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あまりにもあからさまな下練馬地域のフォルム。 [気になるエトセトラ]

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 「濕化味(シツケミ/シゲミ)」Click!の地名音に惹かれて、前回の下練馬地域に残る小名「丸山」Click!を調べているとき、あまりにもあからさまなフォルムを発見して絶句したことがあった。落合地域をはじめ新宿区域にも、古墳地名Click!とともに大きな幾何学模様Click!がいくつか存在することは、過去記事Click!何度Click!も触れてきているとおりだが、これほど明確に古墳の形状が現代まで残されているのは、耕地整理と宅地開発が市街地よりもかなり遅く、戦後になって行われた練馬地域全体の特徴だろうか。
 インターネット上で同地域の情報を調べていると、これらの幾何学的なかたちは昭和期におけるモダンな住宅街の形成テーマとともに語られていることが多い。すなわち、多摩川台(のち田園調布)Click!国立学園都市Click!と同様に、このような円形の、あるいは方形の道路網が整備されたのだろうというとらえ方だ。だが、歴代の空中写真を参照すれば明白だが、これら整った正円や方形の幾何学フォルムは、戦後、同地域で耕地整理が進捗し住宅街が形成される以前、すなわち周辺が田園風景で農家が散在する時代から、田畑の畔や畦道、境界、農道がこのような形状をしていた様子が歴然としている。
 モダン住宅街の特徴は、これら正円(あるいは半円)・方形の中心には鉄道駅や広場があるのが通例だが、下練馬に地下鉄・有楽町線が成増駅まで延長され、氷川台駅や平和台駅が設置されたのは1983年(昭和58)になってからのことだ。しかも、これらの駅は確認できる幾何学フォルムからは大きく外れており、円形や方形の中心はもちろんそれまで田畑→耕地整理→宅地のままだった。むしろ、旧来の田畑の畔や畦道、境界(地形的に段差や窪地が形成されていたとみられる)に沿って、後世に宅地化の道路敷設や宅地造成が進められた結果とみるのが自然だろう。中でも、もっとも典型的な“鍵穴”型をしている、平和台駅に近いフォルムを取りあげてみよう。(冒頭写真) 現在の住所でいうと、平和台4丁目から北町4丁目~7丁目に展開する、巨大な前方後円墳とみられる痕跡だ。
 この一帯(平和台4丁目)は、江戸期の小名では「西本村」「丸久保」と呼ばれた地域であり、近くには「大山」「中ノ台」「庚申塚」「富士山」(北町4~7丁目)などの小名が散在する。この中で、「富士山」は北町の氷川明神社にある富士塚にちなんだ、または富士講Click!が富士登山に向かう街道筋に見られる小名だが、「大山」は大山講の阿夫利社詣での街道筋にふられた小名だろうか? 「大山」や「大塚」は全国に展開する古墳地名の典型例であり、「大山(大仙)古墳」Click!「大山〇号墳」などが各地に存在している。また、「中ノ台」も突起地形を表す小名であり、田畑の中に起立している墳丘を想起させる呼称だ。タタラ集団Click!が奉った「荒神」が、江戸期に流行した庚申信仰Click!で転化したかもしれない、小名「庚申塚」があるのも地域的に興味深い特徴だ。ちなみに、小名「庚申塚」は平和台4丁目(西本村)に現存する庚申塔とは別の存在だ。
 平和台4丁目側、前方後円墳フォルムの東に位置する江戸期からの小名「丸久保」は、円形に窪んだ地形(湧水をともなう)からそう呼ばれていた可能性が高いが、これも古墳の周壕(濠)を感じさせる名称だ。事実、“鍵穴”フォルムの東側には、戦後まで灌漑用水が通っており、また正円形の北西側にも灌漑用水の流路が確認できる。
 平和台駅北側に位置する前方後円墳のフォルムをした畑地だが、全長を計測するとおよそ500mをゆうに超えている。もちろん、500m級の前方後円墳(日本最大となってしまう)があったわけではなく、他の耕地開拓事例と同様に墳丘を崩しその土砂で周壕(濠)を埋め、さらに外周域へ均して整地化Click!していったのだろう。江戸近郊の開拓が盛んに行われ、生産性の向上が急務だった江戸前期の事業だったかもしれない。
 小名「大山」の存在とともに、この地域には「塚」と認識できるレベルではなく、「山」と表現されるような大規模な突起(下落合の摺鉢山Click!のように)があった可能性を否定できない。墳丘が崩されて均され、整地化した農地Click!にされたとはいえ、少なくとも300mを超える前方後円墳を想定するのは、あながちピント外れではなさそうに思う。それほど、地形図や空中写真を参照すると、まるでナスカの地上絵のように、田畑の中に忽然と出現する幾何学形なのだ。
