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陽咸二の「別嬪」大好きは誰かに似ている。 [気になるエトセトラ]

自画像1916-17.jpg
 陽咸二Click!について、「あらゆる自然の物象を遊戯化した江戸時代浮世絵芸術家と其の点相似たところがある」と書いたのは、彼の死後、1937年(昭和12)5月に開催された、第10回構造社展覧会の目録に執筆した濱田三郎だ。
 わたしも、まったく同じ感想を抱いていたひとりだ。濱田三郎が、浮世絵師の誰を想い浮かべて書いたのかは不明だが、わたしは陽咸二の経歴や仕事を知ったとき、真っ先に浮かんだのが彼の母方の出自と同じ、東両国=本所生まれの中島鉄蔵だ。陽咸二は、まず画家・島田墨仙に入門して画法の基礎を学んだあと、2年後に彫刻家・小倉右一郎の門人となって彫刻家をめざすことになる。中島鉄蔵は、陽咸二とは逆に彫刻師のもとに入門したあと、ほどなく絵師・勝川春章に弟子入りして画家をめざしている。
 生まれも出発点も、どことなく似ているふたりだが、中島鉄蔵はさまざまな絵師の表現や技法を吸収して、あらゆるジャンルをこなせる画家に成長していった。画業では、狩野派や唐画、西洋画の技巧から浮世絵や役者絵、読本、絵本、漫画の世界にいたるまで、自身が興味を抱くジャンルやメディアへ好き勝手に描いていくその奔放な表現欲求も、どこか陽咸二の仕事のしかたに近似している。(城)下町Click!育ちの陽咸二が意識していたかどうかは不明だが、中島鉄蔵はのちに画号を東両国(本所)の旧・郡名にならったものか、葛飾北斎Click!のちに画狂老人Click!と名乗るようになる。
 北斎は、カネが入ると女と美食、趣味とにつかい果たし、しじゅう借金取りに追われる生活をつづけ、生涯にわたって米代に困るほどの貧乏だった。ことに、「別嬪」好きは今日まで語り継がれているが、常に美人画・歌麿の仕事を横目で見つつ、自身はおもに風景画のオーソリティとして大江戸(おえど)Click!市中では高い評判を呼んでいた。
 陽咸二も、きれいな女子好きは有名だったようで、前回の記事Click!でも秋子夫人を放りだして、「別嬪」を追いかけていったエピソードをご紹介したが、当時の「新しい女」、特に洋装のモダンガールには目がなかったようだ。こと女性に関していえば、このあたり尾張町(銀座)が出自で多芸多才な岸田劉生Click!の、「(祇園の)花菊が一緒なので、大いにうれしい。花菊はやはり美しい」とは、正反対の趣味をしていたらしい。
 宇都宮美術館で今年(2023年)開催された「陽咸二 混ざりあうカタチ」展の図録に収録された、『陽秋子談話』から少し引用してみよう。
  
 展覧会が始まって、秋子はおしやれをして断髪に洋装で颯爽として歩るいていた。すると後から来た車の中には咸二をひいきにして蔵書を開放して、何かと応援して下さった慶大教授の渋井清氏と同乗して、美術館会場へ向かっていたのだが、渋井氏が「ご覧なさい。この頃の婦人はあの様な洋装をして得意になってる歩るいていますよ」というので咸二が見ると、それは秋子であった。/「あれは僕の女房ですよ」と云うと渋井氏はすっかり慌てゝ了い「それはどうもどうも」としきりに困っていらした由、その話を咸二から聞いて秋子も大笑いしたが、昭和四十三年新橋の回顧展の折にもかけつけて下さり、久々にその話が再燃して「いやいや仲々のモダンガールでした」と共に大笑いとなった。
  
