宝珠と狐塚と稲荷社の関係。 [気になるエトセトラ]
下戸塚地域(現・早稲田界隈)にあった古墳を、江戸期に耕地拡張のために崩した際、出土した副葬品(当時はめずらしかったおもに宝玉・宝石類)を近くの寺社へ奉納した伝承は、以前からこちらでもご紹介Click!している。しかし、それらの奉納品はほとんどが関東大震災Click!の混乱や空襲による戦災Click!で焼失あるいは散逸してしまい、現在では所在不明のものが多い。そんな中で、奉納品の様子がしっかり記録に残っているものもある。きょうは、下落合の薬王院Click!とも直結する、寺社に奉納された古墳の副葬品について考えてみたい。
由来がハッキリしているのは、戸塚(富塚=十塚)地域の現在は早稲田大学キャンパスの下になってしまった富塚古墳Click!(江戸後期は高田富士Click!)から出土したといわれている「宝珠」だ。富塚古墳が玄室まで含めて破壊されるのは、早大の9号館が建設される戦後の1963年(昭和38)のことなので、江戸期の出土状況からみると「宝珠」は富塚古墳の主墳ではなく、近接していた陪墳の玄室が壊された際に出土している可能性もありそうだ。また、主墳の玄室が盗掘されていたとしても、培墳の副葬品が無事なケースはままある。「宝珠」は近くの農民が発見し、おそらく自身の檀家寺だったのだろう、牛込原町の報恩寺へと奉納している。
明治の末、寺町だった同じ牛込区原町3丁目25番地の願正寺境内に住んでいた、中村彝Click!の下宿先にもほど近い場所なのだが、実は、報恩寺は1869年(明治2)に廃寺となっていて明治初期から存在していない。廃寺とされるにあたり、その“合併”先に選ばれたのが下落合の薬王院だった。では、薬王院に報恩寺の奉納物である「宝珠」が残っているかというと、行方不明のままなのだ。かろうじて、江戸期に書きとめられた記録が現存するのみとなっている。
古墳から出た「宝珠」は、「龍の玉」および「雷の玉」と名づけられて寺宝とされていたらしい。富塚古墳付近から、1796年(寛政8)に出土したのは「雷の玉」のほうで、杢目のような模様がみられたというから、おそらく縞瑪瑙でできた大きな宝玉だろうか。出所が不明な「龍の玉」も含め、瑪瑙や碧玉Click!、水晶、翡翠、ときにガラスなどで制作された古墳期の副葬品(宝飾類)だと思われるが、現物がないので詳細は不明だ。いまに伝えられていれば、富塚古墳(とその陪墳群)について、かなりのことが判明したと思うと残念でならない。このような特別の宝飾品が副葬されたところをみると、出土した古墳(陪墳?)の被葬者は女性の可能性が高い。
江戸期の記録に「宝珠」と書かれることが多いのは、このような宝玉はキツネがくわえてもたらすという、当時の稲荷信仰Click!と密接に結びついているからだ。したがって、「宝珠」が出土した富塚古墳のことを、「高田富士」と呼ばれる以前は「狐塚」Click!と呼んでいたことが記録に残されている。そして、富塚古墳に建立されていた水稲荷Click!と並び、「宝珠」がもたらされた狐塚へ小さな稲荷の祠が改めて奉られている。おそらく、全国の狐塚Click!と名づけられた地名あるいは古墳、稲荷社にも、江戸後期に耕地拡張を進める過程で出土した、「宝珠」伝承(副葬品の出土記録)がありそうだ。もし、宝玉が稲荷信仰が大流行する江戸期以前の時代に発見されていたら、おそらく「宝珠」ではなく、別の名称がつけられていたかもしれない。
廃寺となってしまった報恩寺へ、江戸期に奉納されていたふたつの「宝珠」について、1973年(昭和48)に三交社から出版された芳賀善次郎『新宿の散歩道』から引用してみよう。
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牛込柳町交差点から榎町に向う。すぐ左斜めに喜久井町に抜ける一方通行標識の道を進むと右手に天祖神社がある。その西側のマンションのあるところに昔報恩寺があった。(中略) この寺は明治二年ごろ下落合四丁目の薬王院に合併して廃寺になった。(中略) この寺に、江戸時代「竜の玉」と「雷の玉」という珍宝があった。竜の玉は、死んだ竜の卵で、直径約十五センチメートルあるが、雨の降る前には湿気を帯びて大きくなるという。雷の玉は直径約九センチメートルで、乳白色だが少しうす藍色、ねずみ色、うす茶色などの木目のような模様があり、光沢があったという。/雷の玉は戸塚で拾ったものというから、それは富塚古墳(頁略)に落雷した時に、副葬品の飾り玉が、崩れた玄室から飛び出したものだろうといわれている。/この二つの玉は、報恩寺が廃寺になったので行くえが分らない。
