東京に出雲が最接近したころ。 [気になるエトセトラ]
あけましておめでとうございます。本年も、Chinchiko Papalogをよろしくお願いいたします。
★
出雲の国造(こくぞうClick!=王家)が、明治期に東京府知事をつとめていたのはあまり知られていない。もちろん、明治期の知事は住民たちによる公選ではなく、明治政府による任命制だったので印象が薄いせいもあるし、また明治政府がこしらえた「日本史」の呪縛から抜け切れていない現状では、あまり触れられたくない事実なのかもしれない。
千家尊福(せんげたかとみ)は、出雲王家というよりはむしろ、いまでは年明けにあちこちでよく唄われる「一月一日」の作詞者としてのほうが有名だろうか?
♪年の始めの例(ためし)とて 終なき世のめでたさを
♪松竹たてて門ごとに 祝う今日こそ楽しけれ
千家が、出雲神の鎮守する地域の知事をつとめたのは、神田明神(オオクニヌシ)のある東京府が初めてではない。東京府知事になる前、1894年(明治27)から3年間、氷川明神(スサノオ/クシナダヒメ/オオクニヌシ)の大宮を抱える埼玉県知事にも就任している。
旧・大宮県の時代に、氷川明神の宮司には地元とは縁もゆかりもない、場違いな公卿出身の交野某という人物が、明治政府から一方的に任命されていた。それまで氷川の神官を代々つとめていたのは、おそらく北武蔵の王家(国造)の末裔である岩井家、東角井家(角井駿河家)、西角井家(角井出雲家)の三家だった。彼らを無視して、政府はお呼びでない公卿を突然連れてきたのだ。三家の神官は、必然的に権禰宜あるいは禰宜と、にわか宮司の格下になってしまった。
当然のことだが、氏子連はもちろん地域の住民たちは激怒した。その強い不平不満や、明治政府への不服従の機運を“慰撫”するために、県知事として任命されたのが出雲神の故郷であり、出雲王家の末裔である千家尊福ではなかったか? ちなみにその後、宮司には東角井家が復帰し、将門を神田明神の主柱から外した宮司と同じように、公卿出身のにわか宮司は“追放”されている。
まったく同じことが、東京についてもいえる。1871年(明治4)の太政官布令により、日本の「正統」な神道は「伊勢神道」と規定され、全国各地に展開しているあらゆる神々に“位階・序列”をつけて勝手に差別化するという、バチ当たりなことを実施した。つづいて1873年(明治6)、江戸東京の総鎮守である神田明神から将門を外し、代わりにスクナビコナを無理やり勧請するという神の入れ替えまでやってのけた。このとき明治政府は、江戸東京人のトラの尾Click!を踏んづけてしまったのだ。
以降、明治政府への陰になり日になりの不服従と、わたしが“フリーメイソン的”と以前から表現している、ひそかな薩長土肥の排斥運動へと火が点くことになる。わたしの世代では、別に排斥活動などしていないので、将門がオオクニヌシと並び神田明神の主柱へと復活した1984年(昭和59)ごろ、親の世代あたりで100年ぶりに終息したのだろう。東京市民の強烈な反発が鬱積しているそのとき、神田明神のオオクニヌシ(オオナムチ)の故郷である出雲から、国造(王家)の千家が1898年(明治31)、東京府知事に任命されたのは埼玉県知事のときと同様、非常に政治的かつ意図的なマヌーバの臭いがするのだ。東京市民がソッポを向いているので、明治政府は人気が高かった旧幕臣たちを、次々と登用しはじめたケースClick!にも似ている。
埼玉県時代もそうだが、千家の知事としての活動は、当時としては異例のものだった。千家は徹底した現場主義で、各地を数ヶ月にわたり視察して歩きながら、さまざまな事案を決裁していった。知事室へこもり、決裁印を押すだけが“知事閣下”のおもな仕事だった当時としては、周囲にケタ外れな人物として映っていただろう。だから、地元受けもすこぶるよかったようだ。
井上円了Click!とも仲がよかったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は『日本瞥見記』(1894年)の中で、千家尊福が地元島根の街を出歩く様子を、次のように書きとめている。
●
(前略)この目に見えないことと、神秘であるということが、「ミカド」の神秘伝説を無限に強めているのであるが、ところがそれに反して、出雲の国造の方は、多くの人間の目にちゃんと見えていたのだし、郷民のあいだをしばしば往来もしていたのである。それでいながら、なおかつ、「天子様」に等しい尊信をうけていたのだ。 (筑摩書房版『日本瞥見記』より)
●
江戸時代が終ったばかりの1873年(明治6)、まだ28歳だった千家尊福は出雲(島根)を起点に、各地の「巡幸」へと出発している。出雲・石見(島根)を皮切りに、安芸(広島)、美作(岡山東北部)、伊予(愛媛)、讃岐(香川)、伯耆・因幡(鳥取)とめぐり、各地で大歓迎を受けたことが記録に残っている。山陰から山陽、四国にまでおよぶ千家の「巡幸」ルートが、とっても興味深い。このエリアこそが、いにしえより認識されていた“出雲”と呼ばれた本来のエリアなのかもしれない。そして、記紀にもみえる古代出雲と対立していたとされる吉備勢力のエリア、すなわち岡山の南部と兵庫を訪れていないことも、非常に示唆的に思えるのだ。
明治期に、場違いと思われる関東へとやってきた出雲王家の千家は、そのポジティブに働く知事の姿勢とともに、地元に受け入れられ好印象を残している。おそらく、1600年以上前の古墳時代にも、「国譲り」Click!とともに、やはり同じようなことが起きやしなかっただろうか?
