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江戸湾を眺望できた待乳山古墳。 [気になるエトセトラ]

待乳山古墳1.JPG
 以前、東京地方には大型の前方後円墳の墳頂部を平らに削り、数多くの寺社が建設されているケースClick!をご紹介したことがあった。平地に改めて大量の盛り土をする必要がなく、最少の工程で寺社の境内を建設できるため、各時代の土木事業には非常に“便利”な地形だったろう。エト゜(岬)の付け根にあった、柴崎村の前方後円墳Click!(将門首塚Click!)には8世紀に神田明神Click!が築かれ、より古い社である関東各地の氷川明神Click!も、大きめな古墳を活用して境内が拓かれている。
 今回は、久しぶりに浅草寺の裏側を散歩したので、待乳山(真土山)の本龍院(聖天)を訪ねてきた。おそらく待乳山へ上ったのは、親に連れられて出かけた子どものころ以来だろう。待乳山聖天は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!の際に全焼し、その年の暮れから翌年にかけて調査に入った鳥居龍蔵Click!の考古学チームによって、巨大な前方後円墳の残滓だと規定された上に建立されている。待乳山聖天に限らず、浅草地域には古墳が多く、浅草寺境内の堂がある弁天山の敷地全体も同時期の調査で前方後円墳(弁天山古墳)と規定されている。浅草界隈に古墳が多いのは、弥生末期から古墳期にかけエト゜(岬・鼻=江戸)湾における海上物流拠点である、浅草湊が発達していたゆえんだろう。
 当時の地形を前提にすると、浅草は大川(荒川・隅田川)の沿岸ではなく、深い入り江の突き当たりにあった湊(港)で、江戸湾の海辺に直接面していた。房総半島の突端で切りだされ、関東地方にある多くの古墳の玄室・羨道石材に活用された房州石Click!も、この浅草湊や品川あたりの荏原湊、三浦半島で栄えた古代の港・六浦湊(金沢八景=バッケClick!)で陸揚げされ、河川などを通じて関東各地へと運ばれた可能性がある。おそらく、これら古代湊の近くに築造された古墳群は、その地域を治めたクニの「王」、または古墳の規模によってはより広いエリアの「大王」Click!の墳墓だと思われる。
 鳥居龍蔵が調査した1923年(大正12)現在、すでに待乳山は100mほどの規模になっていたが、これは墳丘を改造する際に前方部あるいは後円部の斜面のほとんどを垂直に削り、城郭の石垣のような造りにしているからだ。595年(推古天皇3年)からつづく浅草寺の山号「金龍山」のいわれと、つづく601年(同9年)に観音の故事を生んだ山として有名だが、6世紀にはもちろん、前方後円墳のきれいな鍵穴型(周濠を含めれば巨大な釣鐘型)をしていただろう。墳丘斜面をすべて削り取り、垂直の石垣が築かれたのは江戸期の造作と思われる。
 江戸期の資料には、待乳山から削り取った土砂が、1621年(元和6)に日本堤の建設へ流用されたとあるので、古墳の斜面はもちろん墳頂部のかなりの部分の土砂を削って運んでいるのだろう。ただし、長大な日本堤(のち吉原土手Click!)を築くには待乳山の土砂をすべて使っても間に合わないと思われるので、当然、山谷堀を掘削した土砂も流用されているのだろう。日本堤は鳥居龍蔵の調査から4年後、1927年(昭和2)に撤去され新たな道路(土手通り)が建設されている。
待乳山1923.jpg
待乳山古墳2.JPG
待乳山古墳3.JPG
 鳥居龍蔵は、建物が消滅した大震災の焼け跡から次々と大小の古墳を発見しているが、浅草寺の境内にあった弁天山の古墳調査から、北に位置する待乳山へと向かっているとみられる。当時の様子を、1927年(昭和2)に磯部甲陽堂から出版された鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』から引用してみよう。
  
