おとめ山公園拡張の計画案件が差し迫っているので、今週予定していた記事はすべてキャンセルさせていただければと思う。記事を予告してしまった方々、申しわけありません。<(__)> 相馬邸に絡む、あるいはそれ以前の幕府直轄の「御留山」自体について、かなり重要なことだ思われるテーマが見えてきているので、そちらを優先させていただきたい。ご容赦いただければと思う。
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 下落合の御留山Click!に、おそらく1941年(昭和16)ごろまで建っていた相馬邸Click!は、屋敷を建設する際に地下となる支柱の礎石には「七星」Click!を敷き、また天空を見上げる建物の屋根々々は「北斗七星」Click!のフォルムをかたち作るように設計されていた。もちろん、将門相馬家Click!の妙見信仰にもとづく「北辰七座」思想をベースに、家内の安全と一族の繁栄を願う結界を形成するとともに、邪気や魔を追い払う呪術を施しているものと思われる。
 でも、改めて考えてみると、そもそもなぜ下落合の御留山に相馬家の転居先である敷地を選定し、このように北斗七星(神道では妙見神or仏教では妙見大菩薩)による、厳重な結界を施した屋敷が建設されたのだろうか? 高田でも小日向、本郷でも小石川でもなく、なぜ下落合という土地があえて選ばれているのか・・・という、邸の建設にとっては大前提となるテーマが、相馬家の妙見信仰によって御留山に張られた結界や施術からのみでは、まったく見えてこない。なぜ、東京市街の西北に当たる下落合という土地なのかは、もう少し視点を引いたマクロな視界から改めて観察しないと見えてこない課題だろう。このテーマは、目白や下落合の徳川邸とその姻戚邸についても、まったく同様のことが言えそうだ。特に尾張徳川家は、江戸東京の総鎮守神である神田明神(オオクニヌシ)や熱田明神(スサノオ)など、出雲神への信仰が厚いのでもよく知られている。
 現在でも同じようなことが行なわれているが、転居や旅行、あるいは身近な近距離の移動を計画する場合、行き先や方位・方角を気にして調べる人々が、いまだに大勢いる。八卦、陰陽道、道教、占星、望気、卜、風水・・・と呼び方はなんでもいいのだが、自身が移動する先の「気」の好悪を予測し、「気」が合うかどうかを判断してみるのが、戦前まではごく一般的な習慣のひとつだった。これはかなり早い時代から、おもに合戦における敵味方の「気」を読む術として、主に武家の間に広く普及していった卜術のひとつであり、望気師や陰陽師らによって「望気術」とも呼ばれてきたものだ。江戸期になっても、大名や有力な武家には望気術をあやつる専属の占師(卜師)や巫(かんなぎ)などが存在し、さまざまな事象や方角、地勢、地味などを占っていたことが知られている。
 
 
 相馬家が、東京市街(赤坂氷川明神前)から下落合へと引っ越してきたとき、たまたま近衛家が下落合の広い土地を売り出しているから、「ここなら眺めもいいし、南向きで陽当たりもいいから、思いきって購入して一家で引っ越そう!」などというような、単純な理由から転居を決定したのではなく、当然、その土地が相馬家の転居先に値するような土地なのか、一族が繁栄するのにふさわしい地味なのか、そして邪気や魔が入りこめない土地柄であるのかを、望気術かそれに近い何らかの卜術を用いて探索、精査したとみるほうがむしろ自然だろう。換言すれば、鎌倉期以前からエンエンとつづいている、そしてことさら氏神への信仰心に厚い相馬家が、現代風で合理的かつ効率的な理由のみで、たいせつな屋敷の移転を決めるはずがない・・・という想定が成立する。
 余談だけれど、相馬一族は将門Click!以前の古墳期から「チパ(chi-pa:出っ張った頭=大半島)=千葉を拠点としていた、南武蔵勢力Click!に含まれる有力一族の末裔のひとつだとわたしは考えている。同様に、明治政府以来の「日本史」(関西史)的な視点あるいは皇国史観Click!を排除し、わたしの地元である古代からの関東史を強く意識するならば、千葉・相馬一族とともに鎌倉幕府Click!をになった、北関東の足利一族(のちの足利幕府の主体)、あるいは世良田一族(のちの徳川幕府の主体)は、古墳期における上毛野(かみつけぬ)勢力Click!の末裔の人々だと考えている。彼らは、南武蔵と上毛野の両勢力が協力し合い、「ナラ」を牽制した534年の「武蔵国造の乱」Click!(関西史的な呼称)以来、先進の鉄器で武装し近畿地方へとやってきた「ナラ朝廷(のち京朝廷)」Click!から、常にヘゲモニーの奪取(還)およびその無力化を図りつづけ、本来の日本色(原日本色)が濃い関東へ、この国の中心を持ってこようと一貫して試みている・・・というように、わたしの目には映っている。
 
