「転げあるき」で描く蕗谷虹児と関東大震災。 [気になる下落合]
拙サイトでは、これまで1923年(大正12)9月1日に関東大震災Click!が起きた際、被災地をスケッチしてまわった有島生馬Click!と同道した竹久夢二Click!や、被災地を写生めぐりした河野通勢Click!や佐伯祐三Click!についてご紹介してきた。この中で、佐伯祐三Click!は東京では聞き慣れない大阪方言が災いしたのか、デマを信じた自警団Click!から地元の人間ではない「不穏分子」とみられ、暴行を受けているとみられる。したがって、その際に自警団に没収されたものか、関東大震災のスケッチ類は残されていない。
竹久夢二Click!は、有島生馬Click!と同行してたので自警団から誰何(すいか)ぐらいはされているだろうが、その知名度の高さから危害を加えられるようなことはなかった。被災地で見たこと聞いたこと経験したことを、同年9月14日~10月4日にかけ都新聞に画文記事『東京災難画信』として、ほぼリアルタイムで連載している。
多くの画家たちClick!が、特に被害が大きかった東京市街の被災地をめぐっていたとき、蕗谷虹児Click!はどこでなにをしていたのだろうか。前年より、宝文社から雑誌「令女界」が創刊され、その表紙イラストや物語・詩の挿画、絵はがきなどの仕事が多忙をきわめていた時期と重なるときに、関東大震災は起きている。蕗谷虹児の描く女性たちは「令女型」などと呼ばれ、他の挿画家たちの絵とは区別され特別視されるようになっていた。ちょうど、竹久夢二が描くはかなげな女性たちを「夢二型」と称したのと対照的に、彼の作品は大正デモクラシーとモダニズムを体現した女性たちの代名詞となっていた。
蕗谷虹児Click!は1923年(大正12)、湯島天神近くの上野広小路も近い本郷区坂下町(現・文京区湯島3丁目)の借家に、最初の妻である川崎りんといっしょに住んでいた。この借家では、3月には子ども(長男)も生まれ、4月には川崎りんとの婚姻届けを出している。父親は前年に病没していたが、ふたりの弟たちとはいっしょに暮していた。
この本郷坂下町の家について、蕗谷虹児の幼年期から青年期にいたるまでをたどる、1967年(昭和42)に出版された自伝小説『花嫁人形』(講談社)から少し引用してみよう。
▼
本郷坂下町に、吟味した材料で、自分が住むために新築している、大工の棟梁の家があった。/「こんな綺麗な新築の家に、余命いくばくもない父を、住まわせることができたらどんなによかろう。」と、一彦は思ったので、断られるのを承知のうえで、人を介して「向う二年間だけでよいから、特に貸し家として貸してもらえないものか。その代わり、家賃は出せるだけだす。」と交渉させると、/あの家は、ごらんのとおり貸し家普請ではないのだが、わしの建てた家が、それほど気に入ってくれたのなら貸してあげてもよい。」と、家主の棟梁が言ってくれたので、一彦は、言いなりの手金を払うと、この新築の家の壁の乾くのを待って、谷中の間借りの部屋から引っ越して行った。その後を追うようにして、りえ子の母が、りえ子を伴れて手伝いに来てくれた。
▲
「一彦」が自身の分身である蕗谷一男(虹児)であり、「りえ子」が結婚していっしょにパリへ渡航することになる最初の妻の「川崎りん」だ。このとき、家具類を「上野Mデパート」に注文したとあるが、上野広小路の松坂屋デパートだろう。
貸家普請ではなく、大工の棟梁が自宅用に建てた住宅で、造りも強固だったのだろう、大震災でもたいした被害はなく、また火災の延焼からもまぬがれている。蕗谷虹児にとって、本郷区坂下町は以前から見馴れた街だったろう。彼は極貧時代に、芝区金杉橋にあった日米図案社に近接する米屋2階の下宿から、当時は本郷坂下町にあった大日本雄弁会講談社(のち講談社)の社屋へ、頻繁に作品の挿画をとどけに通っていたからだ。