■写真上:左は、出雲の日御碕神社(スサノオ)の北側、日御碕(ひのみさき)の絶壁から眺めた日本海。大陸と直結する、古代日本の表玄関のひとつだ。右は、晩年の千家尊福。
■写真中:左は、8月の旧盆に行われる宍道湖の燈籠流し。右は、風土記の丘にむき出しで残る古墳の玄室。墳丘は崩されてしまったが、玄室や石棺のみが現存する古墳も多い。
■写真下:左は、新宿の西大久保に住んでいたラフカディオ・ハーンの旧居近く、小泉八雲公園に建つ彼の胸像。右は、出雲大社よりも由来の古い、スサノウとクシナダヒメを奉る八重垣神社(旧・佐久佐神社)。スサノオがヤマタノオロチを退治したあと、ふたりはここで暮らした伝承が残る。
あけまして おめでとうございます
「やくもたつ いずもやえがきつまごみに やえがきつくる そのやえがきを」
出雲はとても古い国。漢字を当てたのは後の世なので、この呼び名や歌には別の意味があったかもしれないと考えてます。伝えられる最初の和歌でもあるのですが。
強い北風に吹き払われて、富士山が見事に見えました。
江戸っ子なら馬糞風といったかもしれませんけど。(笑)
今年も楽しく拝見させていただきます。 よろしく (^^)y
by かもめ (2008-01-02 10:57)
あけましておめでとうございます。
年越しの大雪のために、
雪解けで締めて、
雪解けに始まることとなりました。
でも、
2007年の嫌なことは雪が清めてくれる。
そしてこの雪が、
2008年のお祝いであると願い、
この新たな1年の豊穣を詠いたいと想います。
by risu (2008-01-02 20:11)
新年早々、ご評価をいただきありがとうございます。>Krauseさん
by ChinchikoPapa (2008-01-02 21:07)
かもめさん、あけましておめでとうございます。
出雲は、漢字表記では書かれず、最近は「イツモ」などのカナによる音表記が、古代史資料などで目につきますね。
おそらく、富士山が「ア・ソ」あるいは「アソ(サ)マ」という音で呼ばれていたころと同様、あとから地名音に倣って漢字があてはめられ、それが後世の付会によってひとり歩きしている・・・という側面が多々ありそうです。
きょうは北風が冷たかったですね。国立を歩いていたら、凍えそうになりました。
今年も、よろしくお願い申し上げます。
by ChinchikoPapa (2008-01-02 21:16)
takagakiさん、あけましておめでとうございます。
今度の寒波で、こちらも雪がちらつくかな?・・・と思っていたのですが、カラカラの快晴つづきです。風邪やインフルエンザが猛威をふるう季節で、子供やお年寄りの体調が気になりますね。せめて雨でも少し降ってくれれば、少しは違うのかもしれませんが・・・。
今年も、よろしくお願いいたします。
by ChinchikoPapa (2008-01-02 21:21)
すみません、書き忘れました。
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-01-02 21:22)
一真さん、あけましておめでとうございます。
早々にnice!をありがとうございました。本年もよろしくお願いいたします。
by ChinchikoPapa (2008-01-03 11:57)
デザイン屋さん、あけましておめでとうございます。
浅草の新年も楽しそうですね。nice!をありがとうございました。
今年も、よろしくお願いいたします。
by ChinchikoPapa (2008-01-03 18:05)
パパさん、おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今、出雲市駅前のホテルにおります。
これから出発するところ。
出雲の符合に、ふふふ
by 小道 (2008-01-04 07:08)
小道さん、あけましておめでとうございます。
冬の山陰はかなり寒いと思いますので、風邪などひきませんよう。駅前から日御碕行きのバスに30分ほど揺られますと、絶壁から上掲の日本海が拡がります。メチャクチャ寒そうですが・・・。
出雲のお雑煮は召しあがりました? 江戸雑煮に比べますと、ちょっとしたカルチャーショックです。ご報告を楽しみにしています。(^^
by ChinchikoPapa (2008-01-04 11:13)
この八重垣神社の写真
これって大社造りですか?
出雲大社本殿そっくりで
大変驚いています
by 船堀斉晃 (2008-05-01 03:59)
こちらにもコメントを、ありがとうございます。
典型的な「大社造り」ですね。でも、八重垣神社のほうが、出雲大社よりも“聖域”としての成立年代が古い・・・という伝承が地元に連綿と残っていますので、むしろ出雲大社のほうがこちらの建築仕様や意匠の規模を拡大させたのでは?・・・という気がしないでもありません。
だから、ひょっとすると八重垣神社は出雲大社のプロトタイプであり、大社の設計デザインが、そもそも「八重垣造り」なのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2008-05-01 12:59)
確かに出雲の大国主は素戔嗚尊の六世の孫
国譲りより素戔嗚尊隠匿のが前ですから
建築様式等を参考にした可能性は
あるかも知れませんね
by 船堀斉晃 (2008-05-01 23:01)
ちょうど、伊勢神宮のプロトタイプ(本宮と呼ばれることが多いようですが)が、近在の浅間山(または浅熊山)周辺に散在するように、出雲でも同じような経緯があるのではないかな?・・・と、想像をたくましくしてしまうんですよね。(^^
by ChinchikoPapa (2008-05-01 23:39)