 一帯は、1950年代まではほとんど畑地(一部は田圃)だが、それ以降の時代になると農家以外の家屋が急増して住宅街が形成されている。だが、現在でも同フォルムの周辺には、農地(おもに練馬のダイコン畑)が随所に残っている。江戸期に行われた、大規模な農地開拓の土木工事で古墳の膨らみは跡形もなく、ほとんど平地に均されてしまったとみられるが、ここは実際に現地を歩いて検証してみるに限る。では、さっそく平和台へ出かけてみよう。
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 平和台駅から北東へ300mほど歩くと、前方後円墳フォルムの南端に当たる東西道(前方部南端)にたどり着くことができる。この前方部の形状の底辺となる、西北西から東南東にのびるほぼ直線の道路はゆうに250mを超えており、これほど規模が大きい古墳だったとみられる痕跡を歩くのは、青山墓地に隣接した南青山ケースClick!や目黒駅東口の森ヶ崎ケースClick!以来かもしれない。中野三谷ケースClick!や新宿駅西口の角筈ケースClick!などが、ひとまわり小さなサイズに感じられるスケールだ。
 前方部から後円部へ地形を確認しながら歩いていくと、江戸期の徹底した土木技術による農地開拓が行われたのだろう、前方部はほとんど平地化されているが、後円部はちょうど環状8号線と補助235号線が交差する正円の中心部あたりから、おもに南側と北側へ明らかに傾斜していることがわかる。つまり、後円部北側の一画は現在、パイの4分の1ピースほどが陸上自衛隊の練馬駐屯地として削られて不明だが、後円部だったとみられる正円部は、中心部の盛りあがっている地形が歴然としている。
 後円部とみられる、二重の円形に道路が敷設された道筋を歩いていると、なんともいえない不思議な気分になってくる。効率のよい道路の敷設や宅地開発なら、必ず直線状に拓かれるべき道筋が、わざわざきれいな正円形に敷かれている。そこに建つ住宅群やアパートも、畑地時代からつづく変形の敷地が多く、それぞれ妙な向きで建設されている。中央にある内側の小さな正円形を、墳丘が崩される以前に存在した本来の後円部のサイズだとしても直径は200mほど、南に延びる前方部を加えれば、やはり全長300mをゆうに超えるサイズの前方後円墳を想定することができる。
 また、外側の大きな正円形の東側=外廓の位置に、同じ曲線の境界(畔)跡を確認できるので、崩された墳丘の土砂は西側よりも、おもに東側へより多く運ばれて周壕(濠)や谷戸(久保・窪地)の埋め立てに使われたのかもしれない。特に後円部の地下は羨道や玄室が存在する位置なので、周囲の公園や庭先に大きめな房州石Click!が、庭石Click!などになって残されていないかどうか気になったが、今回の散策では発見できなかった。
 さらに、前方部の東側、古墳フォルムのほぼ造り出しClick!にあたるような位置に、西本村稲荷社と同御嶽社、それに庚申塔がまとめて配置されているのも気になった。なぜなら、大型古墳の急斜面を活用して古代以降のタタラ集団Click!神奈(鉄穴)流しClick!を行った事蹟かもしれず、稲荷は「鋳成」の庚申は「荒神」への江戸期における転化が疑われるからだ。換言すれば、これらの社(聖域)や塔などの史蹟は、崩される以前の墳丘のどこかに奉られていたものが、江戸期に入り農地開拓とともにこの位置に移され、社や塔への信仰とともに名称も変更された可能性がある。「久保」や「窪」Click!の地名、すなわち湧水源には噴出する地下水とともに砂鉄の堆積場Click!が形成されやすいのも史的事実だ。
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平和台③.JPG 平和台④.JPG
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 さて、地下鉄・平和台駅の北側に位置する前方後円墳のフォルムを、便宜上、西本村古墳(仮)と名づけてみよう。同古墳(仮)だけでなく、古い時代の空中写真から周囲の状況はどうなっていただろうか? 特に、戦後もしばらくしてから宅地開発にともなう道路敷設が進捗する以前、いまだ農地と農家が散在するのみで、一面に広がる田畑の畔や畦道、境界、農道などがあるるだけの、この地域にどのような光景が見えるのだろうか? 戦前の空中写真を年代順に参照すると、その結果は一目瞭然だった。西本村古墳(仮)の周辺には、同じように幾何学的なフォルムだらけだったのだ。
