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目白駅で落ち合った黒光と岡田虎二郎。 [気になる下落合]

 明治末から大正期にかけて、精神鍛錬と健康増進法で一大ブームとなった「静坐」会の岡田虎二郎が、下落合に住んでいたことはあまり知られていない。光波のデスバッチで有名な、歌舞伎の脚本家・松居松翁Click!といい、「静坐」の岡田虎二郎といい、下落合にはときどきカリスマ性の強い、面白い人たちが住んでいた。岡田虎二郎が、いつから下落合に住んでいたのかは不明だけれど、急死する1920年(大正9)まで下落合から離れていない。
 岡田の「静坐」会の門人が、下落合とその周辺に多かったせいもあるのだろうか? 徳川家や相馬家といった“大口”の門人たち以外にも、一時は欠かさず毎朝通った中村彝Click!も住んでいた。また、「静坐」ファンの多かった早稲田大学も近く、さらに週2回の出張「静坐」を行っていた新宿中村屋にも便がよかったので、住居に下落合を選んだのかもしれない。
 新宿中村屋の相馬良(黒光)は、病気がちだった日々に、夫の友人であるキリスト教的社会主義者・木下尚江から岡田を紹介され、以降、死ぬまで彼に師事しつづけることになる。黒光は毎朝、日暮里駅前にある本行寺の「静坐」会へ通うために山手線の始発に乗ったが、目白駅から乗車する岡田としばしば一緒になっていたようだ。そのときの様子を、相馬黒光の『黙移』(続篇所収版/法政大学出版/1977年)から引用してみよう。
  
 先生逝去の直前、大暴風雨がありまして、池袋の辺りから目白にかけて一面の泥海と化したことがありました。夜おそく先生はその水の中を歩いてお帰りになりました。その翌朝、私は省線に乗り日暮里に向かって走っていますと、目白駅(先生のお宅はそのころ落合村にありました)から先生が乗り込まれ、私のすぐ隣りに腰をおろされました。 (同書「静座十年」より)
  
 この記述は1920年(大正9)の秋(黒光自身は大正10年と書いているが、岡田の死去は前年の誤り)、おそらく台風か熱帯性の低気圧が通過したあとの様子を描写しており、岡田虎二郎はこのあと、10月17日に急死している。池袋から目白にかけて水びたしになったのは、東京気象台の記録によれば同年の9月30日に193.7mmの豪雨が記録されているので、おそらくこの日のことだ。上記の黒光の記述は、したがって10月1日のいまだ小雨が降る早朝か、あるいは2日にようやく晴れた朝の、山手線目白駅の描写だと思われる。岡田が急死する、わずか半月前のことだった。
 健康法という触れこみで「静坐」会を主宰していた岡田が、まだ若くして急死してしまったのだから門人たちの動揺は激しく、中村彝はこれを機会に「静坐」をまったくやめてしまったようだ。でも、彼の親友である中原悌二郎は、翌年の1月7日に病死することになるが、死ぬまで結核専門医の治療を受けず、「岡田式静坐法」にこだわりつづけて早逝している。
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 多くの知識人や教育家、芸術家、キリスト教徒、スポーツ選手、学生などを惹きつけた「静坐」とは、いったいどのようなものだったのだろうか。実は、本行寺へと通いつづける黒光にも、はっきりとした「静坐」の定義ができない。会へ参加する人々ごとに、「静坐」に対する捉えかたはまちまちで、健康増進法、病気治癒法、教育理念法、精神統一法・・・などなど、百人百様の捉えかたがなされていたようだ。同書から、黒光の解釈を引用してみよう。
  