 又橋場にある妙亀尼塚も古墳であるが、これも能く現はれて来た。駿馬塚は今回の震災で憐れな状態になつて居るが、嘗つて此処から陶棺を掘り出したことは、碑文に刻せられて立つて居るので分る。/更に待乳山はどうかといふと、此処も其の当時の古墳であつて、これは洪積層の高台の上に作りつけした瓢箪形の墳である。此の待乳山の地は、不思議にも沖積層の中にありながら、洪積層として存在し、一つの孤島の形をなして居るのである。そこで当時此の作りつけの古墳を設けたのであつて、是れ亦今度の震災に依つて其の形が現はれたのである。
  
 さて、実際に待乳山とその周辺を歩いてみると、確かに江戸期の記録にみられるように、大量の土砂が削り取られた様子を観察することができる。境内の周囲は、ほとんどが垂直に切り取られた絶壁の石垣になっており、その擁壁へ接するように家々やマンション、公園などが建ち並んでいる。明治期の写真を見ても、境内のすぐ間際まで住宅の建っていた様子がうかがえる。都内の多くの寺社古墳と同様に、参道は前方部へと上る階段にはじまり、さらに高くなった後円部の上部を平らに輪切りにした敷地に、聖天の本堂が建設されている。おそらく、前方後円部ともに上部の土砂もかなり削られ、高さが低くなっているのだろう。
 この本堂の敷地がめずらしいのは、現在でも正円形をよく保っているということだ。つまり、その正円形の規模から、本来の斜面を含めた後円部全体の高さや規模が、おおよそ推定できることになる。垂直に削り取られた墳丘は、現在では100mほどだが、後円部につづいていた本来の斜面や、江戸期より道路や町家の開発によって掘削された前方部を含めると、150m前後の規模の前方後円墳とみられる。ただし、これは現存する墳丘からの推定であって、大量の土砂が日本堤建設へ使われたという江戸期の記録をそのまま信じるとするなら、古墳の規模はもう少し大きかったのかもしれない。
 待乳山の西側には、かなり広い待乳山聖天公園があって子どもたちの遊具も設置されているが、ちょうど前方部と後円部の境界、くびれのある部分に土を盛り上げて花壇にしているのが面白い。まるで、前方後円墳の祭祀をつかさどる“造り出し”のような風情だが、待乳山本来の由来を知るどなたかが企画した、ちょっとした“遊び心”なのかもしれない。
待乳山古墳4.JPG
待乳山古墳5.JPG
待乳山古墳6.JPG
待乳山古墳7.JPG
 さて、これだけ大きな「王」クラスの前方後円墳となると、当然ながら陪臣たちの墓=陪墳群Click!の存在を疑いたくなる。でも、江戸期より山谷堀や日本堤などの土木工事が行われてきた待乳山の北側、すなわち後円部の外周域にその痕跡を探すのは絶望的だと考えていた。だが、明治時代に撮影された興味深い写真が現存している。1911年(明治44)に出版された小川一真『東京風景』所収の、大川(隅田川)の対岸から待乳山と山谷堀をとらえた写真だ。待乳山の右側(北側)、今戸橋から見て右手の山谷堀沿いにこんもりとした森が、少なくとも明治末まで残っていたのが確認できる。
 1942年(昭和17)に陸軍航空隊によって撮影された空中写真を見ると、ちょうど慶養寺の境内あたりにそれらしいサークル痕を発見することができる。また、1947年(昭和22)に米軍が焼け跡の東京を撮影した空中写真にも、同様の痕跡が見てとれる。おそらく、待乳山古墳の陪墳のひとつが、江戸期の大規模な土木工事による開発をまぬがれ、明治期まで残っていたのではないだろうか。待乳山古墳ほどの規模の前方後円墳であれば、都内で観察できる100mを超える古墳、たとえば一部を崩されてしまった芝丸山古墳Click!(陪墳11基)や新宿角筈古墳(仮)Click!(陪墳10基前後)にも見られるように、少なからぬ陪墳群を従えていてもなんら不思議ではない。
 待乳山古墳に限らず、古代の江戸湾を一望に見わたせる見晴らしのよい場所に古墳が築かれているのは、エト゜(岬・鼻)の付け根にあたる芝崎古墳(将門首塚古墳)や、増上寺の境内にかろうじて保存されている芝丸山古墳、上野山の見晴らし台にされていた上野摺鉢山古墳Click!などに見られる共通的な特徴だ。これらの古墳の被葬者たちは農業に限らず、なんらかの海や湊に関連した事業、たとえば海上物流ないしは漁業などの組織的な事業によって豊かな経済基盤を形成していたと思われ、古墳期の南武蔵勢力Click!圏に現れた「大王」ないしは「王」たちだったとみられるが、江戸期に進んだ都市化の波とともに調査もなされずに崩され消滅してしまった墳丘は、おそらく膨大な数にのぼるのだろう。
今戸橋(明治中期).jpg
小川一真『東京風景』1911.jpg
待乳山1942.jpg
 明治末から大正期にかけ、武蔵野の「原野」が拡がり「蛮族」たる「阪東夷」が跋扈していたはず関東地方に、坪井正五郎や鳥居龍蔵らの考古学チームが次々と大型古墳を発見・発掘して以来、21世紀の今日まで続々と新発見はつづいている。いまや、古墳数からいえば北関東(毛野勢力)・南関東(南武蔵勢力)を問わず近畿地方をしのぐ勢いだ。科学的でなく神話的な妄想にとらわれた「皇国史観」Click!学者が聞いたら、とたんに顔をしかめかねない現状だけれど、それはまた、別の物語……。
 余談だが、先日、興味深いお話をうかがった。茨城県の利根川流域では、同河川の氾濫を抑えるためと称し明治政府の命令で、流域にある膨大な大小古墳群をつぶして大量の土砂を護岸工事に当てたという事績だ。関東の膨大な古墳群(特に大規模古墳)を「なかったこと」にしたい明治政府が、直接手を下した「抹殺計画」の一環だろう。もし、利根川流域にそのままの古墳群が現存していたら、常陸圏は出雲圏と並ぶ上古の歴史が宿る地域なので、日本の古墳数では現在の国内第2位の千葉県をしのいでいたのかもしれない。

