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学習院女子部の下校時に結婚希望者と面接。 [気になるエトセトラ]

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 以前、下落合1639番地の第二文化村Click!の家で暮らし33歳で早逝した、昭和初期の作家・池谷信三郎Click!の小説『縁(えにし)』Click!をご紹介したことがあった。会社では管理職の、すでに中年を迎えてしまった独身男が、思いきって新聞に「花嫁募集」の広告を掲載し、結婚相手とめぐり逢うまでを描いた短編小説だ。
 1929年(昭和4)の作品だが、別の地方から東京地方へとやってきてた人たちにとっては、周囲に親戚や縁故がおらず、親しい知人も少なく縁談がもちこまれることなどなかったため、異性とめぐりあって結婚するということが、男女を問わず案外敷居の高いことだった様子がうかがえる。そのために、明治末から増えはじめた結婚媒介所(結婚相談所)、あるいは仲人組合のような組織が東京ではかなりの繁昌をみせるようになる。
 また、親戚や縁故、知人などの紹介による縁談、いわゆる“見合い”による結婚を拒否する風潮が、大正期に入ると新しい社会思想をもつ男女から拡がりはじめ、ふたりの男女が出逢いお互いが気に入ったら結婚をするという恋愛結婚が、東京の若い世代にはあるべき姿の理想的な結婚とみなされるようになっていく。特に明治末から大正期にかけデモクラシーを背景に育った男女は、もはや親同士が決めたような“見合い”話による結婚は、古い封建時代の因習から抜けだせない悪弊とまで考えるようになっていった。
 東京に結婚媒介所ができたのは、大正期も近い1907年(明治40)ごろといわれている。大正初期には、報知新聞の調査記事によれば東京市内(東京15区時代Click!)だけでも、29ヶ所の結婚媒介所がオープンしていたという。そこでは、男子の側から、あるいは男の両親から「賢母良妻主義」や「三従主義」などを求めても、もはやなかなか女性たちには受け入れられず、特に高等教育を受けた女性からは「思想の自由」や「女の解放」が条件として突きつけられるような時代になっていた。
 そんな様子を、1913年(大正2)に文明堂から出版された磯村春子Click!『今の女-資料・明治女性史』(雄山閣版)収録の、「結婚媒介所」から引用してみよう。
  
 現代の女、然も普通以上の教育を受け得た若い女の思想には、已に我国旧来の因習的覇絆を脱しやうとして藻掻きつゝある者が多い。其最も近き実例の一ツとして記者は結婚媒介所なるものを通して見たありの儘の今日の婦人の思想を写して見たいと思ふ。結婚媒介所! これ已に新らしい女の為めに開放され、而して之に対する新らしい男の自由なる出入を許された門戸である。昔ならば、親の命令とあつては、嘗て見もし聞もしなかつた男子の処へでも従順にして嫁に行つた日本の女が、今日ではこの媒介所と看板を下げた、商売人の手を経てまでも、各自の希望する理想の良縁を求めんとして焦心する様になつた。
  
