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タブローを描いてるヒマがない蕗谷虹児。 [気になる下落合]

蕗谷虹児と松本龍子.jpg
 かなり前になるが、下落合2丁目622番地に建っていた蕗谷虹児Click!のアトリエをご紹介したことがある。諏訪谷Click!の北側、曾宮一念アトリエClick!の2軒北西隣りであり、道の突きあたりは昭和初期に里見勝蔵Click!アトリエClick!をかまえていた敷地で、その奥にはパリでは顔見知りだったとみられる、東京美術学校の英語と美術史の教授・森田亀之助Click!が住んでいるという位置関係だ。
 同じくパリでいっしょだった清水多嘉示Click!は、蕗谷虹児アトリエから40mほど南へ下がった地点にイーゼルをすえ、曾宮一念アトリエClick!のある東を向いてタブローの2作品を残している。『風景(仮)』(OP284/285)Click!だ。大正期から師事していた、下落合464番地の中村彝アトリエClick!をはじめ、画集の出版元である下落合1443番地の木星社Click!など、なにかと下落合を訪ねる機会の多かった清水多嘉示Click!は、おそらく蕗谷アトリエを訪ねた機会に付近を写生したものだろう。
 蕗谷虹児の周囲には、青年時代から洋画・日本画を問わず、たくさんの画家たちがいた。もちろん、彼もまた画家をめざすのだが、そのつど周囲の厳しい環境に邪魔され、すぐカネになる図案(グラフィックデザイン)や挿画の仕事をせっせとこなしては、肉親の借金返済に追われなければならなかった。だが、“あと出しジャンケン”Click!の結果論的にいえば、画家などにならずイラストレーターあるいはグラフィックデザイナーでいたからこそ、現代まで根強い人気を保ちつづけているゆえんだろう。
 蕗谷一男(虹児)は、1898年(明治31)に新潟県新発田町で生まれている。子どものころから絵が好きで、ヒマさえあれば描いていたらしいが、高等小学校を卒業すると株式仲買店、洋服店、印刷屋などへ丁稚奉公に出されている。新聞記者だった父親が、給料のほとんどを酒代にしてしまうため、母親や弟たちの生活費をかせぐための奉公だった。だが、どうしても画家になりたい彼は、勤めていた印刷屋の社長で、のち新潟市長になった人物の推薦により、日本画家・尾竹竹坡の弟子となって、1912年(大正元)に15歳で東京へやってきた。なお、母親は前年に29歳の若さで早逝している。
 竹坡の弟子時代は3年ほどつづくが、酒飲みの父親が仕事をしくじり失業したため、やむなく帰郷している。そこで、彼は親や弟たちの生活費を稼ぐために、大量の売り絵(軸画)描きや看板描きをしなければならなかった。父親が樺太の新聞社へ就職するのを機に、1915年(大正4)に再び東京へもどり尾竹竹坡画塾での学びを再開するが、ほどなく「すこぶる難渋している」という父親の手紙をもらう。再度、竹坡の画塾を去って樺太に向かうと、父親はアルコール中毒で仕事も放擲し、弟たちとともに荒んだ生活をしていた。そこでも、借金の返済や生活費のために売り絵を大量に描いては販売している。
 1919年(大正8)に樺太から東京へともどると、先輩だった画家で彫刻家の戸田海笛のもとへしばらく寄宿していた。そこでは、弟子のひとりだった岡本唐貴Click!と知りあっている。やがて、彼は日米図案社に就職すると、当時の日本では最先端だったエアブラシで表現するアートやイラストなど、広告デザインを本格的に学んでいる。仕事仲間には、拙ブログではおなじみの武井武雄Click!もいた。
 だが、どうしても画家への道をあきらめきれない彼は、日米図案社の社長から洋画家ではなく挿画家になるよう奨められ、1919年(大正8)に当時は本郷菊坂Click!の丘上に建つ菊富士ホテルClick!で療養していた竹久夢二Click!を紹介してくれた。彼のスケッチブックを観た夢二は、その場で「少女画報」の編集部に紹介状を書いてくれたという。こうして、日本画の素養に最新のグラフィックデザインの技法、そしてイラストや挿画もこなす特異なアーティストの蕗谷虹児が誕生している。時代は大正の半ばであり、日本でも新しいデザインやよりモダンな表現が求められている状況だった。
 それでも、彼はタブロー画家への夢をあきらめなかった。画業をはじめると、なんらかの邪魔や障害が入り中断させられ、再び画家をめざすと肉親が問題を起こして目的をとげられない、その繰り返しだった。夢二に会った同年、彼は『漂浪の記』の中で次のように書いている。1985年(昭和60)に出版された、「別冊太陽・蕗谷虹児」から引用してみよう。
吉屋信子「花物語・釣鐘草」1934.jpg 少女倶楽部絵はがき「デンドロビューム」.jpg
花物語「鈴蘭」蕗谷虹児1934.jpg
蕗谷虹児「葡萄」1931.jpg
  