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キツネがもたらした「宝珠」の記録は、狐塚や稲荷社の存在とともに、落合地域の西側、中野地域でも随所で見ることができる。農家へ代々伝わっていた、シイヤ(シンヤ)の山から出土した「宝珠」の逸話や、原っぱを歩いているときに発見した「宝珠玉(ほうしだま)」を保存していたエピソードなどだ。これらは、もちろん墳墓の副葬品とはとらえられておらず、神がかり的なキツネの仕業と考えられ、多くの場合は出土場所に稲荷社が建立されている。その中の代表的な伝承を、中野地区と新井地区からピックアップしてみよう。引用は、1987年(昭和62)に発行された『中野の文化財No.11/口承文芸調査報告書・中野の昔話・伝説・世間話』(中野区教育委員会)による。
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うちにね、宝珠の玉があったんですって。色は白です。それでね、いま、その前の家がマンションになってるけど、以前は山だったんですよ。シイヤの山ってね。シンヤだかわかんないんだけどね。それでね、うちのおやじさんが、どこから入ったのかわからないけど、拾ったんですって、宝珠の玉を。/でねぇ、うちの父親が言うには、白狐が、千年経つとね、額にのっけて歩くんですってね。それでねぇ、その白狐の宝珠の玉を拾ったので、うちも相当困っておったんだけど、それを拾ってから、工面というか、たいへん経営が良くなって。(後略) (中野 男 明治42年生)
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証言の中で、話者自身は認識していないと思われるが、「シイヤ」あるいは「シンヤ」の山は「屍家」ないしは「死屋」、すなわち江戸期にはその由来の意味さえ不明になり、単なる地名の音(おん)として伝承されてきた大きな墓域、すなわち古墳の巨大な墳丘である可能性が高い。また、ここに「千年」単位の伝説が語られている点にも留意したい。白ギツネの比喩で語られている伝説は、「千年」以上も昔にまでさかのぼるエピソードとして伝承されている。江戸期から「千年」以上も昔といえば、古墳時代までたどれるタイムスパンだ。
もうひとつの伝承は、「真っ白な宝珠玉」といわれているので、白瑪瑙あるいは他の材質の宝飾品だったのだろうか? 新井地域の、おそらく原っぱになった田畑跡の地中から出現しており、ここでも出土跡に稲荷社を建てて奉っている。引きつづき、同書の証言から引用してみよう。
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狐の宝飾玉かい。それは、そこの、あの人いなくなっちゃったねえ。ほんとに話があったのね。/あのう、昔、ここが原っぱだったでしょう。ねっ。それで何軒かの家しかなかって、そこの家の人が毎日毎日、朝、勤めへ通っていたら、宝珠玉がね、このぐらいの高さでね、ヒョンヒョンヒョンヒョン宝珠玉がね、歩いていたんですって。それで、その玉を拾って、狐のね、このくらいの狐の、上へ毛がくっついてるわね。それで、その人は、もう死んじゃったわねえ。/で、お稲荷様をそこへ建って、お祀りしてたのね。真っ白な白狐だったって。それでね、お宮建って、お祀りしたのよね。(後略) (新井 女 明治31年生)
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この伝承の起源は、明治期に入ってからのものらしく、少なからず江戸後期の「ケサラバサラ(ケサランパサラン)」の流行話と習合している匂いが濃厚だが、「宝珠玉」という表現がひっかかるのでピックアップしてみた。このような「宝珠」伝説は、おそらく全国各地にあるのではないか。
