下落合・目白界隈を調べる基礎資料として、『落合町誌』(1932年・昭和7)と『高田町史』(1933年・昭和8)がある。もうひとつ、『戸塚町誌』(1931年・昭和6)も不可欠なのだが、発行部数があまりに少なすぎて現在ではなかなか手に入らない。この10年ほど『戸塚町誌』を探しているのだが、たまに古書店で出物があっても、最近はべらぼうに高くて手がとどかない。『戸塚町誌』のみは手元に置けず、これからも図書館で参照するしかなさそうだ。そのほか、『豊多摩郡誌』や『豊島郡史』があるが、こちらは出版がさらに古いにもかかわらず安価なので、すぐに入手できた。
 『落合町誌』は、現在の下落合・中落合・上落合・中井・西落合界隈の歴史や地勢が書かれた地誌本。『高田町史』はいまの目白・高田・雑司ケ谷界隈、そして『戸塚町誌』は高田馬場・早稲田界隈の同書・・・ということになる。それぞれ、編集・出版には「刊行委員会」が結成されているが、これは純粋に町役場の公的な委員会というわけではなさそうだ。現在の「区史」とは異なり、町が用意した予算のほか、広告を掲載したり、住民からの寄付(特に人物誌掲載料として)をあてにしているらしい様子がうかがえるので、半官半民の刊行委員会だったようだ。これらの地誌本は、1930年(昭和5)から1933年(昭和8)にかけ、新宿区の北部で“ブーム”となりいっせいに出版された。
 なぜ町誌(史)ブームになったのかというと、1932年(昭和7)、東京市の郊外にあった5郡82町村が、東京市へといっせいに編入された時期と重なるからだ。同時に、東京市は従来の15区体制から35区体制へと一気に拡大し、いわゆる「大東京」時代を迎えることになる。区制に編入されて消滅してしまう、地域としての「町」の歴史や伝承、風情を後世に記録しておこうと、東京市近郊の地元町村ではこぞって企画を立てたのだ。もっとも、最初に町役場へ企画を持ちこんだのは、時流に目端のきく抜け目ない出版社だったのかもしれない。どの町誌(史)も非売品だが、あらかじめ購読者を募り、出版部数を決めてからの刊行だったのだろう。いずれにしても、この時期の詳細な記録が書きとめられたことは、のちに地元の歴史や“物語”を掘り起こす側にしてみれば、かけがえのない貴重な資料を残してくれたことになる。
 
 手元にある『高田町史』と『落合町誌』を比較すると、ずいぶん対照的なのが面白い。山手線や目白通りをはさんで、お隣り同士の町(いまの新宿区下落合と豊島区目白・高田の境界)なのだけれど、お互いに当時は対抗意識でもあったのだろうか。『高田町史』がきわめて豪華なのに対し、『落合町誌』は当時の一般的なハードカバー本の作りとなんら変らない。『高田町史』は、紙質から装丁、印刷・製本にいたるまで、おカネをふんだんにかけているのが歴然としている。出来あがった当初は、それほど気にならなかったのかもしれないが、刊行から70年以上が経過したいま、その差が歴然と表れている。
  現在、『落合町誌』は用紙が変色して黄ばみ、ところどころにシミが浮き出て、製本もややゆるみ気味なのに対し、『高田町史』に使われた厚手の高級紙は、経年による変色が見られず、シミもほとんど見あたらない。ページの縁に付けられた金箔こそ薄れたけれど、製本はまるで出版されたばかりのようにしっかりしている。ことさら高級感を醸しだすためにデザインされたのか、装丁の赤い綴じ紐の飾りもいまだ鮮やかだ。印刷にも気を配ったらしく、活字のインクがかすれがちな『落合町誌』に対し、『高田町史』の文字はまったく褪せていない。掲載写真の鮮明さも、製版や用紙の違いからか『高田町史』のほうが優れている。
 時系列的にみて、前年に『落合町誌』が出版されたあと、「あれよりも良いものを」・・・と出版社に注文したのが『高田町史』なのだろうが、それにしてもこの落差は大きい。いまの印刷費の感覚でいうと、『高田町史』の刊行には『落合町誌』の2~3倍のおカネをかけているようだ。もっとも、印刷部数によって単価は大きく変わるので、単純に比較はできないが・・・。おそらく、『高田町史』のほうが購入予定者も多く、また町役場の予算や寄付額も多かったのではないか。高田町は学習院を抱えているので、学校当局やOBからの潤沢な寄付が集まったのかもしれない。

 1932年(昭和7)10月1日、豊多摩郡の落合町と戸塚町は淀橋区へと編入され、北豊島郡高田町は豊島区へと編入されて、いずれも町名は消滅した。そのころの地誌本を手にとると、当時の「わが町」に対する愛惜や気概がことさら強く感じられて、時間を忘れて読みふけることになる。

■写真:上は豪華な装丁の『高田町史』(1933年・昭和8)、中は函押しもなくシンプルな『落合町誌』(1932年・昭和7)の表紙と、飾り気のない中扉。下は、『高田町史』刊行当時の学習院。