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カンベンしてほしい西武鉄道の設計チーム。 [気になるエトセトラ]

ガード西側.JPG
 1927年(昭和2)に山手線・高田馬場駅Click!へ乗り入れを予定していた西武電鉄Click!(現・西武新宿線)は、山手線の下をくぐり抜けるガード工事がまったく間に合わず、大急ぎで高田馬場仮駅Click!を建設している。でも、この仮駅さえ開業当日までに間に合ったかどうかは疑問で、地元では下落合駅Click!が起点(終点)だったという証言や資料がいくつか伝わっている。
 その遅れに遅れた、山手線をくぐるガードの設計平面図および断面図、最初期の山手線ガードから西武電車・高田馬場駅にいたる平面図などが残されていたのでご紹介したい。山手線・高田馬場駅への乗り入れが遅れたのは、津田沼の陸軍鉄道第二連隊による下落合駅までの施工リードタイム、あるいは下落合駅までの線路敷設ののちに同駅を利用したと思われる陸軍の都合Click!なども、なんらかの影響を与えているのかもしれないのだが、もうひとつ、山手線をくぐるガード自体の複雑な構造および難工事による遅延にも起因しているのだろう。さらに、山手線をくぐり抜けた先には、旧・神田上水(現・神田川)に架かる鉄橋工事、そして高田馬場駅の東側へ計画が変更された新駅の建設工事も、同時に進行しなければならなかった。結局、高田馬場駅まで西武電車が乗り入れるのは、1928年(昭和3)になってからのことだ。
 山手線をくぐるガードが難工事だったのは、残された設計図を見ればおおよそ理解できる。ガードは直線ではなく、南東へと向かう急カーブの途中で、山手線の土手へ斜めにうがたれ、やがて線路は南へ向かうことになる。急カーブで電車を安全に運行するためには、線路のカーブの角度と進入する電車の速度をベースに、あらかじめ力学計算にもとづいて電車を斜めに傾ける、すなわち線路をカーブに沿って斜めに敷設しなければならない。
山手線ガード平面図.jpg
山手線ガード断面図.jpg ガード東側.JPG
 また、電車を斜めに傾ける角度も、上り線路(外周)と下り線路(内周)とではやや異なっていることが、設計図面からも容易に読み取れる。しかも、ガードの下落合側開口部(西側)と高田側開口部(戸塚側開口部/東側)とでは、線路位置の高度も微妙に異なっているのだ。もちろん、電車の傾きを想定した幅を確保(直線ガードよりも幅広だ)する、ガードの頑強な橋台および橋脚を用意しなければならず、土手を貫通する工事の上は運行が頻繁な山手線の線路なので、安全かつ確実に工事を進めるためには、相当な慎重さと注意が要求されたことは想像に難くない。
 起点(終点)駅が高田馬場駅に決まった当初、西武電車は省線・高田馬場駅の西側へ乗り入れる計画だったので、西武鉄道は神田川沿いの下落合や戸塚に建っていた工場群の敷地を、必要な面積だけ部分的に買収するだけで済む予定だった。ところが、山手線の内側=東京市内(牛込区)まで線路を延長する計画とともに、どこかで山手線の線路をくぐらなければならなくなったのだ。途中、早稲田まで乗り入れる計画では、西武線・高田馬場駅は山手線・高田馬場駅の西側へ設置し、駅の南側で戸山ヶ原Click!側へと抜けるガードが想定されている。でも、この路線計画も再々変更となり、結局は指田製綿工場Click!のすぐ東側、下落合14番地の地点で山手線の内側、すなわち高田町(戸塚町)側へと抜けるガードを計画・施工することになった。これらの計画変更は、1924年(大正13)9月の目白駅から高田馬場駅への起点(終点)変更を境に、頻繁に起きてきている。
ガード~高田馬場駅平面図.jpg
西武高田馬場駅平面図.jpg
 このように、私鉄にとっては死活問題へとつながりかねない、非常に重要な起点(終点)駅の位置変更や、鉄道の基本的な計画基盤である輸送ルートのたび重なる変更などがしばしば起きているため、そのつど、設計者は地図や図面片手に(現地調査を含め)ふりまわされていたのではないだろうか? そのような事情から、山手線のガード位置の策定や設計期間が押せ押せで遅延し、必然的に工事も延び延びになったのではないかという想定も成立しそうだ。
 こうして突貫工事でスタートした山手線をくぐる西武電車のガードだが、1927年(昭和2)4月の開業には間に合わず、1928年(昭和3)の「鉄道地図」によれば、高田馬場仮駅を下落合15~16番地あたりへ急遽設置することになった。ただし、翌1929年(昭和4)の「帝都復興東京市全図」では戸塚町清水川50~59番地あたり、神田上水を渡河した地点に高田馬場仮駅が記載されている。でも、この仮駅工事さえ間に合ったかどうかは疑問だ。たとえ、1927年(昭和2)4月の開業式典が「完成」した高田馬場仮駅で行なわれたとしても、当初から仮駅が実際に通常運用されていたかどうかは疑わしいのだ。それは、このサイトで何度もご紹介してきているように、「当初は下落合駅が終点(始発)だった」とする、地元の方々の目撃証言や資料からうかがい知ることができる。
その後の取材で、高田馬場仮駅は山手線土手の東側にももうひとつ設置されていることが判明した。地元の住民は、「高田馬場駅の三段跳び」Click!として記憶している。
ガード西側カーブ.JPG 神田川鉄橋.JPG
工事方法書.jpg
 さらに、なぜか下落合駅あたりが起点(終点)となっている路線計画図も、先ごろご紹介Click!したばかりだ。もっとも、下落合が起点になっているのは、陸軍の鉄道連隊が工事した位置までの平面図か、あるいは下落合から先の線路計画が未確定の段階での図面なのかもしれないのだが・・・。さて、国立公文書館に保存されている旧・陸軍省の資料を調べはじめてみると、西武鉄道に関する不可解な現象があちこちに見られるのだが、それはまた、別の物語。

