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資料によく登場する江戸川アパートメント。 [気になるエトセトラ]

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 拙ブログで何度か登場しているアパートに、牛込区新小川町10番地(現・新宿区新小川町6番地)に建っていた同潤会江戸川アパートメントClick!がある。大田洋子Click!が、改造社にいた黒瀬忠夫Click!と同棲をはじめたのも同アパートだったし、その黒瀬が社交ダンス教室を開いていた金山平三アトリエClick!から、金山平三Click!が知人の山内義雄が障子を貼りかえたと聞いて、さっそく下落合からビリビリ破りに出かけたのも同アパートだ。
 高田町四ッ谷(四ツ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた安部磯雄Click!が、晩年に暮らしていたのも江戸川アパートメントだった。そのほか、同アパートには正宗白鳥や見坊豪紀、鈴木東民、なだいなだ、原弘、前尾繁三郎、増村保造、雲井浪子、坪内ミキ子など多種多様な職業の人々が住んでいた。江戸川アパートメントが竣工したのは1934年(昭和9)と、同潤会アパートの中でも新しい建築だが、竣工直後の様子を当時は津久戸小学校の生徒だった、ロシア・ソ連史家の庄野新が記録している。
 1982年(昭和57)に新宿区教育委員会が発行された『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編―』収録の、庄野新『思い出の「牛込生活史」』から引用してみよう。
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 (江戸川アパートメントは)今の高級マンションのハシリかと思うが、たしか四階建ての大きく立派な建物で、ピンクの外装がひどくモダンであった。われわれ小学生を引きつけたのは、そこに備えつけられていた自動押ボタン式エレベーターで、これを自由に操作するのが実に面白く、そしてスリルさえあった。学校が終ると友だち数人と語らって、数日ここにかよいつめた。管理人などいるのかいないのか、われわれが入りこんでも一度もとがめられなかった。ところがある日、エレベーターが途中で止まってドアがあかないのである。一瞬顔が引きつって、友だちとあれこれボタンを押した。やっとドアがあいて外に出られたときは本当にホッとしたものだ。その間、時間にして数分にすぎないと思うが、正直いって生きた心地はなかった。以来、自動エレベーター熱は一挙にさめてしまった。(カッコ内引用者註)
  
 庄野少年たちがエレベーターで遊んだのは、おそらく地上4階建ての2号棟だったのだろう。ほかに、1号棟は地上6階地下1階(一部は塔状になって地上11階地下1階になっていた)という仕様だった。鉄筋コンクリート仕様の同潤会アパートは、関東大震災Click!の火災による被害が甚大だったため、不燃住宅の建設ニーズから1926年(大正15)より1934年(昭和9)まで、東京市内に14ヶ所と横浜市内に2ヶ所が建設されている。
 同潤会アパートについては、詳細な書籍や資料がふんだんにあるのでそちらを参照してほしいが、当時としては圧倒的にモダンでオシャレな集合住宅だった。生活インフラとして、電気・ガス・水道・ダストシュート・水洗便所は基本で、大規模なアパートによってはエレベーターや共同浴場、食堂、洗濯室、音楽室、サンルーム、談話室、理髪店、社交場、売店などが完備していた。江戸川アパートメントは、同潤会アパートの中でも大規模なもので、1934年(昭和9)の竣工から2001年(平成13)の解体まで、実に70年近くも使われつづけた。
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 江戸川アパートメントは、北側の1号棟と南側の2号棟に分かれており、棟の間にはかなり広い中庭が設置されていた。家族向けの広めの部屋が多かったが、1号棟の5階と6階は独身者向けで4.5~6畳サイズのワンルーム仕様が多かった。庄野新の想い出にあった自動エレベーターをはじめ、共同浴場、食堂、理髪店、社交室などを備え、中庭には子どもたちの遊具がいくつか造られて、コミュニティスペースも充実していた。江戸川Click!(1966年より上流の旧・神田上水+江戸川+下流の外濠を統一して神田川)の大曲りの近くなので、同河川の名前をとって江戸川アパートメントと名づけられている。
 面白いのは、今日のマンションとはまったく発想が逆で、上階にいくほど単身者向けの安い部屋が多く、低い階に広めで豪華な部屋が多かったことだ。つまり、しごくあたりまえだが低層階のほうが短時間でスムーズに外部との出入りができ、また関東大震災の記憶が生々しかった当時としては、火災や地震など万が一のときにすぐ避難できる安全・安心が担保されているところに大きな価値があったのだろう。大震災の経験をまったく忘れた現在、集合住宅はハシゴ車さえとどかない高層になるほどリスクが高く、大地震が多い東京の価値観が逆立ちしていると思うのは、わたしだけではないだろう。
 江戸川アパートメントは戦災からも焼け残ったが、1947年(昭和22)6月17日に山田風太郎が、同アパートに住んでいた同業の水谷準を訪ねている。この日、近くにある超満員の後楽園球場では早慶戦が開かれており、山田風太郎の日記から引用してみよう。
  