 モダンガールのことを、「雲虎(KUMOTORA=うんこ)」Click!と称した古いもの好き、伝統好きの劉生とは逆に、陽咸二の視線は常に新しいモノに向けられていた様子がうかがえる。岸田劉生が住んでいた、松本別荘Click!に近い鵠沼海岸や片瀬海岸で泳ぐ、最先端の水着を身にまとった別荘住まいの女子Click!たちを見たら、劉生は眉をひそめて「ばっか野郎!」Click!と吐き棄てたかもしれないが、陽咸二はスケッチブックを手に嬉々として浜辺へ毎日出かけたかもしれない。劉生は傲岸不遜な性格だったが、陽咸二は常に新しいモノへの好奇心や吸収欲を失わない、柔軟でスケーラブルな性格をしていたように見える。
自刻像1923.jpg
第3回構造社展1929.jpg
蟇1932.jpg
 かといって、陽咸二は古いものにまったく眼を向けないわけではなく、むしろ古くて伝統的なモチーフへ取り組む場合は、そこに新味をもたせることに腐心しているような印象を受ける。1928年(昭和3)に制作された『聖観音像』は、1300年余の時空を超えた仏師が20世紀版の「百済観音」を制作しているような趣きだし、胸の膨らみをより強調することで明らかに女性化をめざしている。また、1935年(昭和10)の最晩年に制作された『鍾馗』は、それまでの鍾馗像とはかなりイメージが異なり、あたかも薬師如来を取り囲む十二神将Click!の1体を想起させるようなポーズだ。ところで、『鍾馗』が手にしていたとみられる両刃の剣は、いつの時点で失われたものだろうか。
 陽咸二の内面には、常に古いモノ(美)と新しいモノ(美)が混在しており、テーマが古いモチーフであるならば、それへどのように20世紀の“現代美”を重ねあわせるか、あるいはモチーフが現代の新しいモノなり媒体なら、どのように日本(あるいは江戸東京地方)ならではの史的な美を表現し、自身ならではの妙味(オリジナリティ)を付加するかに、全神経をつかっているような印象を受ける。それは、あたかも江戸期に生きた木工師や金工師、漆芸師などの巧匠(たくみ)のような眼差しではなかったろうか。
 陽咸二の彫刻や絵画には、女性をモチーフにしたものが少なくないが、膝を立てたり崩したりしてどこか動きが生なましく艶めかしい。そして、人間や動物などモチーフのちがいを問わず、またデフォルメやアレンジの多寡にかかわらず、思わず次の動作や表情を想起できるような、ある動きの一瞬を切りとったような、流動的かつモーションの過渡的なかたちを見せている作品が少なくない。
 それは、あたかも歌麿の美人画がいかにもモデルにポーズをとらせた、固定的でポートレート(肖像画)のように取りすましているのに対し、北斎のそれはちょっとした仕草の刹那を切りとったような、ある意味では日常における過渡的な動きの一瞬をとらえた姿勢美にも似ているだろうか。どこか、幕末から明治期にかけて大橋(両国橋)Click!の東西で流行した、見世物小屋Click!の人形師のリアリズムにも通じるような気配さえ漂っている。
聖観世音1928.jpg 鍾馗1935.jpg
髪飾り1920年代.jpg 陽咸二「日本音楽舞踊家元名流大鑑」1931.jpg
花魁1927木版画.jpg
 舞踏やスポーツなどの彫刻、あるいはメダルやレリーフを制作する際には、さらに顕著化する陽咸二の特徴ではないだろうか。極東選手権大会用の優勝記念メダルに刻まれた「スポーツ神」は、陽咸二自身がスポーツ専門誌で言及している、静的な万福寺の「韋駄天」でも興福寺の「阿修羅」でもない、その怒髪天をつく頭に周囲を睥睨するような険しい表情は、さしづめ20世紀に出現した伐折羅大将Click!の表情のようだ。陽咸二のオリジナル「スポーツ神」は、全国中等学校野球大会Click!(現・全国高等学校野球大会)の優勝メダルにも採用されているが、ベース上でバッターともキャッチャーとも、ピッチャーともつかない動的な姿をしている。それはまた、次の動作へ移る直前の刹那に見せる、日本舞踊の“常間”や芝居の“見栄”のような、一瞬のたたずまいのようにも感じられる。
 そのような動的な“美”は、江戸の清元や常磐津を背にした舞踊や、所作がくだけた世話物が多い芝居の中だけでなく、より活動的で新しい時代の装いから“女らしさ”を生みだそうとする街の女子=モダンガールたちの、ひとつひとつの新鮮な所作やポーズの中にも、垣間見えていたものだろうか。陽咸二の、女子たちの姿勢や表情を仔細に観察する眼差しは、入院先の病棟でも終生変わらなかったらしい。
 同図録に収録された、陽秋子『夫咸二の想い出』(1969年ごろ)から引用してみよう。
  