 だんだん年月の経つうちに少しずつ気がつきましたのは、先生を中心に寄ってくるこれらの人々は、いったい何を求めているのだろう。ほとんど大方の人はただ静座を健康法と見、また病いある人は病気を癒したい希望以外に何もないようにみえるが、と私はそこに一つの疑問を抱いたのであります。といって私自身も何が何やらわからずに静座していたのでございますけれど、たまたま先生がお話の間に、
 「病気なんて何でもない。萎れかかった植木に水をかけるように癒るものだ」
 と無雑作に言い放たれることから推して、やはり静座は病気も癒るものかと、私にも頷かれはしましたが、果たしてそれだけに止まるものであったでしょうか。 (同上)
  
 新宿中村屋に寄宿していたカフカス(コーカサス)人のニンツァーClick!は、黒光が「ラスプーチン岡田」に騙されていると思いこみ、彼女のあとを尾行して本行寺までやってきたことさえあった。エロシェンコとは犬猿の仲だったニンツァーを、黒光はストーカーまがいの「変人」と決めつけている。もっとも、エロシェンコのことは「議論好きでエゴイスティック」とも書いているけれど・・・。
  
 (ニンツァーは)それから私の本行寺通いを評して、日本のラスプーチンに魅惑されているのだと断定して、わざわざ後をつけて見にきたこともございました。そのうち中原さんのモデルになってポーズしたこともありますが、彫刻の中途で中原さんやその他の美術家と喧嘩をして、自分のバストを破壊するといって皆を困らせました。太平洋画会の展覧会に「若きカフカス人」というブロンズが未完成のままで陳列されましたが、これがその時の作でございます。 (「白系ロシアの人々」より)
  
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 新宿中村屋で病床に臥していた黒光のもとへ、木下尚江が初めて岡田虎二郎Click!を連れてきたとき、中村屋では夕食に鰻丼を注文した。ほとんどモノが食べられずに寝たきりだった黒光は、岡田を前になぜか鰻丼を3分の1ほど食べられてしまう。そのあと、岡田は「これは病人ではない」と笑いながら帰っていったようだ。
 はたして、岡田虎二郎は暗示ないしは催眠術の名人ででもあったのだろうか。岡田が急死したのち、本行寺における「静坐」会は弟子の木下尚江によってつづけられたが、ほどなく門人が激減して会は解散を余儀なくされている。

■写真上:日暮里駅前にある豪雨の中の本行寺。日蓮宗の寺院で、谷中墓地に隣接している。
■写真中は、「静坐」する岡田虎二郎。は、荻原碌山『母と子』(部分)に描かれた相馬黒光。
■写真下は、新宿中村屋裏で撮られたエロシェンコの記念写真。は、本行寺の山門に架かる門札。岡田をはじめ、中村彜や中原悌二郎、黒光や尾行したニンツァーも見上げただろう。


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ChinchikoPapa

takagakiさん、いつもご評価いただきありがとうございます。<(__)>
by ChinchikoPapa (2007-09-14 19:37) 

ChinchikoPapa

いつもありがとうございます。>Qちゃんさん
by ChinchikoPapa (2007-09-14 20:05) 

sig

こんばんは。
Chinchikoさんが研究され把握されているこの時代の人脈の多さに圧倒されます。
もともとChinchikoさんの中にたくさんの人物が内在していることがベースになっているのでしょうが、一人を描こうとするとその関連で新たな関係者を発掘していくというように、永年の執筆活動がもたらした成果なのでしょうね。すごい、と思います。

by sig (2008-07-16 00:11) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントをありがとうございます。
大正期から戦前までの、さまざまな人たちを調べていきますと、どこかで繋がっているのがとても面白いですね。また、当時の人たちは積極的に、自分の知人を他者に紹介して、ネットワークを拡げていってるのだと思います。今日、文字通りさまざまなネットワークが発達しているにも関わらず、案外、人と人とのネットワークの範囲は逆に狭く浅くなっているのでは?・・・と感じてしまいます。
わたしが調べていることももちろんありますけれど、落合地域を中心に、周囲の方々や友人知人が、いろいろな資料をお送りくださって判明してきたことのほうが、はるかに多いと思います。
by ChinchikoPapa (2008-07-16 10:53) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-12-24 14:53) 

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