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落合第一府営住宅での暮らしが長い河野伝。 [気になる下落合]

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 目白文化村Click!の第一文化村に建てられた中村正俊邸Click!神谷卓男邸Click!の設計、安食勇治邸Click!(のち会津八一邸Click!)が建てられる直前、同邸敷地に建っていたモデルハウスClick!、また文化村倶楽部Click!の設計なども手がけている可能性が高いのが、箱根土地本社Click!に嘱託社員としてつとめていた建築士・河野伝(傳:つとう)だ。
 河野伝は、大正期に目白文化村の建設がスタートする以前から、下落合の落合第一府営住宅Click!に住んでいたとみられ、F.L.ライトClick!に師事していたころから堤康次郎Click!とは知りあいだった可能性が高い。落合府営住宅の土地は、もともと堤康次郎Click!郊外遊園地Click!のひとつである不動園Click!を前谷戸に開発していた時代に、下落合の地主(下落合出身の妻の姻戚Click!含む)との協業により、将来の住宅地開発を意識した戦略上から、東京府へ寄付した目白通り沿いの土地だった。だから、落合第一府営住宅の河野伝邸も、堤康次郎が箱根土地設計部の嘱託社員としての契約を前提に、東京府住宅協会への便宜をはかる声がかり(口利き)で建設されているのかもしれない。
 下落合1502番地(落合第一府営住宅16号)の河野伝邸は、目白通りに近い北端、同じ落合第一府営住宅内の沖野岩三郎邸Click!(8号)から道路を隔てて東へ2軒隣り、土屋文明邸Click!(20号)からもやはり道路を隔てて北へ2軒隣りという位置に建っていた。河野邸の北東側には、銭湯「菊ノ湯」Click!が営業しており、風向きによっては煙突からの煤煙で洗濯物が汚れたかもしれないが、会社へは邸前の道をそのまま南へ250mほど歩けば、3分前後でレンガ建ての箱根土地本社ビルのエントランスに立つことができたろう。
 河野伝は、1920年(大正9)にはすでに竣工していたとみられる同邸に住みはじめ、箱根土地本社が1925年(大正14)に国立Click!へ移転したあとも、下落合にそのまま住みつづけている。日本紳士録や興信録によれば、1941年(昭和16)現在も下落合3丁目1502番地に住んでおり、おそらく1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、自宅が全焼するまで住みつづけているとみられる。なお、たとえば1931年(昭和6)に刊行された『日本人事録』(日本人事通信社)などでは、河野伝の住所を「下落合目白文化村」としているが、彼が目白文化村に住んだことは一度もない。河野伝は、大正中期から1945年(昭和20)まで、一貫して落合第一府営住宅16号に住んでいる。また、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、残念ながら彼は収録されていない。
 河野伝は、1896年(明治29)に宮崎県で生まれ、京都高等工芸学校の建築家を卒業すると、帝国ホテルClick!を建設中だったF.L.ライトに師事している。だから、書籍や資料類には建築家としての仕事について書かれたものが圧倒的に多く、拙サイトでも下落合の箱根土地本社と目白文化村開発の関係から、彼の建築分野についての仕事に多く触れてきた。けれども、昭和初期には箱根土地の開発事業、すなわち建築業務の全般から離れがちになり、河野伝の関心は明らかに音響や映像の世界へと向かっている。昭和期に入ると、ほどなく箱根土地の嘱託社員を辞めてしまったのだろう。
 昭和初期の映画関係の資料では、河野伝は建築家ではなく映像分野の“業界人”として紹介され、下落合1502番地の住所には「コーノトーン研究所」の名称が付加され、建築家の肩書は副次的な扱いになっている。たとえば、1935~1936年年(昭和10~11)にキネマ旬報社から刊行された『全国映画館録』では、下落合3丁目1502番地の河野邸は「コーノトーン研究所」であり、姻戚とみられる河野亨という滝野川に住む人物が、技術部門を担当している様子がうかがえる。1936年(昭和11)には、「コーノトーン映画録音研究所」と社名を変更し、本社および工場を河野亨が住んでいた滝野川に設定している。そして、大阪に出張所を設け名古屋、高松、小樽の3ヶ所には特約店を設置している。
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 さらに、1941年(昭和16)には研究所の拠点を豊島区巣鴨6丁目1336番地に移転しており、事業はコーノトーン式発声映写機製作販売と明記されており、代表者も河野伝と河野亨のふたり体制となっていた。また、創業を1931年(昭和6)4月としており、コーノトーン研究所が本格的かつ組織的にビジネスを開始したのが同年なのだろう。それ以前は、あくまでも個人的な研究所の体裁だったとみられる。
 1934年(昭和9)の時点で、コーノトーン研究所がすでに映画の最前線にいた様子を伝える記事が残っている。同年1月5日にキネマ週報社から刊行された「キネマ週報」の、「トーキー時代◇簡易保険局のトーキー映写機試験とその成績◇」から引用してみよう。
  
 当日神田日活館の競映に参加した国産トーキー業者はP.Wトーキー、コーノトーン、オールキネマ、岡本洋行の四社であつた。当日参加しなかつたもの以外に呼ばれていた者も相当あるとのことである。試験委員としては通信省技師、日活社員と買上元たる簡易保険局の人々等で、厳然たる中に試験が開始せられた。試験フヰルムは日活のウエスタン式による「丹下左膳」の一部とP.C.Lの「ほろよひ人生」の一部を使用したが、此の試験フヰルムにはそれぞれ特長があり一概に良い録音とは言はれないが国産トーキーの代表的なもので高音低音共に試験にはもつてこいのものである。
  