 (前略) また入院初期の頃、独身患者と思われて『看護婦さんの様子がロマンティックで良かったのに、お前が来る様になってから、だんだん変わってきたよ。そして奥さんだと解ってから、とうとう来なくなっちゃった。惜しい事をしたね…』とか、由比ケ浜の“グラマー探訪”(今のコンテスト)のインタビューに、或る新聞から咸を名指しで来たよ、とお見舞いの方から伺って『残念無念、あぁ病気でなかったらなぁ』等太平楽なものでしたが、亡くなる迄二人の子供の事を思い続け、『地位も名誉も要らない、只々子供達と一緒に食事がしたい』と申しておりました。
  
 どうやら陽咸二の「別嬪」好きは、広く新聞社にまで知られていたようだ。
 画狂老人こと葛飾北斎は89歳(数えで90歳)まで生き、臨終の床でも「あと五年生きられたらほんとの絵描きになれるのに」と、死ぬまで画題に対する興味や表現欲求を失わなかったが、陽咸二は仕事や趣味に幅がてきて脂がのってきたばかりで、好奇心が旺盛なまま1935年(昭和10)9月14日、37歳の若さで病没している。
タイピスト表紙1928.jpg 写真の趣味1931.jpg
極東選手権大会メダル1930.jpg
香炉雷神1930-35.jpg
 その後、長期にわたり忘れられた彼の彫業や画業だったが、1960年代になるとにわかに見なおされ注目されるようになる。戦後1950年代にようやく見なおされ、展覧会が各地で開かれ脚光をあびるようになった佐伯祐三Click!と、どこか似たような経緯にも思える。

◆写真上:17~18歳ごろに描かれた、陽咸二のデッサン『自画像』(部分)。とても大正初期の若者には見えず、ベルボトムをはいていた1970年代の学生のようだ。
◆写真中上は、1923年(大正12)制作の陽咸二『自刻像』。は、1929年(昭和4)開催の第3回構造社展会場。ワイシャツにネクタイ姿の会員たちから離れ、ラフな格好で座っているのが陽咸二。左手には、同年制作の陽咸二『降誕の釈迦』が見える。は、ジッとしていないモチーフに苦労をした1932年(昭和7)制作の陽咸二『蟇』。ネズミが枯れヒマワリの種子をかじってしまい、モチーフが刻々と変化して困りはてた日本橋浜町出身の曾宮一念Click!と同じような噺家的ユーモアを感じる。
◆写真中下上左は、1928年(昭和3)に制作された陽咸二『聖観世音』。上右は、1935年(昭和10)に制作された陽咸二『鍾馗』。中左は、1920年代に制作された陽咸二『髪飾り』。中右は、1931年(昭和6)に描かれた陽咸二『日本音楽舞踊家元名流大鑑』の表紙デザイン。は、1927年(昭和2)に制作された木版画で陽咸二『花魁』。
◆写真下上左は、1928年(昭和3)に描かれた陽咸二による専門誌「タイピスト」の表紙デザイン。上右は、1931年(昭和6)に描かれた同じく「写真の趣味」の表紙デザイン。は、1930年(昭和5)に制作された『極東選手権大会メダル』。は、1930~35年(昭和5~10)ごろ制作の陽咸二による香炉『雷神』。実際に、『雷神』の口から香の煙が立ちのぼるところを見てみたい。写真は「陽咸二 混ざりあうカタチ」展(2023年)の図録より。

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