こうしてみると、地中から「宝珠」(古墳副葬品にみられるなんらかの宝飾品)の出現、それによる「狐塚」の命名、そして出土場所へ稲荷社の建立、さらに大きめの塚が残っていれば富士信仰による「富士」構築と、浅間社の勧請・・・という、江戸後期にみられた農耕地におけるひとつの事蹟の流れが透けて見えてくる。「狐塚」の字(あざな)が残る土地、あるいは「塚」地名が残る土地の稲荷社の由来を洗い直してみると、まったく異なる時代の別の風景が見えてきそうだ。
◆写真上:世田谷区の尾山台にある、狐塚古墳の墳丘斜面に建てられた石標。
◆写真中上:江戸期の寛政年間ごろから報恩寺に伝わっていた、龍の玉(左)と雷の玉(右)。
◆写真中下:上左は、富塚古墳(前方後円墳)の墳丘に築かれていた高田富士の山頂。上右は、芳賀善次郎『新宿の散歩道』(三交社)。下左は、1963年(昭和38)に甘泉園の西へ移転した水稲荷社。下右は、三島山(甘泉園)の高木社(第六天)。
◆写真下:上左は、世田谷区の尾山台にある狐塚古墳の後円部。上右は、墳丘から見下ろした風景。すぐ近くまで住宅が迫り、前方部の墳丘は宅地造成で失われていると思われる。下左は、狐塚古墳に近い等々力御嶽山古墳で前方部は手前の道路建設で削られた。この周辺(約500m四方ほど)では、現在までに50基を超える古墳が宅地造成や道路建設により破壊されている。この古墳密度を、東京の大・中型古墳が残る市街地まで敷衍すると、ものすごい数の古墳数が想定できる。ちなみに、芝丸山古墳では約300m四方に少なくとも14基の古墳が確認されている。下右は、豊島区の上屋敷近くにある狐塚で、現在は低層マンションの建設現場となっている。
侍塚古墳群は田畑の中に、今も残っていましたが、残念ですねぇ。
国宝那須国造碑の周辺を、発掘調査と保護した水戸光圀公は、本当に偉い人です。
by hanamura (2013-11-12 07:00)
ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>tomuyamu9nさん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 10:37)
つい先だて、谷中→根岸→上野と歩いてきたのですが、あちこちでイベントが行われていました。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 10:41)
SEOのボット対策は、どこまで有効かが悩ましいですね。Googleにたとえますと大きな修正はともかく、ある特定の傾向や規則的なふるまいがボットの徘徊先で見えた場合、プログラムの見直しや小修正は数週間のスパンで行われていますから、案外細かな設定をしても意味がないように思います。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 10:47)
わたしの感覚がズレているのかもしれませんが、ジュリア・ロバーツという米国の女優は、どこがいいのかさっぱりピンときません。nice!をありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 10:48)
この春、いただいた青梅を梅酒にしてあるのですが、そろそろ飲みごろですね。nice!をありがとうございました。>沈丁花さん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 10:51)
hanamuraさん、コメントとnice!をありがとうございます。
侍塚古墳群も、弥生期から古墳期にかけての、群馬県と栃木県とにまたがる「上毛野(かみつけぬ)」勢力のエリアだと思うのですが、どうやら群馬県の確認された古墳数が、最近1万基を超えたようですね。これは、そろそろ京都府を抜いて全国2位の千葉県に迫る勢いです。(ちなみに古墳数1位は兵庫県です)
「南武蔵」勢力のエリアに入ると思われる千葉県ですので、早くから農地化や宅地化が進んでしまっていた東京都や神奈川県では、いったいどれほどの古墳密度だったものでしょうか。
戦後70年近くで、ようやく戦前の日本史(「関東は坂東夷が跋扈する未開の原野」という、中国や朝鮮半島から借りた記紀の東夷史観)が、具体的な物証とともに一掃される時代を迎えました。
栃木県や群馬県、茨城県、千葉県、埼玉県は、空中考古学がまだまだ可能な余地がありますので、空中からレーザーを地表に当てる最新技術で、大型も含め古墳の発見はまだまだつづくのかもしれません。
