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どこまでホントか小原龍海へのインタビュー。 [気になるエトセトラ]

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 上落合1丁目482番地の龍海寺は空襲で焼失し、戦後は上落合1丁目230番地に移転した同寺の小原龍海Click!へ、戦後間もない1950年(昭和25)の夏に取材した雑誌があった。同年に漫画社から発行された、「漫画/見る時局雑誌」7月号だ。
 この中で語られていることが、いや多彩な資料類に残され小原龍海の言質として記録されていることが、どこまでが事実でどこからが虚構なのかはまったく不明だ。そもそも、本名としていた小原唯雄さえ偽名だとする長野県松本市小柳町の出身者による証言も残っており、本姓は小原ではなく北陸や信州に多い「海岸(うみぎし)」という苗字だったという。それが、突然「小原」姓になり「華族の養子に入った」と町内に吹聴して歩き、徴兵検査には華族然としたフロックコートを着て現れたという。
 また、松本市郊外にあった真言宗の海岸寺(かいがんじ/廃寺)へ「海岸(うみぎし)」の本姓で乗りこみ、自分は寺の跡とりだと称して無理やり同寺の住職に就いたようだ。そして、同寺に残されていたといわれる古文書には、黄金300枚が境内に埋められていると書かれていたと“発表”し、欲に目がくらんだ村人たちを集めては境内のあちこちを発掘してまわった。もちろん、境内からは黄金など1枚も出てこなかった。そして、1928年(昭和3)に海岸寺を放りだし、1体の観音像を手に東京へとやってきている。
 この観音像については、前回の記事でも触れたように、東京へやってきた当初は「日本橋の入船町で(略)観音さまを拾った」(昭和初期)として、上落合の自宅を改造した「寺院」の祭壇で奉っていたはずだ。ところが、戦後になると「淀橋のある古道具屋でおふくろにすゝめられて廿円で買った観音像が高村光雲さんの鑑定の結果偶然五百年以上のものと分りとたんに坊主になる気になつたんですよ」(1950年)と、まったく異なる証言をしている。「坊主になる気になつた」のは、「海岸」という本姓を根拠に松本市の海岸寺へ乗りこんだときのはずで、別に観音像を手に入れてからではなかったはずだ。
 先述の「漫画/見る時局雑誌」7月号より、小原の証言を少し引用してみよう。
  
 幼少のころ御多分にもれずおふくろの『よしの』が近所の占師にあたしの手相を見て貰つたところ、『太閤様とそつくり寸分違わぬ、天下取りの相じや』といわれて喜んだことゝ云つたら、あたしに何度も何度も繰返しましたよ。当時はもつと可愛らしく自分の口からは何ですが芸術的天分があつたというんでしようか、絵、彫刻、音楽何でも好きで美校か音楽学校へ行きたかつたが松本商業に入つた悲しさ、資格がなく明大専門部商科へ入つて上京しました。そこを卒業してヘルマンエンドアレキサンダー株式会社という羊毛輸入会社の東京支店長となり、次いで自分のちつぽけな会社をつくり社長となつたものです。
  
 どうやら、信州松本には豊臣秀吉の手相を見たことがある占い師が、明治時代まで生きていたようなのだが、ヘルマン&アレキサンダーというドイツの文献学者のような名前を冠した会社も、実際に東京で営業していたかどうかは不明だ。
 その後、元・首相だった伯爵・清浦奎吾の八男である、フランスから留学帰りの清浦末雄(当時は陸軍騎兵少尉)と親しくなり、その家庭へ出入りするうちに同じフランス留学組だった、東久邇宮稔彦(当時は陸軍歩兵第三聯隊長)とも親しくなっていったという経緯のようだ。この3人は、「既存の宗教は大嫌い」「宗教改革が必須」という点で意気投合したといわれ、マルクス主義の書籍まで読みまわしていたらしい。このときから、小原龍海は東久邇宮の邸へ自由に出入りするようになったようだ。
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 二二六事件Click!が起きた1936年(昭和11)の夏、信州の浅間温泉で遊山していた小原龍海は、駒込警察署に詐欺罪と不敬罪の容疑で逮捕された。上落合に龍海寺を建立する計画とともに、有力者たちへ観音像を見せてまわり、東久邇宮をはじめ松井石根(陸軍)、大西瀧治郎Click!(海軍)、山本五十六Click!(海軍)、関屋敏子(声楽家)などから多額の寄付金を集めては生活費や遊興に費やしたという詐欺容疑だった。大西瀧治郎は上落合の近所なので、小原はふだんから訪問していたのかもしれない。
 不敬罪の容疑は、東久邇宮からもらった菊紋入りの衣装を着て、横浜鶴見の総持寺へ出向き、随世式(出家し住職になるための儀式)へ出席したという理由からだった。これら一般刑事犯の摘発・検挙は、特高警察Click!(思想を取り締まる高等警察組織)ではなく、通常は捜査二課が担当する事件のはずだが、小原の証言は戦後になると「特高に逮捕され思想・宗教弾圧を受けた」という話にすりかわっていく。
 上落合へ龍海寺を建てるために集めた資金は、詐欺罪で逮捕されるころにはあらかた消費してしまったらしく、新たに大口の資金源が必要になった。そこで、トンネル工事で莫大な財産を築き、先代からそれを相続していたケンブリッジ大学卒の星野正一に近づき、142万円を寄進させることに成功している。当時の物価指数にもとづき、現代の価値に換算すると42億円ほどに相当する巨額だ。この資金を元手に、小原は「お堂なんてケチ臭い。ひとつ立派な昭和の代表的建築として残るお寺を建てようと決心」して、自宅近所の上落合1丁目482番地に1,000坪の土地を購入し、周辺住民たちの想像をはるかに超えた豪壮な伽藍(18間四方)が建ち並ぶことになった。
 建築材を多めに調達していた小原龍海は、余った部材で建設した住宅を多額の寄付をした星野正一にプレゼントしたが、星野は1939年(昭和14)に召集され海外へ出征したため、空き家になった星野邸を勝手に売却・処分してしまい、そのカネを龍海寺の追加普請費に組みこんでしまった。そこで、1942年(昭和17)に今度は詐欺横領罪で戸塚警察署Click!に再び検挙され、巣鴨拘置所で5ヶ月間も拘留されて有罪となった。だが、1年余の執行猶予がついたため服役はまぬがれている。このとき、曹洞宗の総持寺からも縁切り(破門)をいいわたされている。だが、この事件も戦後のインタビューでは捜査二課による詐欺横領事件ではなく、特高警察による「宗教弾圧」事件にすりかわっていく。
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 この事件をきっかけに、上落合の龍海寺は詐欺師の坊主Click!が建てた寺として、往来から投石を受けるまでになり、小原龍海は本堂の縁側に日本刀をもちだして、前通りを往来する人々を威嚇していたという。戦局の悪化もあり、小原は広大な龍海寺を軍需省に貸して同省の職員寮とし、自分は東京を離れ茨城県笠間町で、徴用学生たちとレンガ製造工場を運営している。そして、敗戦を迎えると首相になった東久邇宮稔彦のもとへ、再び頻繁に出入りするようになった。
 前掲の雑誌「漫画」で小原龍海は、臆面もなく自賛してこんなことをいっている。
  