 俺は自分の一生の運命の糸を、余りに早くたぐり過ぎはしなかったか。画家になりたい、いや、是非なるんだと、云いながら、株式仲買店の小僧になったり、洋服店のデッチになってしもうたり、又印刷屋の小僧になった。/その間は、ほんとに短かったが人の半生分も苦労したような気がする。竹坡師について上京してすぐ、苦学をやりはじめる。それから今までの俺、わずか五年の間だが、幾多の運命の場面は目まぐるしいほど変転しつつあった。/小林須成氏の食客時代、伝川大我氏の食客時代、自炊時代、活動の看板画家時代、山岸の食客時代、恋愛生活、失恋、また自炊、戸田氏の食客、下宿生活、また戸田氏の食客、漂浪生活、ああ、なんたる数奇の運命の所有者ぞ。しかもその場面がすべて、悲劇で、また俺はいつもその悲劇の主人公であらねばならなかった。(大正八年六月四日)
  
 ところが、そう記した同年に、画家をめざす蕗谷虹児にはチャンスがめぐってきた。「少女画報」(東京社)に毎号連載中だった短編小説の、挿画を担当する仕事だった。『花物語』Click!と題されたそれを書いていたのは、彼より2歳年長だった同郷の吉屋信子Click!という駆けだしの新進作家だった。彼は、吉屋信子の挿画に没頭することになる。
 また、以降の吉屋作品(『地の果てまで』『海の極みまで』など)の挿画は、人気の高い彼が担当することになり、タブローを描くどころではないほど多忙になった。彼の名前は挿画家、あるいは風俗画家(イラストレーター)として広く知られるようになり、再び洋画家をめざす本来の夢から大きくズレはじめていた。1922年(大正11)には、彼の作品をメインに掲載する「令女界」(宝文館)が創刊され、仕事はますます多忙をきわめていった。この時期、描き慣れないモチーフである現代の少女を観察するため、女学校の校門に立ちながら少女たちの姿や動作を細かく観察したり、女学生のあとを尾行して変質者とまちがえられるなど、新時代の少女像の創作にはかなり苦労を重ねたらしい。
 このころ、収入も増えて生活が安定したため、樺太にいた弟たちや酒飲みの父親を東京に呼びよせていっしょに暮らすようになった。父親は間もなく死んだが、このころから川崎りんと同棲生活をはじめ、関東大震災Click!の年に息子が生まれている。ようやく、洋画の勉強をしはじめる余裕も生まれ、彼はりん夫人とともにパリへ留学する準備を進めている。主婦之友社と東京朝日新聞社から画料の前借りをし、留守宅を弟たちと女弟子にまかせて1925年(大正14)9月に、神戸港から箱根丸で渡仏している。
 パリのリヨン駅に着くと、彼を出迎えたのは旧知の彫刻家・戸田海笛と画家の東郷青児Click!だった。ようやくタブロー制作に毎日没頭できるようになった彼は、パリで開催されていたサロン・ナショナルやサロン・ドートンヌへ作品が次々と入選するようになる。また、パリの週刊誌や児童雑誌からも注文が連続して舞いこんだ。この間、パリにあった国際連盟Click!支部の会議室の壁画制作も手がけている。フランスでも人気が高まり、シャンゼリゼ通りの画廊「ジヴィ」で個展が開かれているころ、東京の留守宅にいる弟たちから経済的に破綻したとの知らせが入り、りん夫人を残したまま1929年(昭和4)に大急ぎで帰国している。画家としてパリで成功しはじめた時期、いま帰国するのは絶対にダメだと、彼をパリに強く引きとめたのは詩人で歌人でもあった堀口大学Click!と東郷青児だった。
蕗谷虹児パスポート.jpg 蕗谷虹児「混血児とその父母」1926.jpg
蕗谷虹児「ポン・ヌフ」1926頃部分.jpg
蕗谷虹児「裏通り」1926頃部分.jpg
蕗谷虹児「無代」1926頃.jpg
 東京にもどった彼は、金策に走りまわりながら、弟たちや出版社への借金返済のため再び挿画を描きつづけ、パリから帰国したりん夫人は「愛人ができましたから」と、息子を残したまま彼の前から姿を消した。数年間にわたり、挿画や風俗画を描きつづけて借金を返済し、1933年(昭和8)には青山女学院を出たばかりの18歳も年下だった松本龍子(当時18歳)と再婚している。上野東黒門町に新居兼アトリエをかまえたが、龍子夫人が妊娠すると、より広い下落合2丁目622番地のアトリエへと転居してくる。
 蕗谷虹児の下落合時代は、出版社や雑誌社から大量に舞いこむ挿画やイラストの仕事に追われる日々だったろうが、どうやらこのころから洋画家ではなく図案家(今日のイラストやグラフィックデザインをこなすアーティスト)に徹しようと、彼自身でも心に決めていたようだ。フランスから帰国した東郷青児は、盛んに二科展への出品を奨めたが、もはや彼は挿画や絵本、風俗画の仕事から離れることはなかった。
 戦時中の蕗谷虹児は、明らかに創作意欲を喪失していた。モンペ姿の少女など、死んでも描きたくはなかったにちがいない。同書の、花村奨『抒情の旅人』から引用しよう。
  