◆写真上:西武電車が山手線をくぐるガードを、清水川橋公園の側から撮影したもの。同公園が改修される以前には、もっとガードがよく見えていたと思うのだが・・・。
◆写真中上は、マイクロフィルムに残る山手線をくぐる斜めガードの平面図。下左は、線路をカーブ内側へ傾斜させて設計されている同ガードの断面図。下右は、同ガードの東側出口。
◆写真中下は、西武電車の線路が下落合側から高田町-戸塚町へと抜け、山手線・高田馬場駅へと乗り入れる初期設計平面図。は、高田馬場駅の初期平面図。
◆写真下上左は、山手線ガード(西側)へさしかかる手前の線路の急カーブ。上右は、神田川(旧・神田上水)に架かる鉄橋の現状で、奧に見えているのは山手線のレンガ橋台による神田川鉄橋Click!は、西武鉄道が鉄道省に提出した「高田馬場/井荻/間工事方法書」。この時代はもちろん明治期のレンガ積みではなく、混凝土(コンクリート)による橋台・橋脚の施工法だ。


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ChinchikoPapa

『Unit Structures』は、LPが擦り切れるほど聴いたアルバムです。CDは、まだ買っていません。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2011-01-08 20:53) 

ChinchikoPapa

月島といいますと、親からよく聞かされた万博中止と、空襲に備えた高射砲陣地のイメージが重なってきます。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-01-08 20:57) 

ChinchikoPapa

仁丹塔を見て十二階を想像するしかありませんでしたが、一度実物を見てみたいですね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-01-08 21:01) 

ChinchikoPapa

どうしても、気になってしまいます。ww 「怪奇現象スポット」には、なにか足にまつわる由来話とかがあるのでしょうか。nice!をありがとうございました。>今造ROWINGTEAMさん(ネネさん)
by ChinchikoPapa (2011-01-08 21:05) 

ChinchikoPapa

笠間といいますと、日動の美術館へ一度寄ってみたいです。
nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2011-01-08 21:08) 

