出身であり、ロシア皇帝との縁故関係はない。署長が詫びに酒を買って差し入れているので、署員の中に黒石の愛読者がいて「皇帝縁類の文士」だというウソを、文学に疎かった署長に吹きこんだのかもしれない。大正末から昭和初期、ロシア革命の混乱を避け日本に亡命したロシア人は、それほどめずらしい存在ではなかった。
 翌1931年(昭和6)の春、大泉黒石は栃木県の鬼怒川温泉にいた。講談社から黒石に声がかかり、すでに紀行作家としても有名だった彼に執筆を依頼している。この企画は、作家や画家たちに日光から鬼怒川、塩原を回遊してもらい紀行文を書いてもらうという趣旨で、参加したのは黒石のほか竹久夢二Click!、洋画家・水木伸一、漫画家・麻生豊Click!、詩人・福田正夫、そして作家・田中貢太郎Click!の6名だった。この中で、田中貢太郎は黒石を「文壇」から排斥するのに加担した人物なので、お互いやや気まずかったのではないだろうか。
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 このとき、現地を案内したのは栃木の詩人・泉漾太郎だが、大泉黒石は彼が新婚だと知ると水木伸一が描いた色紙の絵に、「せまくともおらが家だぞ蝸牛」の俳句を賛している。詩・歌・句にも造詣が深い黒石だが、「蝸牛」は少し早い季違いだと感じただろうか。
  石碑(いしぶみ)や古語父の里の蕎麦の花
  姫に肖(に)て貴きものを女郎花(おみなえし)
  山の宿やお膳の上の螽斯(きりぎりす)
  干柿や五戸の部落の冬構へ             黒石

◆写真上:小平霊園にある、貝化石混じりの青御影石を用いた大泉黒石の墓。
◆写真中上は、大泉黒石の墓石全景。は、1934年(昭和9)に出版された大泉黒石『山と渓谷』(浩文社)に挿入された大泉黒石の漫画とスケッチ。
◆写真中下は、1930年(昭和5)出版の大泉黒石『峡谷と温泉』(二松堂/)と、1934年(昭和9)出版の同『山と峡谷』(浩文社/)。は、上記『山と渓谷』(浩文社)掲載の黒石スケッチ。は、黒部渓谷をわたる大泉黒石(パーティ右先登/AI着色)。
◆写真下上左は、2013年(平成25)に出版された大泉黒石『黄夫人の手』(河出書房新社)。上右は、1988年(昭和53)に出版された『大泉黒石全集』第8巻(緑書房)。は、上記『山と渓谷』(浩文社)に掲載の黒石漫画で1931年(昭和6)の日光~塩原紀行(講談社主宰)の1シーンだとみられる。は、盛んに山登りをするようになったころの大泉黒石。

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