by ChinchikoPapa (2013-11-12 11:11)
ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 11:13)
自転車を預かる「商店」で思い当たるのですが、最近、都内のあちこちで新しい自転車屋を見かけます。クルマよりも、移動に自転車を使う若い子が増えているせいでしょうか。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 11:22)
栃木の小田代ヶ原は、もう冬景色ですね。白く光るのは霜でしょうか。
そろそろ冬支度で、昨日は冬がけ布団を出しました。
nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 11:26)
オレゴンの『MUSIC OF ANOTHER ERA』は、深夜、原稿を書きながらなんとなく聴いていることがありますね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 11:32)
わたしも、あまりにもやわらかい、ちょっと病的な高級和牛は苦手で、しっかり肉の噛みごたえがあるものが好きです。nice!をありがとうございました。>道多田さん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 11:35)
松山は道後温泉に入っただけで、ホテル泊だったせいか地元の料理を食べずに帰ってしまったのが心残りです。nice!をありがとうございました。>alba0101さん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 14:32)
鉄道の標識が、電車でも線路でもなく蒸気機関車なのがいいですね。それとも、ときどきイベントかなにかで、実際に走っているんでしょうか。いつもnice!を、ありがとうございます。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 18:58)
安田靫彦画伯の、同時代の作家たちとが、宝珠を描きこんだ軸の謎が不明でした。稲荷信仰との関わりと、古墳の埋葬品何かヒントに思えてきました。大磯では猫塚という古墳から刀の残欠が発見されたという記事を昔読みました。
by SILENT (2013-11-12 21:32)
偽装表示は、底なし沼のようですね。詐欺表示をする側に責任がありますけれど、それを見抜けない目や舌の主体側にも若干の課題がありそうに思います。nice!をありがとうございました。>はせおさん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 23:29)
大野商店のサイトを見ますと、シシャモはビタミンAとカルシウムの含有量が、イワシに比べて飛びぬけているんですね。nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
by ChinchikoPapa (2013-11-12 23:33)
SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
安田画伯の、宝珠の軸画は実際に拝見したことがないのですが、キツネとともに龍の「宝珠」もありますね。昔から、日本画や彫刻のテーマにされてきた「珠追い龍」ですが、霊獣と呼ばれるような動物に宝珠はよく登場するようです。江戸期に入ると、実際に龍を描かずに宝珠だけで「龍」を表現したり、剣だけで「不動明王」や「龍」(剣巻き龍/剣呑み龍)を表現したりする“簡略”化が進みますね。
猫塚は、江戸期に石棺も出土しているようですので、古墳にまちがいないのでしょうね。畑地の中にポツンとあったようですので、ひょっとするとさんざん周囲の開墾で墳丘が削られた、最後の残滓なのかもしれません。出土の鉄剣を含め、副葬品がいまどこにあるのかちょっと見てみたいです。
by ChinchikoPapa (2013-11-12 23:45)
宝珠玉についての、まだ言い伝えとも言えない新しい話題が面白いです。狐はたいてい白狐のようですが、これについては何か?
