きょうは、聞いたことのない異色「画家」の登場だ。(爆!) 埴谷雄高Click!(般若豊)は、小学生のころから絵を描くのが好きだったようだ。父親が、当時は日本の植民地だった台湾の新竹庁へ赴任していた関係から、同地で生まれ育った彼は、小学校時代に周辺の様子を写生している。父親の転勤が多いため、台湾だけでも4つの小学校を転々とした埴谷だが、周囲に拡がる美しい自然に魅せられたのかもしれない。そんな小学校時代の風景作品が現存している。
 絵画作品を含む、貴重な資料「無限大の宇宙-埴谷雄高『死霊』展」をお送りくださったのは、目白中学校Click!の後裔である中央大学付属高等学校で、長く教鞭をとられていた保坂治朗様Click!だ。埴谷雄高は、台湾の台南第一中学校へ一度は入学するが、1923年(大正12)に東京へともどり、4月から下落合の目白中学校Click!2学年へと編入している。小学生のころから全「甲」に近い抜群の成績で、教師が不在のときは代わりに教壇に立ち、クラスメートからは「豊ちゃん先生」と呼ばれていた。目白中学校へ通いだしてから、彼は相撲クラブへ入部している。およそ、埴谷の雰囲気や体型と相撲とは異質な気がするのだけれど、もともと健康や体力にあまり自信がなかったので、身体を鍛えようとあえて相撲クラブを選んだのかもしれない。でも、4年生のとき結核の罹患が判明して、目白中学を1年間休学することになった。
 
 埴谷雄高は、目白中学校時代を「映画と濫読の時代」と回顧している。大正末なので、目白駅前にあった映画館「洛西館」に通いつめたか、あるいは近場の新宿や池袋の繁華街、さらには映画館が多かった学生街の早稲田や、牛込地域にまで足をのばしているのかもしれない。この時期に読んで感銘を受けた本として、埴谷はレールモントフ『現代の英雄』、ドストエフスキー『白痴』、ゴンチャロフ『オプローモフ』などを挙げている。そして、映画や読書とともに絵も描きつづけていた。東京市内まで出て、あちこちを写生してまわっていたのかもしれない。
 埴谷の絵に、中学校の校門を描いた作品がある。当初、わたしはてっきり目白中学校の校門を、目白通りの向かいからスケッチしたものだと思った。でも、よく見ると正門のデザインや校舎の位置が、目白中学とはだいぶ異なっている。門の横に連なるコンクリートらしい高い塀も、目白中学には存在しなかったものだ。そして、門柱には「東京中学校」という大きなプレートが架けられている。この絵は、おそらく東京府立第一中学校の正門を描いたものだろう。日比谷にあった同校は、1900年(明治33)に東京府中学校から東京府第一中学校、さらに翌年には東京府立第一中学校へと改称されている。現在の都立日比谷高校のことだ。
 
 成績優秀だった埴谷雄高は、台湾から帰国した当初、府立一中への編入を希望していたのではないだろうか? ところが、同校では中途編入が認められなかったため、やむなく評判Click!のよかった下落合の私立目白中学校の2年生へと編入した・・・そんな気がするのだ。でも、目白中学へ通いはじめた埴谷には、いまだ府立一中へのあこがれが残っていた。そこで、西日比谷のあたりへ出かけた際、同校の正門前で写生をしてきたのではないだろうか。
 もう1点、目白中学時代の作品が残っている。絵画というよりは、明らかにグラフィックデザインに近い「剣道部」のイメージ画だ。防具をはさんで、真ん中にクロスした竹刀が描かれ、その上に「剣道部」の文字が載せられている。埴谷は目白中学で、相撲クラブのほかに剣道部へも参加していたのだろうか。それとも、絵がうまい埴谷が、剣道部の友人から頼まれて制作したグラフィック作品だろうか? いずれにしても、目白中学の剣道部が入学シーズンに、新入部員を獲得するために掲げた、アイキャッチ用のポスターないしは“看板”のような絵だ。埴谷雄高が、目白中学時代に描いた絵、正確にいえば「下落合を」ではなく、「下落合で」描いた作品群ということになるのだけれど、とてもめずらしいので取り上げてみたしだい。
 
 埴谷雄高は、おそらく目白中学では熱心に勉強していない。クラブ活動に映画に、読書に絵画にと別の“勉強”にいそしみ、かなり自由でラフな学校生活を送っていたフシが見える。台湾での生活とは異なり、学校の勉強以外に興味を惹かれるものが、東京じゅうに溢れていたからだろう。また、私学の目白中学校自体が、府立とは異なったより自由闊達な校風を備えていたのだ。
 埴谷雄高の般若家は、鎌倉時代から千葉常胤の次男・相馬師常の家臣の家系であり、実家が福島県小高市(現・南相馬市)というのにも興味を惹かれる。偶然だが、下落合の目白中学校のすぐ南に邸を構えた相馬家とも、どこかで繋がりがあったのかもしれないが、それはまた、別の物語。

■写真上:1923年(大正12)4月の、2学年編入直後に描かれた埴谷雄高『剣道部』。
■写真中上:左は、1921年(大正9)に台湾で小学6年生のときに描いた、埴谷雄高『三崁店より東を望む』。右は、同じく野球をしていた小学6年生の埴谷。
■写真中下:左は、1923年(大正12)の目白中学時代に描いた『無題(東京中学校)』。右は、当時の西日比谷1番地にあった東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)。
■写真下:左は、中学時代の埴谷。右は、相撲クラブの記念写真で後列左からふたり目が埴谷。背後に見えている下見板張りの外壁は、目白中学校の校舎。