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下落合に住んだ彫刻家・夏目貞良の仕事。 [気になる下落合]

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 下落合(2丁目)739番地に住んだ彫刻家・夏目貞良Click!は、同じく下落合(1丁目)436番地に住んだ兄の日本画と洋画双方の画家・夏目利政Click!に比べて、地元ではほとんど目立たない存在だ。さまざまな出来事や証言を記録した資料にも、夏目利政Click!は頻繁に顔をのぞかせるが、弟の夏目貞良はほとんど登場しない。地元の方の証言でも、「ここには、確か夏目という彫刻家が住んでいた」……ぐらいの記憶しか取材できたことがなく、彼にまつわるエピソードはいっさい聞こえてこない。
 夏目貞良は、1895年(明治28)生まれで昭和初期には30歳前後であり、当時は同年代の美術家が落合地域にはたくさん住んでいたはずなのだが、彼らと交流していたという記録も痕跡も見つからない。確かに、落合地域に住んでいたのは洋画と日本画を問わず、圧倒的に画家が多かったため、畑ちがいの彫刻家である夏目貞良としては交流しづらかったのかもしれない。だが、落合地域に限らず、美術誌などで取りあげられる美術家の記事などの資料類にも、夏目貞良のことを紹介した記述は見られないし、ましてや彼の文章も発見することができないでいる。
 夏目貞良のアトリエは、下落合の野鳥の森公園沿いのバッケ坂(転訛してオバケ坂)Click!を上りきった道沿いの左手、ちょうど下落合753番地にあった九条武子邸Click!の道路をはさんで南隣りにあたる敷地だ。唯一、夏目貞良邸に関する情報としては、すぐ近くに設立されていた服部建築土木Click!(代表・服部政吉)が同邸を建設しており(同社設計士のご子孫証言による)、当初は兄の夏目利政が発注し下落合436番地へ転居する以前に、家族とともに同邸に住んでいたとみられる。
 当時の夏目利政は、夫を亡くした日本画家の師・梶田半古の妻である和歌夫人と結婚(1919年)し、師の子どもたち5人と、生まれたばかりの和歌夫人との間の子ども(「できちゃった婚」の可能性が高い)、そして自身の母と祖母の計10人家族で、1920年(大正9)ごろ下落合739番地に転居してきているとみられる。同邸は、借家ではなく自邸とみられ、近くの服部建築土木が建設を請け負っている。
 死去してから間もない、梶田半古の妻と関係したことで、夏目利政は梶田半古の弟子たちから恨まれて悪いウワサを流され、日本画壇からは事実上追われるような境遇になっていた。画壇で肩身が狭くなり、おそらく作品の販売ルートが狭まったからだろう、下落合739番地に建設したアトリエが縁で、その後、夏目利政と服部政吉のコラボレーションによるアトリエ仕様の建築が、下落合の各所に建設Click!されていくことになる。ふたりの間では、下落合の東部を“アトリエ村”にする計画があったのかもしれない。
 下落合739番地のアトリエは10人家族には狭すぎたのか、夏目利政は数年で下落合436番地に新たなアトリエを建てて転居している。そして元のアトリエには、弟の夏目貞良を呼び寄せている。東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!開発広告Click!が、新聞紙上に掲載されたのは1922年(大正11)6月10日が初出だが、そこには協賛人として満谷国四郎Click!金山平三Click!南薫造Click!北村西望Click!らの名前とともに、夏目利政や夏目貞良の名前が見えるので、少なくとも同年に夏目貞良は下落合にいたらしいことがわかる。
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 さて、人となりや性格がわかるようなエッセイやインタビュー記事が発見できず、またその作品が批評家の対象となることも少なかったらしい夏目貞良だが、文展から帝展、そして新文展へと毎年コンスタントに作品を出品しつづけ、帝展では途中から“無監査”彫刻家になっている。つまり、帝展に作品を出品しさえすれば入選・落選の審査を受けることなく、常に無条件で展示されるという位置にいた。公募のある美術団体でいえば、「会員」あるいは「準会員」に相当するポジションだ。
 “帝展無鑑査”といえば、当時の官展美術界では相当な地位を意味し、名刺のショルダーにさえ刷りこまれるような、将来の「大家」を約束されたようなポジションだが、彼の人となりについての記録は驚くほど少ない。国立国会図書館の資料類を漁っても、夏目貞良の名前が登場するのは文展・帝展の展示図録か、また同展を紹介した美術誌で出品作家として単に名前だけが紹介されるぐらいのものだ。
 確かに、画家に比べて彫刻家は地味だし、当時の一般家庭へ持ちこまれる美術品は、洋画・日本画を問わず壁面を飾れる絵画が中心であって、それなりに設置場所が必要な彫刻のニーズは少なかっただろう。だからというべきか、“帝展無鑑査”になった画家の取材記事は美術誌などでよく登場するけれど、彫刻家の記事は相対的に少ない。また、夏目貞良がそうだったかどうかは不明だが、あまり騒がれたくない引っこみ思案の性格だったりすると、マスコミの取材を受けることに抵抗があったのかもしれない。
 1923年(大正12)に帝国絵画協会によって作成された、「大正十二年・帝国絵画番付」という面白い資料がある。同番付表は、1922年(大正11)から1924年(大正13)の3年間にわたり制作されたらしく、文展・帝展の日本画家・洋画家・彫刻家の位列が、あたかも相撲の番付表のように紹介されている。これによると、夏目貞良は彫刻の部の【入選格】(前頭筆頭?)として紹介されている。また、その横には【特選格】(小結?)として陽咸二Click!の名前が掲載されている。
 この序列で判断すると、【特選格】や【入選格】はいまだ【審査員格】(大関?)から審査を受ける対象であり、“無監査”ではないことがわかる。“文展・帝展無鑑査”になるには、【推薦格】(関脇?)以上の番付にならないと得られない特権のようだ。ちなみに、彫刻部の最上位【元審査員】(横綱?)には高村光雲Click!の名前が見えている。
 また、同番付表の洋画部には、【審査員格】(大関?)として満谷国四郎Click!金山平三Click!、南薫造、片多徳郎Click!牧野虎雄Click!、そして中村彝Click!の名前が見えており、さながら下落合の住民名簿のような趣きになっている。また、【推薦格】(関脇?)には大久保作次郎Click!三宅克己Click!藤田嗣治Click!らが名を連ねている。
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 さて、夏目貞良の下落合時代の作品を観ていこう。彼の作品画像は、1927年(昭和2)の第8回「帝展図録」から確認することができる。同年の図録には、『無憂』と題する彫刻が載っている。裸の女性が、目をつぶりながらボーッと立っている像だ。つづいて翌1928年(昭和3)の第9回「帝展図録」には、『渚』とタイトルされた作品が出品されている。やはり、裸の女性が立ちながら、右足を寄せる波に向けて浸しているようなポーズだ。なんだか、両年ともほとんど変わり映えのしない女性が無心に立っている作品で、同時制作(バリエーション)といってもいいようなポーズをしている。
 少し飛んで、1932年(昭和7)の第13回「帝展図録」には、夏目貞良の横に“無鑑査”のクレジットが入っているので、いわゆる“帝展無鑑査”になったのはこのころだろう。出品作は、裸の女性がいわゆる体育座りで脚に手を添えている『女性』というタイトルだ。そして、翌1933年(昭和8)に制作されたのは、帝展出品作ではなく、裸のふくよかな妙齢の女性が腰かけ、手を膝の上に行儀よく組んで左脚を少しずらしている『若き日』という作品だ。翌1934年(昭和9)に発表されたのは、裸のスレンダーな若い女性が腰かけ、手を膝の上に行儀よく組んで左脚を少しずらしている『少女』というタイトルだ。(爆!)
 そして、1934年(昭和9)の第15回「帝展図録」には、裸のふくよかな妙齢の女性が腰かけ、左脚を少しずらして筋肉痛なのか左手でふくらはぎをマッサージしているような、『女』という作品(やっとポーズが変わった!)だ。すでに読まれている方もお気づきだろうが、毎年「若い女性+裸」の共通するモチーフで、少しずつポーズを変えただけの作品では、どうしても観賞者や批評家の目にとまりにくいし、印象も稀薄化するのはいたしかたないだろう。夏目貞良が、美術誌などでもなかなか取りあげられない要因は、このような作品の傾向にもあったのではないか。
 それでも、戦時体制が年々色濃くなり帝展が改組されて新文展(1937年~)の時代を迎えると、夏目貞良の作品から「若い女性+裸」のモデルはいっさい消え、軍人の彫刻などが見られるようになる。1942年(昭和17)の第5回「新文展図録」には、『軍人加藤少将』という胸像作品が掲載されている。加藤少将とは、いわゆる「加藤隼戦闘機隊」(陸軍航空隊第64戦隊)の戦隊長・加藤建夫中佐のことで、同年に戦闘機「隼」に搭乗してビルマ(ミャンマー)上空の空戦に参加、撃墜されて戦死し二階級特進で「少将」となっていた人物だ。
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夏目貞良「若き日」1933.jpg 夏目貞良「少女」1934.jpg
第15回帝展「女」1934.jpg 第5回新文展「軍人加藤少将」1942.jpg
 そのほか、家庭の床の間や棚、洋間のサイドテーブルなどに飾るのを意識したのだろう、販売を目的としたウシやキジ、ウサギなどの動物彫刻(置物)や、アイヌ民族のコタン(村)に住むエカシ(古老)をモデルにした作品などを多く残している。これらの“売り彫刻”は、現在でもオークションなどで見かけるので、かなりの数が出まわっているのだろう。