 1934年(昭和9)の時点で、コーノトーン研究所は政府機関のコンペに参加するほどに、「発声映写機」の製品開発が進んでいたことがわかる。
 研究所の名がしめすとおり、コーノトーンはトーキー映画時代の音声と映像がシンクロする発声機や映写機を開発し、日本国内ばかりでなく海外へも輸出しはじめている。戦前に制作された、コーノトーンの仕組みを解説するパンフレットには、大きな広告プレートが屋上近くに設置されたビル(滝野川区滝野川にあった研究所ビルか?)がメインビジュアルとなっており、トーキー映画の普及とともにコーノトーン映画録音研究所は大きく躍進したのだろう。このころの河野伝は、同研究所の所長としてコーノトーン事業に傾注しており、すでに建築の仕事はほとんど辞めてしまったと思われる。
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全国映画館録1935キネマ旬報社.jpg コーノトーンパンフレット.jpg
 また、トーキー映画との関連でコーノトーン式の製品開発を「戦後」とする資料や記事も多いが、明らかに昭和期に入るとともに下落合の河野伝邸、および滝野川区滝野川の河野亨邸は「コーノトーン研究所」と名づけられており、1945年(昭和20)の敗戦の時点で、すでに20年近くにわたる研究開発の履歴を確認することができる。先の「キネマ週報」の記事や、「コーノトーン」パンフレットの制作、滝野川の河野亨邸をR&Dならびに工場敷地の本拠地とし、各地に出張所や特約店を展開していったのは1935年(昭和10)前後だから、昭和の最初期から研究開発を約10年間ほどつづけたうえで、ようやく製品化(量産化)にこぎつけたのが同年あたり……ということになるのだろう。
 当時、日本の映画館では活動弁士Click!が活躍する無声映画の時代から、トーキー映画Click!が急速に普及しはじめており、映画の撮影現場ではフィルムとシンクロして音声をひろうマイクや録音機、全国の映画館ではフィルムを映写する際には音声と映像が連動して再生できる映写機が、飛ぶように売れはじめていた時期と重なっている。コーノトーン映画録音研究所は独自に開発した録音再生技術をベースに、この波に乗って大きく成長し、海外にまでコーノトーン式35mm映写機を輸出するまでになったのだろう。
 また、1935年(昭和10)を契機にコーノトーン仕様をはじめ、映像と音声を同時に録画・録音し再生できるトーキー映画の撮影も活発化している。同年に誠光堂から出版された、仲木貞一,・吉田正良共著『最新トーキーの製作と映写の実際』から引用しよう。
  
 本邦のトーキー革新期に於ける主なる作品としては、/日本発声=大尉の娘。叫屋小梅。ふるさと。物言はぬ花。雨下天晴(支那映画)。/映音式=舶来文明街。昼寝もできない。/コーノトーン式=午前二時半。/土橋式=マダムと女房。若き日の感激。其他。/吉阪式=東京近郊巡り。漫画数篇。オリムピツクサウンドニュース。東日、大毎サウンドニュース其他。/PCL式=昭和新選組。とても笑へぬ話。純情の都。
  
 この中で、コーノトーン仕様を採用した監督:細山喜代松『午前二時半』(富士発声/1932年)は観たことがないが、吉阪式のおそらくドキュメンタリー映画とみられる『東京近郊巡り』(詳細不詳)が気になっている。ほぼ同時期の作品と思われるが、昭和初期の東京郊外だった落合地域を撮影してやしないだろうか。
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コーノトーン35mm映写機.jpg
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オモチャの科学1940文化日本社.jpg
 1940年(昭和15)になると、河野伝は映画の企画製作にも取り組んでいる。同年4月には、いずれも教育ドキュメンタリー映画の『音感』と『オモチヤの科学』を製作している。滝野川のコーノトーン映画録音研究所には、映画撮影用のスタジオも設置されていたのだろう。

◆写真上:下落合1502番地(落合第一府営住宅16号)の河野伝邸跡(画面左手)で、奥のやや右手に見えている高層マンションの隣りが箱根土地本社跡。
◆写真中上は、河野伝が設計した第一文化村の中村正俊邸。中上は、同じく第一文化村の神谷卓男邸とのちに安食邸建設予定地に建つモデルハウス。中下は、やはり河野伝設計といわれる1926年(大正15)撮影の国立駅Click!は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる落合第一府営住宅16号の河野伝邸。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる河野邸で右手の排煙は銭湯「菊ノ湯」。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる河野邸。中下は、河野伝()と1936年(昭和11)発行の「全国映画館録」収録の河野伝・河野亨「コーノトーン研究所」()。下左は、1935年(昭和10)発行の「全国映画館録」収録のコーノトーン映画録音研究所と各出張所・特約店。下右は、コーノトーン技術の解説パンフレット。
◆写真下は、1938年(昭和13)の「コーノトーン発声機」媒体広告。中上は、海外まで輸出されたコーノトーン35mm映写機。中下は、1940年(昭和15)出版の『日本文化映画年鑑』(文化日本社)に掲載された河野伝・製作『音感』と『オモチャの科学』の紹介。

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