大工の棟梁が普請したこの家の間取りはかなり広く、ふたりの弟とともに住んでいた金杉橋の3畳下宿や、谷中の間借りで使用していたときの家具調度は、アッという間に片づいてしまったようだ。新築なので掃除の必要もほとんどなく、手伝いに訪れた「りえ子」(川崎りん)母子も手持ち無沙汰だったのではないか。つづけて、従来の下宿から持ちこんだ家具調度類について、『花嫁人形』から引用してみよう。
▼
一彦は一人で苦笑して、芝金杉橋の三畳の間借り時代から愛用してきた、手ずれで杉の木目が現れてきている机代わりの、図板に向かった。/座布団は、破けて綿が出かかっているものを古毛布でくるんだものであったし、座右の火鉢は、台所のコンロと同じ素焼きのものだったのが、長い間の一彦の手垢とあぶらで、今では赤い瀬戸焼の艶になっている。/一彦の背後の壁一坪をふさいでいる本箱も古道具屋で見つけた飾り気のないもので、それへいつかたまってしまった雑多な本がつめ込んであるが、これも部屋の飾りにはならない。何故かというと、一彦に必要な参考書ほど痛(ママ:傷)んでいて、表紙が取れたり、背皮が破けていたからであった。一彦はその本棚に凭れて、この家へ引っ越してきて、まず床の間に掛けた、山樵道人の軸に目をやるのであった。(カッコ内引用者註)
▲
この家で、蕗谷虹児は関東大震災に遭遇している。大震災が起きたときの様子を書いた記録は見あたらないが、前年に父親が死去していたため、彼は妻と生まれてちょうど6ヶ月の長男、それに弟たちとともに大火災Click!と風向きを気にしながら、避難の準備をしていただろう。おそらく、避難先は緑濃い湯島天神の境内か上野公園を想定していたにちがいない。だが、上野山を除いて上野駅周辺や下谷一帯はほぼ全滅状態であり、ヘタに避難していたら大火流Click!に巻きこまれて危うかったかもしれない。
迫る延焼は、幸いにも蕗谷虹児アトリエまではとどかなかった。周囲が少し落ち着いてからだろう、蕗谷虹児は被災した街々を「転げあるき」(余震や障害物が多かったのだろう)しながら、被害の様子をスケッチしてまわった。ひとりで歩いたのか、あるいは弟たちを連れていったのかは不明だが、さまざまな街角の人物像を写生している。
大震災の当初は、そのまま悲惨な被災風景と絶望に打ち沈む人物たちを描いていたが、大震災から月日がたち焼け跡にバラックが建ちはじめ、復興への歩みが少しずつはじまると、彼ならではの抒情的な女性や子どもたちの描写が見えはじめる。また、震災当初はおそらく焼け跡の風景自体がモノトーンだったのだろう、モノクロ表現だった震災画集や絵はがきも、復興のきざしが見えはじめたころからカラー印刷に変わっている。もっとも、当初のモノクロ印刷は当然、印刷会社も被害を受けているので、4色分解のオフセット印刷機が破損して使えなかったのかもしれないが。
竹久夢二は、都新聞に連載(1923年9月14日~10月4日)した「東京災難画信」では、描いた街や地域の情報を記録しているが、蕗谷虹児Click!は特に町名や地域名を記載せず、それぞれの震災画には見たまま感じたままの、被災地の情景タイトルをつけている。したがって、どこの街角を描いたのかは不明で抽象的であり記録的な震災画ではないが、反面、彼はその状況における人々の想いや感情に心を寄せているように見える。彼の描く震災画は叙事的ではなく、どこまでも叙情的なのだ。
本郷坂下町の焼け残った自宅から、蕗谷虹児はどのように被災地をめぐり歩いたのだろうか。芝金杉橋下宿から、本郷坂下町にあった大日本雄弁会講談社へよく作品をとどけに通っていたことは先述したが(カネがないので市電Click!には乗れず全行程が徒歩だった)、彼がよく歩いて知悉しているこの講談社入稿ルートは、『花嫁人形』の記述によれば金杉橋から芝を抜け、新橋、銀座、日本橋、神田を通って本郷坂下町へとたどるものだった。したがって、震災画を描きに通ったルートも、あらかじめよく知っていたこの道筋がメインだった可能性が高いのではないか。