◆写真上:バッケ坂(オバケ坂)の上にあった、下落合739番地の夏目貞良アトリエ跡。画面左手の低層マンションがアトリエ跡で、正面が九条武子邸Click!跡。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる夏目貞良邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる夏目邸。は、1933年(昭和8)に美術新論社から出版された『美術家名簿』に掲載の夏目貞良。
◆写真中下は、1923年(大正12)作成の「帝国絵画番付」と【入選格】に掲載された夏目貞良の拡大で、右の【特選格】には陽咸二Click!の名前が見える。は、1927年(昭和2)刊行の第8回「帝展図録」()と1928年(昭和3)刊行の第9回「帝展図録」()。は、1937年(昭和12)刊行の『時事年鑑』(時事通信社)収録の夏目貞良。
◆写真下は、第8回帝展(1927年)の夏目貞良『無憂』()と、第9回帝展(1928年)の(以下同)『渚』()。中上は、第13回帝展(1932年)の『女性』。中下は、1933年(昭和8)制作の『若き日』()と、1934年(昭和9)制作の『少女』()。は、第15回帝展(1934年)制作の『女』()と、第5回新文展(1942年)制作の『軍人加藤少将』()。

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サンフランシスコ人

「圧倒的に画家が多かった....畑ちがいの彫刻家である夏目貞良...」

彫刻家が圧倒的に多かった場所は、日本に存在したのでしょうか?
by サンフランシスコ人 (2023-10-07 03:07) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
画家に比べて彫刻家は少ないせいか、あまり聞かないですね。戦後、多摩地域に彫刻家や工芸家を集めた芸術ビレッジ計画があったと聞きますが、実現しなかったようです。
by ChinchikoPapa (2023-10-07 10:58) 

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