◆写真上:前方部上の参道から眺めた、後円部の墳頂を削って造成された聖天の本堂。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災直後に鳥居龍蔵によって撮影された待乳山(真土山)古墳。は、待乳山西側の前方部に造られた参道への入口。は、待乳山聖天公園の側から眺めた待乳山古墳の西側現状。
◆写真中下は、本堂が建つ後円部から眺めた参道がつづく前方部の現状。は、後円部の本堂を中心に正円形に裏へとまわる敷石。は、絶壁となって落ちる後円部の西側(待乳山聖天公園側:上)と、ビルに接した北側(山谷堀側:下)の絶壁。
◆写真下は、明治中期に撮影された山谷堀の今戸橋と背景の待乳山。矢印が、現在のビルとの境界あたりの絶壁。は、1911年(明治44)に小川一真によって撮影された待乳山聖天(左手)。後円部の北側に、陪墳とみられる突起状の森(矢印)がとらえられている。は、1942年(昭和17)に撮影された空中写真にみる待乳山。斜面が削られる以前、本来の古墳サイズと慶養寺境内に残されていたとみられる陪墳位置を想定してみる。


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ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>はじめてのDORAKENさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 12:11) 

ChinchikoPapa

高校ラグビーの常連だった伏見工業高校も、学校の統廃合でなくなってしまうそうですが、寂しいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 12:13) 

ChinchikoPapa

わたしが子どものころ、ケイトウの赤い花はあちこちに咲いていましたが、最近はあまり見かけないですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 12:14) 

ChinchikoPapa

乗り換え時間4分というのは、ちょっとつらいですね。旅先にきて、通勤電車のように急かされている気がします。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 12:21) 

ChinchikoPapa

ルフの緑がかった、『ナハト (nacht)』シリーズが好きですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 12:28) 