ChinchikoPapa

正月の新井薬師は出かけたことがないですが、けっこう混んでいるんでしょうね。nice!をありがとうございました。>漢さん
by ChinchikoPapa (2011-01-08 21:10) 

ChinchikoPapa

今年の初夢は、なぜか懐かしい昔の家があった真夏のビーチで、女の子たちと遊んでいました。きっと、眠りをつづけさせるための欲求充足夢なのでしょう。(爆!) nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
by ChinchikoPapa (2011-01-08 21:15) 

ChinchikoPapa

一度、ベイブリッジを歩いて渡ってみたいですね。
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2011-01-08 21:19) 

ChinchikoPapa

いつも、ご訪問とnice!をありがとうございます。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2011-01-08 21:21) 

ChinchikoPapa

城郭を訪ね歩く、面白そうな番組があるんですね。
nice!をありがとうございました。>ねじまき鳥さん
by ChinchikoPapa (2011-01-08 23:31) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2011-01-09 00:56) 

ものたがひ

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年も、Papa log楽しみにしています。この鉄道敷設を巡る事情も興味深いですね。現在にもつながる色々な問題がありそうです。
ところで、西武電車が開通した頃の状況ですが、CPさまも以前コメントされていたように、現・下落合駅が出来るまでの数年間、下落合に住む方々の多くは、氷川神社の傍にあった最初の下落合駅があるからといって、まず使う事はなく、高田馬場駅まで歩いてらしたと思います。つまり、下落合/高田馬場駅間が開通していないからではなく、あまりに短いその区間だけ電車に乗ったりはせず、下落合駅を通り越し、そのまま歩いて高田馬場まで行った「数年間」の根強い記憶が近隣にあるように思うのです。
一方で、現・高田馬場駅による西武電車の開通が、1928年4月である事は知っている人々も多くあり、私には、この二つの認識が混在する中で、1927年の西武電車に下落合/高田馬場間の運行が無かったという理解が、形成されたように思えてなりません。私が見かけた幾つかの情報は、1927年の4月の西武電車の開通時から仮・高田馬場駅があったことを示唆しているので、どこかで伝承のボタンが掛け違っているように感じられるのです。ちょっと気になっていたので、コメントさせて頂きました。
by ものたがひ (2011-01-09 11:46) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、コメントをありがとうございます。あけまして、おめでとうございます。こちらこそ、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、高田馬場仮駅の運用の件ですが、いずれの想定にも可能性があり、ちょっと悩ましく不明なところがもどかしいです。文中にも書きましたけれど、開通の記念式典がどこかで行われたはずなのですが、高田馬場仮駅舎(ほぼ完成した)で行われたとして、それが線路敷設の状況と絡め、実際の仮駅までの列車運行と同義かどうかに疑問が残るんですよね。
また、逆に下落合駅に到着した電車から、ゾロゾロと人が降りて省線高田馬場駅まで歩いてたという目撃証言は、ものたがひさんが言われるように「そのほうが早い」という地元の記憶との習合かもしれませんし、下落合駅に電車の「折り返しの場」があって始発(終点)機能が存在したのは、高田馬場仮駅にそのスペース的な余裕がなかったから、ひとつ手前の氷川社前の下落合駅に設置したのだ・・・とも、解釈しようとすればできてしまいますね。
ただ、1927年(昭和2)3月12日付けの「工事着手報告書」(タイムスタンプどおりの書類であればというのが前提です)が、本来のガードをくぐった高田馬場駅、および仮に設置する高田馬場仮駅のものだとすると、それから1ヶ月足らずで線路敷設と仮駅舎建設、そして神田上水を渡る長大な連絡桟橋ができるかな?・・・という疑問が残ります。そして、わたしにとってやはり最優先してしまうのが、実際にその現場を目撃している人々の証言、これは開業前の貨物列車の目撃証言も同様ですが、地元・下落合の記憶・・・ということになってしまうのです。w
by ChinchikoPapa (2011-01-09 12:23) 

ChinchikoPapa

「花奪い」というのは、めずらしいですね。新春らしい神事です。w
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2011-01-09 16:17) 