 つまり、古い因襲や旧弊にとらわれない結婚相手を探すには、結婚媒介所へ登録しておくことが男女ともに最適なコースだった様子が見える。実際に相手と面会し思想性や教養、性格などを見きわめてから結婚へと進む合理的なシステムだ。
 報知新聞記者の磯村春子が取材した、信頼のおけると評判の結婚媒介所では、陸軍の師団長クラスや華族の家従、高名な紳商(ビジネスマン)などの縁談をまとめた実績を備えている、かなり大きな規模の組織だった。大正初期で、もっとも登録が多かった男子は、やはり女性と出逢う機会のなかなかない軍人と、公私立大学卒の勤労者(公務員またはサラリーマン)で、最新の受付番号が各1500番台にまで達していたという。つまり、2つの職種の男子だけで数千人の登録者があったことになる。
 さて、実際に登録会員の男女を逢わせてみると、いろいろと面白いことが起きたそうで、男の側が申し込みの希望欄に「初婚、良妻賢母の資格のある教育あるもの、品行方正、体格強健、性質穏和、愛嬌あり活発なる美人、血統正しくて係累なきもの」などと勝手なことを書き並べておきながら、実際に逢ってみたら「美人」ぐらいしか当てはまる項目がないにもかかわらず、急に乗り気になる男が圧倒的に多かったらしい。
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 結婚媒介所では、そのようなケースの失敗例を多く見てきているので、男子の熱を冷ますために初婚といっても経験はけっこうありそうだし、無教育だし、良妻賢母になれるかは怪しいし、ちょいと性格がナニしてて品行方正ではないかも……などと、暗に注意をうながしでもしようものなら、急に不機嫌になりながら「僕が直してやる、教へてやるから差支へない」などといって、まったく耳に入らなくなったようだ。
 これは、多くの男子会員に共通した「普遍的」な反応のようでw、結婚媒介所のほうでもそれ以上は(相手の女子もたいせつな会員=お客様であるために)強いていえないので黙ってしまうしかなかった。かくして、申込書の希望欄の項目に「美人」以外、ほとんどまったく当てはまらない女性と結婚することになるのだが、数年たつと「こんなはずではなかった」と離婚してしまい、再び結婚媒介所を訪れる男子が多かった。
 また、女子のほうは、紹介された相手の男に十分な財産もあり、「〇〇学士」というような肩書きもちゃんと備わっているにもかかわらず、どこか性格や人格があわなそうなので、なんとなく断るといった事例が多いようだ。このような結婚媒介所に登録するのは、高い教育を受けている女子が多く、また「縹緻(きりょう)が看板」で顔写真の登録をためらわないぐらいの、かなり容姿に自信のある女子が多かったらしい。つまり、おしなべて女子たちは「高望み」をしすぎていたようだ。
 どのような女子たちが登録しにきていたのか、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 女の方では割合に希望が高過ぎるのと、あれのこれのと選り嫌ひをなし却つて良縁を取外して後悔する者が多い。更にこの公開結婚所へ出入する女には何麽(どんな)種類のものが多いかと調べて見るとかういふ実例がある。/築地あたりに住む某実業家の令嬢で、先年日本実業団の一行が米国へ出掛けた其留守中に、独断で結婚媒介所へ申込んでおいたのがあつた、すると帰国した親が後に之を聞きつけて驚いて取下げに来て断つて帰つた。又学習院女学部の生徒達でも、申込のある令嬢達へ面会の通知をして置きさへすれば学校帰りにはサツサと独りで立寄つて行く。其外申込の履歴に由つて見ると女学校の卒業生、再婚の貴婦人未亡人といふ処が最も多いのである。(カッコ内引用者註)
  
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 ここには、明治期の女性にはおよそ見られなかった、自由闊達な女子たちの姿が見てとれる。親とは関係なく(あるいはナイショで)、自分ひとりで結婚媒介所を訪れてプロフィールを登録しておき、気に入った男子が実際に面会の希望をしてくるのを待つという、今日の婚活エージェントや出会い系サイトと大差ない仕組みだ。
 特に、学習院女子部Click!(1918年より女子学習院Click!)の生徒たちが下校時に結婚媒介所に立ち寄り、面会を希望する男子とちょっとだけ面接し話して帰る……というようなシチュエーションは、大正初期の当時としては破天荒な出来事で、一般的には考えられないような“大冒険”だったろう。古い考えの親が聞いたら、「破廉恥な、なんてはしたない! 恥を知りなさい!」とでも叱りそうな行状だ。だが、それでも女子たちは少しでも自分の好みにあう男子を求め、せっせと親にはナイショで結婚媒介所へ通っていた。
 ただし、結婚媒介所へ登録できる男女はおカネに余裕のある、上流から中流にかけての人々であり、町場でふつうに働く庶民たちとは無縁の世界だった。彼らは江戸期から変わらずに、街中で気に入った男女を見つけては恋愛をしたり、親族や知人、社長、師匠、親方、先生などのつてで見合いをし、結婚へとつなげていたのだろう。
 結婚媒介所への入会申込金は、一般的には1円で、男女の紹介ごとにわずかながら事務手数料を取ったとみられ、結婚が成立すると結納交換時に10~50円の成功報酬を支払うという契約だった。ちなみに、明治末の1円は現在のレートに換算すると約2万円ぐらい、成功報酬はおよそ20万円~100万円ということになる。
 会員はおしなべて教養の高い女子が多く、著者は次のように記事を結んでいる。
  
