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『下落合の向こう』のもっと向こうに。 [気になる下落合]

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 1990年代の半ば(おそらく1995年ごろ)、わたしは笙野頼子の『タイムスリップ・コンビナート』(文藝春秋)を単行本で買って読んでいる。確か、その中に短編『下落合の向こう』が収録されていたような気がするが、記憶がさだかではない。その内容も、物語性とは対極にあるような表現と展開だったので、ほとんどすべて忘れ去っていた。さて、きょうはちょっと厄介な『下落合の向こう』について。
 札幌大学教授の山崎眞紀子は、笙野頼子について「<物語>とは世間一般の共通認識に支えられて成立しているひとつの解釈と言っていいだろう。この物語に違和感を覚え、その物語を構成している言葉に対して全身にアレルギー反応を起こしている最先端の作家が笙野頼子である」(「女性作家シリーズ第21巻」/角川書店)と書いた。いってみれば、コード進行もモードも否定した予定不調和のフリーJAZZか、現代音楽風にいえば譜面のないインプロヴィゼーション・ミュージックというところだろう。
 だが、一聴難解そうに感じるこれらの音楽だが、そういう音であり、そういうメロディ(?)ラインなのだと素直に受けとり、先入観なく耳をすませば、いや耳を素直に馴らしていけば、これまで味わったことのない音楽美や思いがけない新鮮なサウンドに出逢えるかもしれない。それは、貴重な時間をつぶして賭ける一種のギャンブルなのかもしれないし、また退屈な時間を埋めるスリリングな初体験なのかもしれない。いずれにせよ、小さな冒険であるのはまちがいないだろう。
 笙野頼子は<物語>の破壊者であり、出現・存在するだけで意味のある協和音やモードを拒否したOrnette ColemanでありCecil Taylorだと考えれば、それほどとっつきにくくはないだろうか。少なくとも日本語で書かれている文章表現を、そのまま素直に受けとって味わえば、<物語>世界とはまったく異なる解体された<非物語>世界が拓け、しかも手垢にまみれていないなんらかの美や感動が得られるかもしれない……とは、アタマで理性的に予測できる桃源郷の可能性ではあっても、そこに多少なりとも物語性が付随していてくれないと、わたしとしては楽しめそうもないので憂鬱な気分に陥ることになる。
 それはもちろん、自意識過剰なほどに内向的な個が紡ぎだす極限の、あるいは研ぎすまされた感性や認識にもとづく物語性を拒否した表現には、そうそう容易には同化・同調して受け入れることができない壁があるからだ。あまりにも極端に描かれる個の世界は、他者にしてみれば「アレルギー反応」の温床(アレルゲン)となり得るだろうし、著者の表現世界と同化・同調し感動できたという人間がいるとすれば、それはおそらく著者自身にほかならないのが、笙野頼子が描きつづけている極北の世界だろう。
 わたしは、彼女の感性的な認識世界と、それにいたる過程や道筋を100分の1ほども理解できないが、『下落合の向こう』が書かれた1990年代の下落合の情景は、きのうのことのように記憶へ鮮明に刻まれている。当時の笙野頼子は、西武新宿線のおそらくは都立家政駅の付近に住んでおり、オートロックが付いた集合住宅で“引きこもり”の生活をしていた。それがある日、電車に乗って高田馬場駅まで出かけることになり、その乗車中の情景を描いたのが『下落合の向こう』だ。ちなみに、彼女もわたしと同じく「新井薬師前」駅を、常に「新井薬師」駅Click!と呼んで平然としている。
 中年女性である「私」は、「電車を巡るシステム」全体が人々の共同幻想であり、実際は猛スピードで走らされていることに気がつく。電車の立てる音は、巨大なザリガニがハサミをふり立てて伴走し、その鎧のような殻同士がぶつかりあう音なのだというのを発見してしまうのだ。乗客は、全員が必死で電車のスピードに見あう速度で走らされている。そんな電車の車窓から眺めた様子を、1999年(平成11)に角川書店から出版された『女性作家シリーズ第21巻』所収の『下落合の向こう』より引用してみよう。
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 すると、時に電車の外見がふっと消えた後に、人肉で出来た蛇のような塊が疾走しているのが判る場合がある。マラソンの集団をもっと極端にしたようなものが踏切の向こうを、また鉄橋の上を、走っているのだ。迫力のありすぎる電車ごっこ。しかもその電車ごっこに綱はなく乗客は足のどこかから触手を出して、それをお互いに絡めあって、全員、必死で走っているのだった。つまり足の強いものは他人の体重まで背負わされており、また足の弱いものは手足をふらふらさせ道の上を傷だらけで引っ張られて行くのである。物凄い速度で動く人肉の塊。口からよだれを流し腰から排泄物を滴らせる。その上、その臭いに引かれて音を立てるザリガニが集まってくるのだ。
  