 新小川町江戸川アパートにゆく。巨大なるアパート大いに感心す。無数の窓より無数の洗濯物ブラ下がる。このアパートの住人のみにて一町会作りて猶余あるべし。ここに安部磯雄翁も住めりとか。その一棟の一三四号室の水谷準氏、部屋をたたく。廊下のつき当り、網戸に小さき鈴つき、この内側に扉あり。鈴の音ききて準氏出で、入れと言う。四畳半に絨毯敷き、ピアノ、洋服、箪笥、電蓄、ラジオ、書棚etcギッシリ並べ、窓際の空間に机、椅子三個ばかりあり。水谷氏、ピースを喫しつつラジオの早慶戦聞きあるところなりき。「妻も後楽園にゆきてお茶も出せぬ」という。
  
 山田風太郎は、早慶戦の立役者であり早大野球部の創立者だった安部磯雄Click!が、同アパートにいるのを知っていたので、早慶戦についても触れているのだろう。
 水谷準が住んでいた「一三四号室」は、1号棟の3階4号室ということだろうか。おそらく、独身者向けの部屋を借りて夫婦で住んでいたとみられるが、住宅不足が深刻だった敗戦当時、家族5人で1号棟6階の6畳サイズのワンルームに住んでいた例もあるので、当時としてはめずらしくない光景だったろう。また、表参道の青山アパートも同様だが、戦後まで残っていた同潤会アパートは人気が高く、狭い部屋で数人が共同生活する例も多かった。
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 少し前から、日本経済新聞の「私の履歴書」に、ソニーミュージックエンタープライズの社長だった丸山茂雄がエッセイを書いている。江戸川アパートメントには、祖父の早大教授で国会議員の社会主義者だった安部磯雄と、日本医科大学教授で丸山ワクチンを研究開発した父親の丸山千里とともに住んでいた。丸山茂雄は「やわらかい社会主義者」と表現しているが、安部磯雄は別のフロアに住んでおり、戦後に社会党内閣が発足したとき、片山哲首相が江戸川アパートメントまで報告にきていたのを憶えている。
 戦後の江戸川アパートメントについて、2022年7月2日に発行された日本経済新聞の丸山茂雄「私の履歴書―住人も暮らしぶりも多彩―」から引用してみよう。
  
 コンクリート建築の江戸川アパートは焼けずに無事だった。住んでいるのは世帯主が40代半ばより上という家庭がほとんどで、戦争には行っていない。200世帯以上が暮らしていたと思うが、「あの家はお父さんが戦死して大変」といった話は聞かなかった。あのころの日本では特殊な環境だったと思う。(中略) 住人たちの職業は文学者にイラストレーター、いまでいうフリーランサーと多彩。私くらいの世代だと、子供のころは近所の悪友とチャンバラ遊び、いたずらをして親に叱られて、なんていう話が定番だが、このアパートにそういう雰囲気はなかった。/やがてあちこちに団地ができ、50年代の終わりになると「団地族」という言葉がマスコミで使われるようになった。60年代版の国民生活白書にこの言葉の解説が載った。/過度な競争意識に包まれやすいのが団地族のひとつの特質だったろうか。あの家が洗濯機を買った、テレビを買った、あそこの子供がどこそこの学校に入った、うちも負けられない……と。しかし、丸山家に関して言えば、競争心とは無縁だった。
  
 おそらく、戦前からの住民も多かったのだろう、いわゆる戦後の「団地族」とは趣きが異なる人々が、江戸川アパートメントで暮らしていた。丸山家は同アパートの3階に住んでいたようだが、同エッセイを読むかぎり北側の1号棟か南側の2号棟かは不明だ。
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 飯田橋駅近くに勤務していたとき、深夜まで残業したあとは下落合までたまに徒歩で帰宅することがあったので、目白通りへ抜けるために江戸川アパートメントの前を何度か通過しているはずだが、夜更けで暗かったせいか印象が薄い。2003年には建て替えられているので、頻繁に徒歩帰宅Click!をするようになったころには、すでに存在しなかった。

◆写真上:江戸川アパートメント跡へ2003年(平成15)に建設されたアトラス江戸川アパートメント(右手)で、正面に見えているのは凸版印刷の本社ビル。
◆写真中上は、1934年(昭和9)ごろに作成された同潤会江戸川アパートメントの完成予想図。は、解体直前に撮影された江戸川アパートメント。は、1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた竣工2年後の江戸川アパートメント。
◆写真中下からへ、戦災から焼け残った1947年(昭和22)撮影の江戸川アパートメント、1979年(昭和54)の同アパート、1984年(昭和59)の同アパート。
◆写真下:2022年7月3日発行の日本経済新聞に連載された丸山茂雄「私の履歴書」。

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