 要するにこの結婚媒介所なるものは、社会の機運に投じて出来たもので、其之(そのこれ)を利用する者の却つて教育ある若い女に多いといふに至つては世の女の児を持つ家庭の親々の真面目に研究すべき新しき問題であると思ふ。(カッコ内引用者註)
  
 結婚媒介所における面会は一度ではなく、たとえば男子が希望し女子にも異存がなければ、何度でも逢って納得するまで双方が話しあうことができた。だから、かなり親しく打ちとけて気を許せるような関係になると、よからぬことを考える男女も現れたようだ。
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 結婚媒介所には「破談」の連絡を入れておきながら、ふたりはお互いが気に入り結婚まで進んでいるにもかかわらず、成功報酬を払うのが惜しくなってごまかすケースだ。このような例は、結婚媒介所が把握しているだけでも、若い男女を中心に数多く見られたという。

◆写真上:明治末から大正期にかけ、「結婚」は女性にとって切実なテーマだった。
◆写真中上は、1909年(明治42)出版の永沢信之助『東京の裏面』(金港堂書籍)に掲載された結婚媒介所の挿画。は、同書の東京市内にある結婚媒介所リスト。は、1910年(明治43)刊行の「無名通信」7月号(無名通信社)の結婚媒介所リスト。
◆写真中下上左は、1910年(明治43)刊行の結婚媒介所リストが掲載された「無名通信」7月号。上右は、1909年(明治42)出版の五峰仙史『滑稽小説・結婚媒介所』(大学館)。は、五峰仙史『滑稽小説・結婚媒介所』の巻頭挿画。は、結婚媒介所についてその内実を詳しく紹介している当時の代表的な女性誌で、1916年(大正5)刊行の『婦人世界』10月号()と、1914年(大正3)に刊行された『女学世界』9月号()。
◆写真下は、1917年(大正6)に出版された川村古洗『放浪者の世の中探訪』(大文館)に掲載された結婚媒介所リスト。は、1926年(大正15)刊行の「東洋」7月号(東洋協会/)に掲載された、日本より進んでいると紹介された中国の「官設結婚媒介所」記事()。下左は、大正末になると結婚媒介所を介したた悪質な結婚詐欺などの犯罪が発生するようになり、その事例を紹介した1926年(大正15)出版の百鬼横行『暗黒面の社会』(新興社)。下右は、同書のオドロオドロしい挿画で江戸川乱歩の世界Click!のようだ。もっとも、自由な出会いや恋愛を快く思わない連中が、大げさに危機を煽っているようにも見えるのだが。

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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。女性の結婚観も時代とともに激変しているようですね。最近は、共働きが当たり前になってきたこともあり、寿退社という言葉も、死語になってきたような。記事にあった大正期では、女性にとって誰と結婚するかは、切実な課題だったのでしょうね。夫の稼ぎに頼らなくとも、仕事がない時代だったのでしょうね。学習院の女子学生の記事は大変興味深く拝見しました。この時代の学習院の女子学生といえばかなり良家の子女であったはずですから、意外でした。興味本位な部分もあったのかもしれませんね。
by pinkich (2023-11-21 21:28) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
少子高齢化が深刻で、ほんとうに人手が足りないせいか、夫婦がともに仕事をするのが当り前の時代になりました。また、高齢になっても退職させない定年制の廃止(定款書き換え)はもちろん、それ以上のお歳の方が働いているのも、まったくめずらしくなくなりましたね。前世紀には、考えられなかった労働環境です。
学習院女子部(女子学習院)の生徒たちが、結婚媒介所へ通っていたのはわたしも驚きました。ただし、大正期ともなると華族の子女ばかりでなく、士族や財閥などおカネ持ちの子女たちもけっこう含まれていたでしょうから、あまり「家名」に縛られることのない生徒は、ほんとうに伴侶を探していたのかもしれません。
by ChinchikoPapa (2023-11-21 22:33) 

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