by sig (2013-11-13 00:19)
甲州ぶどうのDNAが、少し野生種寄りというのは面白いです。延々と伝播する過程で、いろいろな交雑があったのでしょうね。nice!をありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2013-11-13 16:45)
sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
ご紹介した伝承や逸話には、「宝珠」のみが登場して白ギツネの姿は付随していませんが、記事に登場している豊島区の上屋敷(西池袋)にあった狐塚には、「白ギツネ」が棲みついたという江戸期の伝説が町誌に見えます。
by ChinchikoPapa (2013-11-13 16:48)
「Aちゃん」との邂逅も奇遇でステキですが、美味しい蕎麦屋に出会えたのはうらやましいですね。先日、目白通りの蕎麦屋へ友人と入って、どうしてこんなにマズく作れるのか、ちょっとキレそうになりました。^^; nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2013-11-13 17:03)
白い象牙玉か、赤い珊瑚玉のかんざしをカッシと刺したくなります。w
nice!をありがとうございました。>teftefさん
by ChinchikoPapa (2013-11-13 17:11)
ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
by ChinchikoPapa (2013-11-13 17:12)
こういう「ボート教室」のような地道な活動が、子どもたちに強い印象を残して、競技人口のすそ野を拡げるんでしょうね。nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2013-11-13 23:42)
「ママレードは都会の匂い」とうたった詩人を、いまだ思い出せそうで思い出せません。ずっと、気持ちの悪い感覚がつづいています。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2013-11-13 23:44)
ミロのヴィーナスが東博へきたときは、ものすごい行列で連日ニュースになっていたのを憶えています。nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2013-11-14 10:23)
同じ動物でもキツネに関するものは多いですね。
昔の人がキツネになのか自然界の不可思議なものにいかに
畏敬の念を抱いていたかと思わせるものですね。
by うたぞー (2013-11-15 06:39)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2013-11-15 10:28)
うたぞーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
人間との距離感で、どこかに神秘性が宿るせいでしょうか、キツネは物語になりやすいのかもしれません。タヌキは、もっと人の身近にいるので細かな生態がわかり、気心も知れているせいか伝承にはユーモラスに登場することが多いですね。
by ChinchikoPapa (2013-11-15 10:39)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2013-11-16 01:46)
少し前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2013-11-25 00:38)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-01-24 17:59)
大和田建樹について調べています。
2014年4月20日日曜日に現地を歩きました。
宜しくお願いします。
[明治の末、寺町だった同じ牛込区原町3丁目25番地の願正寺境内に住んでいた、中村彝Click!の下宿先にもほど近い場所なのだが、]の部分は、
以下、どこにつながるのでしょうか。
報恩寺の場所は、その後の御説明から、わかりました。手元の明治40年1月調査の牛込区全図でも、天祖神社を確認できました。
しかし、この場所は原町一丁目のようですから、原町3丁目25番地の御説明とは関係ないように思われます。
実は、鉄道唱歌作詞者の大和田建樹氏が明治41年5月から、「原町3丁目25番地に家を建てて暮らした」と云う記録があります。
蘆船日記(明治43年1月から5月までの記録)待宵會『待宵舎歌集』付録(東京堂, 1911)
http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000114704.pdf
さらに、蘆船日記には、確かに、二箇所、「隣の願正寺」という表記が出てきます。
大和田建樹は、当時、明治42年秋からの脊椎炎の悪化で下半身不随で、臥床生活を継続中で、
親鸞上人650年忌の大法会が「隣の願正寺」で開催され、参列できないのを残念がっています。
原町3丁目25番地とう地番に関して、大和田建樹の住所と願正寺の住所の位置関係は
どのようになっていると考えられるでしょうか。
大和田は明治43年9月1日、原町3丁目82の法身寺に移り、10月1日亡くなっています。
by お名前(必須) (2014-04-30 10:38)
名前記入せずに、直前のコメントしました。
by ウィンドライダー (2014-04-30 10:41)
直接、関係ありませんが、もう一点御照会です。