 乗客たちは電車に乗っているふりをしていたが、実は猛スピードで走らされているので、和綴じ本をめくって謡(うたい)Click!の練習をしている婦人が、「……るぅがぁすぅみぃ…ぁなぁびぃきぃにぃけぇりぃ…いぃさぁかぁたぁのぉお」と、おそらく『羽衣』の地謡をさらうのを翻訳すると、「もういやだわ ばかやろお ぜいぜい」とつぶやいている。
 やがて「新井薬師」駅で、駐車場のクルマの下からザリガニの触角を発見するのだが、乗りこんできた7人の美少女高校生たちに気をとられ見逃してしまう。彼女たちは、みんな小さな顔で整った同じ顔立ちをしており、どの鞄にもキーホルダーが下がっていたが、「私」は森永チョコの九官鳥キーホルダーはどうやって手に入れたのか気になる。
 女子高生の、ブローがゆきとどいた完全な髪が跳ねあげられたとき、髪の間に焼き魚が料理用の金串ごと刺さっているのを「私」は目撃した。女子高生たちの母親ほどの年齢だった「私」は、彼女たちは赤ん坊のころから現在まで育てられたのではなく、どこかの地下室で人工的に製造されたものだろうと推測する。そんな彼女たちを観察しているとき、女子高生のひとりが「下落合の向こう」といった。
 「猫を人間だと確信出来る生活」をしていた「私」は、世の中は最初から地獄のようなところだったので、人形になってしまえば楽だと考えていたが、現実は黴だらけの塊のようになっていた。そのとき、女子高生が「そこじゃん、そこ」といい、彼女たちのひとりが「私」の膝上にバウンドしながら座った。そこで、大人はザリガニといっしょに走らされているのに、女子高生たちは電車に乗れるのだと初めて認識する。「あ、もうすぐ」という女子高生の視線を追うと、団子屋の看板の向こうにある低層マンションの2階のベランダに、人形の首が並んでいるのが見えた。
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 ここでふっと、『下落合の向こう』を離れて現実にもどるけれどw、わたしはこのズラリと並んだ人形の首にはハッキリとした記憶がある。西武新宿線が山手線ガードClick!のカーブに近づき、スピードを落とすとともに右手のビル=東京美容専門学校(下落合1丁目2番地)のベランダに、授業で使わなくなった廃棄物なのか、あるいは紫外線消毒のための天日干しなのか、人形の首だけがズラリとならんでいた。(現在でも窓越しに並んでいる)
 そんなものを見せられた笙野頼子、いや「私」は、もう妄想に羽が生えて際限なくふくらんでいく。下落合について、彼女の妄想の一部を同書より引用してみよう。
  
 下落合は本当に下落合なのだろうか。一度も下落合で降りた事がない。中井や新井薬師をいくら通過しても恐くないのに……。/――私って下落合の向こうが気になるのよねえ。/下落合の向こう――上落合、中落合、西落合、何度も通り過ぎながら私は何も知らない。ただ中落合という言葉で魚の中落ちと血合いを想像しただけだ。血合いと中落ち――隠れていたもの、切り取られ俎から滑り出しそうな、魚の体の一部。それも俎に載る程に小さい鰹のもの。そんな中落ちと血合いに陰影と人口を提供する、中落合というあの不明瞭な名前。――頭の中では魚の真ん中にあったものがどんどん広がって町に変わる。ところがその中落合からある日いきなり、中という言葉が抉り取られる。そしてその傷口に下という言葉がずるずると擦り寄る。或いはホトトギスの子のように中を蹴落として下はそこに座り、魚を食い続ける。
  
 笙野頼子の感性は、非常に鋭い。「私は何も知らない」で、妄想の限りを尽くした表現だったのかもしれないが、期せずして彼女の妄想は過去の事実(史的物語)に照らし合わせると、実にリアルで正しいことになってしまう。
 もともとそんな地名など存在せず、役所の机上で安易に決められた「不明瞭な名前」の「中落合」は、「下という言葉がずるずると擦り寄る」どころか、1965年(昭和40)までは「下」落合そのものだったのだ。著者は「中井」駅についても言及しているが、現在の「中井」と表記される地域もまた下落合という地名だった。住民のほとんどが反対Click!する中、押しつけられたのが「中落合」と「中井」という地名だったわけだ。
 女性作家でいえば、東京へやってきたばかりの矢田津世子Click!は中落合2丁目ではなく、下落合3丁目の目白会館文化アパートClick!に住んでいたのであり、吉屋信子Click!林芙美子Click!は中井2丁目ではなく、下落合4丁目に住んでいたのだ。笙野頼子が、感覚的に「不明瞭な名前」であり気持ちが悪く感じたとすれば、無理やり地名を変えられた下落合(中落合・中井を含む)の住民たちは、もっと気持ちが悪かっただろう。
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 「私」は初めて下落合駅で降りて、「緑色の橋」(西ノ橋だろうか)をわたって「観光ホテル」(ホテル山楽だろうか)の前へ歩いていくと、背後で「バリ」っと音がして下落合駅が消えてしまった。いつの間にか、「私」は「東京にしては土の匂いの濃いそのあたり」を走っているが、そのうち身体ごとゴロゴロ転がっていく。「下落合の向こう」に入りこんだ「私」は、おカネを入れると透明な球形のカプセルが出てくる自動販売機(ガチャポンだろうか)が、実は「人喰い鶏」であり、カプセルはこれから産む卵であることを想像し、「下落合の向こう」へスリップしたまま、おそらく「下落合の向こう」のもっと向こうにある迷宮へ入りこんでしまい、唐突なエンディングを迎える。
 わたしも、常日ごろから感じているように、落合地域は底が知れない、迷宮なのだ。

◆写真上:マネキンの首がズラリと並ぶ様子は、女子高生でなくとも不気味に感じた。
◆写真中上上左は、1999年(平成11)出版の『下落合の向こう』が収録された『女性作家シリーズ第21巻』(角川書店)。上右は、1994年(平成6)出版の笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』(文藝春秋)。は、笙野頼子が妄想をふくらませた「新井薬師」駅(新井薬師前駅)の近くにある東亜学園の夏服()と笙野頼子()。は、いまでも西武新宿線沿いの東京美容専門学校の窓に並ぶマネキンの首。
◆写真中下:ザリガニの音をたてながら、電車は中井駅からやがて下落合駅へと着く。
◆写真下:下落合を出た電車は、ほどなく山手線ガードの最終カーブへと差しかかる。は、廃止された高田馬場1号踏み切りClick!脇に建つ東京美容専門学校(左手)。

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