 『私はリベラリストです。しかも芸術的です。/彫刻は高村光雲に親しく習つて、もう玄人の域に達しているといわれるし、絵は子供の時からやるし、楽器と来たらマンドリン、ギター、チエロ、ピアノ何でもやります。これでどこか柔くこなされている所が態度に出て、之が人に好かれるのでしよう』『それに医学、経済、法律、哲学何でも読むから経済方面が得意でない東久邇氏に何かと相談を受ける、この間も会社の種類を聞かれたところですよ』(中略) 処が彼の敵は、市井の裏町から身を起して高貴な連中に交る立志伝的怪物が誰も身につけている思わせぶりな断片的教養目次的学問、本は最初の一ページと最後の一句だけ読んで、マルクスの資本論だろうがカントの純粋理性批判だろうが言葉の響だけしか知らないくせに、さも精読したかのようにその一節を連ねて絶え間なくしゃべる、あのデイスインテリの一人とコツピドク彼をくさしている。/小原龍海さんが何故身上残したかの秘密は案外こんな所にあるのかも知れない。
  
 戦後は、すでに高村光雲の弟子ということにもなっていたようだが、一度だけ会ったことのある人のことを「師匠」「弟子」「先輩」「後輩」「子分」「同窓」「学友」「親友」「友人」と親しげに表現して相手の警戒心を解き信用させるのは、昔もいまも詐欺師の常套手段であることに変わりはない。「ボクは芸能界の〇〇や映画監督の〇〇と親しいから、今度会ったら口をきいといてやるよ」などと口からでまかせをいいながら、いたいけな少女を騙す事件は現代でもたまに聞く。
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 「禅宗ひがしくに教総本山」の寺兼事務所は、麻布市兵衛町の東久邇宮邸の焼け跡に建設された。ここでも小原龍海は、建設業者への支払いを手形にしてなかなかカネをわたさず、竣工直前にひと悶着を起こしている。建設業者の支店長が、たまたま小原と同郷の松本出身で、彼の前歴や前科をよく知る人物だったため、支払いを受けるまで新築の建物はすべてクギづけして使用禁止にしてしまった。したがって、1950年(昭和25)4月15日の小原龍海から東久邇稔彦への得度式(同教開教式)は、「総本山」では実施することができなかった。

◆写真上:いわゆる「高輪御殿」といわれた、高輪3丁目の広大な東久邇宮邸跡(一部が現・高輪の森公園)で、西武鉄道へ売却後はホテルの施設だらけだ。
◆写真中上は、いまも上落合に残る龍海寺の大谷石による旧境内の築垣。は、山手大空襲で焼け戦後に130mほど北東へ移動した上落合の龍海寺跡。
◆写真中下は、1950年(昭和25)に発刊された「漫画/見る時局雑誌」7月号(漫画社)による小原龍海へのインタビュー記事。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる龍海寺の焼け跡。撮影の角度から、北側には大谷石による高い築垣が見えている。は、高輪の東久邇宮邸の庭園跡とみられるエリアに残る古墳状のふくらみ。
◆写真下は、前掲の「漫画/見る時局雑誌」7月号に掲載されたコラム。中左は、麻布市兵衛町にあった東久邇邸の門に掲げられた「禅宗ひがしくに教総本山」。中右は、1958年(昭和33)に撮影された教祖の東久邇稔彦。は、「ひがしくに教」の得度式(開教式)。
おまけ
 高輪は東側が東京湾に向いたバッケ状の地域で、どこか下落合の地形に似ている。空襲の被害が比較的少なかったせいか、明治期から戦前までの近代建築があちこちに残っている。上から下へ、1924年(大正13)築の西洋館から下っていく高輪の典型的なバッケ階段、ヴォーリズClick!設計の旧・朝吹邸、ロールスロイスが停まっていた旧・竹田宮邸、目の前が交番の旧・高松宮邸、そして1933年(昭和8)築の高輪消防署。
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旧高松宮邸.JPG
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