ChinchikoPapa

清次郎歌岬には、やはり恋物語が絡んでいましたか。なんだか、あまりに「ありがち」で気が抜けてしまいます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 12:32) 

ChinchikoPapa

J.パストリアスは1987年に野たれ死にしているのに、なぜ2000年録音なんだ?…と一瞬、頭が真っ白になってしまいました。トリビュート盤なんですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 12:36) 

ChinchikoPapa

5)は脚までがぼやけるので、フィギュアが動いているように見えますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 12:39) 

ChinchikoPapa

ウディ・アレンは相変わらず、過去を振り返るなんだか私小説的な作品を撮りつづけているようですね。w そこがたまらなく好きというフリークが、けっこういそうですけれど。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 12:43) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>AKIさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 12:44) 

ChinchikoPapa

電車の女性は、おかしいというより少し怖いですね。なにか目に見えないものが、彼女には見えているのかと思いました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 19:10) 

ChinchikoPapa

柿の実が橙色に熟してくると、タヌキたちが様子を見にウロウロやってくるきょうこのごろです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 19:13) 

ChinchikoPapa

最近、よそで造られた梅酒に凝っています。家でもたくさん仕込んでいるのですが、つい黒糖で造られた梅酒を買ってしまいました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 22:32) 

ChinchikoPapa

その昔、ワインやシャンパンのコルクが集まって子どもたちに上げると、特にシャンパンのものは形が面白いので喜んでいました。いったい、なにして遊んでいたんでしょうね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2016-10-27 22:53) 

ChinchikoPapa

家電を新しくするのは、節電効果が大きいようですね。あと、電力会社を変えたせいか、今年の夏は例年よりも電気代がかなりおトクだったようです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2016-10-28 10:26) 

ChinchikoPapa

子どものころ、よく熱いご飯に新鮮なバターをのせ、かつお節と醤油を少したらした「バターライス」を食べていました。わさびは入れませんでしたが、横浜では昔から食べられていたハイカラ飯のようです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2016-10-28 10:35) 

ChinchikoPapa

きょうは鳥肌が立つほど寒いですね。とうとう、カーディガンを出してしまいました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okin-02さん
by ChinchikoPapa (2016-10-28 14:35) 

ChinchikoPapa

「江戸琳派の旗手」展は明日まででしたね。すっかり忘れていました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>lequicheさん
by ChinchikoPapa (2016-10-29 12:36) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2016-10-30 20:17) 

Marigreen

どういう訳か?古墳にはあまり興味ないです。学生時代の教養学科で古墳か何かを掘る授業を申し込んだら、一泊食事つきで、日当も出るという考古学の科目があって、学生に大人気で一杯申し込んでいたけど、いくら金くれても、興味ないことはできないから、私は申し込まなかったです。
by Marigreen (2016-11-01 10:55) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
それは惜しいことをしましたね。東京とその周辺の古墳は、最近の発掘によりずいぶん「定説」がひっくり返っているところが多いので、歴史を書きかえる現場に立ち会えたかもしれません。早大と学習院大が、大田区あたり(多摩川台や野毛周辺)の発掘を連続して行なったと聞いたことがありますので、戦前に円墳と規定されていた古墳が、次々と前方後円墳に規定し直される状況を見られたかもしれませんよ。
by ChinchikoPapa (2016-11-01 13:59) 

アヨアン・イゴカー

>関東の膨大な古墳群(特に大規模古墳)を「なかったこと」にしたい明治政府が、直接手を下した「抹殺計画」の一環だろう。
このようなことが実際に意図的に行われいたとしたら、大きな問題ですね。非常に興味深いご指摘だと思いました。
by アヨアン・イゴカー (2016-11-06 09:42) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、こちらにも「読んだ!」ボタンとコメントをありがとうございます。
利根川流域の事績は、地元の方がいっておられるようなので事実だと思います。近々、目黒の古墳について書く予定ですが、ほぼ古墳とわかってはいても、関東ではなぜか「カウント」されない……という、もうひとつ別の課題もあったりしますね。

by ChinchikoPapa (2016-11-06 13:53) 

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