ずいぶん前に読んだ本なのだが、忘れられない物語があった。いや、正確にいえば女性の日記なので、記録(ドキュメント)と呼んだほうがふさわしいのかもしれない。日記を書いた当の女性が発表したものではなく、小泉八雲Click!(ラフカディオ・ハーン)が序文とあとがきを書いて紹介したものだ。日記といっても非常に短いもので、短編ほどのボリュームしかない。なぜなら、この女性は日記を付けはじめてから、わずか4年半で亡くなっているからだ。
 大久保界隈に住んだとみられる女性の日記は、死後、彼女の裁縫箱の中から発見され、近くに住んでいた小泉八雲のもとへとどけられたらしい。日記の書き出しは、女性が結婚する直前の29歳のとき、1895年(明治28)9月25日の日付けからスタートしており、1900年(明治33)3月13~14日で終わっている。最後の記述からおよそ2週間後、同年3月28日に彼女は34歳で亡くなっている。あまり容姿的にはめぐまれていなかったと八雲は書いているけれど、彼女が結婚した相手とは、妻と死別した下級官吏の後添いとしてであり、月給が10円という貧しい暮らしだった。
 わずか4年半の日記が書かれる間、彼女の周囲では実に多くの人々が死んでいる。結婚後に生まれた、彼女の3人の子供たちをはじめ、姉妹や友人など実にあっけないほど次々と鬼籍に入っていく。女性はそのたびに落ちこむのだけれど、歌を詠み、詩を作り、義太夫を詠じてあきらめ、立ち直りながら生きていこうとする。わずか4年間の結婚生活の中で、あたかも一生ぶんの出来事が起きてしまったような、凝縮された時間が流れていく。
 八雲がプライバシーに関する箇所だけを削っただけで、ほとんどそのままの姿で紹介した『ある女の日記』を、わたしは学生時代に読んだのだが、それがどの作品に収録されていたのか、いままでまったく忘れていた。当時、確か小泉八雲全集の何巻かで読んでいたので、この作品が収められた当初の書籍名を憶えていなかったのだ。タイトルさえウロ憶えかつ曖昧で、それがようやくハッキリしたのはたまたまの偶然からだ。『ある女の日記』は、日記を付けていた女性が亡くなった2年後、1902年(明治35)に出版された小泉八雲の『骨董』の中の1編として収録されている。女性は自分の日記に、「むかしばなし」というタイトルを付けていた。
 
 ほとんど仮名で書かれていたとされる文章は読みづらいけれど、それでもこの女性の頭のよさや文才を充分に感じることができる。ところどころ、会話が交わされる様子もそのまま記されており、彼女がおそらく単に防備緑としてではなく、「むかしばなし」というタイトルからも、この日記をのちに誰か(おそらく子供たち)に読ませるために書いていたのではないかと思わせる、ていねいな記述がなされている。たった1行の日もあれば、数ページを費やして短歌や詩を創作している日もあって、わずか30ページ前後のボリュームであるにもかかわらず、かなり読みでのある内容だ。1行だけの日でも、前後の文脈からさまざまなことを想像させるのは、彼女の才能によるものだろう。
 わたしが驚くのは、明治のこの時代、人々はほんとうにいろいろなところを散歩し、よく出歩いているということだ。当時の庶民の間では、乗物を利用するという習慣がまだなく、江戸時代と同様にほとんどが徒歩による行楽だ。もちろん、馬車や俥(じんりき)、汽車は走っていたが、1日の生活費が27~28銭ほどで暮らさなければならなかった彼女のような家庭では、乗物に乗ることなどできなかった。それでも浅草をはじめ、赤坂、水道橋、向島、上野、神田、秋葉原、高輪、本郷、麹町、近所では早稲田、新宿、大久保と東京じゅうを歩きまわっている。往復するのに20kmの散歩も、決してめずらしくはなかっただろう。
 
 最近、この『ある女の日記』が独立して収録されている本を見つけた。筑摩書房が1988年(昭和63)に出版した「ちくま文学の森」シリーズの第15巻『とっておきの話』(安野光雅・編)だ。いま、改めてもう一度読み返してみても、明治に生きた女性の姿が眼前に活きいきと甦ってくるのは、やはり彼女の優れた表現力と的確な筆づかいによるものだろう。その生活感や風景のリアリティは、針箱の中へ日記をひそませた貧しい家庭の主婦として、彼女が亡くなる数年前に病没した、樋口一葉が描くフィクションとしての「明治」よりも、手ざわりが確かなように感じるのだ。
 小泉八雲が、原典にどれだけ手を加えているのかは知らないが、女性が書いたナマの日記をぜひ読んでみたいものだ。それとも、彼女の日記はとうに失われてしまったのだろうか?

■写真上:明治末に撮られた大久保百人町のツツジ園で、東京じゅうから行楽客を集めた。
■写真中:左は、『ある女の日記』がめずらしく収録された『とっておきの話』(筑摩書房/1988年)。右は、西大久保に住んでいた小泉八雲の旧邸跡で、女性の日記はここにとどけられたのだろう。
■写真下:彼女がよくお参りをして家族の無事を祈った、浅草寺(左)と水道橋の三崎稲荷(右)。