ものたがひ

CPさま、お返事ありがとうございます。
もう少し、この問題を展開しますと、「下落合駅に電車の『折り返しの場』があって始発(終点)機能が存在した」のは、まさに「高田馬場仮駅にそのスペース的な余裕がなかったから、ひとつ手前の氷川社前の下落合駅に設置した」からだと、私は思います。
高田馬場仮駅の当時の周囲の土地利用の状況をみるならば、ターミナル駅に必要な、始発電車数台を停めておくスペースが無いため、高田馬場仮駅が構想された時、ターミナル機能を下落合駅に持たせる成り行きになったのではないでしょうか。1年間、朝、下りの西武電車は、どうしたって下落合の折返し場を出発点としていたのです。
しかし初代・下落合駅は、1928年4月に現・高田馬場駅が開業するや折返し場である必要が無くなり、丸1年で、余程の事情でも生じない限り使われる事の無い「折返し場」を持つ、不思議な駅になったのです。ですから、長いこと残っていた「折返し場」を見た人々が、後に「折返し場」があるから下落合駅は始発駅(終着駅)だったのだ、と「考える」のは自然かと思います。しかし、1927年4月から1928年4月までの状況をリアルタイムに「知って」いたとするならば、ほどなく確実に乗降に供された高田馬場仮駅に向かって、「下りの」無人の始発電車が走っていた事も、合わせて知っている筈だと思います。そのような証言を伴わないらしい下落合駅起点伝承は、初代・下落合駅に残っていた「折返し場」の不思議が生んだ「物語」のように、私には思えるのです。
by ものたがひ (2011-01-09 21:23) 

opal88

大変遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
ご挨拶も済まないまま、昨日自分のブログにChinchiko Papalog の名前を出してしまいました。お許しを頂いてないのでアドレスは出しませんでしたが、半端なことをしてしまいました。ごめんなさい。
偉い立派な方と思っていた人のエピソードは、急に身近な変なおじさんに見えてきたり、不思議な現象の紹介は興味津々で読ませて頂いてます。
地域の歴史は落合辺りにお住まいの方が本当に羨ましいと思っております。散歩するにも昔が見えると一段と楽しいので、我が家の近くにも
Chinchiko Papaさんがいらしたらな~と、ブログを拝見しながら考えずにはおられません。
こちらのブログで知ったことを書きたい時があるのですが、ご迷惑をかけない程度にするつもりですが、お許しを頂けますか?
もう書いてからで図々しいと思われるようでしたら、昨日のブログからも削除いたします。
では宜しくお願いいたします。
by opal88 (2011-01-10 11:42) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、重ねてコメントをありがとうございます。
ご指摘の、下落合ターミナル駅化の可能性も非常にありますね。ただ、いろいろな陸軍資料を見ていますと、井荻-下落合間(高田馬場駅は「未設」扱い)の鉄道第二連隊の工事に関しては、西武鉄道ではなく陸軍省工兵課がヘゲモニーを握って、全工程を進めていた印象が強いように思います。
つまり、氷川社前の下落合駅を利用する便宜を最優先したのであろう陸軍は、(ちなみに西武電車の開業前に、砂利とセメントを貨物列車で東村山駅から下落合駅を経由し戸山ヶ原へと運んでいたのは、その後の調べからほぼ間違いない事実だと思われます)、下落合駅に起点(終点)機能を持たせた・・・ともいえるのではないかと思います。つまり、仮駅に「折り返しの場」のスペースがない・・・というようなテーマの、さらに前の段階ですね。
記憶が習合したとすれば、西武電車の開業前、貨物列車からの荷の揚げ降ろしを行ない、陸軍のトラックや馬車へと積み込み作業を行なっていた大勢の作業員が、朝になると省線・高田馬場駅から下落合駅へと集まり、また夕方になると下落合駅から高田馬場駅まで帰っていった・・・というような、東村山駅と同様の情景が繰り返され、それが開業当初は「下落合駅が終点であり始発だった」という記憶と、どこかで習合しているのではないか?・・・とも考えられますね。
ただ、そのほかの可能性、たとえば指田製綿工場の敷地を線路が横切れないため、高田馬場仮駅は初期の最終カーブに無理があり、列車走行とカーブとの関係から力学的に非常に危険な状況であり、実質は使用されない期間がしばらくつづいた・・・とかの可能性もありえる想定かと思います。
ただ、むしろわたしは、「下落合駅が起点(終点)」のテーマは、高田馬場駅が間に合わず仮駅を造ろう・・・といった1927年の時点、すなわち旅客輸送がスタートする時点ではなく、もう少し以前、陸軍の工兵課(鉄道連隊)の工事マターだった時代からの謂れが、大きく関与しているのではないかな?・・・という印象を強くもっています。
by ChinchikoPapa (2011-01-10 13:27) 