弁天町地域安全センター(旧・弁天町交番)弁天町177番地はいつ頃設置されたのでしょうか。
1907(明治40)年1月の「東京牛込区全図」には記載されず、
1922(大正11)年の東京逓信局作成の「東京市牛込区」地図には弁天町派出所として掲載されています。
明治40年から大正11年の間に設置されたはずですが、正確には、いつ出来たのでしょうか。
by ウインドライダー (2014-04-30 12:38)
ウィンドライダーさん、コメントをありがとうございます。
まず…
>以下、どこにつながるのでしょうか。
…の部分ですが、「以下」ではなく、その上の文章からつながっています。「牛込原町の報恩寺へと奉納している。」を受けて、「寺町だった同じ牛込原町」の願正寺境内に住んでいた中村彝……へとつづいています。
当サイトでは、ご承知のように落合地域に視座をすえた記事を書いていますので、下落合にアトリエをかまえた中村彝の関連記事が頻繁に登場しています。したがいまして、牛込原町の寺である報恩寺に触れる際、1905年(明治38)11月から2年ばかり住んでいる、画家仲間の野田半三邸も近い中村彝旧居跡についても、ついでに(一連の過去記事からの流れに沿って)触れた……という経緯です。したがいまして、報恩寺が「3丁目」に存在していたという文脈ではありません。
中村彝は、願正寺境内にあった下宿仕様の建物に住んでいたようですが、当時の寺社が副業に下宿や借地・借家を経営するのは、特にめずらしいことではなかったように思います。落合地域や戸塚地域でも、多くの例がありますが、「鉄道唱歌」の大和田建樹が住んでいた家も、ひょっとすると同寺が境内の一部を借地として貸し出しており、そこに家を建てていたのかもしれませんね。
明治後期の地図を参照しますと、願正寺は専行寺および積徳寺と隣接した位置で、本堂と墓地は道路から少し奥まった、細い掘割りのある境内に沿って設置されていたようで、東側の接道沿いには小さな住宅街の記載が見てとれます。この狭い住宅群が、願正寺の経営する下宿あるいは借地・借家群だったのかもしれません。そこに、中村彝が下宿し、大和田建樹が家を建てて住んでいたものでしょうか。
もしそうだとしますと、願正寺は家の西側、つまり道路とは反対側の裏手に本堂および墓地があったことになります。
by ChinchikoPapa (2014-04-30 12:43)
ウインドライダーさん、記事末に明治期の地図を掲載しました。
1907~1909年(明治40~42)の参謀本部陸地測量部1/10,000地形図等をベースに作成された、「今昔散歩重ね地図」(2012年版)の牛込原町3丁目です。
グレーの部分が宅地ですが、願正寺の境内東側、道路に面した位置にグレーの記載が見えています。ここに、中村彝の下宿や大和田建樹の家があったように思われます。ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2014-04-30 13:06)
ウィンドライダーさん、追記です。
先ほども書きましたが、わたしは落合地域を中心にここの記事を書いています。したがいまして、牛込弁天町の交番設置の時期までは、ちょっとわかりかねます。
最寄りの警察署の資料係をお訪ねになれば、必ず記録はあるはずです。万が一、空襲で記録資料が滅失していれば、国土地理院へ出かけられて年毎に修正される同地域の地図を参照なされば、おそらく設置時期がおおよぞ絞りこめるのではないかと思います。
by ChinchikoPapa (2014-04-30 13:40)
御教示有難うございました。
詳しい地図もお示し頂き、大変参考になりました。
ほぼ理解できた気がします。
東京に出掛ける機会がなく、情報収集が進みません。
また、宜しくお願いします。
弁天町交番の件、余計なことをお尋ねしました。
牛込警察署に封書でと問い合わせても返事がなく、
4月20日、直接、地域安全センターを訪問しましたが、知らないと云われ、
往復はがきで、再度、牛込警察署に問い合わせると、
直接、電話があり、そんんな資料は一切ない、警視庁にでも聞いたら、
但し、警視庁にも、回答する義務はありません、と云われ、
現在、警視庁に問い合わせていますが、返事はなく
行き詰っています。
お騒がせしました。
by ウインドライダー (2014-04-30 14:37)
ウィンドライダーさん、重ねてコメントをありがとうございます。
わたしは、てっきり近くにお住いの方かと思いリプライを差し上げておりました。逆に、失礼いたしました。
牛込警察署は、ちょっと不親切ですね。回答義務の問題ではなく、地域の史的記録をテーマにした課題なわけですから、自署の管轄内における派出所の史的事実が答えられないということは、逆に「恥ずかしい」ことだと認識してほしいものです。
記録が存在しないのであれば、「空襲で記録が焼けたようだ」あるいは「戦後の整理で資料が廃棄されたかもしれない」等、その理由を回答すべきですね。弁天町派出所につきましては、牛込署の正規交番ないしは請願交番の別なく、ちょっと気をつけてみます。
by ChinchikoPapa (2014-04-30 19:12)
ウインドライダーさん、弁天町交番の設置時期がわかりました。
これは、牛込神楽坂警察署から早稲田警察署が分署化したのが1908年(明治41)、この早稲田警察署のもとで1910年(明治43)11月に、当時の地番でいいますと弁天町19番地に弁天町派出所が設置されています。
この詳細な経緯は、1930年(昭和5)に出版された『牛込区史』で確認することができます。記事末に、当該ページを掲載しました。ご参照ください。また、『牛込区史』はGoogle Booksでもえつらんすることができます。
by ChinchikoPapa (2014-04-30 19:59)