 いまだ、多くの農地が耕地整理も宅地開発も行われていない、陸軍航空隊が撮影した1944年(昭和19)の比較的鮮明な空中写真を参照すると、西本村古墳(仮)の南東側、すなわち氷川台側に大型の円形および方形のかたちを見ることができる。これは、大型の前方後円墳跡とみられるフォルムと同一エリアに、大型の方墳あるいは前方後方墳とみられる痕跡が並列していた、目黒駅東口の上大崎今里ケースClick!に近似している。また、西本村古墳(仮)のすぐ近くにも、やや小さめな正円形のフォルムを確認することができる。これらは、主墳に付属した陪墳の古墳群跡だろうか。
 さらに、西本村古墳(仮)の南には周壕(濠)跡とみられる形状まで残る、やはり前方後円墳のフォルムが明らかに見てとれる。これだけ古墳跡とみられる痕跡が残るエリアでは、ある墳丘を崩して周壕(濠)を埋め立てる際、周壕(濠)域の面積が大きい古墳のケースは、周囲の余った墳丘の土砂もあわせて埋め立てに活用したのかもしれない。
 これらの幾何学フォルムの数々は、氷川台駅から平和台駅の先まで、およそ一辺が2km前後の方形エリアに集中して存在している。関東地方でいえば、100mを超える古墳が密集している埼玉(さきたま)古墳公園、あるいは千葉県の内房線にある青堀駅周辺に集中する50基ほどの大小古墳群に近似した光景といえるだろうか。北武蔵勢力とみられる埼玉(さきたま)古墳群も、千葉県に展開する南武蔵勢力とみられる古墳群も、大規模な農地開拓や宅地開発が行われなかったために、今日までその形状をよく残している史蹟だ。
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 今日、関東各地の宅地開発が進んでいない地域では、微細な土地の隆起や農地の形状を上空からの熱赤外照射や、X線照射によって観察する空中考古学が盛んだ。特に、群馬県や栃木県では大きな成果をあげており、それまで未発見だった大型古墳や玄室などが次々と発見されている。現代の住宅街の上空から、それらの照射は不可能だが、それに代わるなんらかの観察・分析法が見つからないものか、今後のテクノロジー進化に期待したい。

◆写真上:耕地整理が行われる以前、戦前の1944年(昭和19)に撮影された空中写真にみる下練馬の「西本村」から「丸久保」界隈。北側の陸軍練馬倉庫から拡大された陸軍用地が、後円部の痕跡だったとみられる北側に喰いこんでいる。
◆写真中上は、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる同所のフォルム。陸軍の用地は米軍に接収され、物資の集積場として使用されていたようだ。は、現在でも農地で多く栽培されている練馬のダイコン畑。
◆写真中下:1944年(昭和19)の空中写真と、はその現状を撮影したもの。田畑の境界や畔、畦道、農道などがそのまま住宅道路になっている。戦後の耕地整理の際、あらかじめ幾何学的なフォルムの農地がモダンな形状に見えたディベロッパーが、そのまま道路を敷設して宅地開発を行ったものか。写真は近くに西本村稲荷や庚申塔がある道筋で、墳丘の土砂がおもに東側の埋め立てや整地に使われたとみられる痕跡。
◆写真下は、戦前1944年(昭和19)と戦後1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる氷川台から平和台にかけて随所に確認できる幾何学的なフォルム。この時代には、いまだに墳丘の残滓が残る地点があったかもしれない。は、西本村稲荷社と保存された庚申塔。
おまけ1
 同じようなフォルムが展開していた、目黒駅の東側に拡がる上大崎地域。こちらは、前方後円墳や方墳(前方後方墳?)とみられる墳丘の土砂が、江戸期に谷戸や谷間の埋め立て・整地=耕地開拓に使われず、森ヶ崎や今里の形状は後世までそのまま残っていた。
目黒駅東口.jpg
おまけ2
 大型・中型古墳が密集したエリアが、そのまま大規模な公園化された埼玉(さきたま)古墳公園(上)と、内房線・青堀駅(千葉県富津市)の周辺に展開する大小の古墳群(下)。後者の青堀駅は、駅前のグリーンロータリーからして50mほどの前方後円墳(上野塚古墳)であり、内房線線路の南側には周壕(濠)をともなう大型古墳や陪墳などが密集して築造されている。千葉県は出雲圏の鳥取県を抜いて現在、古墳ランキングでは全国2位となっているが、頻繁に発見ニュースを耳にする群馬県は、もうすぐ5位の京都府を抜きそうな勢いだ。けれども、1457年(康正3)に太田道灌が江戸城Click!を築城して以来、農地化と都市化が急速に進んだ江戸東京地方では、その大多数が破壊され農地や家屋の下になってしまったのだろう。
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