ChinchikoPapa

怒れるウシと嘆きのアシカも好きですが、もったりしたホルスタインと怒れるアシカというのにも惹かれます。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2011-01-10 13:35) 

ChinchikoPapa

清正の湧水は、何度かガブガブと飲んだことがあるのですが、別段お腹をこわさなかったところをみますと、いまでも清廉な武蔵野の清水のままなのでしょうね。最後に行ったのが4年前で周囲にはほとんど誰もおらず、混雑しているというのが不思議な気がします。nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
by ChinchikoPapa (2011-01-10 13:42) 

ChinchikoPapa

EVバッテリー開発の中心は日本ですから、フランスには既存製品の設計資料しかないはずで、特許前の情報が漏れたというのはフランス国内での特許取得のための情報のことでしょうか? 産業スパイの「厳罰化」を推進するために、ことさら「機密」をアピールしているようにも聞えますが・・・。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2011-01-10 13:52) 

ChinchikoPapa

opal88さん、あけましておめでとうございます。こちらこそ、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
コメントをいただきました件ですが、別にかまいませんので、お気になさいませんよう。^^ アドレスをリンクしていただいても、ぜんぜんかまいませんし、また、気になった記事がおありでしたら、opal88でしたらご自由にご利用・引用されてください。その代わりといってはなんですが、(城)下町のお話をまた、ときどき聞かせてくださいね。w
わたしは、どちらかといいますと「英雄」史観や、スーパーマン的なヒーロー史観、あるいは感情移入ないし感傷過多の「偉人」伝や、半ば「神話」化・「神格」化された人間像が好きではなく(あとから作られた虚像のように感じてしまいます)、すごい仕事をした方、比類ない業績を残した方についても、実像(実際の生活視線での事実)や人間味、人間らしさ(人間くささ)といったところに、どうしても着目してしまうクセがあります。
なんとなく整えられ、のちにお化粧をたっぷりほどこされてしまった歴史や人間像の記録に、「ウソだろう?」という感覚や欺瞞臭をおぼえるせいでしょうか。おそらく、中村彝や佐伯祐三、岸田劉生などを「美の巨人」として信奉されている方々には、「おとついきゃがれサイト」に映るのかもしれません。^^;
ということで、こんな拙ブログでもよろしければ、ご自由に引用・リンクください。
by ChinchikoPapa (2011-01-10 14:21) 

opl88

有難うございます。ホッとしました。

歴史とか偉人とかも、勝ったものがちのように思われます。勝ったものの側からの見方が後々まで残り、負けた側がフィルターなしで記録されることは少ないようですね。歴史上では評価されなかった人物が、地元ではまるで違う形で残っていることが多々あり、それも旅の醍醐味だと思います。

私は消えてゆくもの、かつて在ったものに興味を持つことが多く、ともすると懐古趣味に走りそうで、いやいやこれではいけないと言いつつもついつい振り返りブログになりますが、これからもポツポツと書きたいと思っておりますm(_ _)m。
by opl88 (2011-01-10 16:32) 