すなわち、このルートには東京の繁華街である神田や日本橋、銀座(これらの街々は全滅Click!)が含まれており、震災画のモチーフにするにはもってこいの街々だったと思われるからだ。蕗谷虹児は坂下町の自宅を出ると、南下して外濠(神田川)に架かる昌平橋Click!をわたり、神田や日本橋、銀座の焦土Click!や住宅街の焼け跡を描いてまわったのではないだろうか。もちろん、自宅近くの上野広小路へと出て、下谷地域の上野駅や周辺の街々(上野山を除きほぼ全滅)も歩いているだろう。
こうして、蕗谷虹児の震災画は記念絵はがきとなり、第1集は『生き残れる者の嘆き』『絶望』『落ち行く人々の群』『落陽』、第2集は『戒厳令』『焼跡の日』『尋ね人』『家なき人々』などなど、震災から間もない時期に発行しつづけている。また、第4集からはカラー印刷となり、大震災の現場を直接表現して伝えるのではなく、被災者たちの感情に寄り添うように描かれた人物中心の表現へ徐々に変化していく。このあたり、画家ではなく挿画家だった蕗谷虹児ならではの表現だろう。
いまでこそ、震災の被災地を描いた記念絵はがきなどを発行・販売したら、出版社や画家は顰蹙をかい批判されるだろうが、当時はTVやラジオもなく、地元の新聞も輪転機が破壊されたため、被災地の様子を伝えるメディアがなにもなかった。東京とその周辺にいた多くの画家たちは、その惨状を全国や世界へ、あるいは後世に伝えようと筆をとっている。
◆写真上:1923年(大正12)9月5日に、陸軍所沢飛行第五大隊の偵察機が東京市街地を撮影した空中写真。麹町区の番町上空から西を向いて撮影しており、遠景に見えているのは代々幡(代々木)から原宿にかけての街並み。中央にある西洋館は赤坂離宮(現・迎賓館)で、その向こう側に拡がっているのは神宮外苑の森。
◆写真中上:上は、震災から間もなく発売された震災絵はがきで蕗谷虹児『生き残れる者の嘆き』(左)と同『絶望』(右)。中は、蕗谷虹児『落ちゆく人々の群れ』(左)と同『落陽』(右)。下は、蕗谷虹児『戒厳令』(左)と同『焼跡の月』(右)。
◆写真中下:上は、蕗谷虹児『尋ね人』。中は、カラー化された同『焼土に立つ(焼け跡のしののめ)』(左)と同『鳥も塒を焼かれたり(バラツクの夕暮)』(右)。下は、同『夜に迷ひし小鳥の如く(仮家への帰途)』(左)と『幼き者も辻に立ちたり(新聞売子)』(右)。
◆写真下:上は、1926年(大正15)ごろパリのアトリエで撮影された蕗谷虹児とりん夫人。背後にはサロン・ドートンヌ入選作の『混血児とその父母』(1926年)と、パリの日本人芸術家たち第3回展に出品する描きかけのキャンバスが見えている。中上は、1967年(昭和42)出版された蕗谷虹児の自伝小説『花嫁人形』(講談社)の函(左)と表紙(右)。中下は、1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲Click!11日前に偵察機F13Click!によって撮影された、空中写真にみる最後の蕗谷虹児アトリエ。下は、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲Click!8日前の蕗谷虹児アトリエだが、すでに4月13日夜半の空襲で焼失しているとみられる。
★おまけ
手もとにある蕗谷虹児『花嫁人形』が、著者のサイン入りであることに読み終えてから気がついた。捺されている篆刻は、大正後期から用いられている角丸の正方形のもので、パリへ持参したものと同一だと思われる。かなりすり減って何度か彫りなおしているとみられるが、左下の枠が大きく欠けている点や文字のかたちなどから、下落合のアトリエから疎開先の山北町へと“避難”させていた、虹児のお気に入りだった篆刻の1顆なのだろう。