 
 さて、御留山の相馬邸にもどろう。相馬家が、なぜ下落合の御留山を選んでいるのか、わたしは最初に妙見信仰の事(史)蹟を疑った。しかし、江戸東京地方における妙見信仰の影は、お隣りの山梨などに比べればごく希薄だ。山梨は、武田信虎(信玄の父)の代までの信仰により、妙見の事蹟や史蹟が県内にあふれている。もっとも、信虎はその子である武田信玄によって排斥され、同時に妙見信仰は毘沙門信仰へ丸ごと取って代わられている。でも、仏教思想では毘沙門天の象徴としても、なぜか北斗七星への信仰が習合してくるのだが、ここでは妙見信仰がテーマなので割愛したい。信玄は、宿敵の上杉謙信とまったく同じ毘沙門天に帰依していた。山梨のような土地柄、あるいは将門ゆかりの聖地である千葉などに比べれば、江戸東京地方の妙見信仰や妙見史蹟は、相対的に見ればほとんど存在しないに等しいと思われる。
★その後の調査で、落合地域には妙見山Click!および神田明神Click!の分社が存在していた事実が判明している。
 だが、妙見信仰に代わって江戸東京には、将門ゆかりの聖地はいくつか(7箇所ともいわれている)存在している。その中心となるのが、将門を出雲神のオオクニヌシとともに主神に奉(まつ)る、江戸東京総鎮守の神田明神Click!だ。ここを起点として、なにかが探れないかと思い、わたしは国土地理院の2万5千分の1と5万分の1の地形図を入手し、神田明神から下落合の御留山まで直線を引いてみた。すると、神田明神から御留山までの直線上に、面影橋の北側にある高田氷川明神Click!がひっかかることがわかった。さらに御留山を突きぬけ、直線をそのまま西へ延ばしていくと江古田氷川明神Click!がひっかかり、豊玉氷川明神へとぶつかった。
 つまり、神田明神に将門とともに合祀されている主神・オオクニヌシClick!の、「出雲神」を“味方”にしたつながりで意識されているのではないかと直感したわたしは、別のポイント、赤坂の相馬屋敷(相馬藩中屋敷)跡のまん前にある赤坂氷川明神Click!から、下落合の御留山へ向けてもう1本の直線を引いてみた。すると、高田馬場駅の南東にある諏訪森の諏訪明神(タケミナカタ)が、直線上に位置することがわかった。同じように、直線を御留山の北北西へとそのまま延ばしていくと、なんと長崎氷川明神(現・長崎神社)へとぶつかったのだ。念のために、半信半疑で赤坂氷川明神のやや南にある麻布氷川明神から、御留山へ直線を引いてみる。この線上の途中には、別になにも引っかかってこない。気のせいか・・・と思いかけたところ、御留山を突き抜けた直線は、板橋の大谷口氷川明神の上を正確に通り、東新町氷川明神へとぶち当たったのだ。
 ●神田明神-高田氷川明神-【御留山】-江古田氷川明神-豊玉氷川明神
 ●赤坂氷川明神(旧・相馬屋敷)-諏訪明神(戸塚)-【御留山】-長崎氷川明神(現・長崎神社)
 ●麻布氷川明神-【御留山】-大谷口氷川明神-東新町氷川明神

 偶然にしては、あまりにできすぎている。こうして、東京じゅうに散在する将門の史蹟と、出雲神を奉った氷川明神などの社(やしろ)を探し出しては、地図上にポイントしてラインを引くのが「夏休みの宿題」となってしまった。そして、そこから見えてきたものとは、御留山・・・というよりも目白・落合地域は、想像を絶する強力な結界によって守護された、相馬一族にとってはあらかじめ“約束された土地”であり、明治末に転居を考えた同家には望気術をあやつる、または「気」(卦)を精査できる巫(卜師)が間違いなく存在していた・・・ということなのだ。
 それは、目白・落合地域に住みつづけた徳川家や、その姻戚関係などについても当てはまることなのかもしれない。そして、さらに言えば、なぜここが将軍家直轄の「御留山」として選ばれているのか?・・・というところにまで繋がってくる、根の深いテーマなのかもしれないのだが。
                                                   <つづく>

◆写真上:相馬邸の母屋を解体した際、工事関係者によって並べられたと思われる「七星」礎石。
◆写真中上:財務省官舎の跡地に残る、さまざまな形状をした「七星」礎石。旧・大蔵省は過去に、大手町の「将門塚」Click!で懲りていたせいか、礎石群にはまったく手をつけなかったようだ。
◆写真中下:上は、そのほかの「七星」礎石のいろいろ。下は、並べられた礎石群の様子。
◆写真下:現代の空中写真に、出雲神(将門)つながりの直線を3本描き入れたもの。これは単なる序章にすぎないスタート時の姿で、実はこんな数が少ないシンプルなものではなかった。