ChinchikoPapa

opl88さん、重ねてコメントをありがとうございます。
ひとつのテーマを、さまざまな角度から眺めてみると、いろいろ面白いことが見えてきますね。ときには、「面白い」と表現してはそぐわない、シビアな課題が顔をのぞかせたりもします。戦前のような、非常に単眼的で単一思考(思想)ではなくなった現在、そして情報公開が積極的に行われているいま、そのような「発掘」をするにはまたとないチャンスだと思うのですが、案外「公式」記録が塗り替えられないまま信じられているのが、ちょっともどかしく思うことがあります。
ぜひぜひ、いろいろな懐かしいテーマの記事を、また拝見させてください。^^/
by ChinchikoPapa (2011-01-10 18:25) 

ChinchikoPapa

江戸東京の日本橋は「にほんばし」なのですが、大坂(大阪)の日本橋は「にっぽんばし」と発音するのを最近知りました。nice!をありがとうございました。>Webプレス社さん
by ChinchikoPapa (2011-01-10 18:29) 

ものたがひ

CPさま、こちらこそ有難うございます。
西武鉄道と陸軍との関係を考えるならば、私は早稲田への延伸計画の方に、俄然関心を持っています。謎の計画路線ですね。
砂利運搬に関しては、「西武鉄道」にとって、下落合から都心部に運ぶ必然性があったのか、どうも分かりません。安比奈からの砂利は国分寺駅経由で山手線内に運べた筈ですし、追って手に入れた多摩鉄道の多磨村の砂利も武蔵境経由で運べるのに、トラック等に積み替えなければならない下落合駅を、わざわざ使ったのだろうか?と考えてしまうからです。西武鉄道と陸軍には、なにか強い繋がりがあったのは明らかだと思いますが、その核心が、私には見えないでいます。
西武電車が、西側から敷設した村山線の工事期間中に、東村山方面からの貨物列車で下落合駅まで工事用の物資を運ぶことは、大いにありそうです。そうだとすると、日中に荷を運ぶ汽車や、終点/起点となっている下落合駅が、周辺の人々の記憶に印象深く刻まれそうです。下落合駅が実態として起点/終点だったというテーマが工事期のマターではないか、というご指摘に、この意味で同感です。
「最終カーブ」については、「この仮駅への進入線路があまりに急カーブだったため、よくこの箇所で脱線したという」という文章を読んだ事があります。 穏やかではありませんが、死傷者がでない程度の事故だったのでしょうか。すぐ復旧して、懲りずにまた脱線しているような印象をもちました。当時の新聞が報道していると、ハッキリしますのにね。派手なタイトルが目に浮かぶようです…。w

by ものたがひ (2011-01-10 22:57) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
1926~27年(大正15~昭和2)という時期は、東京市街地における震災復興事業(主に規模の大きなコンクリート耐火建築工事)も一段落して落ち着き、また砂利とセメントなどの建築資材を、西武鉄道が30万トンも東村山駅へと輸送していた、村山貯水池の建設工事も完成間近で、需要の先行き(先細り)がハッキリと見えていた時期だと思います。
東村山駅に集積された建築資材とその調達ルート、また巨大な物流ターミナルとしての機能や大規模な物流設備などを、今後はどのように活用していくのかが、当時の経営陣における一大課題となっていたでしょう。だから、村山貯水池の建設で蓄積された人材や作業ノウハウも含め、企業としては大規模な建設工事がなくなったから、西武鉄道の物流ターミナルも解散・・・というわけにはいかなかったはずです。物流拠点は、早々カンタンに移動できるものでないことは、当時も現在も変わりません。
また、いまの企業でもそうですが、大きな物流拠点を失うことは、そのまま急激な減収と経営環境の急速な悪化をまねく怖れがあり、どうしても代替する新マーケットの開拓、砂利採掘・輸送事業の継続を支え、建築資材の調達ルートともども物流拠点をそのまま活かせる新たな顧客を獲得することが、西武鉄道にとっては最優先の課題であり、むしろ必然的な選択だったでしょう。
これ以上書きますと、これからの記事の流れが面白くなくなると思いますのでwww、詳しくは書きませんけれども、東村山駅の建築資材蓄積・物流拠点から、省線などを利用しなくても全線西武線を使って東京市街地へと運び込める実績づくりは、西武鉄道にとっては願ってもない機会であり、また陸軍の側でも鉄道敷設の「演習」や、全国の鉄道を対象とした「軍需調査令」下のタイミングのよい実践的「演習」の場としても格好のケーススタディではなかったかと思います。
さて、これ以上の詳しいお話は、また、別の物語・・・。^^;

by ChinchikoPapa (2011-01-11 00:37) 