 昭和一〇年に、詩画集『花嫁人形』(宝文館)を出し、「婦女界」に『闘雪紅』(昭和一三年)を連載するなど、衰えぬ人気を持っていた虹児にも、そして虹児を中心に、加藤まさを、須藤しげる等、抒情画家の根拠地視されていた「令女界」にも、情報局の締めつけが強くなってきた。/「この産めよ殖やせよの時代に、子どもも産めそうにない虹児の柳腰の女の絵はよろしくない。もっと尻の大きい丈夫そうな女を描かせろ」/「いまどき、スカートで歩いている女などいないぞ。モンペをはいた女を描かせろ」/わざわざ編集長を呼びつけて、そんな命令を出すようになった。
  
 そんな状況が嫌になった彼は、1944年(昭和19)になると神奈川県の山北町へ疎開している。下落合のアトリエは、1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲で、目白通り沿いからの延焼により焼失した。下落合では10年ほど仕事をしたことになる。
 戦後は、山北町の教育委員に推され地元高校の校歌や校章をつくっていたが、出版社が彼を放っておくはずもなく、再び東京へともどって仕事を再開している。多忙の中、1954年(昭和29)には東宝動画スタジオの設立に参画し、日本初のカラーアニメーション試作品『夢見童子』の制作を担当している。タブローをなかなか描けず、挿画やイラストばかりを描きつづけた蕗谷虹児は、57歳になってから新しい表現法であるアニメに着目していた。
令女界1.jpg
令女界2.jpg
令女界3.jpg
蕗谷虹児アトリエ跡.jpg
 中国にも、蕗谷虹児の熱烈なファンがいた。彼の画集や本などを上海の内山書店に通っては買い集め、置いていない画集はわざわざ日本へ発注している。中国の民主革命期に活躍した、文学者で思想家の魯迅Click!だ。彼は、蕗谷虹児の画集から気に入った作品を選び、詩を中国語に翻訳しては芸術教育の教本として刊行しているが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:結婚する直前に撮影された、1933年ごろの蕗谷虹児(左)と松本龍子(右)。ふたりはこのあと結婚して、下落合のアトリエに住むことになる。
◆写真中上上左は、1934年(昭和9)出版の吉屋信子『花物語・釣鐘草』(講談社)。上右は、『花物語』の蕗谷虹児『デンドロビューム』絵はがき。は、吉屋信子『花物語・鈴蘭』の虹児挿画。は、「少女の友」向けに描かれた虹児『葡萄』。
◆写真中下上左は、フランスに向かうパスポートに貼られた蕗谷虹児のポートレート。上右は、1926年(大正15)のサロン・ドートンヌ入選作の蕗谷虹児『混血児とその父母』。中上は、1927年(昭和2)ごろのサロン・ドートンヌ入選作で蕗谷虹児『ポン・ヌフ』(部分)。中下は、1926年(大正15)ごろに制作された蕗谷虹児『(タイトル不明)』(部分)。は、同時期のサロン・ドートンヌ入選作で蕗谷虹児『裏通り』(部分)。
◆写真下は、パリから「令女界」の編集部あてにとどいた蕗谷虹児の「パリの女性」シリーズ。は、下落合1丁目622番地にあった蕗谷虹児アトリエ跡の現状。
おまけ
 下落合(4丁目)2111番地に住んだ林唯一も、1934年(昭和9)に吉屋信子『花物語』の挿画を描いている。吉屋信子邸Click!から林唯一アトリエClick!までは、南西へ50mほどしか離れていない。下は、林唯一による『スヰトピー』の挿画と、五ノ坂に面した林唯一アトリエ。
花物語「スヰトピー」林唯一1934.jpg
林邸五ノ坂.jpg


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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。蕗谷虹児の生涯は、かなり踏んだり蹴ったりですね。まわりの人たちに振り回されているようです。パリで評価されたタブローを見るとアンリルソー風や未来派風?の画風で、これも本当に彼が目指していたタブローだったのかわかりませんね。
by pinkich (2023-11-21 21:53) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
洋画家として二科や独立美術に属していたら、これほど後世まで語り継がれる存在になっていたかどうかは分からないですね。むしろ、パリにそのまま留まっていれば、次々と入選する作品や舞いこむ注文、個展の開催など、むしろ新しい世代のジャポニズムとして、ヨーロッパで評判の画家になれていたかも……というような可能性を感じます。やはり、出自の家がそこそこ裕福でないと、思いどおりの生活を送れる芸術家になるのが困難な時代だったのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2023-11-21 22:22) 

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