ものたがひ

拝復です。昨日のコメントの中の、下落合駅を使って砂利運びに関してですが、私が検討したのは、砂利運搬ルートの合理性に過ぎず、西武鉄道にとっては下落合まで運ぶとしたら、確かに自社路線を使う距離が増すという事ですからメリットのある事でした(相当の代金を取る場合)。しかし、陸軍としては、国有鉄道である中央線も使わず、トラックに移し替える手間もかけ、いやに西武鉄道思いやっている事になりますね(タダ同然で運ばせたのでない場合)。
西武鉄道が兼業していた砂利の事業に関しては、1927年は節目の年になったように見えます。ご指摘の東村山の貯水池建設の終了と前後して多摩鉄道を合併し、西武鉄道は砂利事業の拡大を目論み、今しばらく、それが成功しているようです。多磨の砂利は、どこに行ったのでしょう?
西武「電車」の駅として計画された下落合駅にとって、大掛かりな貨物輸送はイレギュラーな仕事としてしか、ありえないようにも思います。とはいえ、イレギュラーな事に、大きな意味がある場合もありますし…、別の物語、楽しみにしています。
by ものたがひ (2011-01-11 10:49) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、コメントをありがとうございます。
輸送の代金を請求したかしなかったか?・・・というのは、鉄道第二連隊の工事経費を陸軍が西武鉄道へ請求したかしなかったか?・・・とともに、微妙なやり取りの部分ですね。西武鉄道が、私鉄で一民間企業であるにもかかわらず、鉄道省を経由せず、このあといきなり陸軍と直接やり取りをしはじめ、それを鉄道省が追認して戸山ヶ原における「工事免許」を下ろしていくというような、横紙やぶりのおかしな状況をみますと、代金を支払う支払わないというような「ビジネス」レベルの話ばかりではなく、双方が非常に深く結びついて、お互いが“その先”の大きな利益を追求する同一線上に立てたのだ・・・と、解釈したほうが自然だと思います。
陸軍省は、軍需輸送には鉄道省の省線を利用しなければならないというような足かせは存在せず、だからこそ省線ではなく私鉄の線路敷設を「演習」と称して手伝っているのでしょうし、また大正末からスタートする「軍需調査」では全国の省線や公営線ばかりでなく、私鉄・私営線も積極的に詳しく調べているのだと思います。
自社で手がけるようになった多摩川の砂利ばかりでなく、貯水池工事や震災復興の耐火建築で必要だった膨大なセメントの調達ルート、そしてそれらを保管・管理する施設、さらに倉入れ・倉出しする機能(当時は自動倉庫などないので、ほとんどが人海戦術だったでしょう)、それらを貨車に積載し遠隔地まで輸送する機能(こちらも人海戦術)なども、そのまま大正期から継続して機能していたわけで、それらの建築資材は「軍都・新宿」へ運び込まれてきているのだと思います。
これらの軍需物資を運んできたとき、下落合「駅」が存在したかどうかはわからないですね。なんらかの折り返しの場、あるいは線路の終端付近には積荷を揚げ降ろしするスペースは存在したかもしれませんが、以前にご紹介した山手線目白駅の貨物駅のような風情だったのかもしれません。
by ChinchikoPapa (2011-01-11 11:36) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2011-01-11 17:35) 

ChinchikoPapa

「OM」というと、コルトレーンのアルバムとオリンパスを思い出してしまいます。w nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2011-01-12 12:38) 

ChinchikoPapa

あけまして、おめでとうございます。本年も、よろしくお願いいたします。
nice!をありがとうございました。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2011-01-12 17:06) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2011-01-12 21:44) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
by ChinchikoPapa (2011-01-29 22:56) 

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